遠くの空
そこに行くこと
「やっとまた会えましたね」
そこにはベージュのワンピースを着た喜美恵が立っていた。白い肌に映える薄紅色のスカーフが暖かい風で揺れている。
「随分と待たせたな」
「そんなことないですよ。しょうがないことですもの」
喜美恵は口角を軽く上げ、微笑んでみせた。
久しぶりにみる彼女の顔はとても穏やかで、あの頃と何も変わらない佇まいは、長い年月会わなかったことなど微塵も感じさせないくらい気持ちよく吹き飛ばしてくれた。
耳を澄ますと遠くで犬の声が聞こえた。
そしてその声は聞き覚えのあるものだった。
「ボンもいるのか?」
「当たり前ですとも。ボンも立派な家族でしょ」
白と茶色が可笑しな模様になっている人懐っこい犬が、わたしの足元で忙しなく動き回っている。さっきまで遠くに聞こえていた懐かしいボンの声が、近くではっきり耳に届くとわたしの頬は自然と緩んでいた。
頭を撫でてやるとボンは嬉しそうに尻尾を振った。
古い車のエンジン音が聞こえてくる。
カスミソウが咲く丘のむこうからボンネットバスがやってくるのが見えた。ボンの名前は「ボンネットバス」から取った。シルエットが何となく似ていたからだ。そのことを思い出し微笑んでいると、どうしたの?と喜美恵も微笑みながら私を見つめていた。
そして喜美恵がそっとわたしの指をつかむ。
「あなた。お疲れ様でした」
「ああ、ありがとう。今夜はゆっくり眠れそうだ」
ボンネットバスに乗り、流れる車窓はどこまでも青く、差し込む日差しも風の匂いもこれからの緩やかな日々を約束するには充分過ぎるとわたしは思った。
喜美恵もボンもわたしの隣の席で同じ風と日差しを浴びていた。
いつの間にかバスは薄い水面を走っている。
青い空が水面に映り、空と陸との境目を消していた。
その光景を眺めていると、まるでバスが青い空を飛んでいるように思えた。
しかしそれは眼の錯覚などではなく、実際に飛んでいたのだった。
いつしかバスは青い空ではなく、数え切れないほどの星達を抱いた夜空に変わっていて、小さな流星がわたし達が乗るボンネットバスの横をかすめて消えていった。
「ぶつかったら大変だな」
「あら大丈夫よ。この運転手さんお上手だから安心して。今までぶつかったなんて聞いたこともないわ」
ボンネットバスは深い夜空へ吸い込まれていった。
そのバスが小さくなったとき、一点の光として永遠に夜空に輝いていたことを知ることはなかった。
医師が病室のベッドで眠る老人の脈と瞳孔を調べた。時計の時刻を書類に書き込む。
「おじいちゃん何だか笑ってるみたい」
娘が言った。たしかに笑っているみたいだった。
「きっといい夢でも見てるのよ。おばあちゃんにでも逢えたんじゃない?」
その穏やかな父の顔を見ると、私も娘も悲しかったが安堵のほうが大きかった。
白いカーテンが日差しで光っている。
病室の花瓶にさしてあるカスミソウが緩やかな風に揺れていた。
遠くの空