紫萬と磐城の儚3️⃣

紫萬と磐城の儚 3️⃣


-繭子-

 この祝宴に取り立てて見知った者などいない陸奥は、司喜子が言い残したバーのカウンターの端で、愛好の煙草を燻らしながらウィスキーを含んだ。今ほどまでの司喜子の妖しい肉の感触を反芻していたのである。そこに突然に声が訪れた。「あなたじゃない?」
 振り向くと、青紫のドレスをまとった豊満な女が蘭熟した香気を放っている。「そうよ。驚いて言葉も見つからないようね?」「ご無沙汰をしてました」
 繭子が頓狂にひと笑いした。だが、男に特別な悪感情を抱いているとも見受けられない。歳月の隔たりを飛び越えた、意図のない、男が好きだった笑顔だ。陸奥は懐かしさすら感じた。
 「馬鹿ねえ。あなた?今はそんな他人行儀の挨拶なんて無用だわ。今さら謝って欲しいとは思わないし。怨み事も言いたくない。事情も今は一切聞かないもの」「でも、後で必ず懇切に釈明してくれるわね?」「私に対してはそれくらいの債務はある筈よ。そうでしょ?」
 「私達はあの凄絶で莫大な過去を共有してるんだもの。どんな事情があったかなんて、いくら考えても思いつかなかったけど。あなたが私から逃れることなんか出来ないんだわ。私達は秘密の一対なんだもの。違うかしら?」と、女の意味ありげな言葉に陸奥は眉ひとつ動かさずに頷かざるを得ない。
 「いつがいいかしら。そうね。あなた?明後日はどう?そうね。T村の実家はどう?今は私が別荘がわりに使っているの。必ず来られる?」と、五年振りに突発的に出会った女の矢継ぎ早の詰問に不意をつかれた陸奥が再び頷く。「これでひと安堵だわ。あなた?また行方不明はごめんだわよ」「済まなかった」
 「だったら、私もウィスキーを頂こうかしら。今時に本場のこんな上物を頂けるなんてこの邸宅くらいだもの」グラスを手に取った女が、「再会に乾杯しましょ?」
 「男が煙草に火をつけた。すると、女が無造作に身体を擦り寄せたかと思うと、白髪のバーテンダーの目を盗んで陸奥の股間を握った。「あなた?あなたのこれが欲しいわ」と、耳朶に囁く。「五年ぶりなのよ」「明後日の約束はしたけど。あんな事があったんだもの。本当に来てくれるのか、不安にもなるわ」「何よりあなたを見ていたら私のが昂ってしまったんだもの」
 「私の性分はすっかりわかってるでしょ?」「私だって色々はあったけど。こんな身体に創ったのはあなた以外にはないのよ」「それともあの法悦の数々をあなたは無慈悲に忘れてしまったの?」
 「それとも、忘れようとしているの?」「でも、この身体に刻み込まれたあなたの肉の記憶を、私は決して忘れた事などなかったのよ」

 「あれは六年前の、やっぱり異様に蒸し暑いこんな夜だったわ」「T村の実家で法要をしたんだわ。早いうちから主人は酔いつぶれて。あなたと私は盆踊りに出掛けたんだわ。もう雨になってしまったけど。さっきみたいに煌煌とした満月の夜だったわ。盆踊りの輪の中で、陰毛が欲しいって、あなたが言ったわ。あの時に初めて外地に配属になったのね。死にたくない。絶対に生きて帰りたいって。またこうして踊りたい。お守りにって。そうだったわよね?忘れた?」「忘れるわけがない」
 「二人で踊りの輪を抜けて。目立たないように大分離れて後を付いていくと、御門神社に着いた」
 「途中で何かあったんじゃない?」「お前が浴衣を脱いだんだ」「どこで?」「大和宮の神がかり池の辺り」「みんな脱いだの?」「そう」「どうだった?」「大きな尻が月明かりにゆらゆら揺れて」「興奮した?」「黄金色の尻だもの」「あなたは尻がお気に入り」「それにしてもあんな野放図は初めてで。性夢を見ているようだった」「性夢?」
 「そして、お前が待っていたんだ」「どこで?」「御門神社の入り口の大鳥居の所」「それで?」「乳房を揉んでいただろ?」「キスをしたわね?」

 「あなた?答えなさい」「お前の事を忘れるわけがない。心痛をかけた。この通り陳謝する。本当にすまなかった」「明後日の約束は絶対に違えない。身を隠した事情は複雑だが紛れもなく仕事だったんだ。明後日に全てを話す。あの事でお前から逃れたのでは決して、ない。今は本部参謀だ。一〇日後には大陸植民地に赴任するんだ」
 「五年間を一分で言ったわね。剃刀の異名通りだわ。変わってないわ。疎ましいけど清々しいくらいだわ」「それに、結果的には本部参謀なんでしょ?素晴らしいわ。かりそめにも軍人の妻だった女としては本当に誇りに思うわ」「ありがとう」「明後日は二人きりで壮行の祝いにしましょ?」「済まない」「明後日は全てを告白して頂戴?」
 「だから、とりあえずは私を安心させて。あなたとの身体の絆を確認したいの?私だってこれからの予定もあるし。時間がもったいないわ。あなたのこれで釈明して頂戴」「ほら、あなたのここは正直だわ。五年前と何も変わっていないみたいだもの。こんなに反応している。確かめてあげるから」「今か?」「そうよ。今よ」「どこで?」「ここよ」「でも、どんな風に?」「あなた?誰かを待っているの?」
 「伊勢夫人なんでしょ?」「随分と踊ってたでしょ?」「見てたのか?」「たまたまだわ」「近々に伊勢部隊長の元に着任をするんだ。大陸だ。今夜は夫人の応接を命じられているんだ」「わかったわ。とにかく、ここでは満足に話もできないもの。私だって人目があるのよ。庭に出るのが一番いいんだけど。そうだわ。あなた?あの隅に行きましょ?」「ついてらっしゃい」

 豊満なら裸婦の絵画が掛けられて、重厚な書棚や原色の花花の鉢植えでおおわれた一角に身を置いた途端に、繭子が陸奥に抱きつき唇を合わせ口を吸い舌を入れるのである。股間の手を離さないままで、「ここなら完璧な死角だわ。伊勢夫人が戻ったら解放してあげるわ」そう言いながら、するすると脱ぎ落とした青い下穿きをバックに入れた。
 「義姉さんは相変わらず大胆だな」「こういうことは危険が増すほどに痺れるんじゃない?あなたとは散々にそんな秘密の陶酔を重ねたでしょ?」「忘れはしない。未だに鮮烈な記憶だ」「背徳の義姉弟だからこそなし得た法悦かしら?」


(続く)

紫萬と磐城の儚3️⃣

紫萬と磐城の儚3️⃣

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • ミステリー
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-08-24

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted