紫萬と磐城の儚2️⃣
紫萬と磐城の儚2️⃣
-髪-
「私の話を聞きたいの?」「そうね。……いいわ」
「第一次世界大戦の時よ。父はドイツの大使館付け武官で母と一緒に赴任していたの。そして、母がユダヤ人の銀行家と恋に落ちたの。父と母は家同士が決めた結婚をしていて、そもそも愛がなかったんだわ。それに、維新の時に薩長側について成り上がった祖父の横暴な血を引いた人だったから、果たして母が父を愛せたのかどうか。でも、嫉妬に狂った父は、知り合いのナチの前身の極右政党の将校と陰謀して、二人をある施設に監禁させたの。銀行家はそこで殺されてしまったんだわ。解き放たれた母はその数ヵ月後に私を産んだのよ」「父親は?」「私の髪をよく見て。染めて隠してはいるんだけどいるんだけど。もう、根元の辺は栗色でしょ?遺伝してるに違いないわ。私はユダヤ人の銀行家だと思うけど。施設の中で何があったのかは、母しか知らないんだもの。私の父親が誰かなんて、知る由もないわ」「その後の君達はどうなったんだ?」「離婚した母は、乳飲み子の私を連れてこの国に戻ったの」「母の実家はこのF町だったの。暫くして、母がある人と再婚して。主府で暮らしていたんだけど広島に転勤になって」
「私は広島で被爆したのよ。27歳の時だわ」
-綺談-
「踊りたいわ」女が囁いた。二人は向き合って片手を取りあい、片手を互いの腰に回した。スローなジャズに合わせて暫く身体を揺らしていたが、やがて、女が重力の許すままに身体を預ける。ずっしりと重い乳房が男を求める。男が女の耳許で、「まるで砂糖菓子のようだ」と、息を吹き掛ける。「そんなこと言われたの、初めてだわ。どうして?」「柔らかくて。甘い。匂い立つような香りだ」と言うと、女が乳房を揺らして腰を擦り付けた。
「熱い」「何処が?」「ここ」「私の?」男が女の股間に片足を忍ばせる。 「あなたのもよ」暫く互いの身体の感触を静かに、しかし、貪欲に味わい尽くす。
「こんなダンスを発明したのは誰なのかしら?」「どうして?」「まるで性戯でしょ?」「そうかな?」「だって。こんな風に身体を密着して。確かに服は着て、申し訳程度に音楽は流れているけど。これが裸だったら実に奇っ怪で珍妙な光景よ」
「それで思い出した。面白い事件があったんだ」「どんな?」「あの戦争の時代の大陸の植民地で、若い軍人と上官の妻が性愛に溺れる。終には、性交のただ中を夫に発見されて結合が解けなくなり。夫が青年の男根を切断する。その陰茎が膣に残ったままの妻を夫が犯すという猟奇な事件だ」「そんな事件が本当にあったの?」「聞きたい?」「是非とも聞きたいわ」
「戦禍が激しい大陸の植民地で、定年間近のある軍幹部が自宅でダンスパーティを催したんだ」「招待客の中に文武に秀でたある青年士官がいた」「彼が、初めて出会った軍幹部の妖艶な妻と踊ったんだ」「妻は四〇がらみ。豊満で芳醇な女だ。夫は十も年上で定年退官も間近で。近頃では夫婦生活もままならない。その原因は単に夫の健康だけではなく、戦争で非道を繰り返してきたこの男の罪科が性欲を極端に減衰させたのかもしれない。事件の後に妻は、戦場に於ける夫のおぞましすぎるほどの犯罪を詳しく供述している」「どんな?」「原住民の女をあらゆる趣向で凌辱するのが、この男の性癖だったんだ」「戦渦で神経が歪んでしまったのかしら?」「今時では平然と口を拭って憚らないが、この国には、そんな軍人が溢れかえっていたんだ。そうした気質を作るこの国の風土が、そう易々と変わるとは、俺には思えない」「それで、事件の話は?」
「踊っているうちに青年が勃起したんだ」「まあ。不謹慎だこと」「妻もそう言った」「あなたの魅力のせいですと、青年士官」「ありきたりね。私が悪いの?と、夫人」
やがて、物語を語り続ける岩城の声が遠くなるのである。紫萬は稀に見る怪奇な物語の世界に引きずり込まれていく。
-司喜子-
あの戦争の末期の盛夏の夕べ。首府で某財閥盟主の古希祝賀が開催されていた。奇しくも、この稀に見る凄惨で猟奇な事件の群像が出合い、物語の幕が開かれようとしていた。
青年士官の陸奥は本部参謀だったが、青年将校のクーデター未遂に関わって解任され、大陸の植民地の最前線に展開するある部隊への赴任を一〇日後に控えていた。盟主の孫との縁で宴に出席していたのである。
その部隊の本部長の奸物派幹部の伊勢は、業務でたまたま帰国しており、招待を受けて夫人同伴で出席していた。
陸奥の挨拶を受けた伊勢は、なぜか上機嫌で、妻と踊ってくれ、これは最初の命令だと言って呵呵大笑して去った。
「奥様のような方と踊れてすこぶる光栄です。部隊長付けで赴任する陸奥です。お見知り置きを」「光栄とは余りに抽象の儀礼に過ぎるわ。私をどんな風に思って?」「私の身体は如何?」「若い方の感想を知りたいわ?」「随分と端的な物言いをなさる方だ。大胆は成熟した女性の特権なのでしょうか?」「そうかも知れないわね」「それならば申し上げましょう。妖艶なほどに豊潤で。欄熟した桃の香りを漂わせている。官能の極致に佇んでいる風情だ。体験した事もない奇襲を受けた気分です。無防備だったから動悸が止まりません。あなたに聞かせたいくらいだ」「あなたは将校の反乱未遂事件に連なって、超エリートの参謀本部から左遷されたと聞いたわ。減刑にはこの財閥盟主が関与したとも。蛮勇の若武者だと想像していたけど。政治家だし、お上手な話も出来るのね。私への初めての扱いもお見事だわ」「恐縮です」「独身だとも聞いたわ。聡明で熱血の青年士官。さぞかし、破天荒に浮き名を流したんでしょう?」「こんな武骨者にそれほどに関心を払っていただいて恭悦です。女性との事などは浅薄な履歴しかありませんが、奥さまほどの方とお会いするのは初めてです」 「あなた?奥さまは止めて頂戴」「どう呼べば?」「司喜子というわ」「あの古典が出典ですね」「よくご存じね」「皇室に由来する高貴な名前だ」「博識なのね。京都の子爵の三女です。旧姓は蘇我よ」「皇室との関わりは?」「追い追いね」「光栄の至りです。死出の戦陣に絶好なはなむけになります」
「あの地はそんなに逼迫しているの?主人は何も語らないの」「隣国の支援を受ける原住民のゲリラ勢力の勢いが盛んになりました。予断は許さない情勢です」
「世事も日を追うごとに刺々しくなって。猟奇で残虐な事件も相次いでいるでしょ?男根を切り落とすなんて。口の端にのせるのも憚るほどにおぞましい限りだわ」「安倍三代事件ですね?」「そうよ。仰天したわ。世間全体に狂気の空気が流れ始めているみたいなんだもの」「同感です。千千に乱れた男女の情交の果てに、交合している男根を切断して。それが挿入したままの女を犯した。この戦争は人心を極限まで荒廃させているのではないか。あの事件は戦争社会学の観点から、個人的に研究を始めたところです」 「実に興味があるわ。私などにもご教授願えるかしら?」「赴任にはまだ間がありますから」「必ずよ」「わかりました」
「この国の行く末がとっても心配なんだもの。あなた?戦況の全般はどうな推移なのかしら?」「端緒は怒濤の攻めでしたが。激しく反転攻勢に受けています。彼の国とは何といっても経済と科学力が違う。雲泥の差だ」「そもそもが、無謀な開戦だったのかしら?」「いけません。声が漏れます」「あら?いけなかったかしら?」「あなたは危険なほどに率直なお方だ。この時節は細心に用心しないといけない。だが、否定はしません」
「だったら、あなたの本心を知りたいわ」「何をですか?」「この戦争は負けるんじゃないの?」「立場上、滅多な事は言えないが。参謀本部にも様々な考えがあるのは確かです。あなただから言いますが、和議の動きもある」「御門はどうなのかしら」「大元帥閣下の御心底など茫洋とし過ぎて、自分などには推し量れません」「決起の失敗で裏切られた気分なのかしら?」「滅相な。いえません」「あなたの真実の考えを知りたいのよ?」
「自分は、そもそも、この開戦には不本意だったんです。自分達のグループは国際派とか融和派と呼ばれて、散々な批判や中傷を浴びました」「それで全てがわかったわ。今宵のこうした安穏な一時にも暗雲が迫っているのね?」「そうかもしれない」「私たちの命運など一条の灯火みたいなものなんだわ。違うかしら?」「そうかも知れない」「だったらなおのこと。只今の命の炎を燃やしたいわ」「同感です」「あなた?死に急ぐ事はないのよ」「蛮勇は嫌いだわ。叡知があれば享楽も尽くせるんだもの」
「あなた?掌の汗が凄いわ」「あなたも」「今宵も気狂うほどの暑さのせいかしら?」「あなたです」「私なの?」「あなたの血のたぎりが伝わってくるんだ」「まあ」「それもこれも暑さのせいかも知れません」「異様に蒸すんだもの」
「あなたの胸元に汗が浮かんでいる」「そうでしょ?」「あなたの身体の深奥から絞り出された結晶のようだ」「まあ。心が震えるような猥褻な修辞だこと」「大胆に大きく開いた胸元。惜し気もなくこれ見よがしに曝した桃色の肌。完熟の香りがする」「まあ」「こんなにも挑発の衣装をよくご主人が許しますね?」「私の趣向に口は挟ませないわ」
「豊満な乳房だ」「お好き?」「未熟者には肉感に過ぎる。目が眩んでいます」
「もっと抱いて欲しいわ」「これ以上は…」「辺りが気になるの?」「一向に心配ないわ。ご覧なさいな。この人達は自分の利害にしか関心のないのよ。すっかり煩悩に取りつかれた亡者なんだもの」
「素敵なブルースが流れてきたわね。もう、すぐに、ジャズなどは敵性だから禁止になるって聞いたわ。そうなのかしら?」「自分は最近までその準備に当たっていたんです。自分もジャズが好きで。一年ばかりアメリカに駐在していましたから。至極残念です」「やっぱりそうなの。だったら、今夜などはあなたとは踊り納めになるかもしれないわね」「戦況が激変していますから」
「こんな肢体を独占している部隊長は果報者だ」「羨ましいの?」「当然でしょう?」「隣家の芝生は青いのよ。幻想だわ」「この一時も幻想の様なものです」
「こうして抱かれていると、懐かしい昔に戻った様な気がしてるの」「あなたとは初めて会った気がしないの。どうしてかしら?」「自分もです」「すっかり安心してしまって。すべてを委ねて。身体の芯まですっから緩んでしまいそうだわ」「柔らかい身体だ」「太りすぎじゃないかしら?」「豊満は五穀豊穣に通じるんだ。古代からこの国の女神は豊潤なんだ」「巧みにおっしゃるのね。女を喜ばせる術を心得ているんだわ」「尻も豊満で」
「そうして撫でられていると法悦だわ。私のお尻、お好みかしら?」「熟れた桃色の尻に違いない。貧弱な女は嫌いだ」「どうして?」「母性を感じない」「私だって母性を発揮できなかったわ」「子供を産めなかったの」「天命です。母性の有無とは無関係だ」「私に母性を感じるの?」「大いに」「どうして?」「包み込まれて。何もかも許されるような気がする」
(続く)
紫萬と磐城の儚2️⃣