月琴島

テストアップロード


「くーにゃんって名前はかわいいけど、はずかしくて言えないからレゲエパンチかピーチウーロンって言っちゃう」
 雛実はそういって、ピーチリキュールをウーロン茶で割ったカクテルをストローでひとくち飲んだ。ひとくち飲んだときに氷が割れ、鋭い振動に水の幕をかけたような、ややくぐもった音がした。彼女はお酒に弱いので、アルコール度数が低く、適度なあまさで飲みやすい、レゲエパンチからいつも飲みはじめるのだった。飲み始めるといっても、せいぜい飲むのは3杯だった。
雛実とその友達である魅音は、上野のややカジュアルなバーのカウンターで酒を飲んでいた。6つの大きな液晶モニタが店内の壁を囲うように設置され、あるアーティストの公式動画が流されていた。それは最近流行の音楽らしかったが、音楽に疎い雛実にはよくわからなかった。機械的な音が多く含まれている種類の音楽だということだけはわかった。妙に耳について離れない音楽でもなかったし、会話の邪魔になる音量でもなかった。店の雰囲気はその音楽に引っ張られて明るく、店員のテンションも高かった。
「ストローで飲むと酔うんだよ? 大丈夫?」
 魅音がそう雛実に忠告した。魅音はちょっと肉付きのよい身体と、豊満な胸をもっていた。その見た目、名前の字面と読んだときの音から、たびたびAV女優みたいだといわれてきた。10代の頃はコンプレックスに感じていたが、最近は開き直って自虐ネタにしているところがあった。彼女は東京で知り合った同級の友達であった。
「そんなの迷信だよきっと」
 雛実は迷信のたぐいは信用しないタイプで、子供の頃をのぞけば神頼みや願かけをしたことは一度もなく、どちらかというと乾燥した思考の持ち主だった。だからといってつめたいわけではなく、それなりに日本人らしい情緒も理解していた。幼少の頃から続けている読書が影響していると思われた。理系文系の分類が難しいタイプだったが、文系の教科のほうが成績がよかった。それらをいかすために文系の大学に入り、優秀な成績で卒業し、一般企業に就職した。就職してから2年経つので、今年で24歳になる。
「雛実、本当にそれやるの」
 魅音が言ったそれとは、離島にひとり旅に出るという計画だった。しかも仕事を辞めて、世間から隔離された環境を作るためにスマートフォンを持たず、3泊4日の旅に出るという計画だった。雛実がこの計画をしたのは、本当になんとなくだった。しいて言えば、いわゆるレールを敷かれた人生から脱線してみたかったのである。子供の頃から真面目で親に逆らうこともなく、外で遊ぶ子供ではなかったし部活もやっていなかったので身体を動かすより頭を動かすほうで、成績はどの教科もおしなべて上位であった。男性経験はひとりで、大学1年生のとき1年先輩の恋人に半分強引に経験させられたのだった。そのようにセックスに対してよいイメージのなかった彼女にとって、行きずりの恋などありえなかった。もちろん旅行計画に、そのような行為は含まれていなかった。
「やります。実は、きょう仕事辞めてきた。きょう魅音を呼んだのは、決意表明のため」
 魅音は驚きの声を上げ、手に持っていたジャスミンハイを落としかけた。彼女は雛実の横顔を凝視した。ふたりの会話を聞いていたバーテンダーは笑顔でそのなりゆきを見ながら、音楽に合わせて左右に身体を揺らしていた。そのとき、店の厨房からニンニクの香りがただよってきた。魅音が注文したパスタを調理しているに違いなかった。その香りをきっかけにして、驚きから開放された魅音は、ジャスミンハイをひとくち飲んでから、雛実にいつ出発するのかと問いかけた。答えは三日後の土曜日、七月の下旬であった。魅音は「日に焼けるよ」とやや見当違いの言葉をかけたあと「気をつけてね。男だけは信用しないで」とつけ足した。
雛実が旅に出ようとしていた離島は、伊豆の南方にあった。その名の通り月琴の形をしていて、何十年も前の話だが、凄惨な殺人事件があった島だった。殺人事件はさる名探偵によって解決され、最近は釣りのポイントとして、海水浴のすぐれたビーチとして、温泉の名所として、すっかり活気を取り戻していた。それでもやはり、一部には霊的な存在を確認したという人や、うわさ話を信じる人がいて、心霊スポットとして島の神社仏閣をおとずれる人も少なくなかった。
魅音と別れて埼京線に乗り、駅から徒歩で自宅まで着いた雛実は、スーツケースに必要なものをつめて、事前にあるウェブサイトからダウンロードしてプリントアウトしておいた、女の一人旅用の持ち物チェックリストを使い、最終的な確認をしてスーツケースを閉じた。
「よし。準備完了」
 スーツケースをポンっと軽く叩いてから、踊るような身のこなしでバスタオルや下着を取り出し、身体の皮を一枚はぐような丁寧さでシャワーを浴びた。あすの朝は早いので、軽いシャワーを済ませて出かけられるようにとの考えだった。髪はショートカットだったが毛量が多いので、そのぶん髪を乾かす時間を考慮しなければならなかった。
洗面台で鏡を見ると、いつも自分の目が気になった。一重で、のっぺりとしていて、けっして魅力的な目元とは言えなかった。魅音のようなはっきりとした二重だったらよかったのに、といつも考えた。しかし、アイプチをして、細くアイラインを引くだけで、すっかり魅力的な目元に化けるのだった。彼女はその組み合わせで、ほかはいつも軽い化粧で出かけるのだった。見た目としては、目力の妙に強い地味女といったところだった。
寝る前、ベッドの上でこう考えた。脱線し、旅に出て帰ったあと、果たしてそこから荒野を切りひらいてレールを敷きながら進んでいく実力はあるのだろうか? 脱線した列車は、車軸が折れて進めなくなっているかもしれない。その折れてしまった車軸を直すためには、どれくらいのプロセスが必要なのだろうか。
やりたいことはあった。絵が描きたかった。ただ描くものが決まらなかった。これだ、という決定的なものをつかむことができなかった。人でも物でも、どこかいつもぼんやりしていて、はっきりとした心像が見えてこなかった。それは自分が描こうとしている対象を心の底から好いていないせいだと思っていた。恋愛においてもそうであった。いまだに男性を心の底から好いたことは一度もなかった。かといって、無理にそういった存在を作ろうとはまったく考えていなかった。
 翌朝、準備を済ませた雛実は、激しい日ざしと暑さのなか、最寄り駅から電車に乗り、伊豆急下田で降りた。猛暑にさらされていた彼女はいつもなら「溶けそう」とでもツイートしそうなところだったが、先にいったようにスマートフォンは自宅に置いてきたのであった。そこから30分、カーフェリーに乗れば月琴島へ着く。
乗船のためにずらりと並んだ人達を見ると、島民より旅行者のほうが多いようだった。乗り込んだ二等船室はフラットなスペースで、座り込んでいる人や寝転がっている人がいた。雛実が適当な場所に座ると、リュックを背負った二十歳そこそこの女性ふたりが隣に腰を下ろした。
雛実はエンジンを吹かし動き出した船体の傾きを感じながら、デッキへと出た。かぶっているカンカン帽が風に飛ばされないように、片手で押さえながら、ぐるりと海を眺めた。きらきらと光を反射する波が美しく、ほかになにひとつ意味がないように見えた。進行方向の先には、目指す島が浮かんでいた。月琴の棹にあたる部分は切り立った崖になっており、胴にあたる部分の下側はなだらかな海岸になっていた。それほど距離はないように見えるが、片道3時間かかるのだった。
一度デッキを下り、売店でルイボスティーを買って、それを片手に船内を歩き回ることにした。絵に描く対象を探すような心持ちで、見たことのないものを見るのはとても愉快な気持ちだった。
二等船室に戻って腰を下ろすと、まだ到着まで十二分に時間があった。朝が早かったので、ひと眠りしておこうと思った。
船内放送で目が覚めた。到着前の放送だった。この目的地に到着する前の、胸が躍り高まる感覚は、いつ味わってもよいものだと思った。心を落ち着けるように、ひとつ大きく息をして、下船の支度をした。下船口まで出ると、港には民宿や旅館の送迎車、何人かの迎えの人がいた。やがて、もやいがつながれ、船は岸に引き寄せられていった。船は軋んだ音を立てながら、穏やかに停船した。
乗客がぞろぞろと下船した。彼女もそれに続いた。下りても船に乗って揺れているような感覚が持続していた。港に下りた人々が続々と降りて、埠頭を埋めていった。彼女はゆっくりと足を進めた。そのうち、辺り一面にいた下船客がいつのまにか誰もいなくなっていた。それは何羽もの鳩が集まって、ぶちまけた豆を食って、一斉に飛び立ったあとのようであった。
雛実は二等船室で隣になった女性ふたりと知り合いになった。彼女たちは海水浴目的で月琴島に向かうといった。島で行動するにはあったほうが便利ということで、彼女たちはレンタカーを借りて行動するとのことだった。島には路線バスが走っているが、1時間に1本程度の運行であった。雛実はあえて、それで行動しようと考えていた。
 観光案内所に入ると、外国人の女性ふたりがいた。雛実が案内所でバスの3日フリー乗車券を買い終わった頃には、もう誰もいなかった。時刻は昼の12時半頃だった。空腹を意識していた彼女は、ラーメン店を探そうと思った。旅先での初めての食事はラーメンと決めていた。ちょうど向かいの通りにいた老婆に聞くと「ないですね。バス停ひとつ先に行けばあるんだけどね」とのんびりと答えた。どちらの方角かだけ聞き、礼を言って別れた。左の少し先を見ると、バス停があった。スーツケースの持ち手をにぎりなおし、バス停まで歩いて行った。1時間に1本ほどという情報はすでに得ていたが、実際に空白ばかりの時刻表を見るとダメージがあった。雛実は炎天下、ぼてぼてとラーメン店まで進んだ。
やがて大きな橋があって、それを渡り切ると、赤い壁の建物が見えてきた。白い暖簾が、ひらひらと、ラーメン屋にありがちなコントラストを描いていた。絵に描くにはあまりに凡庸すぎる題材に思えた。
雛実は島ラーメンという、月琴島の形をかたどった、不思議なチャーシューがのせられた醤油ラーメンを食べた。正直、失敗であった。隣では外国人の男女ふたりが同じラーメンを食べていた。これで日本のラーメンのイメージが決まるのだろうかと考えると、すこし残念な気持ちになった。最後にお冷を一気に飲み、店をあとにした。
宿を探さなくてはいけなかった。宿は港のそばに集中していた。雛実は来た道を戻った。まさに空色の空に浮かぶなでつけたような白い雲を見ながら、ひどい暑さのなかで、言葉にできない心地良さを感じた。
見つかったのは、素朴な感じの民宿だった。眼鏡をかけた、痩せ型の中年女性に、部屋の鍵やエアコンの使い方、風呂のスイッチなど一通りの説明を受け、部屋に荷物を下ろした。出してくれたお茶を飲み、やっと心を落ち着けることができた。
特にどこを観光しようときめていたわけではなかった。観光よりも、街をぶらぶらして、適当な飲食店などに入り、その土地の人達の生活を感じることが旅のおもな目的だった。しかし中年女性がそれではもったいないと強くいうので、すすめられた場所に行ってみることにした。
バスで民宿から20分くらいの、山の上にある百選温泉に向かった。それはつづら折りの先にある、山小屋風の建物だった。入湯料は100円。茶色く濁った、少し鼻を突く匂いのある湯だった。圧倒的に老人が多い。彼女と同年代と思える人物はいなかった。雛実には熱すぎる湯で、すぐに出てしまった。
 民宿の近くに、白くて大きな灯台があった。ほかに行く当てもなく、なんとなく気になった雛実は、いったん民宿の近くまでバスで戻り、徒歩で灯台を目指すことにした。
 灯台に着いてみると、そこはもう灯台としては使われていなかった。役目の終わった灯台を、モニュメントとして残していたのだった。灯台の土台まで登って、周囲を見渡した。島を一望とまではいかないものの、かなりの範囲を見渡すことができた。島にいるんだという実感が強くなった。風は強すぎず、弱すぎず、雛実の心に適度な空白を作った。しばらく彼女は、全身に伝わる虚脱感を味わった。その感覚で心を満たすと、灯台の下にある公園を見下ろした。公園といっても、遊具はなく、いくつかのベンチが置かれているだけだった。輝かしい木々と、琥珀色に敷き詰められた小粒の砂利道を通って、灯台を降りていった。砂利を踏み締めるように歩くと、いっそう島にいるんだという実感が高まっていった。雛実はベンチに腰掛けて、空を見上げた。夜になれば、さぞ星が美しいだろうと思った。
この日はこれで時間切れになった。民宿は素泊まりだったので、民宿の近くで夕食が食べられるところを探した。意外に営業している店は少なかったが、そのなかで赤いちょうちんのぶら下がる建物が目に入った。のぼりにはお食事処と書いてあった。はじめは漁港のある島なのだから海鮮料理がよいかと思ったが、どうもしっかり腹を満たしたい気分だった。
店に入った瞬間にぎょっとした。入って左奥のテーブル席が、中学3年生か、高校1年生の20人くらいで満たされていた。引き返すわけにもいかず席についたが、店主と思わしき初老の女性が、時間がかかりますけどよいですか、と聞いてきた。ここは引き返しどころだったが、なんとなく、この環境が楽しそうに思えた。はいと返事をして、テーブル席についた。客は雛実と学生のほかには誰もいなかった。学生達はわいわいがやがや、やきとり、丼飯、焼肉などを頼んでいた。そんな若者たちの活気につられたのか、雛実は焼肉ライスを頼んだ。
彼女は完全に食べすぎだった。酔ってでもいるように、ふらふらとした足取りで民宿へ戻る途中、見上げた星空は銀河の渦までも見えるほど、美しく澄んだ輝きをしていた。


 翌日は晴れで、すこしつめたい風が吹いていた。一時曇り、ぐずつくかと思いきや、なんとか持ちこたえたような空模様だった。
雛実は月琴島の観光スポットである滝をみに行った。落差80メートルもある大滝だった。そばにある公園から滝の全体像はみることができるが、せっかく来たのだから、やはり近くでみたいと思った。いくつもの葉の小さな広葉樹が左右からアーチのように連なっている小道を進むと、滝は眼前に壮大な姿をあらわした。手前にほかの観光客という比較対照があったおかげで、その大きさが引き立って感じられた。さらに雛実は、滝から飛び散る細やかな水の粒を浴びたいと思い、大きな岩を越えて、滝壷の前まで進んでいった。
 その時だった。雛実はバランスを崩し、岩に大きく膝をぶつけた。同時に、彼女のバッグから財布が飛び出て滝壷へと落下した。すぐ手を伸ばしてみたが、すでに遅かった。財布は滝の裏側のほうへと流れ、すぐに見えなくなった。まずいと思うと同時に、自分が自分の考えの及ばない、不思議な流れに巻き込まれたことを強く意識した。
歩くしかなかった。民宿に向かってかなり歩いてきたが、まだまだ着きそうになかった。バス停でいえば全路線の半分くらいの距離があった。とぼとぼと痛くなった足を引きずりながら歩いて、自分の体力のなさに驚いた。普段、運動はしなかった。仕事はデスクワークが主で、運動する必要はなかった。休日はアニメを見ているか、マンガを読んでいるか、ゲームをしているかだった。ようするに雛実はオタ女であった。
さっきから手を上げてみても、車は1台もとまってくれなかった。そもそも絶対的に車の数が少なかった。映画のように、簡単にヒッチハイクとはいかないものだった。女だったら停まってくれるだろうという考えはあまかったと思わざるを得なかった。
 そんなことを考えながら、もう一度手を上げた。するとピンク色の、丸みを帯びた車が、左側に方向指示器を出して、ゆっくりと停車した。〈わ〉ナンバーの車、レンタカーだった。ガラスに太陽光が反射していてよくは見えなかったが、フロントガラス越しに乗車しているのは女性ふたりだということはわかった。雛実は安堵感を抱き、嬉しくなって車に駆け寄った。助手席のウィンドウがゆっくりと開いた。
「すみません。よろしければ港のほうまで乗せていただきたいんですけど」
 といったところで、雛実は気づいた。ふたりとも二等船室で隣同士になって知り合いになった女性だった。
「たしか船のなかで」
 雛実は相手の言葉を待つように口を閉じた。
「見たことある人が歩いてると思って。帽子を見てわかりました。港のほうまでですね。大丈夫ですよ」
 助手席の女性は若さと生気に満ちあふれていた。存在しているだけ手で場を華やかにしてしまうような女性だった。
「ちょっと散らかっているけどごめんなさい」
 運転席に座っている女性は大人しく控えめな雰囲気だった。自分と似た系統の人間かもしれないと思い、雛実は親近感を抱いた。
「すみません。よろしくおねがいします」
 雛実は後部座席のドアを開けて乗り込んだ。ドアを閉めると、すぐに車は発車した。
「財布を落としてしまって、お金がなくて帰れなかったんです」
 雛実は申し訳なさそうに、やや調子を落とした、しかし深刻さを排除した声でいった。
「どうするんですか」
 短い感嘆のあと、優子がいった。
「うーん、どうしようか考えているところです」
 雛実はそう言いながら、窓のそとに目をやった。磯川酒造、という大きな看板が目に入った。日本酒の造り酒屋だろうか、と考えたが、酒に弱い雛実はそれ以上のことに考えを巡らせなかった。
「家族に頼んで、お金送ってもらうことはできないんですか」
 と奈美が言った。もっともな提案だった。
「そうですね。いま考えているのは、月琴島で仕事を探して働き、そのお金で宿代を払い、残りを食費と交通費にして帰る計画でいます」
 雛実は自分でいっておいて、どこか他人ごとのような気分でいた。長い道を歩きながら考えつくして出した計画ではなかった。ふと思いついたにしては、非常に魅力的な計画だと思った。
「本当ですか」
 気は確かか、という意味に聞こえる調子で優子がいった。雛実の考え自体を疑っているようではないようだった。
 車内の会話は続いた。雛実はここまでの経緯を簡単に説明した。仕事は辞めてしまったのでしばらく島にいてもかまわないし、むしろ埼玉に帰って職探しという名の無為徒食の日々を送るより、働いているほうが健全だと話した。
20分ほど走って、無事に民宿についた。ふたりには丁重に礼をいって別れた。まだしばらくは島にいるから、なにかあったら連絡をくれ、といってくれた。連絡のしようがないと一瞬考えたが、民宿の電話を借りればいいと思い直した。
 民宿に着くと、眼鏡の中年女性が洗濯物を干していた。女性は民宿の奥さんだった。雛実が事情を説明すると、最初は驚いていた。しかしすぐに冷静さを取り戻し、雛実の計画を面白いといって喜んだ。雛実は嫌な顔をされると思っていたので、すっかり拍子抜けしてしまっていた。旦那が帰ってきたら、よい仕事がないか周旋してもらうわね、といって奥さんはお茶をいれにいった。曇る前のすこしつめたい風を受け、元気よく伸びて咲いたひまわりを見ながら、縁側に座り、ふたりでお茶を飲んだ。自然でまろやかな甘味が、ゆっくりと喉から下っていくのを意識した。
奥さんが夕食を作ってくれた。申し訳ないので握りめし一個あればありがたいといっていたのだが、台所のテーブルに出ていたのは炒飯だった。残り物の食材を入れただけといっていたが、料理上手の人が作る上等の炒飯だった。奥さんは風呂に行ってしまったので、雛実はひとりで炒飯を平らげた。
旦那さんが帰ってくるとすぐに奥さんは事情を話した。すると旦那さんの同級生の家が造り酒屋をやっていて、車での配達の仕事を募集しているとのことだった。いまは同級生の父が担当をしているが、ひざを悪くしてしまったため、よい人がいればお願いしたいということだった。運転免許証は落とした財布のなかではなくバッグの別のところにしまっていたので、問題はなかった。しかし身長154cmの筋肉のない女でつとまるのかは不安だったが、とりあえずやってみて、そのあと続けるかどうかの判断は雛実にまかせるという話でまとまった。雛実はふと看板のことを思い出して、磯川酒造かと旦那さんに聞くと、そうだと答えた。雛実は帰り道で見たのだと答えると、縁だなと旦那さんが答えた。雛実はそうは思わなかった。
翌日の昼過ぎ、旦那さんの車に同乗して、磯川酒造まで向かった。車内はとても暑かった。エアコンが壊れているそうで、両サイドのウィンドウを全開にして走った。風が心地よくて、対比をもたらしてくれた辟易しそうな猛暑に感謝した。
道路に面して建てられた二階建ての、横に長い、黒い瓦屋根の建物が見えてきた。木部は深みのある焦げ茶色で、凛々しく骨格を縁取っていた。建物の横にある駐車場に車を停めると、雛実は全身に一気に緊張感が走るのを覚えた。肌の表面にとどまっていた汗が一斉にさめるのを感じた。店の正面にあるガラス格子の扉を、がらがらと音を立てながら旦那さんが開いた。雛実はそれに続いた。
店番としてそこにいたのは、二十七、八の驚くほど美しい男性だった。うらやましいと思えるほど自然で綺麗な二重、薄く控えめな唇、透明感のある白い肌。俳優といわれても疑わない容姿だった。レジの置いてあるカウンター越しなので足元は見えなかったが、身長はそれほど高くはないようだった。彼は一瞬だけ雛実のほうを見るとすぐに旦那さんに視線を移して、あまり表情を変えずに挨拶をした。彼女は近づきがたい印象を受けた。
雛実は店内を見わたして、並んでいる焼酎を見た。目に入るのは一升瓶と、そのひとまわり小さいサイズの瓶だったが、観光客用と思われる、種類の違う焼酎の小さなボトルを箱に詰めたセット販売のものもあった。俳優のような男は、もう事情を知っていて、彼女と旦那さんを淡々と店舗の裏手にある事務室へと案内した。
雑多な印象の事務所だった。迎え入れてくれたのは、威勢のいい男性で、俳優のような男の父にあたった。名は平岡といった。
「君か。なかなか真面目そうじゃないか」
 平岡は笑顔でいった。嘘のないような笑顔だった。雛実は短く謙遜の言葉を発した。
平岡はすぐに妻である秀子を呼んだ。雛実は回りを見渡していた。おそらく元はクリーム色だったと思われる、黄ばんだブラウン管の事務用パソコンが目に入った。画面は発注管理の表示のようだった。
秀子は手ぬぐいをかぶってあらわれた。掃除、洗濯、料理、休憩時のお茶出し、というのが彼女の一日の仕事だった。ひとまずお茶でも飲んでゆっくりしてね、といって事務室の無機質なテーブルにお茶と茶菓子を置いて去っていった。あとにはやさしい印象が残った。
配達には磯川酒造と書いてあるピックアップトラックを使ってくれとのことだった。一升瓶を1ケースにつめて、車からの上げ下ろしが雛実にできるか試してみることになった。かなり厳しかったし、その動作がみていた人たちの失笑を買ったが、彼女にできない仕事ではなかった。それでは、と働くことがすんなりと決まり、島の道をおぼえるために、車でいろいろなところをまわってみてくれといわれた。彼女はもちろんそれに従った。道案内のため、俳優のような男――連太郎が同乗することになった。人見知りの雛実にとって、手ごわい相手になるはずだった。
道案内の指示をするくらいで、連太郎はほとんど言葉を発しなかった。雛実は自分からなにか話さなければと思って話を振ってみたものの、へえとかはあとか返されただけで、なんの手ごたえもなかった。おかげで運転に集中できたので、だいぶ道を覚えられた。
その日は磯川酒造で夕食をとることになった。面子は平岡、秀子、連太郎、雛実の4人だった。連太郎以外の3人は適度に雑談をしながら楽しく食事の時間を過ごしたが、連太郎だけは相変わらずだった。機嫌が悪いわけではないが、意図的に心を許さないようにしているようだった。献立は山芋に醤油をかけた飯が主だった。ほかに、もずく、きんぴら、たけのこ、といった健康的な品揃えだった。食後には、ぽんかんだったか、たんかんだったか、島の名物だという柑橘類が出た。もちろん、食卓に出ていた酒は一升瓶の焼酎だったが、雛実は飲めないと正直にいって断った。すると連太郎が、
「飲めるのは、くーにゃんくらいなもんか」
 といってきたので、雛実は笑いそうになってしまった。彼のその態度や風体からその言葉が出てくるのは非常に違和感があったし、あまりにも滑稽に感じられた。それに気づかれたのか、連太郎は食事の途中でどこかへ消えてしまった。雛実が不安に思っていると、彼は手に茶色い液体が入った背の高いグラスを持ってきて、雛実に手渡した。恐る恐る口をつけてみると、それはまぎれもなくレゲエパンチであり、ピーチウーロンだった。彼女は意外なやさしさに打たれたのと同時に、なにかの企ててはないのかといぶかしんだ。
食事を終えた雛実は来たときと同じように、旦那さんに迎えに来てもらい、民宿に帰った。民宿に着いた雛実だったが、どうも気持ちがおさまらなかった。酒のせいか、緊張感のある出来事が続いていたせいか、一種の興奮状態にあった。その気持ちを落ち着けるためにはどうしたらよいかと考えた彼女は、自分の部屋にある頼りない明るさの非常灯を手がかりに夜道を歩き、灯台の下まで行ってみるべきだという結論に達した。
外に出ると、あたりは真っ暗で、まるで心霊スポットを訪れるような心持ちになった。その類は信じていなかったが、もし眼前にあらわれてしまったらと考えると、恐怖しないかといえば嘘になった。
灯台に着くと、あたりにはぬるい空気がよどんでいるだけで、誰もいなかった。予想していたことだが、そのときはことにさみしく感じられた。恋人の一組くらいは、いてもよいのではないかという思いが明滅していた。
灯台の土台まで登ってみると、雛実は予想していなかった光景に息をのんだ。対岸である伊豆の夜景が、あまりにも美しく広がっていたからだった。しかし光は妙につめたく、雛実を突き離すように感じられた。この光をあたたかく感じ、この光に受け入れられる日はくるのかと、むなしさに似た感傷的な気分にとらえられた。そのとき、雛実はこの光景こそ、自分が描こうとしている対象なのではと思った。心の底から好いている光景というのは、いま眼前に広がっている全景をカンバスサイズにトリミングしたものではないかと考えた。雛実はスマートフォンを家に置いてきたことを悔やんだ。この光景を写真におさめて、家でゆっくりとデッサンをしたいと考えたからだった。そう考えて、写真に撮るということが突然無意味に感じられた。写真がなかった時代、記憶と心象だけで素晴らしい絵画を仕上げてきた巨匠は何人もいる。写真に頼らず、何度もこの光景をみて頭に焼きつけ、そこから筆に色のついた線や点を乗せるのが、自分が求める本当の芸術ではないのか。
8時間ずっと一緒にいる人の顔より、1時間会うことを8回繰り返した人の顔のほうが、印象に残ることはいままでの経験でわかっていた。雛実はこの場所に、何度も通おうと決意したのだった。磯川酒造で働いているあいだ、毎日ここへ来ようと考えたのだった。
ところへ、小粒の砂利を踏みしめるような音が聞こえてきた。誰かが灯台の土台のほうまで登ってきているようだった。突然おとずれた緊張感に、雛実は華奢な身体を締めつけるように硬くした。逃げるべきか、とどまるべきか。



 7月下旬の耐え難い蒸し暑さのなか、実家の書斎で畳の上をごろごろと転がりながら、古い新聞をあさって読んでいた大志は、ある離島の存在を知った。その島の高校を卒業した者たちが、仕事、進学のために、本島へと一斉に引越ししてひとり暮らしをはじめる。そのなかのひとりに焦点を当て、仲間たちとの想い出、郷土愛、進学にあたっての希望などを語るという内容だった。
 大志はその記事を読んだ直後、もしくは最初の2、3行を読んだあたりかも知れない。何のためらいもなしに、特に深い考えもなく、その離島を旅することに決めた。端的にいえば、変化のない毎日に飽きていたのであった。フリーの図面書きだった彼は、比較的自由にスケジュールが組めたし、旅先でもPCとネット回線があれば仕事はだいたいできる状態にあった。
大志は2泊3日の旅程を組んだ。もっと長くてもよかったのだが、4日後に金型屋にいって商品の細部の設計について打ち合わせる必要があった。それはどうしても外せない用事であった。
大志は内房線で千葉、千葉から総武線に乗り換えて、東京へ向かった。ひどく蒸し暑かったので東京の駅なかカフェでアイスコーヒーを飲みながら、もういちど路線図の確認をした。そのとき、近くにいたサラリーマン風の男が、スマートフォンで会話しながら「なにかメモするものありませんか」と店員の女の子に聞いた、女の子は少し考えてから、レジの前に置いてあったショップカードをサラリーマンに手渡して「裏は白ですのでこちらをお使いいただければと思いますが、いかがでしょうか」といった。サラリーマンはうなずいて、店員からペンを借りて電話番号のようなものをショップカードに書き込んだ。彼は礼をいって、会計を済ませて出て行った。大志は東京から京浜東北線に乗り、浜松町から竹島桟橋、竹島桟橋からフェリーに乗った。
数時間後、大志の姿は月琴島にあった。ホテルにチェックインして荷物をといた彼は、最低限の持ち物をボディバッグに詰め、さっそく観光に出かけた。不便だが移動はバスに決めていた。レンタカーという選択肢はあったが、どうも観光している感じが減るので好きではなかった。
 まずは海中温泉に行った。海中と言うのは、引き潮のときだけそれまで海中だった場所に自然の湯船が出現し、そこに湯が湧いてくるという仕組みだった。
バスを下りて、この道で合っているのか不安になるほど横道をどんどん下っていって、さらに東京駅の総武線の、下りエスカレーターのような手すりのあるコンクリートの階段を下りて、眼前に雄大な海が広がる場所あらわれるのだった。
回りはごつごつとした墨のような艶消しの溶岩で囲まれていた。男女混浴なので期待している部分はあったが、先に居たのは、髭もじゃらの同年代くらいの男性だった。更衣室やロッカーはなく、風呂桶をしまう棚だけがあり、岩陰で服を脱ぐことになっていた。服を脱ぐために桶を岩場に置いたところ、その先客から「桶に湯を入れて置かないと飛んでしまいますよ」といわれた。ついでに、湯船から少し離れた場所に服を置かないと、かけ湯や水しぶきで服が濡れてしまうよとも教えてくれた。大志はお礼を言って、熱さを確かめながら、ゆっくりと湯へ浸かった。こちらは透明の湯で、特に匂いもなかった。先客と、よく来るんですか、どこから来たんですか、などと無難な会話をした。ちょうど良い温度の湯に浸かりながら、波の音を聞き、空の青さと海の青さがあまりにも違うことに驚いた。
そのあと温泉を3軒はしごして、最後の温泉の休憩所で休んだ。スマートフォンに何件か通知がきていたので、それぞれに対応して、温泉で売っていた握りめしを食べてお茶を飲んだ。大志は30歳だったが、老人になった気がした。このまま恋人なく結婚せず、静かに老化していくのも悪くないと考えた。子孫を残すことにあまり意味を感じなかった。生に対しての執着や、死に対しての恐怖はあまりなかった。
 つぎは山に登ることに決めていた。ホテルから持ってきた観光案内マップによれば、遊歩道がある所までは軽装で登れるらしかった。
いままでのバスと違う路線で、どんどんと山を登って行った。途中、決壊注意やら落石注意などという物騒な看板を目にしながら、富士山で言えば五合目のような場所に降りた。
とにかく外国人が多い。大志以外はみな、本気の登山らしく登山ガイドがついていた。大志はブラックジーンズに赤いTシャツ、グレーのテーラードジャケット、ハット、赤いスエードの靴と言うかっこうだった。あまりにも軽装備で、山を背景にすると浮いていた。 山に入ると、そこここに、太い幹の、苔を生やせた、つたの様に絡まる根を張った、勇ましい木が真っ直ぐに立っていた。川は繭のように、白く繊細な流れを見せ、木の葉を連れながら山を下っていった。それらの光景は、心をなでながら、深く記憶に焼きついて行った。大志はさらにその奥へと進み、細い吊り橋を渡った。しかしその先は遊歩道がなかった。彼は満足して、つけ根が痛くなってきた脚を意識しながら、引き返して帰った。
ホテル近くの寿司屋で夕食を食べた。お通しはながらみの塩ゆでだった。地魚寿司というのを頼んだら、真鯛、勘八、真鯵、あおりいか、ほうぼう、こち、わらさ、平目の握りがきた。大志はそれをつまみに、瓶ビールを飲んだ。握りは小さめで、つまみにするにはちょうどよかった。店主はずっと機嫌の悪そうな顔をして黙りこくっていたので、こちらも意地を張ってなにも話しかけなかった。帰りにごちそうさまとだけいって、店をあとにした。
多少いらいらしていたので、はしご酒でもしようかとふらふら道を歩いていたら、道の先に白い灯台があることに気がついた。ライトはついていないが、近くの街頭が白い本体に反射して、ぼうっと浮いているように見えた。ちょっと面白そうなので、大志は灯台までいってみることにした。
灯台の下まで行ったが、誰もいないようだった。波の音もせず、静まり返っていた。大志は灯台の土台まで登っていった。
そのときだった。
灯台の前に、人影があらわれた。顔は見えなかったが、ほっそりとした、女性の姿のように見えた。
「誰かいるんですか」と相手の警戒心を刺激しないように静かにいった。しばらく返答を待っていると、
「ここ、星が綺麗なんです」
 と聞こえてきたのは女性の声だった。少し高めの、幼さをそこかしこに散りばめたような、かわいらしい声だった。彼女は灯台を背にして、土台のコンクリートの上に座った。
 それを聞いた大志は女性のほうに近づいていった。おそるおそる、
「隣、いいかな」と大志がいったとき、見上げるようにした彼女と大志の視線がぶつかった。
自分の好みのタイプではないが、整った顔をしている。かわいいというより、美人寄りだろう。大志はそう思った。
彼は不自然な間を開け、彼女と同じように、灯台を背にして隣に座った。そして空を見上げて、
「美しい。見上げればいまここに星の光はある。これは現実だ」といった
「なにかの歌詞みたい」
 女性はやさしく笑い、つぶやくように言った。その表情から、彼女は20歳前半だと推定された。
「たまに詩を書くんだ。はずかしくて見せられないけど。ほとんどが自分の世界に入りすぎていて気持ち悪い」
 大志が決まり悪そうに頭をかきながらいった。彼女は膝に頬を預けるようにして、斜めのまま微笑んだ。大志はそのとき、この子に惚れるだろうなと直感した。
「名前、聞いてもいいかな?」
 大志はちょっと性急過ぎるかなと思ったが、思ったときはすでに言ってしまっていた。
「うーん、琴絵で」
「本名じゃないのかな」
「どうでしょう」
 とっさに考えたような名前の言いかただった。はじめてこんな場所で会った人に本当の名前をいう義理はないだろうと思った。
「なら、僕は良平で」
 なんだか本名を明かすのは悔しい思いがしたので、大志も偽名を名乗ることに決めた。すると琴絵が、
「あまりプライベートを明かさないようにしませんか。夏の想い出は、そのほうが綺麗に記憶に残る気がします。それにスマートフォンを家に置いて来ちゃったから、連絡先も交換できないし」
 たしかにそうかなと思った。名前を聞いて、連絡先を聞いて、もし島以外の場所で会ったなら、なにかが崩れしまう気がする。一緒に写真でも撮って、記念にすればいい気がした。
「ちょっと残念だけど、たしかに綺麗な想い出になりそうだ」
 だが大志は、あしたにでも雛実に名刺を渡して、連絡先を教えてしまおうかと思った。聞くのではなく教えるなら、問題なく受け取ってくれるのではと考えていた。
 大志と雛実は、必要以上にプライベートに踏み込まない形で、雑談を楽しんだ。琴絵の実家は埼玉、仕事は一般企業のOLで、大志の地元は千葉、フリーランスの図面書きだということがわかった。そうやって2時間ほど話したところで、
「あしたもあさっても、わたしはここに来ます。またお話しましょう」と雛実が切り上げようとした。大志は引き止めたかったが、雛実はあした仕事なのかもしれない。なにか用事があって、朝から船に乗ってどこかへ行かなければならないかもしれない。大志は承諾して、灯台をふたりで降りた。道路に出ると、帰りは反対方向だった。
「じゃあ、またあした」と大志が言ったところで、やさしい風が吹いて、雛実はのほうに流れていった。雛実は「桃のにおいがする」といった。「桃? なにもつけてないけど。ボディソープの匂いかもしれない。でも今日一日汗かいてたから、残ってるかなあ」と大志は不思議そうな顔をした。
「またあした」と雛実がいって、大志はお辞儀だけで返した。彼は途中でいちど振り返ったが、彼女は振り返らないまま去っていった。大志は彼女の顔形、雰囲気、話しかた、声、仕草、そのすべてに惹かれていた。明日の昼はすっとばして、灯台で会う時間まで進めてしまいたかった。
 ホテルに戻った大志は、内湯に入ってから、備えつけの浴衣に着替え、つまみもなしに瓶ビールを飲んだ。ずっと彼女のことが離れなかった。もともと一目ぼれ体質なのはわかっていたが、これほどとはと思わなかった。ありがちだか、夏のせいにしたかった。
あした本当に会えるのか、とても不安だった。不安は不安を呼ぶが、嘘をつくような人だとは思えなかった。もし会えないとしたら、不都合な外的要因に邪魔された場合に違いなかった。また会って、踏み込んでいいプライベートの限界まで、話してみたかった。あまりにも美しく広がっている対岸の伊豆の夜景を、ふたりで一緒に見たいと思った。彼女はその光景を見て何を思うのだろうか。おそらく大志とは違うだろう。その違いを大志は理解したかった。彼女が何かに直面したとき、その人が抱く感情をできる限り理解し、できる限り共有したいのだ。それが好きな人に対する最大の愛情表現だと思っていた。
大志はベッドに倒れこむように横になって、頭のなかで琴絵の名前を繰り返した。こうなってしまえばもう会う前に戻ることはできない。会う前に戻れたらどんなに心が楽だろうと思うときもあるが、やはり過去に戻って彼女と会えないままなのは忍びない。どんなにつらくても、本気で好きになれる人に会えたことは嬉しい。そこまで考えて、相手に彼氏がいる、もっといえば、旦那がいるという考えをしてこなかったことに驚いた。
つぎに会ったとき、それに関して聞いてみよう。はぐらかされるかもしれないが、なんとか食い下がってみよう。彼氏か旦那がいれば、諦めもつく。略奪愛のようなものを大志は好まなかった。そう決意をして、大志はもう2本目のビールを開けた。さらに3本目のビールを開けた。結局何本開けたかわからないほどビールを開けて、いつの間にか眠りについていた。
翌朝起きると、完全な二日酔いだった。今日は夜まで、ホテルで寝ていようと思った。胃液を戻し、水でうがいした。水を飲んでも、胃液と一緒に吐いてしまうので、体内に入っていかなかった。食事はとれなかったが、出るものは出た。酒のにおいがして、さらなる嘔吐を誘った。熱いシャワーを浴びてだいぶ身体は楽になったが、それでも観光をするような気持ちにはなれなかった。琴絵に会うまで、ベッドに入ってひたすら身体を休めようと考えた。夜の8時前にアラームをセットして、もう一度ベッドに入った。
アラームで起きると、まだ頭痛だけが残っていた。ベッドからふらふらと降りて、スーツケースを探ってピルケースから頭痛薬を取り出し、歯磨き用のコップでぐいっと飲み下した。適当なTシャツを着て、なんの特徴もないキャメル色のハーフパンツを穿き、ストローハットをかぶってホテルを出た。
夜道の道路からのぼってくる熱気に全身を包まれながら、胸のなかをボールがはじけ飛ぶような心持ちで灯台へと向かった。一歩一歩くたびに、彼女が近づいてくるのを実感した。それは引きよせられているようではなくて、むしろ斥けられているように感じられた。しかしあるところで突然磁極が反転して、一気に引き寄せあう可能性を大志は期待していた。ぼうっと浮いてきた灯台を見て、一気にその期待は高まった。
 灯台に下に着くと、いよいよ心拍数は高まって、全身の血管が脈動するのを意識した。土台に手をかけ、登っていくと、そこには誰もいなかった。周囲を見回したが、ただ暗闇があるだけで、人っ子一人いなかった。前回会った時刻を考えると、遅すぎることはなかった。しばらく待っていれば、来るのではないかと思った。
大志は、一時間ほど待った。しかし、誰も来なかった。ただ、ここで諦めたら、絶対に後悔すると思った。明日の船の時間まで、待ってみようと思った。
朝の8時ごろ、灯台の土台の上で目が覚めた。結局彼女は来なかった。大志は自分の悪いところを探した。彼女の気分を害するようなことをいってしまったんだろうか。考えても結論の出ないことを、ただぐだぐだと考えた。大志はホテルに戻り、荷物をまとめる必要があった。



 午前中は曇りでときどき雨も降っていたが、昼過ぎにはすっかり晴れて、不快な湿気が道路から立ち上っていた。島での生活2日目は、ひとりで磯川酒造のピックアップトラックに乗って、はじめて配達をした。島中の酒屋に卸すのだが、広い島ではないので、10軒にも満たなかった。むかしながらの紙の地図を見ながらだったので、それなりの苦労はしたが、道に迷うことはほとんどなかった。大変なのは、予想していたことだが一升瓶ケースの上げ下ろしで、卸先の人たちが手伝ってくれたものの、終わるころには腕がぱんぱんに張って水平の高さ以上には腕が持ち上がらなくなってしまった。あした以降、これで勤まるのかが心配だった。
磯川酒造に帰ると、車の音に気づいた平岡、秀子が心配そうに駆け寄ってきた。雛実が車を出ると、あちこちから心配や気遣いの声が聞こえてきた。雛実はあっけにとられたまま「大丈夫です、大丈夫です、無事です」と答えた。すると「じゃあそのまま行っちゃおうか」と秀子が助手席に乗り込んできた。バーベキューの食材をそろえに行くのであった。事前に予約をしてあるので、肉、野菜、海鮮などを各所に取りに回るだけでよかった。
 車を発進させたときふと、奈美と、優子を呼んでみてははどうかと考えた。控えめにうかがってみたところ、大歓迎とのことだった。「平岡さんに聞かなくて大丈夫ですか」というと「なになに、そんなこと気にする人間じゃないわよ。むしろ女好きだから大歓迎よ」といって彼女は笑った。
 雛実は磯川酒造に帰ると事務室の電話を借りて、すぐ彼女らに連絡した。彼女らがくれた返事は良いものだった。雛実はふたりのぶんも払う気でいたので、会費の心配しないでくれと伝えた。
 男たちを主体に、バーベキューの準備が始まった。まず薪を割る仕事がある。割る度に、その衝撃音が頭を貫く。さらに雨が降ることを見越してテントを設営しなければならない。従業員の菅原を筆頭に、何人かで作業を行った。健二はわたしと同い年で、お調子者であった。かといって気にさわるお調子者ではない。気持ちのいいお調子者であった。
「いやあ、若い子がいなかったんで呼んでくれたそうで助かりますよ。ひとまず一ヶ月だそうですが、よろしくお願いします」
 雛実が磯川で過ごす期間は、平岡との間で相談して決めていた。宿代には充分足りるし、ありがたいことに勤務中の食事は磯川のほうでいただけることになった。そのあまりで、確実に埼玉に帰れるのだった。
数時間かけて、すべての準備が終わった。あとはみんなが集まるのを待つだけであった。平岡に「先に一杯やっていてもいい」といわれたが、キャンプテーブルの上には置いてあるのは芋焼酎の磯川である。どんな飲みかたをしようが、飲んだら前後不覚になってしまう。今夜は良平と会う約束をしているし、ウーロン茶で通そうと思った。
バーベキューは始まった。30人くらい集まった。肉の焼ける音がして、肉の香りがあたりを包んだ。そのとき、ふと桃の匂いがした。良平? いるわけないのに、そう思った。すると、背後から肩を叩かれた。そこにいたのは連太郎だった。薄暗さのなかでも、連太郎の顔ははっきりと男前に見えた。むしろコンロの火と夜の闇が、美しさを際立たせていた。
「くーにゃん、作ってきたぞ。完全にノンアルコールというのもつまらんだろう。趣味でカクテルを作っててな。酒はいろいろそろってるんだ」
 雛実はその気遣いを心から嬉しく思ったと同時に、良平の影が思っていたより、自分の心にとどまっていることに動揺していた。
従業員をはじめ、その妻、恋人、友達、奈美と優子、そのほか周辺にいた面子で乾杯した。ほとんどが磯川のロックか水割りを飲んでいた。一気飲みなどという馬鹿な飲み方をする若い従業員がいて。そのなかでもとりわけ若い健二という従業員がターゲットにされていた。
「雛実さん、雛実さんですよね? ここはコールで一気しちゃいましょうよ。なあに、ピーチウーロンを一気したってたいしたことありませんや」
 雛実が心底嫌そうな顔していると、健二は早速ピーチウーロンを持ってきて「僕が負けたら、雛実ちゃんの旅費をすべて払います。雛実ちゃんが負けたら、俺とつきあってくれ」といった。周囲が一斉にどよめいた。助けを請うつもりで周りを見回したが、連太郎はどこにもいなかった。そして容赦なくコールが始まった。この雰囲気を壊すことは避けたい。少し無理をしてでも、飲んでしまおう、と雛実は思った。
「はい!な~んで持ってんの?な~んで持ってんの?飲み足りないから持ってんの!は~!飲んで飲んで飲んで飲んで~」
雛実は目をぎゅっと閉じて、一気に喉の奥へとピーチウーロンを流し込んだ。半分以上が腹に吸い込まれた。気づいたときにはすでに遅かった。それはピーチウーロンではなく、芋焼酎のウーロン茶割りだった。雛実はグラスをテーブルに置くと、ふらふらとあらぬ方向に歩き出した。そのとき四足のバーベキューコンロを倒して、肉や野菜を散乱させた。どこからか連太郎が飛んできて「なにをやってるんだお前らは。俺が担いでいくから離れに蒲団を敷いてやってくれ」と叫んだ。
雛実はそのまま、翌日の昼まで寝た。磯川酒造は休みだったので、配達のほうの影響はなかった。雛実は外に出て、水道の蛇口を探した。空は一面灰色で、小降りの雨が降っていた。
母屋の食堂らしいところに出た。従業員が昼を食べる空間だった。ぶら下がっている一つだけの裸電球は消えていた。古びたテーブルの前に座っていたのは、奈美と優子だった。彼女らは母屋に泊まったそうだった。
 すると奥から連太郎が出てきて、
「馬鹿なことをやったもんだ」といった。雛実はそれに答えなかった。
「水飲みに来たの」
 そう言って、雛実は深いため息をついた。
「そこの棚にコップあるから。どれでもいい」
 そいうって連太郎は棚を指差した。
「ありがとう」
 淡々としたやり取りだった。そこで私は切り出した。
「こんな調子でこれから仕事を続けていけるのかな」
 雛実は心から不安に思った。連太郎は答えなかった。
「ねえ。白い灯台あるでしょ? きのうの夜、あそこで人と待ち合わせしてたんだ。だからお酒飲まないで、ピックアップトラックで行こうとしてた」
 雛実は水道水を身体に染み渡らせるようにゆっくりと飲んでいた。
「俺がピーチウーロン出さなければよかったな」
 連太郎は思いのほか落ち着いた口調でいった。
「ううん。もし飲んじゃったら、早めに出て歩いていこうとしてたから。そしたら、歩いても行けなくなっちゃった」
 雛実はつとめておどけた感じでいった。
「また約束するんだろう?」
 雛実はわけを話した。昨日が最初で最後の会えるチャンスだったと。
「よし、電話だ。電話しよう。彼はまだ島に残っているに違いない。民宿、ホテルなど、この島にある宿泊施設に片っ端から電話するんだ。そうすれば、かならずつかまるはずだ」
 連太郎は興奮して、だんだんと語気を強めていった。
「連太郎くん、ありがとう。でも、いいんだ。向こうにだって都合があるかもしれない。恋人がいたり、奥さんがいたり、子供がいたり。こっちの都合で、迷惑をかけることなんてできないよ」
 それを聞きながら、連太郎はメモ帳にペンで何かを書いていた。
「確率を考えたことはあるのか?」
「ないよ」
「いまざっと計算してみたんだが、埼玉、千葉、東京のどこかでふたりが偶然に会える確率は、約360兆分の1だ。わかるか? この確率の意味が?」
「わかるよ」
「会うのは無理ってことだ。奇跡でも起きない限りな」
 連太郎はいらだち気味にそういって、母屋に戻っていった。しばらくすると表に出てきて、自分の車に乗ってどこかへ出かけて行った。店番は昼からなので、その前になにかの用でも済ませに行ったのだろう。
翌日、事態が動いた。健二は奈美に愛の告白して成功し、なんと奈美は島にとどまることになった。驚いたことに結婚前提のつき合いであった。連太郎の代わりに奈美が店番をすることになり、連太郎は配達の仕事にまわることになった。優子は東京に帰り、通っていた大学に戻った。
仕事にあぶれた雛実は2日後、わずかばかりの給料と、あとで返したが、それを上回る餞別を交通費として、埼玉の実家に帰った。
最後の日に、灯台の土台に登って夜空を見ながら大泣きしたのは、雛実だけの秘密であった。あんまり人を好きにならないタイプなんだ、とずっと言ってきたが、考え直さなくちゃいけないなと思った。

月琴島

月琴島

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-08-23

Copyrighted
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