360兆分の1

360兆分の1

2020年。僕と阿部は、千葉にある彼の部屋で酒を飲んでいた。
彼は愛用の古びたテーブルの前、
僕は布製の安っぽいソファーに腰掛けていた。
外は月のない夜で、部屋の明かりは彼の趣味で暗めに落とされていた。

「東京、埼玉、千葉のどこかで彼女と偶然に会う確率って、
どのくらいなんだろうか?」
と僕はいって、夏の気温が作用してぬるくなった缶ビールをあおった。
部屋にはエアコンがなく、扇風機が熱い空気を混ぜているだけだった。

「それは考えなかったな。ちょっと待てよ」
阿部はテーブルに置いてあるノートパソコンを開いた。
デスクトップの壁紙は、彼の好きなスーパーカミオカンデのものだった。

阿部はGoogleで各地の人口を検索し、ノートに万年筆を走らせた。
万年筆は去年の誕生日に僕がプレゼントしたものであった。
彼は左利きで、筆記すると手が汚れる。
僕はうっかりしていたと悔やんだが、彼は気にせずに使い続けてくれていた。

僕と阿部は、2年前にあるバーで知り合った。
たまたまカウンターで隣になって仲良くなったのである。
彼と僕が同じ40歳だったことも大きかった。

彼は僕のまわりで起こった出来事をよく知っていた。
ことに恋愛についてはうんざりするほど僕から聞かされていた。
そのときの話も、恋愛についてのものであった。

「東京の人口13222760、埼玉の人口7346910、
千葉の人口6284521だから……」
阿部はひとくちロックのウイスキーに口をつけてから計算をはじめた。
筆が走る音をかき消すように、鋭い音を立てて氷にひびが入った。

どんな計算をしているのかわからなかったが、
彼の指先をじっと見つめていた。
東京大学大学院を卒業した彼にとっては、
たいした仕事ではないようだった。

360,573,773,705,145分の1だ。360兆分の1ほどだな」
「俺がレコード大賞と有線大賞を同時受賞するより低い確率だな」
といって、僕は口を結んだ。
「俺がノーベル賞を受賞するよりも低い」
阿部がつぶやくようにいって、ふたりで笑った。
どこか夢のある笑いかただった。

僕は音楽活動を中学生の頃からやっていた。
しかし、42歳になってもまったく芽が出ずにいた。
そもそも芽がどうのこうのといっている歳ではなかった。
僕はまさに、
ノーフューチャー・ノーマネーを地で行っているような状態であった。

「はじめて行った東京の風俗で、はじめて会った風俗嬢にガチ恋をする。
まさにお前らしいひと目ぼれ具合だな。10回くらいは通ったか」
阿部はそういって、うちわで自分の顔をあおいだ。

「いや9回だ。まさか突然辞めるとは思わなかったよ。
つぎに来てくれれば10回だね!
なんて可愛い顔で話してくれてたのに。
毎回イラストを描いた名刺大のカードをくれるんだが、
そのイラストが可愛くてコレクションしていたんだ。
なんとしても10枚集めたかったが、辞めてしまったものはしょうがない。
会いたくて仕方ないが、住んでる場所が埼玉ってことしかわからない」

「それで360兆分の1か。
お前、本気でそれに賭けてみようと思っているんだろう?」
阿部は聞く前から答えを知っているような口調でいった。
「あたりまえだ。いや、すこしでも彼女と会える確率を上げるために、
定期的に東京の繁華街巡りをしようと思っている」
僕はいい切って、残りのビールを飲み干した。
後味がいつもより苦かった。

「千葉から片道2時間以上かけてか。
まあ、後悔がないようにやったらいい」
そういいながら、阿部はノートパソコンを閉じた。

――――そして、13年の月日が流れ去った。

ふたりは55歳になっていた。
僕はラーメン屋の店主、阿部は大学教授になっていた。
住まいはふたりとも東京だった。
阿部は雑誌記者の奥さんとふたり暮らし、
僕は独身でひとり暮らしだった。
13年間、僕は誰とも交際していなかった。

「彼女、今ごろ何してんのかな。あの時は20歳だったな」
彼女のことを考えると、いつも感傷的になってしまう。
僕は駅のトイレで小便をしながらいった。
13年経っても、まだ彼女のことが好きだった。

「あっ」
洗って濡れた手を拭こうとしたとき、
便所の床にハンカチを落としてしまった。
「ハンカチってのは、ただでさえとんでもない菌の数だ。捨てたほうがいい」
阿部がそういった。
ハンカチは100円均一のものだった。
僕はためらいなくトイレのごみ箱に捨てた。

トイレを出て、プラットホームに移動した。
日曜日のホームには、私服の女性がたくさんいた。
彼女がいないかと、不審者かと見まがうほどに、
僕はキョロキョロしてしまっていた。

「文系の大学を卒業して、
そのあと風俗で稼いだ金で美大に行くっていってたんだよな?
母親を若いときに亡くして、父親は売れないベース弾きで、
学費を稼ぐにはそれしか方法がなかったと」
僕からうんざりするほど聞かされていた話なので、
阿部はしっかりと覚えていた。

「そんな理由なんて嘘だって、
さんざんいろんな奴からいわれてきたけどな。俺は今でも信じてるよ」
「55歳の純愛か。悪くない」

僕たちは山手線に揺られていた。
「あの広告の女性、彼女に似てる。髪形も似てる」
僕はひとりごとのようにいった。
あるファッション誌の中吊り広告だった。

13年前の彼女が、ぼんやりと頭のなかに浮かんできた。
輪郭を失わせるのには充分な時が流れていた。

「黒髪ショートの前髪ぱっつんか。33歳でそれは厳しいか。
アニオタで、
大好きなジョジョに出てくるブチャラティと同じ髪型だったな」

阿部は情報としてしか彼女の姿形を知らなかった。
僕は33歳の彼女がたとえ同じ髪形をしていても、
必ず似合っているはずだと考えていた。

突然、胸が苦しくなった。
会いたい。
33歳の彼女に会いたい。
写真広告など見なければよかった。

「さて、つぎは上野だ。彼女の店が秋葉原だったのを思い出すな」
阿部が僕の顔を覗き込みながらいった。

彼女は秋葉原の風俗店に勤めていた。
それまでの電気街のイメージは、
すっかり風俗店のイメージに塗り替えられてしまっていた。

「あれからしばらく何回も秋葉原に行って、意味もなく歩き回ったんだよ」
といって、僕はぶら下がるようにして、つり革に半分体重をあずけた。

「東京都美術館なんてはじめてだ。
覆面アーティストの作品ってのもはじめてだ」
僕は面倒くさそうにいった。
「海外ではずいぶん有名なんだぞ」
すこしとがめるような調子で阿部がいった。

「どうもそういう覆面とかってのは好きじゃないんだよな。
堂々とすりゃあいいのに。
有名になりたくてもなれなかった俺なんかからすると謎の感覚だね」
多少のいらだちを加味して僕はいった。

「まあ、気に入らないなら文句のひとつでもいってやれ」
と阿部が笑顔でいった。

その日は美術館で
覆面アーティストの個展が開かれることになっていた。
雑誌記者である阿部の奥さんの手回しで、
特別に本人に会える予定になっていた。
ファンだったら大泣きしてしまう場面なのかもしれないが、
僕は覆面の正体には興味がないし、
別に会いたいとも思っていなかった。
つき合いで行くに過ぎなかった。

上野駅から歩いて、僕たちは東京都美術館にたどり着いた。
まだ開館時間のだいぶ前だったが、入口には長い列ができていた。
猛暑のため熱中症の危険を考えて、
入場時刻を繰り上げるかもしれないなと阿部がいっていた。
僕も猛暑でぐったりしていて、正直なところ帰りたかった。

そのとき僕の電話が鳴った。
経営しているラーメン屋からだった。
詳しくはわからないが、客とトラブルになったらしかった。
「阿部、申し訳ないんだが、僕は帰る。店でトラブルが起きた」
僕は上野駅のほうに歩き出した。

すると、阿部が僕の肩をつかんで、
「ちょっと待て。俺の顔を立てろよ。
いくらも時間はかからない。すぐ終わるさ」
といった。
彼の表情は険しかった。

僕はあきらめて、美術館のほうに向き直った。
事前にもらっていたバックパスを、僕たちは首にぶら下げた。
警備員にそれを見せ、裏口から入って控え室に向かった。

興味がなかったはずだが、そういうプロセスを踏んだおかげで、
緊張と期待感に包まれている自分を発見した。

控え室には阿部の奥さんがいて、資料に目を通しているところだった。
僕と阿部に気づいた奥さんは、素早く立ち上がって、
「いつも阿部がお世話になっております」
といって頭を下げた。
僕も挨拶を返して、奥さんから覆面アーティストの資料を受け取った。

覆面アーティストはすでに控え室にいると思っていたので、
僕は拍子抜けしてしまっていた。
やはり、さっき電話があった時点で帰っていればよかったなと思った。

持病の腰痛をこらえながら、
ブルーの背もたれのパイプ椅子に腰を下ろして、
僕は資料を読みすすめた。
奥さんに、
「女性なんですか」
と聞いた。すると、
「そうなんだよ」
と阿部が奥さんの代わりに答えた。

性別くらいは奥さんから聞いて知っていたのだろう。
阿部は特に何の感情も示していないようだった。
僕はさらに資料を読みすすめた。
そこには簡単なプロフィールが書かれていた。

2000年、埼玉県に生まれる。33歳。
6歳の頃に病気で母親を亡くし、父親の手で育てられる。
幼少の頃からひとりの時間を絵を描いて過ごし、画家になる夢を抱く。
文系の大学を卒業後、夢を諦められずに美大への進学を希望。
経済的な理由のため、20歳の頃から性風俗店に勤務。
美大を卒業後、経歴を明かすことに抵抗を感じ、
覆面アーティストとして活動する。

「――誰だかわかったか?」
阿部が情けない声を出した。
自分の計算は何の役にもたたなかったという調子で。

僕はそのときすでに涙を流していた。
みっともないのはわかっていたが、涙が止まらなかった。
ポケットを探ったとき、ハンカチを落としたことを思い出した。

僕はやけになって涙を流し続けた。
鼻水も流れ出してきた。
「こんなバカみたいな話があるか――」
僕は涙声で阿部にそう訴えた。

そのとき、入口のドアを開けて、女性がせわしなく入ってきた。
すこし挙動不審とも思える、ひょこひょことした動作で。

黒髪ショートの前髪ぱっつん。
まだ幼さをそこかしこに残した、美しい女性。

彼女に間違いない。
目の前に元気な姿でいることがたまらなく嬉しかった。

彼女は僕が昔の客だとは気づいていないようだった。
昔トレードマークにしていた帽子をかぶっていなかったせいかもしれない。
気づかなかったのは、彼女にとってしあわせだったかもしれない。

彼女は僕たちに挨拶をした。
そのときの髪の揺れかたは、あのころとまったく変っていなかった。
髪の色も、髪質も、癖のある前髪も、まったく変っていなかった。

彼女はあわてたような仕草でバッグを探り、
ステンレスの名刺ケースから名刺とペンを取り出した。

名刺を裏返し、ケースを台にして、立ったまますらすらとイラストを描いた。
当時と変わらない、可愛らしいタッチの、
3人それぞれの似顔絵が書き上げられていた。

彼女はそれをひとりひとりに手渡した。
最後に僕に渡してくれたとき、
僕は激しい感動に包まれ、涙が頬を伝って床にぽたりと落ちた。
13年の時を経て、僕は10枚目のカードを手に入れたのである。

「すみません、もう会いたくてしょうがなかったらしくて」
うつむいて泣き続けている僕を見かねて、阿部が彼女にそういった。

その言葉の本当の意味を、彼女が知ることは永遠にないだろう。

僕が会いたかったのは、覆面アーティストじゃない。
13年間想い続けた、君自身なんだ。

涙を拭き納めた僕は、彼女と握手をした。
これからは知り合いとして彼女を応援しよう。
そう心のなかで誓った。

360兆分の1

確率は、確率でしかない。

360兆分の1

Yさん。
あなたにしあわせが訪れることを心から願っています。
偶然この小説を見つけてくれたら嬉しいです。
あなたの夢がかなうといいな。

七月の気だるい雨が降る日。
男梅サワーを飲みながら。

360兆分の1

片想いの風俗嬢に捧げる半分実話の恋愛小説。 行方知れずになってしまった風俗嬢に再び会えるのか? 確率は360兆分の1。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-08-21

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