先生が好きです。

蒼生 純

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1

八月上旬。世間は夏休み真っ盛りでレジャーだ旅行だと楽しそうだが、大学生の夏休みはまだもう少し先。担当教員の深見佐織は授業の教室へ向かう途中でチャイムを聞き、慌てて廊下を走った。階段を上りきり教室に入ると、空調の涼しい空気がふわっとかかり、首筋に伝う汗を冷やす。教材やレジュメが入ったプラスティックのかごを机の上に置くとハンカチで汗ばんだ手を拭ってから解答用紙を手に取った。
「テストを返却します。右上に書いてある数字が三十五未満の人は来週再試を行います。同じ範囲をもう一度しっかり復習しておいてください」
水曜日の一限目。教育学部児童教育学科の発達心理学も今日で最後。先週行った前期末試験のテストを返却する。大学生にもなるとテストを返却しない授業がほとんどだが、佐織のように全員に返却する教員もいる。学籍番号一番から順番に一人ずつ名前を呼びながら流れ作業のように答案を手渡していく。
「石川さん」
「はい」
「上村さん」
「はい」
「大槻さん」
「はい」
大槻若葉と書かれた答案には赤い丸つけペンで大きく点数とA +という評価が書かれていて一際目を引く。最高評価のAの中でもさらに上の文句なしの評価。成績は優秀なようだ。最近の学生は合否以外の部分には興味がないようで点数を確認するとさっさと答案を片付けてしまった。大学で教鞭をとって四か月。最近の学生はドライだ。勉強に対しても、人間関係に関しても。成績は単位を落とさない程度に。友達は学校生活に困らない程度に。そういう学生が多いように思う。それが悪いとは言わないが、佐織は自分が学生だった頃を思い出してギャップを感じる。ほんの数年で変わってしまったのか、それとも佐織が知らなかっただけで大学生とは本来こういうものなのか。
「高橋先生からプリントを預かってきたので配ります」
他の先生から渡された行事のお知らせのプリントを配って授業は終わり。少し早いが、大学の授業はルーズなもの。今日の範囲は終わっているのに学生を引き留めるほど佐織は時間に厳しくない。プロジェクターとパソコンの電源を切って片付けると荷物をまとめて教室を出た。
「深見先生!」
室内用のスリッパからパンプスに履き替えたところで一人の学生に呼び止められて振り向いた。人の顔や名前を覚えるのは得意ではないが成績がいい子は記憶に残る。大槻若葉だ。手には先ほど配ったプリントを持っている。
「余ってました」
「ああ、ありがとう」
佐織がプリントを受け取ると若葉はさっさと踵を返して戻っていった。何かかける言葉があるわけではないが、これもまた最近の子か、と感じる。けれどあまり多くの言葉を交わしたくない佐織にはそれくらいがちょうどいい。

佐織が今年赴任してきたこの美善館大学は五年ほど前にできたばかりの新設校。小規模な学校であり、近隣のほかの大学に比べると学生数はあまり多くない。佐織はここで教育学部の学生を中心に心理学を教えている。水曜日の二時間。一限の講義を終えたら研究室に戻り、三限の他の講義の時間になるとまた教室に向かう。教育学部の発達心理学、全学共通の選択科目である心理学など。新任といえど、決してその仕事は少なくないのだ。そうこうしているうちに次の講義の時間が差し迫り、教材や機器を抱えて研究室を出た。
「あ、動いた!」
「生きてるんだ」
外で誰かの笑い声が聞こえる。研究室のドアを開けてすぐ、白いトートバッグと黒いリュックのうしろ姿が目に入った。廊下の隅に学生が二人座り込んで、何か夢中になって見ている。ドアが開く音を察したのか、二人はこちら側に振り向き、挨拶をしてぺこりと頭を下げた。一人は若葉。もう一人は幼児教育学科の上條れな。他学科にも関わらず昼はよく一緒にいる姿を見かける。幼い頃から大学まで一緒の幼馴染らしい。二人の目の前には大きめの虫かごに水が張ってあり、中には赤いザリガニが四匹ほど動いていた。幼児教育学科が授業でザリガニを釣ってきたと噂には聞いていたが、まさか学校飼われているとは思わなかった。二人で水槽の前にちょこんと座っている姿はまるで子どものようだ。親のような気持ちになってしばらくその場を眺めていたかったけれど、授業に遅れてはいけないと佐織はその場を後にした。
「若葉ちゃんがザリガニ見に行こうなんて、変だと思った」
佐織の後姿を目で追っている若葉を見て、れなは笑いながら立ち上がった。長い付き合いだからきっとすべてお見通しなのだろう。
「深見先生が好きなんでしょ」
若葉曖昧に笑ってごまかすと授業遅れるよ、と立ち上がってその場を離れていった。

その夜、急に話したいと呼び出されて、佐織は早めに仕事を切り上げた。呼び出しの相手は彼女。もう一年ほど付き合っているが、最近はお互い忙しいこともあってかあまり会えていない。それでもできるだけ会えるように時間を作る努力はしていた。約束の時間を少し過ぎた頃、佐織は呼ばれた場所に到着した。こんなおしゃれなお店に来るのは初めてだった。いったい誰に教えてもらったんだろう。窓際の席で優雅にワインを飲んでいる女性が佐織の彼女の菜月。菜月は佐織に気づくと手を振って居場所を知らせた。
「ごめん、遅くなって。片付けたい仕事があって」
「仕事忙しいみたいだね」
気遣うように優しく声をかける菜月の表情はどこか切なそうな雰囲気を漂わせていた。いつも一方的に喋るのは菜月の方だが、今日は極端におとなしい。元気付けようと思って佐織は必死に話題を探した。
「久しぶりだよね、予定合ったの。菜月はお仕事順調?」
「うん。相変わらず」
「そっか。もうすぐ前期終わるの。再来週からやっと夏休みだよ。休み増えるし、どこか出かける?」
「佐織。話があるの」
悪い予感を払拭するように出かけることを提案してみたが、意味はなかった。予感は的中してしまったのか。菜月の目がまっすぐ佐織を見る。
「別れてほしい」
察していた言葉に胸が貫かれるような痛みを覚えた。原因なんてわからない。佐織はただ久しぶりに菜月に会えると胸を弾ませてここに来たのだから。
「……なんで」
「佐織仕事忙しいんでしょ?会いたい時に仕事のせいで会えないって結構辛いから」
「だったらもっと時間作るよ。菜月に会えるように、わたし頑張るから」
「そうじゃない。結局佐織はわたしより仕事だったんでしょ。こっちが頑張って時間作っても佐織は合わせてくれなくて……」
「……ごめん」
必死に補おうと思って出た言葉は遮られた。佐織は初めて語られた菜月の本音にただ謝ることしかできなかった。確かに会議や研修があり菜月が作ってくれた時間に合わせられないことはあった。けれど、佐織は佐織で菜月に会う時間を作ろうと必死だった。それなのにどうして噛み合わなかったのだろう。
「佐織、職場に好きな人でもいるの?」
「いないよ!いるわけないじゃん」
「そんなに慌てなくても。まあ佐織結構人付き合いとか苦手だもんね」
楽しかった頃を懐かしむように菜月が笑う。大学生だった頃のようにお互い友達のままでいられたらこんなことにはならなかったのだろうか。いつまでも仲の良いままでいられただろうか。菜月はじゃあね、と言い残すと伝票を持って席を立ち、店を後にした。佐織の目の前には飲み干したワイングラスだけが残された。

2

「研修ですか?」
菜月に別れを告げられた翌日、教授から話を持ちかけられた。
「深見先生はまだ一人で研修に行かれたことはなかったですよね。これも経験ですし、一度行かれてみてはどうですか?」
授業に外部からの講師を招いて講義をしてもらうことはよくある話だ。その前にこちらから出向いて話を伺ったりすることもある。以前にも一度他の先生について研修に参加したことがある。今回はLGBTに関する内容らしい。LGBTの理解については家族や多様性やという意味で教育学部とは関係の深い内容だ。今回は一般向けの講演会だが、いろいろな講演会に呼ばれている県内では割と名の知れた団体のようだ。
「わかりました」
女性と付き合っているとは誰にも言っていなかったが、このタイミングでこの話を持ってくるとは神様も意地悪なものだ。予定を書き込もうと手帳を開けると指定された日付のところに花火大会と書き込まれている。このあたりで入り版大きい花火大会の日だ。去年菜月と付き合い始めて最初にデートした思い出の場所。今年も予定が合えば行けたらいいなと思っていたがもう叶わない。佐織は花火大会の文字を二重線で消して新しい仕事の予定を書き込んだ。

当日、受付でパンフレットなどを受け取って会場入るとまだ人はまばらだった。会場といっても大学の小さな会議室。きっと受付もこの大学の学生ボランティアなんだろう。教科書通りに着こなした黒のリクルートスーツがよく似合っている。会議室の中はまだ準備が整っていないようで、お揃いのポロシャツを着たスタッフがせわしなく机を並べたり椅子の数を数えたりしていた。少し早く来すぎたらしい。大人しく入口のドアの近くに小さくなって立ち尽くす。ばたばたと動き回っているのも学生ボランティアのようで、大人のような貫禄のある子もいれば、まだ高校生のような幼さが残っている若気な子もいた。
「こっちもう一つ椅子持ってきて」
「机通ります」
黙って立っているのが申し訳ないくらい忙しそうだが、来たばかり自分が何かできるわけでもないな、などと考えていると横から来た机を持った学生が佐織にぶつかった。
「あ、すみません!」
「こちらこそ……」
こちらを向いた学生と目があった佐織は驚いて言葉が続かなかった。学生もまた驚いたような面持ちでこちらを見ていた。学生ボランティアが必ずしもこの大学の学生とは限らない。他大学からも来ていることは決して不自然ではない。けれどまさかうちの学生が来ているとは思わなかった。目の前の学生には見覚えがある。揃いのポロシャツの上からパーカーを羽織った彼女は教育学部二年の大槻若葉だ。
「おと、花火、その机こっちだ」
「はい」
二人が返事をして持っていた机を再び運び始める。おとと花火。どちらがどちらかはわからないが、おそらくそれがあの二人を指す名前だろう。大槻でも若葉でもない。なら他人の空似なのだろうか。でも佐織だって半年間授業をして来た学生の顔くらい覚えている。しかもあの反応。間違いない。
「遅くなって申し訳ありません。どうぞ座ってください」
背の高い女性スタッフが佐織を席に促した。辺りを見回したが、若葉らしき姿は見えなかった。
「このように家庭や家族の形は多様化を極めており、その中には……」
仮にあれが若葉だとして、何も問題は生じない。ただ自分の大学の学生が他大学のボランティアに参加しているというだけだ。就職に向けてボランティア活動には積極的に参加するように声をかけているし、それ自体は大いに結構だ。では何が引っかかっているのか。佐織はチラシを見せられるまで講演の存在を知らなかったし、他の場所でチラシを見た記憶もない。大学ではこのボランティアの募集は行っていなかったのだ。若葉はどこで知ったのか。気になるのはそこだった。
「……以上で講演を終わります。ご静聴ありがとうございました」
一時間ほどで講演はおわり、書類をまとめて立ち上がった。若葉がボランティアに来ていたからといって何か自分が困るわけではない。疑問は残るが、今回はなかったことにしてしまうのが一番いいだろう。

バラバラッ
廊下に出た途端、抱えていた配布用の資料をばら撒いてしまった。やはり無理せずに往復するべきだったかと思いながら資料を拾い集める。
「大丈夫ですか?」
背後から声がしたかと思うと、隣から手が伸びてくる。顔を上げる通りすがりの若葉がばら撒いてしまった資料を集めてくれていた。
「ありがとう……」
「半分持ちましょうか」
「いいよ、遠いし」
そうはいうものの、焦って集めた資料は手の上からまた滑り散る。若葉は黙ってばら撒かれた資料を一枚一枚拾い上げていく。
「大丈夫です。時間ありますから」
佐織はせっかくだからお言葉に甘えようと、残った資料を持って立ち上がった。口数の少ない佐織の性格上、会話は始まらない。ゆっくりと歩きながら続く沈黙に耐えられず、やっぱり一人で運べば良かったかな、と佐織は少しだけ後悔した。隣を歩く若葉の佐織よりひとまわりほど大きい背丈、清楚できちんとした身なり、肩につくほどの長さの黒い髪。どこか雰囲気が菜月と似ていた。小学校の教員を目指す若葉はスクールカウンセラーの仕事をしている菜月とは何か似通ったものがあるのかもしれない。何気なく横顔を眺めていると、視線を察して振り向いた若葉と目があった。
「どうかしましたか?」
「いや、知り合いと似てるなって……思っただけ」
慌てたように照れて俯く佐織を見て何かを察したのか、若葉は少しだけ口角を上げた。
「もしかして付き合ってる人とかですか?」
「いや、そうじゃないんだけど、あの……前に付き合ってた人」
口下手で嘘がつけない佐織は誤魔化すこともできず、素直に答えた。予想外の返答に若葉は笑うことしかできなかった。
「先生正直なんですね」
顔も上げられない佐織の隣で若葉はただただ笑う。そして次の問いを投げかけた。
「彼女さん、ですか?」
「え……?」
佐織は戸惑っているが、若葉は動じていないさも当たり前のように尋ねてくる。
「どうして?」
「わたしそんなに中性的な見た目してないつもりなんで。さすがに男の子には似てないかなって」
どうやら若葉は何か知っているらしい。佐織は何か知られてはいけないことを知られてしまったようで、答えるのが怖くなって黙り込んだ。
「すみません。あまり気にしないでください」
佐織を追い詰めてしまったような状況に気づき、謝って一歩引いた。おどおどしていて口数の少ない佐織はいつも誰かとしゃべっていると負けごしになってしまう。
「大槻さんは、LGBT団体の関係者なの?」
震えそうな声で思い切って問いかけた。聞くなら今しかない。これであの日の疑問が解ける。
「週末のことなら、わたしはただの学生ボランティアです」
若葉はそれだけ言うと佐織が持っている資料の上に自分が持ってきた資料を重ねた。気づけばもう目的地の教室までたどり着いている。若葉は教室のドアを開けて佐織を中に促すと引き返していった。佐織はすごく長い時間を過ごしたような気がしてどっと疲れを感じていた。

3

夏休み。授業がなくてもサークルや課題のために学校に来ている学生はたまにいる。教員や職員たちも基本的には学校にいるため夏休みといえ特にいつもと代わり映えはしない。
こんこんこん
「はい」
ノックの音がして入って来たのは木瀬先生。研究室が近いこともあってか、新任の佐織をよく目にかけてくれている。
「甘いものどうですか。ゼミ生が持って来たのでおすそ分けです」
「わあ、ありがとうございます」
どうぞ、という前から入ってきている先生を招き入れてお茶を入れた。木瀬先生は甘いものが好きな佐織によく差し入れをしてくれる。そしてしばらく仕事を中断して話し込むのがいつもの流れだ。学内ではおしゃべり好きで有名な木瀬先生。一度話し始めるとなかなか止まらない。お喋り下手な佐織はただひたすら耳を傾けるだけでいいのでよく話を聞いていた。
「紅茶でいいですか?」
「紅茶しかないんでしょ。お任せしますよ」
佐織は紅茶が好きで誰か来た時はいつも紅茶を出している。研究室に来客用や休憩用にコーヒーを置いている人は少なくないが、佐織はコーヒーが苦手なので紅茶を何種類か置いている。
「いい香りがしますね」
「最近新しく買ったものなんです」
お茶が入るとお菓子をあけて前期の授業はどうでしたか、なんていつものように面談が始まった。佐織も佐織で真面目に答えることしかできずせっかくの休憩も仕事の話ばかりになってしまう。
「そういえばゼミ生で旅行に行くらしいんです。二年生のうちは時間がありますからね」
「いいですね。わたしも学生の頃よく行きました」
学生の頃なんてついこの間でしょ、と木瀬先生が笑う。大学生の頃、同じ学部に旅行好きの先輩がいてよく連れ回してもらっていた。おかげ様で地元民しか知らないような穴場スポットをいくつも訪れた。
「ゼミ室でキャーキャーいいながら観光地調べてましたよ。縁結びスポットを巡るらしいですけど、若いですよね。それで叶ったら苦労しませんよ」
「そうですね」
縁結びか、とアイスティーに口をつける。もうそんなものに頼る年頃ではない。大学の学びを追求しているうちに気づけばアラサーと言われる歳になってしまった。恋人に別れを告げられてしまったからには合コンでもして家族を作るいい機会なのだろうか。でも引っ込み思案な佐織にはそんなことできない。
「土屋先生って結婚されてますよね。いつされたんですか」
「さあ。土屋先生も今年来られたのでそこまでは。でも下の子がもう小学生ですからね」
興味ありますか、とふられて佐織は静かに首を振った。結婚はまだできない。相手がいないというのもあるけれど、まだ仕事を始めたばかりの新人。経済的にも時間的にも余裕はない。
「先生恋人でもできたんですか?」
「え?できてません。どうしてですか?」
「急に結婚の話なんてされるから。今までそんな話しされたことなかったでしょう」
「別にそういうわけじゃ……」
むしろ別れたばかりなのだけれど、誰もそのことは知らないだろう。次の恋人を作るには些か時期が早すぎる気もした。自分はふられた人間だ。まだ次の恋人をと考えられるほどは吹っ切れていなかった。

こんこんこん
「はい」
木瀬先生かな、といつもの調子で返事をすると控えめに失礼しますという若い声が聞こえた。学生だ。夏休みに何の用だろうと思っていると顔を見せたのは若葉だった。
「どうかした?」
「実習届にハンコをもらいに来ました」
夏休みの実習?と佐織は首をかしげた。夏休みなど長期休暇を利用して児童館や保育所などでボランティア実習をする学生は少なくない。その準備で学校に来ている子もたまに見かける。若葉はフリースクールにボランティアに行く予定で手続きを進めている。
「珍しいね、フリースクールって」
「近くにあったので」
フリースクールとは不登校の子どもが通う施設のことで、数が少ないことや認知度の低さから実際に通っている人は少ないらしいが、若葉が行くのは大学の近くにあるそれなりに大きな施設らしい。
「先生も行ったことありますか」
「あるよ。実習で」
「不登校って言ってもいろんな子がいるだろうし、普通に学校みたいに接していいんでしょうか」
佐織はカウンセラーの資格を持っているが、現場での経験は実習くらいのものだ。自信を持ってアドバイスはできないけれど、佐織は教えられる限りのことを若葉に伝えた。若葉は佐織の話に深く興味を持ったようで暇な時間を見つけては研究室を訪れるようになった。
「この辺の本も読んでみると面白いかも」
「すごいですね。こんなにたくさん……」
「そうかな。あ、紅茶飲む?」
「あ、お構いなく。紅茶ってあまり飲まないので」
「あら。飲めるのがあるかな?」
佐織はティーバッグの入った小さなかごを若葉の目の前に差し出した。
「コーヒーはないんですね」
「あ、ごめんなさい。わたしコーヒー苦手で」
少しの沈黙の後、どちらからともなく笑い声がたった。何が、というわけではないが何か可笑しくて、笑わずにはいられなかった。佐織が笑うのをやめても若葉はいつまでも笑っている。菜月と話していてもこういうことがよくあったな、と思い出して一瞬だけ表情を曇らせた。
「先生?」
「ごめんなさい、なんでもない。ちょっと思い出したことがあって」
「元カノさんですか?」
若葉はなんでもお見通しらしい。どうしてこんなに鋭いんだろう。佐織は黙って頷いた。
「本当に好きだったんですね。あ、まだ好きなのか」
「そうだね……」
佐織はカップを二つ用意して紅茶を入れた。比較的癖がなく、苦手な人でも飲みやすい紅茶だ。若葉はお礼を言ってカップに口をつけた。
「いい香りですね」
若葉は菜月も紅茶をあまり好んでは飲まなかったが佐織が入れると飲んでくれていた。そして一言香りがいいね、と呟いていた。味が苦手だから香りしか褒められないのだろう。若葉はどこまでも菜月と似ている。紅茶が飲めないところ、笑いだすと止まらないところ、なんでもお見通しなところ。佐織は頭の中で二人がだんだんと重なっていくのを感じていた。違うのは、菜月は佐織に別れを告げたけれど、若葉は佐織に興味をもっていつも会いに来てくれる。
「先生の元カノさんってどんな人ですか」
「どんなかな。面倒見が良くて明るい人」
「どこで会ったんですか」
「大学で」
「県内ですか」
唐突な質問に考えていると間髪あけず次々と質問が投げかけられていく。
「同級生ですか」
「どうしたの、急に」
食い気味に問い詰める若葉に反して佐織は怯えるように身を引いていた。若葉は冷静になって立ち上がった。
「……すみません。なんでもないです。電車の時間なので、もう帰ります。本、借りていきますね。ありがとうございました」
机の上に広げた本をと荷物を持ち上げると若葉は足早に研究室を出ていった。
「あ」
「あら、夏休みなのに熱心ですね」
研究室を出たところでおしゃべりの木瀬先生に出くわした。驚いて閉まりきっていないリュックのファスナーから仕舞おうとしていた本が落ちそうになる。借り物なのでぞんざいな扱いもできず、一度取り出して片手に抱えた。
「深見先生の本ですか?意外ですね、先生が学生に本を貸し出すなんて」
「そうなんですか?」
「几帳面ですからね。あまり人には本なんかを貸さないみたいですよ」
「へえ……」
確かに本は棚に綺麗に並べられていたし、一冊ずつ丁寧にカバーをかけてある。どの本も新品同様に綺麗だ。若葉には気になるのがあったら貸すよと快く渡してくれたが、他の人にはそうではないのだろうか。
「気に入られてるみたいですね」
「……先生って深見先生と仲良いですよね、よく一緒にいるし」
「なんですか急に」
「深見先生の……恋人ってどんな人か知ってますか」
「そんな話は聞いたことないですけど。どうかしたんですか」
「いや……なんでもないです」
若葉はさようなら、と挨拶をして逃げるようにその場を去った。その夜、若葉は大学のホームページを開いていた。先生たちの一覧が掲載されているページ。助教は一番下。深見佐織という名前をタップすると画面が変わって学歴や職歴、論文、実績などがずらりと並ぶ。学歴と書かれたすぐ下に卒業した大学の名前が書かれている。一行目には凛秀大学卒業、そして二行目、三行目にはそれぞれ飛騨学院大学大学院博士課程前期修了、博士課程後期修了とあった。若葉の家から程近い、有名な私立大学だ。
「頭いいんだなあ……先生も」

4

休日、佐織は家から離れた図書館に来ていた。坂静にある県内で最も大きい図書館。探していた本が家から近くの水速図書館にはなく、ここにならあると聞いて足を運んだのだ。院に通っていた頃は大学から近いこの図書館をよく利用していたが、卒業してからは来ていない。まだ半年しか経っていないのに懐かしく感じる。お目当ての本を探しながら本の背表紙をなぞって歩いた。見つけるのにさほど時間はかからず、他にもいくつか読みたい本を探した。
「佐織!」
その時急に背後から名前を呼ばれた。誰だろう、と振り返った佐織は驚いた様子で息を飲んだ。声の主は菜月。けれど図書館であることも考慮して小さな声で冷静に話を続けた。
「久しぶりだね。どうしたの?」
菜月は駆け寄ってくると嬉々として話しかけた。
「探してる本があるんだけど、大学にも水速図書館にも置いてなくて。ここならあるって聞いたから」
「そうなんだ」
「菜月は?図書館なんて珍しいね」
「友達に付き合ってるだけだよ」
「そっか。菜月は本あんまり読まないもんね」
からかうように佐織にいわれ、漫画は読むよ!なんて言い返す。二人とも少し前に別れたばかりだということも忘れて、久しぶりの再会を素直に喜んだ。
「いた!初雪さん!探しましたよ」
二人の話に花が咲いていた頃、菜月と一緒に来ていた友達が用事を終えて探しに来ていた。
「あ、ごめんね葵ちゃん」
「どこ行ったかと……」
思いました、と言いかけて言葉を失った。その視線の先にいる佐織もまた振り返った瞬間に言葉を失っていた。
「大槻さん……?」
「……こんにちは」
若葉はとりあえず挨拶をしたが、佐織は冷静に考えられないほど混乱していた。学生と教員が遭遇するだけでもあまりないことなのに、大学時代の友人と親しそうにしている。頭の中はハテナでいっぱいだ。
「あ、わたしもう行くね。本あったし。またね」
思い出したようにそう告げると佐織はくるりと背を向けてカウンターの方に走っていった。今この場で整理できる話ではない。とりえずこの場から離れよう。そんな気持ちだった。取り残された菜月もまた意味がわからず立ち尽くしていた。
「葵ちゃんは佐織と知り合いだったの?」
「深見先生、わたしの学校の先生です」
「本当に?そんなことってあるんだ……」
「初雪さんと先生は付き合ってたんですよね」
突如、攻め入った質問に菜月はすぐには答えられなかった。けれど沈黙は肯定。答えはイエスだ。
「先生の元カノは、初雪さんですよね」

それ以来若葉はなんとなく佐織の研究室に足を運びづらくなり、学校に来なくなった。夏休みなのでそれが普通なのだが、急に静かになったような気がする。佐織は心が落ち着かず、仕事が滞っていた。うわの空の佐織の様子を見て木瀬先生がゼミ生のお土産を持って研究室を訪れた。
「最近来ていませんね」
「誰がですか?」
「大槻さんですよ。この間まで夏休みなのに毎日授業かと思うくらい見かけましたけど」
「そうですね。実家にでも帰ってるんでしょうか」
「大槻さんは実家暮らしでしょう」
あからさまに頭が回っていない佐織の様子を見てどうかしたんですか、と本題に入る。
「大したことでは。大学時代の友人とうちの学生が知り合いでどこで知り合ったんだろうって思っていただけです」
「本人に聞けばいいじゃないですか」
「聞くほどのことでもないかなって」
「じゃあどうしてそんなに仕事に身が入っていないんですか」
そう言われると返す言葉がない。若葉と菜月のことが気になって仕事が手につかないのだから。でもそれを話すとなると知られたくないことまで話さなければならなくなる。若葉と菜月がよく似ていることは佐織も分かっている。きっと一緒にいれば気があうし楽しいだろう。二人は付き合っているのだろうか。だから自分は捨てられたのだろうか。考え始めるとぐるぐると思考が巡って止まらなくなってしまい、仕事を妨げている。気にしないのが一番いいのだろう。それは分かっているけれど、考えるのをやめられない。やめようとしてもまた二人が脳裏をよぎるのだ。
「考えてもどうにかなるものはなる、ならないものはならない。時間の無駄ですよ。地元の知り合いとか、親同士が知り合いとか、可能性はいくらでもあるでしょう。世間は意外と狭いものですよ」
「そうですね……」
確かに二人の地元は坂静と音嶋。隣同士で、場所によっては顔を見合わせることもなくはないだろう。
「わかっていると思いますが、教員は全体の奉仕者です。教育基本法では私立大学の教員にもこれは当てはまります。熱心なのはいいことですが、必要以上に学生について考える必要はありません。特別な関係には十分注意してください」
「特別な関係……ですか」
憲法では公務員にこれが定められているが、教育基本法ではすべての学校に定められている。私立学校も例外ではない。大学で教鞭をとる佐織もそのことは把握していた。
「どうして急に」
「大槻さんに特別な感情を抱いているんじゃありませんか?」
息を呑んだ。佐織自身もその想いに薄々気づいてはいたが、気づかないふりをしていた。認めてしまえば今まで通りではいられなくなる。関わることを意識してしまう。木瀬先生が言ったとおり、それは教員として許されることではないのだ。
「大丈夫です。そんなことはありません」
嘘のつけない佐織が、必死に嘘をついた。せっかくの仕事をやめたくない。いつも気に掛けてくれる木瀬先生に心配を掛けたくない。この事実がばれてしまえば佐織は一度にいろいろなものを失ってしまう。
「そうですか。ならよかったです」
木瀬先生の微笑みは優しかった。もしかしたら佐織の挙動不審さや普段の様子から本当は確信を得ているのかもしれない。けれどこの人は自分のいうことを信じて守ってくれる。そんな気がした。


「どこまで知ってるの?わたしと佐織のこと」
佐織と図書館で会って別れた後、二人はカフェに移動した。
「先生と初雪さんが大学院の同級生で、付き合ってたってことくらいは」
菜月はSNSで知り合った友人。若葉はずっと初雪というユーザーネームで呼んでいる。カウンセラーとして働いていると聞いていたから年上だとはおもっていたけれど、佐織と同い年だと知ったのは最近だ。佐織は大学院の博士課程を卒業して今年大学に来たので二十八歳。二人は二十歳の若葉より八つ年上ということになる。
「花火大会一緒に来てましたよね」
「花火大会?去年の?」
「そうです。覚えてますか?」
一年前の八月。若葉はれなと一緒に坂静の花火大会に行っていた。たくさんの人が来るこのあたりで一番大きな花火大会。そこに菜月と佐織も行っていたのだ。そのときは付き合っているなんて気が付かなかった。大学の同級生だと紹介されて納得していた。少し離れたところから見た佐織の横顔は今でも鮮明に覚えている。白い肌に似合う濃紺の浴衣と綺麗にまとめられた長い黒髪が印象的だった。
「よく覚えてたね。あの時はまだ佐織のこと知らなかったでしょ」
「かわいい人は初対面でも忘れないですから」
「狙ってたんだ」
面食いの若葉はかわいいと思って一度気になった子の顔は忘れない。暗がりの中、浴衣姿で出会った半年前はまさか教室で会うことになるとは思わなかった。
「好きなの?佐織のこと」
「好きですけどね」
けどね、に続く言葉は何だろうか。付き合えないですよ。本気じゃないですよ。そんなところだろうか。
「付き合う気はないの?」
「ないですよ」
迷惑かけちゃうから、と続ける。学生と教員が付き合うということになれば、ばれたら大変な問題になるだろう。佐織は優しいから受け入れてくれるかもしれない。けれどその分困らせてしまうだろう。
「葵ちゃんって結構慎重なんだね」
「好きだから。困らせたくないじゃないですか」
「好きなら伝えとくべきだと思うけどなあ。まあ佐織困らせるのもかわいそうだもんね」
そういう菜月はどこか悲しそうな表情をしている。若葉はずっと気になっていた疑問を一つ投げかけた。
「二人はまだお互いのことが好きですよね。どうして別れたんですか」
「私がふったの。佐織が仕事始めてから会える時間が減って。佐織の仕事の時間を奪いたくなかったけど、わたしより仕事なのが耐えられなくて。わがままでしょ」
菜月も佐織が嫌いになったわけではなかった。けれどあのまま一緒にいても菜月はだんだん時間を合わせてくれない佐織のことが許せなくなる。そうなる前に円満な関係に戻りたかったのだ。若葉は肯定も否定もせず、ただ黙って耳を傾けた。グラスの中で溶けた氷がカランと音を立てた。

5

夏休みでも特に予定の入ってない佐織は毎日短時間ではあるが学校に来て仕事をしている。一仕事終え、紅茶を飲んで落ち着いたところにこんこんこん、とノックの音が聞こえた。
「はい」
「失礼します」
声には聞き覚えがあった。ドアを開けて姿を見せたのは若葉。手には以前借りていった本を抱えている。
「本、返しに来ました」
「ああ、ありがとう」
緊張した面持ちでゆっくりと入ってくる若葉の姿は一番初めにここに来たときと似ている。様子を伺いながらゆっくりとドアを閉める。 佐織は慎重に本を受け取ると一冊ずつ丁寧に本棚に戻した。
「菜月と知り合いだったんだね」
静寂を破って口を開いたのは佐織だった。あの件について何も触れないのは逆に不自然になる。パンドラの箱にしないためにも、佐織が気にしない風を装って触れるしかない。そう思って勇気を出したのに若葉はなぜか立ち尽くしてぽかんとしている。
「どうしたの?」
「あ、初雪さんですか?すみません、SNSで知り合ったので本名はあんまりなじみがなくて」
「そうなの?一緒に出かけるくらいは仲良いんでしょ?」
「そうですけど、呼び方なんかなんでもいいですし。本名でも仮名でも」
自分のことであると認識できれば呼び方を本名にこだわる必要はない。そう思ってお互い本名を気にしないまま長年SNSのユーザーネームで呼び合っている。今度は逆に佐織がぽかんとした。お互いが名前も知らないで親しくなって行く過程が佐織には想像できなかった。
「だから菜月は葵ちゃんって……」
そこまでわかって佐織は思い出したことがあった。以前参加した講演のことだ。あのときボランティアとして参加していた若葉も本名とは違う名前で呼ばれていた。それがSNSのユーザーネームだとしたら。そのとき名前を呼んだ人物が若葉とSNSで交流していたとしたら。その一人が菜月だとしたら。情報がパズルのようにはまって全体像が見えてくる。
「大槻さんはSNSでLGBTの当事者団体と交流をしていた……」
佐織は答え合わせを求めるように若葉の目を見た。
「御名答です。初雪さんともそこで知り合いました。ボランティアは代表の方に誘われて、知り合いの方も参加するみたいだったので」
やっぱり、と佐織は納得した。ただの学生ボランティアなら同じ大学の学生がほかにも参加していてもおかしくない。でもあの場にいた学生で他に見たことがある学生はいなかった。学校でアナウンスがあったわけではないのだ。
「わたしと菜月が付き合ってるって知ってたの?」
「それは知らなかったですよ。同級生っていうのはちらっと聞いてたくらいで。でも別れた時期とか、大学とか聞いてそうなんだろうなって」
探偵のように情報を集めて答えにたどり着いたことにただただ頭が下がる。ここまで聞いて佐織が気になっていた疑問はだいぶ解けた。しかしあともう一つだけ気になっていることがある。
「菜月と付き合ってるの?」
そういったときの悲しそうな表情は、以前菜月が若葉に見せたものと似ている。佐織の話をしていたときのそれだ。気になっているというよりも、否定してほしかったのかもしれない。菜月に突然別れを告げられて、もしかしたら菜月は他に好きな人ができたのではないかと考えたこともあった。相手が若葉ならなおさらそんな気がしてしまう。二人はよく似ているし、気が合うだろう。でもそんな理由で自分が捨てられたなんて考えたくなかった。だから否定してほしかったのだ。
「付き合ってないですよ。わたしたちそういう関係じゃありません」
その言葉を聞いて、不安そうだった佐織の顔がふわっとほころんだ。今までずっと緊張していたのにふいに見せた素の笑顔に若葉は思わず頬が緩んだ。
「かわいい……」
「ん?」
「わたし先生が好きです」
「……え?」
本当は告げるつもりのなかった言葉。でも佐織の笑顔を近くで見て、思わず本音が漏れてしまった。若葉はあまりにもすんなりと、その言葉を告げてしまったおかげで、佐織はその言葉を理解できずフリーズしていた。若葉は若葉で、思わず出てしまった言葉に焦りが募る。いつも冷静で礼儀正しい若葉から余裕がなくなっていった。自分から突然来て、突然気持ちを伝えておきながら、早くこの場から離れたくて仕方がない。
「ごめんなさい、また来ます」
そう告げると若葉は急ぎ足で去っていった。これ以上一緒にいたら心臓が飛び出してしまいそうだった。 

「もしもし?」
「あ、菜月?ごめんね、急に」
電話の相手は菜月。元カノに恋愛の相談なんておかしい気がして迷ったけれど、ほかに話せる相手がいなかった。
「いいけど、どうしたの。佐織がかけてくるなんて珍しいね」
付き合う前も、付き合っていたときも、佐織が電話をかけてくることは滅多に無かった。電話はなんか緊張しちゃうからと、いつもメッセージ。大事なことは会って話していた。そんな佐織が電話をかけてきた。きっとすぐにでも解決したいことがあるのだろう。
「好きっていわれたの」
「は?葵ちゃんに?」
「うん、そう。今日学校に来て」
迷惑かけそうだから言わないなんて言っていたのに、結局言うんじゃないかと、菜月も驚きを隠せなかった。付き合うつもりなんだろうか。迷惑をかけるとあれだけ言っていた若葉に限ってそれはないだろう。でももし二人が相思相愛なら話は変わってくる。二人が教員と学生の関係でいるのは若葉が卒業するまでの間だけのことなのだから。
「ねえ、佐織は葵ちゃんのこと好きなの?」
「初めは菜月に似てるなあって思っただけで……」
これ以上思っていることを菜月告げるのはなんだか怖かった。もしも本当の気持ちを伝えて、菜月はどう思うだろう。自分と別れてからまだあり時間がたっていないのに、もう次の人を見つけたのだと思われたら、いい気はしないのではないだろうか。菜月にどう思われているか気になってしまうのはいつになっても変わらない。学生の頃からずっと同じだ。
「佐織、わたしたち友達に戻ろうよ。わたし佐織の時間を奪いたくなかっただけで、嫌いになったわけじゃないよ。佐織が困ってるなら力になるから、なんでも話して」
「うん……ありがとう」
菜月は佐織のことも若葉のことも好きだった。だから二人の力になりたい。そのためなら元カノとか、SNS上での友達だとか、そういうことは関係ない。
「葵ちゃんになんて言われたの?」
「好きって。それだけ。何が言いたかったのかな」
好きと伝えたからといって、付き合ってほしいとは限らない。仮に付き合いたいという意味を含んでいたとしたら、『また来ます』と言ったのは返事を聞きに来るという意味だったのか。情報が少なすぎて若葉の真意は分からない。
「葵ちゃんずっと告白はしないって言ってたんだよ。佐織に迷惑かけるから。だから多分意味とかないよ。好きって言いたくなっただけなんじゃないかな」
「どうしたらいいの?」
「あんまり気にしなくていいんじゃない?また何か言いたくなったら会いに来るよ」
若葉はまた来ると言っていた。本も借りて行っているし、会いに来る口実はある。だったら若葉から答え合わせがあるまでもう少しだけ待ってみることにした。

「失礼します」
予想通り、若葉は数日後、研究室に姿を見せた。今までにないくらい動揺している。前に来た時あんなことがあったのだから仕方がないだろう。佐織も気にしないようにと思いながらも、言動がぎこちなくなってしまう。
「この間のことなんですけど」
重い空気のなか、若葉が口を開く。佐織は何を言われるんだろうとドキドキしながらまっすぐに若葉を見つめた。
「初雪さんに聞きました。いろいろ考えさせちゃってごめんなさい。深い意味はなかったんです。ただ、先生といたらどうしても言いたくなっちゃって、勢いで……」
菜月は佐織との電話を切ったあと、若葉に連絡をいれていた。お節介かなとも思ったけれど、頭がいいのにこういうときばかり不器用な二人を放っておけなかったのだ。
「……意外。大槻さんでも冷静じゃなくなることってあるんだね」
「とにかく、先生に迷惑かけるようなことはしたくなくて、だから付き合いたいとかそういうことは考えてません」
佐織は心の中でほっと胸を撫で下ろした。いろいろ迷ってしまっていたことがすべて杞憂に終わって安心した。そして、素直に自分の気持ちを伝えてくれた若葉に、佐織も思っていること素直に伝えたいと思った。
「あのね、迷惑なんかじゃないよ。わたしも大槻さんのこと……好きだから」
突然の告白に若葉は一瞬耳を疑った。平静を装ってはいるけれど、気持ちは高揚していた。立場とか、世間体とか、そういうことを今だけ一切忘れて、素直に幸せな気持ちに包まれる。そして冷静な感情が戻ってきたときに不安が押し寄せてくる。自分が告白した時、佐織はこんな気持ちだったんだろうかと客観的に思ったりもした。
「確かに付き合ったりはできないけど、好きって言ってくれて嬉しかった。ありがとう」
「……」
想定外の出来事に頭がついていかないのは若葉のほうだ。嬉しかったり、不安になったりと感情が忙しい。佐織が自分のことを好きだなんて考えたこともなかった。佐織は大人だし、学生を恋愛対象に見たりはしないものだと思っていた。けれど今佐織の言葉を受けて、素直に幸せだった。気持ちを伝えられてよかったと心から思った。
「一つだけ聞いてもいい?」
「なんですか」
「どうして花火っていう名前なの?」
若葉がSNSで花火という名前を使い始めたのは一年ほど前からだ。それまでは特に何の意味もなく、語感が気に入っていた『葵』という名前を使っていた。花火の由来は佐織と出会った花火大会だ。
「去年の花火大会に初雪さんと来てたでしょ。そこで先生に一目惚れしたんです。それから花火見るといつも先生を思い出して。だから花火です」
「わたしだったんだ」
自分に会ったエピソードがユーザーネームであっても名付けに使われていたことを知って、佐織は少し照れ臭く感じた。しかしその名前が自分が好意を寄せられている証のように思えて嬉しくもあった。
「じゃあこの話はもう終わりで」
お互いか好き同士であるという事実があったとしても教員である佐織とその学生である若葉が今恋仲となることはない。好きになった人がいた、という事実だけが二人の人生に刻まれ、それ以上にもそれ以下にもならないまま、綺麗な思い出になっていくのだろう。
「またここに相談に来てもいいですか」
関係は今と変わらない。学生として、先生のところに研究に関して尋ねに来るくらいなら許容範囲内だ。佐織は笑顔でどうぞ、と答えた。若葉は静かに研究室を後にした。

「ゼミ生がお土産を持ってきました。一緒にどうですか」
「ありがとうございます。夏休みってあっという間ですね」
お土産屋さんでよく見るような包装紙を丁寧にはがしている木瀬先生の横で、佐織は今日も紅茶をいれる。ポットの横に置かれたかごの中にはいつもの紅茶と並んでコーヒーが置かれていた。

先生が好きです。

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女性大学教員×女子学生。 GLです。

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更新日
登録日 2020-08-14

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