崩御の朝

草也

崩御の朝 1️⃣


-崩御の朝-


 数時間前にこの国の御門が崩御したのであった。ラジオの臨時ニュースがけたたましく伝え続けている。
 女もこのニュースを聞いたのだろうか、どんな感慨を持ったのか、男は知らない。
 象徴と名付けられた九〇に近い御門は、世界に反逆したあの戦争の開戦を裁断し、頓狂な声音で敗戦を宣告したのであった。戦後は蜃気楼のような存在だったろう。少なくとも、男には無価値であったばかりか、ある時は諸悪の根元だったのである。この半年は死期をさ迷っていたが、二人が取り立てて話題にすることはなかった。男は御門制を嫌悪しているが、果たして、女はどうなのか。
 ラジオは、歌舞音曲や営業自粛の詳細、異母帝の乱の残党の策動を懸念する与党の動き、御門制に反対する極左派の動向、とりわけ半島に由来する革命集団の主張などを矢継ぎ早に伝え続けていた。

 遠距離の二人は毎朝の電話が日課になっていた。いつの間にかそうなった。もう、三年になるから、最早、取り立てて意味のある何かを話すと言う行為ではない。二人の関係の維持を確認する為の儀式のようなものに変容していたのだったろう。だから、無闇に負担に感じる時すらあった。それは女にしても同様だったに違いないのである。

 ただ、この朝の女の様子は些か変わっていた。いつもの淡白で何気なく急いた雰囲気が伝わってこないのである。妙にたおやかで濃密なのだ。
 すると、未だ床の中にいてまどろんでいた、時間が空いたからゆっくり出勤すると、女は言うのであった。男にもいつになく平穏な朝だったから、突然に現れた思いがけない余剰は妙に生暖かい空気で二人を包むのである。

 「この前、首府に出張したでしょ?」「あの行き帰りに、河端の『雪の国』を読み返していたの。あなたに言われていたから…」「どうだった?」「女学生の頃に読んだつもりでいたんだけど、そうじゃなかったのかしら?」「どうして?」「酷く陳腐にしか感じなかったんだもの」「陳腐?」「あんな内容だったとは思ってもいなかったわ。そう。あなたのと比べたら三文エロね…」「手厳しいな」「あんな作家がノベル賞だなんて、お笑い草だわ」「随分だな」
 「だって…。無為徒食の妻子ある男が、山を彷徨いたからという訳で女が欲しくなったり、芸者に、お前とは友達でいたいから別な芸者を紹介しろと迫ったり。腹が立つほど陳腐だわ」「その通りだ」「どうしたらあんな発想が出てくるのかしら?」「男の中指が女の感触を覚えている、なんて。興ざめだし…」「粘着質で…。そう思わない?」「そうだな」「熟睡している隙をは虫類に這い回られて。目覚めても咎めることも出来ずにすくんでしまっているみたいで。厭だわ」
 「あなただったら、あんな風には決して書かないでしょ?」「まあな」「あなたは露骨に…、むしろ意図して露悪に書こうとしているんだけど…。そうでしょ?」「そうなのかな」「でも、直栽なだけで。真相は、むしろ、淡白なくらいなんだもの」「そうなのか?」
 「虚万子が鎮守で待ち伏せている場面があるでしょ?」「あなただったら、当然に交合する場面だわよね」「そうだな」「それなのに、とんまな饒舌を延々と並べ立てるんだもの」「あんなのをこの国を代表する美麗文だなんて、誰がいうのかしら?」「繊細な風を装っているばかりで、内実は粗暴、粗野な雰囲気だし…」「むしろ駄文の極みだと思ったわ」
 「そんな風に傾くと、あの作家のあの顔だって…」「貪欲そうなギョロ目でしょう?」「それに比べたら、あなたのは…」「濡れてしまうほどなんだもの…」「この前、確かめたでしょ?」

 女の寝姿が脳裏を過って、訳もなく色情が湧き立ったてくるのである。
 二人は随分と身体を重ねてきた。初めは片鱗も示さなかったが、床の中の女は、人格が移ろったかと思えるほどに被虐的に変わった。凌辱にひたすら耽溺する癖があるのだと、男は最近になって悟った。
 男が意図してその様に変えたのか、潜んでいた天性が現れただけなのか、何れにしても、こうなってしまったこの女は堕天使なのかも知れない、堕天使は悪魔の化身に違いない、男の射精を受ける瞬間の女の歪んだ表情を見極めながら、しばしば、男はそう思った。
 すると、咄嗟に、男にある謀略が芽生えたのである。だが、その企みは二人は未だしたことがなかったから、尋常には切っ掛けが掴めない。
 ところが、話の末に、明け方に男の夢をみたと女が言うのである。もっけの幸いではないか。
 「どんな夢だったんだ?」と、水を向けると、「…言えないわ」と、存外に素っ気ない。「どうして?」「とても口にできるような夢じゃなかったもの…」口籠もる男を、「だって、想像を絶するんだもの…」と、焦らす。
 「…でも、いつまでもこんな言い草ばかりだったら、あなたは余計に知りたくなるんでしょ?」と、女は質の悪い処女の真似事で気を持たせたりもする。 男が短兵急に、「性夢なんだろ?」と、釘を刺すと女の息があからさまに反応して、「どうしてわかるの?」と、乱れた。
 「俺は始終見るんだ」やや間があって、「そうだったわね」女の声がくぐもる。「あの綺談もあなたの夢の実体験なんでしょ?」男は否定しない。「あんな風に体験を赤裸裸に告白するのも快楽なのかしら?」女の囁きが次第に上擦ってくるのがわかる。
 「やってみたらいいじゃないか」「私も?」「朝方の夢の話をしたらいいんだ」「私も新しい発見をするかしら?」
 女の部屋には幾度も泊まった。女の趣向なんだろう派手な寝具が浮かびあがり、女の自堕落な姿態までが蘇って、生暖かい息が伝わってくる様だ。今なども、完熟した桃の様な尻が艶めかしく息ずいているに違いない。
 五〇目前の裸体だから豊潤だが端麗というものではない。均衡でもない。むしろ崩れている。それが放埒なのだ。確かに、月齢を経て堆積し熟成し尽くした果ての、淫奔な肉なのである。獲得と喪失を繰り返しながら、ない交ぜの変化を続けて出来上がった、雌の重量の発露だ。だから、妖しげに爛熟して発酵を続けているのだ。男が子宮に迷い込んだ原初の風景を思わせるのである。この女の身体と性癖は男の嗜好を満足させている。女の肉そのものが男を眩惑しているのだ。

 この歳になって性愛に耽溺するなどとは夢想だにしていなかった。むしろ、男は性に関しては淡白だったのではないか。だが、あの凄惨な日々に女と出逢っから何かが変わってしまったのか。
 これまでも二人は幾度も諍い、別離を宣告してきたのである。だから、こうした現実にたち至ったのは、ただ情況に流されたからだけなのか。或いは、情況が輻輳した挙げ句の自堕落な結末なのか。いずれにしても、この女とは曲折の果てにここまで辿り着いてしまったのだ。その執着の一つがこの女の身体なのだろうか。
 この朝のこの時も、剥き出しの豊満な乳房が初夏の兆しを満喫する様で無政府に揺れている筈なのである。。


-儚-

 女が密やかに呟き始めるのであった。
 「…朝方に目が覚めたら…穿いていなかったの」不意をつかれた男は思わず応えられない。「可笑しいでしょ?そんなことって。初めてだったんだもの。身体が気怠くて…。一番大切な…肝腎な芯が…すっかり溶けてしまったみたいなんだもの」女の囁きは閨房の秘密の吐露に変わろうとしているのだ。
 「今もなのか?」「とうてい起き上がれそうにもないわ」
「…どんな夢だったんだ?」「…あれって何だったのかしら?」「覚えてないのか?」「だって、夢なんだもの。そうでしょ?覚めた瞬間に、それこそ、雨散霧消してしまったわ」
 「…でも…。甘かったの…」「甘い?」「身体がよ」「匂い立っていたような?」「そんな気がしたわ…」「今もか?」「そうね…。仄かに漂ってるかも知れない…」「熟した桃の香りだろ?」「そうなのかしら?」「残り香だな」「残り香?」「あの後の…。お前が完璧に満ち足りた時の香りなんだ」「…どんな時?」「法悦に達した時だよ」「…そうだったの?」「知らなかったのか?」「だって、未だ言ってくれなかったでしょ?」「そうかな?」「覚えがないもの…」「いつから気付いていたの?」「最初はそんな風ではなかった」「一年ぐらいしてからかな」「締まりが良くなって…」「締まりって?」「お前のだよ」「あの瞬間に絡み付いて…締めつけるようになったんだ。食いちぎりそうに締め付ける時もある。その内に身体中から汗を吹き出すようになって…。すると、熟した桃の香りを放つんだ」「今ではすっかり失神してるんだろ?」「…そうなの?」
 「汗をかいてたろ?…夢を見ながら何かをしていたんだよ」「何をしていたの?」「自慰だろ?」「そうなのかしら?」「それで、発酵してしまったんだ」「発酵?」「私が知らないうちに、私の身体に私が何かをしているんでしょ?それって本当はしたかったことなのかしら?」「そうだな」「どんなことをしていたと思う?」「痕跡もなかったのか?」「あったんだろ?」「厭な人ね」「さっぱりと言ってごらんよ」「俺たちの秘密がひとつ増えるだけじゃないか?」「秘密?」「そう。二人っきりで秘密をふんだんに創ってきたじゃないか?」「どんな?」「落書きをしたろ?」「それから?」「エプロンも?」「そうやって、私を剥き出しにさせたいのね?」「厭だったのか?」「みんな、あなたが強いたんだわ」「そんな風には見えなかった」「どんなだったの?」「落書きの時だって…。じわじわと剥き身にされるのが快感なんだろ?」
 「パンティは?」「穿けないままよ」「ブラジャーは?」「普段でもしないでしょ?だから真裸だわ」
 「…言ってごらんよ」「…あったわ」「どんな?」「あなた?」「私の身体って本当に特異なの?前にあなたがそんな事を言ったでしょ?」「…感じやすいって、か?」「そう。尻まで、って…」「…濡れていたのか?」「知らなかったんだもの」「どれくらい?」「もう、すっかり。知ってるでしょ?」「この前みたいにか?」「いつのこと?」「あの写真を見ただろ?」
 「指を入れたんじゃないのか?そうなんだろ?」「…そうなのかしら?」「心外だな。勝手なことをするなよ」「どうしたの?」「俺のなんだろ?」「何が?」「忘れたのか?」「この前の時…。縛って…。目隠しをしたろ?あの時に、俺のだって言ったろ?」「…あの午後ね」「思い出した?」「言ったろ?」「そうだったかしら?」「…忘れたのか?失望だな?」「どうしたの?」「嬉しかったんだ」「そうなの?」「確信できた…」「何が?」「二人の関係…」「大仰ね?」「そうじゃない」「だって?」「そんなのが確信になるんだよ」「そうなの?」
 「確信にしたいのかもしれない。不安定な関係が長いだろ?」「そんな風に思っていたの?」「男なんてそんなものだよ。何かを信じたいんだ」「だって?あんな時なんだもの…」「どんな?」「意地悪ね?女は刹那の生き物なんだもの。色んな事を口走るわよ」「だったら俺のじゃないのか?どうなんだ?」「…あなたのよ。どう?納得できた?」女の声音は湿っている。「確かなんだな?」と、男は言えないのである。

 「あれがいけなかったのかしら?」「何かあったのか?」「夕べ、風呂に入ったら…。生えてきていて…。五ミリ位よ」「なんだか私の身体じゃないみたいで心許なかったんだけど…。少しは安堵したんだわ」「こんな風に、みんなあなたに変えられてしまうのかと、つくづく思ったの」「厭だったのか?」「どうなのかしら?」「言い出したのはお前なんだ」「何て?」「そんなに疑うんなら剃ってみたらって…」「そうだったの?」
 「一週間になるのね?」「そうだな」「あの時は…どうだったのかしら?…思い出せない…」「次はあなたのも剃ってやろうかしら?」「男のを剃ったこと、あるのか?」「…ないわよ」「そうなのか」「剃るのが厭なの?剃る私が厭なの?それとも、あなたが邪推している私の過去が厭なの?」「どうかな?」「だったら剃るわよ?でも、勃起したら?剃りにくいかしら?」「そしたらどうするんだ?」「どうしたいの?」「わかるだろ?」「知らないわよ」
 「風呂から出て涼んでいたら…。また、あなたの痕跡を見つけてしまったの」」「あんな淫靡な処によ」「どこ?」「丘の脇…。わかるでしょ?」「裸だったのか?」「湯上りだもの」「どうしてあんなところに?」「覚えてないのか?せがんだんじゃないか?」「私が?」「そこに刻印してくれって…」「そうだったの?」
 「鏡の取り合わせでお尻も見えたわ」「あったろ?」「あったわ」「俺のにも付けたろ?」「私が?」

 「…夕べはあのパンティを穿いてたのよ」「…あの時の、よ…」「…あれか?」「そう」「取ってあったのか?」「何故だか捨てられなかったんだわ」「どうして、あんなのを穿いたんだ?」「だって、チクチクして厭な感じだったんだもの…。夕方からそんな風だったの。だから、あれにしたのよ」「…弄っていたんだな?」「…してないわよ」
 「今は?」「…穿いてるわ」「脱いだというのは嘘だったんだな?」「そんなことを言ったの?」
 「どんな風なの?」「何が?」「あなたの…。ねえ?」「お前は濡れてるのか?」「あなたのは?」女は譲らない。「女なんて、本当は浮き草みたいなものなんだわ」「したいのか?」「だって、あれから一週間も過ぎたのよ」「そうだったかな」「厭な人ね」「今?」「そんな風になってしまったんだもの…」「電話で?」「駄目?」「したことあるのか?」女は口ごもりながら否定する。

 「初めてなんだろ?」「そうだけど…あなたは?」この女は嘘つきだが、しばしば嘘を言うが巧みではないのである。幼稚な不正直と倫理が絶え間なく葛藤しているからなのか。いつかは全てが判明してしまう。
 「今朝、御門が死んだんだ」「知っているわ」女はにべもない。「さっき本社から連絡があったもの。だから午前中は喪に服して休業するのよ」「そうだったのか?」「だからって、私には何の関わりもないでしょ?」


   -終り-

崩御の朝

崩御の朝

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-08-26

Copyrighted
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