ネギが落ちていた

なむ

 道路にネギが落ちていた。おもむろにそれを拾い上げ、空へぶん投げた。
どうでもいいわ!この世には、意味が多すぎる。感情が多すぎる。うんざりだわ。

 このネギの落とし主は誰であろうか。親子の画が浮かぶ。夕飯の支度のために急いでペダルをこぐ母親と、自転車の後ろで買いもの袋を抱える男の子。どうやら男の子は袋から飛び出たネギが邪魔みたいだ。顔の目の前にあるのが鬱陶しくて、どうにかしようと思ったのだろう、その子はネギを袋から取り出した。「あっ」自転車から転げ落ちるネギ。早くお母さんに言わなくちゃ。みるみるネギが遠ざかっていく。どんどん言えなくなってくる。その子は怯えながらネギに背を向けた。
 その子は上手くごまかせただろうか。そんなわけなくて、やっぱりこってり怒られただろうか。でも大丈夫。そんなエピソードが本当にあったとしたら、僕が気付いたその瞬間、君だけのものじゃなくなる。もう君だけの悲しみじゃないよ。僕と一緒に慰め合おう。誰にも語られぬ悲しみは、惨めで悲しいだけの「事実」だけれど、誰かと分け合うことでそれは「悲劇」になる。誰かと共有した瞬間、その悲しみは救われるはずだから。

 この世には、誰にも知られず抱え込まれた感情がそこら中にもわもわと漂っている。それを一つ一つ救い上げ共感してあげることは、きっと誰かの悲しみを救うことだと思う…。だけど飲み込まれそうになるくらいにそこら中にあるから、時々息ができなくなる。
 僕は小説を書いている。たくさんの悲しみを拾い上げるために。あまりにも多くの気持ちが渦巻いているから、全部が僕の中に入り込んで、心がぐちゃぐちゃになってしまいそうになる。それでも心を閉じたくはなかった。

 このネギの落とし主は誰であろうか。一人暮らしのおばあさんの画が浮かぶ。手押し車につかまって、数メートルごとに足を止めて息をつく。夫は先に亡くなったから、食材は自分の分だけでこと足りる。一人で生きて独りで死んでいく、その覚悟はずっと前から持ち続けている。息子や孫に迷惑はかけたくないから。一人で大丈夫だと安心させなくちゃいけない。そのために、ボケたり動けなくなったりしないように気を付けて生活している。「あら?じゃがいもは買ったかしら」そう思い立ち、手押し車のポッケから買い物袋を取り出す。「えーっと、ネギ…卵…サンマ…お味噌…」手押し車の上で一つずつ確認する。底の方がうまく見えないので、一つずつ持ち上げたり取り出したりしている。手元の作業に夢中のおばあさんは、徐々に袋を持つ手が下がっていることに気付かない。袋の中のネギが倒れ、落下した。「あら…」おばあさんはすぐに気が付いたが、手が離せないので後で拾うことにした。結局すべてを取り出してようやく、隅の方にじゃがいもを見つけた。「…あれ?二つじゃなかったかしら」袋の中には四つ入っていた。「どうするつもりだったのかしら」今から献立を変えてポトフにでもしようか、それとも肉じゃが?おばあさんはそんなことを考えながら袋に買ったものを詰め直し手押し車に戻すと、そのままゆっくりと歩きだした。置き去りにされたネギとおばあさんの距離は、ゆっくり、数メートルごとに止まりながら着実に伸びていくのだった。
 おばあさんは苦しんでいないだろうか。自分の情けなさを責めたりしていないだろうか。おばあさん、大丈夫。もしも僕がおばあさんを見つけたら、いつだって力になるから。助け合って生きていこう。一人で悩まなくてもいいんだよ。一人で生きてはいるけれど、この街でその一員として、みんなと生きてもいるのだから。誰にも語られぬ苦しみは、痛くて悲しいけれど、誰かと分かり合うことで互いに助け合うことができるはずだ。誰かと共有することで、その苦しみは自分だけのものじゃなくなるから。

 このネギの落とし主は誰であろうか。…いや、もうどうでもいいわ。このネギに乗せられたストーリーが何であれ、自分にはまったく関係がないのだから。なんの意味もないと知っている。救い上げ共感することが人を救うなんて詭弁だと、痛いほど知っている。現に救われた人を見たことがないのだから。ほらまただ。ただのネギが、どんどん重たすぎる存在になっていく。ぶん投げたネギは、近くの川に落下してどこかに流れていったけれど、ネギはどんどん僕の頭を支配する。
 ネギだけじゃない。そこら中に気持ちが宿っている。気持ちが残っている。拾い上げることに意味がないということは分かっている。それでも無視している気になるのが苦しくて、すべてを拾い上げようとするのだ。

 修二から連絡が来た。「どうした?」僕がまだ大学に来ていないのを知って連絡してきたのだろう。かれこれ十分ほど、道の隅にうずくまって考えている。「ネギを見つけてさ」「ん?」「腹立ってぶん投げたんだよね」「は?www」まあ、そりゃそうだ。「いや、いろいろストーリーが見えてきちゃってさ、うんざりして」「wwwww」「共感できない?」「さすがに無理だわwww」修二は同じ文学サークルのメンバーで、創作仲間である。「珍しく講義来ないと思ったら、やっぱり異次元だなwww真面目すぎなんだよwww」「レジュメよろしく」「それはモチ、けど思いつめんなよ、創作は気楽に楽しくやってなんぼだろ?」「そうだな」僕は通話を切ってスマホをしまった。頭を抱えていると、また思考が動き出す。

 このネギの落とし主は誰であろうか。カップルの画が浮かぶ。同棲して数か月、彼女の料理はまずい。それでも互いに大好きだから、互いの気持ちが離れたりすることはなかった。今日は久々の休日、二人で一緒に料理をしよう。彼女の料理下手さえも、一緒に乗り越えられると思っていた。二人は買い物袋を持って家へ帰る。「今日で料理が好きになったらいいね」彼氏は言う。「そうだね、今まで全部失敗したから」彼女は笑う。「笑っている場合じゃないよ、うまくなりたいと思っていないでしょ」彼氏も笑い、からかう。「えー、だって料理なんて得意な人がやればいいじゃん。」「…え?それ本気で言ってるの?」「え?」「もしだよ、もし俺と結婚したら、料理は俺に任せようと思ってる?」「…」「いや、おかしいよ。料理ができないのは悪くないけどさ、開き直って上手くなろうとしてなかったなんてショックだよ」「そんなんじゃないよ…ただ男性が仕事、女性が家事をするなんて時代はもう終わっているでしょ?私も現に仕事しているし。もちろん洗濯とかの家事は私がやるようにするよ?」「いや、ありえないわ、時代を言い訳にして逃げているその感じ?すごく嫌いだわ」「なんでそこまで言われなきゃいけないの?自分でこれまで生きてきて、私は料理ダメだってわかっているからそう思うんじゃん。」「じゃあ何、今日もうまくなる気なんてさらさらなかったんだ。何だよそれ、寄り添おうとしていた自分がバカみたいじゃん」「そんなこと言ったら私だって、喜んでほしいから苦手な料理をずっとやってたんじゃん。なに自分だけが我慢していたみたいに言ってるの?いい人間ぶって恥ずかしくないの?」彼女は買い物袋を男に投げつける。地面に落ちた買い物袋から中身が転がる。「ほら、そうやって投げるのも料理なんてどうでもいいってことでしょ」「もう知らない!」
 どうしてこんなことになったのか。男はぽつんと考える。今まで彼女に不満なんて一つもなかったのに。急にフッと冷めてしまった、フッと萎えてしまった。二人の未来に対して、適当で投げやりな感じがして腹が立ったのだろうか。結婚した未来について、考えていた二人の画が違っていてバラバラになった気がしたのかな。日頃仕事のストレスで彼女に当たってしまったのかもしれない。何にせよ、どうかしていた。ちゃんと謝ろう。彼女はどこかへ行ってしまった。家にはいないだろうか。一度帰ってみよう。男は買い物袋を拾い上げ、散らばった中身を袋に戻す。ネギを拾おうとしたが、カラスが突いていたので諦め、それ以外を拾い終わると家に駆け足で帰っていった。

 このネギの落とし主は誰であろうか。考えていると子供が声をかけてきた。「何しているの?変だよ?」小学生だろう。ランドセルを背負っていた。道の隅にうずくまってボーっとしている僕を見て変だと言うのは仕方ないことのように思った。「いやちょっと考え事をね」小学生であろうその子に面と向かって変だと言われ、やっとおかしさを自覚した僕は恥ずかしくなったが、それを隠すように冷静を装い答えた。「もしかしてネギを落としたのはお兄さん?」「え?ネギのこと知ってるの?」この思考のループから抜け出せるかもしれない。そう思った。「さっき通った時に見たんだ」「落とした人は見てないの?」「見てないよ、お兄さんじゃないの?」「そうか…」僕の終わりの見えかけた憂鬱は全くもって終わらなかった。「あのネギどこへ行ったの?」「さあ、あの川を流れて海にでもいったんじゃないかな」期待が外れて少しめんどうくさくなった。「お兄さんおもしろいこと言うね、ネギがあの川に飛び降りたっていうの?」「いやそんなことは言ってないけど」「俺はね~、鳥にくわえられて今ごろ空を飛んでいるんじゃないかな」その子は楽しそうに語った。「君こそおもしろいこと言うね。きっと誰かが拾ってごみ箱にでも捨てたんじゃない?」僕は楽しそうに考えるその子に嫉妬した。現実を突きつけてやることですっきりしようとした。「いや、風に乗ってこの街を見下ろしているかも」その子は楽しそうだった。「…楽しそうだね。うらやましいよ」「俺もネギがうらやましいな。ネギは今ごろどんな冒険しているんだろうね。追いかけたかったなあ」彼は悔しそうに言った。「冒険ねえ」「俺ね、冒険がしたいんだ。この街の外に一人で出たら、きっとワクワクすることがたくさんあるから」自分もそうだったことを思い出した。小さいころ読んだ物語は驚きの連続で、すべての感情が僕をゆすぶった。もっといろんな気持ちに出会いたくて、どこか冒険してみたいと思ったものだった。「冒険、いいと思うよ。ネギは今ごろ期待にあふれた気持ちで海を泳いでいるだろうね。僕はそう思う」「俺は風に乗っていると思う。」「そう。どっちだろうね」なんだか幸せな気持ちがどこかからあふれ出ている。なにか希望が見えた気がした。「まだ近くにいると思うんだ」「どうだろうね」「ちょっと探したら見つかったりして」彼はニヤッと笑った。「かもね」僕もニヤッと笑う。「じゃあね、お兄さん。変だから早く帰りなよ」そう言って彼は走っていった。変。改めて少し恥ずかしくなり、僕は顔が赤くなった。

 このネギの落とし主は誰であろうか。落とし主など存在せず、ネギ自身の意思でたどり着いたのかもしれない。遠くの田舎で育ったそいつは、一面緑と土の景色しか見てこなかった。代わり映えのない景色にうんざりしていたし、もっとネギに縛られずに生きたいと思っていた。収穫され、トラックに積まれると見たことのない景色ばかりが映り込んできた。ネギのそいつは街に運ばれ、整備された道路や空高くそびえたつ建物を見た。ワクワクしていた。もっと自由に世界を走り回って、いろんなところを見てみたいと思った。そいつは街の八百屋に置かれた。八百屋の夫婦のくだらない会話を聞くのも楽しかったけれど、このまま他のネギと同じように調理され終わっていくのがつまらなくて、夜中八百屋を抜け出した。野良猫に齧られたりしながらも、何とか店の遠くまでやってくることができた。ここからどうしようかと考えていると、向こうから男の人が歩いてくるようだ。男はさっそうとネギのそいつを拾い上げ、高くぶん投げた。びっくりしたと同時にありがたいと思った。これでまた遠くへ行ける。ありがとう、知らないだれか。川に落ちたそいつは、流されながら街を思う存分に堪能しただろう。こんなこと、他のどのネギもやっていないだろうなあ。そいつは誇らしげにそう思った。

 「よお」大学の先輩だった。「どうしたんですか!」「修二から聞いてな」「なるほど」先輩も文芸サークルの一員だが、講義には出席せず、遊びに大学にやってくるフラフラしている先輩という印象だった。「お前ヤバいな!」先輩はヘラヘラと笑いながら言う。「気持ちとか思いとか、そういうものがありすぎてうんざりすることってありませんか?」「ないね」きっぱりと言った。なんとなく答えはわかっていたのだが。「それにそういう気持ちとかって、悲しさとか苦しみみたいなものが多いんですよ。だからどんどん重たくなって、自分が歩けなくなるんです」「そんなもの気にしなければいいんだよ」「気にならない人はいいですよ。気にしないってことは無視するってことだから。すごく心地悪くて」「お前またごちゃごちゃ考えているんだな」「…ええ」「…お前のその、人の気持ちを切り捨てられない優しさ、俺は好きだよ」「なんですか、急に」「ネギが落ちているのを見て悲しみを感じることができるのなんて、お前くらいのもんだよなあ」先輩はまたいつもの調子で笑った。「そうですかね?」「そうだよ。俺だったらなあ、ネギをブーメランにできるかって言って遊ぶヤンチャな子供が見える。家から勝手に持ち出したんだろうな。あ、それか鴨が見たくてネギでおびき寄せようとする子どもかな。鴨がネギを背負ってくるって言葉、信じたんだろうな。」「…なんか、先輩っぽいですね」「子供っぽいってか?」「違いますよ。なんだか先輩のお話を聞いているとほっとします。力が入ってなくていいんでしょうね」「それはありがたいね、俺自身そういう物語が書きたいんだ。現実を忘れて息抜きができるようなさ」「すごくいいと思います」「だろ?もっとなんかあるかな、テレポートしてきたとか?家で練習していたんだろうな。いろんなもので試していたらネギだけは成功したんだ。なんでだよってな」先輩は笑う。「いいですね」僕も笑う。「お前も考えろよ、これおもしろいな」
 もう夕方になっていた。夕日が街をオレンジ色に染める。僕と先輩はずっとここで話をしていた。「ネギで誰かがチャンバラやっていたんじゃないですか?ここで切られたんですよ、きっと」「いいねそれ」二人で考える。あのネギを笑えるように。楽しくなるような物語を紡げるように。

 悲しみばかり探してしまう。いや、わからないけれど実際、悲しみばかりの世界なのかもしれない。それでも、悲しみを救う方法を僕らは知っていた。拾い上げるだけじゃない。悲しみを忘れられる感情に出会うこと。そうして悲しみを忘れること。拾い上げるばかりじゃきりがないから。向き合うばかりじゃ行き詰るから。たまには悲しみを忘れよう。それもきっと悲しみに向き合うということだから。だってそれは悲しみと戦うということだから。
 僕らには想像がある。僕らは想像したそれに驚き、喜び、楽しむことができる。幸せになることだってできる。悲しみを救うために、悲しみ以外のたくさんの感情を生み出すことができる。悲しみを拾うことだけじゃない。悲しみ以外の感情を探し出すことで、悲しみを救うことができるのだ。バカバカしくたっていい。意味がなくたっていい。もしこの世界が感情だらけで意味が多すぎるのなら、何の意味もないバカバカしい物語を想像すればいい。そんな物語に救われる人もきっといる。「あのままネギがあったらさ、雨と太陽でさらに大きくなったんじゃないか?待ち合わせスポットになったりするかもな。あのネギの前集合ね」「みんなでネギを一齧りする行事とかできるんじゃないですか?これを齧らないと大人だと認めてもらえない」「もはやネギの中に住めるんじゃない?」「おお!」

 そろそろ帰ろうか。そう言いかけたとき、先ほどの子供がこちらに駆け寄ってきた。「ネギ、見つけたよ!」そう言ってスマホを見せてくれた。川を流れるネギの写真だった。「おお!」不思議とネギを見ても憂鬱な気持ちにはならなかった。「河川敷でさ、見つけたんだ」彼は興奮気味に言った。「これ、結構遠くじゃない?一人で行ったの?」「そうだよ、冒険していたんだ」彼はこの短い時間で冒険していた。子供はすごい速度で大人になっていく。なんだか彼の背中がさっきより大きくなっている気がした。「これ、何?」先輩が言う。写真に何か映っていた。「鳥かな」その子は言う。「鴨じゃない?鴨でしょ!え、そんなことある?」先輩も興奮しだした。鴨が写真の奥の方で川を泳いでいた。「本当だ!」僕も先輩と一緒に興奮しだす。「鴨とネギが偶然同じ写真の中にいるなんて」「すごいですね」先輩は嬉しそうだった。僕もなんだかうれしかった。いつからだろう。あんなにしつこかった気持ちの重たさは、もうとっくにどこかに消えていた。
 これからもきっと、気持ちがいっぱいになって何度もうんざりするのだろう。それでも投げやりになってしまわないように、自暴自棄で壊れてしまわないように、乗り越えられる何かを探す。想像力を頼ってみる。心の動く物語と出会う。そうやって生きていくのだろう。そうやって生きていくのだ。
 「じゃあな」「わざわざありがとうね」子供が帰っていく。「バイバイ変な人、とその友達の人」少し大きく見えるその背中に手を振る。「…お前変な人だってよ。あの子にとってのお前は一生変な人なんだろうな」先輩はニヤッと笑う。なんだろう、充実感でいっぱいだ。「えー、いやだなあ」そう言ってへへっと笑い、僕と先輩も歩き出した。「ネギのことはすっかり忘れられたか?」先輩がたずねる。「忘れられるわけないじゃないですか、大切な思い出ですよ」「そうか。よかったな」「ええ」もう辺りは薄暗い。うちへ帰ろう。

ネギが落ちていた

ネギが落ちていた

こんな経験、ありますよね

  • 小説
  • 短編
  • 冒険
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-08-22

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