アンファミリアの海
中川紗雪
【白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ】
ざざと波が鳴る。
あすこにぽつりと漂い飛ぶ海鳥の名はなんというのか、私は知らない。
鳥の骨は空洞で、だからあんなにも軽々と空を扱えるのだという。見ているぶんには、飛んでいるというより泳いでいる様子に近い。
この国の輪郭のきわを歩いている。
此処は海街。あんなにも憧れ焦がれた、海街なのだ。
柔らかなくせに灼熱を閉じ込める砂浜はほとんど凶器だ。けれどその滑らかな見た目に誘い込まれて肌を沈めたくなる衝動には抗えない。頼りない足取りで、私は歩く。
私には海は似合わない。私の生まれは山に囲まれた雪国だから。名前からして紗雪だもの。海に雪は積もらない。
こうして歩いていると、思い出す。あなたのことばかり、思い出す。
一見何の変哲もないこの砂浜には、けれど奇妙な言い伝えがある。教えてくれたのはこの街に住んでいたあなただ。何年かに一度、この浜辺から見る波がはっきりと虹色に見えるのだという。
──いちめん虹色なんです。たいそう綺麗ですよ。
ほんとうですか、と私は問うた。頭の中で今でも問うている。ほんとうですか。何の根拠もないのに、あなたが言ったというその一点のみで信じてしまうのは、そろそろ私が切羽詰まっているからだろうか。
あなたは愛おしい友人だった。朗らかで、偉ぶったところのない優しい人だった。屈託ない笑いかたが好きだった。
異性だった。
それが悲しかった。
異性というただそれだけで、恋人だの結婚だのという付加要素が勝手に付いてまわって、ただの友情さえ儘ならないのが悲しかった。私はあなたを愛していたけれど、それがあなたに知れることを恐れた。あなたが私を愛していると知っていたから。互いの愛しているの感覚が、多分違った。
どうしてこう何度も同じことばかり考えてしまうのだろう。この浜辺に毎日通って、毎日同じことを考える。もう幾年になるのかわからない。自分がいつから此処にいるのか、わからない。
毎日通っていると海の不変に驚かされる。
畑が美しいのは、その背後に人の勤勉さを見るからだ。
だったら海が美しいのは揺るぎのない規則性のためだろう。波は絶えず止むことがないし、干上がった水分は山から川となり必ず帰ってくる。もし、そのメカニズムの中に虹色の波のサイクルも含まれているとするならば──信頼できる。比較して、私ときたらまったく信頼できない。
私はおかしいのだろうと思う。あなたとの思い出は細部まで想起できるのに、あなたの顔も名前も、私自身の素性も──さっぱり思い出せないのだ。
もう随分、昼間の記憶しかない。自分の住居すら分からない。私は夜一体どこで眠っているのだろう。毎日この浜辺を歩いて歩いてあなたとの記憶を辿りつつ虹色の波について考える。
不意に突風が来て、迂闊だった私は帽子を飛ばしてしまった。帽子は私の頭から離れてあっという間に風に運ばれてしまう。慌てて追いかけようとするけれど、先日怪我した脚がもつれて足許は砂に阻害され、思うように走れない。海に取られてしまうと諦めかけたとき、帽子を捕らえてくれた手があった。白い帽子を掴む細い指の爪先が波色で、とても映えた。
お礼を言って帽子を受け取ると、彼女は私の怪我を心配してくれた。まっすぐなハサミカットの髪型と奥二重の猫目が印象的だ。年齢は幾つだろう。私より年下なのは確実だけれど、最近のひとは環境のせいなのかお洒落のせいなのか実年齢より大分若く見えるから、私の予想する年齢は当てにならないかも知れない。彼女にとってはきっと何てことのない、大きめのTシャツに描かれたイラストがさりげなくて素敵だった。
穏やかなふうを装って私と接しているけれど、彼女の勝気そうな性格は仕草や表情から見て取れた。彼女は十代の頃、この海街で暮らしていたのだという。
「観光ですか」
当たり障りなく彼女は尋ねる。
「ええ」
これを観光と呼ぶならば。
「海が見たくって。日常の中に海がある暮らしって、昔から憧れていて」
「県外者の方はよくそう仰います。海の綺麗なところしか知らないから」
私を責めているというより、何かを思い出して語っている口振りだった。正直で不器用そうな人。誰かと話すのすら久し振りで、つい気が緩んで関係ない彼女に色々話したくなってしまう。
「私ね、ここの波が虹色になるのを待ってるんです」
彼女は怪訝な顔をしてこちらを見た。
「待ってるんです」
──ずっと。
祈りのように待っているんです。
*
海が見たい──と言ったのだ。誰が。私が。
彼女と別れて浜辺を歩き出した私は再びあなたとの記憶に潜り込んでしまう。
あなたは多分昔々に死んだと思う。不幸な事故や病気なんかじゃない、ただ老人になって、寿命を全うして死んだ。
私の方は随分生きた。あまりに随分生きたから、その時代その時代を吸い込んで、もう自分が昔の人という感覚すらなくなってしまった。
あなたに優しくされたことばかり憶えている。あなたがあまりに私を大事に扱ってくれたので、私は未だに空っぽのままだ。胃は空洞で、脳もきっと萎縮しているのだろう。
迫り来る波のように、大きいものほど引きも強い。あなたの優しさが深いほど私の内面積はえぐれて、やがてそれが枯渇したとき空虚だけが残った。
ほんとうは私はただ、自分を健全に愛する力が欲しかった。すべてに対する価値が揺らがないように。それが出来なかったのは誰のせいでもない、私の責任だ。
あなたが死んだあとの世界ときたら、酷かった。
あなたが死んだって、世界はなんにも変わらなかった。まるで最初からいなかったみたいに変わらなかった。いつものように朝となり、夕となり、宵となった。世界は非情だ。何か天変地異の一つでも起こってくれたほうがよほど情があるというものだ。
でも、それをいうなら私も非情だ。あなたの死によって片腕が捥げたわけでも心臓が潰れたわけでもない。何の変化もない、健やかな私のままであったのだから。
だからそう、私は。
ああ、どうしてだろう。今更思い出しかける。記憶の端から曇りが剥がれてゆく。
そう──あなたがいない世界なら、私の世界も終わらせてしまおうと思って。私は外れ者だから、居場所なんか本当はずっと昔からなかったのだ。どこにも馴染めない私を辛うじてあなたが受け止めてくれていたから、人並みでいるような気になっていた。
うんと遠くへ行こうと思った。遠くの、そう、海の見える浜辺がいい。いつでも憧れ焦がれた、美しい海の見える美しい浜辺。
そう思って此処に来たのではなかったか。
海を眺めながら、あのとき私は何をした? 経験のない混乱に襲われて、意識が混濁して──それから。
そうして私は、誰かに助けられた。誰に? 分からない。
あれから随分と経ったのに、私は自分のことをおばさんともおばあさんとも思えない。多分他人から不意に「おばあさん」と呼びかけられたなら、思春期のように傷ついてしまう。
海が見たい、と言ったのだ。そうしたらあなたが連れてきてくれたのが此処だった。思い出したくもなかった。また来ようねと、言ったのだ。
私の記憶は彷徨う。この浜辺をぐるぐると。虹色に見える波があるだなんてあなたが言ったから、それを見届けるまで私はいつまでも通い続けてしまう。
そんな奇跡みたいな、などと思うこともある。でも、奇跡なんて要は頻度の問題なのだ。この世界で起きていることは全部奇跡で、ただそれが定期的に安定して起こると奇跡でなく単に現象と呼ばれる。それだけのことだ。
海の方へ、海の方へ。私はゆっくりと近寄る。
波に舐められる程度、踝辺りまで浸かってみる。スカートは濡れるだけで波色には染まらない。しばらくそうしてふと見下ろすと、足から皮脂が溶け出すように周りがじわじわ滲んでいた。自分から染み出すこれが何なのか、私にも分からない。滲みは止まらずやがて海一面に薄く拡がって、光の反射で虹色に輝いて、ああ、これはまるで。
──何年かに一度、海の波がはっきりと虹色に見えるんです。
──いちめん虹色なんです。たいそう綺麗ですよ。
どこかで迷信だとばかり思っていた。
波は鮮やかに優しい帯状のプリズムとなって輝きだす。なんだか不思議で、ちょっと拍子抜けしてほっとして、切なくなる。黙って虹色にたゆたう波をいつまでも眺めている。
潮騒の身侭さは手に負えない。
ざざと波が鳴る。
ざざと波が鳴り、私を急き立てるので、私ばかりが淋しい。
庭山透子
【自分がどうしても自分であって私の他のものでないといふ そのことがぬらりと気味悪い】
ねずみ返しを跨ぎ超えるとしんとした冷気とひゅんとした音が濃さを増す。夏なのにざらりと冷たい空間に、沈黙が饒舌に流れている。たぶん、高祖父の時代の空気が此処にはまだ随分と溜まっているのだ。
此処に色彩はない。あったとしても鈍い。
幼い時分、色というのは本来存在しないものなのだと母に教えられて戸惑ったことがある。あなたが今持っているその青いボールも光のもとで見るから青色に見えるだけであって、光の届かない場所では色なんか付いていないのだ、と。
その言葉に驚いた私は、だったら物が色を失う瞬間を見てみようと、件の青いボールやら赤いミニカーやら色とりどりのものを持ち込み、押し入れに閉じこもって襖を開閉し実験を試みたことがある。けれど、何度やっても「色が消失する」という現象には納得いかなかった。そもそも闇のなかで色彩の識別なんか出来るはずがないのだ。あれは随分乱暴な言い切りだったと思うけれど、母の“色がない”という説明の本質はそこだったのかも知れない。此処に足を踏み入れて、久方振りにそんなことを思い出した。
祖父の家の蔵である。
十四のときに両親とも亡くした私は独りで暮らしていた父方の祖父に引き取られて、十八の春までこの海沿いの家で過ごした。祖父亡き後私がこの家を引き継いで、けれど私は再び此処に戻って住むことはなかった。ときおり帰っては管理していたのだが、手入れの煩わしさを理由にとうとう手離すことに決めた。祖父が亡くなってもう四年経つ。残すか壊すか、いずれかを私が決断せねばならなかった。私は壊すことを選んだ。
半月ほど放置していただけなのにポストは潮風ですっかり錆びていて、開けるとき嫌な音を立てた。ああこうだった、と思い出す。
海街は好きではなかった。潮風はいつでもべとついていたし、生臭かった。劣化を避けるため自転車はいつも土間まで入れていた。
遮るものがないこの平野地形は悪天候のときもろに害を受ける。単なる夕立でさえ海と同化するように激しいスコールとなったものだ。
祖父とこの街で二人暮らした日々は、私の子供時代の思い出のほとんどを占領している。
祖父は偏屈な人物だった。
眉間の皺は深く、歯のない口許もまた皺苦茶で滅多に喋らない。祖父には何を考えているのか分からない、別の生き物であるかのような空恐ろしさがあった。海街にはどちらかと言えば親しみやすく、開放的な人が多い。けれど残念ながら祖父はそういうタイプではなく、私はこの家でいつもどことなく緊張して過ごしていたように思う。
呪いめいた言い伝えのようなものを、祖父は信仰していた。
普段無口な祖父が一度だけ、嘘だか誠だか分からぬ奇妙な話をしてくれたことがある。彼の祖父──私の高祖父──のことである。
曰く、医者であった高祖父は人の記憶を蒐集していたらしいのだ。
私がこの蔵に入るのを祖父は嫌った。やれ危険だの暗いだのと過保護めいた理由をつけて入ることを禁じられていた。
海のような曇った水色を塗った指先も、此処では少しも分からない。携帯端末の小さなライトで豆電球のスイッチを探し当て、カチリとスライドさせるとやっと全体がほのかに見渡せるようになった。来月までに残すものと処分するものとの仕分けをせねばならない。
ざっと見回すと、大小様々の品がやや乱雑に置いてある。
祖父の仕事関連の道具やら、祖母がいた頃よく活躍していた足踏み式ミシン、父が若い頃買ったらしいギター、私が幼い頃飾ってもらった雛人形やいつかやり損ねた湿気た花火までひと通りの歴史がひっそりと揃っている。
壁沿いに、独特な造りの抽斗があった。高さは私の身長よりやや低い。やけに古めかしくて物珍しいそれは、明らかに服や食器を収納するのとは異なる造りである。統一された小さなつまみがいくつも並んでいる内のひとつを引き出してみると、小さなガラス瓶がぽつねんと行儀良く収まっていた。他のつまみも次々引き出すと、同型の小瓶が同じように収納されている。一列分すべてがそうなっていた。手近なひとつを手に取ってみる。直径5センチほどのそれを豆電球に翳してみると、底1センチくらい、無色透明の液体が入っている。何の液体なのかさっぱり分からない。これは果たして処分しても構わないものなのだろうか。もう少し光に当てようと高く掲げたときに気が付いた。
中川紗雪。
瓶底に貼られた小さなラベルに、そう記してあった。
「透子ちゃん来ちょったんか」
段ボールを車に運び込んでいるとき、同じ通りの蓮村さんに声を掛けられた。
「いつも綺麗にしなさんね」
お久し振りです、と軽く会釈する。
「実はこの家、近いうちに取り壊そうと思ってて」
彼女は目を丸くする。
「勿体ないねぇ。こんな大きなお屋敷」
「──なんですけど、管理しきれなくて。住む予定もないし、塩害があるので放っておくわけにもいかなくて」
「まあしょうがないんかね」
寂しくなるねえ、蓮村さんがぽつりとそんなことを漏らすのを意外に思う。
「誰も住んでいない家でも、やっぱり寂しいって思いますか? 」
「そりゃあ寂しいよォ、街に昔からあったものがのうなっていくのは。海街はね、どだい淋しいんよ」
どこか諦めのような、諭すような顔で蓮村さんは私用の笑顔を作った。
「庭山医院があった頃の景色も、よう覚えとるんよ」
高祖父も曽祖父も開業医で、地域の住民に重宝がられていたらしい。祖父の代でそれは途絶え、医院自体も私が生まれる前にとっくに取り壊されてしまったけれど、この街に越してから年配者に「庭山医院のとこの子か」と言われることも少なくなかった。
──淋しいんよ。
ここは小さな街だから、何処そこの誰々が亡くなったやら結婚したやら、新しく出来たあの店はどうだとか、皆が皆陽気に伝言してあらゆる情報がすぐに知れ渡ってしまう。私が祖父の屋敷を取り壊すこともあっという間に拡まってしまうのだろう。
窮屈なほどに過剰な地元ネットワークも、その土台がこの街の住民の心の奥底に巣食っている淋しさなのだとしたら。淋しさゆえの人懐こさなのだとしたら。発露の仕方は違えど、祖父のあの偏屈さも。私も私で。
──時折、麻衣のことを思い出す。随分と昔に会った切りだけれど。もう色んなことがぼんやりしているのに、麻衣の存在が私の決定を左右してしまうことがある。今回のことだってそうだ。私は此処には戻らない。
一通り蔵を点検して、売れそうなもの以外全部処分してしまうことに決めた。大きなものは、中には値打ち物もあるのかも知れないけれど、面倒でいっぺんに処分してしまうことにした。何しろ私ひとりでは手に負えないのだ。
持ち運びできるサイズのものはいくつかの段ボールに詰めて車に積んだ。運転席に座ってエンジンをかけようとした手をふと止める。ポケットを探ると、出てきた。
明るい太陽光の下で翳しても、小瓶の中の液体はやはり無色透明だった。ただ、それを持った私の手の爪はちゃんと繊細なニュアンスカラーの水色で、光を受けた瓶を包み込んできれいだった。
興味本位で持ってきてしまったこの瓶は医者であった高祖父の時代のものだろうか。ラベルの『中川紗雪』というのは、患者の名前か。書いてあった日付の中では、これが一番古かった。
嫌なのに繋げて考えてしまう。祖父から聞いた妙な言い伝え。
信じていない。信じたくない。なのに、引っかかってしまう。
そう、あのとき祖父は睨んでいた。私には見えない高祖父を。
どこか弛緩した表情で言い加えた祖父の、剃り残した白い髭と一緒に、思い出す。
液体化していたのだと祖父は言った気がする。人の記憶は液体化出来るのだと。高祖父はそうしていたのだと。嘘かまことか知らないけれど祖父は高祖父のそれを憎んで、だから医院を継がなかったのかも知れない。
後部座席からもうひとつ、古い品を手繰り寄せる。見つけてしまった祖父の手記。あまり書き込まれてはいなかったけれど。
人に理解されぬ、必要とされぬ孤独を知っているか。
孤独は、数ミリの差、数滴の匙加減で訪れることを知っているか。
*
海は総てを受け入れる。ゆえに淋しい。
総てを受け入れることは決して優しさなどではない。何物も頓着なく受け入れるなんて、実際は何物も受け入れていないのと同じだ。
砂浜をあてもなく歩いている。一直線に睨むのは水平線である。睨むのは、近視だからである。
海は嫌いだ。圧倒されるから。どこへでも行けるようでいて、結局どこへも行けないから。あんな果てない様子を見せつけられて、嫌でも自分の卑小さを意識させられる。ときに凶暴さを見せつけ畏れさせる。なのに帰ると毎回見たくなる。悔しい。
この街で暮らした四年間、学校帰りに飽きもせず此処へ通った。私は負けず嫌いだから自分の汚いものを此処に持ち込むしかなかった。
両親と過ごした日々は、あまり記憶にない。それだけショックだったのだろうと気遣われることもあるけれどよく分からない。父母の死で生活環境が急に変わって、新しい学校に馴染めなかった苦しさの方がよほど鮮明だ。私の無愛想と気の強さでは、友達も出来るはずがなかった。
海を見ると思う。祖父は、ただ孤独だったのだと。そしてきっと高祖父も。それだけのことだ。多分、人は孤独すぎると記憶さえおかしくなる。変に憶えていたり、逆に憶えていなかったり、脳が勝手に情報操作している。
考えつつ空に漂う海猫を見ていたら、突然目の前を白いものが横切った。海猫かと錯覚して、次の瞬間帽子だと認識する。手を伸ばしたら空中で捕まえる事ができた。つばの広い女性用の帽子だ。
「すみません」
後ろで聞こえた声に振り返ると、帽子の持ち主らしい女性がびっこをひきながらやって来るのが見えた。
「ありがとうございます。助かりました」
女性は人懐こい笑顔を見せた。目はすっと細く顔は小さく控えめ、肌は抜けるように白い。先程蔵で見た雛人形のようだった。
まるで筋肉なぞ存在しないかのような腕を差し出して、彼女は軽く会釈しつつ帽子を受け取る。
「お怪我されてるんですか」
女性はロングスカートの裾を少しだけ捲りあげる。
「お恥ずかしいんですが、階段で転んでしまって。たまに」
階段がゲシュタルト崩壊する事があるんです──と彼女は妙なことを言う。
「同じ段を何度も踏みしめていると、そこがどこなのかよく判らなくなってくるんです」
そして踏み外す──笑っちゃいますけど、と形だけ笑ってから、
ふっと真顔になって黙った。
変な人だなと思った。けれどなぜか嫌な感じはなく、二人して黙って沖の方に目を向けて、しばらく空をゆらゆら漂う海猫を見ていた。彼女の、年齢不詳の浮世離れしたその様子に既視感を覚えた。
少しだけ、麻衣に似ていた。
麻衣とは東京の専門学校で出会った。掴みどころのない不思議な子で、私とは正反対なのに気が合った。
上京して、孤独で貧乏で何もかも上手くいかなくて、すっかり嫌になった私は彼女と逃避行したことがある。無謀で無計画なそれは当然上手くいく筈もなく、結局失敗に終わったのだけれど。
あれも夏だった。出鱈目に電車を乗り継いで、とうとう山奥の名前も分からぬ集落に来てしまった。日が沈む前に見つけた古い神社の本殿は鍵が掛かっていなくて、そこで勝手に一晩泊まった。賽銭箱の隣、麻衣と並んで腰掛けて星空を見たとき、海みたいだと感じたのだった。
麻衣は私に付き合ってくれているだけだと思っていた。今思えば、私が鈍かったのだと思う。
麻衣がふとこちらを見て、ねえ、弱音を吐いてもいい、とこぼした。いいよと応じたら、「透子さんの話がききたい」と言う。それが弱音なの、と訊いたらもう一度笑って控えめに頷く。
「話って、なに話せばいいわけ? 」
「なんでも」
星は綺麗で空気は澄んで、私達は逃げているのに何だか酷く呑気だった。最近あった面白い出来事とか、考えたこととか、話したいなって思ったこと何でも、と麻衣はまるで適当な話し方でそう加える。
「だって私透子さんの話聴くの好きだからさ。その人の事を知りたいって思うのは、その人がすきって事だからさ」
思わず笑った。
「すきとか言わないでよ、やだな」
星明かりの中の麻衣の顔も笑ってちょっとゆるんだ。
すきとか言わないでよ。
だって泣きそうになるから。
翌日早くに起きて見た朝日がきれいで、朝日が照らすミニチュアみたいな下の街がいとしく思えて、ああ、あれからどうなったのだったか。憶えていない。いつか麻衣は私の知らぬ間に何処かへ行ってしまった。みんな、居なくなってしまう。ちっぽけな私を置いて。
「私、記憶がおかしいんです」
「え? 」
「おかしいんです」
受け取った白い帽子も被らずに彼女は訥々と語る。
「家はずっと遠方にあるんです。泊まるところもない。なのに、毎日此処に通っているんです──」
ああ、この人は多分酷く淋しいのだと思った。だから記憶が曖昧で、語る言葉が支離滅裂なのだ。いや、皆隠すのが上手なだけで人間の心の思いごとなんて例外なく複雑怪奇巧妙緻密支離滅裂だ。
「苦しいほど憶えていることと、怖いほど思い出せないことと、斑になってる。私」
そこで彼女は涙を零して、その涙に自身が驚いたようだった。弾みで私の方を向いて涙を拭いながら笑った。「でも、通っている理由ははっきりしているんですよ」と海に手を差し伸べる。
「ご存知ですか? 何年かに一度、此処の波が虹色に見えるという言い伝えがあるんです」
「虹色に、ですか」
聞いたこともない。
髪の濃い、小さな頭を揺らして彼女は目を細める。
「見たいんですよね。全然信憑性もないですし、本当にくだらないんですけど──見たいんです」
*
波に次ぐ波。その色は、何の変哲もない曇った水色だ。あの人のせいで、余計に麻衣のことを考えてしまう。
私の頑固を許して、頑固の向こうの私を見てくれたのは、麻衣だけだったのに。気取らず私に自分を曝け出して、新しいことを教えてくれて、私の身の上を一度も遮らずに聴いてくれたのは麻衣だけだったのに。
ねえ麻衣、人に性別なんかなきゃ良かったのにね、そう思わない? それともそう思ってしまう私がおかしいのかな。雌雄のないアメーバが羨ましいなんて、馬鹿な人間の考える、馬鹿げたことなのかな。
絵本の中の女の子のようになりたい。性を感じさせない人でありたい。世界中みんなそうなったら良いのになんて、そんなこと──そんなこと誰が真剣に取りあってくれるだろう。軽く受け流さないでいてくれるだろう。
私は外れ者だから、すぐに苦しくなってしまう。そうだ、あの時もそんな感じで、今まで出来ていた愛想笑いとか常識的な振る舞いとか、全部どこかに落としたように出来なくなってしまったんだ。どこの枠にも収まりきらなくて、人の枠からも外れてしまって、私はもう。
──だから全部忘れることにしたんだ。
忘れるには憶えていなければならない矛盾に混乱しながら、ああ何だっけ。
どうやってこの歳まで生きてきたのだっけか。
ポケットからもう一度ガラスの小瓶を取り出す。もし高祖父に纏わる祖父の話が本当で、この瓶の中身が中川紗雪なる人物の記憶を液体化したものなのだとしたら、こんなところで彼女も随分窮屈だろう。
私は波打ち際に蹲み込み、瓶の蓋をひねり開けた。波に中の液体を全てあけて中川紗雪を解放してしまう。波の間に間に海猫の影落ちつ、溶けつ混ざりつ。少し粘度のあるその液体は海に溶けて漂い広範囲に均一に拡がって、そうこうしている内にやがて海そのものとなって全体を七色に輝かせた。
──虹色の波。
船のオイルが海に流出すると光の屈折で虹色に見えるのと同じ理屈だ。あるいはシャボンの泡が虹色に輝くように。干渉現象というのだったか。
“何年かに一度、此処の浜辺から見る波が虹色に見えるという言い伝えがあるんです。”
はっとする。
──あの人は。
あの人は見ているだろうかと思った。これが彼女の待ち望んだ虹色の波なのかは知らないけれど。教えなければと辺りを見回して彼女を探したけれど、見当たらなかった。
虹色の波は虹色に見えるだけ。あれも多分、本当は色なんてない。ただの光の屈折が、私に幻想を見せつけて信仰させる。ボールの青や、ミニカーの赤と同じように。それでも。
彼女が自由になれればいいと思った。
虹のスペクトラム。海と空のスペクトラム。砂浜と波打ち際の、夕と夜の間の──。
淋しい。私ばかりが。
違う。
淋しいのは私ばかりじゃない。
ざざ。
ざざ。
揺蕩に揺蕩を連ね、波は途切れることがない。
大きな波は、その分引きも大きくて。満ちた分だけ必ず次は失ってゆく。
あの夏に会ったきり、あの人を二度と見かけない。
了
アンファミリアの海