草矢の儚1️⃣
草矢の儚 1️⃣
-避難所の女-
随分前に引退した筈のその女優が公共放送のCMに出ていた。随分とやつれて見えた。加齢のせいばかりではない。隠蔽しきれないほどの凄惨な残滓を人生の格闘で纏ってしまったのかも知れない。
初演の女優はスクリーンの中で煌めいていた。決して芳醇ではない。しかし、若さの特権の堅固な重量感のある乳房を揺らしていた。
やがて、韓国の母と呼ばれた実在の日本人を熱演した直後に引退を宣言した。女優は自分と同じく半島の血を引いているのではないか。何気なく男はそう思った。その前後に、あるプロレスラーとの艶聞が報じられた。男の疑似恋愛が呆気なく終焉した。
原発が爆発して逃げ惑って、最終的に辿り着いた隣県のその避難所に、その女優に酷似した女がいたのだ。
ベンチの三月の日溜まりで、紙コップのコーヒーを冷たそうな女の両の手が包んでいる。
自分でも思いがけなく、男が無作法に声をかけると、四十程に見える顔を気だるく向けた。ふくやかだが、もはや過去の朧の様に、いかにも避難民の愁いの表層だ。
男は若気で暴走した傷害事件で服役した。出所後も爛れた漂白を続けたが、なぜかあの原発で一五年も働いたのだった。まさしく爆発したあの原発から逃避して来た自分も、こんな有り様をしているのかと、男は呆然とした。
たとえ似ているばかりとはいえ、初演の暫く後には、男の好きな匂いの独特な妖艶な演技力を会得した、あの女優の雰囲気は毫も感じられない。
男が名前を告げると、海子だと投げやりに、変な名前でしょと重ねて呟いた。
それから、二人はしばしば無目的に話した。もとより、避難所でする精神的な営為は、それ以外には何も思い付かないのだった。だからこそ、女も受容したのだ。世間話に被爆の共通体験という劇甚な不条理をまぶした、得体の知れないぎこちない時間だ。
五月のある日に、避難所の沈殿した苛立ちから脱走する目的だけで、二人はドライブに出た。
そして、新緑の森の深奥で、侘しい会話の句点の様に、無自覚に抱擁した。
やがて二人は、濃密な大気との化学反応で愉楽の新元素に変幻し、素裸になった。
女の裸体が、固有の生理で息吹き始める。二人は精神の欠乏から発火した疎ましい欲情だけを、互いに冷淡に貪るのだった。
-完全犯罪-
海子はある男と出口のない爛れた関係を二年間も続けていた。
あの原発で働く漂泊者の様な男は、女の離別の願いを頑なに拒んでいた。 あの時、あの地震の直前に、二人は海沿いのモテルにいたのだった。
「やっぱり別れてちょうだい」「嫌だ」「だって、あなた達は義理の弟姉で結婚しているのよ。それを知っていたら、私。あなたとこんな事にはならなかったわ」「義理なんだから赤の他人だろ?」「特異な縁でしよ?義理じゃないけど、卑弥呼と弟帝の話は有名よね?異母弟姉よ。古事記や日本書紀には異母や異父の皇室の交わりがいっぱい出てくるわ。その関係を基軸にして、夫や妻、恋人を裏切って権力を築いていくのよ。私は一人っ子だから知らないけど、途中からだって弟姉として育ったんでしょ?しかも八歳からセクスをしながらだもの。それって、誰も入れ込めない程の靭帯でしょ?どうしても嫌だわ」
「射精をしたばかりなのに難しい事は止せよ」「何度も言っているのに聞いてくれないんだもの」「本当に別れたいのか?たった今も法悦したばかりだろ?」「無理にしたんでしょ?強姦と変らなかったわ」「奥まで嵌めてって叫んだろ?」「だって、あんなに舐めるんだもの」 「お前だってこれをしゃぶったろ?」と、男根を握らせるが女は拒まない。「身体が反応しただけだわ」「その身体が堪らないんだ」
「奥さんとも毎晩してるんでしょ?」「夫婦だもの当たり前だろ?」「あなた達は異常だわ」「お前はあいつよりも淫乱なんだ。尻まで濡れてるだろ。ほら?」「義理のお姉さんとしなさい。子供の頃からしてたんでしょ?」「八つからだ」「そんな人いないわ」 「止めて。その指を抜いて」「お前だって握ってるだろ?」「だって、憎らしいんだもの」「こうしてやるわ」女が睾丸を思いっきり握り締めた。
その瞬間に地震が来た。女が男を突き飛ばした。転倒してテーブルの縁に頭を打ち付けて、男はたちまち昏倒した。
激しく長い揺れようやく収まった。テレビがつかない。照明もつかない。停電だと悟った。モテルは年期の入った建物で玄関がひしゃげて開かないのだ。女は外に面した割れた窓ガラスを慎重に取り払って抜け出した。男の裸の姿態が脳裏をよぎったが振り払った。
モーテルには男の車で来ていた。自分の車はすぐ近くの松林に止めてあった。
車に乗り込んだ瞬間に携帯電話が鳴った。職場の同僚だった。「海子?。今日は休みだったでしょ?いまどこにいるの」「××浜の近くよ」「津波が来るのよ。すぐに逃げなさい」「家は?」「あなたの家は○○浜でしょ。駄目よ。危ないわ。私の家に来なさい。私も今、原発の正門なの。すぐに帰るから」
二〇分後に女は高台の部落にある同僚の家に着いた。
その夜に、女の家のある浜の地区もあのモテルも全て波にさらわれたと知った。モテルは、この地方では名の通ったある資産家の初老の妾が一人で管理していたのを初めて知った。
翌朝の早くにモテルを見に行くと、基礎だけしか残っていなかった。くまなく点検した。すると一台の携帯電話が落ちていた。開くと作動した。忌まわしい性交の膨大な記録が現れた。。男の怨念が絶叫している気がした。
女は現場を後にしてある場所に向かった。そこで枯れ木の山を作って携帯を乗せて火を放った。燃え殻と化した鉄屑を石で叩き砕いた。男の生存した痕跡は塵芥に帰したのである。そして、女には微塵の悔恨もなかった。消却にしか値しない暗黒の空白の過去なのだった。天恩の完全犯罪だと、女は身体が溶ける程に安堵堵したのだ。一輪の野の花を手折って手を合わせた。
女の家も同じ有り様だった。しかし、喪失感は妙になかった。ローンの残債がなくて良かったと、ふと思った。
同僚の家に帰るしかないのかと、国道を走らせていると、駐在所の前に初老の警官がいて、黄色の旗を慌ただしく振りながら立ち塞がった。「原発が爆発したみたいだ」「やっぱり爆発したんですか?」「そうだ。放射能が降っているんだ。」「一人残らず避難を呼び掛けているんだ。家は?」「○○浜です。みんな流されて」「今は?」「○○台。同僚の家です」「あそこは駄目だ。ユーターンして北に逃げなさい」「どこへ?」「なるべく遠くに。親戚とかは?」「どこもないの」「そうだな。取りあえず○○市に行きなさい。ラジオをかけっぱなしにして。すぐに避難所が設置されるから。そこに行きなさい」女はただ逃げた。
そして、一週間を転々とした後に、隣県のこの避難所に辿り着いたのだった。
膨大な死者の中で、あの様な死はあれだけだったのだろうかと思いながら、女は千年に一度という震災のひとくくりの膨大な死に、あの死を混入させた。
そして、お互いの来し方は未だ何も話していない、漂泊者たる避難民であるだけのこの男との刹那の交接も、たとえ森に響く嬌声を漏らしたところで、放射能の汚濁にまみれて生きなければならない明日のさしたる展望になるとは、女にはさらさら思えないのだった。
-ビデオ-
夏の海が好きな男は二日前もその海岸にいて、偶然にある場所を見つけた。そこである女を撮りたいと思った。
原発の売店にぴったりの女がいる。夫は電力の社員だったが二年前に事故死していた。四〇で子供はいないと聞いた。
「モデルになってくれませんか」思いがけずに、柔らかい笑顔から承諾の返事が戻ってきた。男が名を告げると、女は、「有名人だもの」「海子って、変な名前でしょ」と、返した。
女はなぜ即座に承知したのか。
海子は男の事は知っていた。下請け会社の社員だ。写真が趣味で玄人はだしの作品が幾つかの公募展に入選している。従業員食堂にも時おり数点の写真が掛かっていたから、何度か話した事がある。三〇半ばの長身で頑健な男だ。時おり憂いを孕んだ表情を漂わすのが気になっていたのだ。
その他にも訳があった。女は昨夜もあのビデオを見てしまったのだ。今となっては遺影となってしまった、余りにも猥褻な夫との性交の記録だ。身体が渇いていたのだ。
子供に恵まれなかった海子と夫は四〇近くなっても睦まじかった。とりわけ閨房の二人は、蜜を絡める様に性戯を凝らして飽きなかったのだ。
真夏の遅い朝。共稼ぎの夫婦には、二人揃っての久しぶりの休日だ。
大輪の花柄の派手なエプロンだけしか着けていない妻が、豊満な尻を丸出しにしてキッチンに立たっている。下半身に大判のバスタオルをまいた夫はウィスキーを飲んでいる。三脚に固定したビデオが回っていた。
「おしっこしたくなったわ。いいの?」二人は風呂に行って女の排尿を撮った。
「サラダはできたわ」「パンのジャムは何がいい?」「もう少し飲みたい」「私も頂こうかしら」夫がオンザロックを作って乾杯した。夫がウィスキーを口に含んで妻の裸の乳房に吹き掛けた。「あなたのにジャムをつけて食べたくなったわ。どう?」夫がバスタオルを外すと、妻がイチゴジャムを塗る。カメラを見ながら舐め始めた。
「この前、ベランダによしずを張ったでしょ?」「下からは見えないわね?」「あそこで飲まない?」「スリルがあってドキドキするわ」 二人はパジャマを着てベランダに移動した。小さな町並みの向こうに海がある。南には夫が勤める原発が見えている。
パラソルの下にテーブルと二脚の椅子。座ると、よしずで囲んだベランダは二人の下半身を下界からの死角にしてしまった。二人は顔を見合わせる。運んだものを並べて、ビデオの録画をスタートさせた。
涼風が吹きわたる。平日だから、寒村とはいえ日常の営みの様々な音が立ち上がってくる。それがかえってたまらないスリルだ。
二人がパジャマのズボンを脱いだ。下着は着けていない。改めて乾杯する。妻がしゃがんで夫の股間をしゃぶる。
「おしっこしたくなったわ。撮る?」男が持ってきた洗面器に排尿した。
妻が立ち上がった。ベランダの手すりに手をかけて尻を突き出すと、背後から挿入した。「今日はいっぱいするんだから、ここで射精しちゃ厭よ」
「原発でやりたくないか?」「出来るの?」「格好な場所があるんだ」「ドキドキするわ」 二人はものの五分で正門についた。
「何て言ったの?」「妻と買い物をしていて書類の置き忘れに気づいた。ついでに妻に職場見学をさせるって。何も疑っていなかったよ」 二人は防護服を着て格納容器の地下に降りた。暫く歩くとベント室に着いた。
「ここは誰も来ない。いくら声を出してもいい」「こんな事する人、いるの?」「俺達だけだろ?」
夫婦は異様な感覚に包まれながら交接した。やがて、「この原発は俺のものだ」と、叫びながら夫が射精した。
-モデル-
海水浴場への松林を途中で逸れてしばらく歩くと、岩と岩に囲まれた白砂の小さな浜に着いた。片側の巨岩には樹々や草花が生え細い滝が落ちている。
海子が嬌声をあげた。そして、昨夜の遅くに見たある映画の一シーンの情景に極く似ていると思った。
海水浴を一時間ほどした。女は最新の水着を着け、豊満な肢体を自由に曝し、「海が大好きなの。幸せだわ」と礼を言う。 原発という非日常の日常から解き放たれた夏の女の、爛漫な息づかいを男は時おりフィルムに刻み込んだ。
波と戯れたり岩や滝でポーズをとる女に、男はカメラを向ける。女も携帯のカメラに頑健な男の姿態を収める。
男が指を指す二〇メートル程先に小さな岩礁がある。思い詰めた表情で男が、「完全な死角です」と言った。「太平洋を独り占めにできる絶好の撮影スポットなんです」「もっと大胆な姿態をとらえたいんです」「あなたの魅力で次の公募展に出展したいんです」「昼食の後に行きませんか?」「女が頷いた」
女は手作りの昼食を用意していた。二人はウィスキーを飲む。
「妻は駄目です。こんな事ができる程の気の利いた女じゃないんです。だいいち日焼けが嫌いで海には来ません」「お歳は?」「僕は三六。妻はひとつ上です。子供が二人」「芸術家だもの。さぞや熱烈な恋愛だったんでしょうね?」「そんなものじゃありません」
昼食を済ませた二人は横になった。「今、テレビで義理の弟姉の恋愛ドラマが人気でしょ?あれって凄いわね」男の表情が強ばった。
(続く)
草矢の儚1️⃣