消費

消費

麻布の高層マンション。家賃は低く見積もったとしても100万くらいするかもしれない。私がどれだけ頑張って仕事をしても、とうてい住める家ではないことは確かだ。

いやらしく重厚な黒いドアを押し上げると、深夜にも関わらず、スーツのコンシェルジュたちが迎える。
この人たちは、金持ち相手に何をモチベーションに仕事をしてるのだろうか。資産家の男が日替わりで連れてくる女たちの顔でも吟味して暇をつぶしているのだろう。

「おかえりなさいませ」と深々と頭を下げるコンシェルジュに見向きもせず、男はエレベーターの上の矢印のボタンを３度ほど連打した。エレベーターはすでに一階についており、すぐにドアが開いた。

エレベーターの中で、私はしみじみと男の顔を眺める。明るいところで見ると、たいしていい顔でもない。着ているスーツと自信ありげな態度だけで、よくもこんなに『いい男』風を吹かせられるもんだと感心する。同時に、こんな男の思うツボにはまって家まで着いてきた自分がとてつもなく憎い。所詮自分も女なのか。麻布のタワマン、金持ちの男。想像以上に気持ちのいい、世の中の女の多くが憧れる響きだ。そんなことを考えている間に、エレベーターは私たちを最上階まであっという間に運んでいった。

想像通り、セレブの好きそうな悪趣味な部屋だ。カーテンのない全面ガラス張りの部屋からは、誇らしげに東京の空を割る東京タワーと、それを取り囲む高層ビル群が見える。今日は休日だから、夜景は少しだけ控えめだ。

この光の殆どはオフィスや飲食店の光。私の生まれた田舎みたいに、一つ一つがあたたかい家庭の光などではない。
だから私は冷たい東京の夜景が大好きだ。

そんな東京の夜景を目に焼き付けていると、さっそく男が後ろから抱きついてくる。待ちきれないの？なんていじわるな顔をしながら私は男のキスを受け入れた。

それにしても、こういうセレブマンションやホテルには必ず窓際に座るスペースがある。いやらしいくてうんざりする。
まるで、設計者が窓越しにこちらを見てニヤリとしているようだ。こういうの、好きだろう？と。結局この男も、消費し尽くされていることに自分で気付いているのだろうか。

キスをされながら冷静に目の前の男の分析を続ける。大きなガラスの前に立たされ、服も脱がされず乱暴に胸を鷲掴みにされる。その強さに、私は思わず顔をしかめた。男は、征服感を感じさせる笑みをうっすら浮かべている。

こういう男の原動力は、女を征服してやってるという感覚なんだろう。どうせ女をひとつのお飾り程度にしか思っていない。私もそのデータベースに晴れて加わることになったのだろう。どう分類されるかなんて、正直興味がない。もうこの男に会うことはないだろう。

ごめんごめん、と謝りながら、申し訳程度のレベルのワインがコップに注いで出される。どうやらこの男は、ケチとは言わないが贅沢癖がないようだ。ますます魅力のない男だと思った。いや、私の価値が、この程度のワインと同じということだろう。

私も、この男も、この街ではかわいそうだ。誰が作ったかも分からない価値観に振り回され、一喜一憂して自分を消費しているのだから。

ああ、早く事を済ませて眠りについてしまいたい。

思っていた通り、男は乱暴に私を抱いた。眉間にしわを寄せている私の顔をうっとりと眺めてくる。自分勝手で一方的な行為。一流マンションに住んでいるこの男は三流だ。こんな男に女はついていくのだろうか。

男の価値は何で決まるのだろう。私にはどれだけの価値があるのだろうか。そもそも、価値なんてあるのだろうか。
分からなくなり、痛みに耐えながら諦めるように目をつむった。

きょう初めて会った男の腕の中で眠りにつく。今晩だけは、なかなか眠れなかった。

朝、大きな窓から差し込んでくる朝日で目が醒める。夢を見ていた。夢の中でも私は、仕事に追われていた。これから始まる月曜日を思うと、気分がうんざりした。
隣の男はのんきにいびきをかいて眠っている。ろくに働かなくてもお金が入ってくると男は昨晩誇らしげに語っていた。

君みたいな可愛い子は、働かなくてもいいのに。典型的な男尊女卑的な男の発言を思い出し、ふっと笑いがこみ上げてきた。
世の中はそうは回っていない。

脚を強く引き締めるストッキングを丁寧に履き、私は支度を整え男に声をかける。

「私、行くね。ありがとう。」

……何に「ありがとう」なのだろう。
夢を見させてくれてありがとうなのか、夢から醒めさせてくれてありがとうなのか。
いずれにせよ、大事な感謝の言葉を私はひとつ無駄遣いしてしまった。男は寝ぼけながら私に手を振る。

まだ空いている地下鉄に乗り、私はもう一度目を閉じる。

こんな事を続けていても、自分の価値を落とすだけだろうか。何が私を本当に幸せにしてくれるのだろう。

若さが消費され、その後には何が残るのだろうか。男にちやほやされた、甘い記憶だろうか。それとも……

もうすでに私の心にはぽっかりと穴が空いていることに気づいた。虚しさだけが今の私を包んでいる。

次の駅で、スーツに身を包んだサラリーマンたちがおしくらまんじゅうのように電車に押し込まれてきた。

みんなこの街に消費される。
私は、椅子に座ったまま、おしくらまんじゅうのサラリーマンを眺め、生まれ育った故郷に想いを馳せた。

そろそろ虫の声が響く頃だろうか。金木犀の香りが漂う路。コスモスの咲く川辺。
本当に私を幸せにしてくれるのは、こういうものなのかもしれない。