異人の儚2️⃣

異人の儚 2️⃣


-海水浴-

 二人が出会って一週間になるその日、嘉子の休日の払暁。閨房の余韻を漂わせる女が、「いよいよね」と、呟いた。この日、二人は海水浴に行く事にしているのだった。夏の海が好きな伊達は三日前にもその海岸にいて、ある場所を見つけていた。そこで嘉子を撮りたいと思った。
 それまでの嘉子は数少ない休日も家に籠っていた。だから、初めての遠出の誘いに、やはり海の好きな女は喜色を表した。戦時下で空虚に過ぎ去った青春を男の若さが体現させてくれるのだと、女は思った。そして、この連日の営みで女の身体は、最早、完熟してもいた。「バスで行くんでしょ?あの朝の痺れる程の感覚が忘れられない」などと、催促もしたりするのである。

 二人は海水浴場のある、とある町に四〇分程かけて向かうバスに乗った。
 早くに出たからか、釣り仕度をした初老の男の二人組しか乗り合わせてはいない。
 行き着いた最後部の座席は完全な死角だ。女が座席に大版のタオルを敷く。二人は並んで座った。「本当にするのか?」「考えていたより空いてるでしょ?」「厭なの?」「あなた次第だわ」と、股間に手を伸ばす。
 女がスカートをまくりあげた。下着は着けていない。尻を浮かせると股間から数珠を取り出した。大きなバスタオルで二人の下半身を覆う。互いの股間を愛撫しながら、二人は時々顔を下げて舌を絡める。やがて女に痙攣が始まった。

 バスを降りて、海水浴場への松林を途中で逸れて暫く歩くと、巨大な奇岩に囲まれた小さな浜に着いた。男が見つけた秘匿の場所だ。女が嬌声をあげた。
 混じりけのない白砂、光の具合では銀や金にも輝く。歩くと不幸を知らない猫に似た鳴き声を出す。巨岩には樹々や草花が生えていて、北側の奇岩には細い滝が、白蛇が絡み付く様で落ちている。目の前は大海原と空ばかりだ。遠浅の浜の暫く先に6畳ばかりの岩礁が突き出ている。
 女は仕事柄で手にいれた最新の水着を着けて、男にも新しい水着を用意していた。派手な水着に変化した女は、戦争の記憶や性の桎梏からはすっかり解放されて、爛熟した夏に同化している。男が知らなかった別な人格を覗かせて、しかも何歳か若返っているのだ。雄大な歴程にさらされた奇岩や清浄な滝でポーズをとる女に男はカメラを向けた。
 男はある女の指示を無視して、純粋に女の魅力を止めるためにだけにシャッターを切っているのであった。帰ってから巻き起こる事態で女がどの様に変化するのか、男には想像だに出来ない。或いは、女は写真そのものを嫌悪するかもしれない。だからこそ、今しか撮れないと思った。女の無垢な息づかいと淫熟した肉体を、余すことなくフィルムに刻み込んだのである。

 脛程の浜で戯れた後に、「脱いでくれないか?」と、さりげなく依頼すると、「誰も来ないかしら」と、、躊躇いもなく全てを脱ぎ払った。脛ほどの浜で波とじゃれあって立ち上がると、陰毛から潮が滴る。白砂をけって海に走った。波と戯れたり、横たわって四肢を穏やかな波間に漂わせる。陰毛が生まれたての海草のように揺らいだ。
 「もっと広げて」「どこを撮るの?」「撮って欲しいんだろ」「綺麗なの?」「信じられないくらいだ」 
 海水浴を二時間ほどした。その合間に女の求めに応じて、潮に浸かりながら接合した。

 二人は遠浅の果ての岩礁に上がった。六畳程の岩場には二畳ばかりに砂が敷き詰められていて、赤や黄の花花が咲き溢れていた。
 「こんな瞬間があるなんて思ってもいなかったわ」と、身体を伸ばした女が呟いた。女の視界には海原と空があるばかりだ。男も彼方を見ながら、「未だ二年ばかりしかたっていなんだ」「あんな戦争があったなんて幻みたい…」「世の中は、すっかり忘れてしまっているが、この海の彼方は戦場だったんだ」 嘉子が口をつぐんだ。女が亡夫の話をしたのは一度切りだった。「どうしてなんだ?」「忘れたいの」「違うわ。もう忘れてしまったのよ」「そうでなければ、あなたとあんなこと、出来ないでしょ?」「そうかな?」「確かにこの国の過去は無惨だった。だからこそ忘れてはいけないんじゃないのか?」「それに…」「無用な義理立てなんかすることはないんだ」
 女が唇を噛んだ。「ご主人はどこで?」女は南洋のある島の名前をポツリと言う。「遺骨は?」「骨に似た小石が一個届いたばかりだもの…」「珊瑚の欠片だったのかしら」「まるで、笑い話だわ」と、女は本当に苦々しく笑った。 「ご主人もこの海に沈んでいるんだ」「…きっと、この海に流れ着いているよ」「そうかしら?」「人間は元素なんだ。死んだら元素に戻る」「そうなの?」「だったら、どうなると思うんだ?」「…わからない」「神仏や霊魂を信じているの?」「そんな訳じゃないけど…」
 「御門神社には?」「祀ってあるわ」「どうして?」「町内会の役員の人がそう言うんだもの…」「行ったことはあるのか?」「首府なんて一度もないわ」「あそこにいると思うか?」「何が?」「ご主人の霊魂…」「考えたこともないわ」「墓は?」「実家の墓に入って入るけど。遺骨もないのよ」「なにがしかの遺品と戦士広報ばかりを納めたんだわ」
 「この前、親戚の葬儀に行った。火葬場の煙突から煙が立ち上ぼるのを見て実感したんだ」「煙は焼かれた遺体から立ち上った水蒸気だ」「水蒸気は水素だよ」「水蒸気は雲になって雨に変わる」「雨は大地に降り。やがて、川に注いで終いは海に戻るんだ」「その水素は、また、何かの植物か動物の構成要素になるんだ」「元素は循環しているんだ。それが自然の営みだろ?」「そうなのね」「俺達はみんな、海から産まれて海に帰るんだ」と、男が言うのである。女も同意できそうな気がした。
 「弟は?」「…大陸だったの」「やっぱり、戦死公報の紙切れが一枚きりだったわ。あなたのお父さんもそうだったんでしょ?」「やっぱり、この海になっているよ。それが人生の原理なんだ」女が頷いた。
 「みんなこの国に殺されたんだ」「そうね」「御門を憎くはないか?」「憎い?」「そう」「どうなのかしら?」「俺は憎い」
 「あの日はどうしてた?」「敗戦の日だよ」「…家にいたわ」「一人で?」「…そうよ」「ラジオを聴いたろ?」「聴いたけど。雑音で良く聴こえなかったし。何の事だかわからなかったわ」「暫くしたら、近所の人が来て教えてくれたの」
 「あなたは?」「学校で聴いた」「間の抜けたとんまな声だと思った」「現人神とはこんなに情けない奴だったのかとしか思えなかったんだ」「親父とは相克もあった。でも、こんな奴に命令されて死んだかと思うと情けないし。悔しくて…」「数百万の赤子を殺しておきながら、のうのうと生き長らえている御門」「そればかりか子作りに励んでいるんだ」「こんな御門制の維持があいつらの使命なんだ。国体というやつだよ」
 「御門を憎んでいるのね?」「復讐したい」「復讐?」
 「敗戦間際に南條内閣が倒れたろ?」「止めを刺したのが偽造写真だったんだ」「偽造写真?」「南條とある女が交合している写真だよ」「あの頃、評判になって大分出回った。見なかった?」「…見てないわ。見たの?」「見た」「どんな写真なの?」「修正したんだ」「本当に性交している男と女の顔だけを取り替えるんだ」
 「写真には色んな技術があって。顔を取り替えるだけなんて、割りと簡単な方だ」「もっとも、俺は未だできないけど」
 「それを見せられた御門が激怒したんだ」「どうして?」「南條と交わっている写真のその女が御門が寵愛している側室だったんだ」「まあ」「それで、御門が南條の罷免を決断した」 「宮廷は性に敏感なんだ」「性が最重要な課題と言ってもいいくらいだ」「どうして?」「御門は万世一系の男系なんだ」「これを引き継ぐのは生易しい事じゃない。毎日、夜毎日毎、ひたすら子作りに励むんだよ」 「その偽造写真を作ったのが…」「…まさか?」「前に話していた写真館だよ」「そんなのがこの町に?」「あるんだ」「その人のご主人はこの国に殺されたようなものなんだ」「その人って女なの?」「そう」「驚いたわ」「幾つなの?」「三〇半ばかな。ある組織と巡りあって。ご主人の復讐をしようとしたんだ」
 「それで?」「性交したんだ」「誰と?」「秘密組織の男だ」「見知らぬ?」「そう」「それで?」「顔だけを差し替えた」「それで?」「マスコミに通報して…」「それで?」「総辞職だ」「内閣を倒したのね?」「そう」「それが終戦に繋がったのね?」「そう」
 「どうしたんだ?」「…あなたとその人は?」「…どんな関係なの?」


(続く)

異人の儚2️⃣

異人の儚2️⃣

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • ミステリー
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-08-26

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