【鯉月】The Apple

しずよ

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原作軸のオメガバースです。
単行本未収録部分がございますので、ネタバレご注意ください。
直接表現はありませんが、モブ月、堕胎におわせます。
原作に出ないキャラが出てきます。女の子と大英帝国の情報将校、大陸浪人です。

1

 バチーン!
 月島が台に叩きつけたメンコは、鯉登の手製のそれを吹き飛ばしてひっくり返った。そのとたん「やったー!」と歓声をあげたのは、ふたりを取り囲む子供たちだった。ああ、自分が、鯉登少尉のメンコがもらわれていく。鯉登はその場でひとりだけ、感慨深げに月島の様子を見ていた。


 鯉登が軍病院を退院して、小樽市内の兵舎に戻った。二階堂を含めた彼らは鶴見たちに合流するべく、連絡を待って過ごした。ただ待っているだけではない、即応体制の維持が必須だ。次に対峙するのは、残り少ない刺青の囚人か、アシリパと杉元か、それともその両方か。
 小樽には射撃場がないので、接近戦闘訓練を各人が行なっていた。入院により落ちていた鯉登の筋力も、徐々に戻っていった。それでこの日は休憩時間に、腕力の回復の確認を兼ねて始めたのがメンコ遊びだった。
 初日は伊東大将を取られた。正直悔しいがしょうがない。数日前まで長期入院していた身だ。その翌日、ふたりがメンコを始めたら、近所の子供らが見学に集まった。だから鯉登は昨日以上に張りきった、それなのに。月島の伊地知中将が鯉登の大山大将をひっくり返すと、観客たちはどっと沸いた。昨日に引き続き、また大将を取られた。子供らは月島を尊敬のまなざしで見つめている。どうやら彼らはいつの間にか、月島を応援していたらしい。大きな体の将校が小さい兵にやり込めらる姿が痛快なのだろう。この国の民は牛若丸のいた昔から、判官贔屓な気質がある。自分がいつの間にか悪役に仕立て上げられていていい気はしないが、月島が好かれることに対しては、悪い気はしない。フフン、これは私の自慢の部下だからな。子供相手にも、鯉登は自慢がしたくてしょうがない。それで月島に負けて悔しい気持ちは、ひとまずおさめた。
 しかし、そんな寛容さは長くは続かなかった。さらに翌日、東郷閣下も月島のものになった。昨日より増えた子供たちは、一斉にわあっと喜んだ。
「……」
 自分の郷里の自慢の武人たちが、立て続けに三人も持っていかれてしまった。それで腹いせに、鯉登が月島の頭にメンコを叩きつけると「しょうこうさん、メンコはひとにむけてなげたらだめなんだよ」と注意された。月島が鯉登に意味ありげな視線を向ける。鯉登は決まりが悪くなる。
「そうだな、大人げないことをした。すまん」
「……今日はこれでお開きにしましょうか」
 月島はぱちぱちと手を叩きながら、子供たちに「まっすぐ家に帰るんだぞ」と声をかける。そしてメンコに使っていた台座も片付ける。それから緩めていた詰襟を止め直して「では少尉殿、参りましょうか」と言う。
「ああ」
 鯉登と月島は軍病院へ向かった。退院して一週間後の診察のためだった。
 道すがら、街の様子を見る。季節の移ろいにともなう気温のゆるみは、人々の気持ちもゆるやかにしているようだった。「たのもう! たのもう!」と声を張りながら活気よく駆けていく人力車、ヒイインと鳴く馬車馬。それから、出汁のにおいが漂う先にあるのは、おでんの屋台だった。鯉登が思わずつられそうになると、月島が素早くそれを察知して袖を引く。鯉登が道草好きなのは、樺太ですでにばれている。
「おでんはもうじき終わるだろうから、少し見たかっただけだ」
 そう言い訳した直後に、別のにおいが漂ってきた。少し先に牛肉屋があった。店の前で「ヒツテキ~、ヒツテキあるよ!」と呼び込みをしている。それを聞き、鯉登が急に目を輝かせる。勢いよく月島のほうを向いて話しかけた。
「月島、聞いたか! ヒツテキと言ったぞ!」
「……はあ、それが何か?」
 月島は渋々返事をするが、呆れている気持ちを隠そうともしていない。しかし興奮した鯉登はそれに構わずに会話を続ける。
「月島はヒツテキとは何か知っているか?」
「いいえ、存じ上げません」
「ビフテキをそう呼ぶ店が東京に一軒だけあったのだ! あの店の料理人は、東京で修行してきたのだろうか?」
 懐かしさがこみ上げる。そこは陸士時代に何度か食事をした店だった。のれん分けした店だろうか、と思いながら、店の前を通り過ぎた。考えてみれば、卒業してまだ一年ほどしか経っていない。ずいぶん遠くへ来てしまった気がする。鯉登が幾ばくかの感傷に浸ろうとしていると、月島が変に気を回してこんなことを言う。
「あの、少尉殿。もしかして昼飯が足りませんでしたか」
「いや、そうではないが」
 約一年前、月島に初めて会った時のことを思い出していた。その頃は、月島を押し退けて自分こそが鶴見の懐刀になるのだと、そういう野心ばかりぎらつかせていた。それなのに、鶴見ではなく月島と昵懇の間柄になるなんて。想像すらできないような未来が、自分の目の前に現れた。だから、生きることは興味が尽きないのだと、今ならそう思う。もし時間をさかのぼれるなら、十代のやさぐれていた自分に聞かせてやりたくなる。
 隣を歩く男は視線だけ周囲を巡らせて、常に警戒を怠らない。月島らしいな、と思う。でもこの頑固な男も変わったのだ。しかも、そのきっかけを作ったのは自分だ。コタンでの出来事を思い返すと、胸の奥からきりきりした切迫感と、何もかも包み込みたくなるような愛情が湧いてくる。それからほんの少しだけ、いたずら心が芽生える。今、手をつないだらどんな顔をするだろう。そんなことを想像していたら、今度は歌が聞こえてきた。
――豊年じゃ、豊年じゃ、法々法螺の貝。
 頭の上に大きな盤台を乗せ、三味線に合わせて歌っている。おこし売りだった。盤台に乗せているおこしを買うと、三味線を弾きながら歌ってくれる。物珍しさに鯉登が歩く速度を極端に遅くして、その様子を眺める。さっさと先へ行ってしまうと思った月島も、鯉登に歩幅を合わせる。
「少尉殿、やっぱり腹が減ってるんですか?」
「そうじゃない、歌が妙にうまいなと思ってな」
「確かに」
――ちんがらほに追はれて笑ふ声聞けば、豊年じゃ、豊年じゃ。
 パチパチと子供たちが拍手をした。菓子を買っていないのに、結局ふたりも最後まで聞いてしまった。なので鯉登は「ふたつもらおう」と言っておこしを買った。ひとつを月島に手渡すと「私は結構です」と返そうとした。
「診察の待ち時間にでも食べればいい」
「……それでは遠慮なく頂きます」
「うん」
「では参りましょう」
 月島は何でも頑なに拒否することを止めた。それが鯉登には嬉しかったから、こうして事あるごとに確かめた。
 ふと、月島が無言で鯉登に先んじる。明らかに歩く速度を上げた。大して時間は経っていないだろうに。月島の態度を少し不思議に思いながら、鯉登も歩幅を大きくした。そうして角を曲がったところで、月島は振り返りきょろきょろと左右を確かめて、耳打ちしてきた。
「少尉殿、先ほどのような行商人には気を付けてください」
「どういうことだ」
「外国では秘密警察があの手合いに化けて、街中に溶け込み監視しているものです」
「……なるほどな。父上からも、そのような話を聞いたことがある。海軍にも公使館付き武官から、現地の情報が入ってくるのだ。最も、関東都督府の特務機関には及ばないが」
「そうでしたか。それならば話は早い」
 そうしておこし売りから離れたからか、月島はやや緊張を解いた。
「お前はそういった海外での諜報活動に詳しそうだな」
 気になるから、鯉登は思い切って聞いてみた。打ち解けたとは言え、鯉登はまだまだ月島がどんな風に生きてきたかを知らない。
「……詳しくはありませんよ。鶴見中尉殿から教わっただけです」
「しかし月島。我が国には秘密警察はおらんだろう」
「そうなのですが、我々を出し抜きたい奴らがいるでしょう」
 それは土方歳三一派を指しているのだろう。
「そうだな、奴らの根城がどこにあるかも分かっておらんからな」
 それに、土方がどんな奴らと手を結んでいるのかも定かではない。そして札幌では、連続殺人事件が起きていると聞く。刺青の囚人ならば、彼らも近くにやって来るだろう。だからいつ何時、鶴見からの招集がかかるか分からない。そういう緊張感は持ち続けているはずだった。が、一方で、このままの日々が続くのではないかという気持ちもあった。
 いかんな。退院してから完全に気が緩んでいる。鯉登は自信を叱咤する。気の緩みは自分だけでなく、仲間をも危険にさらす。ふと隣を見る。護らねばならないと、気を引き締める。月島はコタンで鯉登を粛清する素振りを見せたけれど、それは脅しでその実は逆だったのだろうと思っている。
「どうかしましたか?」
 鯉登の視線に気づいた月島が、疑問を口にする。
「いや、病院くらいひとりでも大丈夫だと思っただけだ」
「単独行動は慎んでください」
「お前がそれを言うか」
 ふふ、と笑うと、月島はばつの悪い顔をした。あの時、月島と谷垣に気付かなかったら。気付いて追ったとしても、鯉登の説得を月島が突っぱねていたら。
 誰も死ななくて良かった。少し前の自分は、そんな風に考えただろうか。鯉登もまた樺太の任務までとは、違う自分に生まれ変わった気がしていた。そしてその変化は鯉登だけではなく、月島にも波及していて、それを隠さなくなった。
「近頃どうにも……、水の違う川に迷い込んだ気分です」
 月島がぽつりと自分の心境をこぼす。一週間滞在したコタンでも、口数の少ないのは相変わらずだったから、こんな話はしなかった。珍しくて、驚きまぎれに鯉登は無遠慮なことを言ってしまう。
「月島ァ、お前は鮭か」
「失礼しました。私が立身出世を果たすのは不可能ですね。接待メンコもできませんし」
「違う違う、どうせなら鯉になれと言っておるのだ私は」
「……私には滝をのぼる能力はございません」
 これまた珍しく、鯉登に向って愛想笑いをした。そういう意味じゃないぞ月島ぁん。鯉登は月島に見られないように、口を尖らせた。


 病院に到着して、鯉登が受付で名前を書く。嗅ぎ慣れた消毒液のにおいに混ざり、微かに甘い何かが鼻をかすめる。鯉登は不思議に思って顔を上げた。菓子か? いや、菓子売りが院内に立ち入るはずはない。ポケットに仕舞ったおこしの袋を取り出す。が、これは砂糖より生姜の匂いが強い。受付台の隅には花瓶に活けられた花があった。そうだ、さっきの香りは花の香りに近い。顔を近づけて嗅ごうとした。すると受付に座っていた女性が「鯉登さん、さっきからご家族がお待ちですよ!」とにこやかに笑う。
 鯉登は聞き返す。
「家族?」
「ええ、お昼前だったかしら? お嬢さんがひとりで来たのよ」
 鯉登は呆然として固まった。空耳か、何かを聞き間違ったのだろうか。動転して言葉も忘れそうになる。どうにか声を絞り出す。
「……済まない、もう一度聞くが、誰が待っていると?」
「お嬢さんですよ。いま看護婦の詰所に待ってもらっているから、呼んできますね」
 女性は部屋の奥へ歩いて行った。鯉登は混乱しながらも月島を見た。口は厳しく引き結んでいるが、やや目を丸くしている。もしかしたら彼も、自分と同じように動揺しているのかもしれない。鯉登はそれだけは妙に冷静な頭で考えた。

2

 鯉登と月島が気もそぞろで待つこと約三分、受付の女性は女児を伴ってふたりの前に再び現れた。年の頃は五歳くらい、おさげ髪にリボンを結び、矢絣の小袖に袴姿の女学校に通う学生風の出で立ちだ。
「おとうさま!」
 女児は嬉しそうに声を上げ、鯉登に勢いよくしがみついた。
「な、……」
 鯉登はさらに目を見開いて硬直する。女児は顔を上げて満面の笑みを浮かべる。
「とつぜんいなくなるから、わたくしびっくりしました。おとうさま、いつももうしあげているでしょう? さきにひとりではしったらだめですよ」
「あ? ああ……、うん、すまん」
 小さな子にたしなめられて、鯉登は思わず謝った。我に返る。
「つ、つきし……」
 振り向くと彼は深くうつむき、肩を震わせている。笑いを堪えているのだと分かった。
 いったいこの状況のどこに笑う要素があるのだ月島ァ!
 鯉登は叫んで非難したかったが、病院の中だということを思い出してぐっと飲み込んだ。受付の女性がふたりの様子を見て微笑む。
「お父さんと会えて良かったわね。じゃあ鯉登さん、お熱を計ってしばらくお待ちください」
 そう言って体温計を渡して受付に戻って行った。鯉登は上衣のボタンをはずして、体温計を脇に挟む。そして憮然とする。
 なぜ子供の言うことを、ひとかけらも疑おうとしないのだ。
 でも病院側がそう判断する理由があった。
「ちょっと失礼」
 月島が横から女児に手を伸ばす。前髪を少しかき分けると、隠れていた眉の形が露わになる。それは鯉登と同じ形をしていた。月島も嗜めるように言う。
「どこからどう見ても、あなたのお子さんでしょう」
「全く身に覚えがない!」
 月島まで疑りの目を向けるので、鯉登は憤慨しながら「歳は幾つになる?」と女児に尋ねた。
「五つです。ごじぶんのむすめのとしを、おわすれにならないでください」
「ほら月島ァ! 私が十六の時の子供ということになるではないか! あり得んだろう!」
「十六歳ですか……」
「……あっ、確かにその当時は函館に住んでいたが、受験勉強で女にうつつを抜かす暇なんぞなかった!」
 鯉登の勢いに女児が驚いて、目を丸くしている。
「少尉殿、子供の前ですし、あまり興奮なさらず」
 月島が諫める。このような落ち着き払った彼の態度も、鯉登の気に障った。
「このおかたのおっしゃるとおりですわ。おとうさま、びょういんではおしずかに」
 女児は人差し指を口の前に一本立てて、しーっと言う。それを見て鯉登はウッと声を詰まらせる。
「……そうだな、私が悪かった」
 何度か深呼吸をして、なんとか心を静めた。そして待合室の椅子に腰掛ける。しかし月島は後ろに立っているので「お前も座らんか」と鯉登が言うが「ここで結構です」と突っぱねる。
「では私も立つ」
 鯉登は月島の隣に立って待つことにした。
「少尉殿、そろそろ体温計を」
「……そうだな」
 取り出して見ると、水銀がぐんと長く伸びている。熱がある。しかも結構高い。鯉登はぎょっとして、こちらを見ていた月島から体温計を隠してしまった。
「見せてください」
 月島が手を伸ばして体温計を奪おうとするから、上に高く掲げた。すると月島はすかさず鯉登の額に触ろうとした。素早く避けた。
「な、何も問題ない! 返してくる」
 受付に差し出すと「あら、いつからお熱がありますか?」と聞かれた。今度は鯉登がシーッと人差し指を口の前に立てて、声を潜める。「ついさっきだ。ここまで走ってきて暑いだけだ」と子供のような言い訳をしてしまった。
「……そうですか。もうしばらくお待ちください」
 受付の女性は口元だけで笑った。鯉登の言い分などちっとも信じていない目だった。具合が悪いのに元気な振りをする患者には、慣れているのだろう。実を言うと、今朝方から少し熱感があった。寝冷えでもしたのだろうか。しかし悪寒等の風邪らしき症状はない。
 ひとつだけ懸念があったのは、胸の傷から何らかの感染症にかかること、と入院中に医師から説明を受けていた。内部の傷の状態を詳しく診ることは不可能だが、もうほとんどふさがっているだろうと診断されている。だとすると、一体何が原因で熱が出たのか。鯉登の胸に一抹の不安がよぎる。
 受付から椅子に戻ろうとすると、女児と月島が向かい合って深々と頭を下げている。
「ふたりで何をしているんだ」
「自己紹介です。お嬢さんは袖章で私が軍曹だと分かったようです」と月島が自分の外套の袖をちらりとめくる。
「そうなのか?」
 鯉登は驚いて女児を見ると、月島が理由を述べる。
「ええ『おとうさま』から習ったとおっしゃってます」
 「おとうさま」を妙に強調するのが、嫌味に聞こえた。鯉登は月島をねめつけてから尋ねる。
「月島、この子の名前や住所は聞いたのか?」
「ええ、うかがいました。お名前は鯉登文子さんで、住所ははっきりしませんが、話から判断すると旭川市内のようです」
「鯉登……か」
「そうです」
 着衣から何か分かることはないか。そう思って鯉登は文子を見ると、肩から大きめの巾着袋を下げている。
「それに住所が書かれていないのか?」
 鯉登が確かめようと「見てもいいか?」と手を伸ばすと「これはたからもの入れだからだめです!」と強く拒否された。
「そうなのか、すまん。それなら文子とやら、父や母の名前を言えるか?」
「はい。おとうさまのお名前は、鯉登音之進です」
 月島はそれを聞いた途端に、やっぱり、と言いたげな視線を向ける。「同姓同名で同い年くらいの男性がこの近辺にいるとは、にわかには考えられませんからね」
 鯉登はますます混乱する。
「それなら母親の名前は何と言う?」
「おかあさまはおりません」
「え? いないのか?」
「わたくしを生んだあとになくなったといったのは、おとうさまです。しゃしんもありませんので、おかおもぞんじあげません」
「亡くなったのか……」
 ふたりは言葉を詰まらせる。しかし混乱しながらも鯉登はぐるぐるとあらゆる可能性を考えた。
「母方の親戚の線もあり得るから、後ほど母に電報を打ってみることにする」
 夢か幻か現実か。この子は一体何者なのだ。自分の名前を出されたところで、何かの間違いとしか考えられない。なにぶん子供ができるような行為をしていないし、五年もの間、育ててもいないのだから。それとも誰かが自分を嵌めようとしているのか。それならば、いったい何のために?
 そんなことをつらつらと考えていると、外科の診察室から名前を呼ばれた。

 
 亡くなった家永の後から担当になった医師だから、優秀なのかヤブなのかもよく知らないまま退院した。胸や背中に聴診器を当てたり、触診したりしている。今思うと、家永は医師としては信頼できていたのだな、と鯉登は思い出していた。一通り終わると、いくつか質問をされた。
「走ったら息苦しい?」
「いや、特に感じない」
「そう。怪我の経過は問題ないね。でも朝から熱がある、と。他に症状はある?」
 実は鯉登には、不調という程でもない些細な体調の変化があった。
「二日くらい前から、嗅覚がおかしい。それと歯が浮いた感じがする」
「鼻か。つまってる? それとも匂いに敏感になってる?」
「敏感になっている気がする」
「歯の違和感は上の歯? 下の歯? それとも全体?」
「上の歯だ」
 医師は腕組みをして、カルテに目を通しながら「うーん」と小さくうなる。ややあって、鯉登にこう言った。
「えーっとね、確認なんだけど、鯉登さんは現在独身で、バース性はアルファだよね?」
「そうだ」
「抑制剤は服用してるよね?」
「ああ、十二歳頃からずっとだ」
「最近、飲み忘れてない?」
 それまで淀みなく質問に答えていた鯉登が、初めて言葉を詰まらせた。
「……実は先月、一週間飲めなかった期間がある」
 小樽のコタンに滞在した間がそうだった。
「一週間かー。よし、血液検査しようか。結果は内科の方で話するから」
 外科での診察が終わり、血を採取されて待合室に戻る。すると待合室では文子がおこしを食べていた。月島があげたのだろう。遠目でもふたりが打ち解けている雰囲気があった。鯉登に気付いて月島が立ち上がる。
「少尉殿、どうでしたか?」
「ああ、怪我の方は問題ない。今回で通院も終了だそうだ」
「そうですか、安心しました。では帰りますか?」
「ひとつ検査をしたから、その結果を聞いてからな」
「検査ですか? 怪我の他にも何かあったのですか?」
「大したことない。念のためだと医者も言っていた」
 大事にしたくなかったからそう言うと、文子が鯉登の手を握った。
「おねつがある日は、はやくおやすみになってください」
 悲しそうな眼をするから、鯉登は少し胸が痛んだ。
「ああ、ここから帰ったら、今日は早めに休むことにする」
 鯉登は初めて文子に笑いかけた。そして病院が終わってからの段取りを考える。まず郵便局へ行き、母に電報を打つ。それから派出所へ行って捜索願が出てないか聞いてみようと思った。
 病院内は特に込み合ってないが、血液検査だから時間がかかる。文子は月島に絵本を読んでもらっていたが、すべての本を読んでしまった。それでもまだ鯉登の順番が来ない。受付付近に置いてある金魚鉢を眺め、それに飽きると紙と鉛筆をもらって絵を描き始めた。鯉登と月島を描いてくれた。五歳にしては上手だと思った。そのうち文子は月島にも描くように迫った。そんなやり取りを微笑ましく見ていたら「鯉登さーん」と内科の診察室から呼ばれた。
 椅子に腰かけると医師が検査結果を説明する。
「血液検査の結果ですが、白血球が増えてないですね。発熱は細菌やウィルスのせいじゃないでしょう」
「ならば原因は何だ」
「おそらく発情でしょう」
「は……、発情?」
「ええ、初期の段階ですね。あのー、ひょっとして初めてですか?」
「初めてだ。熱を出したこともほとんどない」
「そうですか。そういうことなんで、特に心配ありません。しばらくは苛々したり頭が重くなったりしますが、発情に伴うよくある症状です。熱も数日で下がるでしょう。ところで、どうしてそうなったかの話になりますが」
「ああ」
「近くにオメガの方はいますか?」
「知らん。バース性を尋ねるのは軍規に反する」
「ですよね。まあ師団内でなくとも、近くの飲食店の従業員とか、他には道ですれ違っただけでも、フェロモンを感じ取って発情を促される場合はあります」
「それなら無限に可能性はあるではないか」
「そうなんですよね。接触を断つのが一番なんですけど、オメガの方の特定が困難だから、難しいよねー」
 医師は困った顔を向ける。
「オメガが誰だかわからず接触したままならどうなる」
「本格的な発情になります」
「……それは、私が誰かに無体を働くかもしれない、と」
「そうなります」
「それは困る。今飲んでいる抑制剤より強い薬はないのか?」
「ありますよ。ただし副作用も強くなります」
「どういった影響があるのだ」
「血管内の血が固まりやすくなります。なので、長期間の服用は避ける必要があります。あとは、脂肪がつきやすくなったり髭が薄くなる等、体が女性的になります。けれど、これは数日間の服用ではほとんど分からないから、気にしなくていいでしょう」
「承知した。その薬を出してくれ」
 医師は「それじゃあ、七日分出しておきます」と言って診察を終了した。鯉登が待合室に戻ると、文子は月島にもたれて眠っていた。
「待たせたな」
「どうでしたか?」
「知恵熱だと言われた。だから案ずるな」
「はあ?」
 月島は到底納得できないと言いたげな顔をしている。それもそうだろう、と鯉登は自分でもそう思った。
 鯉登は嘘をつくのが苦手だった。だから、風邪だと言えばいいものを、それが嫌だから、お道化て相手をけむに巻く方法しかできない。
 それでも月島はこれ以上追求しなかった。十分ほどして受付から呼ばれて、薬と検査結果の書かれた用紙をもらった。
「では帰りましょう」
 眠っている文子を月島が背負う。病院を出るとまず郵便局へ向かった。青森に住む母に、文子を知らないか尋ねる文面を送った。それから次に、派出所へ向かった。巡査に事の次第を説明して、小樽か旭川で捜索願が出ていないか確認してもらうことにした。
 その途中で、文子の目が覚めた。すると巡査は本人に住所や氏名、年齢等を尋ねる。
「お嬢ちゃん、お家からここまでお父さんかお母さんと一緒に来たのかな?」
「おかあさまはおりません。おとうさまといっしょにきました」
「お父さんとはぐれちゃったのかー」
「はぐれておりません」
 文子はそう言って鯉登の後ろに隠れた。
「え? どういうこと?」
 巡査は不可解な顔をする。
「この人が、わたくしのおとうさまです」
 文子はそう断言して、巾着の中から紙を取り出す。それを巡査に見せると、彼はあきれ顔で「あのさァ、旦那方、勘弁してくださいよー。俺達だって暇じゃないんですよ。言いたかねえけど、これ以上からかうなら公務執行妨害でお縄になりますよ」
「からかってなどいない!」
 鯉登が憤慨して言い返す。
「でもこのたくさん張り付けた顔、あなたでしょ?」
 文子が差し出したのは、鯉登が作ったクソコラ写真だった。鯉登と月島は唖然とした。
「月島、あの写真を文子にあげたのか?」
「いいえ、私はあなたの工作写真は持ってませんよ」
 この状況で食い下がっても「親子ではない」証明もできないので、月島が「少尉殿、出直しましょう」と帰ることを促した。三人はとりあえず兵舎へ向かって歩き出す。が、問題があるとふたりとも考えていた。
「しかし、兵舎に泊まらせるわけにはいくまい」
「はい、女性用のお手洗いもありませんからね。どうしましょうか」
 鯉登が腕を組みしばらく黙りこくる。それから再び月島の知らない話をした。
「東京なら迷子しらせ石碑があるのだがな」
「何です? それ」
「湯島天神や両国橋で見たことがある。明治以前は祭りや盛り場で迷子になる子供がずいぶん多かったようだ。それで迷子の特徴を書いた紙を貼っておく石碑があるのだ」
 石碑には左右に窪みがあり、一方に「たづぬる方」反対側に「しらする方」と張り紙がしてあった。そこに尋ね人の張り紙をしておくのだ。それでも親が見つからなければ、村全体で子供を育てていたという。それを聞き、月島がはたと気づく。
「村全体で子育てですか。そう言えばコタンにいる間、彼らも似たような話をしていましたね」
 だからアイヌの人々は、稲妻夫妻の子供を育ててくれている。しかしそうかといって、文子までアシリパの祖母のいるコタンへ預ける訳にはいかない。
「そうだな……、ひとまず軍病院に相談してみるか」
「それがいいかもしれませんね。私が今から戻ります」
「私も一緒に」
 鯉登が言いかけた言葉を遮るように、月島が額に手を当てた。
「熱いですね。早く戻ってお休みください」
 その瞬間、鯉登は体温がまた上がった気がした。月島の上衣から、ふわりと甘い匂いが漂ってきた。
 鯉登はしばらくその場に立ち尽くし、月島と文子の後姿を見送った。必死に先ほどの匂いの記憶を手繰り寄せていた。
 これは、私の知っている匂いだ。そうだ、確か夕方から咲き始める白い花の香り。名前は――忘れてしまった。



 月島が軍病院に戻った時刻は午後四時で、受付は終了していた。そこで事務作業をしていた女性に月島が相談すると「院長に聞いてきます」と奥へ行った。十分ほどで戻ってきた。
「どなたか責任者がひとり病院内で待機してくれるのであれば、空いている寝台の使用を特別に許可するということです」
「感謝いたします。私が待機します。それと、もうひとつお願いがあるのですが」
 月島は重々しく言葉を続けた。
「はい、何でしょうか?」
「今から内科で診察してもらうことはできますか?」
「あら、文子ちゃんどこか具合が悪いのかしら? それともあなたの診察ですか?」
「私です」
「軍属の方なら時間外でも大丈夫ですよ。どのような症状ですか?」
「抑制剤の処方の追加と、今晩の保護を申し入れたいのです」
「……承知いたしました。ここにお名前を記入して、お掛けになってお待ちください」
 女性は再び奥へ消えた。すかさず文子が月島に話しかける。
「つきしまさま、おかげんがよろしくないのですか?」
 そうして文子は上に手を伸ばすから、察して月島はしゃがんだ。彼女は額に手を当てる。
「あら、つきしまさまもすこしおねつがありますね」と表情を曇らせた。
「ええ、なので今晩は私も病院内の別の部屋に泊まらせてもらいます。何か困ったことがあったら、看護婦さんに伝えるといいですよ。私もすぐに行きます」
 月島が柔らかい表情を向けると、文子は「ありがとうございます」と恥ずかしそうに笑った。

【鯉月】The Apple

【鯉月】The Apple

  • 小説
  • 短編
  • 成人向け
  • 強い性的表現
更新日
登録日 2020-08-29

Derivative work
二次創作物であり、原作に関わる一切の権利は原作権利者が所有します。

Derivative work