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 例外なく、誰もが感動を覚えてしまう表現の良さは何だろうか。
 例えば、肉体は異なるが、人格が統一された人類が存在するとき、かかる人類の間では『誰もが感動を覚えてしまう表現』は存在する。なぜなら、かかる人類は、当該人類が抱く価値観を有する一個人と交換可能である。その一個人が感動する表現、と考えた場合、(人格の統一までは果たし得ていないはずの)私たちの現実の世界においても発見できるだろう。また、ないのであれば、実質的な一個人である先の人類の代表に「感動する」ものを表現して貰えばいい。その表現は、きっと他の人類を一人残らず感動させる。彼らの間に違いはないのだから、代表者の表現は皆の心を捉えて離さないことになるだろう。
 かかる例からいえるのは、誰もが感動を覚えてしまう表現には容易に発見し難い、困難を乗り越えた価値のようなものがあるのでないかという点である。
 日常の場面において、異なる意見をもった者同士で行われた合議の結果、得られた結論が妥当であると言われるのは、想定できる同じ結論になり難いという判断が最初にある。だからこそ同じに至った結論には他には有り難い価値が見出される。
 ここから行う素朴な推論は、誰もが感動を覚えてしまう表現にも、ひとつの表現に対し各人が異なる感想や価値判断が行われるところ、その違いを乗り越えて一定の積極的評価が形成されるに至ったものをいうと考えることである。
 人は異なる考え方、価値観を有する。筆者もそう考えるが、一方で理屈としてこの考えを強く推し進めるとき、合意形成の困難さに突き当たることも認める。この問題はオリジナリティとは何か、という命題の難しさに繋がる。すなわち、作品の価値は他に類を見ない固有性にあると判断するとき、誰にも理解できない作品は最もオリジナリティを有するといえる。しかし、一般に用いられるオリジナリティはこのような意味で用いられているとは思えない。オリジナリティ溢れる作品と評価されるものは、必ず誰かに理解されている。ここでいうオリジナリティは、その上での初見の評価であり、そこから先、もっと洗練された表現の可能性に溢れているものである。人々の理解の範疇を超えていない、そして今まで見たことがない。そういう新鮮さを伴う評価が、一般的に用いられるオリジナリティでないかと筆者は考える(勿論、理解の範疇を超える作品が後世、積極的な評価を受けることがある例は枚挙にいとまがない)。
 言葉遊びのように続ければ、違いを見つければ、同じが生まれる。反対に、同じがあるからこそ、違いを知れる。同じと違いは対である。ならば、比較検討は共通部分がなければ十分な結果を得られない。「異同」は最も近しい対象同士で行うのが最良である(空から降る雨と目の前で映るテレビの比較は相当に難しい)。
 かかる指摘に従えば、誰もが感動を覚えてしまう表現とは、という考察を進めるのに評価の基礎となる最低限の共通部分を打ち立てておくのが有益といえる。では、何をもってこの共通部分とするか。
 表現に向かい合う私たちは「人」である。「人」は個々のDNAが違い、その意味で最も個人性を担保しているのは人の肉体であるが、その生命活動に必要なものとして有する機能は共通する。そして、認識を生む人の脳も肉体である。私たちはこの身体を通じて「外」を知る。そして、その「外」には私が感動を覚える表現がある。
 思えば、絵画の歴史を紐解いても分かるのは、解剖学的視点から見た肉体の構造及び各部位の可動に対する詳細な検討により、人の似姿はより現実味を帯び、また重心の掛け方やファンタジックな軽みの表現を可能とし、また人の目の焦点機能の理解の下、その原理を大いに活かし、画面の奥行き又は外界の光をそのまま写し取ったかのような美しさを放ったりと、「人」に対する論理的なアプローチが後世に残る表現の道を切り拓いている。人の肉体は、その構造、機能を維持する為の理屈が渦巻いている。そのため、これらの理屈を解き明かすことで、より真に迫った絵画的表現に近付けたことを歴史は示す。
 「人」ということ。意味として広義だからこそ、これに私たちは括られる。この「人」に満ちた理屈をもって、感動をもたらす表現に立ち向かうことは、評価に対する最低限の基礎とならないか。
 例えば、論理は言葉から成る。そのため、言葉を用いる表現は理屈抜きでは語れない。このことは、言葉を用いる詩又は詩的表現においても同様である。筆者も抱いていたものであるが、詩は難解であり、感覚的であるというイメージが強い。その理由であると筆者が考えるのは、詩又は詩的表現が文面に書かれたことから分かることを超えて、書かれていないことを感じさせることを主たる目的としているからでないかということである。これは正しく比喩が果たす機能であるが、この機能をもってして心や世界や真実等を限りなく語ることを試みるのが詩的表現である。説くのではなく、感じさせ、見つけさせ、掴ませるのが詩の本領である。見方によっては逆説的であり、とても捻くれていると思える表現方法は、けれども意味に囲まれた広大な地を、日常でも用いる言葉を奮って耕す。その果てにあるのはイメージの塊であり、言葉が届かないからこそ豊かな「世界」である。そして、それゆえに迷う。難解になる。
 このような言葉を用いた表現を底無しの迷子にしないよう、ときには振り下ろしたツルハシの先を火花散らして跳ね返す程に硬い地盤として流れを保つのが、言葉=論理である。この論理なくして、詩は語れない。五十音の音だけを無意味に羅列して表す先鋭的な詩であっても、「意味が分からない」という論理的判断を免れない(何より、敢えてここを出発点とする詩的表現というべきだろう。より、感覚に働きかけるものである)。
 書かれた言葉と、表したいものとの間には距離があり、そこに至るまでの道筋は無限である。そこがあると信じて胸を張り、模索し、しかし進んで行く書き手に踏破され過ぎた道は、「手垢のついた」表現として飽きられる。だからより先に進む。そうして迷路に入り込むことも少なくない。また一方で、偶然でも何でも、行き着いた先に楽園の如く未知の光に包まれた儚い「世界」の実感を見出しても、それを持ち帰ることが出来る帰路、迷わず戻れる道筋が無ければ詩的表現は結実しない。そのための揺るぎない命綱となるのが間違いを正せるよう、練りに練られた論理の筋。筆者はそう考える。
 言葉による理屈と感覚の緊張関係により、詩的表現の感動は生まれる。どちらが欠けてもいけない。
 こうして理屈は、表現に対する感動を生む。したがって、私は理屈で成り立つ「人」であるということに両足を乗せ、考察を進めていきたい。
 横浜美術館の常設展で一点、その絵を見かけてから、その名前を覚え続けたパウル・クレー氏の作品をまとめて見られる機会を得られた幸運にあやかり、お気に入りの作品を写真に撮らせてもらい、保存しては見返すことを繰り返す。その時間はとても楽しく過ごせるのだが、氏の作品の特徴を記すために棒人間の力を借りることとする。
 説明するまでもないことを承知でいうと、落書きの定番といえる棒人間は実に簡素な人の表現である。丸い頭に線の胴体、四本の手足、それ以上の意味はない。この棒人間が氏の作品には堂々と描かれる。巫山戯ている訳ではない。また、絵画的表現を批判している訳でもない。もう一つ、氏の作品には数学で学ぶベクトルを並べる一枚もある。こちらの作品は数学的な美しさが表れているが、絵画的表現かといえば、悩ましいところである。しかし、氏はこれを絵画として表現していることは、その作品の確とした有り様から知れる。ならば、氏の意図は別にある。勿体ぶった書き方をする必要はない。氏は、これらに記号的意味を超えた意味を与えていない。氏の作品の命は色に宿る。
 氏の各作品に施された色は明滅の表現であり、質感の表現であり、逸話の真理であり、タイトルにある核心である。
 色は様々なイメージを喚起する。ユング心理学でいう元型とまでいかなくとも、自転する地球の上で経験した日夜の入れ替わり、季節の移り変わりを通じて感じる寒暖のように「人」が経験する共通の体験から、個々人が送る日常生活の些末な出来事に至るまで、エピソードのように語れる感情の動きがある。そして、その場面、場面には意識せずとも紛れ込んでいる色があり、また色によって呼び起こされる記憶がある。その濃淡は似て非なるものとなり、その意味内容の違いは多言語に匹敵するだろう。このような人の感情を統一することなく詰め込める容量を、色は有している。その間の不整合さや矛盾をそのままに並べられる。こうして色に内包される混沌が、対象を正確に指示するという言語の機能の一時停止を生み、画面上に広大な余白を生む。その余白に滲む思いは、それこそ「思いのままに」伸びては縮むだろう。正確に言い表せないもどかしさに疼く痛み、憧憬、喜び、果ては天啓。単純化しては複雑になる色の蠢きは、興味とともに新鮮味を失わない。氏は、そういう色の働きに作品の命を託した。植えて育てて、見る「人」の心に預けた。
 このような定型性のなさから、氏の作品に感じる戸惑いを私は否定しない。恐らく、氏はそういう表現を心掛けている。物理現象としての色の理屈、これを認識する人の目に生じる錯覚、これを画家が見落とすとは思えない。これらを射程に収め、一色の選択、濃度の選択、配色の選択に対する計算を踏まえて氏は描いた。創造的でありながら、その基礎にはしかと理屈が通っている。そこにあるのは「人」であり、その「人」が生む雄弁な色、そしてイメージである。むず痒い思いに悩む人々を前にして、氏に代わる各作品は様々な議論を生むだろう。喧々諤々、やり取りの熱気に誘われて、氏の作品は思わぬ方向に成長するかもしれない。あるいは、これこそが氏の狙いであるかもしれない。私たち、「人」の前に提示された課題。各々の表現に対する評価が試される場。
 氏の作品に感じる、別の描かれ方があるのでないかという印象の淵源。
 タイトルから鳥を描いたと分かる一枚は、昇り立ての陽光が、天辺に立った光が、そして暮れ落ちる寂しさの色が雲の様に漂う。一筆書きのような形象で描かれた鳥らしきものに当たる風があるのか、ないのか。検分する私たちは違うとき、違うところにいる。しかし、見る格好は同じである。自力で飛ぶことが叶わない「人」として、それを私たちは見上げている。そうして感じること。また再び、個々に分かれる分岐点は生まれる。
 違う一枚では、壁面に当たるライトの範囲が狭く、強すぎるために灯されるその中心は光に潰れ、周囲の影は濃くなる。それでも見える像(かたち)に備わる色が、見ては忘れる、覚えてられない「人」の夢を思わせる。誰しも一度はしたことがあるかもしれない経験は、しかしその内容が千差万別、したがってまたもや道は分かれる。無言のまま去る、けれど語れる「私たち」。
 光が込められた逸話を囲む暗雲と、象れた獣に人、忠実なるものを浅学な「私」が知らなかった。氏は知っていた。氏と同じ文化を共有するものならば当然知っていると思われ、また私以外の人はこの逸話を知っている。その可能性は否定できない。しかし、「私」はその一枚に惹かれた。線で描かれた者たちの関係性を知り、大事な色彩に導かれて、込められたものとして守られた記憶、また守りたい気持ちを感じられた。その瞬間的な経験を時間をかけて、何度も繰り返した。これは「私」だけの思いかもしれない。あるいはこれを描いた氏も、「私」より先にこの一枚の前から去ったあの人も、同じ何かを感じたかもしれない。「人」である「私たち」、しかし個々の身体でその場から去り続ける。
 色に正解はない、と『配色の設計』に書かれた一文を手に取って、氏の作品に改めて向かい合う。「人」という大きな括りに基づき、氏の手による色の表現に込められたイメージと、私又は私たちのイメージは重なり合えるのか。特に、長い年月を隔てた私や私たちの間にイメージの共有は成り立つのか。そこに正解はない。
 それを見つけたい。氏の作品が好きで、この感動をもっと形にしたいと望む「人」がいる。
 だから、話し合える。氏の作品を前にして凍結したかのような言葉を温めるきっかけは既に得ている。あとは向かい合うだけである。異なる「人」として、様々な方法を尽くして。
 水から青色を連想する筆者のイメージ。しかし、水は透明であるので、このイメージはプールなどの記憶に誘発されたものなのだろう。これを変えるのは難しく、また好きなイメージでもあるので心情としても変えがたい。だから、筆者は試みる。別の解釈、別のイメージを知る機会を得て、自身のそれと比べて、感動を覚える表現に繋げていく。
 誰もが、というのは憚られる。しかし、目指してみたいと密かに思う。氏の作品を見てしまった者として、その魅力から抜け出せない一人として。

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  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-08-26

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