蚊帳

それが見えること

ここの二階は昔、蚕の養殖に使っていたんですよと、役場の職員が教えてくれた。

古い木造の家の階段は一段踏むごとに軋む。その急な階段を上がると、そこには碁盤の目になった木製の道具や大きな籠が雑然と放置されていて、天井には長い竹の棒が何本も張ってあった。

「古い家だけど、夜なんかクーラーも扇風機もいらないから快適ですよ」

彼の日焼けした肌が今年の猛暑を物語っていて、白い半袖のシャツが余計に白く見えた。

「いやね、午前中に山で仕事があったんですよ。おかげでもう汗が止まりませんわ」

そう言いながら役場の職員は何度も顔や首周りをタオルで拭っている。

年齢は四十半ばくらいだろうか。わたしより少し上くらいに見える。よく喋るが気が良く好感が持てた。この家に案内される途中にも、減速した軽ワゴンの中から田んぼや畑に向かって大きな声で住民にあいさつをしていた。

「小山さん！こんちは！暑いね！」

「宮内さん！こんちは！足の具合はどうだい！」

対向車とすれ違うことなく到着したその家は、わたしのような地方移住者のために用意してある促進住宅なのだが、言い方を変えればただの空き家のようにも見える。タダ同然の家賃で一軒家。おまけに庭と家庭菜園には少し多きすぎる畑も付いてくるから決して文句の言える物件ではなかった。

「住んでくれるだけでもありがたいですよ。誰も手入れしないから、ほっときゃ家は傷むし雑草は伸び放題だし。ほら、雑草も生やしとくと近所の農家から苦情が来るんですよ。で、結局ウチら役場がやらなきゃいけなくなるんですわ」

雨戸を開けながら彼は喋り続けた。家の中に光が射すとホコリが反射しながら宙を舞っていた。

「一応ね、ある程度は掃除をしたつもりなんですけどね。なんせ古い家だから。なんにもないけどのどかでいいですよ。あ、来る途中に農協あったでしょ。あそこは割りと何でも揃うから意外と便利ですよ」

わたしは契約をして、それから２週間後にはこの家に移住していた。

広い家だったので、自分が生活するスペースだけ掃除をして荷物を整理した。

居間、隣の寝室、台所、風呂、トイレ。

ひとりで暮らす分にはこれで十分だった。来年は畑に何か植えてみようと思う。

仕事はネット環境があればどこでもできる仕事だった。それほどお金に執着がないので自分が生活できるくらい稼げれば文句はない。その程度だ。

役場の彼が言っていた通り、夜は涼しかった。窓と縁側を開け放てば心地よい風が通り過ぎる。

昼間、外の物置を覗いたら蚊帳が出てきた。広げてみると穴もなくキレイだったがどこか古めかしい。そもそもこの家自体が古めかしいのだから、置いてある物も古くて当たり前だろう。農協から蚊取り線香を買ってきたが、それだけじゃ心許ないと思っていたのでそれを寝室に吊るし布団を敷いた。それだけで様になるじゃないか。

ビールを飲んでまどろみながら本を読んでいると眠気がやってきた。蚊帳の中で布団に横になると、開け放った縁側から月の光が入ってくる。満月とまではいかない大きさ。光源で薄っすらと物の輪郭はわかった。

蛙の声と風鈴の音。それだけで移住して良かったと思える。
時々頬を撫でる微風を感じながら、眠りに落ちようとしていると一斉に蛙の鳴声が止んだ。風鈴の音だけがちりんちりんと小さく鳴っている。

薄目で縁側を見やると、何かが動いていた。
目を大きく開けようにも眼球に膜が張ったようにぼやけてよく見えない。身体を動かそうにも動かない。もちろん声も出ないし、呼吸も浅かった。

しかしそれをじっと見つめていると、女の人が縁側に座っているのだとわかった。

動いているものはその女の人が持っている団扇で、ゆっくりと右に左にと扇いでいるのが見える。

浴衣を着て、髪を上げていた。顔は庭のほうを向いているのでわからないが極端に線が細いのはわかった。それに身体の割りに手が長く思える。

はじめはぼやけていたが、それがはっきりわかってくるうちに、段々と恐怖が襲ってきた。

その状況でどれだけ時間が経っただろう。
数時間にも思えるし数秒にも思える。
女はただ庭先を見つめ、ゆっくり団扇を扇いでいた。

何かがわたしに触れている。
わたしの腕を何かが這う感触がしたので目だけ動かして自分の腕を確かめると、何か白い幼虫のようなものがわたしの腕を這っていた。それは蚕だった。
寝る前にインターネットで調べたので、それが蚕だとすぐにわかった。

白い蚕が腕を這う。
わたしは大きく息を吸い込んだ。
その瞬間、風鈴の音が消え女の団扇が止まった。
ゆっくりと女は顔を私の方に向ける。
虚ろな表情。細すぎる面。
四つん這いになりながら蚊帳に近づいてくる。女は床の位置まで顔を落とすと蚊帳越しにわたしの顔を見ていた。

女の息がわたしの頬を舐める。
さっきの風とはあきらかに違う生ぬるい息。

女が視線を外す。
枕元に置いた本が蚊帳に隙間を作っていた。
その隙間に女は手を入れてぬるりと蚊帳に入ってきた。玉のような汗が全身から溢れ出した。
女は無防備に仰向けになったわたしの身体に顔を近づけ隅々まで眺めている。
長い女の舌がわたしの体中を舐めまわしはじめると息が止まりそうになった。
わたしは渾身の力で女を払うと蚊帳から飛び出し、電気をつけた。
しかし、そこには女はいなかった。
自分の身体を見る。所々が赤く滲んでいた。

蛙の声がした。風鈴も鳴っている。
いつの間にか蚊取り線香は灰になってしまっていた。