典子

典子


-初恋-

 玄関を開けると、八月の高い日射しを背に、青紫の風呂敷包みと白いハンカチを手にした、青いワンピースの豊潤な女が佇んでいる。一陣の涼風が、肩までの黒髪とワンピースの裾を揺らして、花だろう香りと共に草也に届いた。白い首もとに数滴の汗が浮かんでいる。菩薩顔の女のしっかりとした視線が草也を射ぬいた。
 その瞬間に草也は確信し、自ら女の名を挙げて尋ねた。女は安堵の笑みで頷く。深々と折った身体を、挨拶を納めながら起こして濡れた瞳で草也を見つめ直した。
 典子はその面影を微かだが、しかし、目や口許の慈しみの表情に確かに映し出している。だが、二三年の時の移ろいは、草也の脳裡で密かに息づいてきた少女を、墨絵が彩色された様に、現身の爛熟した女に変容させていた。
 だから、草也はその妖麗な変化を納得するのに鈍重に足踏みした。利発な少女が円熟した女に脱皮するのに辿った軌跡を、草也はこの数日夢想したが、想像を遥かに越えていたのだった。
 脈打つ動揺を押し包みながら、草也は典子を玄関の中に静かに招き入れた。

 風の吹き通る居間で、二人はソファで向き合った。再び挨拶を交わし、草也は女に冷たいコーヒーを運び、自らはオンザロックを口にする。そそくさとタバコをくゆらしても軽い躁はまだ治まらない。 足を組み太股を僅かに覗かせる典子も、暑さのせいだけではない、自分もそうだとコーヒーを飲んだ。

 典子からの思いがけない手紙が届いたのは一週間前だった。電話で連絡を取り今日の日を約したのだ。


-手紙-

 草也と典子は、かって一度だけしか話してはいない。しかし、それは話したというには余りにも稚拙で愚劣な出来事だった。
 中学三年の初夏に机の中に典子の手紙が入っていた。「受験を一緒に頑張ろう」という短文だった。草也はその手紙を突き返しながら、「こんな手紙はいらない」と、ひとこと言っただけの事なのだ。典子は何も答えなかった。初恋の愚かな終幕であった。この顛末の慙愧は草也を呪縛していたのだ。この事をいつ切り出して詫びようか、草也は反問していた。


-追憶-

 草也が児童会長、典子は副会長。教室で映画鑑賞の時、暗闇の中で、座った足の指先が触れ合ったが、彼女は避けなかった。その感覚が鮮明に残っているのだ。それ以外の記憶はない。
一ニ歳であった。
 中学一年の初夏、少女への思いを二人の友達に洩らすと、告白しろと言う。ある日の放課後、少女は友達と二人で自宅に続く田んぼ道を歩いて行く。私達三人は随分と間をあけて追った。最後までその距離はつまらなかった。満開の蓮華草の中を歩く私のためらいは何だったのだろう。
 運動会の合同練習だったのか、クラスの違う少女とフォークダンスで、あわや手をつなぐ状況になった。草也は踊りの列から離脱した。中学二年だったろう。
 中学三年に少女と同じクラスになった。草也の義母が担任。夏休み直前の朝、机に手紙が入っていた。「競って勉強しよう」「先生とも話した」義母のことだ。彼女が二位、草也が三位の成績で、父母が勧める学区外の進学校合格には草也は少し足りなかった。受験勉強はせず本をよみあさっていた。学区内でいいとも考え、それよりこの狭い世界をいかに抜け出すかを考えていた。
 恥ずかしさの反動だったのかもしれない。義母に話したことへの動揺だったのか、怒りだったのか。草也は即座に手紙を突き返したのだった。少女の悲しい表情が脳裏に刻み込まれた。若いということはこんなつまらないことだったのか、そう思う。少女と話したのはその時ただひとことだけなのである。恥ずかしいくらいの言葉だったろう。
 「草也と典子」の恋愛小説をいく通りも構想したが、純白な記憶には及ばない。
 この頃「罪と罰」を何度か読んだ。主人公の女性と少女を重ねていたのかもしれない。
 恋というものをいくつかしたのかもしれないが。もてたとか惚れられたとかの実感は全くない。むしろ敬遠されていたのではないか。


-氷-

 だから、典子との実質の会話は初めてなのだ。それは典子も同じだ。
 幼い頃から見知っている初恋の二人が初めて話す倒錯が二人を包んでいる。
そして、言葉と表情のすべてから互いの心情と心根を汲み取ろうと二人は格闘し始めた。
 ひとしきりお互いの越し方の概括を独白し、典子もウィスキーを飲み始めながら、肝心な数問を尋ねあい答えあうと、二人はだいぶ落ち着いたのである。

 19××年の8月15日。酷暑の午後である。
 小、中学校の同窓生の二人は三八歳だ。お互いが初恋の相手なのだ。二三年ぶりの再会だ。
 労働組合の専従役員の草也は二年前に離婚し、私立高校教諭の典子は三年前に事故で伴侶を亡くしていた。共に子供はいない。
 「人の半生なんてこんなに短く要約できるものなのね」「それに比べたら貴方への告白は永くかかったわ」 少し酔った、でも酔いたい、良い気持ちだと言いながら、典子はオンザロックの氷を静かに揺らす。
 草也はいぶかしんだ。その告白というものをまだ聞いていないのだ。こうしている事自体がそうなのか。でも、問うことはしない。草也自身も初恋から続く典子への心の遍歴を、未だ何一つ話していないのである。とりわけ、不意に理不尽な離婚劇の主役になっていると気づいた時、遠い記憶に封印されていただろう恋の甘美を思わず手繰り寄せていた。誰にも明らかしていないその心情は、生まれたままの純白で草也の一部だったのだ。それからはその記憶を支えに生きてきた。しかし、その変わらないただ一つの心の履歴を語るのは難しい。
 典子は理解するだろうか。典子もまた草也と同じく、いや先んじて長い時間の頸木から自らを解放しようとしているのだろうか。草也を訪ねた訳がその告白なのだろうかと、草也は自問している。これに決着をつけない限りは現実の典子とは向き合えないだろう。いつ切り出すのか、それが難儀なのだ。

 故郷の昔話は、いつの間にか、典子によってある少年と少女の恋の話になるのだった。少女が初めて詠んだ俳句だと言う。

少年はその夏の日に痩せていた

 なぜ、少年は痩せていたのか、少女は知らなかった。でも、痩せている少年が好きだったと、言うのである。草也はしみじみと復誦する。そして、きっとその少年の詩だろうと、応えた。

ビーナスを残して青龍天を駆く

 典子の瞳が柔らかく潤んだ。「青龍はビーナスが好きだったの?」と典子が聞く。草也が、そうだと答える。「少年は少女が好きだったの?」と、典子が、再び囁いた。草也が頷く。
 典子が長く息を吐いてウィスキーを飲んだ。「少女はもっと、とっても好きだったんだわ」

 草也はあの手紙の事件を詫びた。典子は、それは違う、私は黙るべきではなかった、もっときちんと話すべきだったと言う。
 「いつも何かと格闘して鋭く痩せている少年が好きなだけだったの。私は本当に幼かったのよ。少年の格闘の深奥など思いも及ばなかったんだもの。幼い恋の傲慢と下らないプライドが少年を傷つけてしまったんだわ。貴方は今でも格闘し続けている。だから、私の気持ちは変わらないの」と、一気に告白した。
 草也は聡明な女と話すのは、こんなに悦楽な事なのかと、体感した。


-雷-

 遠くに雷が聞こえた。暫くすると生暖かい風が吹き通り瞬く間に陽光が翳った。そして、雷鳴が響いたかと思うと、にわかに掻き曇り大粒の雨が落ち、たちまちどしゃ降りになった。一気に暮色の様相となり、冷気を帯びた強風が吹きつのる。
 涼風に身を任せて二人はウィスキーを飲み、次の変化を待つ風情だった。
 暫くすると、もはや叩きつける雨音で声が聞き取れない。自然に典子が長椅子の草也の隣に移った。
 切り裂く様な雷鳴の瞬間に典子が草也の手の上に手を置き、そして、身体を預ける。草也は典子を抱き寄せた。
 互いの実存を確かめる為の長い口づけが終わった。
 草也はウィスキーを含む。タバコを手にした。草也の掌に手を置いたまま、「ずうっと、こうしたかったの」と典子が呟いた。

 さらに雨音は激しくなった。冷気が満ちた。草也はすべての窓を閉め、典子の声に従いカーテンを引くと、二人きりの空間が現出した。
 薄明かりの中で、立ち上がった典子が青いワンピースを脱ぎ落とした。無言だ。桃色の豊潤な身体にまとう青紫の下着が秘処を隠す。茫茫と、しかし、確かに典子の肉体がそこに息づいているのだ。
 こういう恋人は草也の幻想には住んでいなかった。しかし、眼前の女は紛れもなく現実な生身の典子なのだ。それが、草也には未だに信じられない。あり得ない光景なのである。
 性とは全く無縁な、典子は観念の少女なのだ。それは、もはや草也が作り出したものだ。草也の脳内で息づいてきた永遠の少女なのだ。目の前にいる典子と少女は、同一人物でありながら別人なのである。

 典子が膝まずいて草也の股間を撫で、ジッパーを外そうとする。草也はズボンと下着を下ろした。男根はまだ不全だ。典子はそれをおもむろにくわえた。

 ソファに座り直した典子が言う。「こんな事になるなんて。でも、私がどんな事をしても、決して驚かないでね」「私はもう三八の女なのよ。あの少女じゃないの。貴方だってそうでしょ?」「一度きりの人生だもの。大事な事はし忘れたくないの」「だって生きているって素敵なんだもの」
 その通りだと草也も思う。しかし、僅か数時間前に二三年ぶりに会った、しかも初恋の少女だった女と、まして今さら性交するなどというのは草也には不条理な事だった。先の大戦で特攻で飛び立った青年たちが、恋人を抱く者、そうでない者、結婚する者などに分かれた逡巡と躊躇を、草也も実感していた。

 典子はソファに横たわった草也のまだ萎えた陰茎を再び静かに含んだ。唇の柔らかさと熱さが伝わる。草也の手を握る。草也はもう一方の手で典子の髪を梳く。「ゆっくりしましょう。今日は帰らなくてもいいのよ」と、典子が言った。典子は付け根を優しく揉み続ける。

 草也はあの事を聞いた。「はっきり覚えているわ。貴方の皮膚の感覚。一二歳だもの。女の子はもう大人と変わらないんだもの。大好きだったの。だから足をよけなかったの。ドキドキしていたわ」
 さらに草也は蓮華畑の事を確かめる。「もちろん覚えているわ。なぜ話しかけてこないのか、やきもきしたのよ。本当に蓮華草が綺麗だったわね。いつか二人で行きたいわね」
 フォークダンスの件も聞く。「忘れてないわ。もうすぐ踊れると思っていたらいなくなるんだもの。悲しかったわ」
 暫くすると股間が反応を始めた。典子は草也の手を握りしめて亀頭を含んだ。瞬く間に十全に回復したのである。草也が引き寄せてキスをすると、「とっても立派だわ」と、囁く。草也は隆起を握る典子の乳首を吸った。感覚が鋭敏なのか、身悶えし声を発する。
 「ねえ?何ともないでしょう?普通の女でしょ」と、息を弾ませながら言う。陽根をしごく。
 二人は顔を見合わせて瞳を覗き、視線を絡めた。「あなたはは、ずうっと特別な人だったのよ」「私は?」

 「貴方の言う通りにするわ。そうしたいの」「風呂がいい。汗を流そう」草也は風呂に湯を張った。
 典子の後に続いて風呂に歩む。
 中背だが肉付きがいい。桃色だ。髪は肩まである。青紫の薄いパンティに覆われた尻が堂々と左右に揺れる。
 ブラジャーとパンティをはらりと払うと、典子は初めて全貌を晒した。屈んだ瞬間の尻の割れ目が草也の欲望を誘う。

 草也は温い湯に浸った。典子は丹念に身体を洗っている。股間の草むらの繁茂を泡立てている。草也の欲望が再び発火した。草也自体が隆起している。立ち上がり、泡だらけの典子にその回復を示した。 笑む典子が招き、浴槽を出た草也の股間を向かい合って丁寧に洗う。それは少年と少女のままごとの様だ。草也が典子の口を吸った。典子も舌を絡める。

 草也は大きなバスタオルを敷いた。典子を横たわらせる。桃色の乳首が豊かな乳房を従えている。
 典子が言った。典子は同僚教師に求められ三〇歳で結婚し、三二歳で筋腫で子宮を摘出した。子供はいないし産めない体になった。だから妊娠の心配はいらないのだと。夫は典子に関心を失った。無風な不毛の果てに典子が三五歳の時に事故死した。実質、短い結婚生活だった、男性経験はそれしかないと。「愛したのは本当に貴方だけなの。幼い初恋だけど、真実の事なのよ」典子は泣いた。
 草也はついに挿入した。典子は様々な表現で歓喜を表した。

 典子は下着をつけずに草也のパジャマを着た。
 いつの間にか雷雨は治まっている。窓を開け放つと涼風が吹きわたる。二人は並んで再びウィスキーを飲んだ。合間に、草也が準備していた食材で、典子は実に手際よく数品の摘まみを作った。会話は尽きない。草也はこんな時間を生涯に持てるなど思ってもいなかった。禍福は公平に綯われているのかも知れない。典子も同じ事を考えた。これ以上の幸せはない。だったらこのままで良いではないか。典子も草也もそう思った。
 典子は草也の為に初めて夕食を作った。「これからはできる限り一緒に食べましょうね?」この笑みには救われるかも知れないと、草也は納得した。


-終章-

 草也と典子はできる限り二人でいたい。殆どは典子が草也の家を訪ねる。草也は自由な立場で自宅での仕事も多かったから、その方が都合が良かった。そして時の遅れを取り戻す様にいとおしく激しく交わった。
 その日も、二人は逆向きに横になり互いの性器を吸いあう。典子のその蜜は甘い。草也は陰核を技巧を凝らして丹念にしゃぶる。やがて、歓喜に堪えられなくなる典子は、しばしば口から隆起を外して大きく喘ぐ。草也はそれが妙趣だ。その声は艶かしい鳥の様なのだ。途切れとぎれに草也の名前を確かめる。豊かな尻がゆったりと猥褻に痙攣する。そうして再び亀頭をくわえる。草也が教えた性技を典子は淫靡に凝らすのだ。
 やがて、仰向けの草也に背中を向けて典子が股がる。二つに割れた淫潤な尻は全く無防備だ。草也はこの体勢が好きだ。未体験だった典子も自然とそうなった。そうして陰茎を手に取り膣に自ら導く。 草也の隆起は窮屈な秘密に淫液に潤滑されて充分に侵入する。肉壁の特殊な構造がまとわりつく。
 「良く見えるわ」と、典子が答える。そして、卑猥な言葉で結合の情景を描写する。草也が教えたのだ。
そして、草也の足首を掴んで身体を倒す。尻の全てが露になる。典子が聞く。「みんな見えるでしょ?」草也の答えに声をあげて身悶えする。今度は草也が描写する。そして尻を叩く。これは典子が望んだ。二人で卑猥な言葉を掛け合う。二人で作り上げた性戯はお互いを思いのままに翻弄するのだ。「生きているのね」典子は絶頂の時にしばしば叫ぶ。そしてすすり泣くのである。

 一年後、草也は末期ガンで死んだ。病床で、隠していた事を詫びる草也に、私こそ悪いのと、典子が言った。「私も末期ガンなの。すぐに後を追うわ」
 草也の死後には、典子を素材にした長編と数本の短編小説や膨大な詩が残された。
 二ヶ月後に典子も死んだ。
典子は遺言通り草也の遺骨を太平洋に散灰し、自らもそうした。
 作品はすべて燃やした。だから、典子と草也の初恋の顛末は、未だに誰も知らないのである。


-終-

典子

典子

  • 小説
  • 短編
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  • ミステリー
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-08-28

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