【鯉月】The Apple

しずよ

【鯉月】The Apple
  1. 1 退院
  2. 2 息女
  3. 3 発情
  4. 4 運命
  5. 5 諜報
  6. 6 家族

原作軸のオメガバースです。
単行本未収録部分がございますので、ネタバレご注意ください。
直接表現はありませんが、モブ月、堕胎におわせます。
原作に出ないキャラが出てきます。女の子と大英帝国の情報将校、大陸浪人です。

1 退院

 バチーン! 月島が台に叩きつけたメンコは、鯉登の手製のそれを吹き飛ばしてひっくり返った。そのとたん「やったー!」と歓声をあげたのは、ふたりを取り囲む子供たちだった。ああ、自分が、鯉登少尉のメンコがもらわれていく。鯉登はその場でひとりだけ、感慨深げに月島の様子を見ていた。



 鯉登が軍病院を退院して、小樽市内の兵舎に戻った。二階堂を含めた彼らは鶴見たちに合流するべく、連絡を待って過ごしている。ただ待っているだけではない、即応体制の維持が必須だ。次に対峙するのは、残り少ない刺青の囚人か、アシリパと杉元か、それともその両方か。
 小樽には射撃場がないので、接近戦闘訓練を各人が行なっていた。入院により落ちていた鯉登の筋力も、徐々に戻っていった。それでこの日は休憩時間に、腕力の回復の確認を兼ねて始めたのがメンコ遊びだった。
 初日は伊東大将を取られた。正直悔しいがしょうがない。数日前まで長期入院していた身だ。その翌日、ふたりがメンコを始めたら、近所の子供らが見学に集まった。だから鯉登は、昨日以上に張りきった。それなのに。
月島の伊地知中将が鯉登の大山大将をひっくり返すと、観客たちはどっと沸いた。昨日に引き続き、また大将を取られた。子供らは月島を尊敬のまなざしで見つめている。どうやら彼らはいつの間にか、月島を応援していたらしい。大きな体の将校が小さい兵にやり込められる姿が痛快なのだろう。この国の民は牛若丸のいた昔から、判官贔屓な気質がある。自分がいつの間にか悪役に仕立て上げられて、いい気はしない。が、月島が好かれることに対しては、悪い気はしない。
フフン、これは私の自慢の部下だからな。子供相手にも、鯉登は自慢がしたくてしょうがない。それで月島に負けて悔しい気持ちは、ひとまずおさめた。
 しかし、そんな寛容さは長くは続かなかった。
さらに翌日、東郷閣下も月島のものになった。昨日より増えた子供たちは、一斉にわあっと喜んだ。
「……」
 自分の郷里の自慢の武人たちが、立て続けに三人も持っていかれてしまった。それで腹いせに、鯉登が月島の頭にメンコを叩きつけると「しょうこうさん、メンコはひとにむけてなげたらだめなんだよ」と注意された。それを聞き、月島が鯉登に意味ありげな視線を向ける。鯉登は決まりが悪くなる。
「そうだな、大人げないことをした。すまん」
「……今日はこれでお開きにしましょうか」
 月島はぱちぱちと手を叩きながら、子供たちに「まっすぐ家に帰るんだぞ」と声をかける。そしてメンコに使っていた台座も片付ける。それから緩めていた詰襟を止め直して「では少尉殿、参りましょうか」と言う。
「ああ」
 鯉登と月島は軍病院へ向かった。退院して一週間後の診察のためだった。
 道すがら、街の様子を見る。季節の移ろいにともなう気温のゆるみは、人々の気持ちもゆるやかにしているようだった。
「たのもう! たのもう!」と声を張りながら活気よく駆けていく人力車、ヒイインと鳴く馬車馬。それから、出汁のにおいが漂う先にあるのは、おでんの屋台だった。鯉登が思わずつられそうになると、月島が素早くそれを察知して袖を引く。鯉登が道草好きなのは、樺太ですでにばれている。
「おでんはもうじき終わるだろうから、少し見たかっただけだ」 
そう言い訳した直後に、別のにおいが漂ってきた。少し先に牛肉屋があった。店の前で「ヒツテキ~、ヒツテキあるよ!」と呼び込みをしている。それを聞き、鯉登が急に目を輝かせる。勢いよく月島のほうを向いて話しかけた。
「月島、聞いたか! ヒツテキと言ったぞ!」
「……はあ、それが何か?」
 月島は渋々返事をするが、呆れている気持ちを隠そうともしない。しかし興奮した鯉登はそれに構わずに会話を続ける。
「月島はヒツテキとは何か知っているか?」
「いいえ、存じ上げません」
「ビフテキをそう呼ぶ店が東京に一軒だけあったのだ! あの店の料理人は、東京で修行してきたのだろうか?」
 懐かしさがこみ上げる。そこは陸士時代に何度か食事をした店だった。のれん分けした店だろうか、と思いながら、店の前を通り過ぎた。考えてみれば、卒業してまだ一年ほどしか経っていない。ずいぶん遠くへ来てしまった気がする。鯉登が幾ばくかの感傷に浸ろうとしていると、月島が変に気を回してこんなことを言う。
「あの、少尉殿。もしかして昼飯が足りませんでしたか」
「いや、そうではないが」
 約一年前、月島に初めて会った時のことを思い出していた。その頃は、月島を押し退けて自分こそが鶴見の懐刀になるのだと、そういう野心ばかりぎらつかせていた。なのに、鶴見ではなく月島と昵懇の間柄になるなんて。
想像すらできないような未来が、自分の目の前に現れた。だから、生きることは興味が尽きないのだと、今なら思う。もし時間をさかのぼれるなら、十代のやさぐれていた自分に聞かせてやりたくなる。
 隣を歩く男は視線だけを周囲に巡らせて、常に警戒を怠らない。月島らしいな、と思う。でもこの頑固な男も変わったのだ。しかも、そのきっかけを作ったのは自分だ。コタンでの出来事を思い返すと、二つの相反する感情が今でも胸に迫る。それは、胸の奥がきりきりと締め付けられる切迫感と、何もかも包み込みたくなるような愛情と。それからほんの少しだけ、いたずら心も芽生える。今、手をつないだらどんな顔をするだろう。そんなことを想像して月島の横顔を盗み見ていたら、前方から歌が聞こえてきた。
――豊年ぢゃ、豊年ぢゃ、法々法螺の貝。
 頭の上に大きな盤台を乗せ、三味線に合わせて歌っている。おこし売りだった。盤台に乗せているおこしを買うと、三味線を弾きながら歌ってくれる。物珍しさに鯉登が歩く速度を極端に遅くして、その様子を眺める。さっさと先へ行ってしまうと思った月島も、鯉登に歩幅を合わせる。
「少尉殿、やっぱり腹が減ってるんですか?」
「そうじゃない、歌が妙にうまいなと思ってな」
「確かに」
――ちんがらほに追はれて笑ふ声聞けば、豊年ぢゃ、豊年ぢゃ。
 パチパチと子供たちが拍手をした。どうやら歌い終えたらしい。菓子を買っていないのに、結局ふたりとも聞いてしまった。なので鯉登は「二つもらおう」と言っておこしを買った。ひとつを月島に手渡すと「私は結構です」と返そうとする。
「診察の待ち時間にでも食べればいい」
「……それでは遠慮なく頂きます」
「うん」
「では急ぎましょう」
 月島は何でも頑なに拒否することを止めた。それが鯉登には嬉しかったから、こうして事あるごとに確かめた。
 ふと、月島が無言で鯉登に先んじる。明らかに歩く速度を上げた。大して時間は経っていないだろうに。月島の態度を少し不思議に思いながら、鯉登も歩幅を大きくした。そうして角を曲がったところで、月島は振り返りきょろきょろと左右を確かめて、耳打ちしてきた。
「少尉殿、先ほどのような行商人には気を付けてください」
「どういうことだ」
「外国では秘密警察があの手合いに化けて、街中に溶け込み監視しているものです」
「……なるほどな。父上からも、そのような話を聞いたことがある。海軍にも公使館付き武官から、現地の情報が入ってくるのだ。最も、関東都督府の特務機関には及ばないが」
「そうでしたか。それならば話は早い」
 そうしておこし売りから離れたからか、月島はやや緊張を解いた。
「お前はそういった海外での諜報活動に詳しそうだな」
 気になるから、鯉登は思い切って聞いてみた。打ち解けたとは言え、鯉登はまだまだ月島がどんな風に生きてきたかを知らない。
「……詳しくはありませんよ。鶴見中尉殿から教わっただけです」
「しかし月島。我が国には秘密警察はおらんだろう」
「そうなのですが、我々を出し抜きたい奴らがいるでしょう」
 それは土方歳三陣営を指しているのだろう。
「そうだな、奴らの根城がどこにあるかも分かっておらんからな」
 それに、土方がどんな奴らと手を結んでいるのかも定かではない。そして札幌では、連続殺人事件が起きていると聞く。刺青の囚人ならば、彼らも近くにやって来るだろう。だからいつ何時、鶴見からの招集がかかるか分からない。そういう緊張感は持ち続けているはずだった。が、一方で、このままの日々が続くのではないかという気持ちもあった。
 いかんな。退院してから完全に気が緩んでいる。鯉登は自身を叱咤する。気の緩みは自分だけでなく、仲間をも危険にさらす。ふと隣を見る。護らねばならないと、気を引き締める。月島はコタンで鯉登を粛清する素振りを見せたけれど、それは脅しでその実は逆だったのだろうと思っている。
「どうかしましたか?」
 鯉登の視線に気づいた月島が、疑問を口にする。
「いや、病院くらいひとりでも大丈夫だと思っただけだ」
「単独行動は慎んでください」
「お前がそれを言うか」
 ふふ、と笑うと、月島はばつの悪い顔をした。あの時、月島と谷垣に気付かなかったら。気付いて追ったとしても、鯉登の説得を月島が突っぱねていたら。 誰も死ななくて良かった。少し前の自分は、そんな風に考えただろうか。鯉登もまた樺太の任務までとは、違う自分に生まれ変わった気がしていた。そしてその変化は鯉登だけではなく、月島にも波及していて、それを隠さなくなった。
「近頃どうにも……、水の違う川に迷い込んだ気分です」
 月島がぽつりと自分の心境をこぼす。一週間滞在したコタンでも、口数の少ないのは相変わらずだったから、こんな話はしなかった。珍しくて、驚きまぎれに鯉登は無遠慮なことを言ってしまう。
「月島ァ、お前は鮭か」
「失礼しました。私が立身出世を果たすのは不可能ですね。接待メンコもできませんし」
「違う違う、どうせなら鯉になれと言っておるのだ私は」
「……私には滝をのぼる能力はございません」
 これまた珍しく、鯉登に向って愛想笑いをした。そういう意味じゃないぞ月島ぁん。鯉登は月島に見られないように、口を尖らせた。



 病院に到着して、鯉登が受付で名前を書く。嗅ぎ慣れた消毒液のにおいに混ざり、微かに甘い何かが鼻をかすめる。鯉登は不思議に思って顔を上げた。菓子か? いや、菓子売りが院内に立ち入るはずはない。ポケットに仕舞ったおこしの袋を取り出す。が、これは砂糖より生姜の匂いが強い。受付台の隅には花瓶に活けられた花があった。そうだ、さっきの匂いは花の香りに近い。顔を近づけて嗅ごうとした。すると受付に座っていた女性が「鯉登さん、さっきからご家族がお待ちですよ!」とにこやかに笑う。
 鯉登は聞き返す。「家族?」
「ええ、お昼前だったかしら? お嬢さんが一人で来たのよ」
 鯉登は呆然として固まった。空耳か、何かを聞き間違ったのだろうか。動転して言葉も忘れそうになる。どうにか声を絞り出す。
「……済まない、もう一度聞くが、誰が待っていると?」
「お嬢さんですよ。いま看護婦の詰所に待ってもらっているから、呼んできますね」
 女性は部屋の奥へ歩いて行った。鯉登は混乱しながらも月島を見た。口は厳しく引き結んでいるが、やや目を丸くしている。もしかしたら彼も、自分と同じように動揺しているのかもしれない。鯉登はそれだけは妙に冷静な頭で考えた。

2 息女

 鯉登と月島が気もそぞろで待つこと約三分、受付の女性は女児を伴ってふたりの前に再び現れた。年の頃は五歳くらい、おさげ髪にリボンを結び、矢絣の小袖に袴姿の女学校に通う学生風の出で立ちだ。
「おとうさま!」
 女児は嬉しそうに声を上げ、鯉登に勢いよくしがみついた。
「な、……!」
 鯉登はさらに目を見開いて硬直する。女児は顔を上げて満面の笑みを浮かべる。
「とつぜんいなくなるから、わたくしびっくりしました。おとうさま、いつももうしあげているでしょう? さきにひとりではしったらだめですよ」
「あ? ああ……、うん、すまん」
 小さな子にたしなめられて、鯉登は思わず謝った。そして一拍後、我に返る。頼りになる男に助けを求める。
「つ、つきし……」
 振り向くと彼は深くうつむき、肩を震わせている。笑いを堪えているのだと分かった。
 いったいこの状況のどこに笑う要素があるのだ月島ァ!
 鯉登は叫んで非難したかったが、病院の中だということを思い出してぐっと飲み込んだ。受付の女性がふたりの様子を見て微笑む。
「お父さんと会えて良かったわね。じゃあ鯉登さん、お熱を計ってしばらくお待ちください」
 そう言って体温計を渡して受付に戻った。鯉登は上衣のボタンをはずして、体温計を脇に挟む。そして憮然とする。
 なぜ子供の言うことを、ひとかけらも疑おうとしないのだ。
 でも病院側がそう判断する理由があった。
「ちょっと失礼」
 月島が横から女児に手を伸ばす。前髪を少しかき分けると、隠れていた眉の形が露わになる。それは鯉登と同じ形をしていた。月島も嗜めるように言う。
「どこからどう見ても、あなたのお子さんでしょう」
「全く身に覚えがない!」
 月島まで疑りの目を向けるので、鯉登は憤慨しながら「歳は幾つになる?」と女児に尋ねた。
「五つです。ごじぶんのむすめのとしを、おわすれにならないでください」
「ほら月島ァ! 私が十六の時の子供ということになるではないか! あり得んだろう!」
「十六歳ですか……」と意味ありげにつぶやく。
「……あっ、確かにその当時は函館に住んでいたが、受験勉強で女にうつつを抜かす暇なんぞなかった!」
 鯉登の勢いに女児が驚いて、目を丸くしている。
「少尉殿、子供の前ですし、あまり興奮なさらず」
 月島が諫める。このような落ち着き払った彼の態度も、鯉登の気に障った。
「このおかたのおっしゃるとおりですわ。おとうさま、びょういんではおしずかに」
 女児は人差し指を口の前に一本立てて、しーっと言う。それを見て鯉登はウッと声を詰まらせる。
「……そうだな、私が悪かった」
 何度か深呼吸をして、なんとか心を静めた。そして待合室の椅子に腰掛ける。しかし月島は後ろに立っているので「お前も座らんか」と鯉登が言うが「ここで結構です」と突っぱねる。
「では私も立つ」
 鯉登は月島の隣に立って待つことにした。
「少尉殿、そろそろ体温計を」
「……そうだな」
 取り出して見ると、水銀がぐんと長く伸びている。熱がある。しかも結構高い。鯉登はぎょっとして、こちらを見ていた月島から体温計を隠してしまった。
「見せてください」
 月島が手を伸ばして体温計を奪おうとするから、上に高く掲げた。すると月島はすかさず鯉登の額に触ろうとした。素早く避けた。「な、何も問題ない! 返してくる」
 受付に差し出すと「あら、いつからお熱がありますか?」と聞かれた。今度は鯉登がシーッと人差し指を口の前に立てて、声を潜める。「ついさっきだ。ここまで走ってきて暑いだけだ」と子供のような言い訳をしてしまった。
「……そうですか。もうしばらくお待ちください」
 受付の女性は口元だけで笑った。鯉登の言い分などちっとも信じていない目だった。具合が悪いのに元気な振りをする患者には、慣れているのだろう。実を言うと、今朝方から少し熱感があった。寝冷えでもしたのだろうか。しかし悪寒等の風邪らしき症状はない。
 ひとつだけ懸念があったのは、胸の傷から何らかの感染症にかかること。そう入院中に医師から説明を受けていた。内部の傷の状態を詳しく診ることは不可能だが、もうほとんどふさがっているだろうと診断されている。だとすると、一体何が原因で熱が出たのか。鯉登の胸に一抹の不安がよぎる。
 受付から椅子に戻ろうとすると、女児と月島が向かい合って深々と頭を下げている。
「ふたりで何をしているんだ」
「自己紹介です。お嬢さんは袖章で私が軍曹だと分かったようです」と月島が自分の外套の袖をちらりとめくる。
「そうなのか?」
 鯉登は驚いて女児を見ると、月島が理由を述べる。
「ええ『おとうさま』から習ったとおっしゃっています」
「おとうさま」を妙に強調するのが、嫌味に聞こえた。鯉登は月島をねめつけてから尋ねる。
「月島、この子の名前や住所は聞いたのか?」
「ええ、うかがいました。お名前は鯉登文子(あやこ)さんで、住所ははっきりしませんが、話から判断すると旭川市内のようです」
「鯉登……か」
「そうです」
 着衣から何か分かることはないか。そう思って鯉登は文子を見ると、肩から大きめの巾着袋を下げている。
「それに住所が書かれていないのか?」
 鯉登が確かめようと「見てもいいか?」と手を伸ばすと「これはたからもの入れだからだめです!」と強く拒否された。
「そうなのか、すまん。それなら文子とやら、父や母の名前を言えるか?」
「はい。おとうさまのお名前は、鯉登音之進です」
 月島はそれを聞いた途端に、やっぱり、と言いたげな視線を向ける。「同姓同名で同い年くらいの男性がこの近辺にいるとは、にわかには考えられませんからね」
 鯉登はますます混乱する。
「それなら母親の名前は何と言う?」
「おかあさまはおりません」
「え? いないのか?」
「わたくしを生んだあとになくなったといったのは、おとうさまです。しゃしんもありませんので、おかおもぞんじあげません」
「亡くなったのか……」
 ふたりは言葉を詰まらせる。しかし混乱しながらも鯉登はぐるぐるとあらゆる可能性を考えた。
「母方の親戚の線もあり得るから、後ほど母に電話をするか、電報を打ってみる」
 夢か幻か現実か。この子は一体何者なのだ。自分の名前を出されたところで、何かの間違いとしか考えられない。なにぶん子供ができるような行為をしていないし、五年もの間、育ててもいないのだから。それとも誰かが自分を嵌めようとしているのか。それならば、いったい何のために?
 そんなことをつらつらと考えていると、外科の診察室から名前を呼ばれた。



 亡くなった家永の後から担当になった医師だから、優秀なのかヤブなのかもよく知らないまま退院した。胸や背中に聴診器を当てたり、触診したりしている。今思うと、家永は医師としては信頼できていたのだな、と鯉登は思い出していた。一通り終わると、いくつか質問をされた。
「えーっと、鯉登さんね。走ったら息苦しい?」
「いや、特に感じない」
「そう。怪我の経過は問題ないね。でも朝から熱がある、と。他に症状はある?」
 実は鯉登には、不調という程でもない些細な体調の変化があった。「二日くらい前から、嗅覚がおかしい。それと歯が浮いた感じがする」
「鼻か。つまってる? それとも匂いに敏感になってる?」
「敏感になっている気がする」
「歯の違和感は上の歯? 下の歯? それとも全体?」
「上の歯だ」
 医師は腕組みをして、カルテに目を通しながら「うーん」と小さくうなる。ややあって、鯉登にこう言った。
「えーっとね、確認なんだけど、鯉登さんは現在独身で、バース性はアルファだよね?」
「そうだ」
「抑制剤は服用してるよね?」
「ああ、十二歳頃からずっとだ」
「最近、飲み忘れてない?」
 それまで淀みなく質問に答えていた鯉登が、初めて言葉を詰まらせた。
「……実は先月、一週間飲めなかった期間がある」
 小樽のコタンに滞在した間がそうだった。
「一週間かー。よし、血液検査しようか。結果は内科の方で話するから」
 外科での診察が終わり、血を採取されて待合室に戻る。すると待合室では文子がおこしを食べていた。月島があげたのだろう。遠目でもふたりが打ち解けている雰囲気があった。鯉登に気付いて月島が立ち上がる。
「少尉殿、どうでしたか?」
「ああ、怪我の方は問題ない。今回で通院も終了だそうだ」
「そうですか、安心しました。では帰りますか?」
「ひとつ検査をしたから、その結果を聞いてからな」
「検査ですか? 怪我の他にも何かあったのですか?」
「大したことない。念のためだと医者も言っていた」
 大事にしたくなかったからそう言うと、文子が鯉登の手を握った。
「おねつがある日は、はやくおやすみになってください」
 悲しそうな眼をするから、鯉登は少し胸が痛んだ。
「ああ、ここから帰ったら、今日は早めに休むことにする」
 鯉登は初めて文子に笑いかけた。そして病院が終わってからの段取りを考える。まず駅へ行き、公衆電話から青森の家へ電話する。もし母が不在であれば電報を打つ。それから派出所へ行って捜索願が出てないか聞いてみようと思った。
 病院内は特に込み合ってないが、血液検査だから時間がかかる。文子は月島に絵本を読んでもらっていたが、すべての本を読んでしまった。それでもまだ鯉登の順番が来ない。受付の近くに置いてある金魚鉢を眺め、それに飽きると紙と鉛筆をもらって絵を描き始めた。鯉登と月島を描いてくれた。五歳にしては上手だと思った。そのうち文子は月島にも描くように迫った。そんなやり取りを微笑ましく見ていたら「鯉登さーん」と内科の診察室から呼ばれた。
 椅子に腰かけると医師が検査結果を説明する。
「血液検査の結果ですが、白血球が増えてないですね。発熱は細菌やウィルスのせいじゃないでしょう」
「ならば原因は何だ」
「おそらく発情でしょう」
「は……、発情?」
「ええ、初期の段階ですね。あのー、ひょっとして初めてですか?」
「初めてだ。熱を出したこともほとんどない」
「そうですか。そういうことなんで、特に心配ありません。しばらくは苛々したり頭が重くなったりしますが、発情に伴うよくある症状です。熱も数日で下がるでしょう。ところで、どうしてそうなったかの話になりますが」
「ああ」
「近くにオメガの方はいますか?」
「知らん。バース性を尋ねるのは軍規に反する」
「ですよね。まあ師団内でなくとも、近くの飲食店の従業員とか、他には道ですれ違っただけでも、フェロモンを感じ取って発情を促される場合はあります」
「それなら無限に可能性はあるではないか」
「そうなんですよね。接触を断つのが一番なんですけど、オメガの方の特定が困難だから、難しいよねー」
 医師は困った顔を向ける。
「オメガが誰だかわからず接触したままならどうなる」
「本格的な発情になります」
「……それは、私が誰かに無体を働くかもしれない、と」
「そうなります」
「それは困る。今飲んでいる抑制剤より強い薬はないのか?」
「ありますよ。ただし副作用も強くなります」
「どういった影響があるのだ」
「血管内の血が固まりやすくなります。なので、長期間の服用は避ける必要があります。あとは、脂肪がつきやすくなったり髭が薄くなる等、体が女性的になります。けれど、これは数日間の服用ではほとんど分からないから、気にしなくていいでしょう」
「承知した。その薬を出してくれ」
 医師は「それじゃあ、七日分出しておきます」と言って診察を終了した。鯉登が待合室に戻ると、文子は月島にもたれて眠っていた。
「待たせたな」
「どうでしたか?」
「知恵熱だと言われた。だから案ずるな」
「はあ?」
 月島は到底納得できないと言いたげな顔をしている。それもそうだろう、と鯉登は自分でもそう思った。鯉登は嘘をつくのが苦手だった。だから、風邪だと言えばいいものを、それが嫌だから、お道化て相手を煙に巻く方法しかできない。
 それでも月島はこれ以上追求しなかった。十分ほどして受付から呼ばれて、薬と検査結果の書かれた用紙をもらった。
「では帰りましょう」
 眠っている文子を月島が背負う。病院を出るとまず小樽駅へ向かった。青森の自宅に電話を繋いでもらう。が、あいにく母は不在だった。使用人に伝言するのは憚られる内容だから、電報を送ることにした。文子を知らないか尋ねる文面の送付を頼んだ。それから次に、派出所へ向かった。巡査に事の次第を説明して、小樽か旭川で捜索願が出ていないか確認してもらうことにした。その途中で、文子の目が覚めた。すると巡査は本人に住所や氏名、年齢等を尋ねる。
「お嬢ちゃん、お家からここまでお父さんかお母さんと一緒に来たのかな?」
「おかあさまはおりません。おとうさまといっしょにきました」
「お父さんとはぐれちゃったのかー」
「はぐれておりません」 文子はそう言って鯉登の後ろに隠れた。
「え? どういうこと?」と巡査は不可解な顔をする。
「この人が、わたくしのおとうさまです」
 文子はそう断言して、巾着の中から紙を取り出す。それを巡査に見せると、彼はあきれ顔で「あのさァ、旦那方、勘弁してくださいよー。俺達だって暇じゃないんですよ。言いたかねえけど、これ以上からかうなら公務執行妨害でお縄になりますよ」
「からかってなどいない!」
 鯉登が憤慨して言い返す。
「でもこのたくさん張り付けた顔、あなたでしょ?」
 文子が差し出したのは、鯉登が作ったクソコラ写真だった。鯉登と月島は唖然とした。
「月島、あの写真を文子にあげたのか?」
「いいえ、私はあなたの工作写真は持ってませんよ」
 この状況で食い下がっても「親子ではない」証明もできないので、月島が「少尉殿、出直しましょう」と帰ることを促した。三人はとりあえず兵舎へ向かって歩き出す。が、問題があるとふたりとも考えていた。
「しかし、兵舎に泊まらせるわけにはいくまい」
「はい、女性用のお手洗いもありませんからね。どうしましょうか」
 鯉登が腕を組みしばらく黙りこくる。それから再び月島の知らない話をした。
「東京なら迷子しらせ石碑があるのだがな」
「何です? それ」
「湯島天神や両国橋で見たことがある。明治以前は祭りや盛り場で迷子になる子供がずいぶん多かったようだ。それで迷子の特徴を書いた紙を貼っておく石碑があるのだ」
 石碑には左右に窪みがあり、一方に「たづぬる方」反対側に「しらする方」と張り紙がしてあった。そこに尋ね人の張り紙をして待つ。それでも親が見つからなければ、村全体で子供を育てていたという。それを聞き、月島がはたと気づく。
「村全体で子育てですか。そう言えばコタンにいる間、彼らも似たような話をしていましたね」
 だからアイヌの人々は、稲妻夫妻の子供を育ててくれている。しかしそうかといって、文子までアシリパの祖母のいるコタンへ預ける訳にはいかない。
「そうだな……、ひとまず軍病院に相談してみるか」
「それがいいかもしれませんね。私が今から戻ります」
「私も一緒に」と鯉登が言いかけた言葉を遮るように、月島が額に手を当てた。
「熱いですね。早く戻ってお休みください」
 その瞬間、鯉登は体温がまた上がった気がした。月島の上衣から、ふわりと甘い匂いが漂ってきた。
 鯉登はしばらくその場に立ち尽くし、月島と文子の後姿を見送った。必死に先ほどの匂いの記憶を手繰り寄せていた。
 これは、私の知っている匂いだ。そうだ、確か夕方から咲き始める白い花の香り。名前は――忘れてしまった。

3 発情

 月島が軍病院に戻った時刻は午後四時で、受付は終了していた。そこで事務作業をしていた職員に月島が相談すると「院長に聞いてきます」と奥へ行った。十五分ほどで戻ってきた。
「どなたか責任者がひとり病院内で待機してくれるのであれば、空いている寝台の使用を特別に許可するということです」
「感謝いたします。私が待機します。それと、もうひとつお願いがあるのですが」と月島は重々しく言葉を続けた。
「はい、何でしょうか?」
「今から内科で診察してもらうことはできますか?」
「あら、文子ちゃんどこか具合が悪いのかしら? それともあなたの診察ですか?」
「私です」
「軍属の方なら時間外でも大丈夫ですよ。どのような症状ですか?」
「抑制剤の処方の追加と、今晩の保護を申し入れたいのです」
「……承知いたしました。ここにお名前を記入して、お掛けになってお待ちください」
 女性は再び奥へ消えた。すかさず文子が月島に話しかける。
「つきしまさま、おかげんがよろしくないのですか?」
 そうして文子は上に手を伸ばすから、察して月島はしゃがんだ。彼女は額に手を当てる。
「あら、つきしまさまもすこしおねつがありますね」と表情を曇らせた。
「ええ、なので今晩は私も病院内の別の部屋に泊まらせてもらいます。何か困ったことがあったら、看護婦さんに伝えるといいですよ。私もすぐに行きます」
 月島が柔らかい表情を向けると、文子は「ありがとうございます」と恥ずかしそうに笑った。やって来た看護婦に文子を預ける。「よろしくお願いいたします」
 月島が言うと、文子は「おやすみなさい」と手を振った。月島も彼女に振り返した。
 軍病院は基本的に軍人・軍属しか診療しない。が、北海道は増えていく移住者に対して病院が足りていないので、民間人も診療可能な病院が存在する。鯉登の入院していた小樽市内の病院がそれに該当する。だから入院病棟の二階の半分は、女性用の相部屋となっていた。
 月島は待合室でひとり待った。体の怠さから始まり、微熱、そして胸の張り。月島は上衣の上からそっと胸に手のひらを当てる。特有の体調の変化は初めてではなかったから、すぐに気づいた。このまま兵舎で普通の生活を送るのはまずい。オメガの本格的な発情期に発せられるフェロモンに反応するのは、アルファだけとは限らない。ベータもフェロモンに気がつく。そして月島が一番気を付けなければいけないアルファは、そもそも人口が少なく決まった特徴があるので、比較的見当がつく。それは、どの国においても頭脳明晰で、権威筋や指導者層を占めていた。そして一般労働者階級が、人口の大多数を占めるベータだ。その彼らからも欲情されると、厄介この上ない。
 だから月島は病院に頼ることにした。オメガは発情期の約一週間、安全に過ごせる自宅がない場合は病院で保護してもらえる制度になっている。聞いたところによると、約十年前から始まった制度なのだそうだ。月島がこれを利用するのは、今日が初めてだった。
 待合室にいるのは月島だけだった。だから、少しだけ気が緩んでしまい、ため息をつく。肩に力が入っていることに気が付いた。ひょっとして、俺は今日ずっと緊張していたのか……。鯉登の顔が思い浮かびそうになって、慌てて頭を振って消した。彼がアルファであると、確かめた訳でもないのに。
「月島さーん、どうぞ」
 呼ばれて診察室に入る。
「時間外にすみません」と第一声で月島が謝ると「よくあるから慣れてますよ」と医師は苦笑いした。
「で、抑制剤の追加が希望ですか? 月島さん、二ヶ月前に注射をしてますよね。これが効いてないということですか?」
「はい、今までなら一年間は効果があったのですが」
 月島の返答を聞いて、医師はカルテとにらめっこしながら唸る。
「うーん、血液検査してみます? 薬の血中濃度を調べてから、今後どうするか決めましょうか」
「はい」
 夜間に検査技師はいないので、検査結果は明日になると言われた。今夜は様子見のまま、オメガ用の避難部屋で休むこととなった。病院の敷地内にある看護婦寮の一室を改築してあるということだった。オメガは人口の一割にも満たないそうだから、この部屋を使う者は滅多にいないのだろう。看護婦のひとりに案内されて、その部屋へ月島はやってきた。
 改築されたと言っても出入口が独立しているだけで、布団やコップ、水甕や火鉢の用意されている、こじんまりとした和室だ。雨風がしのげるのは天国だ。きちんと畳まれた病衣も置いてある。これを着て休んでいいのだろう。配慮がありがたかった。ただ、風呂がないので着替える前に体を拭こうと思った。月島は井戸から水を汲んできて、体を拭き始める。
 すると胸に手が当たった際に、ズキッと尖った痛みが走る。
「……っ」
 月島は声にならない悲鳴を上げた。そっと触れると昼間より硬く強張っており、何やら岩のようだ。そして下半身にも違和感があった。どことなく湿り気を帯びている。
「まいったな……」
 紛れもなく発情の兆候が表れている。自分の体がだんだん変わっていく。ただ、自分自身の気持ちは置き去りにして。月島はうなじの下に手を当てた。おそらくこの辺りから、匂いが発せられているんじゃないのか。でも自分では嗅ぎとれないのが歯がゆい。対策がしたくてもできない。月島は手ぬぐいでその部分を何度も擦った。皮膚の表面を拭いてもにおいを消せないのは分かっているが、次第に女に近づいていく自分を認めたくなかった。
「……うっ、ぐ……」
 急に吐き気がこみ上げた。手のひらで口を覆い、急いで外に出た。戸口の横にしゃがみ込む。冷や汗が流れる。呼吸を止めてせり上がる何かを、懸命に押し留めた。そうして耐えて、どうにか山を越えた。
「ハァ、ハァ……ああ……」
 深呼吸を繰り返して、気持ちを落ち着けた。暑くもないのに汗が流れたから、裸の上半身に夜風が刺さる。日が落ちると、春とは言い難い気温に逆戻りする。室内に戻る。
 急に具合が悪くなった原因は、ユダヤ系のとある男の姿が脳裏をよぎったからだった。
 月島は、七年ほど前にロシア駐在していた時に、抑制剤を使っていない時期があった。その当時の出来事には蓋をしていたけれど、きれいさっぱり忘れることはできなかった。忘れてしまったら、またあんな馬鹿げた真似をするかもしれないから、自分への戒めでもあった。
 そして忘れ去ることができないもうひとつの理由は、本能だったからだ。『新しい生命を宿して育むのは、お前の役割だ』とそれが告げる。いつもは薬で忘れた振りをしているだけで、結局この体から逃れることはできないのだ。
「あ……」
 じわりと股の間が、もっと濡れたように感じた。
 今の月島には、なす術がない。泣けてくる。月島は、変化していく自分に絶望して、同時に隠しきれない高揚感をも胸の奥底に認めた。ついに自分の役割を果たせる時が来たのではないか、と。
「……。クソッ、何が役割だ!」
 苛ついて壁を殴った。ぐらぐらに気持ちが揺れる。こんな自分に、鯉登を巻き込んでいいはずがない。



 鯉登は小樽市内の兵舎に戻ると、処方された抑制剤を飲んで布団に潜り込んだ。普段より明らかに高揚しているせいか、食欲もわかず、なかなか眠気も訪れない。すぐに一時間が経過した。別室からは、夕飯が終わり順番に入浴を済ませている様子がうかがえた。
 この兵舎に寝泊まりしている兵卒は少ないから、旭川の官舎よりは比べようもなく静かだ。それでも階段下からは二階堂のはしゃぐ声が聞こえる。鯉登はずっと目を閉じていたせいか、音がよく聞こえた。もうすぐ消灯だろうに、また例の元気になる薬をきめているのかもしれない。耳障りだから手帛(ハンケチ)を箪笥から取り出して端を耳に詰めた。すると声は遠くなり、今度は自分の心音がドクドクと大きく聞こえた。その予想外な生々しい音に、コタンでの夜を思い出してしまった。月島と交わり、絶頂した直後のような心臓の音。その時の快感を思い出して、自然と下半身に血が集まり始める。
 コタンで自分の説得に応じた月島は、すっかり心を開いてくれていると思っていた。それなのに、病院に戻ると以前と変わらず全く隙がなかった。見事だと感心した。谷垣を逃がした件をふたりで示し合わせて隠していると勘繰られないためにも、その態度が当然なんだろう。だけど部屋にふたりきりでいる間くらい、恋人らしくしてくれてもいいのではないか。そんな訳でコタンから戻ってきて約一ヶ月、月島と一度も親密な時間を持てずに悶々としていた。
 世間では一体どれくらいの頻度で同衾しているのだろう。鯉登にとってはそれすらも大いに疑問だ。が、恋愛経験不足を月島に気取られたくない、背伸びしたい気持ちがあった。面倒な男だと思われたくなかった。
 そんな折、新聞の投書に自分と似たような人生相談が載っていたのだ。

――質問:札幌市、匿名希望二十代男性
『私はとあるご婦人に好意を抱いておりますが、内向的な性格ゆえ伝える勇気が持てません。言葉以外で気持ちを伝えるにはどうしたらいいですか?』

――回答:石川啄木(詩人)
『手帛を使えば上手く伝えられます。相手の前でそれを落とすのは、交際しようという意味です。また頬に当てたら、あなたを好いているという意味です。肩に掛けたら、後で自分の家においでくださいという意味です。夜の誘いになります』

 そうか、これだ! もうこれまでの鯉登音之進とは違うぞ。一皮むけた私は、これまでのように直情的に訴える子供から脱却するのだ。
 鯉登はすぐに実践した。軍病院で、そして退院後は兵舎で。しかし月島は、手帛を落とせば「落ちていますよ」と拾い上げ、頬に当てれば「歯が痛むのですか?」と首を傾げ、肩に掛ければ「フケが落ちるのですか? あ、それとも虱ですか?」と頭を見ようと近づく。
「違う違う! 頭は毎日洗っている!」
 呆れて強く否定する。こんな婉曲な方法が通用する男ではなかった。痺れを切らした鯉登が月島に言う。
「新聞くらい読め。××日の夕刊だ」
 しかしそれでも月島は全く態度を変えなかった。読んでいないのか、それとも、もう同衾したくないのか。考えたくはなかったが、ひょっとして私は下手なのだろうか。
「……」
 鯉登は小さくため息をつく。もし自分が他の誰かに恋をしていたならば、きっと月島に何でも聞いただろう。どうやって気持ちを伝えればいいかとか、どこをどうすれば気持ち良くしてあげられるかとか、赤裸々に。「少尉殿なら大丈夫ですよ」とか「もっと落ち着いて行動なさい」等と的確に助言してくれたに違いない。でも今は、そんな風に気軽に相談のできる相手はいない。適任者が恋人に役割を変えてしまったのだから。その上、好きだからこそ格好つけたい気持ちもある。だから話題を選んでしまう。
「……月島はどうなんだ」
 切ない。違う悩みが新たに生まれてしまった。これではまるで、片思いが続いているようではないか。
 月島に会いたい。会って抱き締めたい。やはり今までのように、思ったことを直接言葉で伝えるべきだった。思い立ったが吉日、すぐに行動に移したくなった。鯉登は起き上がる。
 月島は病院から帰ってきたのだろうか。鯉登は廊下に出て、月島が寝泊まりしている部屋の襖に耳を当てる。かろうじて寝息が聞こえるから、そっと開けた。布団が一組敷かれていて、そこには二階堂が寝ていた。三十分程前の騒々しい話し声と対照的だったから、燃料が切れたようだと思った。そしてその隣には、同室である月島の姿はなかった。
 まだ帰っていないのか。玄関で下駄箱を確認してみても、月島の靴はなかった。時刻はフタヒトマルマル、いくらなんでも遅すぎる。何か不測の事態が生じたのだろうか。しかし自分がこれから病院へ向かっても、入れ違いになる可能性がある。だから大人しく待つべきだと判断した。
 部屋に戻ると、またあの花の匂いがした。
 外からだろうか?
 不思議に思い、窓を開けた。しかし匂いはしなかった。窓と障子を閉めて、ランプに火を灯す。もうしばらく起きて待とうと考えたからだった。それから布団に潜る。
 月島の顔を思い浮かべる。口は堅く引き結び、まっすぐに自分を見据える鋭い目。巌のような体つきなのに、今日は何とも似つかわしくない匂いがした。どこか懐かしいような、くらくらするような。あれは風呂で使った石鹸の匂いだろうか。再び鯉登の鼻先に、その香りが掠めた。頭がぼうとしたから目を閉じた。「月島……」
 鯉登は熱い息を吐く。やや固くなって上向いた性器に手を伸ばそうとした。その時だった。
「少尉殿」
 声がして驚く。目を開けると、ほのかなあかりの中に形のいい坊主頭が見えた。
「お、遅いぞ月島ァ! こんな時間まで何をしていたんだ!」
 待ち焦がれた男がようやく自分の元へ、戻ってきた。普段に輪をかけて甘えたな気持ちになる。影の方へ手を伸ばすと、外気温を纏う月島の外套に触れた。ひんやりとしている。腕を掴んで、布団へ強引に引き入れた。
「うわっ、何を……」
 月島が非難しようとするが、鯉登は構わずに力の限り抱きしめた。ドクドクと月島の胸が高鳴っているのが胸に伝わる。
「ふたりきりの時くらい、他人行儀はやめんか。嫌われたと思ったぞ」
「……あの、少尉殿、苦しいので腕を緩めてください」
 力を少し緩めると、月島は敷布団に手をつき体を離そうとする。目が合った。すると月島はぷいと目をそらした。すると鯉登の目の前には月島の耳があり、赤く染まっているのが分かった。抱き締めただけで照れて目も合わせられないなんて、どうしてこんなにかわいい反応をするのだろう。
「月島、こっちを向け」
 そう言うと月島は大人しく従った。視線が交わる。鯉登は月島の両耳を両手のひらで塞いで、口づけた。
「ん、ふ……」
 息を継ぐために唇を一瞬だけ離すと、月島から密やかな声がもれた。続きをしようと鯉登が再び顔を近づけると、月島が「眠れませんでしたか?」と尋ねる。
「ああ、全然だ。だから月島のことを考えていた。夜這いに来てくれて私は嬉しい」
「そんな訳ないでしょう。お体に障ります。病人は大人しく寝ていなさい」
 呆れ顔で月島が言うから、実は病気ではないからまぐわうのは平気だ、と言おうかどうしようか迷った。発情だと正直に言ったら、月島はどんな反応をするだろう。それは自分がアルファだと告白することと同義だが、月島にならバース性を知られても不都合はない。それどころか、自分のことは何だって知っておいてほしいとすら思っている。一番の理解者であってほしいし、月島にとっての自分もそうありたい。
 月島のバース性は何だろう。気にならないと言えば嘘になる。が、アルファの特徴にもオメガの特徴にも当てはまらない。
 オメガには外見に特徴があるとされている。それは例外なく美男美女ばかりなのだ。約十年前に北米合衆国で起きたある事件がきっかけになって、人々はバース性を公言しないのが当たり前の世の中となったが、それ以前の常識ではそれが通説だった。
 見目麗しい方が資産家や為(まつりごと)者のアルファに見初められて、番になる確率が高くなる。それが生き残りに長けた戦術なんだろう、という学説だ。それが自然淘汰。または繫殖という抗えない本能。
 月島の外見が悪いという意味ではない。目鼻口に、体つき。鯉登にとってはどれも愛しいから、むしろ自分のために誂えたような男だとすら思っていた。月島の魅力を知っているのは、自分だけで十分だ。ああ、早く抱きたい。
 しかしバース性を言っても言わなくても結局することは同じなので、過敏な話題は出さないことにした。いま伝えるのは、好きだから抱きたいという気持ちだけでいい。
 本人を目の前にして、性器が一段と固くなる。ぐっと腰を擦り付けると、月島の体がびくりと跳ねた。興奮しているのが伝わったはずだ。それから月島の耳元でささやく。
「微熱のある方が、お前も気持ちがいいはずだ」
 それを聞いた月島は目を丸くする。
「……、全くあなたって人は、どこでそういう知識を仕入れてくるんですか」
 はあ、とわざとらしくため息をつく。が、鯉登には月島を陥落させる自信があった。熱い湯に浸かるのが好きな男だから、絶対に普段より体温の高い体を気持ちいいと感じるはずだ。
月島が身動ぎをする。帰るのか、留まるのか。すると彼は外套を脱いだ。
やはり月島は私に甘い。鯉登はすっかり浮かれてしまった。再び唇を寄せる。触れる直前に月島の唇が動いた。
「しかし私はまだ風呂に入っておりませんので、その……、挿入はご勘弁を」
「そうなのか? いい匂いがするが」
 鯉登が月島の胸元でくんくんと嗅ぐ仕草をすると、月島はサッと襟を押さえて一瞬だけ険しい顔をした。不思議に思った。が、すぐに元の無表情に戻り「気のせいですよ」と白を切る。それから鯉登の長着の帯をするりと解いた。積極的な月島が珍しい。嬉しくなって、鯉登も月島の服を脱がせ始めた。上衣と軍袴の釦を外し、襦袢をたくし上げる。あらわになった胸に手を添わせて、下から持ち上げる。胸筋のふくらみを揉みしだくと、月島は苦し気な顔でぎゅっと目を閉じた。そんなに身構えることもなかろうに。それとも、これから触ろうとしている頂きが、そんなに気持ちがいいのか。鯉登は彼の様子を見つめた。
 じっとり焦らして月島のねだる姿を見たかったが、うすい色の乳首を見たら自分の方が早くも耐えられなくなった。むしゃぶりつきたい。口に含んで舌先で転がす。
「あ……、ああ、うあっ」
 月島の口からすぐに声がもれ始めて、鯉登はますます気分が盛り上がる。存分に唾液で濡らしてじゅっと音を立てて吸い、また舐めて転がす。月島の体はふるふると震えて、もらす吐息は熱い。こんなに小さな箇所で、こんなにも感じるなんて。鯉登の腹に月島の勃起したものが当たる。けしからん体をした男だ。鯉登は悔しくなる。一体どこの誰に仕込まれたのだ。自分のことを耳年増みたいに揶揄するが、月島と比べたら知識だけなんてかわいいものじゃないか。
 どこまでいっても、自分だけのものにならない男だと寂しくなった。悔しいから乳首に弱く歯を立てると「うああっ」と月島が叫ぶ。
「隣に聞こえるぞ」と言って、口付けて声の出るのを塞いだ。月島の舌を絡め取り、唇で食む。快楽でふやかされたのか、力が抜けきった体をすっかり鯉登に預ける。閉じられない月島の口からこぼれた唾液が、鯉登の口の端から頬に流れた。口を離して手の甲で拭う。
「鬼軍曹が声を我慢できないほどの快楽を生むのか、ここは」と言って鯉登は月島の乳首を指で弾いた。
「……っあ」
 大袈裟に肩が揺れた。嫉妬心が燻っていると、鯉登は自覚している。コタンではそうじゃなかった。二夜、三夜と続けて交わる度に、月島が欲望に素直になっていく様が嬉しかった。それが、今はどうだ。なんだか他の男の臭いがする。そんなのは嗅ぎとれるはずもないのに、月島を独り占めしたい気持ちが止められなかった。これも、発情に伴う変化なのか。
「少尉殿」
 ふと気がつくと、月島が心許ない目をしてこちらを見ている。
「お聞き苦しい声を出してしまい、申し訳ありませんでした。今日は止めましょうか」
 そう言って、鯉登の体の上から身を起こそうとする。
「いや、私こそ責めるような口振りをしてしまい、申し訳ない」
 鯉登は素直に謝って「これで止められる訳なかろう」と、彼の手を下半身に導いた。鯉登のそれは痛いくらいに張り詰めていた。嫉妬心が性欲に結びつくことも、たったいま実感した。月島は布越しにそこをゆっくりとさすった。鯉登は思いがけずびくりと腰を震わせる。何だ、今夜のこの積極性は。
「それなら、私が猿ぐつわでもしましょうか」
「……は? 今何と?」
「猿ぐつわです」
 そう言って月島は、畳の上に乱雑に放られている手帛を見る。先ほど耳栓がわりに鯉登が詰めていた二枚だった。声が出ないように、あれで口を塞げというのか。月島がそんな屈辱的とも言える提案をするなんて、思ってもみなかった。鯉登は呆気に取られる。
「少尉殿?」
「……月島はそれでもいいのか?」
「はい、隣に聞かれるよりは、いいでしょう」
 月島は鯉登の上から離れて、それを拾う。何度か同じ場所を固結びして、丸い塊を作った。そこから左右の耳のように少し残された端に、もう一枚を結ぶ。
「反対側にもう一枚結ばないと、頭の後ろで結べませんね」
「箪笥の一番上にある」
 月島は引き出しから手拭いを見つけて「つるつるとした絹の手帛より、こっちがいいですね」と口角を上げた。手帛の塊を芯にして、手拭いでぐるりと覆った。その両端に別の手拭いを結ぶ。鯉登はその様子を呆けて見ているだけだった。作り終わると、月島は鯉登の横に座り「結んでくださいますか?」と手拭いを差し出す。
「ああ……、だが、その前に」
 鯉登は月島に抱きついて口付けた。口枷をするならキスができなくなるではないか。それに声が聞けないのは、きっと物足りないと思う。
「は、ん……」
 舌を月島の口の中にゆっくりと出し入れして、性行為の真似事をした。本当はこうして愛し合いたいのだと訴える。抱きしめた上半身に体重をかけても、月島は抵抗しなかった。そのまま布団に倒れる。鯉登の口から流れた唾液が、舌と一緒に月島の口に伝う。口の中も腹の中もしとどに濡れて熱い方が、より気持ちがいいはずだ。
『発熱した相手との性行為は快感が増す』との猥談を聞いたのは、旭川に着任してからだったか。飲みの席で上官が芸者の前でする尾籠な話を、馬鹿らしいと鯉登は興味を持てなかった。が、いつ何が役に立つか分からないものだな、と思い返す。
 ぽんぽん、と月島が肩を叩く。口を離した途端「苦しいです」と伝える。
「すまん。つい夢中になってしまった。……あのな、月島」
「はい」
「挿れたい」
 正直にそう告げると、月島は目を伏せた。そして挑むような目線で「今日は駄目だと申し上げたでしょう。我慢なさい」と説き伏せる。
「では、どうして猿ぐつわをするのだ?」
 声を上げるのを我慢できないほどの行為が、他にもあるのかと不思議に思った。月島はそれには答えず「お願いしますね」と言って、手帛の塊をくわえた。それと繋いだ手ぬぐいを、月島の後頭部に回して結ぶ。それから彼を正面から見つめた。
 なんというか、犯罪めいているな。
 まるでこれから手籠めにするかのような、乱暴な気持ちが初めて芽生えた。やけに興奮している自分に、鯉登は混乱し始める。物心ついた時から当然のように自分の中にある倫理観や道徳観が、瞬く間に崩れ去ったのを感じた。
 これは好機じゃないのか。このまま月島の手の自由も奪って、自分の思うままに激しく抱いて、それで彼自身も身も世もなく乱れて――そんなご都合主義の物語を妄想していた。すると月島が、鯉登の太ももの上に跨った。近い。あの匂いが強くなる。月島が下帯をずらして自身の性器を手に取る。すでに固く立ち上がっており、先端は濡れて弱い灯りでもてらてらと光っているのが見えた。それから鯉登のそれも同様に握って、くびれをくびれで擦り始めた。
「……う、あ、…あっ!」
 鯉登は思わず声がもれる。一番気持ちのいい部分を刺激しているのが、月島のそれだという事実。ぬるぬると行き来するたびに、固くなった竿とつるつるとした亀頭との落差で、腰に力が入らない。手で扱かれるのと、口に含まれるのとは別の、新たな快楽を知った。
 先走りがひっきりなしにあふれてきて、にちゃにちゃという嫌らしい音が大きくなった。月島のしていることが目にも耳にも毒で、鯉登は理解が追い付かない。自分より頸木だらけの男のはずなのに、なぜこうも手練手管に長けているのか。
 しかもこの行為は男同士に限られるだろう、月島。
 鯉登は見知らぬ相手に嫉妬して、その業火で心臓が焦げ付くように感じた。ぎりっと歯を噛みしめる。それでも今の月島の相手は自分だ。過去を責めるのはお門違いだ。考えるのは止めよう。今大事なのは、目の前の月島をそのまま愛することだ。鯉登は気持ちを切り替える。そして月島に協力するつもりで、鯉登はくびれより下を二本まとめて擦り始めた。
「は、あ、ああ」
 息が弾み嬌声をもらすのが自分だけなのが、少し恥ずかしい。ふと視線を上げ月島を見ると、顔は上気して苦し気に眉をひそめている。そして、閉じられない口から唾液が流れている。口の中に含んだ手帛は、もう水分が一杯で吸いきれない状態なんだろう。
 ごくり、と鯉登は喉を鳴らした。いま、口づけがしたい。
 月島の後頭部に手を回して結び目を解いた。そして手ぬぐいを放ってあごを掴んで引き寄せた。
「あっ、少……」
 月島が非難しようと開いた口に、唇を押し付ける。腰を密着させようとしたら、月島が態勢を崩して後ろに倒れた。鯉登はすぐさまのしかかり、挿入しているかのように腰を前後に揺らした。陰茎同士が擦り合わさると、自慰とも挿入とも違う快楽に襲われた。月島もきっと自分と同じように気持ちがいいはずだ。鯉登の胸は満たされていく。
「あ、あ……、ああっ」
「月島、……はあ、ああ、月島。……気持ちいいか」
 聞いても彼は答えない。歯を食いしばり、荒く息を吐いている。お互いの下腹部は、どろどろにした通和散をぶちまけたかのような有様だ。できるだけ声を出さないように、堪えているのだろう。でも鯉登もほとんど余裕はなかった。鈴口が開いて今にも出そうになって、慌てて腰を引いて射精を耐えた。その時だった。
「少、……少尉殿、……う、あ、ああ!」
 聞いたことのない声音で、月島が鯉登を呼んだ。鯉登にぎゅっとしがみつき、腰を押し当てた。月島の陰茎がびくりと跳ねて、熱い体液が下腹と鯉登の着物を濡らした。
「……つきしま」
 一緒に達したかったから、鯉登はもう我慢するのを止めた。
 ぐったりとして額に汗を浮かべ、無防備になっている月島を見るたびに愛しさが増す。私にならどんな姿も見せてくれるのだと思うと、誇らしい気持ちにすらなっていた。
 濡れたところを簡単に拭って、ふたり並んで狭い布団に横になる。まだ息は整わず、体は怠くなる一方だ。それでも鯉登はこの時間が好きだった。心が解きほぐれているから、手をつなぐだけで気持ちまでひとつになれそうな気がした。少し横に手を伸ばすと、月島の腕に当たる。手のひらを探して指を絡ませてつないだ。
 どうか逃げないで、ずっと私のそばにいてくれ。実は不安な気持ちが、常に背中合わせだった。



 冷やりと寒気がして、鯉登は目を覚ました。自分の体が冷えていて驚く。布団を蹴飛ばして眠っていた。いつの間に。
「月島!」
 がばっと起き上がる。部屋を見渡しても愛しい人の姿はどこにもない。そして局部にべったりと濡れた不快感が広がる。鯉登はおそるおそる褌を解く。精液だった。拭いたはずなのにどうして。
「……ハッ、まさかぜんぶ夢だったのか!?」
 ぐにゃりと背中側に倒れた。「夢精……、こん年で情けんなか……」
 ひとりごちて頭を抱えた。あんな生々しい経験が夢だったなんて、にわかには信じられないし、恥だ。他の者が起きてくる前に、着替えてさっさと洗ってしまわなければ。
 敷地内の井戸に向かうために、静かに廊下に出る。月島の部屋の前で足を止めた。こっそり室内をうかがうと、やはり寝ているのは二階堂だけだった。もうすぐ日の出の時刻だ。一晩中帰ってこなかったのだな。一体どこで何をしているんだ、月島。



 朝食後に母からの電報が届いた。文子という女児は、親戚にはおそらくいないと書いてあった。鯉登の予想通りだった。母方なら名字が違うはずだからだ。それでも『彼女を一目見てみたいので、明日の朝の船で小樽に到着します』と母の文面は続いた。
「は、母上、明日来っとな?」
 何か別に心当たりでもあるのか。それとも、孫の顔をそろそろ見たいという気持ちからだろうか。「キェェ……」と鯉登は頭を抱える。結婚適齢期なのは自覚している。郷里の幼馴染や陸士の同期から、結婚の報告を受けることが増えてきた。両親とも何も言わないが、本心では見合いをしてほしいと思っているはずだ。しかし、今の自分には無理な相談だ。男だとか女だとか言う前に、月島以外に好きになれない。
 そして普段忘れているバース性を思い出す。アルファとオメガには、運命の番と呼ばれる相手が存在するのだという。
 運命の人、だなんて。
「……」
 そんなものは眉唾物だろうと、鯉登はたかをくくっていた。だいいち、みんな薬で発情を抑えて生きているのに、どうしたら番が分かるのか。鯉登は単純に疑問だったから、アルファだと公言していた同期に昨年尋ねたことがある。そしたら同期は自信たっぷりに、こう答えた。
「薬が効かないそうだぜ。だからすぐ気づくのだよ」
「気づくのだよ、ってお前は運命の番に逢ったのか?」
「いいや、でもこの世のどこかに自分のためだけに生まれてきた子がいるのかもしれない。素敵じゃないか!」
「しかし運命と言っても、結局は体の相性だけなのだろう? 中身はどうなんだ? 価値観がまるで違う相手でも、配偶者として共に暮らせるのか?」
 鯉登は首をかしげる。子供がたくさんほしいのなら、適任なのだろう。が、ヒトが番う場合、他の動物と違う点が多すぎる。
 それを聞いた同期は少しだけ呆気にとられて、それから、したり顔でこう聞き返した。
「あれ? 鯉登は運命否定論者?」
「は? 何だその運命否定論者とは」
「自分のバース性に逆らいたい思想の持ち主が、近ごろ増加しているという研究結果があるそうだ。新聞で読んだ。貴様もてっきりそうなのかと」
「……そういう尖った思想などない。例えば、結婚後に運命の番とやらが現れたら、どうするつもりだ?」
「その時はその時で考えるしかないだろう」
 同期は『考える』と事も無げに返した。が、そもそもアルファの倫理観や道徳観をすべて奪い、性行為しか考えられなくなるのがオメガのフェロモンではないか。
「考えが足りぬな」と鯉登が呟いたら、同期は「貴様は考え過ぎだ」と突っかかる。そこから口論に発展したのを覚えている。



 一昔前までは、定期的に発情してアルファを誘惑するオメガは、犬畜生と同様だと蔑まれていたらしい。オメガの発情を抑える薬は存在したが、体質や環境により効かない場合も多々あったと、鯉登も聞いたことがある。だから意にそぐわない性交渉の末、身籠る不幸もあったのだと。それでも製薬会社が抑制剤の開発・改良にあまり熱心でない理由は、二点あった。
 一つ目、オメガは人口の一割にも満たないから、収益が見込めない点。
 二つ目、結婚に至るアルファとオメガが少なからず存在するから、結果良ければ全て良しと見なされていた点。
 しかしその常識が一変する出来事が起きた。
 それは約十年前、北米合衆国でのこと。オメガのアメリカ女性をアルファのスペイン男性が襲う悲劇が起きたのである。その女性が大英帝国の外務大臣の孫娘だったから、アルファ男性に欧米からの批判が殺到した。それまでなら「オメガがフェロモンを撒き散らして誘ったんだ」で、見過ごされてきた。しかしこの時ばかりは、この常套句は通用しなかった。それどころか、その事件がきっかけとなって「スペインは悪魔だ! やっつけてしまえ!」という機運が人々の間で高まり、なんと米西戦争に突入したのである。
 結果、スペイン帝国は崩壊した。
 ひとりの女性の悲劇が、列強三番手の一国を崩壊させるに至ったのである。
 そうして、それまでのバース性についての価値観は世界中で一変してしまった。オメガのフェロモンに反応しないように、アルファの抑制剤もあった方がいいのではないか、との世論が高まった。アルファ用の抑制剤の開発も始まった。オメガ用の薬の改良も進んだ。
 そしてバース性について、公の場で語るのはタブーとなった。



 兵舎内の者は一人として月島の行方を知らなかったので、鯉登は朝一番で病院へ赴いた。文子の食事も気になっていた。もし入院患者用の食事が余ることがあっても、病院食は子供の口に合わないのではないか。だから途中でコロッケを買った。通り道にあった牛肉屋が、朝から店先で売っていたのだ。
 軍病院に到着する。受付で尋ねると「お連れしますね」と笑顔を向けられる。
「確認したい点があるのだが、月島は文子をここにひとりで預けたのか?」
「……ええ、少々お待ちください」
 受付の職員は素早くその場を後にする。返答に一瞬の迷いがあった。何だか様子が変だな。鯉登はいぶかしむ。
 十分ほど経って、二階から文子が連れられてきた。
「ごきげんよう、おとうさま」
「あ、ああ。ごきげんよう」
 じゃあね、と職員は文子に手を振る。そして鯉登に一礼してから、持ち場へ戻っていった。鯉登はコロッケを見せて「今日は暖かい。外で食べよう」と言った。敷地内の一角を、公園として整備してあった。そこにあるベンチにふたり並んで腰掛ける。
「文子とやら、月島はどこへ行ったか知らんか」
「つきしまさまはあさはやく、わたくしにあいさつに来られました。にんむがおわったら、すぐにもどってきますとおっしゃいました」
「任務か。何の任務か聞いたか?」
「いいえ、ぞんじあげません」
 それもそうだな、と鯉登は思った。口外する訳がない。いま月島が欠かさないのが、鶴見からの連絡の受け取りともうひとつ、留守中の鶴見の自宅の様子を見に訪れることだった。
「行ってみるか」と鯉登は立ち上がった。

4 運命

 病院は託児所ではないから連日預ける訳にもいかず、鯉登は文子を連れて鶴見の自宅へ向かった。手をつないで歩く。すると文子は「おねつがさがりましたね」と笑いかける。そうなのだ、昨日と比べたら、だいぶ下がった。頭も重くない。早くも薬が効いてきたのだろう。しかし体調は戻りつつあっても、どこか寂しいと鯉登は感じていた。このままだと、運命の相手を見失ってしまうのではないか。薬で嗅覚を奪われて、道標を失って。まるで目や耳も塞がれてしまったような、気分に陥っていた。鯉登はぽつりと口走る。
「近くにいるはずなのにな……」
 すると文子が不思議そうに、しばし見つめてこう言った。
「……。おとうさま、だいじょうぶですか?」
 不意に声が割り込んできて、鯉登は我に返った。私は今、何を考えていたんだ。運命の番が現れるのを、待ち望んでいるかのような。指先でこめかみを押さえて息を逃す。
「ああ、これが――」
 本能に支配されるということか。鯉登は愕然とする。どこの誰とも知らない相手に惹かれてしまうのか。月島への想いをきれいに忘れて。自分が変わっていく。それは、確実に月島との別離を意味した。鯉登はとてつもない不安に駆られ、唇を噛む。
 ようやく私の腕の中に、身を委ねてくれるようになったのに。
 鶴見と月島の顛末を見届けた後は、どうなるんだろうかと思った。これから先も、ずっと自分の隣にいてほしいと思った。しかし自分たちの道行きの先にあるのは、別離しか見えない。金塊争奪戦で、死に別れるかもしれない。それを乗り越えたとしても、自分が見合いを断り切れないかもしれない。それから逃れたとしても、転任する可能性が高い。このまま第七師団にしばらくいるとしても、数年後には月島は現役を退く。それに受験資格が満たされたなら、陸大へ進みたいと考えている。共に東京へ行こうだなんて、説得に応じる男とは思えない。そもそも、いち部下である月島を、東京まで連れて行く理由を鯉登は持たない。
 それらすべてを乗り越えるには、どうしたらいいのだろう。
 真剣に考えて出した答えが、家族になることだった。
 アシリパの祖母の住む隣のチセで正座して「内(よすが)になってしまうが……」と鯉登がおずおずと切り出すと、月島は茫然として鯉登を見た。月島のあんな間の抜けた顔は、金輪際ないだろうと思った。それもそうだろう。気持ちが伴っているのかいないのかも判然としないまま関係を持ったばかりで、なぜ突然男に求婚してくるのだ。そう言いたげだった。
 上官と部下で、年が一回り以上も離れていて、同性で。月島の困惑は鯉登にも分かりすぎるくらい分かっていた。だから、一生涯分の覚悟があるのだと、言葉を尽くした。そうして説得しているうちに、本当は月島のことがだいぶ前から好きだったと気づいた。
「色恋の経験に乏しいせいだ、済まん。今気づいた」
 鯉登が素直に告白すると、月島は呆然とした顔から次第に表情が崩れていき、最後にはクスッと笑った。その笑顔がまた見たいと思った。好きだと思った。
 あの決意からたった一ヶ月しか経っていないのに、こんなに簡単に惑わされるのか。人を想う気持ちとは、一体何なのだろう。鯉登は自分自身を嫌悪した。
 鶴見に何年間も騙されていたと吐露した月島の、その絶望や辛酸が鯉登には想像もできない。でも自分が寄り添うことで悲しみが和らぐのなら、そうしたいと決めたのだ。
 そうだ、フェロモンさえ嗅がなければ、これまで通りだ。帰ったら早めに今日の分の薬を飲もう。
 月島への想いを新たにして、鶴見の自宅に到着した。
「月島ぁ!」
 玄関で何度か呼びかけたが、誰も出てこなかった。空振りか。少し待ってみようか、それとも他を当たるか。
――そのまた薬の効能は 本家が対州厳が原 第一は胃を整え――
 通りから歌が聞こえてきて、ふたりは振り返る。その二人組の男は晴れているにも関わらず、こうもり傘をさしている。そして鳥打帽を被り、肩からケープを羽織って着物は尻端折り。四角い鞄を持って歌いながら歩いていた。
「あっ、おとうさま。あれがほしいです」
 文子が彼らを指さす。
「文子。あれは菓子ではないぞ」
「しってます。おくすりでしょう?」 
 彼らは千金丹という薬の行商人だった。
――そのまた薬の効能は 胸腹痛みに酒の酔い 頭痛とめまいに癪つかえ――
「つきしまさまもおかげんがよくないので、おわたししたいです」
「月島も? 体調が良くないのか?」
「ええ、すこしおねつがありました」
「……。そうだったのか、文子は優しいな」
 褒めると文子は嬉しそうにはにかんだ。鯉登は金千丹を買って、文子に手渡した。その際に真正面から文子を見る。眉と鼻は確かに自分とそっくりだ。だが、その他はどうだ?
「なあ、文子は誰に似ていると言われている?」
 すると彼女は押し黙る。「……」
「どうした? 気に障る質問だったか」
「……おとうさまと、おかあさまです」
「母親にも似ているのか」
「はい。おかあさまをぞんじあげる方が、にているとおしえてくださいました」
「そうだったか」
 それから文子の口数がめっきり少なくなったから、鯉登は困ってしまった。さっきの質問がいけなかったのだろうか。五歳児のご機嫌取りの方法が分からないから、一緒に遊ぶことにした。
 兵舎に戻ってメンコを部屋から持ってくる。すると文子は「わたくしはつよいです」と目を輝かせた。気分が持ち直したようで一安心した。
「強いのか」
「おとうさまがいつも手合わせをしてくださいます」
 女児とメンコで遊ぶのか。ますますもって、その父親は自分であるような気がした。玄関前に台を置いてふたりで始める。しばらくすると、近所の子供たちが集まってきた。大人対子供だから、文子の対戦相手として鯉登は相応しくないと思ったのだろう。「自分もやりたい」と申し出る子が出てきた。なので鯉登は彼らに譲って、同年代で遊ぶのを見守った。お昼になると、子供らの祖母や母親がやって来た。握り飯や漬物をもらったから、ありがたく受け取り配った。みんな楽しそうに頬張る姿が、かけがえのない光景だと思った。樺太の旅の光景がよみがえる。自分の隣には戦友がいて、背後には子供たちがいた。護りたいものだと思った日々が、今と重なる。父や兄も同じ気持ちになった経験が、きっとあるのだろう。
 そして鯉登は、彼らを眺めながらこんなことを考えた。もし文子の本当の父親が見つからず、このまま自分に懐いてくれたら、引き取ることは可能だろうか。それなら周囲から結婚をせっつかれることも無くなるだろう。月島に余計な心配をかけずに済む。
 そうだ、月島――。
「月島を探さなければ」
 鯉登は急に立ち上がる。子供たちは驚いてその様子を見た。
 日常とはかけ離れた半日を過ごしたから、鯉登は急に不安に襲われる。今日は非番ではない。鶴見からの定時連絡も入っているだろう。鯉登は兵舎に詰めている兵に、鶴見からの電報は届いてないか確認をした。それから、念のため月島の行方を尋ねる。
「月島軍曹は、午前中一度も戻っておらんのだな?」
「は、私は見ておりません。が、二階堂一等卒が走っている最中に誰かとぶつかり、素っ頓狂な声を上げておりました」
「その相手は?」
「分からなかったそうです」
 ぶつかったのが月島だとしたら、なぜこそこそとしているのだ。鯉登は部屋を見に二階へ上がる。
「月島?」
 部屋の前で呼びかけたが、やはり返事はない。襖を開ける。電報や報告書の類がないかどうか、文机を確かめようと入室した。きれいに折り畳まれた帳面の切れ端があった。鶴見からの言付けが書いてあるのかもしれない。鯉登はそれを拾い上げる。その瞬間、視界がぐるりと一転した。上や下、右や左が分からなくなり、倒れそうになった。
「う……、目眩か……」
 その場にしゃがみ込む。眉間の奥が重たい。手で押さえる。しばし待ってもおさまらず、ついにうずくまる。
 確か発情に伴う症状のひとつに、眩暈がするとも医者が話していた。これもそうだろうか。他の原因があるのか? 数分が経過して、落ち着いた気がして目を開ける。すると吐き気が襲ってきた。「う、ぐっ……」鯉登は耐えた。ここで戻すわけにはいかない。嵐が通り過ぎるのを待つかの如く、じっとそこに留まった。声を出して助けを呼ぼうか。迷っているうちに、さらに数分が経過した。
「鯉登少尉殿、こちらにいらっしゃるのですか?」
 廊下から先ほどの兵の呼ぶ声がしたから、鯉登はその紙をポケットに突っ込んだ。唾を次々と飲み込んで押さえ込み、気合で息を整えて部屋を出た。彼は、表で待っている子供たちが心配していると呼びに来たのだった。
 昨日より体調が思わしくない。文子から聞いた、月島も熱があったのも気にかかる。もしかして、軍病院にいるかもしれない。だから鯉登は文子を連れて、病院へ戻ることにした。



 受付で「月島軍曹は戻って来たか?」と単刀直入に尋ねる。「いいえ、いらっしゃってませんよ」と笑顔で返される。しかし鯉登には確信があった。ここに来る前に月島の部屋で見つけた紙は、文子作の似顔絵だった。ポケットに突っ込んだそれからは、消毒液の臭いがした――しかも、割合きつめの。この病院のものだと思った。長く入院していたから、間違えるはずがない。
 鯉登は「月島を出せ」と食い下がることは止めて、あっさり引き下がった。そして廊下を奥へ歩いて行った。看護婦の詰所に到着する。目当ての人物が、そこにいた。
「あら鯉登さん、今日も通院の日だった? 昨日で終わりだと思ってたわ」
 机について帳面に何かを書きつけていた若い看護婦が、鯉登に親し気に話しかける。
「いや、通院は昨日で終わった。入院中は君にも世話になったな」
 鯉登が看護婦ににっこりと笑いかけると、彼女は筆を置いて近くにやって来た。
「あら、またいつだってお世話するわよ」
「ふふ、その時にはまたよろしく頼む」
 鯉登が彼女の手を取ると、彼女は頬を赤らめて握り返した。
「ところで、私は今日、別用があってな」
「何かしら」
 鯉登はちらりと視線だけ、彼女の背後に向ける。室内には他にも看護婦がいた。「二人きりで話ができるか?」と耳打ちする。



――コンコン。
 扉を叩く音がした。この部屋を訪れることができるのは、ベータかオメガの看護婦のみという規則があると、月島は説明を受けていた。だから看護婦が来たのだろうと、疑いもせずに扉を開けた。
「……あれ?」
誰もいなかった。変だ、と思ったその時。
 低くしゃがんでいる何者かが、月島を突き飛ばして部屋に押し入った。
「なっ……!」
 月島は咄嗟に受け身を取る。そして拳銃を構えようとしたら、手首を叩いて落とされた。侵入者が目の前に立ちふさがった。――月島を見下ろすのは、鯉登だった。
「少尉殿……」
「ほら、影を踏んだぞ。今度はお前が鬼だな」
 鯉登は長靴を脱いで、三和土に放った。
「い……一体なんの話をしているのですか……」
 月島は面倒くさそうな顔をする。鯉登はいつもと変わらない調子で、説明を始めた。
「影踏み鬼だ。兵舎からここに来る途中で、文子が遊びたいと言ってな。私が鬼になったのだ。だから月島を見つけたから影を踏んだ。次はお前が鬼だ」
 鯉登は挑発するように笑う。そんな風に、わざとおどける彼の態度に、月島は次第に腹が立ってきた。ここはオメガの非難場所だ。男性であれば医師ですら立ち入れない。ましてや部外者がやってくるなんて、言語道断だ。
「ここはあなたの来ていい場所ではありません。一体誰が教えたんだ!」
 月島の剣幕に鯉登は怯まなかった。涼しい表情を崩さず、月島の疑問に答える。
「私が入院中にやたらと世話をしたがる看護婦がいてな。お前のいない隙にいつも部屋に来とったから、気づいてなかっただろう」
「え……、口を割ったのですか」
「そうだ。その女に、初めて色目というものを使った。……お前に逢うためとはいえ、自分に反吐が出る」
 吐き捨てるように言う。
「そんなことはどうだっていい。早く出てお行きなさい!」
 月島は恫喝するかのように、凄みを利かせた声で言った。しかし、鯉登には全く効果はない。それどころか、なぜか哀れんだ目で月島を見た。
「月島、私のバース性はアルファだ。昨日の発熱は発情の兆しだと言われた」
「そうでしたか。感染症ではなくて良かったです。それならアルファ用の抑制剤を、ちゃんと飲」
「飲み忘れてなどいない! 今日の分もここに来る前に飲んできた。だからもう効いているはずなのだ。でも効かないのだ……お前にだけは」
「……そんなはずないでしょう。思い込みではないですか?」
 月島は鯉登の発言を、静かに覆す。
「思い込みでこんなに体調が変化するものなのか?」
「さあ? 私はアルファの体調のことは存じ上げません」
「でも、月島も聞いたことがあるだろう? 抑制剤の効かない相手がいることを」
 月島は面倒くさそうに、はあ、と大きくため息をついた。
「運命の番ですか。そんなのは迷信ですよ」
「……私もな、迷信の類であって欲しかった。なあ、月島。夕方から咲き始める白い花を知っているか?」
 唐突に別の話題になって、月島は一瞬戸惑う。
「花ですか? それも存じ上げません」
「昨日から私の周囲で、ずっとその花に似た香りがするのだ。最初はその花を探した。しかし温暖な地方の夏の花なのだ。春に、ましてや北海道でそれは咲かない」
「では、それは一体」
「お前が近寄った際に、強く香った」
 月島は襟元を押さえた。血の気が引いてしまい、気取られないように鯉登から顔を背ける。
「気のせいですよ」
「やはり自分では気付かないのだな。この部屋は、その匂いが充満している」
 もう何も言えなかった。ここにいて誤魔化せるはずがなかった。月島は顔をあげる。すると鯉登は鋭い視線でずっと月島を見ていたようだった。その視線すら熱いように感じ始めた。逸らせることなく交わる。鯉登は一歩近づく。すると月島は一歩後退する。
「さっきから……、私は頭や体が重い。吐き気もする。それなのに、その匂いで肺腑を、体の隅々まで満たしたくてたまらなくなる。こんな気分は、生まれて初めてだ」
 鯉登はまた一歩近づく。息が荒くなっている。額にはわずかに汗が浮かび、苦しげに眉根を寄せている。悲壮とも思える表情をしているから、息が苦しいのかと思った。──いや違う。月島も知っている。あれは、発情したアルファの姿だ。月島は二歩後退する。
「それに、ここに来る前に、一瞬だけ我を忘れた。自分で自分のことが、怖いと思った。無意識に探していたんだ、このフェロモンを発する誰かを。――月島、発情期に入ったのだろう?」
 月島は何と言い訳をしようか、必死に頭を巡らせた。しかし、この話振りではおそらく全て察してここに乗り込んできている。何を言えばいいのか。どうしたら止められるのか。月島は焦る気持ちだけ募っていく。
 それから鯉登はちらりと部屋の奥を見た。そちらには敷きっぱなしの布団があり、敷布の上には鯉登の作ったメンコと手帛があった。
「それだけでは巣作りには足りないだろう? 軍衣だろうが毛布だろうが、言えば何だってくれてやるのに」
 そうして鯉登は上着を脱いで、布団の方へ放った。
「それよりも……」
 鯉登は月島の目の前に仁王立ちした。さらに数歩、前へ踏み出す。月島と胸が合わさるくらいに距離が無くなる。
「や、止めてください!」
 ようやく声が出た。が、それは自分でも情けないくらいに震えていた。月島は体をこわばらせて三歩下がる。背中が壁に当たった。追い詰められてしまった。月島の体に鯉登の腕が回された。体が熱いと思った。
「今すぐ抱きたい」
「駄目です」
「どうしてだ? 子供ができるからか?」
「……」
 月島は理由を言いあぐねる。鯉登はそれを待たずに話を進める。「産んでほしい」
 そう正直に請われて、月島もちゃんと応えなければならないと決心した。
「……私は、身籠るのはもう無理だと言われました」
 鯉登は顔を歪める。月島が顔をそむけると、彼は両肩を掴んで顔を覗き込もうとする。
「何があった? その腹の怪我が原因か?」
「違います」
 月島がきっぱりと否定すると、彼からの質問が途絶えた。過去の一部を吐露して修羅場にしたのは自分なのに、月島は鯉登と目も合わせられない。彼が何も言えないでいるのは、逡巡しているのだろう。こんな場面ですら、自分を尊重してくれる優しさがあるのだ。月島は、だから鯉登を切り捨てることができない。深呼吸をする。できる限り気持ちを落ち着ける。腹をくくって、こう告げた。
「私は数年前に、三回妊娠したことがあります。一回目と二回目は着床後すぐに流れて、三回目は」
「もういい! やめろ!」
 鯉登が叫んで遮った。
「勝手な人だ。知りたがったのはあなたです」
「そ……、そうなのだが、申し訳ない。予想もしていなくて」
 鯉登は激しく混乱しているのだろう。そして時間を置いてから再考して、途方に暮れる姿が目に浮かぶ。過去をすべて受け入れなければ、包容力がないと自分を責めそうな男だ。そして再び自分を嫌いになるのではないか。月島はそんなのは望んでいない。だからこう切り出した。
「私はこういう男なんです。軽蔑してくださって結構です。今日限りで、ただの上官と部下に戻りましょう」

5 諜報

 明治三十年、三月。
 新潟県中頸城郡高田村、高田衛戍(えいじゅ)監獄。
「二百三十號、外へ」
 看守が月島の手首と腰に紐を結わえて、牢獄から出るように指示する。そして「今から東京衛戍監獄へ押送する」と厳しい口調で伝えられた。月島は必要最低限の物──幾ばくかの現金と和露辞書、それとあの子の髪と手紙──を持たされた。軍法会議で決まったのだと告げられたが、どうして東京に移されるのか理由を説明されなかった。
「ロシアへ連れていく」と宣言した鶴見の尽力は叶わず、いよいよ刑の執行かと考えた。
 東京か。今さら望むことなど何もないから、あの子の暮らす側に行けるだけでも、贅沢なことのように思われた。
 憲兵二名に囲われて鉄道を乗り継ぎ、着いた先は九段だった。建物の入り口には憲兵司令部竹平下士官宿舎という看板が掛けられている。
「ここは?」
 月島の疑問に憲兵は何も答えなかった。監獄は澁谷村にあると高田の看守に聞かされたが、間違いだったのか。そのまま入り口付近の建物に通される。そこは面会所のような六畳ほどの広さの部屋だった。
「待っていたぞ」
 懐かしい声がした。いつもの軍服ではなく背広姿だから目を疑ったが、そこにいたのは紛れもなく鶴見篤四郎だった。
「つ、鶴見少尉殿……」
 思いがけなくて月島はたいそう驚き、そして胸がいっぱいになる。『現実はいつも俺を裏切る』と呪いのように思っていたから、鶴見の温情が真実と分かり嬉しかったのだ。少し涙ぐんだところで、別の声がした。
「積もる話もあるだろうが、ひとまず腰かけたまえ。月島基――もとい、赤星くん」
 室内にもう一人いた。
「……あかぼし?」
 私はそのような名前ではありません、と月島は訂正しようとした。月島と目が合うと男は微笑した。恰幅のいい背広姿で年は鶴見より一回り程上に見える、茂福という陸軍中佐だった。実は月島と会うのは二度目で、高田衛戍監獄まで足を延ばしてくれたのだった。それは鶴見から減刑の嘆願をされた際に、露語での会話能力を見極めるために面会したのだった。茂福は佛国、露国の公使館付き武官を歴任後に、哈爾濱(ハルビン)(ハルビン)特務機関に所属していた情報将校で、昨年、参謀本部に戻ってきた人物だ。
 憲兵は月島を縛っていた紐を解いた。そして彼らは持参した書類に、茂福から署名と捺印をもらう。終わると敬礼して退室した。
「ほう、赤星ですか」と鶴見が興味深そうな顔をする。すると茂福は機嫌よく応答する。
「月の次に地球に近い、熒惑(けいこく)から取った」
「なるほど、あれは赤い星ですからね」
 鶴見は納得して顎に手をやる。
「そして鶴見少尉は『しらとり』だ。鶴から白鳥への進化だな」
「ふふ、白鳥ですか。美しい名をもらえて光栄です」
 鶴見は楽し気に笑った。「おまけに二人合わせりゃ紅白だ。日章旗のようで目出度いだろう?」と茂幅も笑う。一体何の話をしているのかと思ったら、それはロシアで名乗る二人の変名であった。鶴見と月島に旅券が渡される。月島の物は赤星という名で発行されていた。
 それともうひとつ、通知書があった。それは月島の刑事罰に関する勅令の記された書面であった。
 一月三十日、英照皇太后の大喪の礼に伴いすべての囚人への減刑が施行されたのだが、月島の場合は特別基準恩赦がなされたのだった。言うまでもなく、ロシアへ諜報員として潜入することが可能だから、という理由だった。鶴見は本当に月島を自由にしたのだ。
 茂福は二人を交互に見て、要件を切り出した。
「早速だが明朝に東京を発ってくれ。新潟までの鉄道とウラジオストク行きの船の切符は手配済みだが、露国に入国してからの行動は、ふたりに任せる。潜入先はペテルブルグだがそこに行く前に、哈爾濱で堺くんと落ち合ってくれ。有坂閣下からも君達に贈り物があるということだぞ」
「ほう、有坂閣下からの。それは楽しみです」
鶴見が満面の笑みになる。
「期待しているぞ。では、よい旅を」
 そうして茂福は短時間で退室した。ふたりきりになると鶴見は「おめでとう。今日から自由の身だ」と慇懃に述べる。が、自分のような人間が出所することは、慶事なのだろうか? 月島はそんな風に戸惑いながらも「鶴見少尉殿のご尽力のお陰です」と口にする。鶴見の眼差しは優しかった。それらの気持ちも察しているのかもしれなかった。
「月島、まずこれに着替えなさい」
 鶴見が、机に置かれた風呂敷包みを指さす。開けてみると洋装の一揃えだった。「裾や首回りなどの大きさは、軍服と同じにしてもらった。合うといいが」と笑う。聞けば鶴見が生地から選び、仕立てたらしい。月島は恐縮したが、獄衣では外にも出られないから、好意に甘えた。鶴見は「少ししたら戻る」と言って、出て行った。しばらく後に戻ってきた。そして月島を見て「似合うな」と目を細める。
「さて、これからわずかだが自由時間がある。浅草へ行こうか」
「浅草ですか?」
「ああ、寄席に行こう」 
「寄席……落語ですか?」
「そうだ。本当なら歌舞伎座へ行きたかったんだがな。生憎、今日は休演だった。月島は落語を見たことあるか?」
「ありません」
 月島は芝居だろうが講談だろうが、一切の演芸を見たことはなかった。「それならちょうどいい」と鶴見は微笑む。
演芸場に着くと、今日の噺家の名前と演目が書いてあった。これから始まる演目は『死神』という話だった。
 内容は、失敗続きの人生だった男が死神に会い、呪文で一儲けする。が、ずるをして、自ら命のろうそくを短くしてしまう話だった。
 これは、俺の話ではないのか。月島の胸は、ほの暗い気持ちに侵されていく。一度その考えに支配されると、男のろうそくの炎が最後どうなるか、聞くに堪えなかった。本当は、鶴見は最初からこれを見せたかったんじゃないだろうか。自分の命の炎を操る鶴見は、死神なのだろうか。
 ほんのわずか、鶴見に対して疑念が生じ始める。それでも月島は、彼を問い詰めるつもりは無かった。
俺の命は、もう自分のものではないのだから。



 その後は再び九段に戻った。先程の宿舎の空き部屋に、宿泊させてもらうとのことだった。寝る前に鶴見は「月島、出発する前にもう一度任務の確認をしよう」と言ってきた。
「はい」
「我々は何の目的があって、ロシアに潜入する?」
「それは、不凍港ほしさに黒海方面へ南下して失敗したロシアが、次に東へ侵略の範囲を広げようとしているから、それを阻止すべく、ロシア国内から撹乱するためです」
「その通りだ。しかしその撹乱は、我々ふたりでは無理だ。協力者が必要だ。それがロシア国内で不満を持つ人々だ。彼ら反露活動家は、ロマノフ家による専制政治に一矢報いたいと思っている。そして、我が国もロシアの侵略を食い止めたい。利害が一致する。では彼らの同志になるために、どうすればいいと思う?」
 月島はしばし考えて、諜報活動での一般的な印象を口にした。「……上手な嘘をつき、彼らに取り入ることでしょうか?」
 すると鶴見は人差し指を顔の前に立て、チッチッと口を鳴らした。違うらしい。そしてこう続けた。
「月島、それはな──、愛だ」
「あ、愛ですか? なぜ」
 予想とは全く違って月島は戸惑う。鶴見はこう解説した。
 ロシアで自分たちが接触を試みる反露活動家には、活動資金や武器が必要だ。だからといって、彼らの鼻先に人参をぶら下げるような態度で話を持ちかけても、まともに取り合ってくれないと言う。たとえ利害が一致していても、自分を利用しようとする者の言葉は響かないものだ。鶴見は真剣な眼差しをする。
「それに彼らの場合、決して国を嫌っているのではない。逆に良くしたいと思っている。愛する家族の暮らす祖国のために、自分の命すら顧みず立ち上がろうとしている。その気持ちを理解しないといけないのだよ」
 貴族や地主から搾取されている農奴は、奴隷に近い農民だと聞いている。制度を変えたいと願うのは、至極当然だと月島は思った。しかし懸念が二つあった。その一つ目の疑問を、鶴見に問う。
「では、私も祖国のためにロシア国内を攪乱しにやって来たのだと、どうやって彼らに示せばいいのでしょうか?」
「それはな、自分の国の歴史や文化を熟知しておくことだ。祖国のことも知らない人間の発言は、愛はおろか信用に足りないと判断される」
 月島は答えを聞いて、自信が無くなりそうになる。
「……そうなのですか。私は小学校へも通っておりませんので、知らないことばかりだと思います」
「だから今日は文化に触れておこうと思ってな、歌舞伎など鑑賞しようと考えたのだ。まあ、落語に変更したが」
「そうだったのですか」
「他には……、そうだな。神社とお寺がなぜあるのか──神道と仏教はなぜ共存しているのかと聞かれたら、どう答える?」
 神社の境内やお寺のお堂は、子供時代の月島の避難場所であった。温かい日や天気の良い日は海岸へ行ったが、雨の日や寒い日はそれらの場所に身を寄せていた。その認識しかなかったから、素直に「分かりません」と言う。鶴見は「新潟からウラジオストクに到着するまで、四十時間かかる。船に乗っている間にたっぷりと話をしよう」と微笑んだ。
「はい、よろしくお願いします」
「それから、ウラジオストク港に着いたなら、日本語はふたりきりでも一切禁止だ。名前も赤星に白鳥だ」
「承知いたしました」
「敬礼は厳禁だぞ。それと、髪を少し伸ばしてみないか」
「私の髪ですか?」
「ああ、坊主にはあまり良い印象を持たれない。筋の悪い外国人労働者だと思われる。我々があちらで始める商売は、貴族が対象だ。それより、ロシアはとても寒い」
 鶴見は屈託なく笑った。月島もつられて笑った。だから月島は、もう一つの懸念を口にできなかった。
 反露活動家に本気で同情して支援していたら、自分もそこから抜けられないのではないか。一体どうやって、本来の自分に戻ればいいのだろう。



 新潟とウラジオストクを結ぶ航路の船が、就航したばかりということだった。ウラジオストクはロシアへ移民する日本人が一番多い町だから、比較的目立たないから道程として選ばれたということだった。そうしておよそ二日後に、ロシアのウラジオストク港に到着した。ウラジオストクはロシアで唯一の不凍港と呼ばれているが、真冬には凍る。寒さは新潟の比ではない、と月島は思った。しかも日没がずいぶん遅い時刻だから、とても不思議な感覚だった。
 軍港だから造船所があり、軍艦も見えた。海軍兵ならば監視をしたい場所だろうと思った。それらの周辺の海の氷は粉砕してあった。港と東清鉄道のウラジオストク駅は隣接しており、すぐに鉄道に乗るのかと思った。
「少し寄り道するよ」
 鶴見が露語で話しかけるから、月島は緊張した。駅を離れ、花屋で花束を買った。誰かに贈るのか、それとも……。
 着いた先は民家でも墓地でもなかった。林を抜けた先にある丘。民家は見えるが離れた所に点在するだけ。そんな何もない場所に、鶴見は花を手向けた。



 ウラジオストク駅に戻り、鉄道に乗った。行き先は哈爾濱だ。そこで荷物を受け取る手筈だ。丸一日かかる距離だと言う。予約した座席は二等車で、対面式の座席がそのまま寝台になる仕様だった。上下二段のそれが通路を挟んで左右向かい合わせになっている。寝る時は窓掛(カーテン)を閉じる。簡易的な個室になるのだと月島は理解した。別の車両には食堂車もあった。月島は寝台列車を初めて見たから、とても興味深かった。しかし乗車中は向かい側に他人が二人乗っている。だから鶴見とは世間話しかすることができなかった。哈爾賓で待つ堺という人物は、一体何者なのだろうか。やはり陸軍に所属しているのだろうか。
 翌日、哈爾濱駅に到着した。目的の場所まで歩いて向かう。
 月島はこの街の風景に大層驚いた。ロシア風の建物がそこかしこに建っていたからだ。人口も想像以上に多く、約半数がロシア人に見えた。月島は困惑して「白鳥さん、ここは満州だと私は思っていたのですが」と念を押す。満州で暮らしているのは、主に漢人やツングース人、満州人だと思っていたからだ。
「昨年からかな、急にロシア人が多くなったようだ。今や清国と満州は列強の草刈り場だ」
 鶴見は厳しい表情で言う。それは日清戦争後の三国干渉を主導したロシアが、事実上の軍事・行政権を獲得したからだと語る。「遼東半島がすべてロシアの支配下になるのも、時間の問題だと思う」
 昨年、収監されている月島に面会した鶴見が語った「ロシアと戦争になる」は、これと繋がっているのだろうと思った。ふたりの所属していた歩兵第十六聯隊は、日清戦争では遼東半島へ出征していた。あの辺りもすべてロシアのものになるのか。月島はありありとその様子を思い出し、苦い気持ちになった。
 駅から五分ほど歩くと、食べ物をずらりと並べた商店が増えてきた。野菜や果物が台に乗せてあったり、地べたの敷物に並べられている。鶏は足を繋がれていた。どうやら市場らしい。肉を焼いて売っているのか、様々に混じった独特の臭いがする。鶴見は市場の中へ足を進める。月島もついて行く。人が多いから時々ぶつかりながら前へ進む。こちらでは、基本的に避けたりしないようだと思った。しかし本当にこんな雑然とした場所で待ち合わせしているのか。
 月島が「白鳥さん、本当にこっちなのですか?」と声をかけると、振り返り「うーん、間違ってないはずだが、自信が無くなってきたな」と苦笑いする。紙に記せないから、約束の場所は鶴見の頭の中に入っているのだろう。人混みを掻き分けて進むうちに、鶴見の背中が見えなくなった。
しまった! 人を押し退け、小走りになろうとした、その時だった。 
 どしん、と月島の背中に何かがぶつかってきた。危うく倒れそうになったが踏ん張った。そして足元に、ぶつかった張本人が倒れている。「痛〜」バサバサと羽ばたかせた後、二羽の鶏が人の足元をすり抜けていった。どうやら倒れた男が両脇に抱えていたらしい。体に羽が付いていた。男は起き上がり鶏を追いかけようとしたが、捕まえられなかった。月島は呆気にとられてその様子を見ていた。すると今度は男が月島の方へ走ってきた。
「雞還給我!」
「……え?」
 何と訴えているのか分からない。だけど険しい顔をして大きな声で捲し立てているから、男が怒っているのは分かった。だが逃がしてしまったのを怒っているなら筋違いだ。何事か言い返そうとした。しかし何語で?
 すると、どしんと再び衝撃があった。「うわっ」倒れそうになる瞬間に、鞄をひったくられた。
「くそっ!」
 月島はすぐに追おうとした。旅券や財布は身につけているから直ちに困らないが、それでも着替えや辞書がないのは困る。そこへ目の前を誰かがすごい速さで駆け抜ける。角刈りの大男だ。彼はここに慣れているのか、人垣を器用に掻き分けて進んで行く。月島も後を追う。大男は間もなく泥棒に追いついた。服を掴む。速度が落ちたところで泥棒の足を払う。倒れたところ腕を背中側に捻りあげ、組み伏せる。泥棒は何事かわめいており、表情から悔しいのが伝わった。
 月島は追いつき礼を言おうと思った。が、何語で? 口を開きかけて迷っていると、大男から話しかけてきた。
「最初、君にぶつかった男は『鶏を返せ』って広東語でわめいてました。おそらくこいつと仲間でしょう」
 日本語だった。月島は不思議に思いながら鞄を受け取る。その中身が無事だと分かると、大男は月島に尋ねる。
「警察に突き出しますか? たぶんあっちに露助の警察がいると思うが」
 警察官もロシア人なのか。月島が決めかねていると、大男は「今回は見逃してやるよ」と泥棒から手を離した。泥棒は何か捨て台詞をわめいて走って消えた。
「ありがとうございました」と頭を下げる。
「礼には及びません。鶏もおそらく盗品です。この辺じゃよくある手口です。それに、俺の到着が遅くなって申し訳なかったです」
「え、ひょっとして貴方が」
「堺といいます。満洲へようこそ」
 ニッコリと笑顔になって、手を差し出す。そして握手の後に、堺は「おーい」と手を上げ遠くに呼びかけた。その方向に、鶴見がいた。



 こちらです、と堺は率先してどんどん歩いて行く。市場を抜けて五分ほど歩き、とある商店に入る。看板は日本語で書かれている。味噌蔵だった。
「親父、邪魔するぜ」
 堺が店番をしている男に一声かける。親しいらしい。鶴見が会釈をするので、月島も真似た。味噌の入った樽がいくつも並んでおり、特有のしっとりした空気に包まれた。哈爾賓もだいぶ寒い都市だが内陸に位置しているせいか、雪が降らない。だから砂埃や乾いた馬糞が舞っている。そんな外の寒風とは別の世界だ。
 商店の奥にある部屋に入る。広い卓子(テーブル)と椅子があり、食事にも会合にも利用できそうな部屋だ。壁には茶器の並ぶ棚や様々な本が並べられた書棚がある。そして神棚や破魔矢があるのを見て、月島はどこかほっとする自分に気づいた。堺は「どうぞ適当に腰掛けてください」と言い置き、さらに奥の扉へ消える。そしてすぐに戻って来た。手には鞄があった。
「これがあなた達の商材です」
 鞄を開けると艶やかな絹織物が並んでいた。ただそれは帯や着物にするのではなく、卓子や洋琴(ピアノ)(ピアノ)や布団に掛けて使うように、すでに加工されたものだと言う。鶴見はそれを手に取り、じっくりと眺めて「美しい」と呟いた。月島には絹の質や柄のことは分からないが、洋の東西を問わず、惹きつけられる人がいるのだろうと思った。
 日本人がロシアに移住する場合、荒物屋を始める者が統計上一番多という。だから鶴見と月島は、ペテルブルクで絹織物の高級小間物屋をする手筈が整っているようだった。それらを堺が仕入れて配達してくれるのだと言う。
「赤星には紹介がまだだったな。彼は配送会社を営んでいる、我々の仲間だ」と鶴見が説明する。すると堺が「改めて、よろしくお願いします」と笑う。「十年ほど前に、こちらに渡って来ました」と言った。それに鶴見がこう付け加えた。
「堺くんは民間人として帝国陸軍に協力をしてくれているんだよ。北京語や満州語やロシア語が堪能で、満蒙だけでなく上海の共同租界でも顔が知られている」
「そうなのですか」と月島は驚く。すると堺は謙遜する。
「大したことはないのですよ。うちで働いているのは、俺みたいに脛に傷持つ者だったり、日本で食い詰めた奴らの集まりです。一般的に我々は大陸浪人と呼ばれます」
 月島は軍属以外の協力者がいることを、初めて知った。さらに堺は、茂福が語った例の贈り物の話もした。
「有坂閣下とご友人の長井博士からの品物なのですが、露国入り後に仲間から受け取ってください」
鶴見が応える。「承知いたしました。贈り物が二つもあるとは、嬉しいことです」
「少々回りくどいですが、ロシア入国の際の検査は、用心するに越したことはありません」
なんでも、ロシアから満州入りする際は手荷物検査はないが、逆に、満州からロシアへ入国するには税関検査を受けなければならない、と堺は言う。
「国境を越えた次の駅で、仲間を待機させます。台車交換作業もあるから、時間はたっぷりあります」
 彼はそう言って笑った。そして堺から、絹織物の入った鞄を受け取り、ふたりは味噌蔵を出た。



 哈爾賓駅からペテルブルクまでは一等車で移動することとなった。二人部屋の個室である。鶴見が言うには、列車内ではスリがとても多いから、乗車する二週間ずっと緊張し続けるのは大変なので一等車にした、とのことだった。
 満州里駅を過ぎると再び国境だ。その駅で手荷物検査を受けた。そして次のマツェフスカヤ駅で台車交換が始まった。満州とロシアでは線路の幅が違うから、必要な作業だ。数時間かかるというので、鶴見と月島は乗降場の売店で買い物をした。雑誌や地図を手にする。干した山査子の実がおいしそうだった。肉と野菜を交互に串刺しにして焼いたものが売られていたので、買って乗降場で食べようとしていた。そこに寄ってきた東アジア系の男がいた。スリかと思い警戒すると「それおいしそうだね。これと交換しない?」とニコニコとロシア語で言う。背負った風呂敷包みから取り出したのは、なんと国語辞典だった。男がそれを開くと、くり抜いた紙の穴に拳銃があった。有坂からの贈り物だった。別の辞典には紙で包まれた白い粉が入っていた。鶴見は串焼きを男に渡して辞典をもらう。
「ありがとう。良い旅を」
「ああ、そちらも良い旅を」
 交換が終わり再び乗車する。ここからいよいよシベリア鉄道だ。それから先は、月島は車窓から景色をひたすら眺めて過ごした。地平線までずっと続く平原や、世界中で一番深いというバイカル湖。そこは広大な湖で、最初海だと思った。さらに驚愕するのは、湖面に線路が通っていること。聞けば湖の凍る冬季だけの路線だと言う。氷が解けたら船で渡るそうだ。迂回路線はまだ工事中だった。
 食堂車で振舞われる食事も、初めて口にするものばかりだった。肉や野菜を煮込んだ汁物が多い。そして一日に二度は酒が出てきて、それ以上に露西亜茶(ロシアチャイ)が頻繁に飲まれている。
 見るもの聞くものどれも新鮮で、自分が赤ん坊のように感じた。これが旅行というものか。心配する事が何もなく、なんて自分に似つかわしくないんだろうと月島は思った。平穏な日々だった。
 そうして約二週間後に、モスコーフスキー駅に到着した。



 駅舎とは思えない建物だった。高い天井には絵画があり、王冠のような形の豪奢な照明器具が吊り下げられている。その近くの壁や柱には、きれいな模様が彫られている。ここは美術品の展示室ではないのか。月島は驚愕する。確か王宮の一角が展示室だと聞いたが、聞き間違いだったのだろうか。
 駅舎から踏み出す。そこに広がる風景にも月島は驚いた。道路が土ではないのだ。同じ大きさの石が几帳面に敷き詰められており、ずっと先までも道が平らだ。これなら雪解け水で濡れたとしても、靴や裾が泥まみれにならないだろう。
 鶴見もため息混じりに「見事な石道だな」とつぶやく。
「ええ、すごいです」
「一国の文明は道路で分かると言われるくらいだ。我が国は東京ですら舗装した道路がない。やはりロシアは、比較にならないくらいの大国だな」
 国力の差を見せつけられて、鶴見は残念がっているのかと思ったら、そうではなかった。月島が見た彼の横顔は、何かがみなぎる表情をしていた。
 ここから馬車鉄道に乗る。月島と鶴見の住居は、大通りから一本入った小さな庭のある家だった。店を構えて商売をするなら、大通りに面している場所がいいのだろう。が、二人の場合は、客先へ訪問して売るつもりだ。というより本業はスパイだから、目立つ場所に住むのは都合が悪い。
 雪が積もる庭先を横目に、玄関扉を開けた。とても乾いた空気がそこに佇んでいた。海外の家は土足なのかと思っていたら、ロシアは日本と同様に靴を脱ぐ習慣なのだった。少し親近感がわく。しかし上がり框がなく、どこで靴を脱ぐのか判然としない。「上履きが必要だな」と鶴見が言う。
 戸棚や寝台、下駄箱等の大型家具は、前の住人が残していった物をそのまま使うことにした。それから鶴見は「ペチカの薪は、知り合いに運んでもらうことになっているんだ」と説明する。
「ロシア人ですか?」
「いいや、英国人……だったはずだ」
「え?」と月島が唖然とする。素性の分からない知り合いだなんて、鶴見らしくないと思った。
「詳しいことは、後ほど。彼が来るまでに他の雑貨を揃えよう」
 百貨店に行くことになった。再び馬車鉄道で移動する。ここも駅舎に輪をかけて豪華な建物となっていた。そして取り扱う商品は、貴族が対象だ。果たして自分が足を運んでいいものか。何となく気後れがする。
 そこで寝具と調理器具等の日用品を購入し、夕方までに配送してもらうように手配した。それから付近を鶴見に案内してもらった。王宮の先に、センナヤ広場という一角があった。月島もその地域には覚えがあった。ドフトエフスキーの小説の舞台になった場所で、いわゆる貧民街だ。住居だけでなく商店も点在している。日用品店や煙草屋がある。その店先にある煙草を見てみると、異様に長いことに気づく。
「白鳥さん、ロシアの煙草はなぜこんなに長いのでしょうか?」
「冬の間は外套を立て襟にするから、焦げないように長くしたと聞いたな。でも本当の理由は、襟じゃなくて髭を焦がさないためじゃないかな?」
 鶴見は笑みを浮かべる。月島は答えを聞き納得する。ロシア人は皆、たっぷりとした髭をたくわえている。月島はしばし考えて「私も髭を伸ばした方がいいでしょうか?」と提案してみた。すると鶴見は「赤星は伸ばす必要はないのじゃないかな?」と返した。
 どうしてだろう? 俺にはまだ威厳が伴ってないからだろうか?
 月島が首を捻ると「赤星は髭がまばらにしか生えんだろう?」と答えた。確かに月島は髭を伸ばそうにもなかなか伸びないし、隙間ができる。それはオメガ男性の特徴なのだと、徴兵検査時に知らされた。自分のバース性がオメガだと判明して抑制剤を打つようになってからは、人並みに生えそろうようになった。どうやらそれは、薬の副作用らしかった。筋肉も増強するのだと医師に教わった。
 広場の外れに人が二人立っているのが見えた。祖父と孫のようだった。二人は逆さまにした帽子を手に持っている。物乞いらしい。黙って通り過ぎようとした。その時、月島は二人が裸足だと気づいた。路面にはまだ雪が残っているのに。
 自らの子供時代を重ねてしまった。下駄はあったが、着る物は最低限しか家になかった。冬の間は、いつも凍える思いをしていた。
 月島は懐に手をやる。自分の財布の中身は、陸軍省から配分された諜報活動のための予算だ。つまり税金だ。一銭も無駄にはできない。だけど、彼らには少しでも暖かい生活をして欲しいと思った。
 月島が鶴見を見ると、目が合った。彼は無言でうなずいた。
「……ありがとうございます」
 月島は鶴見に礼を言って、二人の持つ帽子にコインを投じた。



 家に戻ると、門扉で男と馬車が待っていた。鶴見より少し長身の中肉中背。黒い短髪に彫刻のような堀の深い顔つきに茶色の瞳、立派な顎髭ともみあげが繋がる背広姿の白人だ。目が合うと嬉しそうな顔で手を上げる。
「ハーイ、ハセガワ!」
それを聞き、月島が「長谷川?」と訝しむ。すると鶴見は、人差し指を一本口の前に立てて「シー」という身振りをした。この黙っていて欲しい時にする身振りは、万国共通のものなのか。月島は初めて知った。というより、鶴見には長谷川という名前があるのか。自分の知らない鶴見の一面に、初めて生で触れた。
 鶴見は鍵を開けて男を招き入れた。そして「ミハイル、久しいな」と言って、ふたりは軽く肩を抱き合う。「まだ家に何も無い。済まんな」と彼に謝る。飲食物は後で買うことにしたので、露西亜茶も無い。そして買って来たばかりの上履きを勧めた。
「気にすることはないさ。僕はお茶を飲みに来たんじゃない。薪を早く届けたかったんだ」
 馬に引かせた荷台には、薪がたくさん乗っていた。鶴見は月島に向き直る。
「赤星、紹介しよう。彼の名はミハイル・ヤップ。建築用木材の貿易商をしている英国人だ。私が以前ロシアにいる時にも世話になった。頼りになる人物だ」
「初めまして、赤星と申します。よろしくお願いします」
 貿易商か。しかし自分たち同様、本業じゃないだろう。この男の正体が不明なので、月島は挨拶だけ口にした。それに、予期せず鶴見の過去が知れた。やはりロシアに駐在していた経験があるのか。いつ頃、どんな任務に携わっていたのだろうか。興味が湧いたが諜報内容を吹聴するような間抜けではない。だから月島は、好奇心に蓋をした。
 次に鶴見はミハイルに話しかける。
「そうそう、今の私の名前は白鳥だ。長谷川という名は忘れてくれ」
「シラトリか、分かったよ。日本語でどんな意味なんだい?」
「スワンさ、バレエのあの鳥だ」
「へえ、スワン! ホワイトとブラックのあれか。君の名にぴったりだな」と笑った。
「おや、それは褒められているのかな?」と鶴見も笑う。
それからミハイルが「そういえばハルビンという都市名は、白鳥という意味だったな。名付け親はハルビン出身かい?」と尋ねる。その洞察力に、ふたりは驚いてしまった。
「さすがだな、ミハイル。赤星、実は彼は英国秘密情報部の諜報員なのだよ」
「えっ、そうなのですか!」
 やはりこの男もスパイだったか、と納得した。しかし、どうして英国と連携しているのかが分からない。するとミハイルが解説してくれた。
 英国はロシアとの覇権争いを制するため、日本はロシアの侵略を食い止めるために利害が一致している。よって近いうちに同盟を結ぶ可能性が高まっている。そのための政府間交渉の最中なのだという。
「同盟が結ばれると鑑みて、僕たちはこれからロシア国内で緊密に連携していく仲間だ。よろしくな」
 ミハイルが右手を差し出す。二人は彼と握手を交わした。それから三人で荷台から薪を下ろした。作業が終わるとミハイルは帰った。それから鶴見が彼の来歴をかいつまんで教えてくれた。
 彼はいわゆるエリートではなかった。ウクライナ出身で、研究者の私生児として生まれた。親類の家に養子として預けられ、学生時代に革命運動をして逮捕されている。それで養父に迷惑がかかると家を出た。その後に南米、英国と居を移し渡り歩いた。ドックやプランテーション建設に携わった経験から、今の偽装会社を興している。
 叩き上げだから、月島とは気が合うのじゃないかと鶴見は言う。確かにエリート街道を歩んできた軍人ではない。が、それにしても叩き上げの度合いが自分とは違いすぎると月島は思った。日本が鎖国していた間も、弱肉強食の厳しさに苛まれてきた国の強さを見た気がした。
 それから、この家の設えのことも話をした。卓子と椅子はミハイルに明日持ってきてもらう手筈が整っているとのことだった。なんでも、彼の会社が客先から不用品として回収し、倉庫に保管している家具があるのだそうだ。それから、ひとつ工事をお願いしていると付け足す。彼の会社は建築資材を卸すだけではなく、大工や工夫とも関わりがある。だから工事も請け負うのだ。鶴見は台所の方角を指さす。
「台所の食品庫の床下に、隠し収納を作ってもらう」
「隠し収納、ですか」
「ああ、有坂閣下からもらった銃や弾薬、長井博士作の痺れ薬に阿片、それと革命派のアジトや構成員の資料などを、保管する場所だ」
 それらは万が一、当局が乗り込んできたとしても、絶対に見つかってはいけない物だった。



 翌日、鶴見と月島は日本国公使館へ出向いた。表向きは『移住後の悩み相談』で、本当の目的は『駐在員と付き合いのある貴族──国家評議会議員やロシア正教会の神品・教衆と知り合いになるため』であった。表の商売をしつつ、彼らの自宅や警備状況などの情報を入手する。そしてそれらの情報を、反露活動家へ売る。王朝や教会の弱体化は、革命への第一歩だ。それが鶴見と月島の真の目的だった。
 翌日、予定通り公使館へ出向く。「移住したばかりで困っているのですが」と、鶴見は職員に困った顔を向けた。彼の話術は巧みで、悩み相談がいつの間にか品物の営業に様変わりしていた。「そんなに良い織物なら一度見てみたいものだな」と職員に言わしめた。
 後日、商品を持参して公使館を訪れた。そうして鶴見は敷物を売ったのである。「友人も見てみたいと言うので、今度彼のお屋敷へ来てくれないか」と言われた。何もかも目論見通りである。月島は感心してしまった。この人は何でもできる。そしてふと思った。なぜ、軍人になったのだろう。



 外交官の奥方の友人から友人への紹介で、鶴見は販路を広げていった。客は外務官僚や貴族団、地方議員や大土地所有者に銀行員である。話が弾み、鶴見が実は洋琴が弾けると知ると、演奏会を開こうという計画が持ち上がる。鶴見は遠慮しながらも、必ず参加した。その催しの間に、月島は別の任務を遂行した。
 それは『屋敷の間取り調査と、家族関係や使用人の把握』であった。つまりは内偵調査だ。それを鶴見が商品説明や演奏をしている間に、月島がこっそり調べるのである。屋敷を一人でうろうろしていて使用人に見つかったとしても、月島の場合は『商人の子供が迷子になった』と毎度都合のいい誤解をしてくれた。東洋人は顔の造作が地味だから、年齢より若く見られるとは聞いていた。それに加えて月島は日本人の中でも背が小さい。だからロシア人からしたら、十代前半に見えるようだった。この時に「髭は伸ばさない方がいい」と言った鶴見の真意が分かった。
 初めは日本国公使館で潜入を試みたのだった。外交官らは特に警戒する素振りもなかった。だから月島は、簡単に他の部屋へ侵入することができた。ただ、鍵を針金でこじ開けるのに苦労した。だからその夜は鶴見に鍵穴の仕組みについて教わった。
「強盗みたいだと思っただろう?」
「……はい」
「良心が咎めるかね?」
「いいえ」
 月島はきっぱりと答えた。実は「こんなことをしていいのか」という迷いは、わずかながら生じた。でも、実の親を殺害した自分が良心の呵責に苛まれるなんて、何の冗談だろうと他人なら思うだろう。
「スパイだとばれて捕らえられ、拷問を受けたり処刑されたとしても、後悔はしないかね?」
「いいえ」
 月島は諜報活動の意義を理解しているつもりだ。哈爾濱の姿はすなわち、明日の北海道や佐渡や対馬となるかもしれない。あの子と過ごした島の浜辺が、やがてあの子の住む東京までも、ロシア人によって蹂躙されると考えたら。だから命を賭ける理由には、十分だと思った。
 月島はふと思う。鶴見も同じ想いなのだろうか。そういえば、彼の家族の話は聞いたことがない。でも、戦友にも心を砕くお人だ。きっと鶴見少尉にも、大事な人がいるのだろう。



 瞬く間に半年が過ぎた。ふたりは今日、プスコフ県知事宅で商いをしてきたのだった。帰宅後に月島がお茶を淹れる。ジャムを用意してロシア風に紅茶を淹れるのにも、だんだん慣れてきた。
「赤星、うまく行ったようだな?」
 一息ついたところで、鶴見が月島に話を促した。「実は使用人に見つかったのですが、迷子だと思われてお咎めなしでした」
 そう報告すると、鶴見はフフフと一層楽し気な顔をして、月島の頭を子供にするように撫でるのだった。
 そうして入手した貴族らの情報を、ミハイルに売った。ミハイルはというと、自分の会社で受注した顧客の情報を、鶴見と月島に売るのだった。裕福な家は修復に改築に新築、造園作業も多い。そして時には、公共工事にも携わると言う。ミハイルの会社が道路や鉄道工事の日雇い人夫を募集すると、その中に活動家が紛れることがある。活動家でなくても、ロマノフ朝への不満を燻ぶらせている元農奴が多い。それらの人々に、月島が線路爆破や要人暗殺の計画を持ちかけたのだった。月島は彼らを説得するのに、まずセンナヤ広場の老人と孫の話をした。彼らの境遇と自分が似ているから放っておけない、この国を変えたいと打ち明けると、真剣に耳を傾けてくれるのだ。でもこれはテロ工作というより、月島の本心に近いと感じていた。事実、あの老人と孫が路上に立っているのを見かけた際には、月島は寄付を続けていた。暗殺は容易には実現しないが、道路や線路の破壊工作はうまくいった。それはロシア軍の補給路を断つという狙いがあった。
 日清戦争では遼東半島の補給線が間延びして、帝国陸軍は食料・医薬品・弾薬不足に苦労した部隊があった。その反省を活かして、講和後は鉄道の敷設に力を入れた。だから、シベリア鉄道の全線開通は何としても遅らせたかった。



 最初の一年が過ぎた頃。
 月寒特務機関にて報告や計画の練り直しがなされるので、いったん帰国すると鶴見が言った。監獄を出所後の月島の所属は、鶴見と同じ第七師団となっていた。だから帰国中は札幌と旭川で過ごした。月島はその際に軍病院で抑制剤の注射も打った。鶴見は短い滞在中であっても、単独行動をしていた。何をしにどこへ行ったのか、詳しい話は聞かなかった。というより、聞いてはならないと思っていた。
 いつからだろうか? 鶴見に配慮して事の子細を聞かなかったり、いちいち鶴見にお伺いを立てず、先んじて行動しなければ、と考えるようになったのは。
 ロシアに戻ると、また一年目と同じ日々が繰り返された。そして昨年同様、三月に帰国して月寒で報告をした。そしてこの年は八月にも鶴見のみ帰国した。何をしてきたのか月島は聞かなかった。
 ロシア駐在三年目の春。ふたりの家にやって来たミハイルが、ココツェフという大蔵大臣の話をし始めた。「実はトロイの木馬なのか、はたまた皇帝側なのか、真意が分からないのさ」と言って悩んでいる。というのも、ココツェフの先祖はロスチャイルド家だと言う。
 その昔、ロマノフ家にロスチャイルド家の娘が数人嫁いだことがあり、子孫がいるから今でも親類であるのだが、今ロシア帝国はユダヤ人迫害に舵を切っている。それなのに、ユダヤ系であるココツェフに国家の金庫番を任せているのはどういう意味があるのか。
「シラトリ、この人事をどう見る?」
「うーん、今のところ、緊縮財政でもないしな。もっとシベリア鉄道の工事の予算を削ってくれるとありがたいのだが」
 鶴見はそう言って苦笑いした。
「自宅の所在は判明してるんだ。だから外壁を日雇い人夫に爆破させて、うちが補修工事を請け負う計画を立てたんだ。けれど、かなり警戒心が強くて、爆弾を仕掛けることもできない」
「そうか……」
「そこで、だ。アカボシをちょっと貸してくれないか」
「うん? 何をさせる気だ?」と鶴見がやや警戒する。
「ココツェフの秘書官の一人と知り合いになってほしい」
「ふむ。その計画の詳細を聞かせてくれないか」
 その秘書官は、海軍省の近くにある珈琲店に頻繁に立ち寄る。その店はお茶やおしゃべりを楽しむ店ではない。巴里式で、普段は男性のみが入店でき、玉突きや歌留多をして酒を酌み交わし、まつりごとの話や狩猟の約束をする、上流階級の社交場であった。その店が今、下働きを募集しているという。
「だからアカボシは、そこで働いてほしいんだ」とミハイルが言う。
「でも下働きとは言え、東洋人を雇ってくれるんでしょうか?」と月島が疑問を投げかける。
「その点は大丈夫だ。僕もたまにその店に顔を出すんだが、店主は日本人に偏見はないようだ」
「どうしてだい?」と鶴見も不思議に感じて尋ねた。ミハイルはこう説明した。
 店主は珈琲店を始める前に、ガラフという外務省の事務補佐をしていた。数年前に日本からの使節団がやって来た際に、彼は世話人を務めた。すると、未開の地からやって来た蛮族だと思った使節団は、みんな文字の読み書き算術ができるし、宿泊先の部屋を汚すことなく帰途についた。それに大層驚いた、とミハイルにも話して聞かせたことがあったそうだ。
 プッと鶴見は噴き出す。「未開の地、ね」そして月島に「ぜひ彼に協力しようじゃないか」と言った。



 翌日「働かせてください」と月島が珈琲店を訪れた。店主からジロジロと頭のてっぺんからつま先まで観察される。「まず一ヶ月だな」と一言、ぶっきら棒に答えた。どうやら採用されたようだった。さっそく翌日から月島はその店で働いた。店は正午に開店して午後三時に店を閉め、夕方六時に再び開店する。なので月島は昼前に店の掃除を始めて酒瓶を運び、開店中は食器洗いをする。夕方は自宅に戻り、また夜にやってきて食器洗いをする。そして午後十時の閉店後に掃除をして、帰宅する生活となった。
 一ヶ月が過ぎた。店主から「もう来なくていいぞ」と言われなかったので、引き続き珈琲店で働いた。
 件の秘書官が来店したら、月島はカップを下げに率先して行くようにした。まずは顔を覚えてもらい、それから他愛もない内容でも声をかける。給仕係は他にいたので、月島にできるのは、今はそれが精一杯だ。
 珈琲店の仕事を終えて、月島が家に戻るのは夜十一時だ。四月になり昼間は寒さが緩みつつあったが、深夜はまだまだ寒い。この日も氷点下まで下がっていた。そのうえ強い風が吹き荒れて、体感温度はさらに十度低かった。
「ただいま戻りました」
 月島はかじかんだ手を擦り合わせながら居間に入る。鶴見は起きて本を読んでいた。少し火にあたって体を温め、そして風呂へ行き浴槽に湯を貯める。小さいながらもそれがあって、本当に良かったと思う。風呂からあがると、鶴見はペチカの上に寝ていた。布団を囲う窓掛は開いていたから、月島に気付いた。「今晩は氷点下だ。ここで寝なさい」と鶴見が言う。ペチカの横幅は、布団一枚半ほどある。だから二人でも眠れる広さはある。でも遠慮が出てしまい「ペチカの上で寝るのは、交代にしましょう」と駐在の初め頃に決めてしまったのだ。今晩その場所は、鶴見の寝る日だった。
「赤星、少し話たいことがある。こちらに来なさい」
「……はい」
 月島はペチカの上に乗り、布団に潜る。下からじわじわと温められて、すぐに思考がぼんやりとしてくる。
「毎日遅い時間まで、よくやってくれているな。本当に偉いぞ、赤星」
「いいえ、昼間の仕事になかなか同行できなくなってしまい、申し訳ありません」
「それに関しては、気に病むことはない。近頃は、新規の顧客はそんなに増えていない」
「そうでしたか」
「我々がこちらに来て、丸二年経つからな」
「ええ」
 庭にある西洋肝木の細枝が、風に煽られざわざわと音を立てている。春一番のような、それとも潮騒のようなざわめく音に、故郷の潮騒を思い出してしまった。月島と同じように、鶴見も郷愁を誘われたのだろうか、朴訥に昔の話を始めた。
「蚕が桑の葉を食む音を思い出すな」
「蚕ですか?」
「ああ。私の実家は長岡藩の家臣の一つだった。維新後は、二番目の兄が蚕糸農家になってな。私も蚕の世話を手伝った」
 それで絹糸の目利きができるのか。理由が分かり、納得した。というよりも、鶴見の家族の話を初めて聞いた。だから月島は思わず感動した。しかし戊辰戦争で長岡藩は賊軍とされたから、新政府のもとで就職に難儀したのだと、第二師団にいる時に世間話を聞いたことがある。きっと鶴見の家も、語られない苦労があったのだろうと思われた。
 月島は静かに話の続きを待った。しかしざわざわという外からの音に交じって聞こえてきたのは、鶴見の寝息だった。月島は穏やかな気持ちになり目を閉じた。
 朝になり、身支度して朝食をとる。鶴見は数社分の新聞を熟読して分析する。商いのない日、鶴見は暗号を駆使した報告書を書いた。そしてこちらに送付された手紙を解読した。ロシア国内で活動するスパイは、自分たちだけではないと知った。一度その手紙を見せてもらったが『父が入院した』とか『家畜の山羊が逃げた』だとか、単なる近況報告としか読めなかった。「暗号表を覚えたらいい」と鶴見は勧めたが、機密を知る者は少ない方がいいだろう、と断った。
 一ヶ月に一度、満州の堺やその部下が絹の敷物をペテルブルグまで届けた。もちろん商品だけでなく、活動資金や武器を巧妙に隠してあった。
 月島は週に六日珈琲店で働いた。半年過ぎた頃に、蔵相秘書官と挨拶を交わす間柄になれた。十数年前に皇帝が暗殺される事件が起きているから、彼にも警戒するように指導していたのだろう。が、一度打ち解けると親しくなるのに、そう時間はかからなかった。「これは日本語で何と言うんだい?」と質問される機会が増え、会話が弾むようになってきた。



 季節がめぐり、三度目の帰国をする直前のとある日。
 午後四時に月島が珈琲店から自宅へ戻ると、ミハイルが門扉で待っていた。薪を持ってきてくれたのだった。二人で運び入れてから、室内に招いてお茶を出す。鶴見は一人で出かけており、戻るのは午後六時だと伝えた。
「まだロシアにいられる?」とミハイルは心配してきた。ココツェフ蔵相への接触が叶わないので、日本に連れ戻されるかも、と心配してくれているのだろう。しかしそれは、余計なお世話だと月島は思った。標的は蔵相だけではない。シベリア鉄道の破壊工作は功を奏しており、いまだにバイカル湖の迂回路は完成していない。
 それに一つ、約束を取り付けていた。西陣織の布団用の上掛けを、蔵相が見てみたいと興味を示したと秘書官から聞いた。なので次の帰国時に、鶴見が京都から買い付ける予定だ。
「すごいじゃないか!」
 ミハイルは大はしゃぎした。まるで自宅への潜入が成功して、蔵相の暗殺を成し遂げたかのような喜びようだ。だから月島が釘を刺す。
「暗殺が目的じゃないだろう? もし彼が、獅子身中の虫だったらどうするんだ?」
「彼の本心が、迫害される同胞を助けるために政権の中枢にいるのなら、連携するしかないさ。英国は今のところロシアのポグロムからの避難先だし、日本とは民族的にも宗教的にも対立していない。我々の説得に応じる可能性大だ」
「そうだな。しかしテロ工作支援の話を切り出すのに、また時間がかかりそうだ」
 月島が口を引き結ぶ。
「そんなの簡単だろう? 君が蔵相の寝室で待ってたらいいじゃないか」
「は? それはどういう意味だ」
「もちろんハニートラップを仕掛けろ、という意味だよ」
 それを聞いた月島は顔を歪めてから、毒づいた。
「蔵相は男色家なのか? しかも黄色人種好みの? ずいぶん変わり者だな」
「何を言ってるんだい? だって君はオメガだろう? 君の発情期に会えば、彼はひとたまりもないじゃないか」
 ロスチャイルド家のバース性は、調べるまでもなくみんなアルファだと目されているらしい。ふと月島の中に疑問が浮かぶ。俺のバース性をなぜ知っているんだ。
「……俺がオメガだと誰に聞いた?」
「誰って……。ああそうか、君は知らないんだな」
「何を?」
「オメガには政治的に利用価値があると、列強は認識しているよ。だから英国やロシアにアメリカ、オメガを諜報員に育てるのが世界的な潮流だ。だからシラトリが連れてきた時点で、君がオメガの諜報員だと僕は思ってたぜ」
「……それは、どういう……」
 月島は激しく混乱していた。訳が分からなかった。一体何なんだ、オメガは利用価値がある? 諜報員に育てている? それが世界の常識だと?
 ミハイルはさらに続けた。
「ポーランド貴族の女性活動家に会ったことがあるんだ。彼女は大変美しく聡明で、そして強かった。ロシアから祖国を取り戻せるなら何だってすると言ってたよ。標的を色仕掛けで骨抜きにできるなら、安いものだと言っていた。でもそれは、本当は限られた人にしかできないんだ。顔やスタイルはもちろんのこと、語学や話術やダンスに楽器、ベッドテクニックまで様々なことを習得しなければならない。――でもオメガは、そうじゃないよね」
 そこで言葉が途切れた。ミハイルは月島を挑むような目で見た。
「フェロモンひとつでそれが可能だ。だから僕は、正直君が羨ましいよ。スパイとして大活躍できるじゃないか」
 羨ましい? こんな、定期的に男が欲しくなる体が? 月島は自分のことが恥ずかしくなり俯いた。するとミハイルは、月島の肩にそっと手を置いた。
「ごめん。僕、色々しゃべりすぎたね。シラトリから何も聞いていないのなら、バース性を利用するために連れてきたんじゃないだろう」
「……教えてくれ。一体いつからオメガが利用され始めたんだ?」
 ミハイルはしばらく逡巡していたが、静かに語り始めた。
 それは昨年勃発した、米西戦争のきっかけとなった暴行事件だった。
「オメガのアメリカ女性をアルファのスペイン男性が襲ったのが戦争の始まりだったと、聞いたことあるかい?」
「ああ、それは聞いたことがある」
「あの暴行事件は、実は真相が分からないんだ」
「……え? 本当は事件なんてなかったのか?」
「うーん……。正確に言うとね、事件があったのか無かったのか、誰も本当のことを知らない。第三者の目撃証言が一つもないのさ。」
「……じゃあ、どうして大々的に新聞で報じられたんだ?」
「それはね、米国にはスペインを攻撃する大義が必要だったんだ。だから、理由を作った」
「そんなことって」
「あるんだ。新聞はもともと大衆を扇動するために生まれたものだ。本当かどうかなんて関係ない。部数を伸ばすために面白おかしく書き立てるか、スポンサーが好む記事を書いているだけさ」
 その作戦の計画発案は、約四年前だと言われている。政敵であるアルファ男性を陥れるために、オメガの発情を利用するのはどうか。今までなら標的の好みの顔や体形を調査して、話術や性技を習得させた女性を向かわせていた。しかしオメガのフェロモンなら、それらの苦労が一切必要なく篭絡が可能だ。
オメガのとてつもない可能性に、列強が気付いてしまった。
 そして実行されたのが三年前の明治三十年。英国もこの件には一枚噛んでいるとミハイルは語る。オメガ女性の両親は、英国出身だ。
「僕はシラトリにこの話をしたことがある。だから彼が、陸軍省に報告しているんだと思っていたよ」
「……そうか。話してくれて、どうもありがとう」
 すっかり話し込んでしまったので、ミハイルはすぐに帰った。月島は珈琲店に時間通りに戻れなかった。初めて遅刻した。夜の開店が遅れて、迷惑をかけてしまった。なんだか胸の中がぐちゃぐちゃだった。夜十時半に仕事が終わり、店を出る。すぐに帰る気になれなかったから、川沿いを歩いた。ペテルブルクは川が多い。
 米西戦争のきっかけとなった暴行事件が明治三十年。そして俺が監獄から出所したのも明治三十年。そうか、恩赦となったのは、俺がオメガで利用価値があるからか。檻から出た日、九段で茂福中佐は月島の変名を「熒惑から取った」と言った。あの星は、人を惑わす意味もあるのだ。
「……でも鶴見少尉は、誘惑しろだなんて一言も命令したことはない」
 月島は鶴見の言動を思い出し、事実を並べて彼の真意を汲み取ろうとした。そこには、厳しくもあたたかな眼差ししかなかった。だから月島は混乱する。体を使うことを期待されているのか、そうじゃないのか。月島には鶴見が何を考えているのか分からない。
 川面からの風は、身を切る冷たさだ。三月のネヴァ川はまだ凍っている。だから冬の間だけ、氷の上を列車が走っている。初めて見たとき、月島はたいそう驚いた。その上、動力は石炭ではなく電気だ。これが大国の底力なのかと恐怖を覚えた。こんなのがシベリア鉄道を走り、あっという間に遼東半島までたくさんの兵士や機関砲を運んで来たら……。



 三日後、三度目の帰国をするべくペテルブルグを発った。約半月かけて北海道に到着した。その際に月島は、病院で抑制剤を打たずに、内服薬をもらった。一日一回飲むものだから、これなら発情期の調整ができる。
 そしてロシアに戻ってきた月島は、鶴見が京都から買い付けてきた西陣織の敷物を持って、ココツェフ蔵相の自宅を訪問した。抑制剤は一週間前から服用していなかったが、それで本当に惑わされる男がいる訳ないと、たかをくくっていた。というもの、第二師団に入営する前は抑制剤など飲まなくても、襲われた経験がなかったからだ。噂に聞く一般的なオメガの特徴からも外れている。だから月島は、自分をなりそこないだと思っていた。



 訪問から二週間が経過した、ある夜のことだった。突然下腹部に痛みが走った。経験したことのない痛みだった。これは、何かまずいことが起きているのじゃないか。布団に横たわっても痛みで眠れず、朝が訪れた。下半身が濡れている。見てみると出血していた。
 鶴見は月島の異変に気付き「今日は仕事を休んで、病院へ行きなさい」と諭す。自分で選んだ結果なのに、自分の身に起きていることが恐ろしくて直視できない。診察なんて受けたくなかった。それでも、自分が倒れて鶴見に迷惑がかかるなら、本末転倒だ。
 診察した医師は「自然に排出するのを待つか、手術するか選びなさい」と言った。最悪の事態にならずに済んで、ひとまず安堵した。一週間ほどで体は回復した。
 その後も、月島はココツェフと会った。というもの、迫害される同胞のために革命を起こそうとしているのか、それとも王朝を守ろうとしているのか、どちらともとれる発言を繰り返すばかりだったからだ。噂に違わずユダヤ人は頭が切れると思った。
 数か月後、月島は再び出血した。病院へ行くと、医師は深刻な顔で「不育症かもしれない」と言った。初めて聞く単語だった。
 さらに数ヶ月が経った。
 ココツェフと会ったけれど、以前のように腹痛・出血もなく平穏に日々が過ぎた。珈琲店へ行く前に、センナヤ広場で老人と孫を見かけたので、いつものように寄付をしようとコインを取り出した。すると子供が月島に妙な言葉を掛ける。
「その子のために使ってください」
「……その子?」
 自分の隣に幽霊でもいるのかとぎょっとした。すると子供は、当惑する月島の腹部を撫でたのだった。
 まさか、自分に限って、そんな。
 できないと思っていたし、子供の第六感のようなものも信じられなかった。だから月島は、病院には行かなかった。しかし抑制剤を飲んでいないのに、三ヶ月経っても発情期が訪れない。どうするべきか。焦る気持ちとは裏腹に、月島は自分の腹部を撫でるのが癖になった。そうすると心が穏やかになっていく。それ以外の体調の変化は特にない。このまま、何事もなくバース性も忘れてしまうんだ。そんな上ずった気持ちに、月島は侵されていた。
「少し早いが帰国しよう」
 鶴見が突然告げた。
「え? ここから完全に引き払って日本へ戻るのですか?」
「そうだ。途中下車して、上海に寄る。堺くんはあの辺に相当詳しいから、堕胎専門の医師を紹介してくれるそうだ」
「だ……」
 月島は絶句する。鶴見にはすべてお見通しだった。上海には阿片窟(アヘンくつ)があり、麻薬を摂取して性行為にふける者が多いから、堕胎専門の病院は珍しくないとのことだった。
「い、嫌です」
 月島は弱々しく反論する。だから鶴見は怪訝な顔で聞き返す。「いま何と?」
 怖かった。新しい生命を葬り去ること。鶴見から疎まれること。そのどちらも怖かったが、自分の考えを知ってほしかった。月島は震える声を振り絞る。
「お、俺は、いや、私は……う、産み」
「月島軍曹、帰るんだ」
 鶴見の最後の台詞は日本語だった。駐在中、初めて聞いた自分の本名だった。



「帰国して三ヶ月くらい登別で療養していたのですが、その前後のことを、実はほとんど覚えておりません」
 こんなに洗いざらい打ち明けるとは、思ってなかっただろう。運命なんて、現実を前にしたら木っ端微塵だ。さあ、もう帰ってくれ。
 月島は清々した気分で鯉登を見ていた。

6 家族

 鯉登は挑むような険しい表情で、月島の話を聞いていた。話が終わったと察すると、息を逃して表情を無くした。そして月島から目をそむけた。いつもはち切れんばかりの感情を抱える人が、その胸から一切の感情を落としたようだった。
 ああ、ついにこの時が来たか。
 いつか鯉登が自分から去っていく予感はあった。その理由は、縁談であれ転任であれ死別であれ、自分と添い遂げる以外の選択肢の方が相応しいと思っていた。だからほっとした。どうか振り返らず、目の前に拓ける道を真っ直ぐに歩んで行ってほしい。
 俺のことなんて、すぐに忘れる。忘れなくても「あんなこともあったな」という思い出の一つになるだけだ。
 ただ、月島は違った。「まだ間に合う」という二ヶ月前の鯉登の声を思い出すと、胸が震えて奥底から熱い気持ちが湧き上がる。今際の際まで、それを縁(よすが)にしようと決めた自分を許してほしい。
 小樽のアイヌコタンに鯉登が現れたあの瞬間、それまで月島が重ね続けた鬱屈がすべて雪がれた。同時に、鯉登の言葉が自分にとって特別であることを自覚した。「俺のことなんて何も知らないくせに、適当なことを言うな!」と言い返せなかったのは、結局鯉登を誰よりも信頼していたのだ。だから、鶴見に九年間も騙されていた、と樺太で告白したのだろう。鶴見に騙されたと知っても尚、今だけは鶴見の手駒でいてほしい。甘い嘘を共有して自分と共犯者になれば、命だけは護れる。そうまでして庇った男との立場が逆転していた。護っているつもりだったのに、知らず知らずのうちに敵わなくなっていた。でも、その成長が嬉しくて、そして寂しい。
巣立ちの時だ。
「……月島」
 名前を呼ばれてはっとする。自分の思考にのめり込んでいた月島が、顔を上げると鯉登と目が会う。彼は月島に腕を回して、ぎゅっと力を込めた。動けなくして首筋に顔を埋めた。すう、と鼻から呼吸するのを肌で感じた。鯉登に触れられた箇所が熱い。困惑しながらも、心の内は喜びに打ち震える。愛しい気持ちが溶け出しそうだ。このまま、身を任せたい。はしたなくもそう願った瞬間だった。
「──い、痛い!」
 突然、月島の首に痛みが走る。肌を裂きその下まで鋭い何かに穿たれて、そこに熱の塊が埋め込まれたような衝撃が貫いた。何だ。月島は身を捩り鯉登から離れようとする。すると意外にも彼はあっさりと顔を離した。正面に向き直った鯉登の唇には赤が滲んでいた。月島のうなじに歯を突き立てたのだ。月島は手のひらで痛む部分を押さえる。それを前に持ってきて、出血しているのを確かめた。
「なっ……、何をするんだ!」
 月島は頭に血がのぼる。鯉登の腕を振り解き、突き飛ばそうとした。いつもならできた。腕力では月島がわずかに上回っていた。だからメンコでも勝ったのだ。それなのに。
「どうした。今日はか弱いじゃないか」
 挑発するような物言いに、月島は苛つく。右の拳を握る。左で胸ぐらを掴む。鯉登の顔めがけて拳を振り下ろした。鯉登は避けなかった。よろけて、一歩後退した。
「痛いな……。まさか番った直後に花嫁から殴られるとは、思ってもみなかった」
 頬をさすりながら苦笑いする。そして、月島は殴ったくせに、自分の方がひどく憔悴した姿を晒した。
「なんでこんなことを……。こんな、じきに死ぬ男を……」
「じきに死ぬなんて決まっていない。もし危険があれば私が全力で護る。それに、人は皆やがて死ぬものだ。早いか遅いかの違いがあるだけだ」
「それでも、私を選ぶあなたは……、馬鹿だ」
 月島はほとんど涙声になっていた。
「馬鹿で結構。お前がそうやって、本来の自分を殺して日陰者に甘んじる姿は、私には逆効果だ。金塊争奪戦が終わっても心配で目が離せやしない」
 そして鯉登は襦袢を脱ぐ。それを月島の頭に被せて「ふふ、角隠しの代わりだ。鬼軍曹だから必要だろう」と笑う。至近距離に迫った鯉登に照れてしまい、月島は目を背ける。頬が染まるのを誤魔化したくて、憎まれ口を叩く。
「……やっぱりあなたは大馬鹿者です」
「そうかもしれんが、月島のことは、おそらく誰よりも理解している自負があるぞ」
 月島が鯉登の補佐について、一年が過ぎた。鯉登が小樽に移ってからは、ずっと一緒だった。その長さはひと一人を理解するのに、足りないのか十分なのか一般的な見解を知らない。でもふたりの場合は特別なひと時が存在する。樺太先遣隊だ。異国での命のやりとりは、時間を濃密にして心の距離を取り払うのには十分過ぎた。戦友とはそういうものだと、月島は経験から学んでいる。
 そしてあの極寒の地での任務は、鯉登を一回り成長させた。人に分け与える宝物をその手中に増やして、あろうことかそれを最初に与えたのが、月島だった。それも惜しげもなく、人生を丸ごと。
 鯉登は続ける。「思い出したのだ」
「何をですか?」
「お前のフェロモンだ。なぜ懐かしいと感じたのか、理由が分かった。私はこの香りを、五年前にも嗅いでいる」
 月島は息を飲む。それは五年前、函館での狂言誘拐だった。
「鶴見中尉と父上が監禁現場に乗り込むまで約五日間。私は抑制剤を飲んでいなかった。だから鼻が利いたのだと思う。拘束されていたあの場所でも、この部屋と同じ匂いがしていた。あの時は薬どころではなかったから、記憶からすっかり抜け落ちていた」
 思いもよらない激白に、月島は焦る。あれは鶴見と月島がロシアから帰国し、月島は登別での療養から旭川に戻った直後の犯行だった。上海での術後、次の発情期が訪れないと抑制剤は使えないと医師に説明され、三ヶ月後に性欲が兆して注射を打ったばかりだった。
 鶴見が鯉登の拉致監禁案を説明すると、菊田が異を唱えた。
「子供を巻き添えにするのは感心しませんね」
 月島はそれを聞き、正直ほっとした。本心では同様の意見だったが、自分は鶴見に意見する立場ではないと思っていたからだ。ロシアで迷惑をかけたからだ。
 すると鶴見は目を伏せる。ふう、と呼吸を逃して口角をあげる。それから力の籠る眼で、菊田、尾形、月島の三人をじっとりと見てこう言った。
「鯉登閣下は必ずご子息を救出に向かう。そして拗れた親子関係が元通りになるのだ。──我々は彼らの和解するきっかけ作りを、お手伝いするだけだ。お前たちが罪悪感を持つことはない」



 鯉登の手がするりと伸ばされ、月島の手首を掴む。くるりと体の向きを変えらえて後ろ手に捻り上げられ、月島は壁に押し付けられた。あ、と小さく声をあげ、息を飲む。
 鯉登は知っている。あの日、少年期の自分を乱暴に拘束したのは月島だと承知している。
 怖いと思った。鯉登にだけは、嫌われたくないと思ってしまった。生まれて初めて弁明をしたいと思った。月島はさっき自分から鯉登に別れを切り出したことなど、もう頭の隅にもなかった。
 強がったら見破られ、うなじを噛まれて泣きそうなほど嬉しくて、そして過去の犯行を指摘されて審判を待つ。翻弄されている。が、番った今となっては、後戻りできない。膝から下が、がくがくと震えた。ぎゅっと目を閉じて身を固くした。――うなじにやわらかい何かが触れた。鯉登の唇だった。
「手荒にしてすまん、月島。噛み跡がどうなったか確かめただけだ」
 ぱっと手を放すから、月島は半信半疑で振り向く。
「あの、何を」
「運命の番というのはずいぶん浪漫があるなと思っていたのだが、実際は痛ましいな。相手を傷つけなくてはならない」
「気にしないでください。戦場と比べたら何でもありません」
 月島がそう言うと、鯉登は吹き出す。
「おいん嫁御はたっましかな」
 それから鯉登は「ここには傷薬はあるんだろうか」と部屋の中を物色し始めた。すると救急箱があった。さすが看護婦寮の一室だと二人して感心する。消毒後に傷用の軟膏を鯉登が塗る。それが終わると、月島が鯉登の口の端に軟膏を塗った。先ほど殴って切れた箇所だった。処置が終わると後ろから抱きしめられた。室内に沈黙が訪れる。月島は大きくなった心臓の音が、鯉登にも聞かれてしまうのではないかと心配した。
「月島に聞きたい」
「……はい」
「本能のままに抱きたいと願うのは、愚かなことか?」
「いいえ」
「ヒトはそんなに高尚な生き物ではないだろう?」
「はい」
「私と番うのは、後ろめたいことか?」
「そ、……そんな訳ないじゃないですか!」
 月島は叫んで強く否定すると、鯉登は「安心した」と微笑む。
「だからもう一度伝える。月島と私の子供がほしい」
「……あの、だから私の体は」
 先ほどの発言を聞いていなかったのか。それを言おうとしたが、鯉登はその答えを待たなかった。
「その方が、きっと鶴見中尉殿もお喜びになる。お前はきちんと子を生せるのだと、いずれ中尉殿に伝えるべきだ。健康的でないのはお前だけではなかったと思う。ロシア時代の話を聞くと、中尉殿も月島に言うべきことを言わなかったのだろうと感じたぞ」
「そうでしょうか」
「ああ、小指の骨もそうだ。なぜ中尉殿に聞かなかった?」
 誰のものか判然としない骨。月島は、聞いてはいけないと判断して、素知らぬ振りをした。
 一方、鯉登は月島に骨の話を教わり、どこかに答えがあるはずだ、と頭を巡らしたと話す。
 それは月島の過去。ロシア駐在時代、色仕掛けのために抑制剤を飲んでない時期があったにも関わらず、鶴見は月島に誘われなかった。
何故なのか。彼も月島と同じオメガなのか? いや違う。オメガのフェロモンに反応しない条件は、もう一つ。
 彼はすでに番のいるアルファなのだ。
 鯉登の出した答えがこれだった。
──骨になった彼の伴侶と子供。
「う、うう……」
 月島は突然に嗚咽し始めた。ずっと鶴見を疑っていた。だから激しく後悔した。
 オメガである自分を利用するために、監獄から出したのか。その疑念がいつまでも拭えなかった。けれどやはり違った。子供を喪った男が、堕胎が必要になる仕事をさせる訳がない。
 俺は、なんて未熟なんだろう。
 ずっと自分の感情だけしか頭になくて、鶴見の事情なんて一切考えなかった。愛を語った人の家族は、すでにこの世にいなかった。



 月島はひとしきり泣いた。鯉登は黙って肩を抱いていた。
 今更ながら、鯉登に気づかされることがたくさんある。月島が目を背けていた鶴見の別の顔も凝視して、様々な角度から情報を精査する能力を持っている。そんな彼が、月島の目の代わりをして導いてくれると言う。なんと頼もしいのだろう。
 本当に、何もかも敵わない。白旗ならとっくにあげている。だから一度は抱かれたのだ。それでもし、金塊争奪戦が終わっても自分が生き残れたら、彼から自然と距離を置こうと思った。思い出だけでも一人で生きていけると思っていた。  
 それなのに、俺の本能は、俺の決意をあっさりと裏切った。
 薬で眠らされていたオメガの本能が、鯉登を誘い強烈に惹かれ合い、離れることを拒んだのだ。診察の際に医師から聞いた。たとえ抑制剤を服用していても、性行為そのものが発情を促すのだそうだ。
 そうだ。番いたいと願って何が悪いのか。
 目の前の男を独占したいと思って、何が悪いのか。
「鯉登少尉殿」
 月島は鯉登に向き直って手を伸ばす。彼に向って、真っ直ぐに。鯉登は一瞬目を見開き、そして目を細めて月島に腕を回した。力いっぱい抱きしめられて、息が苦しいと背中を叩く。でも少しも緩めてくれずに腹が立ったが、頭をくたりと彼の肩に乗せると「つきしま」と動揺した声で名前を呼んだ。
──海霧の気配が濃くなる。
 鯉登がここに来た時から、霧のように細かい水気が漂う中に、迷い込んだ気がしていた。一寸先も見えなくて、閉じ込められてしまう不安を感じるのに、包み込まれる安心感が生まれた。とても不思議だった。だから警戒を解いて、その中に揺蕩った。緊張が解きほぐれた今、一気にその雰囲気に飲み込まれる。体温よりも少しぬるくて、それに頭の芯まで浸りたくて、月島は目を閉じた。考えるのを止めたくなる。つま先、膝、腰、胸、そして頭。ひたひたと足元から充満して滲みていく。月島の体は次第に動きが鈍っていく。それは、眠り落ちる寸前の幸福に似ていた。
 俺はこの気配を知っている。そう、五年前の五稜郭だ。そうか、これは鯉登少尉のフェロモンだったのか。
 月島は五年越しでようやく正体を知った。
 おそらく、これを知るのはこの世で自分だけだ。そして今後も、他の誰も察することができない。彼が欲情する相手は、一生涯、俺だけだ。
 独占したいと願うことの、何と無様なことか。執着と諦念の間で揺れて、酔ってしまいそうだった。そんな月島にただ一つ、分かったことがある。
 それは、鯉登にどうしようもなく恋をしているということだった。
 足元がぐらつく。鯉登が上体を支える。
「つ、月島」
 耳元で鯉登の声がはっきりと聞こえる。案じる声だ。意識はしっかりとしている。だけど体の自由はきかない。
「少尉殿」
 体を横たえてくれと、頼もうと思った。でも、ため息のまじる自分の声はか細くて、まるで快楽の最中にあるようだった。
「月島……、大丈夫か?」
 体を気遣う鯉登の手は優しかった。でもとても熱を帯びていて、自分に発情している雄なのだと再認識した。しあわせだと思った。怠さから、声を出すのも一苦労だったが、どうしても伝えたいことがあった。
「少尉殿」
「なんだ」
「フェロモンを発するのは、オメガだけではないんです」
「ひょっとして、私からも何か匂いがするのか?」
「はい」
「どんな?」
「霧のような」
「霧?」
「説明が難しいのですが、体臭とは別なんです。鼻から嗅ぐのではなく、肌で感じるというか――あなたから、全身を隙間なく抱きしめられているようです」
 後半、月島は浮かされたようにつぶやいた。
「ぐったりするから気分が優れないのかと気を揉んだが」
「違います」
「私の色香にあてられたのか」
「ええ。だから少尉殿、どうか、私を好きにしてください」
 月島が肯定すると、鯉登はひどく狼狽えた。「お前はもっと自分を大切にしろ」と説教を始めた。だいぶ混乱しているな、と月島はほくそ笑む。自分から腕を回して口づけをした。触れるだけの穏やかなキスだった。離れると鯉登は落ち着きを取り戻した。月島の体を抱え、布団に横たえた。月島は目を開けて鯉登を見上げた。うつくしい男だと思った。
 動けない。
 月島はもう全身に力が入らなかった。局部は濡れそぼって満たされるのを待っている。アルファのフェロモンにあてられて動作が緩慢になるのはオメガの習性で、それは発情したアルファを受け入れる準備であった。
 目の前の男の、子を生すのは俺の役目だ。
 月島は何度目かの観念をした。そもそも、鶴見に騙されていたと嘆いた自分は、鶴見の大義のためなら騙されても構わないと断言した鯉登には、最初から敵わなかったのだろう。
 鯉登の顔が迫り、ぼんやりと焦点が合わなくなる。くちびるが触れるだけで、胸がいっぱいになった。それは鯉登の気持ちを端的に表していた。うかがうような啄みだったり、ねっとりとねぶられたり。どんなキスでも全身で好きだと言われているようで、月島の頭の中は痺れていく。だからヒトの性行為には、生殖とは別の意味もあるのだと思い知らされる。
 月島のことが好きだ。
 独りよがりの妄想かもしれないが、鯉登の声が聞こえた気がした。
 鯉登は月島の着ている病衣の帯を解き、前を広げて腕を抜いた。続けて自分の着衣も取り去る。月島が自ら足を広げて間に鯉登を誘おうとする。ごくり、と鯉登の喉が鳴る。そして一拍おいて「濡れているな」と感嘆する。月島の体から流れた体液が、尻から太ももをも滑らせていた。
「軟膏か何かを使ったのか?」
「いいえ、これは本物の私の体液です。だから、すぐにでもあなたを受け入れられます」
「あ、……月島、煽るな……! すぐにでもなんて無理だろう? 前に抱いたのはひと月も前だ」
「発情期のオメガの体は、普段と違うのです」
「そ、そうなのか?」
「はい。下半身は、女性に近いと考えてくださって結構です。なので、ひと月なら指で少し慣らせば大丈夫です。そうじゃないと、子供なんて産めませんから」
 月島が鯉登の手を取る。得心した彼は指を挿入してきた。中指、人差し指、薬指。慣らすために月島に挿入する順番を決めているようで、一番長い中指が常に一番手だった。穴の周りを指の腹で優しく撫でる。指先が滑りを帯びると、鯉登は慎重に差し入れた。
「……あ、」
 月島は目を閉じてため息をもらす。いつもこの瞬間は慣れない。どうしても自分の体内より指が冷たくて、胸がひやりとする。でも今日は少し違った。発情した鯉登の体は熱くて、指一本にも陶酔した。
「すごい……、ぬるぬるしている……」と鯉登が嘆息する。抜き差しを始めると、にちゃにちゃと粘ついた音がした。恥ずかしい。こんなに濡らして期待して。でも本心だからしょうがないし、それに濡れている方が、鯉登も気持ちがいいはずだ。早く、俺の体で悦んでほしい。月島はそう考えていたのに、どうやら鯉登には別の意図があったようだった。二本目の指も挿れ、広げてみたり不規則に動かすから、予想できない快楽を生み始めた。
「あ、ああっ、……待って、ん、あ!」
 月島は急に鯉登を制止しようとした。折り曲げた指で浅い部分を執拗に擦るから、強い快楽が急に押し寄せてきた。
「大丈夫だ月島。安心して私に身を任せろ」
 断言した鯉登は月島に覆いかぶさる。そうしてくちびるを重ね合わせて舌を弄び、指の抽挿をいっそう激しくした。
「ふ、……う、」
 月島は口を吸われて満足に嬌声を上げることもできない。指はいつの間にか三本に増やされた。でも足りない。本物を挿れてほしい。鯉登は時折入り口のあたりをぐっと押す。すると月島は出そうに感じてぎゅっと彼の指を締め付ける。射精に似た快楽を生むその部分を責められて、理性が崩れ始めて月島は泣きたくなった。くちびるを離して訴える。
「少尉殿、あっ……、そこは、もう結構です」
 鯉登は手を止める。「気持ち良くないのか?」
 月島は左右に頭を振った。
「そうか、それなら続けるぞ」
 鯉登はにっこりと微笑むから、月島は目を奪われた。こんなに淫らなことをしているのに、場にそぐわない晴れやかな表情だった。すぐに抜き差しが再開された。ぐちゅぐちゅと耳を塞ぎたくなる音がして、高い嬌声が狭い室内に満ちた。高くて甘くて誘っているようで、とても自分の口から発せられているとは思えない。このままだと、すぐに達してしまう。でも、一人でいってしまうのは嫌だ。奥まであなたのそれを満ち満ちとうめてほしい。
 月島は訴えたいことが山のように押し寄せる。けれど、それらを伝えるのは叶わなかった。
「んっ、あ、あああっ!」
 腹の奥で熱が弾けた。月島は鯉登の指で果ててしまい、びくりと腰を何度か跳ねさせた。
「……は、はあ、……ああ、……」
 ぐったりとして荒く呼吸を繰り返す。まなじりには少し涙が滲む。肌はどこもかしかもじわりと汗が浮かぶ。その様子に鯉登は「むぜ……」とつぶやいて、月島の顔のあちこちに唇を落とす。頬、ひたい、まぶた、鼻、あご、そして唇。それから首筋に顔を埋めた。うなじから発せられる匂いを嗅いでいるらしかった。「ああ……、ほんのこてよか匂いだ」
 鯉登は夢うつつで話をする。俺と同じかもしれない、と月島は感じた。フェロモンに惑って、目の前の男しか見えなくて、世界にはもうふたりだけしか存在しない。それが運命の仕組みなのだろう。
 鯉登は「ほら」と言って、次は月島に自分の手指を見せる。
「締め付けがきつくて、指が食いちぎられると思ったぞ」と顔をほころばせる。窓の磨り硝子から差し込む夕陽を浴びて、それはてらてらと光った。鯉登が親指と人差し指の腹をくっつけて、離す。すると指に絡む粘液が糸を引いた。恥ずかしかった。有耶無耶にしたくて、鯉登が我を忘れるような文句を口にした。「少尉殿、早く私の中にきてください」
 鯉登は目を見開く。今にも飛びつきそうに肩を震わせるのに、すんでのところで思い留まった。
「月島、私がほしいか」
「……はい」
「ふふ、素直なお前は、いつにも増して愛らしい。でもな、もうちょっと楽しみたい」
 飽きもせず、また彼は首筋に顔をうずめる。深呼吸を繰り返し、肌を吸って跡を残す。それから手はするすると下に伸びていく。胸をいじるのかと月島は思った。手が触れたのは陰茎だった。
「達したように見えたが、違ったのか? 何も出てないが」
「発情期だと精液は出ないんです」
「そ、そうなのか。知らないことが多くて申し訳ない」
 そして、なぜか鯉登はゴクリと喉を鳴らした。「それなら、ここをしごき続けたらどうなるんだ?」
そうして指で作った輪を上下に動かす。
「あっ、少尉殿。止めてください」
「気持ち良くないなら止めるが」
「……」
 何も言えずに月島は目をそらす。気持ち良くない訳じゃない。むしろ普段より、どこもかしこも敏感だ。陰茎をしごけば射精とは別の生理現象が起きる。それが慣れないし恥ずかしいだけだ。けれど気持ちがいい。もっとさわってほしい。それを言葉にするのはみっともなくてできないのに、そう強請らんばかりの声が出た。
「あっ、あ、あ、ん……、少尉殿。ああ、……そこは」
「月島、どこをどうすればいい?」
 先端からは透明な液体がぷくりと沸き、じわりと亀頭に広がって濡らす。竿に流れてくると、鯉登の指と絡まりくちゅくちゅと粘ついた水音がした。裏筋を丁寧に扱いて、月島がビクッと腰を浮かせる姿を愛おしげに見つめた。規則的な上下の動きに月島の体は高められ、鯉登の手に強くこすりつけるようになった。腹筋がぴくぴくと動く。太ももは力んでわななく。波がもうすぐ、そこまで来ている。
「あっ、出る……、出る! うああっ、……」
 射精と同じように、陰茎はびくびくと二度ふるえて透明な体液を吐き出した。こわばらせていた手足を投げ出して、は、はあ、はあ、と短く呼吸を繰り返す。鯉登は月島の額の汗を、手帛で拭った。そして短いキスをした。「ほんのこてむぜね」とうわ言ように呟く。月島の呼吸が落ち着くまで、また首筋の辺りを愛撫していた。達した直後はフェロモンが濃く香るのかもしれないと思った。それから敷布に染みを作った体液を指して、月島に尋ねる。
「この透明の体液は何だ? 先走りと同じものか?」
「……そうじゃないでしょうか」
 月島は耳を赤くした。本当は知っているけれど、羞恥心が勝って口をつぐんだ。隠しておきたいことがあるだなんて、こんな年になっても瑞々しい感情を持っていた自分に驚く。
 そして月島は上体を起こして鯉登の陰茎に触れた。自分だけ指で高められても意味がない。鯉登は気持ち良くないし、妊娠とは無関係だ。それをやんわりと伝えたら「お前は分かってないな」と呆れる素振りをして見せた。月島の手の上から鯉登は自分の手を重ねる。そこは熱く濡れて十二分に大きくて、月島は思わず喉を鳴らしてしまった。
「お前の達する姿を見るのは、私が愛撫されるのと同じだ」
「な、……」
 まだまだ青臭いと思っていた鯉登が、円熟した男みたいなことを言うから、月島は焦った。それに自分だけが乱れる姿を見られるのは恥ずかしい。でもそれに興奮してくれるのは、この上なく嬉しいと思ってしまった。



 月島の足の間に、鯉登が体を割り込ませる。立膝にした足を持ち上げられ「挿れるぞ」と声を掛けられた。
そういえば鯉登は、発情に伴う体の変化はフェロモン以外にあったのだろうか。触れた彼の性器は、以前関係を持った時よりやや大きく感じた。それでも月島の体は、前もって準備しなくても今なら広がることが可能だから、それを難なく飲み込んだ。ゆっくりと奥まで沈んでいく。先に感嘆の声を上げたのは鯉登だった。
「……は、……うう……、月島、熱くて溶かされそうだ……」
 挿入する間、鯉登の方がよほど苦しげな表情をして耐えている。眉根を寄せて息を荒く繰り返し、ひたいから汗が数滴流れ落ちた。鯉登が感じてくれているのが嬉しくて、愛しいと思った。月島はつい彼の頭を撫でてしまう。目を閉じていた鯉登は目を丸くした。
「何だか私より余裕がありそうだが、中はまだ痙攣しとるぞ」
 鯉登はにやりと嫌らしく片側の口角をあげ、指摘する。先ほどの絶頂の余韻が、実はまだ続いていた。中がびくびくと動いている。それは発情期だけの体の変化で、より身籠りやすくしているのかもしれないと思った。そして、二度達した後だから、そこはとても敏感だ。月島も本当は余裕などなかった。何度か揺すられるとまたすぐにいってしまいそうだ。月島は鯉登の背中に腕を回してしがみついた。彼はそれを合図と受け取り、腰を動かす。月島は目を閉じて意識をつながったところへ向けた。一度目より二度目。二度目より三度目の方が、気持ちが良い。俺の体はそういう風に作られている。
「あ、は、ああ……しょ、少尉殿……」
「奥に何かが当たる」
 根元まで挿入すると、亀頭の先端に壁が触れるらしい。他の部分と違い、そこは少しおうとつを感じて、こりこりしていると言う。その感触が気になって、重点的に突くとぴたりと吸い付いてくると説明する。
「月島……、なんだここは。とても気持ち良い……」
 鯉登はすっかり夢中になって、そこばかり突いてくる。そんなことを聞かれても、自分の体であっても内部を詳しくは知らない。一つ予想したのは、子宮の入り口ではないかという事。昔、妊娠初期で腹痛をおこした際に、痛んだのはその辺りだった気がする。
 月島は内心焦りつつあった。過去に傷つけてしまった体は、いま未知の快楽に染められつつある。このままだとまずい。おかしくなりそうだ。でも体はこの上なく喜んでいる。汗が噴き出る。音が聞こえなくなる。
「あっ、駄目、駄目です少尉。……そこばっかり……、あん、ああっ」
 月島は三たび達しそうになって、無意識に足を閉じて感覚を鈍らせようとした。そのままの姿勢で刺激され続けると、快感が過ぎて自意識が散りそうな恐れを感じた。でも鯉登は容赦がなかった。月島の両足を限界まで開いて手で押さえつけ、そこを激しく腰でえぐった。
「あっ、ん、もう………、ああっ、駄目です、いく、あああっ!」
 月島は背中を弓なりに反らして、腰を震わせた。
「ふ、う、……すごい…中がうねって……、吸い付く……! ああっ」
 月島の絶頂後、鯉登も我慢の限界を迎えた。月島を押さえるように抱きついて、体内でビクッと陰茎が震えるたびに、ぐっと強く腰を擦り付けた。その力で月島の体がわずかにずり上がる。より奥に、自分とは違う熱さの体液を感じた。
 部屋の中はしんと静まり返り、まだ熱くて整わないふたりの呼吸だけが聞こえた。陽は沈んで暗くなり、二人きりで閉じ込められているような雰囲気があった。
 月島は横向きになるのも億劫で、このまま眠ってしまいたいくらいだった。でも今どうしても、鯉登に伝えたいことがあった。声を出そうと息を吸うと、喉がカラカラに乾いていることに気づく。それでも構わずに振り絞る。
「……あの、少尉殿」
「ん、なんだ? 声の掠れがひどいな」と鯉登が苦笑いする。
「もう一度、俺のうなじを噛んでください。今度はちゃんと、後ろから、交わっている最中に」
 鯉登が息を飲むのが聞こえた。



 何を食べているんだ?
──りんごです。
 誰にもらった?
──おかあさまから、もらいました。
 そうか、良かったな。
 月島は子供の頭を撫でた。
──ほんとうはたべたらだめだとききました。だからおこったかみさまが、にんげんをらくえんからおいだし、しんでしまうようになったんです。
 何の話だ?
──しぬからこどもが生まれるんです。それが生きものの知恵です。
 子供はにっこりと笑った。



 窓の外から女性たちの話し声が聞こえてきて、月島は目が覚めた。事の後にろくに体も拭わず眠ってしまっていた。看護婦らの仕事が終わって、寮に戻ってきたようだった。
「少尉殿、起きてください」
「……うん、起きているぞ」
 鯉登はあくびをしてから、背伸びをした。
「文子はどこにいるのですか?」
「あ! 詰所で預かってもらっている」
 鯉登は慌てて服を身につけ、部屋を出た。詰所に顔を出す。
「すまん、遅くなった。文子を引き取りに来た」
「あら、先ほどお父さんが迎えに……あら? お父さん?」
 そこにいた職員はすっかり当惑している。鯉登と玄関の方向をきょろきょろと見比べる。半刻前、父親と名乗る男が文子を迎えに来たのだと彼女は言う。
「……誰が来たのだ」
 鯉登が問うと、職員は黙って鯉登を指差した。
「でも少し違ったような……」と首を傾げる。
「覚えていることを全部話せ!」
 はっきりしない職員の態度に、鯉登はつい苛ついて声を荒げた。
「でもねえ、確かに鯉登さんだったんですよ。あ、そういえば軍服が違ったかも。ひょっとしてお兄さんかしら?」
「……兄はここには来られない」
 職員は鯉登が連れ帰ったと重ねて主張した。彼女の見た鯉登は、自分たちに丁寧にお礼を述べて文子と手を繋いで帰っていったと話す。文子もとても嬉しそうだったから、父親に間違いないと思ったそうだ。
 鯉登は走って外に出る。しばらく周辺を捜索したが、二人の姿はどこにも見えなかった。肩を落として月島の元に戻る。
「月島、文子が消えた」
「……そうですか」
「驚かんのか?」
「何となく、そんな気がしていました」
 月島は打ち明けた。実はあの娘は未来から来たのではないか、と。
「ここであなたが診察を受けている間、私は彼女に氏名や住所を聞いたとお話しましたよね? その時の旭川市内の様子が、今と違ったのです」
「どんな風だったんだ?」
「商店の違いに関しては記憶違いかもしれないと思いました。が、師団から一時間ほど歩いた先にある石狩川の支流に、木製の橋がかかっているじゃないですか。それが煉瓦製だと言ったのです」
「市内に煉瓦作りの橋なんてあったのか?」
「私が知る限り、まだありません」
「そうか……」
 鯉登はそれきり視線を外して黙りこくる。身動ぎせずしかめ面が戻らない。何かものすごい勢いで考え事をしているんだと思った。声を掛けるのが少し躊躇われたが、鯉登にはいつもの調子を取り戻してほしかった。
「鯉登少尉殿、あの子の巾着袋の中身は見ましたか?」
「いや、見ていないが。月島は見たのか」
「はい。今朝、見せてくれました」
「宝物だと言ってたな。何が入っていた?」
「メンコでした。遊びたかったようです」
 月島は布団の横に置いてある、メンコを拾い上げた。「これと同じ物でしたが、全く同じではありませんでした。かなり使い古されていたのです」
「それは既製品だ。だから他にも持っている者は」
「あなたの手作りの『鯉登少尉』もありましたよ」
「……本当か」
「それから、私は一枚新しいメンコを巾着に忍ばせておきました」
「どんなメンコだ?」と、どんなに鯉登がねだっても、月島は決して教えなかった。
「いずれその時が来たら分かるでしょう」
 月島の意味深な発言を聞いて、鯉登は顔を歪めた。明らかに不満に思っている。
 ああ、やはりこの人もそう予想していたか。
『おかあさまはおりません。わたくしを生んだあとになくなったといったのは、おとうさまです。しゃしんもありませんので、おかおもぞんじあげません』
 文子の声が月島の頭の中でよみがえる。死んだ彼女の「おかあさま」は、きっと俺だ。
「少尉殿は気付いていたのですか」
「……。ああ、にわかに信じがたいことだから、確信は持てなかったがな。文子は、お前と同じ瞳の色をしていた」
 明るい空の下で近付いて見ると分かる、薄茶に緑の混じる瞳。それは紛れもなく月島の目と同じ色であった。
「自分で自分の目がどんな色に見えているのか分かりませんでしたが、あの娘を間近で見て、あなたが珍しいとおっしゃる意味がようやく理解できました」
「月島」
 鯉登は月島を強く抱きしめる。そしてくぐもった声で「死ぬなよ」と言う。いつも自信たっぷりなくせに、珍しく声が震えている。月島は鯉登の背中をさすった。
 いつ、何が原因でこの世を去るのだろう。金塊争奪戦の最中か、その後にどこかの国と交戦状態になったか。それとも病気か。産んだ後なら出産そのものが原因か。
 そもそも元死刑囚だ。長く生きられる身ではなかった。それを今は鶴見に自分の命のろうそくを預けている。その狭い箱庭の中で得た家族。これから訪れるであろう、人並みのしあわせ。先に死ぬのだとしても、鯉登に形あるものを一つでも残すことができるのなら、良かった。
──本当に、悔いは残らないのだろうか。
 その死の間際に、子供の成長を見届けたいと思わなかったのだろうか。鯉登がこれから祖国のために何を成すか、見届けたいと思わなかったのだろうか。派手な出来事は何も起こらなくても、この人の隣でただひたすらに時を重ねて行きたいと思わなかったのだろうか。……いや、きっと悔いが残っただろうな。
 月島は息を吐く。長く生きたいと思ってしまった。それはおそらく生まれて初めて芽生えた願望だった。番になったから、離れることができなくなったから、そう思ったんじゃない。
別れる方がお互い選択肢が広がるように見える。が、本当にそうだろうか? 道がたくさん分岐する方が、より良い人生を送れるのだろうか? ひょっとして、それは勘違いじゃないのか。
 鯉登が腕を緩めて月島を見つめる。
「月島、私を見失わないように、ちゃんとついて来るんだ」
「はい」
 今の自分は、護られるだけのか弱い存在ではない。戦い方なら死神仕込みだ。だから月島は、最後まで力の限り足掻いてみようと、静かに決意した。
 たとえ死と隣り合わせの運命には抗えなくても、ただ座して死を待った過去の自分とはもう違う。月島にとって煩わしいだけだった生殖という本能は、今は希望の種を蒔いて芽吹くのを静かに待っていた。
〈了〉

【鯉月】The Apple

【鯉月】The Apple

  • 小説
  • 中編
  • 成人向け
  • 強い性的表現
更新日
登録日 2020-08-29

Derivative work
二次創作物であり、原作に関わる一切の権利は原作権利者が所有します。

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