大好きなAVについて

なむ

 大好きなAVがある。自慰行為は毎晩の日課だが、気持ちが昂った日にはすぐにそれを見てしまう。飽きるどころかクセになっていて、それで抜いた暁にはしばらく呆然としてしまうほどに劇的なオカズである。
 そこに出てくる女の子は、素人という設定らしく女優の名前まではわからない。初めて見たときから、その女の子が妙に頭から離れない。そう、初めて見たとき。初めて彼女で抜こうとしたとき、とても胸が苦しかったことを覚えている。それが何なのかと考えた時に、彼女が俺の初恋の人にそっくりだということに気が付いた。純粋で未熟なあの頃の、淡く美しい青春の思い出。それを汚さないでおこうと踏みとどまれるほど、今の俺はまっすぐに生きていなかった。

 「いらっしゃいませ~」焼肉屋のアルバイトを始めてもう一年半。お店のことは大体わかるようになってきた。「すみません、3番に座っているグループがこっそり焼酎を持ち込んでいるみたいなんですけど」「オッケーわかった、確認しとくよ」「助かります」お客さんへの対応も上手くなったきた。後輩にも頼られる今の立ち位置は正直心地が良い。3番テーブルをさりげなく通り過ぎる。お酒の類は見えない。隠しているかもしれない。何度もこの辺りを通ることで、それとなく牽制することにした。
 「いつもありがとうございます」常連さんとも世間話ができるようになった。「最近病院に行ったらさ、驚くほど健康的だって言われたよ。この店でちゃんと食べているおかげだね」「それはよかったですね」にっこりと笑う。「これからもよろしくね」「はい、ありがとうございました」常連さんが手を挙げ会釈をして、帰っていく。ほっと一息をつく。
 ガッシャン!と大きな音がする。「大丈夫?」「すみません、手がすべって」「オッケー、ケガ無い?片づけやっとくからオーダー行ってきてもらえる?」「はい」今日は店長が休みなので、自分たちで新人の子のカバーをしなくてはいけない。新人の子が戻ってくる。「本当にすみませんでした」「全然いいよ、オーダー聞いてきた?」「はい」
 「おい!」今度は怒号が聞こえる。「お客様、どうされましたか」「注文が間違ってたんだよ!」3番のお客さんだ。酔っぱらっている。「3番のお客さんのオーダー聞いたの誰?」「僕です」新人の子だ。「オーダー違うってクレーム来てるよ」「えっ!すみません、本当ですか」「酔っぱらってるみたいだからわかんないけどさ、まあ対応しとくからそっちはよろしくね」「本当にすみません」
 お客さんには何度も謝罪し、それでも怒りが収まらないので割引券を渡した。すると納得したようで、おとなしく帰っていった。忙しない一日が今日も終わった。「おつかれさま~」「おつかれさまでした。今日は本当にすみませんでした」「全然いいよ、悪い客に当たっちゃったね。俺もオーダーミスなんて山ほどしているし、ほんとに大したことないよ」「ありがとうございました」「明日もよろしくね」「はい、お疲れさまでした」「おつかれ~」
 身体の心地よい疲労感とともに店を出ると、精神は真っ暗ないつもの自分に戻った。自分が汚くて黒い人間だと知っている。家に帰ったらあのAVを見よう。この虚しい心を埋めるように。自分のフラフラな精神を落ち着けられるように。

 何かを埋めようとしている。性欲だとかそんな屈託のない感情ではない。もっと捻じ曲がった、醜いものに従って動いている。やりたいのではない、やらなくてはいけない。義務感がまとわりついていて窮屈さえ感じる。大切な青春を汚して、踏みにじってこそ埋まる何か。それが何なのか、そんなものがあるのかさえわからないまま、義務感に従って自分を慰めている。

 「おはようございます」「おう、おはよう」店長がパソコンで作業をしている。目は合わない。「昨日、色々あったんだって?」「はい、すみません。僕のミスです」「そう、新人くんじゃないの?」「いえ、僕ですね」「りょうかい」大きなクレームにはなっていないので、報告もあっさりしたものだ。新人の子のミスだと言うよりも、自分のミスにした方がいい。新人のミスは昨日の責任者である自分のミスだし、そもそも学生のバイトなんていうのは、怒られるのが一番面倒臭い。あの子は反省してわかっているのだから、自分だけが怒られておけばいい話なのだ。
 「おはようございます!」女子大生のバイトの子が来る。「あ、そうだ。すみません、シフト代わってほしい日があるんですけど…。明日って、空いていたりします?」「うん、全然いいよ」「本当ですか!ありがとうございます」自分はこれといって予定があるわけでもない。優先するべき大事な人もいないから、多少の無理は受け入れるべきなのだ。きっとそれが信頼にもつながるから。「あとは…」結局他にも二つほど、彼女のシフトに代わりで入ることになった。彼女が軽やかに更衣室に入っていったのを見て、よかったと思った。
 「佐藤さん、レジ点検おねがい」店長が女子大生に言う。店長は俺を信用していない。俺よりも歴の浅い彼女を頼ることもそうだが、なにより目を合わせようとしない。俺の何がそんなに気に入らないのかはわからないままだ。フッと一歩引いた冷静な目で、俺のことを警戒している。あからさまな態度には出さないが、その距離感は確実に信用がない間柄のものなのだ。心の奥底にある本心が見透かされているのかもしれない。正直バイトなんてどうでもいいし、お店の人間関係も、常連さんやお客さんとの関係も、他人のことなんてどうだっていい。そんな浅はかさがバレているのであろうか。ああ面倒くさい。
「おつかれさまです」「おう、おつかれ」店長は検品作業をしていた。「そうだ、大橋くんの財布から万札が盗まれたみたいなんだよね」「えっ?」「おとといかな。更衣室に置いていたみたいだから、その日シフトに入ってた男子が犯人の可能性が高いけどね」俺のことだ。「犯人探しなんかやってもギスギスするだけだし、シフト表は確認してないけどね。何より大橋くんの勘違いかもしれないし。まあ心当たりがあったら教えてよ」うそつき。俺にくぎを刺しているのだ。冷たい目線が痛い。読めない表情が怖い。俺は下を向いて店を出た。
 ただ迷惑をかけたくないだけのに。どうしてこんなに苦しいのか。俺のせいなのか。俺が悪いのか。俺は邪魔なのか。迷惑をかけないようにやってきたのになあ。いろんなものを犠牲にしてでも、上手く打ち解けられるようにやってきたのにな。なんてことはない、被害妄想だろうか。そうかもしれない。勝手に人を悪者にして。俺の汚さはそういうところだ。
 気にすべきことではないのかもしれない。ウジウジしてうざいかな。ああ、どうするのが正しいのかわかんねえよ。自分の汚さを必死に隠してきた。人に迷惑をかけないために。裏表が激しいとか腹黒いとか言われてきたけれど、それはありのままの自分で生きられるはずがないから。自分の醜悪さが人に迷惑をかけないように、ありのままの自分を裏に隠して、自分と他人との折り合いをつけるために、表の自分をこしらえたんじゃないか。据わった目で裏側を見抜いてさ、信用ならないと線を引く。表の俺は、ちゃんと真面目に生きていたでしょう。誠実であろうとしていたでしょう。俺はこの先もちゃんと、社会に適応しながら生きていけるのだろうか。

 大好きなAVで自分を慰める。ガキみたいに不満をわめく自分も、店長と相性が悪いというだけで投げやりになる自分も、本当の自分だ。変えようとして変わらなかった、変えようのなかった自分だ。これからも変えたいとは思うけれど、相変わらず今はこんな自分だ。自分を見失わないように。最低な自分を戒めるように。これが自分だという再確認のための自慰行為。快楽と胸の苦しさで、虚しさが増すだけの自慰行為。
 ありのままで生きられたらと思う。でもそれが無理だと分かった日、社会と折り合いをつけることを学んだ。それでもいつか、ありのままで生きてもいい自分になるんだって、そんな希望を持ちながら日を重ねても、上手くなるのは取り繕い方や、人への取り入り方。思い出を踏みにじって快楽を得て、俺は何かを埋めようとしていたのではない。取り戻そうとしていたのだ。取り繕った薄っぺらい自分を殺して、汚くとも虚しくとも堂々と胸を張れる自分を。これが自分なんだと自覚できるように。虚しさは変わらない。自慰行為を続けようが辞めようが俺は空っぽな人間だ。それでも、どんなに醜い自分でも、どんなに醜悪な行為でも、明日を迎えるために必要だったのだ。自分が自分でいるために必要だったのだ。

 「おはようございます」店は何も変わらない。店長は目を合わせずにパソコンを打っている。新人の子が驚く。「え?今日シフトなんですか?」「うん、佐藤さんと代わったんだ。よろしく」「そうなんですか!いらっしゃらないと思ってたから、今日すごい不安だったんですよ。よかった~、よろしくお願いします」うれしい言葉をかけてくれる。
 「お兄さん、笑顔が素敵ね。がんばってね」会計を終えたおばあちゃんが言った。暖かい笑顔が、紛れもない自分に向けられる。「ありがとうございます、またお越しくださいませ」精一杯、できる限りの笑顔でそのおばあちゃんを見送った。
 店を出る。真っ黒な自分に変わりはない。それでも少し笑っていられた。偽物じゃなく、誰かのためでなく、自然と笑っていられた。今日は慰めなくてもいい気がした。なんだか胸がいっぱいだ。明日はまた必要なんだろう。あのAVを見てしまうんだろう。それでも今日だけは、こんな幸せな気持ちで眠ってもバチは当たらないだろう。

 なんだっていいのだ。正しくないとか品がないとか、そんなことはどうだっていいのだ。明日を迎えられるなら、自分で生きていけるなら、それでいいのだ。美しい一日なんていうのは、毎日やってくるわけがない。それでも毎日を生きなきゃいけないから、下品でも、醜くても、それを糧にして歩いていこう。止められるその時まで、変われるその日まで。少しずつ減らせたらいい。幸せな日を増やしていけるように。

 ラストまでのバイトを終えて、くたくたでコンビニへ入る。ドリンクを買う。「あと、この肉まんください」ラストの一つ、余っていた肉まん。「あ、これもう廃棄の時間ギリギリなので、良ければタダでもらってください」「え、いいんですか」「ええ、むしろ蒸し器を片付けられてありがたいです」いつもの決まりきった会話じゃなくて、店員さんとちゃんと会話できた気がした。優しそうな落ち着いた笑顔に安心した。「ありがとうございます」「ありがとうございました!」店を出る俺に深くお辞儀をしていた。死んでいた気持ちが生き返る感じがする。こんな日を、繰り返して生きていきたい。明日も、生きていける気がした。

大好きなAVについて

大好きなAVについて

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 青年向け
更新日
登録日 2020-08-22

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