天使のいる構図
天使の街――中立都市・アングレカムはそう呼ばれていた。この街には確かに天使がいる。正確には、天使と呼ばれる少年たちが。美しい声を持つ少年は《天使》として選ばれて、都市の中心部にある白き塔で育てられる。《天使》は神の声を、神の恩寵をこの世に運ぶ存在と言われている。
けれど、《天使》であれる時間は恐ろしく短い。その時が終わったとき――少年が成るのは人間なのか、それとも。
*
「アスター、時間だぞ」
「うーん……あと五分……」
「もう街のみんな集まってるから」
アングレカム市の昼の礼拝が始まる直前はアスターの午睡の時間である。アスターは真珠のように白い肌に何も身につけずに、白いシーツの中に体を潜り込ませるようにして寝ていた。ネメシアは溜息を吐く。アスターは「あと五分」をかれこれ五回は繰り返している。
「もうみんな来てるんだって!」
いつの間にか寝起きの悪いアスターを起こすのはネメシアの仕事になっていた。同じ日にこの白き塔に連れてこられた二人は何かと一緒に扱われることが多かった。主に、頼りないアスターの尻拭いをネメシアがさせられている形だ。
ネメシアは乱暴にシーツを剥いで、アスターの膚をあらわにする。陶器のように白く瑞々しい膚。塔の《天使》たちの中で一番美しいと言われるアスターの生まれたままの姿に、ネメシアは思わず生唾を飲み込んだ。
「ネメシア、服取って」
「仕方ねぇな……」
《天使》の着る服は決められているから、引き出しの中のものを上から適当に取り出したとしても問題はない。ネメシアが寝台の上に投げた服を着て、アスターはゆっくり立ち上がった。
「ふぁ……まだ眠いや……」
「歌えるか?」
「歌は大丈夫なんだけど」
むしろ寝起きでよく歌える、とネメシアは思った。ネメシアは入念に発声練習を済ませたあとでなければ街の人を満足させるような歌を歌うことはできない。アスターはまるで本当に天使であるかのように、いつでも美しい声を出すことができるというのに。
アスターがただ美しいから評価されているだけなら、ネメシアにも思うところはあっただろう。けれど歌でも勝てないとなるともう黙るしかない。それに塔の外の人間に評価されることは、必ずしもいいことばかりではない。
「よし、準備できた。行こ」
自分はさっきまで夢の世界だったくせに、準備ができたらネメシアよりも早く部屋を出る。塔の螺旋階段を駆け上がって、頂上に作られた舞台を目指した。
街の人間が手を合わせて祈りを捧げている。《天使》は天と地を繋ぐ存在。地の声を天に届け、天の恩寵を降らせる。今日の祈りの始まりは、ネメシアの歌う人間の歌からだ。
歌いながら、ネメシアは喉に僅かな違和感を覚えていた。いつもと同じように体を使っても、届かない音がある。それはほんの少しの違いで、おそらく祈っている人たちは気付いていないだろう。けれど――アスターの耳はごまかせない。天の恩寵を歌う彼は、ネメシアの声と重なる出だしの音をほんの少しだけ下げた。
アスターの薄紫の目がネメシアを見つめていた。おそらくもう知られてしまっただろう。ネメシアが《天使》でいられるのは、きっとこの夏限り。そして《天使》ではなくなった子供がその後どうするのか、ネメシアは何一つ知らされていなかった。
昼の礼拝が終わる。ネメシアは部屋に戻ろうとするアスターを呼び止めた。
「俺に気を遣うな」
「さっきのこと? 違うよ。僕は和音が綺麗に聞こえる方を選んだだけ」
「でも、気付いてるんだろ」
「まあネメシアもそういう時期かもね。僕も――《天使》でいられるのはこの夏で終わりかも」
アスターは自室のドアを開けて、着ていた服をまた脱ぎ始める。アスターは寝るときはいつも裸だ。また寝るつもりなのか。
「アスターはまだ始まってないだろ、声変わり」
「自分としては、結構歌ってて違和感あるよ」
それは《天使》が少年に限定されている以上、必ず訪れる終わりだった。稀にほとんど声変わりせずに大人になる《天使》もいたらしいが、それでも声が少年の声でなくなれば《天使》ではいられなくなる。けれどアスターの声はまだまっさらな天使の声だ。
「《天使》じゃなくなったらどうなるか、ネメシアは知ってるの?」
「知らないけど」
「僕も知らないんだ。多分誰も知らない。でもおかしい話だよね。五歳までは僕たちは塔の外で生きてきた。それなのに元天使に会ったことはないんだ」
ネメシアは目を瞠った。確かにそうだ。この街には《天使》と呼ばれる少年たちがいて、彼らは声変わりを迎えると《天使》の役目を終える。だとしたら大人になった元天使がいるのが普通なのではないか。それなのに、一度もその話を聞いたことすらない。
「《天使》でなくなっても普通に生きていけるなら、その話が聞こえてきてもおかしくはないでしょ? でもそうじゃないってことは――僕たちは、きっと幸せにはなれないってことだよ」
「そんな……もしかしたら、秘密にしてなきゃいけないとか、そういう」
「じゃあネメシアにはお父さんっていた?」
「お父さんって、神様のことじゃないのか?」
そう教えられてきた。けれどアスターは悲しそうに首を横に振って、《天使》の服をしまっている棚の底から、一冊の本を取り出した。それはアングレカムの祈りの歌だけで使われる、もう《天使》にしか理解できない言葉で書かれていた。アングレカムの歴史。かつて男を憎んだ女性たちが、男を排して作った楽園――そこに書かれていたのはにわかには信じがたいことばかりだった。けれどアスターはこれを信じているのだろう。ネメシアはそっと本を閉じる。
「女の人だけじゃ子供はできない。なのにこのアングレカムの街に大人の男の人はいないんだ。でも僕たちが生まれてきたということは、神様ではない男の人がどこかにいるってことじゃないのかな」
「そんなこと……信じられない」
「まあ、そうだよね。僕もこの本に書いてあったことが本当かどうかはわかってない。でもね」
――天使でいるの、疲れちゃった。
アスターはネメシアの耳元で囁いた。ネメシアは驚いてアスターの顔を見つめる。アスターは今まで見たことのない、天使とは思えない顔をしていた。
「ネメシアは疲れないの? ずっとここに閉じ込められて、歌だけ歌わされて、他には何もできないの」
「俺は……」
「みんな僕のことを褒めるけど、なんだかその目が気持ち悪いって、僕はなんなんだろうって、思ってたんだ」
ネメシアは目を伏せた。アスターは《天使》の中でも塔の外の人間に人気がある。そして彼女らがアスターに向ける目は、神に祈っているとはとても思えないものだった。その正体をネメシアは知っている。生まれたままの姿を恥じらいもなく晒しているアスターを見たときに、その美しい体が視界に入るたびに、湧き上がってくる《天使》のものとは呼べない感情――それは「欲」だ。
「ごめん、アスター。俺はお前のことを――」
「ネメシアのは平気なんだけどな。何でだろうね」
「……気付いてたのか」
「ネメシアはわかりやすいもん。でもそういうところが好きだよ」
「好きって、お前」
何かを言わなければ――ネメシアはそう思って呼吸を紡ぐけれど、言葉が出てこない。好きとはどう意味なのだろうか。単なる友情でないことは、アスターの目を見ればわかる。
アスターは、何も言えずに口を開けたり閉めたりしているネメシアに向かって笑みを浮かべた。そして色の白い左手をネメシアに差し出す。
「ネメシアは――僕と悪魔になってくれる?」
アスターの左手の薬指の爪は、葡萄酒の色に染められていた。
「悪魔って……それにその爪は」
「意外にみんな気付かないよね。こんなことをして歌ってるのに、僕の声を天使の声だなんて」
「……悪魔になりたいのか、アスター」
葡萄酒の色に爪を染める。それは神に与えられた体に手を加えることで、《天使》には許されないことだった。今すぐこの塔を追われてもおかしくない大罪。けれどそれに誰も気付かなかった。ネメシアも、アスターの歌を聞いた街の人も、アスターが罪を犯していたことには気付かなかったのだ。彼が、そんなことするはずないと思っていたから。
「だって人のために祈って、塔の外の人たちとは全然違う生活を送らされて、声変わりしたら放り出されるなんてあんまりだと思わない? 好きで大人になるわけじゃないのに」
「それはそうかもしれないけど」
「別に歌なんて歌いたいわけでもなかった。それなのに天使の声だなんだって……結局、みんな僕の声しか見てなくて、僕自身のことなんてどうだっていいんだ」
「そんなこと……」
アスターは《天使》の服が入っている引き出しの奥から黒い服を出した。アスターがそれを身につけると、逆にその肌の白さが際立つような気がした。ネメシアは息を呑んでその様子を見つめる。
アスターが深く息を吸い込み、普段とは違う深く低い声で歌い始める。ネメシアは目を瞠った。それはいつも歌う祈りの歌とは全く違うどころか、それを全否定して真っ黒に塗りつぶしてしまうくらい――美しい歌だった。
ネメシアはアスターに手を伸ばした。天使でも悪魔でも構わない。ずっと欲しいと思っていた。その声が? その体が? いやそれらを含んだ全てが欲しかった。
今この手を掴まなければ、アスターが遠くに行ってしまうような気がしていた。けれど肌が触れているはずなのにアスターはいつもより遠くにいて、その理由がネメシアにはわからなかった。
呆然としながらネメシアは歌い続けるアスターを見つめる。歌っているのは呪いとしか呼べないものなのに、その歌声はあまりにも澄んでいて、深い響きを持っている。複雑な音色は《天使》のままでは出せなかった音だ。喉元で何かがざわめいている。高音はもう掠れるばかりの声でも、この歌なら――。
偽りの幸せ
偽りの楽園
翼なきものの穢れなき世界
泡沫と消えた天使の声に蝕まれ――
アスターの声と調和するように、ネメシアら自分の音を重ねる。普段の祈りの時間には味わえないような、頭の芯が痺れるような感覚に襲われた。
(これが味わえるなら、悪魔になってもいい)
《天使》には出せない声で、二人は音を重ね続ける。二人はどちらからともなく部屋を出て、歌いながら塔の頂上を目指す階段を昇り始めた。
「っ、はぁ……アスター、お前よくそんな歌いながら階段昇れるな……」
「無理しないで歌ってるから全然余裕だよ」
頂上にたどり着いた二人の耳に届いたのは、先程は自分たちの歌を聴きながら祈りを捧げていた人たちが、掌を返して自分たちを悪魔と罵る声だった。ネメシアはそれを一瞥してから、アスターに言う。
「どうするんだ、これから」
「大丈夫。あれを歌ってしまったら、僕たちはもう悪魔だから」
アスターは塔の外、虚空へ飛び込むように身を投げる。アスターは一瞬躊躇うネメシアの手首をその左手で強く引いた。葡萄酒の色に染めた薬指の爪がぼんやりと光り始める。
そのとき――重力に抗って、二人の体はふわりと浮いた。
「悪魔って、何すればいいんだ?」
「とりあえずはこの夏を超えて、二人とも生きればいいんだよ。それで、そのあと幸せになるんだ」
誰も《天使》のその後を知らない。大人になった男たちがどこに行くのかを教えられていない。大切なことを隠して成立する美しい街に殺されてしまう前に、天使を捨てて、二人で生きよう。
ネメシアはぼんやりと光るアスターの薬指の爪に口付けをした。紡ぐ呪いの歌は今までのような澄んだ声ではないけれど、胸に響かせる、赤く燃える炎のような深い音色だ。
*
《天使》の行く末を誰も知らない。
祈りのために白き塔に押し込められ、歌だけを教えられて育つ少年たちが大人になったとき、何が起こるのかを隠している。
そんな美しく歪んだ街に、その中央に建つ塔の中に、いつしかある噂が広まっていた。
《天使》でいられなくなるそのときに、天使だった少年を迎えに来る悪魔が現れる――と。
天使のいる構図