ありふれた日々
気づかないこと
【恭介】
女にグーで殴られると、こんなに痛いものかと恭介は呻きながら思った。
しかし、その痛みは殴られた痛みというよりも、今日子の憎しみがこもった心の痛みだと思うまでに少し時間が掛かった。恭介が腰を折って殴られたところをさすっていると、今度は肩の辺りを思いっきり蹴り飛ばされた。
「痛ってえな!なにすんだよ!」
「ほんっとサイテー!」
たしかに最低だった。
今日子の親友と寝たのだから。
今日子とは何の集まりかも分からないコンパで知り合った。
今となっては何を話したのかも思い出せないが「名前が似てるね」なんて軽い会話だったような気がする。
今日子と恭介。
ただそれだけが細い会話の生命線だったように思う。
それなのに連絡先を交換して、忘れたころに連絡をしてみると意外に盛りあがった。
そしてどちらが付き合おうなんて言ったか言わないかのうちに今日子は恭介のアパートに来るようになった。
気が強く、自分の考えは絶対に曲げない性格の今日子だったが、炊事と家事を手際よくこなし、文句を言いながらも恭介の部屋を掃除して、来る途中で買ってきた食材で手際良く料理を作った。そして、その料理はどれも美味しかった。
ある日、1Kの部屋で今日子が料理をしているところを眺めながらふと訊いてみた。
「なんでそんなに料理うまいんだよ」
「わたしが料理うまくて悪いのか?恭介のその質問は失礼だぞ」
「だって気になるじゃん。うまいにしてもうますぎだし」
「母さんに教えてもらった。それだけだよ」
今日子の母親は去年、交通事故で他界していた。
今日子と別れてから数年が経った。
いまだに恭介はあの1Kのアパートに住んでいる。
しかし今日子と付き合っていた頃とはまるで別の部屋じゃないかと思うほど散らかっていた。
近所の弁当屋で買ってきた焼肉弁当を食べていると、今日子の手料理の味を思い出すことがある。それは今日子の味なのか、今日子の母親の味なのかは分からないが彼の箸を進まなくさせるには充分だった。
そしてこの平坦な生活に「旨味」を求めていることに気付くまで、まだ少し時間が掛かることも知らなかった。
【今日子】
頬をさすりながら蹲ってる男をみていたら、苛立ちのあまり蹴り飛ばしていた。
「ほんっとサイテー!」
そこには憎しみというよりも悲しみのほうが大きかった気がする。
「なんでこんな男と付き合ってたんだろう」というよりも、「なんでこんなことになってしまったんだろう」という気持ちで悲しくなった。
乱暴にバッグを抱えて恭介の部屋を出て行くとき、何故か彼の手のぬくもりを思い出していた。
「なんでこのタイミングなのよ・・・」
とても恭介の顔が見たかったけれど自分が今、涙を流していることに気付いたから振り返ることはしなかった。
だから今日子が最後に見たのは、女に蹴り飛ばされた情けない姿の恭介になってしまった。
はじめから頼りない男なのは分かっていたし、期待もしていなかった。
なのに恭介のアパートに通ってしまうのは母性本能なのだろうか。
だらしないし気も利かない。ほっとけば外食か出来合いの弁当しか食べない。
今日子が初めてアパートに行ったときはピンポイントで災害が来たのかと思うほど部屋は散らかっていた。
「ちょっとは片付けたらどうなのよ」
「いいじゃん。おれしかいないんだし」
「わたしが来るの知ってたでしょ?ちょっとは綺麗にしようとか思わなかったの?」
「うーん…」
「おまえなんてカビでも生やしてろ!」
そんな恭介のアパートに通いだして2回目か3回目の週末、なんだかんだと飲んで抱き合ったら朝になってしまった。
性格が淡白なだけに、今まで朝帰りなんて数えるほどしかなかった。
始発で家に帰ると父親がリビングのソファーで寝ていた。
娘と二人で暮らすには大き過ぎるリビングは肌寒く感じる。
恭介にその話をすると「あまり親父さんに心配かけないほうがいいよ」と毎回、今日子をその日のうちに自宅へ送り届けてくれた。それもきっちりと自宅の門の前まで。
はじめ今日子はそれが鬱陶しく思っていたが、気がつくとそれがあたりまえになり、なくてはならない習慣になっていた。
駅を出てすぐ左に曲がると必ず恭介は今日子の手を握った。
その手はすごく暖かく、母を亡くしてから不安定だった今日子の心を穏やかにさせた。
その手のぬくもりを別れ際に思い出した。
「なんでこのタイミングなのよ・・・」
しかしそのぬくもりが冷えるには、まだしばらく時間が掛かることを今日子はまだ分からなかった。
ありふれた日々