紫萬と岩城の儚 1️⃣
紫萬と岩城の儚 1️⃣
-クライングママ-
薄墨を引いたような店内には気怠いジャズが流れている。カウンターに腰を置いた磐城があるウィスキーの銘柄を言うと、「創業者は反戦で天皇制に反対していた人なんでしょ?」男が頷く。「北の国の妖しげな琥珀色なんだもの。私も好きだわ」と、女が棚からボトルを取り出しながら呟いた。青紫のドレスのスリットが豊潤な太股に妖しい亀裂を創る。
ありきたりの挨拶を交わして乾杯をすると、女は紫満だと名乗った。本名だと言う。男も磐城だと告げた。
精悍な雰囲気を放ってはいるが尖った感じはしない。辺りを包摂する様な静かな男だと、女は感じた。しかし、淡く色のついた眼鏡の奥の眼光が鋭い。凡庸な男ではないかもしれないと、女の関心が募った。
暫くの沈黙の後に、女が、「あなたって迷い鳥みたいな人ね」と、ウィスキーを含みながら、「ここは、この国でも稀な原発城下町と言われてるのよ」「日頃から原発推進派と反対派で激しく争っているの。今どきでも村八分もあるし。離婚したり町を離れたりするのは珍しい事じゃないわ」「あげくに、今は町長選挙の真っ只中なんだもの。特に今度は凄まじい泥仕合なんだわ」カウンターの端にあるビラに男の視線が届いた。
「凄い内容なのよ」男がビラを引き寄せる。
『決定的瞬間を激写』『背徳町長は去れ』などの語句が乱舞している。写真が激烈だ。「凄い写真でしょ?。もちろん合成だわ。それにしても、こんなものを選挙のビラに載せるなんて度が過ぎているわ」「どう見たってフィラチオをしているシーンでしょ?」「そうだな」「揚げ句に文章がふるってるんだわ。巨根で古参女性職員を籠絡かって。でも、良く見ると女がしゃぶっているのは男根じゃないのね」
「原発立地六市町村のリーダーといわれる現職町長が三選を目指してるの。でも、彼はそもそもは進歩党に所属していて、原発には強硬に反対だったのよ。県会議員を辞して町長選に立候補して当選した途端に、推進派に転向したんだわ。沸騰する批判や保守派の怪訝に対して、現実への転身だと言い放って憚らない。F町はいうに及ばず、原発立地自治体の政治地図に激震が走ったの。進歩党はもちろん保守勢力も分裂したわ。県内はもとより、とりわけF町の原発を巡る世論は、更に複雑なモザイク模様を描く事となったんだわ。こうした情勢で、常に公認候補を出してきた改革党が今回初めて無所属の候補を推薦したの。進歩党の大半と保守の一部も推薦して、町を二分する稀に見る激突の構造になったんだわ」「原発を誘致してからというもの、この町は魑魅魍魎に取りつかれたんだわ。まるで怪しげな檻に閉塞されているみたいなんだもの」「あなたも捕らえられて幽閉されるかも知れないわよ」
女がトランプを取り出して、「カード占いをするのよ。あなたの事、当ててみましょうか?」と言う。男が頷く。慣れた仕草でカードを切って一枚を抜き出して、「仕事は、…政治関係だわ。……でも、議員ではないし。…秘書?…文才?…そうだわ。政治部の記者ね?…どう?」と、男を覗き込む。「どうしてそう思うんですか?」「そういうカードが出たんだもの、としか言いようかないんだけど。どう?」「当たらずとも遠からずかな。隠すつもりはない。フリーのジャーナリストです」
「あるいは、この町の選挙を取材しに来たのかしら?」「まあ…」「そうだわね。不謹慎だけど、原発を巡って狂騒する状況は、ある意味、岡目八目の世間では面白いものね」「そういう事じゃない」「ある事件を追ってきたらここに辿り着いたんだ。町政の混乱を揶揄するつもりはない。原発は嫌いだが」
さらに、女がカードを繰る。「孤独を象徴するカードが出たわ。…係累がいないんだわ」「そうかもしれない」「滅多に出ないカードよ。私もそうなの」
「私は被爆者なの。広島で。ニ七の時よ」「「原爆は嫌だけど原発は平和利用だからいいと言う人たちがいるでしょ?広島の被爆者団体ですらそうだわ。私、そういうのは許せないの。原発も同類だわ。そうでしょ?」「その通りだ」「嬉しいわ。同志に出会えたみたいな気がする」
女がもう一枚のカードを抜き出して、「あなたは離婚したのね?。子供はいないわ」「でも、あなたの周囲で女性のエネルギーが騒がしいのよ。きっと、女難の相だわ」
-岩城-
「どうして原発が嫌いなのかしら?」「安全神話に疑問があるんだ」「どういうこと?」「原発を今の科学技術と携わる人間の能力で完璧に制御できるとは、到底思えないんだ。実際、ケアレルミスや不祥事が相次いでいるだろ?」
「そうよね。だからS知事も怒って。経済省の中にある原発管理院を独立すべきだと主張してきたんだもの」「そうだ。しかし、彼は収賄罪に問われて逮捕されてしまった。全面否認はしているが間違いなく起訴されるだろう」「真偽はどうなのかしら?」「原発推進勢力、とりわけ、電力会社にはめられたんだ。Kというゼネコンもぐるだ」「そういう事だったのね」
「だが、最も暗躍しているのは電力会社の労組なんだよ。全日本原発労働組合連合、原発労連という。これが原発問題の最大のガンなんだ。諸悪の根源と言っていい」「初めて聞く話だわ。詳しく教えて」
-労働組合-
「一九一七年にロシア革命が起きて社会主義思想が世界に広まった。革命の主体は労働者、労働組合というものだ。当然に世界の資本主義国は警戒した。ヒットラーもこの国の軍事政権も労働組合を弾圧した」「戦後、アメリカの労働者保護の占領政策で雨後の筍の様に労働組合が結成された。労働組合の組織率は今は一五%程度だが当時は六〇%だ。全国組織の総労が結成され、『昔陸軍、今総労』と言われる程に力を持った。進歩党などは『総労の政治部にしか過ぎない』と揶揄されている程だ」
女が煙草に火を点けた。「総労は官公労主体の組織だ。指導部を掌握していた革新左派は革命を指向してゼネストを企てた。驚愕したアメリカがレッドパージを実施して幹部を追放した。その背後ででっち上げたのが松山、四鷹、下川事件だ。松山事件はこの県が舞台だ」
「国家や資本と真っ向から対決した総労に対抗したのが民間を主体に組織された労盟。労使強調を基本とした。進歩右派、後の改良党が指導部を握っていた」
「総労、労盟のどちらにも荷担しないとして中立会議と全新労も結成された。労働四団体というんだ」
「総労の方針は鉄道や郵政などの公労会議の最左派が決定権を握って労使対決が原則だ。だが、民間の労使関係の基本は労使強調なんだ」
「そんな状況で、労働界は原発の是非と利権を巡って四分五裂しているんだ」「とりわけ、原発が集中するこの県は北国電力労組委員長の羽合という怪物のような男が、絶大な力を隠然と振るっているんだ」「その男と因縁があるのね?」「そうだ」「いいわ。協力する」
-ブルース-
「ハッピー・アメリカって知ってる?」男が頷くと、「南北戦争の頃の南部の黒人歌手だわよね。伝説の人。七歳の時にアフリカで狩られてアメリカに売られて。南北戦争で解放されたの。それからアメリカを代表する歌手になったんだわ」「彼が創ったと言われている『私の朝』って歌。マイフィバリットスィングの原曲と言われている歌よ」
女がレコードを変えた。ハスキーの特徴的な声で気だるいいブルースが流れてきた。「この歌がそうだったのか?」「そうよ。歌い手を知ってるでしょ?」「Fだろ?」
~私の朝~
私にはいっぱいある好きなもの。
虚ろに目覚める朝。緑にむせかえる風。五月の蘇る太陽。煌めく生命の精。
みんなみんな大好き。
潜む故郷の大陸の叡知、民族の深い思索、鋭い分析、堂々たる原理、的確な論理、冷厳な哲学、知的好奇心の充足。充足した日々
。
私にはいっぱいある好きなもの。
みんなみんな、大好き。
でも、私は孤独。
懸命な準備と楽観。確かな展望。同胞と指差す希求。
人民、権力の横暴と闘う人、反骨の人々、労働者の団結。
反逆者、革命家、社会活動家、冒険家、善き親、類への信頼。
私は孤独。
でもいっぱいいっぱいある、好きなもの。みんなみんな大好き。
青き風、光る海、お喋りな波、異国の船、亡命の汽笛、生まれたての5月、豊潤な夏。
かぐわしい煙草、土、果樹、陶器。サングラス、旬の食べ物。
私にはいっぱいある、好きなもの。
みんなみんな、大好き。そして孤独が大好き。
ジャズ、メタセコイヤ、笑顔、ウィスキー、季節の最中の花。
私にはいっぱいある好きなもの。みんなみんな大好き。何よりも孤独が好き。
「FはF村の人なの。私は隣町に縁があったのよ。彼女は三一の時にアメリカから帰ってきて衝撃のデビューで。ブルースの女王といわれたんだけど。二曲だけを残して心中したんだわ。三ニだった。相手はFを追ってきたのか、彼女が呼び寄せたのか。黒人の老人だったわね?」
ウィスキーを喉に納めた男が表情を固くして言った。「二人はどんな風な死に様だったか、知ってる?」「秘匿されて報じられはしなかったけど。知ってるわ。ファンの間では密かに語り継がれた話だったもの。でも、彼女は奔放な人だったから、想像に任せた他愛のない流言だったのかもしれないわ」「言ってみて」「厭よ」「どうして?」「だって…」 「奇っ怪な話を教えてあげようか?」「あの事件を担当した刑事と知り合いだったんだ」「心中の?」「そう」「まあ。本当なの?」「詳しい話を知りたくない?」「そうね。どこまで知ってるの?」「全て。聞きたい?」「聞かせて」
女が、「…だもの店を閉めるわ」シャッターを下ろし終えた女が男の隣に座った。
-硬直-
「死因は睡眠薬だった」「やっぱり」「二人は性交したままで死んでいたんだ」「本当にそうだったの」「それだけじゃない。男のが勃起していたんだ」「勃起?」「そう」「どれくらい時間が経っていたのかしら?」「死後二日」「ニ日?」「そう」「そんなことってあるのかしら?」「極めて稀な事例らしい」
「どうしてそんなことになったのかしら?」「ある高名な法医学者が分析したそうだ」「どんな?」「睡眠薬が回って、死の瞬間か、或いはその後も勃起していて死後硬直したか、或いは…」「何なの?」「女が死の瞬間に膣収縮をおこして勃起を固定してしまったんじゃないかという、いずれにしても仮説だ。真相は全く解明されていない」
「さらに驚いたのはその遺品だったんだ」女は新しく水割りを作ると流し込んで、「喉が乾いたわ」「何があったの」と、続ける。
「膨大な写真とフィルム」「どんな?」「二人の性戯の記録だ」「その刑事が悪い奴で写真をくすねていたんだ」「まあ」「そのうちの一部を譲り受けた」「えっ?写真をどうしたの?」「刑事からニ〇枚を買い取って、俺が持っているんだ」「本当なの?」「ここにある。見たい?」「是非見せて欲しいわ」
男が旅行鞄の中から封筒を取り出して女に渡す。女が写真を取り出して見始めた。みるみるうちに顔が紅潮する。煙草に火を付けて、ウィスキーを含んだ。長い沈黙が続いた。「黒人の写真はないわね?」「刑事は持っていたけど必要がないから買わなかった」「逆に言うと、この写真は必要があったから、お金を出しても手に入れたって事なのね?」「まあ、そういう事になるかな」
「その訳を知りたくなってきたわ」「どうして?」「だって。こんな写真を見せるんだもの。私に対して何か思うところがあるんじゃないかと感じたの。違うかしら?」「未だ話せないんだ」
(続く)
紫萬と岩城の儚 1️⃣