紫萬と磐城の儚 4️⃣

紫萬と磐城の儚 4️⃣


-従姉妹-

 戻った司喜子が、「踊りましょ?」と、陸奥の手を取った。その手が冷たい。
 往年の年老いた黒人の歌手の掠れたブルースが流れていた。白人の女との叶わぬ恋の歌だ。際どい性の描写もある。こんなレコードはとうに禁止になっていて世上にはあり得ないが、権力者の館は戦前と何一つ変わらず自由に耽溺しているのである。

 「猿沢夫人と踊っていたのね?お知り合いだったの?」男が頭を振って、「ウィスキーを飲んでいたら誘われたんです」「どんな風に?」「伊勢夫人においてけぼりにされたの?わたしだったら知恵のない天女の様に慰めてあげられるわ、って」司喜子が苦笑しながら、「魔性のあの女らしいさすがの物言いだけど。若い人だもの。楽しかったでしょ?」「あなたほどでは…」と、陸奥の手が女の尻に下りた。
 「随分と遅かったですね?どうかしましたか?」「そうでしょ?未だ動機が後を引いていて…。そうだわ。お詫びをするのさえ、すっかり、失念して。ご免なさい」「何かあったんですね?」
 「確かめてみて?」と、女が男の手を誘うと、「胸が波打ってる?」「そうでしょ?人目がなかったら見せたいくらいだわ」「具合が悪いんだったら休みましょうか?」「そうじゃないの」「何かあったんです?」
 「どうしようかしら?」女がわざとらしく口ごもる。「何でも話してください。力になれるかも知れない。いや、あなたの力になりたいんだ」
 「嬉しいわ。真実何もかも話したいわ。だって、一人で抱え込んでいたらこの身体がどうにかなってしまいそうなんだもの」「身体が?」「酷く熱いの」「熱い?」「異様な初めてなんだもの。熟しきった果実みたいに、今にも崩れ落ちそうなんだもの。もっと、しっかりと抱いて欲しいわ」「吐息も熱いですね?」「だって…」「いったい、何があったんです?」

 女が長い息を吐いて、「ご不浄に行ったの。誰かが入っていたから廊下で待っていたんだけど。長いので困っていたら、初老のあの黒人の歌手に似た使用人が通りかかって。別なところを教えてくれたわ。離れよ」と、一気に続けるのである。「そう。確かに黒人だったわ。やっぱり、あの歌手だったのかしら?」
 「帰り際に隣の部屋に男と女が入るのが見えたの。窓があってね。カーテンが引かれているんだけど僅かに隙間があったのよ」「覗いたの?」「私ったら。はしたないし無作法なのよね?でも…」「責めはしません」「二人とも知っている人だったんだもの」「知り合い?」「そう。あなたならどうしたかしら?」「当然に覗きましたよ」「存分に慰めになるわ」「それで?」「凄まじい修羅をに遭遇してしまったの…」「話してください」
 「こんな告白って、破廉恥じゃないかしら?でも、どうしてもってあなたが望むなら…」「是非にも聞きたい。あなたの胸のつかえも私のある疑念も取り去るには唯一の選択なのです」

 「いかに大本営が戦果を誇っても、負け戦が続く現実を庶民も察知していて、今時は世情も混沌として、何やらエログロナンセンスとやらで、淫靡淫乱な雑誌が密かに横行しているんでしょ?」女の髪の毛が数本解れている。「私は読んだこともないけど。わかるでしょ?耳には栓が出来ないもの」「上流などというこんな狭い世界に棲む女達は、それはそれは、性の出来事にはかしましいのよ」「猿沢夫人なんかは典型なんだわ」「そんな話をこれからしようというんだもの」「あなた?もっと耳朶に息をかけてちょうだい」

 「…だったら」と、司喜子が話し始めた。「…電気はついてないんだけど。今夜は眩しいばかりの満月でしょ?黄金色の月明かりに鮮明に浮き上がっていたわ」「二人は抱き合っていたんだわ」「誰なんです?」「女は外務省北米局長夫人よ。…私の従姉妹なの。ご存じかしら?」「北米局長の?さっき挨拶したかも知れないな」「今日は紫の桔梗をあしらえた和服で。年格好は私と同じ。顔もよく似ているのよ」「ああ。あの人か。道理で…」「どうかしたの?」「あなたを見た時に、なぜか、初めてとは思えなかったんだ。男は?」「ドイツの新聞社の。ドイツ人の記者よ。主人の談話で、一度だけ家に来た事があるわ」
 「驚いたな。念のためにどんな男か言ってみて?」「大柄の中年で白髪。金縁の色の濃い眼鏡をかけてるわ」「やっぱりそうか。カールに間違いない。今夜も話したばかりだ」「知ってるの?」「懇意という訳でもないが。何度か取材を受けてる。明後日も会う約束になってるんだ」「そうだったのね」
 「それで?」「二人はキスをしていたわ」「激しいのよ」「なまめましく舌を絡め合ってるの」「従姉妹が襟を緩めて乳房を取り出したわ。豊かなのよ」「あなたのに似て?」「そう。私達は何から何まで瓜二つなんだもの。従姉妹というのすら不釣り合いで。忌まわしい謎でもあるのかしら?まるで双子の姉妹みたいなんだもの」「それから?」「それを男が舐め始めたんだわ」「乳首もしゃぶって」「そして?」「男がズボンを脱いだわ」「それを膝まずいた従姉妹がさも愛おしそうに舐め始めて」「何を?」「男のよ。パンツを穿いてなかったわ。向こうの人って穿かないって聞いた事があるわ。シャツでくるんでいるんでしょ?」
 
 
-スパイ-


「驚いたわ。漆黒の茂みに金色の光が煌めいていたの」「それを男が引き出して…」「そしたら、ずるずると出てきたんだもの」「何が?」「何が入ってたと思う?」「想像がつかない」「数珠だったわ」「数珠?」「そうよ。金色の数珠なの。あんなの見た事なかったわ。驚くでしょ?」「その数珠が濡れて光ってるの」「どうして?」「あの人のはきっと濡れやすいんだわ」「あなたのは?」「どうなのかしら?」「似てるんだろ?」
 「どうして数珠なんか入れていたんだろ?」「きっと示し合わせて。パーティにも入れたままにして出席していたに違いないわ。踊っているのを見たもの」「カールと?」「ううん。違う人だった」「そんなのが入るものなのかな」「女のに?」「そう」「あなた?あそこからは子供だって出てくるのよ」
 「どうして入れたんだろ?」「そういった性戯があるのよ。淫乱な大臣夫人に聞いたことがあるもの」「どっちが言い出したのかな?」「従姉妹だと思うわ」「どうして?」「あの国に数珠なんかあるのかしら?」「この国に来てから覚えたのかもしれない」「別な女にでも教えられたと言いたいの?」
 「その可能性もある。その数珠の持ち主が誰なのかを、まず、調査してからだ」「その数珠がそんなに重要なのかしら?」「直感なんだ。でも、予断は禁物だからね。命取りになる場合だってあるんだ」「さすがに鋭いのね」「あなたもした事があるの?」
 
 「司喜子?」と、陸奥が女の名を耳朶に囁いた。「あなたの話を最後まで聞かないと判断はできないんだが。自分は今、国家機密に関わるある国際的な陰謀を極秘に探索しているんだ。あなたの話は重要な情報になるかもしれない。是非とも話して欲しい」「そういう事なら。わかったわ」
 「見た事を続けるわね」「立ち上がった男が、そこにあったテーブルに従姉妹を座らせてたら。従姉妹が股を開いて」「そこに男が押し付けて」 「…従姉妹は股間の肉が極端に盛り上がっているのよ」「通常の二倍くらいよ」「それに陰毛が濃いの」「恥ずかしいくらいだわ」「どんな?」「臍が縦長なんだけど。そこを頂点に密生しているわ」

 「司喜子?」「今の話は誰にも話さないで欲しいんだ」「勿論だわ。こんな事はあなた以外には話せないわ。でも、どうして?深い訳がありそうね?」「さすがに神経も鋭敏な方だ。これは軍の最高機密、参謀本部の極秘の事案なんだが。あなただから概括ばかりを話しましょう」「カールの事です。彼はナチの秘密党員です。優秀なスパイなんだ。彼はかの国が発行した一流通信社の身分証明書を持っている。それを利用して短期間で政財界の要人の人脈に入り込んだ。だが、彼は…」「ソ連のスパイの疑いもあるんです」「まあ」「今後の我が陸軍が北方戦略に転換するのか、南方展開をさらに強化するのか、彼はその帰趨を探っているんです」「彼があなたの従姉妹とそういう関係なら、場合によってはあなたにも協力をお願いする事になるかも知れない」「わかったわ。あなたの言う事なら惜しみ無く協力するわ。でも?あなたは間もなく大陸に赴任するんでしょ?」「自分には手足になる同士がいます。例えどこにいても全体を掌握するのは自分なんです」

 「あなた?ぎこちないわ。もっと抱き寄せてもいいのよ」「こう?」「上官の妻だろうと遠慮は無用だわ。あの人とは生まれも育ちも雲泥。私は私、なの」「あなたのような方と踊るのは初めてなんだもの。心までが浮遊しているの。今夜はふんだんに楽しみたいわ」「あなたから熟した桃の香りが立ち上っている」「あんなのを見たからかしら?」「身体が変わったんですね?」「誰だってそうなる筈よ。今でも熱いんだもの」「目が潤んでいる」


(続く)

紫萬と磐城の儚 4️⃣

紫萬と磐城の儚 4️⃣

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  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-08-24

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