甘い匂い
察すること
その日は朝から陽射しが強く、昼前には今年の最高気温に達していた。
母が珍しく近所の食堂に行こうと娘を連れ出したのは、そんな暑い日だったことを少女は憶えている。
「好きな物食べなさい。あとでアイスクリームも注文してあげるから」
少女は嬉しそうに冷やし中華を頬張る。
母はそれを優しい目で眺めていた。
「お母さんは食べないの?」
「お母さんはお腹がいっぱいだから大丈夫よ。おまえが美味しそうに食べているところが見たいの」
14インチのテレビからは夏の高校野球が映し出されていた。金属バットの球を打つ音が聞こえてくる。
「コカ・コーラも飲んでいいわよ」
冷たい炭酸が少女の喉を刺激した。
「そのリボンとっても似合うわよ。帰ったら三つ編みにしましょうか」
母の白い指先が少女の髪を撫でる。
少し汗ばんだ髪からは仄かに陽射しで焼けた匂いがした。
最近、母の身体から甘い匂いがする。
それは香水のようでもなく、身体から溢れだしている花の蜜のような匂い。
少女はその匂いが「おとなの匂い」だと分かっていた。
憧れと嫌悪が入り混じった不思議な匂い。
少女はいつかわたしにもその匂いが溢れだすのかと思っていた。
しかしその匂いは自分には分からないのだろう。もし分かっていたら、母はこんなにも優しい顔にはなっていない気がした。
食堂を出たとき、暑さでアスファルトは蜃気楼のように揺らいで見えた。少女は不思議そうにそれを眺める。
「行くわよ」
前を行く母が振り返る。
その姿もゆらりゆらりと霞んで見えた。
なぜか少女は母の声を遠くに感じながら、まぼろしのように揺らいでいるその姿を必死に追った。
そして翌日、母は見たことのない綺麗な花柄のワンピースを着て出て行った。見たことのない白いセダンの助手席に乗って。
そして少女は思う。
あの「おとなの匂い」が母を奪っていったのだと。
甘い匂い