再び典子

再び典子


 ある病院の広い待ち合いロビーで、二人は、偶然と言うには余りの衝撃に打たれて、不可思議とも思える邂逅をした。
 女の名を告げる放送に男の鼓動が反応して、ふと見渡すと精算カウンターに歩むのは、僅かだが核心の面影を明瞭に残した、幾度か反芻してはみたがまさにその人だった。声を掛けると、女の凝縮した瞳がスローモーションの映像の微動で潤んで溶けた。
 男は手術の後遺で歩行が不自由だったから、病院内の喫茶店でコーヒーから軽食を挟んでまたコーヒーに移るまで話し続けると、やがて、あるたぎる情念を二人は共有しようとした。

 典子は長い間、同じ街の私立高校の教師だった。独身だと言う。そして、いくらか疲弊している様にも見える。
 あの頃の世界に戻りたいと呟き、幼い頃の幾つかの光景を克明に描写してみせた。
 映画教室、高い太陽と蓮華草、クワイ川マーチ、そしてあの手紙。追憶がたった今時の出来事のフィルムで早回りする。
 典子が、「懐かしい少年が今でもいるのよ」と、声を震わせる。

 男の結婚生活は一〇年前に呆気なく破綻していた。
 男が紙に短い詩を書いて示すと、紅潮した典子が短詩を書き足し、男に返して深く頷く。
 男の痺れる指先を招き寄せ、日向の両手で包んだ。

 次の休日に、典子は男を温泉を活用して運動機能を向上させる設備を備えた、ある施設に誘った。温泉水の中を歩き体操をして、小さなプールで泳ぐ。
 男は気に入り、自由な身だから殆んど毎日通う。休日には典子が一緒だ。
 あの純白の光の中にいた少女が、水着で五五歳の熟した身体を隠している。時折、男は目眩を覚える。
 あの聡明な少女がこんな爛熟した、むしろ崩れ始めた姿態に変容しようとは、男には未だに虚ろに惑う心地もある。こんな現実が来ようとは、男は夢想だにしなかった。そして、この生身の女体を支配する、女の高潔な、あの少女の純粋に身を委ねようと思った。
 運動の後に、典子は男の痺れる四肢を丹念にマッサージをする。
 それから、季節に寄り添うように、時には気後れする男を外に誘った。それは男のリハビリは無論だが、あの桃源の体験と現在を繋ぐために、二人にとっても必要な営為だと典子は考えた。
 男の体調を気遣い近間に限ったが、桜を愛で、水面の漂いに魂を放り、蝉時雨を惜しんで小さな森をゆるやかに散策し、紅葉の兆しの風が渡り始める頃、ようやく二人はこの情況で生きる者として、互いに向き合う実感の真相を得た。

 半年が過ぎていた。些かの体力は戻り、何よりも気力が回復してはいたが、男の全身に残った痺れは執拗に存在し、勃起不全もありのままだ。
 男は予期もせぬ病魔と格闘してはいたが、思惟の末に向き合う源泉を獲得して、健全な精神を保っている自信はある。そして、寄り添う女は生涯を見据えてもかけがいのない存在になっている。
 しかし、男女が情愛だけで向き合えるのか。男の煩悶に女の答えは、端的な破顔だった。「そうしてきたしこれからも変わらないわ」と、続けるのである。女は再会した当初から、その情愛だけで男と自分を包んでいた。
 そして、まるで診察着を脱いだ女医の風情で、解決の方法など山ほどあると、男を覗き込んだ。

 男の家に大きなストーブを買い入れて、二人は同居を決めた。
 それから一〇年を経て男の体調が画期的に改善する事など、二人は毫も知らない。

再び典子

再び典子

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更新日
登録日
2020-08-28

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