独立の儚1️⃣
独立の儚 1️⃣
-時子-
一九六〇年代にある作家の「北東独立共和国-異民の夢-」がベストセラーになった。映画化されてこの国で初めてアカデミー賞を受賞した。作品賞、監督賞、主演女優賞だ。かつてない北東、海北道、アイヌブームが巻き起こり、全北東の独立を志向してきた活動家達の間に共同歩調の機運が高まった。
一九六〇年五月。北の国、北東の奥深い湯治場である。粗末な部屋で若い男女が声を潜めて同衾している。
女は時子、ニニ歳。男は草哉、ニ一歳。二人とも首府の大学の学生だ。彼らは新左翼政党の「日本革命協議会(革協)」の多額の秘密資金を奪い、逃走していたのである。
時子は、革協の主要幹部で某大学の助教授の女だ。彼女は教条的な思想に染まっていたがゆえに、国防協定改定反対闘争の結論が見えた状況と、革協の現況や日和見の恋人の助教授に、心底から失望し蔑んでいた。同時に、若い女の身体を貪るだけの助教授に激しい嫌悪を抱いた。
「全学協委員長の唐津が倫宗という宗教団体から金を貰ったのは確かよ」「組織は堕落し切ったのよ」「もうこの闘いは終ったわ」「大学はやめるわ」「手切れ金よ。どうせろくでもない金だもの」
その日の大規模なデモで機動隊にしたたかに殴られ、時子の部屋で手当てを受けていた草哉は、弾みの様な性交の後に時子の誘いに同意したのだ。
その日のうちに革協の事務所から一億を奪い、二人は北に向かう夜汽車に跳び乗ったのである。
一週間を経て、イワテのサンリク海岸を縫う地方線を一両だけで走る列車に、金はすべて女に渡して別れてきた草哉が乗っていた。夕暮れが迫っている。
男は海の見えるとある駅で降り、泣き砂の浜に立った。ウィスキーを一含みするとその都度に、瓶を潮に浸して煙草を吸う。「やっと一人になれた」男は声に出して呟いた。
ー党員の女ー
草哉が時子を抱いたのは、ある党の党員だと知ったからだ。。こうした容姿の女を男は決して好きではなかった。神経質そうに細身で、芳醇な色香というものを到底感じる事はない。平生なら全くの無関心な筈なのだった。
もう一人、党員の対極的な女を男は知っていた。高校一年の時に、卒業した中学に赴任してきた三十半ばのグラマーな英語教師だ。服装に頓着しない女はいつも黒いズボンを穿いていたが、女の意に反して、安価な生地が女の豊満な肢体に吸い付いて肉感を悪戯に露出するのだ。直ちに狭い村中の噂が立った。 性欲ばかりが充満していた草哉は、その豊かな尻と盛り上がった股間を夢想して、幾たびも自慰をした。そして、女は党員だと言う噂が当時から狭い村にはあった。その女がニ年を経て党公認の参議院選の候補者になったのだ。外宣に立つ女の装いは一変していて、草哉は驚愕した。時には豊かな太股を連想させ、時には異様に盛り上がった股間の割れ目すら彷彿とさせる服装に、まるで性的魅力で集票せんが如きの党の戦略すら感じた。この肉体に有権者の男どもの卑猥な邪推や揶揄が飛び交った。
時子は性交を思い立つと、驚くほど素早く真裸になった。大柄な女だ。スポーツをしていたのか、引き締まっている。女の肌は白いが輝きを失い乾燥している様に感じた。尻も扁平で貧弱だ。排泄機能しか連想させないのである。
温泉宿での時子との爛れた五日目が終わる頃、草哉は衝動に流された自分を痛烈に悔いた。 山懐に抱かれた出で湯で時子の身体に馴れると、今まで命懸けで関わっていると思っていた情況から全く隔絶されている自分がいた。強酸性の湯に洗い流され、少年の日に立ち返った様に思えた。
「革命は幻影だったのだろうか」とさえ思えた。何よりも、この逃避行は時子を愛しての所業などでは毛頭なかったのである。そして、女の性はあからさまに自己本位だった。男はすっかり萎えてしまっていた。だから、一人になって根源から考えなければならないと、思った。
朝ぼらけに別れを切り出して、金は一切いらないと言うと、時子はあっさり同意した。草哉は死体を残す如くに、そそくさと宿を出たのである。
-草哉-
草哉は北国山脈の懐の悠久の山里で生まれ育った。サンリクのこの夕焼けの白い浜も、自然そのものだ。古来より自然はいか程も変わっていないのではないか。塵埃ほどの自分はどれ程変わってしまったのだろう。
首府での数年は狂気の夢の中にいたのではないか。既存の革新政党も、それを凌駕しようとした新左翼も、もはや蜃気楼の論理と帰したのではないのか。 そもそも、あの戦争の総括をないがしろにして、経済復興にのみ邁進する事をよしとして来たこの国の国民とは、いったいどうした民族なのか。
革命を幻想して、暴動寸前だった国防協定改訂反対闘争が、津波が退く如くに急激に鎮静し、陳腐化すらしつつあるのだった。
-菜々子-
駅の近くに旅館はなかった。無人の駅舎に戻り、今夜はここで寝ようと男は腹を決めた。
ぼんやりと狭い広場を眺めていると、通りの向こうに赤い提灯が点った。居酒屋の様だ。
引かれるように歩み着くと、水を打った入り口の引き戸が開いている。狭い店内に誰もいない。奥の小上がりから声がする。草哉は三席ばかりのカウンターに座り煙草に火を点けた。
暫くしてカウンターの奥から、青い半袖のワンピースの女が、豊満な乳房を揺らして現れた。草哉と目が合うと、声を洩らして口を押さえ、にこやかに、「夕方、浜にいたでしょ?」と言った。
艶やかな声と桃色の肌に感覚を奪われ、女の瞳の輝きに男は気づかない。開店が遅れた訳を言い、女将の菜々子だと頭を下げた。
草哉はウィスキーを頼んだ。
女の初見の客に対するいくつかの確認の問いに、男は短く答える。「学生さんでしょ?」と改めて確かめ、「自分で飲むんだから安心して」と断って、女もウィスキーを飲む。丁寧に仕込まれた肴が人柄と技量を表していると、男は思った。
男の短いが端的な言葉遣いに知性を女は感じた。そして、お互いの瞬間の所作や言葉に、新しい発見が次々と積み重なっていく。
その空気を打ち破り、ひとしきり騒がして小上がりの数人の客が帰ると、「今日はもういいの」と言って、女は暖簾を下ろして、カウンターの男の横に座った。湯上がりの香りが漂った。
本当に二人きりの夜になった。女に聞かれるまま、草哉は国会周辺の騒乱の状況と、故郷に逃れた感慨を話す。「北の国の自然は特別なのよ」「あの戦争って何だったんでしょうね?」菜々子は問わず語りに生い立ちを話し始めた。
兄は戦死し、センダイの空襲で両親が焼死した。母の実家のこの浜にいた自分だけが生き残った。子供のいない叔父夫婦に引き取られ、高校を出てからはセンダイのデパートで働き、二年前に叔母が病死して店を継いだ。女は二八歳だと言った。
酔った女は浜の古謡を歌う。
ユンサーユンサーユンサー
旅のお方にゃ情けをおかけ。
沖のカモメにゃ明日の天気。
あちらもどちらも気紛れままよ。
ユンサーユンサー
海がざわめきゃ胸苦しいよ。
浜の女は待つのがさだめ。
旅のお方は気紛れままよ。
ユンサーユンサーユンサー
ブルースだと男は思い、女はジャズが好きだと言い、「あなたもままならない旅の人なの?」と、「少し酔ったのかも知れないわ。海は豊かなのよ。先程の客の一人が叔父で漁師なの。そこでなら働けるわよ」と、菜々子が言い、草哉が頷いた。
その夜、男は小上がりで深々と眠った。女は二階にいる。
-異民の儚-
菜々子の初老の叔父は、草哉の頑健な体躯と酒豪ぶりが気に入った。そして、草哉は期待以上によく働いた。番屋で寝起きして夜は時折、菜々子の店で飲んだ。二人は最初の夜に抱いた予感が、やがて確信に変わるだろうと密かに気付いている。
二ヶ月がたったある夜。菜々子が映画に出演する話があると、切り出した。
この浜の外れの岬に、松本清明という流行推理作家の別荘がある。
菜々子はたまたま店を訪れた作家に気に入られて、その管理を任されていた。滞在中は食事の管理や、時には口述筆記もした。作家の「北東共和国-異民の儚-」という、二〇〇万部を超える話題作が評判になっていた。作家は映画製作のプロダクションを持っていた。
「北東共和国」の映画化を決め、作家は菜々子を重要な役所で出演させたいと思った。困惑する菜々子の返答が遅れる間にも、叔父も承諾してあれよあれよと、地域をあげて支援態勢が組まれてしまったのであった。
「先生が芸名までつけてしまったのよ」と、男に書類を差し出した菜々子が草哉の決断にすがろうとする。書類の表紙には、『夏 翔子君』と、したためてある。それは、台本の草稿の様なものだった。作家の原作の菜々子の出演部分が記載されていて、所々に作家の注釈が入っている。幾つかの歌詞も書かれていた。
(続く)
独立の儚1️⃣