典子 初恋へのloveletter
典子・初恋へのloveletter
純真から恋した人はあの季節のあの少女しかいない。老境を感じるこの頃になって、草也は痛切に解るのである。
空が高かった。川は底まで澄み、採石場の王国で銀色の砂利の迷路に光の化身の小魚を追い込んだ。
胸を騒がす南風が異国からしばしば吹き渡ってきた。
田んぼの水路の水草に潜む、遠い昔に魔法をかけられた様々な小魚達。熟れたトマト。胡瓜。味噌握り。井戸水。
密かに作った隠れ家の秘密。胡桃、グミ、柿、桑の実、無花果、巴旦杏、グーズベリー、筍。
麦畑の模型飛行機。蓮華草。楮。
同級生の母親が自殺して沈んだ池。都会から疎開して居着いた工場主の妾とそのスピッツという飼い犬。線路脇の半島人のバラック。薬局の女主人の乳房。教師達のあからさまな性。茶殻を乞う乞食の家族。旅芸人の一座。蛇の見世物。イナゴ取り。薪割りと風呂炊き。台風の予感。小さな戦争の数々。
それらだけで創られた世界にあの少女がいた。
そうして、草也は終章を迎えている。あの人はどうだったのだろう。生存しているのだろうか。確かめる術はある。しかし、決してしない。してはならない。儚さへの悔恨とはそんなものだ。何事かをしても、到底、埋め合わせられるものではない。あの初恋の時は永遠に失ったのである。
いったい、少女はどんな生涯を辿ったのだろう。あの少年の容貌をなぞる事などはあったのだろうか。もはや老境なのだ。光陰とは何と残酷な試練なのだろう。
あの時から状況は何も変わっていない。この国は愚かなままだ。私も何も変わっていない。反逆を続けている。
ー典子という人-
初恋の人の容貌や姿態は書かない。ましてや閨房は書かない。
好きこそものの上手なれ、と言う。典子は料理が好きなのだ。掃除も洗濯も好きだ。何事にも手際がいい。工夫する。利発なのだ。
そもそも、生来が働き者なのである。そういう育てられ方をした。母親が偉かったのだと典子は言う。生家は中農で、父親は穏やかな役場職員でもあり、後に村長に推された。
家計の管理も完璧だ。決して吝嗇ではない。合理的なのだ。生き方の万事が建設的なのである。
本を読む。新聞は勿論だ。そのせいか、元来豊かな情緒と論理的な思考を程よく調和させて、物事を考える。
適度な湿気のある文章が書ける。短歌も俳句も、時おり、草也の意表を突く。慎ましい流麗な文字だ。何よりも、草也の作品を存分に理解できる。
唄が好きだ。素朴に歌う。ピアノを弾く。家事をしながらの小鳥の囀ずりに似た鼻唄を聞くのが、草也は堪らない。
絵画や陶芸にも造詣が深い。
花や果樹が好きだ、と言うより、庭仕事が好きなのだ。土が好きだと言う。
季節の移ろいに敏感だ。旧暦で行事を準備する。
海が好きで随分と泳ぐ。
典子は押し並べて情感が豊かなのだ。
贅沢を好まないがお洒落だ。手際よく薄化粧をする。
典子は健康である。熟睡するせいか睡眠時間は短い。粗食を好み健啖だ。
典子は何より草也が好きなのである。愛おしいのである。草也の趣向や思想にことごとく反応して、受け入れ、同意している。草也の生き方に寄り添おうとする。
-典子-
一九××年の盛夏。穏やかな山あいを南に走る一両だけのディーゼル車に、典子の、決して美貌ではないが、知性と慈念に満ちた顔がある。時おりたおやかな笑みを見せる。
草也は陶酔に包まれて、その菩薩顔と向い合わせで座るのだった。
これからどうなるのか、草也は考えることすらしない。しかし、単線のこのレールが状況を切り裂く地平に辿り着くのだと、思えたりもする。
そして、つくづくと回想するのだった。
-追憶-
典子は草也の初恋の人だ。
草也が児童会長で彼女が副会長。教室で映画鑑賞の時、暗闇の中で座った足の指先が触れ合ったが、彼女は避けなかった。その感覚が鮮明に残っているのだ。一二歳であった。
中学一年の初夏に少女への思いを友達に洩らすと、告白しろと言う。ある日の放課後、少女は友達と二人で自宅に続く田んぼ道を歩いて行く。草也達二人は随分と間をあけて追った。最後までその距離はつまらなかった。満開の蓮華草の中を歩く草也のためらいは何だったのだろう。
運動会の合同練習だったのか、フォークダンスでクラスの違う典子とあわや手をつなぐ状況になった。草也は踊りの列から離脱した。中学二年だった。
中学三年に少女と初めて同じクラスになった。初夏の朝、典子からの短い手紙が机に入っていた。「競って勉強しよう」「先生とも話した」担任の草也の義母のことだ。模擬テストは彼女が二位、草也が三位の成績で、父母が勧める学区外の進学校合格には草也は少し点数が足りなかった。草也は受験勉強はせず本をよみあさっていた。学区内でいいとも考え、それよりも陰湿な家や狭い村をいかに抜け出すかを考えていた。恥ずかしさの反動だったのかもしれない。あるいは義母に話したことへの動揺だったのか、怒りだったのか。草也は即座に手紙を突き返した。典子の悲しい表情が草也を突き刺した。若いという事ことはこんなにつまらないものなのか、草也は一日中悔いた。この頃「罪と罰」を何度か読んだ。主人公の女性と少女を重ねていたのかもしれない。恋愛小説をいく通りも構想したが、純白なこの記憶には及ばない。
-展望-
草也は典子と郷里の盆踊りで再会したのだった。満月の黄金色の夜だった。
典子は隣県のある大学の二年。草也は首府のデモで逮捕され、留置所を出て帰省したばかりだ。浪人二年目の夏である。
その夜、二人は抱き合った。激しい抱擁の後に、
「世界と対峙している」と、うそぶく草也に典子が囁いた。「私の部屋に来ない?」典子の身体が火照っていた。
そして、翌日に二人は隣県へ向かった。草也は数日の遠出を装った短い書き置きを父宛に残したが、行き先は明かさなかった。
典子のアパートは暑かった。風呂はない。
三日目に、草也はアルバイトを探しに出た。
地方銀行の本店を通りすぎて暫く歩いていると、後方から悲鳴が飛んだ。引ったくりだ。中年の男が駆けてくる。草也は咄嗟の機転で路上の自転車を投げつけた。犯人は転倒し気絶して逮捕された。
被害者の初は老舗旅館の女将だ。五〇歳である。初は警察署を出た後も礼を止めない。そして、草也の状況を聞くと、ある喫茶店に誘った。四五歳の初の妹が経営していた。
草也はその二階に居住する事になった。典子には相談せずに決めた。階下の喫茶店でアルバイトで働きながら、ある小説の構想を思い立って、一日に五枚の原稿を書いた。三ヶ月で二〇〇枚の中編を仕上げた。
それが、ある文学賞の候補になった。取材が相次ぐ。長編を依頼された。合間に書いた二作目の中編が、その半年後にある文学賞を授賞した。草也は喫茶店を辞めて作家になった。そして、マンションを借りた。
二年で、あるテーマの四部作が完成した。映画化もして大ヒットした。
大学を卒業した典子は就職せずに翻訳家になった。
(続く)
典子 初恋へのloveletter