ホラーのかけら

雨宮雨彦

  1. 夏の告発
  2. 冷凍機
  3. 姉の部屋
  4. 風船爆弾
  5. 山桜
  6. 蝶娘
  7. 氷の中
  8. 兄の始末
  9. 忘れ物
  10. 汽車道
  11. 空のレンズ
  12. トンネル
  13. 飛行機
  14. 言霊
  15. スフィンクス
  16. しみ
  17. 蜂の巣
  18. 遺志
  19. しんきろう
  20. 黒太郎
  21. 軍馬
  22. 呼びだし
  23. 意地
  24. からす
  25. 山の蜂
  26. 予言

夏の告発

 祖母が死んだ時、かわいがってくれたから、僕も悲しかった。
 そして、葬儀が行われた。
 僕はまだ幼稚園児だったし、あの場で、なぜあんなことをしたのか、自分でもよく覚えていない。
 田舎には、まだ土葬の習慣が残っていた。
 遺体は焼かず、棺に納めて、そのまま土に埋めるのである。
 祖母の棺にフタをする直前、大人たちの目を盗んで、僕はそっと入れたのだ。
 祖母の胸、ちょうど心臓の真上あたりだ。
 今から考えれば、あれはメスだったんだ。卵を生んだのだから。
 祖母の死には、ある疑問があった。
 病弱とはいえ、特に体調が悪かったわけでもないのに、ある朝起きると、死んでいた。
 すぐに医者が呼ばれたが、その見立てでは、前夜に薬を間違えて、多く服用したことによる中毒死ということだった。
 祖母には持病があり、その薬を一回に一錠服用すべきところを、2錠飲んだらしい。
 この診断には、実は、家中の者が疑問を持った。
 祖母はもう10年以上も、同じ薬を飲んでいた。
 それがある日、突然間違えるなんて、ありえるだろうか。
 口には出さなかったが、これは殺人だ、とみんな疑った。
 マチコ叔母というのがおり、亭主と一緒に商売をしていたが、
「それが、この頃は左前らしい…」
 と噂が流れていた。
 マチコ叔母の店は本当にやばく、今すぐ資金を調達しないと破産する、という状態だった。
 そこへ、タイミングよく祖母が死んだ。
 マチコ叔母にも、かなりの遺産が転がり込んだ。
 普段はろくに顔も見せないくせに、死ぬ前日には、なぜかマチコ叔母が祖母の部屋を訪れた、という事実もあった。
 祖母の薬は、誰でも手の届く場所に保管されていた。
 甘い物が好きな祖母に手渡す饅頭の中に、あらかじめ一錠忍ばせておくのは、難しいトリックではない。
 だが、疑いは疑いに過ぎない。
 証拠はなく、
『死因は、薬の誤飲による事故』
 と警察も結論付けた。
 祖母の葬儀は、そういう中で行われたのである。
 その後、マチコ叔母の店は盛り返し、順調に発展し、大きくなった。
 そして、7年がたった。
 あの時も暑い夏で、盆が来て、親戚たちが墓地に集った。
 その中に、僕とマチコ叔母もいた。
 祖母の墓のまわりに集まり、坊さんもきて、読経が始まった。
 七回忌だから、大がかりな法要だ。
 真上から照りつける日差しの中に、坊さんの声が響く。
 だがそこへ、突然別の声が混じったとき、あんまり驚いて、みんな文字通り飛び上がったのだ。
 セミだった。
 セミの鳴き声。
 でも木の上から聞こえたんじゃない。
 土の中、なんと祖母の墓の下からだ。
 暑い中なのに、体中の汗が一瞬で引き、青ざめた表情で、全員が顔を見合わせた。
 坊さんでさえ、一言も発することができなかった。
 そこへ、参列者の一人が、大きな叫び声をあげた。
「お母さんが呼んでいる! 私のことを怒っているんだわ」
 叫んだのは、マチコ叔母だった。
 数珠を投げ捨て、マチコ叔母は、墓石に駆け寄った。
 高価な絹の喪服に身を包んだ、いかにも上品そうな婦人だ。
 墓石に飛びかかるなど、最もやりそうもないタイプだ。
 僕たちは呆然とし、体を動かすことさえできなかった。
 だが、ついに叔父たちが動き、取り押さえようとしたが、マチコ叔母はそれを振り切り、墓石にしがみついた。
 火事場の馬鹿力で、あのか細い女が、一人で墓石を引き倒したんだ。
 横倒しになり、石は大きな音を立てた。
 その次には体を投げ出し、マチコ叔母は、地面を掘り返し始めた。
 叔父たちが再び止めようとしたが、マチコ叔母は、これも振りほどいた。
 その後は、もう誰も止めなかった。
 マチコ叔母は、それほど、ものすごい形相だったんだ。
 あんな人間の表情は、見たこともない。
 土が取りのけられ、ついに祖母の棺が姿を見せた。
 マチコ叔母の指先は血だらけだが、痛みなど感じず、棺のフタを引きはがした。
 しっかりクギ付けされた物だが、7年もたっている。
 べりべりと音がし、フタは簡単にはぎ取られ、棺の中身が白日にさらされた。
 ここまできて、やっと叔父たちも、マチコ叔母を取り押さえることに成功した。
 すぐに医者が呼ばれ、マチコ叔母には、鎮静剤が与えられた。
 棺のフタが取りのけられた瞬間のことは、僕は今でも、はっきりと覚えている。
 棺の中からは、黒い塊が何十も、いっせいに飛び立ち、バサバサと大きな羽音がして、まるで鳥の群れのようだったが、その一匹一匹が、アブラゼミの声を出しているのだ。
 生まれて初めて浴びる太陽の光に戸惑っていたが、墓場のまわりを囲む木々に、それぞれ居場所を見つけ、セミたちは、さらに大きな声で鳴いた。
 だから言ったろう?
 僕が祖母の棺に入れたのは、メスだったのだ。
 そのメスは、棺の中で卵を生み、かえった幼虫は、祖母の体から栄養を吸い…
 マチコ叔母は、どうなったかって?
 殺人の時効は、15年だからね。
 7年では不足だ。
 殺人罪が確定して、今でも服役している。

冷凍機


(この作品は、非常に残酷な表現を含んでいます。くれぐれもご注意ください)



「わしの死んだ妻のことかね? ほう、君もあの話を聞いたのか。いいさ。何も秘密になっているわけではない」
 そう言いながら老人は、好奇心で目を丸くしている若い女を眺めやったのである。
「あなたの奥様は、本当にそんな美女だったんですか?」
 老人は、もう何歳なのか見当もつかぬほど、その顔は深く皺の下にうずもれている。
 背は曲がり、木の枝のように細く尖った指までもが、カクンと曲がっているが、車椅子を使用しなくてはならないにせよ、まだまだ元気そうに見える。
 特にその頭脳がいささかも聡明さを失っていないことは、よく動く澄んだ瞳の中に見ることができるのだ。
 老人は口を開いた。
「自分の妻だから言うのではないが、静は本当に美人だったよ」
「静さんとおっしゃったんですか」
「そうさ。もう60年も前のことであるがね。享年、静はまだ19歳だった」
 そういいつつ、老人は目の前の女を見つめるが、こっちの女については、老人も必要以上の関心はないようである。
 上背があり、背も高くすらりとした女で、黒い上下のスーツとハイヒールで身を固め、書類の入ったブリーフケースを机の上に置いているところなど、まるで絵に描いた弁護士のようだが、事実彼女は本物の弁護士なのである。
 名は笹岡加代といい、この老人の遺書を作成するために、この屋敷を訪れていた。
 老人は大変な金持ちで、法律関係の業務は、すべて加代の先々代、つまり加代の祖父に任せてきた。
 その祖父が引退してからは息子があとを継ぎ、そして今、息子の引退が決まって、孫娘である加代が、仕事の引継ぎのため、屋敷を訪れたということなのである。
『この加代という娘も悪くはない…』
 と老人も密かに思った。
 しかし、あの静とは何もかも正反対ではないか。静はいかにも控えめで、日本的な女だった。
 それに引き換え、加代はまるで、ハリウッド映画からそのまま抜け出してきたような、男どもと真正面から張り合う女というイメージではないか。
 女優で言えば、『原節子』対『モーリーン・オハラ』か。
 その例えのあまりの古臭さに、老人は、自分でもかすかな笑いが浮かぶのを、どうしようもなかった。
『ああ、わしも本当に年を取った。今年でなんと…』
 しかしここで、老人の考え事は、加代の発言で中断されたのである。
「…ではすでに、X製薬の株は、すべて手放されたわけですね」
「ああ、売ったよ。きれいさっぱり」
「創業者として、お寂しかったのではありませんか?」
 お前に何が分かる、と思ったが、老人は口にも表情にも出さなかった。
「…まあ、事情はいろいろとね」
「しかし不思議なのですが、その美貌の奥様…、お名前は静さんでしたね?  静さんの御両親が、よくそんなことを承知してくれたものですね。私には信じられません」
「ふふふ、君は静の人となりを知らないからさ。戦争中も静は日本の勝利を信じ、日本の輝かしい未来、日本国の雄飛を疑わなかったのだよ」
「それは、静さんが御両親から受けた影響だったのでしょうか?」
 車椅子の上で、老人は首を横に振り、
「いいや、そうではないだろう。静独自の考え方だったようだね…。実は、静の死体の第1発見者はわしなのだよ。8月15日、玉音放送を聞いた後、本当に一睡もできず、わしはそのまま翌朝を迎えた。静はすでに、一人で寝室へ行き、休んだものと思っていた。高ぶった神経をなんとか静めようと、わしは川べりへ早朝の散歩に出かけた…」
「ははあ…」
「水に洗われ、朝日を受けて、本当に美しい死に顔だったよ」
「それから、どうされたのです?」
「わしは、この町の名士だったからね。まず警察署長に会い、計画を打ち明けた。署長は疑い深そうな、不信そうな顔をしていたが、最後にはうなずいてくれたよ。わしの不法行為を見逃してくれるとさ」
「それから、静さんの御両親に会ったのですね?」
「両親も承知してくれたよ。途方もない計画と思ったらしいが、『それが将来の日本の雄飛に役立つのでしたら、娘も本望でしょう』と言ってね」
「それから?」
「静の死体は型どおり、すぐさま警察署へ運ばれたが、ろくな検視も解剖もされず、そのままこの屋敷へと運ばれてきた。それ以来60年間、静はこの屋敷から、一歩も外へ出てはおらん」
「静さんのお墓はどこに?」
「近所の寺さ。家族の者はその後も墓参したろうが、静の骨はあそこにはない」
「でも敗戦直後といえば、すぐさま米軍がやってきたと思いますが、アメリカ人たちを、どうやって納得させたのですか?」
「X製薬を創業する前、この屋敷はわしの研究室だった。だから昭和20年の時点でも、それなりの設備が整っていたのさ。もちろん米軍はここを見にきたが、変人男の気味の悪い道楽と思ったらしい。肩をそびやかすだけで、何も言わずに帰っていたさ」
「巨大冷凍機の存在を、米軍にどう説明したのです?」
「もちろん、そのまま真実を言ったさ。『妻の死体を若く美しいまま永久に残すための設備である』と…。死体遺棄の罪にならぬよう、警察や市役所にはぬかりなく手を回したが、将来の日本再建のため、研究資料を保存するのだと大義名分を出せば、誰だって協力してくれたね」
「あなたも、多少の鼻薬を用いたのではありませんか?」
 老人は、車椅子の上で、体を大きく前後に振り、
「ははは、君もなかなか言うねえ…。だがね、いつまでおしゃべりをしていても仕方がない。君はわしの顧問弁護士となったわけだし、わしの死後は管財人をやってもらう身でもある。君にも一つ、実物を見てもらおうかね。さあ、そっちだ…。地下室まで、直通のエレベーターがある。着いてきたまえ…」


 X製薬の創業者だった老人がついに死亡したのは、つい1ヶ月前のことである。
 金持ちとは、気苦労やトラブルも多いものらしく、この老人も例外ではなかった。
 第2次世界大戦の少し前に創業し、戦争中は軍の細菌兵器研究に協力して、急速に業績を伸ばした製薬会社なのだ。
 老人の遺産は相当な金額となり、死後、それをめぐって相続争いが発生したのである。
 屋敷はすでに無人となり、管理人も置かれてはいなかった。管理人を雇うコストもバカにならないからである。
 老人の遺産をめぐり、裁判が起こされ、2人の人物が法廷で争うことになった。当然、加代も弁護士として、忙しい毎日を送ったのである。
 そんなおり、ある知らせが届いた。
「屋敷の明かりが、すべて消えている」
 というのである。
 無住で無人であるが、屋敷の門柱の電灯だけはスイッチが切られず、そのままにされていたのだ。
 24時間、点灯しているはずであったが、それが消灯している、というのだ。
 誰かが調査におもむかなくてはならなかった。そのために、加代は一人で、再び屋敷へとやってきたのである。
 つい1ヶ月までは老人が暮らしていたのであるから、外から見る限り、屋敷に変わった様子はなかった。窓ガラスも割れておらず、屋根や壁もしっかりとし、風雨が入り込んだ様子もない。
 もちろん侵入者があった形跡もないのである。
「だけど、やっぱり…」
 門柱の明かりが消えていることに、加代はすぐに気がついた。
 屋敷のキーは、加代自身が持っていた。中に入り、門柱の内側にあるスイッチに触れてみたが、異常はなかった。
 スイッチは、ちゃんとオンになっているのである。
「だとしたら、屋敷全体が停電している可能性も考えなくてはならないわ」
 はたして、その通りであった。
 この屋敷へ供給される電力は、ちょうど敷地の裏側、こんもりとした松の茂みがあるあたりから取られていた。公道に立つ電柱から、太い電力線が屋敷の中へ伸びていたのである。
 そして松の古木の一本が、それこそ古くなりすぎていた。
 枯死して、葉も何もかもが茶色く変色し、強い風でも受けたのか、根元あたりで折れ、電線にもたれかかっていた。
 それで電線が切断され、屋敷へ電力が行かなくなっていたのである。
「なんだ。そんなことか」
 意外に平凡な理由に、加代はフッと笑い、それでも気づいて、次にはため息をついた。
 停電していたのであれば、泥棒よけの警報装置も、ここ何日間か作動していなかったに違いない。
 とすれば…、
「万が一、泥棒が入っても分からないわけだわ」
 管財人として、相続の手続きがすべて完了するまで、屋敷と老人の財産の管理は、すべて加代の責任となるのである。
「屋敷の内部に、価値のある美術品など存在しない」
 と老人は言っていたが、分かったものではない。
 これだけ敷地が広く、大仰な屋敷なのだ。
『何か金目の物でも…』
 と、いつ不心得者が現れても不思議はない。
 屋敷の中へ入っても、荒らされた様子はなく、物が盗まれたようにも見えないので、加代は少し安心したが、すぐにまた気になったことがある。
 地下室のことだ。
 地下の実験室は無事だろうか。
 エレベーターのボタンを押してみたが、当然のごとく反応はなく、加代は階段へと足を向けたのである。
 その途中で、偶然にも懐中電灯を見つけたのは幸運であった。停電している今、地下室は真っ暗に違いないからである。
 懐中電灯を用い、加代は暗い階段を降りていった。
 地下室は静まり返り、想像通りに真っ暗であったが、懐中電灯の光を振り回すうちに加代は、老人に連れられてここへやってきた日のことを思い出すことができた。
 あの日は電気があって、ここも明るかったが、それ以外に何も変化した様子はない。
 前回には、何十という薬ビンが並ぶ戸棚、ガラスやステンレス製の実験器具が乗っているテーブル、いかにもプロが使用する感じの大きな顕微鏡など、加代は目を丸くしたものだったが、それらがそっくり同じ場所に、同じように整列しているのを、懐中電灯の光の中に見ることができたのである。
「あの時の私は、ファンタジーの国へ迷い込んだ子供のような顔をしていたに違いないわ」
 学校でも理科系の科目を得意とせず、ずっと文科系の勉強ばかり続けてきた加代の目には、すべてが驚異の世界だったのである。
『驚異』
 という言葉から、不意に加代が思い出したことがあった。
「そうだわ。冷凍夫人の機械は、どうなったのかしら?」
 冷凍装置が置かれていた場所を思い浮かべつつ、加代はそろそろと進んだ。なにしろ、置かれている物の多い部屋なのである
 冷凍装置も前回と同じく、誰も手を触れていないように見えた。
 軽自動車ぐらいの大きさだが、床の上に立てて置かれ、上辺はほとんど天井にまで届いている。鉄で作られ、いくつものリベットがゴツゴツと並んでいるのだ。
「まったく、昭和の『鉄人28号』的デザインだわ…」 
 と加代はつぶやいた。
 冷凍装置の正面には小さなガラス窓があったことを、加代は覚えていた。
 あの日、顔を近づけてその窓をのぞきこみながら、老人は言ったのである。
「もう60年になるが、私の目がかすむせいか、静は年ごとに美しくなる気がする」
 老人に何度もうながされ、ついに加代も恐る恐る窓をのぞき込んだのだが、それは損ではなかった。
 装置の内部は水で満たされ、それが冷やされて凍り、静の体を完全に包み込んでいたのである。
 静は氷の中心で顔をうつむかせ、髪はなびくように長く舞っている。鮮やかな着物を身につけ、腕を軽く左右に開いている。
 小さな手は、まるで子供のようだ。
 あまりに美しいものだから、小さなため息とともに、
「あの着物はどこから?」
 と加代は言ったものだ。
「この装置の中へ納める日に、わしが買ってやったのさ。呉服屋を呼んで、一番いいものを着せた」
「本当にきれいな振袖ですね」
「まあね」
「でも、あのおなかの中に病原菌が、本当に入れられているのですか?」
「開発中だった生物兵器さ。ガラス管に密封された状態でね。静の開腹手術は、わしがこの手で行った。真っ白く初々しい肌であったよ」
 屋敷が停電しているこの日、静のその美しい姿を、加代はもう一度眺めたいと思ったのである。
 弁護士として独り立ちした今、そろそろ加代も結婚のことを考え始めていた。最近は、ぽろぽろと見合いの口も持ち込まれている。
 その見合いの席に、
『あのように美しい着物姿で繰り出してみたい…』
 と加代は、密かに思い始めていたのである。
「冷凍装置の正面には、ガラス窓があったわ」
 加代は近寄り、少しかがんだ。
 懐中電灯を近づけたが、なぜかガラス窓はひどく汚れ、何も見えないではないか。
 光の反射の加減かと、懐中電灯を左右に動かしたが、やはり違う。
「ガラスが汚れているのだわ」
 ハンカチを取り出し、加代はガラスをふこうとした。
『静のあの美しい姿をもう一度、目にしたい』
 と、それほどの執念だったのである。
 しかし加代は、少し力を入れすぎてガラスをこすったようである。なにしろ、作られてから60年以上たった装置である。
 ガラスは、思いがけずポンと外れ、意外にもタンクの内側へ落ちてしまったではないか。
 しかも、起こったことはそれだけではない。
 ガラスが失われたあと、真四角に開いた穴からは、大量の水が噴出してきたのである。
 その勢いと強さは想像を超え、加代を押し倒し、尻もちをつかせるのに充分であった。
 停電の間に、装置内部の氷はすべて解け、水になっていたのである。しかも、60年の間に装置はあちこちがゆるみ、錆び、もはや強度を保ってはいなかった。
 加代の目の前で、ついに装置はぽっかりと裂け、その中身を一気にぶちまけたのである。
 恐らく停電は、10日以上続いていたものと思われる。
 60年の間、美しく保たれていた静の死体も、今は腐敗し、皮膚や筋肉が軟化、剥離(はくり)し、ずれて一部が白い骨をそのままに見せていた。
 皮膚には、まるで濡れた紙のように皺が寄り、水流とともに、加代へと突進してくる。
 それは静の腹部も同じであった。
 着物と帯で、腹部はかろうじて形を保っていたが、骨盤と内臓が一塊になって、着物のすそから滑り出てくるのだ。
 懐中電灯の光の中で、加代はそれをすべて見てしまった。
 内臓の中から、小さなガラス管のようなものが顔を出し、水しぶきとともにクルクルと回転しながら落下し、何かにぶつかって、パリンと割れた。
 あっと思う間もなく、他のすべての遺物と共に、加代はそれを頭からかぶってしまったのである。
 懐中電灯が耐水仕様であったのは、加代にとって、せめてもの幸運であった。
 白い顔も手足も、着ているスーツもすべてを茶色の液体に染めつつ、加代は地下室から、なんとか抜け出したのである。
 屋敷の電話機は幸いまだ生きており、使用可能であった。
 加代は自分で救急車を呼ぶことができたが、到着した救急隊員たちは、彼女の様子に息をのんだそうである。
 X製薬は、軍事用の新型生物兵器を研究していた。
 加代は、すぐさま隔離病棟へと送られたが、なすすべもなく、治療法どころか、病原体の正体すら判明しないまま、体中をフジツボのような紫色の発疹に覆われて、数日後、加代は死亡したのであった。
 警察と消防、公衆衛生を管轄する当局が話し合い、火が放たれて、老人が暮らした屋敷が完全に焼き払われたのは、翌日のことである。

姉の部屋


(この作品には、非常に残酷な表現が含まれています。くれぐれもご注意ください)



 実の姉が、
『どこかの男たちに強姦され、殺害されたらしい…』
 と警察から聞かされても、新介には特に何の感情もわかなかった。
 せいぜいが、
「警察と関わるなんて、面倒だなあ」
 と思った程度で。
 姉のことを愛していたわけではない。むしろ姉弟仲は悪かったのである。
 しかしながら、すでに両親はそろって他界し、親戚も遠くの県に散らばっているのであれば、
「死体の身元確認には、自分が警察署へ出向くしかないのか」
 と、あきらめるほかなかった。
 姉の名は、佐田直子といった。新介の名は、佐田新介ということになる。
 まだ子供だった頃から、姉の直子は新介にとって、
『目の上のタンコブ』
 のような存在であった。
 特に、新介が中学1年に入学した時点で、姉は3年生で、なんと生徒会長をしていた。
 男子ではなく、女子生徒が生徒会長というのは、当時は珍しいことだったのである。新介が入学した初日、教師の言葉からしてこうだった。
「やあ、君が直子さんの弟かい?」
 校内で、新介の呼び名が決定した瞬間だった。
『直子さんの弟』と、同級生までが新介を呼んだ。
 ついには廊下ですれ違いざま、校長までがその名を使った時、堪忍袋の緒が切れた。
 その翌日、新介はテスト答案の氏名欄に記入したのだ。
『1年1組  氏名:直子さんの弟』
 呼び出されて怒られるかと思ったが何もなく、採点された答案が正常に返却された時には、体中の力が抜けた。
「ねえ直子さんの弟君、直子さんは今日はお忙しいかしら?」
「なあ直子さんの弟君、今度の日曜、直子さんを映画に誘いたいんだが、君の口からきいてみてくれないか?」
「おお直子さんの弟君、直子さんの昨日の演説は、なかなか立派だったね。さすがは生徒会長だ」
 などなど…。
 その姉が今、新介の目の前で、白いシーツ以外は一糸まとわぬ姿で、冷蔵庫から引き出されて来たところである。
 死体の確認は、警察署でするものと思っていたが、意外にも検視局へつれてゆかれ、そこでご対面となった。
 まず警察官から、自分の職業について尋ねられた時、実は新介もドギマギした。
 新介は職についておらず、特に何もせず、一日中、家にいたのである。
 しかし警察官も、そのあたりには興味がないらしい。事務的に仕事を進めた。
 壁一面が何十もの銀色のドアで埋めつくされた広い部屋があり、そのドアの一つが開いて、まるで引き出しのように、姉は滑り出てきたのである。その手際のよさに、新介は感心した。
 部屋の中には線香がたかれ、その煙が新介の背後、何メートルか離れたあたりを漂っている。
 一日の勤務を終えた夜遅く、駅から自宅への道の途中で、2人組の男に襲われ、姉は力ずくで自動車に乗せられた。
 そして数日後、死体が山中のゴミ捨て場で発見されたのである。
 ゴミ捨て場といっても、公式のものではなく、ただの不法投棄の場所であり、人通りのほとんどない山道が、ある場所で、ひじのようにクイッと曲がっている。
 そこからコンクリート片や古い木材などの廃材が投棄され、小さな谷を半ばうずめているのである。
 姉の死体は、廃材の山の上に放り出され、素っ裸のまま、万歳でもするような形で、両手を広げて発見された。
 公衆電話からの通報だったので、発見者の名も身元も不明だったが、おそらく不法投棄をもくろんだ者の一人だろう。
 死後、時間が立ち、死体は腐敗がはじまっていた。それを新介は見せられたわけである。
 当然、人相は大きく変化していた。
 すでに死後硬直は解けているのでポーズは変わっているが、喉には明らかな絞殺の跡が残り、胸よりも下はシーツで覆われていたが、検視時、内臓を検査するため腹部から胸にかけて切開された跡が、長い縫い目になって見えている。
『姉の乳房は、思ったよりも小さかったのだな…』
 それが、新介の感じた唯一の感想であった。
「ご遺体は、あなたの姉、佐田直子さんに間違いありませんね?」
 と警察官が尋ねるので、新介はうなずいた。
 あまり興味もなかったが、新介も一応、被害者遺族らしいセリフをはいておくことにした。
「犯人は捕まりましたか?」
「まだ捕まりません…。あるところに防犯カメラがあり、その映像に、犯行に使われたとおぼしきバンが写っています。しかし盗難車でしてね…」
「そうですか…」


 姉の部屋へ立ち入るのは、新介は事実上、これが初めてだった。
 新介も姉も独身で、両親の残した大きな家に住んでいたが、姉の個室のドアには常に鍵がかかっており、本人以外は入ることができなかったのである。
 生前から、本当に姉は誰一人として、この部屋に立ち入ることを許さなかった。
 友人を招いても、この部屋に通すことはなく、家族の者も同様で、掃除から模様替えまで、すべて姉は、自分ひとりの手で行ったのである。
 強姦殺人事件はまだまだ解決しないが、とりあえず姉の私物だけは警察から返却されたので、その中にあったキーを用いて、新介は姉の部屋へ足を踏み入れたのである。
 意外にも、姉の部屋の内部は乱雑であった。姉の性格から、もっときっちり片付いていると思っていたので、少し驚いた。
「姉の所有物のうち、売れるものは勝手に売ってやろう…」
 と新介は考えていた。
 そんな新介に、ある戸棚が目についた。
 以前は、家の中の別の場所に置かれていたのだろう。あまり大きなものではないが、新介にも、
「おやっ?」
 と見覚えがある戸棚だったのである。
 ガラス窓はないが、2枚の木の戸が、観音開きに手前に開くようになっているのだ。
 この戸には鍵穴があった。ロックもされている。しかしそのキーに、新介は見覚えがあったのである。
 新介は筆記具のコレクションが趣味で、
「姉のやつ、何かいいペンでも持ってやがらないかな…」
 と、この部屋へ入ってすぐ、まず書き物机の引き出しをあさったばかりなのだ。
 ペンも鉛筆も、ろくな収穫はなかったが、小さな金色のキーがころがっているのは目についたのである。
 試してみると、はたしてそれが戸棚のキーであった。鍵穴にピタリと収まり、カチンと気持ちの良い音がした。
 新介は、恐る恐るドアをひき開けた。
 戸棚の内部には、何段かの棚が作りつけられていたが、その上には雑然と物が積み上げられ、置かれていた。
 写真立てや個人的なノート、学校の教科書といった、あまりこの場にふさわしいとは思えないものばかりである。
 その中である物が、新介の目をひきつけた。
「あっ」
 と思い、手に取ると、ボール紙製のカードなのである。
 いかにも子供向けの商品で、鮮やかな色で、文字と写真が両面に印刷されている。
「くそっ…」
 思わず新介は、悪態をつかなくてはならなかった。新介は、そのカードに見覚えがあったのである。
 見覚えどころか、これはかつて、新介の所有物であった。
 小学生時代、新介は、怪獣ものの映画やテレビ番組が大好きで、いつも見ていたのである。学校でも、友人たちとは怪獣の話ばかりしていた。
 そういう新介の宝物が、怪獣の名と写真が印刷された、ハガキ大のカードだったのである。
 1枚何円と、駄菓子屋で安く売られていたのだが、新介は何十枚と買い集めた。
 それを毎日眺め、大切にしていたのだが、その中の1枚がある日、行方不明になったのである。
 しかもそれは、最も気に入っている火炎怪獣のものであり、新介は家中を探し回ったが、結局発見することはできなかった。
 泣きべそをかき、とうとう捜索をあきらめたが、その後の数日間を、文字通り、新介は涙とともに過ごし、ショックがあまりにも大きかったのか、あれほど大好きだった怪獣への情熱も、急速にしぼんでいったのである。
 それ以来、何事かに熱中することを、新介はきっぱり止めてしまったのだ。
『何かを好きになると、それだけ、失ったときの衝撃も大きい』
 と小学生なりに学んだのであろう。
 それ以後、新介は何事にも情熱を燃やさず、深く関わることを拒否する人間へと成長していった。
 そして今、その火炎怪獣のカードが、姉の部屋から出てきたのである。
「これじゃあ、犯人は誰だったのか、分かりきっているじゃないか…」 
 新介が言うのは、もちろん強姦殺人犯のことではない。
「姉が盗んで、隠していたのだ…」
 そう思って見回すと、思い当たらないこともない。
 例えばこの戸棚の中、怪獣カードの次に目についた数学の教科書だが、高校生用のもので、裏返すと所有者の名が書かれている。
 女の名で、新介本人に覚えはないが、かつての姉の同級生ではなかろうか。
 そういえば、
『理系クラスへ進みたいと数学の猛勉強を始めた誰かが、そのとたんに数学の教科書を紛失してしまい、大いに困っているらしい…』
 という話を、姉が母親にしているのを小耳に挟んだ記憶がある。
「ははあ…」
 と新介はうなずいた。
 幼い頃からずっと、姉は、
『良い子』
 小学校へ入学してからも、常に、
『優等生』
 で通っていたのだし、家族としても、一度も疑ったことはない。
 しかしどうやら、見かけの姉と、真実の姉との間には、かなりの乖離(かいり)があったようである。
「おやおや」
 数学の教科書の次に発見した物は、新介の確信をさらに深めた。
 大学入試の受験票だったのである。日付は10年弱の昔。
 つまり、姉自身が大学受験生だった時期に重なるのだ。
 貼り付けられている顔写真にも、氏名にも見覚えはないが、これも姉の同級生なのであろう。
「受験票を紛失し、この受験生は当日、受験できたのだろうか」
 新介は思いをめぐらせたが、まず受験は不可能だったであろう。姉の行為は、少なからぬ人々の人生を狂わせたのだ。
 新介は、戸棚の中の品々を次々に調べていった。そのたびに、隠されていた姉の姿が浮かび上がるのである。そのバラエティーに、新介は退屈する暇もなかった。
 誕生日プレゼントだったのであろう。誰かの名が裏面に刻まれた女物の腕時計。
 どこかの男の名が書かれた表彰状が、細かくちぎられ、破られて、封筒の中に納まっていた。
 この男が何をし、何故に表彰されるに至ったのかすら、もはや新介は確かめるのも面倒であった。
 それほどまでに、姉の『戦利品』は数多かったのである。数えれば、30点近かったであろう。
 もちろんこれらは、姉が所有していて良いものではない。
 姉の死後、この家の中にとどまっていてよいものでもないのだ。
「これはみんな、持ち主に返さなくちゃな…」
 正式の所有者名が書かれていないものは、さすがにどうしようもないが、書かれているものも多い。
 その名の中で、新介に思い当たるのは、姉が高校時代に無二の親友とした一人だけだが、
「なあに、卒業アルバムや名簿で調べれば、すぐに全部分かるさ」
 新介の頭の中では、送り返す盗品に添えるべき手紙の文章までが、なんとなく形作られつつある。
『…先日、姉の部屋の鍵を開けたところ、これらの品々が発見され、驚きつつも取り急ぎ、ご返送させていただく所存でございます。生前の姉に賜(たまわ)りましたご厚情に感謝しつつ…』
 うふふふ。
「人生って、嫌なことばかりじゃないんだな…」
 もう何年も経験したことがないほど、新介は気分が良かった。戸棚の品々を調べる仕事を続けつつ、気がつくと新介は、鼻歌まで口ずさんでいたのである。

風船爆弾

『風船爆弾』
 というとファンタジーっぽく響くが、第二次大戦で使われた、本物の兵器なのだ。
 日本軍が作り、太平洋を越えて、アメリカ本土に落下することを期待して、大量に打ち上げた。
 風に乗って飛ぶ爆弾だが、太平洋の高空は、西から東へ常に強風が吹き、あながち意味のない作戦ではなかった。
 娘時代、早苗は、この爆弾の製造に参加していた。
 同僚は、同年代の女子工員たちで、決して楽な仕事ではないが、みな若く、班長が見張るので、ペチャクチャ雑談などできないが、それなりに日々をすごした。
 班長の名は吉田といい、中年の感じの悪い男だった。
 背は低いが、なぜか首だけはヒョロリと長く、目玉が大きいこともあり、何に似ているかと言えば、
「踏みつぶされて、断末魔の声を上げるウナギである」
 というのが、女子工員たちの一致した意見だった。
 この班長が、作業中ずっと目を光らせるから、早苗たちは気を抜くことができなかった。
 まず、和紙を所定の形に切り抜く。
 一辺の長さが15メートルある大きなものだ。
 その表面には化学処理がされ、中身のガスは漏れない。
 この紙を何枚も張り合わせ、球形の風船が、やっと一つ出来上がる。
 早苗たちの仕事はここまでで、次に風船は別の場所へ運ばれ、点火装置を取り付け、ガスが詰められて、空へ放されるわけだ。
 戦争中とはいえ、若い娘たちだ。
 毎日毎日同じ仕事で、退屈しきっている。
 そのうち、誰かが悪戯を思いつくのは、火を見るよりも明らかだ。
 作業に用いる黒いペンが、作業机の上にあった。
 器用で、すばしっこいお調子者なら、それを手に取り、班長の目を盗んで、和紙の裏にちょいちょいと落書きをするなど、造作もない。
 悪戯心と絵画表現の本能のおもむくまま、彼女はそうした。
 このお調子者が、早苗その人であった。
 その和紙も、他の和紙と同じく正常に張り合わされ、落書きは風船の内側に隠され、見えなくなった。
 ガスを詰められ、その風船も、空に放された。
 何ヶ月か後には戦争も終わり、そんな悪戯のことなど、早苗もすっかり忘れた。
 そう、あれが早苗たちの作った風船爆弾だったことは間違いないが、その身の上に、おそらく次のような出来事が起こったのだ。
 空を飛ぶうちに、重い発火装置を吊り下げたロープが、何かの原因で切れた。
 すると、風船は極度に軽くなる。
 まるで水面へと浮かび上がる空気の泡のように、風船は、大気中を急上昇していったのだ。
 その後、風船は、はるか高空を流れるジェット気流につかまった。
 風船は極低温、強い紫外線や宇宙線にも耐え抜いた。
 ジェット気流に乗って、風船が地球を何周したのかは、見当もつかない。
 そして、運命の日を迎えたのだ。
 紙製の物体だから、電波を反射することはなく、レーダーでも発見できなかった。
 だから管制官は、ロケットの発射に許可を出したのだ。
 ご存知の通り、あのロケットには、人類初の月着陸を目指す宇宙飛行士が乗り込んでいた。
 そういう歴史的な旅立ちで、ロケットは鉛筆のように尖り、でこぼこのないスムーズな形をしている。
 あのどこに風船が引っかかったのか、とても不思議だが、事実を否定しても仕方がない。
 ロケットの表面に引っかかり、もろい紙製の風船が、地球から月への長旅に耐え抜いたのだ。
 実に驚くべきことだ。
 宇宙飛行士も、さぞかし肝をつぶしたであろう。
 何十万キロの旅を終えて、やっと月面に降り立つと、わけのわからない物体が出迎えてくれたのだから。
 地面に横たわり、その表面には、何やら絵と文字が書かれている。
 これこそ、宇宙人からのメッセージに違いない。
 物体は慎重に回収され、地球へ持ち帰られた。
 絵と文字の解読には、世界を代表する頭脳が動員され、いかに多くの努力が注がれたことか。
 だがそれも、ある日系人科学者が一目、その物体を見るまでのことだった。
 信じられないという表情で目をむき、突然彼は、腹を抱えてケラケラと笑ったのだ。
 どうしたのだろうと、同僚たちが、いぶかしんだほどだ。
 気が済むまで笑い、まだ目に涙を浮かべながら、日系人科学者は説明したのだ。
 最初は信じられない顔をしたが、事情がのみ込めるにつれ、他の科学者たちも笑いに加わり、だが最後には、みな深刻そうにうつむいた。
 この月旅行計画のために莫大な税金を払い、
『人類史上初、地球外生命体の証拠を発見!』
 という大ニュースの続報をかたずをのんで待つ、国民たちのことが頭に浮かんだのだ。
 だが、真相を隠しても仕方がない。
 翌日、すべての真相が、全世界へむけて公表されたのだ。
 この不思議な物体が、なぜか日本製の和紙によく似た成分を持つことは、化学分析の結果、すでに判明していた。
 その表面には黒インクでもって、
「班長のバカ」
 という子供っぽい文字とともに、ウナギそっくりの丸い目玉をひんむいた男の似顔絵が描かれていたのだ。

山桜

(この作品には残酷な表現が含まれています。ご注意ください)


 作蔵の家は、村でも江戸時代から明治、大正にかけては名の知れた家柄であったが、昭和に入るとなぜか振るわず、次第に傾いていった。
 だが現在でも、所有する土地は広く、いくばくかは人に貸しているほどであり、地代だけでも生活は、カツカツなんとかなったのである。
 作蔵は、小学校の3年であった。
 母親はすでに死に、父親と2人きりであったが、家事は近所の女が雇われて切り回していたので、父親も忙しくはなかった。
 これが風雅な人物で、一日中、本を読むか、ごく近所を一回り散歩するだけが日課だったのである。
 家の裏山に、作蔵には忘れることのできない木があった。
 山桜なのだが、古木と呼ぶほど巨大なのではない。若木というほど、ナヨナヨと頼りないのでもない。
 木の幹は、太い部分で人の胴回りほどもあり、春になると、ピンク色の花を咲かせたものである。
 ごく幼い頃だが、まだ元気だった祖父が、作蔵にこう言ったことがある。
「作蔵、そんなにこの木が好きなのなら、この桜の木はお前にやろう」
 父と違い、祖父は山歩き、野歩きを好む人物で、よく作蔵をつれ、険しい裏山なども散歩したものである。
 春の花の季節には、
「おじいちゃん、あの山桜を見に行こう」
 と作蔵から誘うことまであった。
 確かに見事な枝ぶり、花の付け具合であったが、それをこれほどまでに好む作蔵を、祖父は目を細めて眺め、
「この木はお前にやる…」
 という発言につながったのである。
 それ以来、作蔵は、
「あの桜の木は、オラの木だ」
 と思うようになっていた。
 裏山自体が作蔵の家の所有物であったから、まあ不適当な考えではなかった。
 やがてその祖父も老衰で死亡し、母はすでになく、作蔵は小学3年の春を迎えたのである。
 山桜の木に変化が起こったのは、春の花盛りのことであった。作蔵が女物のサイフを身につけていることに、小学校の教師が気づいたのである。
 小学生がサイフを持つことを禁じる法律は存在しないが、その金づかいが教師の目を引いたのだ。
 赤い花柄のサイフで、女物ということは別にしても、あの時代の小学生なら中身はせいぜい、50円か60円というところであろう。
 しかし、ある日の学校の帰り道、作蔵が、村に1軒しかない食料品店の店先で買い食いをしていたのである。
 それも飴玉を一個とかではなく、甘いクリームの入ったクリームパンやジャムパンなどを2つも3つも購入しているのだ。
 食料品店の前をたまたま通りかかり、教師は作蔵の姿を認め、
「まあ、珍しいこともあるもんだ」
 と思ったに過ぎないが、それがその翌日も、また翌々日もそうだったのである。
 村の子供のサイフで菓子パン複数を毎日とは、いくらノンビリした田舎の教師でも、疑問に感じたのであった。
「作蔵…」
 店の中に入り、教師は声をかけた。
 買い物をするでもないのに入ってきて、上顧客に話しかけようとする教師を、店の女主人は軽くにらんだが、そんなことで遠慮するようでは教育者は務まらない。
 教師は口を開いたのである。
「作蔵、お前、そのサイフをどこで手に入れた?」
「これは、オラのだよ、先生」
「嘘つけ。盗んできたのと違うか? どうしてお前が女物を持つんだ? おかしいじゃないか」
「うるさい。サイフも中身も、これは全部オラのだよ」
 教師の姿が見えると同時に、作蔵はパンの最後の一カケラを口に押し込み終えていたのである。
 肩を捕まえようと伸びてきた教師の手をすり抜け、作蔵は店から飛び出してしまった。その素早さに、教師は見送るしかなかったのである。
 ところでこの頃、村はすでに別の問題をかかえていた。本当なら、小学3年生の買い食いに関わる暇などないのであった。
 零落した作蔵の家とは違い、村一番の金持ちで豪農の佐藤という家があり、そこの一人娘、雪子が数日前から行方不明になっていたのである。
 雪子は高校生で、隣町にある女子高へ、毎日バスに乗って通っていた。それがある日、夕方になっても帰宅しなかったのである。
「やれ、佐藤さんちの雪子の捜索だ」
 ということで、それなりの人数が投入されたが、手がかりは見つからず、大体の話が、行方不明になったその日、
『雪子が隣町から本当に帰ってきたのかどうか』
 さえ、はっきりとは分からなかったのだ。
 雪子が最後に目撃されたのは、放課後、校門を出るところまでだったのである。
「もしかしたら雪子は、自殺を図ったのではないか?」
 と佐藤家の両親は心配していた。前日に進路のことで、親子間のいさかいがあったのである。
 しかし父親も、まさか手を上げたわけでもなく、口ゲンカに類することであり、いくら雪子が感じやすい性格の娘だといっても、自殺の原因たりえるかどうか、判断できる者はいなかった。
「しかし、あの赤いサイフが気になる…」
 と教師はつぶやいた。
 だから食料品店の前で作蔵の姿を見失った直後、村の駐在所へと出かけたのだ。
 駐在の巡査は、運よくそこにいた。そして、教師の疑問に答えてくれたのである。
 バスの定期券を買いなおすため、あの日、雪子のサイフの中には、
『1000円以上の金が入っていた…』
 というのである。
 教師はひざを叩いて顔を赤くし、同時に青くもした。
 赤い顔は正解を得た喜び、青い顔は、事態の意味を悟ったことによるウロタエであろう。
「どうしたね、先生?」
 と巡査は恐る恐る尋ねた。 
 あの時代の小さな村においては、小学校教師とは、それなりの名士だったのである。
「作蔵だよ。作蔵が、雪子の行方を知っているに違いない」
「そりゃまた、どうして?」
「とにかく私と一緒に、作蔵の家まで来てくださらんか。本人の口から聞かんことには、なんとも…」
 こうして教師と巡査は、作蔵の家へとやってきたのである。
 屋敷と呼ぶことができるほど大きいが、手入れの手が回らず、荒れ始めている。それでも、人が住んでいるとはっきり分かるたたずまいなのである。
 作蔵はいた。玄関から声をかけると、すぐに出てきた。
 教師の顔を見て、うんざりした表情をしたが、その隣に巡査がいるのを見て、少しは緊張した様子である。
「先生、なんだい? またあのサイフのことかい? あれはオラのだよ」
「ああ、わかったわかった。お前のサイフということでいいから、ちょっと見せてみろ」
「どうして?」
 教師は頭をひねり、
「この巡査さんが、赤いサイフが好きで、見せてほしいんだと」
「えっ? お巡りさんは女物のサイフがご趣味かね?」
 と作蔵は不服そうな顔をしたが、それでもポケットから取り出し、手渡したのである。
 いかにも女持ち、しかも娘娘した模様と色使いに、教師と巡査は顔を見合わせた。
「作蔵、お前、これをどこで手に入れたんだ?」
「先生、それはオラのだよ。返してくれよ」
「ああああ、どこで手に入れたのだか正直に話せば、返してやる」
「そんなのウソでしょう。場所を教えたら、そのサイフだけじゃなく、他のものも全部取り上げるつもりじゃろう?」
『他のもの』
 という言葉に、教師は正直、引っ掛かりを感じたが、言葉を続けた。
「…いやいや、何も取りはせん…」
 ここで教師は、作戦の変更を思いついた。何しろ作蔵は頑固で、一筋縄ではいかない子供なのである。
「…サイフ以外の物も、全部お前の物でいい。お前の物でいいから、ちょっとその場所へ連れて行ってくれ」
 なだめたり、すかしたり、何度も同じ話を蒸し返して、やっと作蔵が同意したのは、30分後のことであった。
 この日、作蔵の父親は留守で、家政婦も買い物に出かけており、家の中には作蔵以外、誰もいなかったのである。
 作蔵が、教師と巡査を連れて行った先は、裏山のあの山桜のところであった。
 遠目には、ただの樹木としか見えないが、近づくにつれ、教師と巡査は奇妙な気分になり、何度か顔を見合わせたものである。
 そして、木まで数メートルの距離まで来たところで、すべての意味を悟った。
 桜の木そのものには、何の変化もなかった。ただ丈夫な1本の縄が、太い枝にかけられていただけである。
 その輪にぶら下がっていたのは、もちろん…
 山桜を指さし、作蔵がとうとうと宣言したのは、このときのことだ。
「ほら先生、おまわりさん。そのサイフはオラのものだと分かったろう? この山桜はオラの木だ。オラの木に実ったのだから、みんなオラの持ち物ではないか」
 それが作蔵の言い分であった。

蝶娘

(この作品には、残酷な表現が含まれています。ご注意ください)



 裕子は、いわゆる優等生であった。
 しかもX女学院といえば相当に有名で、近在どころか、遠く他県からも入学希望者が集まるという学校である。
 学業成績が優秀というだけでなく、在学中のクラブ活動でもこの学校は成果が目を引き、何々大会で優勝だのというニュースは、新聞紙面でも見飽きるほどだ。
 学業やクラブ活動を離れて、ボランティア活動などでも良く知られていた。
 さらには卒業生も、有名大学への進学は当たり前として、政財界にあまねく広がるOG会(同窓会)の活躍も、甘くは見られないのである。
 ためしに同窓会名簿をくってみると良い。市議会や県議会の女性議員はもちろん、国会議員や内閣閣僚の妻にまで、卒業生をたくさん見つけることができる。
 そんな学校の優等生である裕子の身に事件が起こったのは、ある日曜、窓を大きく開け、風を浴びながら読書をした時のことであった。
 いつの間にかうたた寝をして、目を覚ましたが、そのとき鼻の上に違和感を感じたのである。
 むずかゆいような、何かが張り付いている感じが鼻の頭にあるのだ。裕子は鏡をのぞき込み、息をのんだ。
 季節がちょうどよく、開いたままの窓から、知らぬ間にイモムシが入り込んでいたらしい。それが何も知らない裕子の体をよじ登り、鼻の上で脱皮したのだ。
 裕子の鼻の上には、蝶のサナギがくっついていたのである。
「きゃっ」
 小さく叫んで、むしり取りかけたが、サナギに指先が触れる直前に、裕子は思いとどまることができた。
 頭の中に考えが浮かんだのである。
(私みたいな優等生なら、こんな時には、どう行動するべきかしら?)
 なにしろ裕子は、筋金入りの優等生だったのである。
 学業成績が学年1位であるのはもちろん、生徒会活動にも参加している。2年生の今は生徒会長だが、実は1年の時から役員についていた。
 3年生となる来年には生徒会を退くが、きっと文化祭の実行委員長に選ばれるであろうとは、もっぱらの噂であった。
 そんな優等生が、か弱い生物にめったなことはできない。もう一度、鏡に顔を近づけ、まじまじと眺めたのである。
 サナギは小指ほどの大きさしかない。よく見ると、とがった頭が妖精の帽子のようでかわいらしいではないか。
 裕子の鼻に細い糸をピンと掛け、しがみついている。
(顔の真ん中にこんなものなんて、みっともないことこの上ないけれど、意外と役立つかもしれないわね)
 優等生の考えることは訳が分からない。蝶がかえるまでの間、裕子は、サナギをこのまま放置することに決めたのである。
 翌朝になり、制服を着て家の外へ一歩出た瞬間から、思惑通り裕子は人々の注目を集めた。
 まず隣家の主婦が大きな声を上げた。真ん丸い目をして丸々と太った女だが、その目をもっと丸くしたのだ。
「まあ裕子さん、その鼻はいったいどうしたの?」
 裕子は立ち止まり、微笑んだ。注目されることが大好きな娘なのである。
 好奇心旺盛な観客たちに、この事態をどう説明するか、その文言は昨夜のうちに考案してあった。
 裕子はにっこりと説明したが、「まあ」と言うきり、女はそれ以上言う言葉を思いつかなかった。
 女の視線が自分へと向かい、引き離すことさえ難しいこの瞬間を、裕子は充分に楽しんだのである。
「ではこれで…」
 裕子は女の元を離れたが、顔には出さずとも内心はうれしくて仕方がなかった。
(思った通りだわ。今日一日、いいえ、このサナギがかえる日まで、私は周囲の視線を集め続けるに違いないわ)
 なんといい気分であろう。道行く人すべてが裕子に注目した。だが裕子は気づかぬふりを続け、道を急いだのである。
 学校に着いて教室に入っても、午前中はまともに勉強にならなかった。全学から見物人が集まり、裕子の鼻をまじまじと見つめるのだ。
 いちいち説明する代わりに、例の文言を紙に書き、裕子は机の上に置いた。好奇心いっぱいの新たな見物人が現れるたびにそれを手渡し、優等生らしく静かに勉強を続けたのである。
 誰が知らせたのか、カメラを手に新聞部員が現れ、散々写真を撮り、インタビューをして引き上げていった。
 生物部の連中も姿を見せ、ルーペを使い、たっぷり15分間は観察してから、やっと帰っていった。
「形からいって、これはアゲハチョウのサナギね」
 と、メガネをかけた生物部員は宣言した。なんでも、昆虫学の雑誌に論文を投稿するのだそうである。
(まあ、お好きになさいよ。クラブ活動に協力しておくのも、私の評価を上げる邪魔にはならないわ)
 誰が連絡したのであろう。数日後、ついに本物の新聞記者が学校を訪れたのである。
 もちろん校長以下、教師たちもご満悦で、取材のために校長室が提供されたほどだ。
 そして翌日の紙面が振るっていた。裕子の大きな写真とともに、活字が躍ったのである。
『蝶娘』などと書き立てられ、裕子もまんざらではなかった。この新聞が配られた朝が、文字通り裕子の鼻が最も高かったときであろう。
 あと数週間先のことに違いないが、サナギが羽化し、蝶が飛び立つ瞬間のことを、裕子は想像しないではいられなかった。
(いつがいいかしら? 家に一人でいる時ではつまらないわ。たくさんの人に目撃してもらわないと)
 裕子の想像力には限界がない。
(ええ、そうだわ。学校の授業中、いいえ、テストの時間中のほうがいいわ)
 裕子によると、最もドラマティックな羽化の場面とは、次のようなものである。
 テストの時間中、サナギの変化に最初に気づくのは、裕子の隣に座っている生徒だ。
 驚きのあまり、彼女は「ひいっ」と声を上げかけるが、重要な試験の真っ最中なのだ。手を上げて教師に告げるわけにもいかない。
 気持ちを抑え、彼女は答案に注意を戻すしかないのだ。
 その頃には裕子自身も、自分の鼻の上の異変に気づいているが、これまたどうすることもできない。
 まず始め、ピリリとサナギの背中が細く裂ける。そこから羽根を先に、ゆっくりと蝶が姿を現すのだ。
(生物部が言ったとおり、本当にアゲハチョウなのだわ)
 と羽根の模様から裕子は理解するのだが、だからといって、どうなるものでもない。
 羽化したばかりの蝶の羽根は、しわくちゃである。これが次第に乾き、しわのないまっすぐな形になるのだ。
 試験が終了する頃にはすっかり乾き、準備体操でもするように、蝶は鼻の上で羽根を動かし始める。
 試験の終了を告げるベルがついに鳴った時には、裕子は心底ほっとする。羽根が巻き起こす風が、くすぐったくて仕方ないのだ。
 答案が回収されるや、席から立ち上がる前にそっと手を伸ばし、裕子は蝶を捕まえる。
(誰が母親か分かっていて、蝶は逃げるそぶりも見せないのだわ)
 ごく繊細な折り紙であるかのように、裕子は蝶を扱い、
「ねえ、誰か窓を開けてよ」
 さっそく一人がそれに従うと、生徒たちは窓に群がり、その中心に裕子がいるのだ。
 腕を突き出し、指の力をゆるめると、蝶はさっそく大きく羽ばたき、最初に吹いた初夏の風を捕まえ、大気の中へと飛び出していくのである。
 生徒たちの歓声と拍手が校舎に響き、何事かと職員室の教師までが窓から身を乗り出すほどだ。
 その間に蝶はさらに風を受け、ずんずん高度を上げる。そして太陽の方向へと進み、何秒間かは小さな黒い点だったが、やがて見えなくなるのだ。
 生徒たちはもう一度歓声を上げ、手を叩く。
「うふふふ…」
(こんなシーンを目撃すれば、先生たちだって大いに関心するに違いないし、同級生たちも感激して拍手は鳴りやまず…。そう、私は学校の伝説になるんだわ)


 読者は、サナギタケという言葉をご存知であろうか。あるいは『冬虫夏草』のほうがおなじみかもしれない。
 要は菌の一種で、セミやガの幼虫に取り付き、養分を吸収して成長する。取り付かれた昆虫は、もちろん死んでしまう。
 サナギタケにはいくつかの種類が知られるが、この世にはまだ未発見の新種が存在したということなのだろう。
 生物学者はきっと興奮するであろうが、この新種はどうやら、アゲハチョウに寄生するようなのだ。アゲハチョウがまだ幼虫である時代に取り付き、サナギに変化するころになって、やっと行動を開始する。
 つまり寄生されたサナギは、蝶へと羽化することはないのである。
 もちろん裕子はそんなことなど知らない。夢にも思わない。
(なぜまだ羽化しないのかしら。お寝坊さんねえ)
 などと思っているうちは良かった。
 ある日を境に、頭痛や吐き気などに襲われ、学校を欠席するぐらいならよかったが、ついには高熱を発し、裕子は入院してしまったのである。
 もちろん医師たちは、鼻の上のサナギを最初に疑った。より高級なルーペを用いて、生物部のメガネ生徒よりもよっぽど詳しく観察し、サナギがすでに死んでいることに気が付いたのである。
 だが時はすでに遅し。
 サナギから伸びた菌糸(きんし)は皮膚を突き破り、すでに裕子の体内へと侵入を果たしていた。
 菌糸とは、文字通り糸のように細いものだが、すでにしっかりと根を張り、裕子の鼻と一体となっているではないか。
 しかも昨日より、裕子は意識不明なのである。
 裕子の生命を救うためには、鼻ごとごっそり切断するしかない、と医師たちは覚悟を決めた。

氷の中

 子供のころから私は読書が好きだったが、中でも印象に残っている本がある。タイトルは『世界の七不思議』といい、実録風の体裁を取り、「アレキサンドリアの大灯台」や「古代エジプトのファラオの呪い」といった話が並んでいた。その中に「漂流船の謎」という一章があったわけだ。
 漂流船とは、なんと魅力的な響きを持った言葉だろう。フライング・ダッチマンやマリー・セレスト号が有名だが、操る者もなく、風と波のなすがまま、場合によっては数世紀も漂い続けると書かれていたのだ。
 不思議な話ではないか。例えばマリー・セレスト号は、発見されたとき、つい今しがたまで人がいたとしか思えない状態だったそうだ。食堂のテーブルには朝食が用意され、コーヒーカップは湯気まで立てていた。海は荒れてもおらず、船内にも積荷にも異常はまったく見られず、船を離れなくてはならない理由は何一つ見当たらないにもかかわらず、乗組員たちの姿はなかった。そしてその後も、マリー・セレスト号に乗っていた者たちの姿が見かけられることは二度となかったのだ。
 10歳の少年にとって、これほど心躍らせる物語はそうそうないだろう。私なりにいろいろと空想を働かせたりしたものだが、何年もたって自分がそれと同じ経験をするとは、まったく想像もしていなかった。大人になり、気がつくと私は船乗りになっていた。そしてある船に乗り組んだのだが、北大西洋でのある夜、この船は氷山に衝突し、あっという間に沈没してしまった。
 夜が明けると私はただ一人、小さな救命ボートに乗り、濡れた身体で毛布にくるまってふるえていたのだ。仲間たちはみなすでに海底にいたのだろう。沈没の混乱の中で荷物が失われ、救命ボートの上には食料も水もほとんどない状態だった。仲間が呼んでいるのかもしれないと、なかば死を覚悟したことを覚えている。
 だがそのとき、水平線のかなたにあの船の姿が見えたのだ。そのときの私の喜びが想像できるだろうか。震える手でオールをつかみ、体力を振り絞って、その船に向かって私はボートをこぎ始めたのだ。
 運良く船べりに縄ばしごが垂れ下がっていたので、私は甲板に立つことができた。そして耳を澄ませたのだ。
 最初に気がついたのは、あまりの静けさだった。動くもの一つなく、人影一つ見えなかった。中型の漁船で、風がないのでロープまでだらりとしている。
「おーい」
 私は声を上げた。だが私の声は甲板や青い空に吸い込まれるばかりで、返事はなかった。
 私は船内を探検した。船のサイズから見て、乗組員は7、8人というところだろう。港を出て日が浅いのか、水も食料も十分積み込まれている。だが誰もいないのだ。室内が荒らされた様子もなく、私物や備品類もすべてあるべき場所に収まっている。船長室へ行って航海日誌を読んでみようとしたが、きちんとした几帳面な文字でつづられていたが、外国語なので一行も理解することはできなかった。
 私は無線室を見つけ出した。だめかもしれないと思いつつスイッチに手を伸ばしたが、なんと無線機はちゃんと使える状態にあるではないか。暖かいオレンジ色に光る電源ランプがなんと美しく思えたことか。すぐに救難信号を送ったのは言うまでもない。
 いくつかの中継局を経て、私は運良く海軍司令部と話すことができた。自分が航路を大きくはずれた場所にいることはわかっていたから、一般商船の手で救助されることは望み薄だったのだ。海軍の司令官は、私のためにすぐに船を派遣すると約束してくれた。
 無線機のスイッチを切るとあまりにほっとして、私はイスの上にへたり込んでしまった。長い間身体を動かすことさえできなかった。かなりの時間がすぎてからやっと、昨夜の事故と空腹のせいで体力が失われているのだと気がついた。机に手をつき、私はゆっくりと立ち上がった。
 キッチンへ降りてゆき、食事の用意をはじめた。パンを切り、コーヒーを沸かしたのだ。新鮮なハムと卵があったので、フライパンの上でいためた。
 胃袋を満たしたところで、自分でも気がつかないまま、私はイスの上で居眠りを始めていた。何時間か後に突然目が覚め、やっとそのことに気がついたのだ。気分はよく、立ち上がって私は大きく伸びをした。窓から差し込む太陽は、もうかなり水平線に近づいている。
 このまま日が暮れるのだろう。だが海軍司令官は、迎えの船が到着するのは明日の明け方近くのことだろうと言っていた。それまでは何もすることがない。
 私だって、もちろんこの船が無人になるに到った理由に関心がなかったわけではない。だがすでに船内は調べつくし、手がかりが何もないことはわかっている。これ以上やれることはないではないか。だが、自分を取り囲む空気がひどく冷たいことに突然気がついたのは、このときのことだった。
 部屋を出て、私は甲板の上に立った。そして、驚きのあまり声を上げたのだ。
 キッチンで眠りに落ちたときまで、たしかにこの船は何もない大洋の真ん中にぽつんと浮かんでいた。だがそれが今は巨大な氷山が船に寄り添い、夕暮れが近いので赤くなりかけた太陽の光を受けて、まるで宝石のように輝いているではないか。
 意味がわからず、私は長い間呆然と立っていた。氷山は船尾に触れ、ギシギシと音を立てている。風のない日で、船も氷山も同じ海流に乗って流されているのだろうが、両者は大人と子供ほども大きさが違う。何かの理由で速度に差がつき、先行していたこの船に氷山が追いついたのだろうと思った。
 追突するような形で、氷山は船に身体を押し付けているのだ。本当に大きな氷山で、小さな丘ほどもあるだろう。もっと詳しく見てやろうと、私は船べりに近寄った。そして気がついたのだ。
 氷の内側から、彼女は私をまっすぐに見つめ、見下ろしていた。すらりと美しい身体を金色に輝くヨロイで包み、右手には長い剣を持っている。なめらかな髪をカブトの下に隠し、瞳は冬の空のようなブルーだが、優しさなどカケラも感じられず、視線は私をまっすぐに突き刺すかのようだ。
 彼女に見つめられ、私は身体を動かすことができなくなった。彼女は氷山の氷の内部にたたずんでいたのだ。
 彼女が何を考えているのか、もちろん私にはわからなかった。氷を断ち割り、今にも氷山の中から飛び出してきそうな気がした。そしてこの船に乗り移り、私の目の前に立ち、その剣をきらめかせるのだろう。
 だがその瞬間、私は奇妙なことに気がついた。ずっと以前、まだ子供だったころだが、私は彼女の姿を見たことがあるような気がしたのだ。
 心の中を探り、私は思い出すことができた。たしかに子供のころ、私は彼女の姿を何十回も目にしていたのだ。それはあるビスケットメーカーのことだ。ある会社が自社のシンボルマークとして『戦の女神』の姿を用いていたことがあるのだ。
 それはまったく、いま私の目の前で氷に閉ざされているこれと同じ姿だった。顔の形や表情、カブトやヨロイの装飾までそっくり同じだということに気がついた。彼女はこの姿で何百万枚も印刷され、ビスケットを詰めた箱の表を飾っていたのだ。
 私は自然に、あの飛行船のことを思い出すことになった。これも私が子供だった時代の話だ。『戦の女神』印のビスケットメーカーがスポンサーになって、ある探検旅行が企画された。飛行船に乗って北極海を横断し、ヨーロッパから北アメリカへ到るというもので、人類が史上初めて北極点の上空を飛行するということで人々は興奮し、かなりの期待が集まった。
 数人の若い冒険家たちを乗せ、飛行船はロンドンを飛び立った。大西洋を北西に進み、アイスランドを通過したことは確認されたのだが、彼らが北アメリカへ姿を現すことはついになかった。もう30年も前のことだ。捜索隊が派遣されたが成果はなく、飛行船は北極のどこかで遭難したものと結論付けられた。そして月日が流れ、今ではほとんど忘れられてしまっている。
 飛行船に何が起こったのかは、今の私には簡単に想像がつく。機体に致命的な故障が起こったか、予想外の強い嵐に出会って墜落してしまったのだろう。それが北極の氷原のどこかで、冒険家たちは全員死亡し、機体の上にはゆっくりと雪が降り積もったのだろう。
 やがて雪は機体を完全にうずめ、全体が一つの巨大な氷塊になる。海からほど遠からぬ場所ではあったのだろう。ある日その氷が割れ、氷山となって海へただよい出たのだ。
 もう想像がついただろうが、この飛行船の表面にはビスケットメーカーのシンボルマークが大きく描かれていたのだ。30年たってもその色が失われることはなく、当時のままの姿で私を見下ろすことになったのだ。
 私だから、これがビスケットメーカーのシンボルマークだと理解することができた。だがもし何も知らない人であれば、本物の女神のような超自然の存在が氷の中に閉じ込められている姿だと感じても仕方のないことだろう。外国人であるこの船の乗組員たちには、まさにそのことが起こったのだ。洋上で氷山を見つけ、彼女の姿に驚き、畏敬と崇拝に似た気持ちを感じて、船を離れてボートをこぎだしたのだろう。その乗組員たちの姿も、私は氷山の上に見つけることができた。
 彼らはすべて死に、今では冷たい氷の上に横たわっていた。全員がのどを鋭く切り裂かれ、血が流れ出しているのが見える。彼らに死をもたらした者の姿も、私は氷の上に見つけることができた。
 あの船員たちの最大の失敗は、全員が一度に船を離れ、氷山に乗り移ったことだ。戦の女神の姿がそれだけの美しさと異様さを備えていたことの証明でもあるが。
 船の上にもしも一人でも残っておれば、狼に襲われてあっという間に全滅することも、無人になった船がいつしか氷山を離れ、ひとりでに漂流を始めることもなかっただろう。
 だが私も、いつまでも彼らの不運に思いをはせているわけにはいかなかった。ガラガラと大きな音を立てて氷山の一部が崩れ、小規模な崖崩れのようなものが突然起こり、船べりの一部をうずめたのだ。
 もちろんこれだけでは大した出来事ではない。甲板の一部がへこんだというだけのことだ。だがすぐに私は、別の意味にも気がついたのだ。これで氷山と船の間には橋がかかった形になり、あの狼はいつでも好きなときに氷の上を離れ、こちらに乗り移ってくることができるようになった。そして狼も、同時にそのことに思い至ったようだ。
 彼の目には、私も憎むべき敵の一人であると見えたのだろう。氷の上に長々と身体を休めていたのが起き上がり、弾かれたゴムボールのように飛び上がって、氷の斜面をあっという間に駆け上がり、私からいくらも離れていない場所までやってきたのだ。
 もちろん私にはどうすることもできなかった。ただ一つ実行できたのは、手近にあったマストにつかまり、よじ登ることでしかなかった。垂直なマストで、簡単なハシゴがついてはいる。だが四足の動物に登ることができるようなものではない。すぐに私はマストの支柱の一つに身体を落ち着け、こわごわと見下ろすことになった。
 狼は真下におり、声を出してはいないが、私にキバを向けている。いかにも口惜しげにしっぽを振り、イライラと歩き始めた。数歩行っては振り返り、数歩行っては振り返りを繰り返し、そこを離れようとはしないのだ。私はマストの上に釘付けにされた。
 太陽はすでに水平線の下に沈み、わずかに空の輝きだけでまわりを見ることができる。狼は私の真下で腹ばいになり、身体を休めるつもりだ。あせることはない。時間はいくらでもあるということだろう。
 やがて月が昇ったが、目を閉じて、狼は身動き一つしなかった。前足の上にあごを乗せ、両耳を伏せ、しっぽは甲板にそってだらりとさせている。だが私にはわかっていた。やつは眠っているふりをしている。私がわずかでも降りるそぶりを見せれば、すぐに目を開くだろう。
 こうやって、私と狼の我慢比べが始まった。だが私は、それほど深刻な気分ではなかった。食事をすませ、睡眠をしっかりとった直後なのだ。疲れてなどおらず、明日の朝までここでがんばり続けることができるだろう。夜が明ければ、海軍の船が迎えにくる。
 タヌキ寝入りをしている狼の真上で、私もできるだけリラックスすることにした。あせっても何もよいことはない。身体の力を抜き、支柱に座り続けた。だがリラックスするといっても、私はいささか度を過ごしていたのかもしれない。キッチンで一眠りしたといっても、そんなものではまだまだ不十分だった。自分でも気がつかないうちに、私は居眠りをはじめていたのだ。
 気がついたのは、奇妙な夢を見たからだった。自分がどこか高い場所にいて、機嫌よくまわりの風景を眺めていたのが不意に足をすべらせ、身体のバランスを崩して転落しそうになるのだ。ずいぶんと不安な夢だったが、体中の筋肉をピクンと緊張させながら、私は一瞬で目を覚ました。そしてまわりで起こっていることに気がついたのだ。
 私の身体は大きく斜めに傾き、支柱からずり落ちかけていた。手の力が抜け、眠っている間にそうなったらしい。私の身体は、もうその半分以上が何もない空中にあったのだ。一ヵ所だけでぶら下げられた布袋のように落ちかけていたのだ。
 狼は起き上がり、期待を込めて見上げている。口を大きく開き、舌とキバを見せている。腕に力を込め、私は自分の身体を引き上げようとした。だが不可能だった。すでにそれほどバランスを崩していた。うめきつつ再び力を込めたが、やはりだめだった。悲鳴を上げ、ついに私は甲板に落下してしまった。
 足から落ちたということもあるし、ケガをするほどの高さではなかった。だが狼が歓迎してくれるわけではなかった。4本の足をバネのように使い、もちろん飛びかかってきたのだ。
 私はさっとよけるのが精一杯だった。何とか一撃目をかわし、全速力で走り始めた。
 狼から身を隠すには小さすぎる船だった。結局私は船首へ逃げ、へさきのマストによじ登るしかなくなった。このマストは前を向いて船首から生え、垂直とはとても言えず、ピノキオの鼻のように斜めに突き出している。登るとその下には何もなく、海面がそのまま広がっているのだ。狼に追いかけられているのでなければ、誰も足を向けない場所だ。
 手足を巻きつけて私はつかまることができたが、狼にはそんなことはできない。私まであと3メートルというところで立ち止まった。マストは電柱のように丸く、その上に立つのは難しい。
 私に飛びかかりたくて、狼はうずうずしていたことだろう。だがそんなことをすれば、一緒に海に転落するのはわかりきっている。そこまでバカな動物ではないのだ。
 夜明けが近づき、あたりは明るくなり始めていた。水平線のむこうに太陽の最初の丸い弧が顔をのぞかせている。昨日西の水平線の下に消えてから、地球の下をぐるりと一周して戻ってきてくれたのだ。うれしさのあまり、私は投げキスをしたいような気分になった。そして次の瞬間、待ちに待ったものが私の耳に届いたのだ。拡声器を通して割れた人間の声だったが、はっきりとこう聞こえた。
「伏せろ。弾に当たるな」
 もちろん私は言われたとおりにした。腹ばいの身体をできるだけ小さくし、すべての筋肉を使ってマストにしがみついたのだ。すぐに大きな銃声が響いた。
 ダン、ダンという2発だった。狼が小さな悲鳴を上げ、さっと身をひるがえらせる気配があったが、一瞬遅かったようだ。一発が命中し、私がおそるおそるマストの上から身を乗り出したときには、すでに甲板の上で事切れていた。海上に汽笛が響いたので、私は手を振った。
 漂流船にそって、海軍の魚雷艇が航行していた。全長30メートルもない小さな船だが、その姿がいかに心強く思えたことか。軍艦というよりも大型の高速ボートという風情で、いくつかの機関銃と魚雷発射装置を備えているだけだ。甲板に腹ばいになって狙撃銃を構えていた水兵が身体を起こすのが見えた。
 エンジンをゆるめ、水兵たちはすぐに漂流船へ乗り込んできた。私は礼を言い、一人一人と握手をした。艇長は30歳にもならない若い男だったが、戦の女神と氷山の上の死者たちの姿を見て、心を打たれた様子だった。港へ持ち帰るために漂流船をロープでつなぐ用意を水兵たちに命じ、死者を水葬する準備も進めた。
 すべてはとどこおりなく済んだが、次に問題になったのは、狼の死体をどうするかということだった。物問いたげに艇長が見つめるので、私は提案した。
「命をかけて守ろうとしたんです。ずっと彼女のそばにいさせてやろうじゃありませんか」
 甲板に横たわる狼を、私たちは見下ろしていた。今は目を閉じて、穏やかな顔つきをしている。手を伸ばし、私は毛皮をそっとなでてやった。
 狼が人間の娘に恋をすることがあるのかどうか、もちろん私にはわからない。だがこの漂流船の上での一連の出来事は、そう考えるしか解釈のしようがないではないか。北極の氷原で狼は偶然彼女を見つけ、恋をし、自らその守護者たろうとしたのだろう。氷が割れて海上を漂い始めたときにも、彼女のそばを離れることはなかったのだ。
 氷山を見つけ、ボートをこいで近寄ってきた船員たちも、狼の目には彼女を迫害する敵に見えたのだろう。だから彼なりに全力を尽くし、彼女を守ろうとしたのだ。
 私たちは狼を氷山の上へ移し、戦の女神のすぐそばに横たえてやった。近くから見上げると、神々しく輝く氷壁の向こうにたたずむ彼女の姿は本当にこの世のものとは思えず、狼が命をささげる気になったのも理解できる気がした。血なまぐささや乾燥した軍の秩序に慣れきっているはずの艇長や水兵たちですら、彼女を見上げてため息をつくのを私は聞き逃さなかった。それは彼らの魂が一瞬で肉体を離れ、この女神に導かれるままどこかへ行ってしまいたがっているかのように聞こえた。
 ここで私の物語は終わる。漂流船は港までけん引され、私は無事に本国へ帰ることができた。その後あの氷山がどうなったかは、誰も知らないことだ。だが何が起こったのか、ある程度の想像はつく。
 あのまま南へと流されてゆき、氷山は溶け、次第に小さくなっただろう。その途中、何かの拍子に氷が大きく割れ、女神と狼は海へ落ちていったことだろう。今はどちらも海底に眠っているはずだ。
 願わくば、彼らが互いに遠からぬ場所に横たわっていますことを。

兄の始末

 実の兄妹なのに、洋子と啓次郎は非常に仲が悪かった。
 まさしく犬猿の仲といってよく、『啓次郎』と聞くだけで、洋子の心の中を苦い味が走るほどだったのだ。
「そういえば、兄さんとはこんなことがあったわ。あれは中学に入学してすぐの頃、電車の中で偶然カバンがぶつかり合い、時ならぬ兄とのケンカが始まった」
子供らしい口ゲンカだからと、はじめはまわりの乗客たちも笑っていたが、みるみるエスカレートして、ついにつかみ合いにまで発展したとき、とうとう車掌が仲介に入った。
「なんとか引き離されたけれど、まだ私たちはにらみ合っていた。ええそうよ、思い出したわ。同じ車内にいればまたケンカをするに違いないと乗客の一人が提案し、『どちらか一人を後続の電車に乗り換えさせよう』ということになった」
 ところが、どちらが下車するかで、またもめた。
「だけど結局、妹の私が無理やり降ろされたのだけどね。そのことでも私、気を失いそうなほど腹が立ったわ…。あれから何年もたつけれど、まだ私たちの不仲は直らない。直す気もないけどさ」
 この不仲について、最初は家族も心配したが、そのうちにさじを投げた。
 そして数年後、あいついで両親がなくなった。
「だけどそのとき、私も兄もまだ成年には達していなかった。両親はかなりの遺産を残してくれたけれど、まだ私のものではない。同い年なのだから、兄のものでもない」
 二人が成年に達するまでの数年間、遺産は弁護士が管理することになった。
「私があの疑問に思い至ったのは、ちょうどその頃のことだわ。遺産なんて、20歳になれば黙っていても受け取ることができるのだけど、兄も同時に同額を受け取るというのが、私は気に入らなかった」
 だから洋子は用事を装って弁護士を訪れ、質問したのだ。
「ねえ先生、もしも私が死んだら、私が受け取るはずだった遺産は誰のものになるかしら?」
 何も疑わず、弁護士は答えた。
「お兄さんのものですよ。あなたが亡くなった場合、ご両親の遺産はすべてお兄さんのものとなります」
「あらそう?」
 何食わぬ顔をして、洋子は家に帰った。
 このときになっても、まだ洋子は古い屋敷で兄と同居していたのだ。
「だって、住み慣れて使用人もいるこの快適な屋敷を離れる理由はないもの。たとえ毎日、あの不愉快な兄と顔を合わせる必要があるとしてもね」
 しかしそれが計画の発端となったのだ。
 洋子はある光景を目撃し、それがきっかけとなった。
「子供のころから、兄は動物がとても好きだった。ケガをした子犬や子猫を町で見かけ、拾ってかえって世話をしたのも一度や二度ではなかったし、最悪なのはイモムシを捕まえて、けばけばしい水色の巨大なガになるまで育てたことだわ。それがなぜかビンの中から逃げ出し、私の寝室へ迷い込んで、ベッドの枕カバーにとまっていた」
 悲鳴を上げ、洋子は気絶しかけたが、鼻で笑うだけで、啓次郎はまるで取り合わなかったのだ。
「虫なんかを見て、悲鳴を上げるほうがおかしいぜ。毒も何もないんだからな」
 この一件が、啓次郎に対する洋子の憎しみをさらに燃え上がらせたのだ。
「ええ、ええ。兄に対して、あのときほど強い敵意を感じたことはない」
 しかし洋子はほくそ笑むのだ。
「…だけどさ、兄の動物好きを私が利用するなんて、なんと皮肉なことかしらね」
 屋敷の近所の家に、一匹の犬が飼われていた。
 太郎丸という名で、洋子など近寄る気にもならないほど巨大な体だ。
 門を入ってすぐのところに、番犬がわりにつながれていた。
「でもどうにも気の荒い犬で、飼い主ですら気をつかって、エサをやるにもこわごわ近寄っていたのに、なぜか兄だけは平気だったのよ」
 その家の前を通りかかるたびに啓次郎は門に近寄り、鉄格子越しに手を伸ばし、太郎丸をなでてやるのだった。
「するとどうだろう。あれほど凶暴な犬なのに、太郎丸も兄にだけは心を許すのだ。大きな声でほえるでもなく、それどころかクウンと甘えた声を出して体をすり寄せる。地面に仰向けになって腹を見せることだってある。それを兄は、またうれしそうになでてやるのだわ」
 離れた場所から気づかれないように観察しながら、啓次郎が手をなめさせてやるのまで洋子は見たことがあった。
 その瞬間に、洋子の頭の中で計画がすべて出来上がったのだ。
「太郎丸が怖いのと、ほえる声があまりにうるさいのとで、普段から私は、あの家の前は通らないようにしていた。だがこの日からは習慣を変え、一日に一度は必ず通るようにした」
 門の前を誰が通りかかっても、太郎丸はうなり声を上げ、大きくほえた。
 例外は啓次郎と、エサの皿を持っているときの飼い主だけだった。
 手ぶらのときには飼い主自身でさえ、あのほえ声を向けられるのを洋子は何度も目撃した。
「だけど私は、太郎丸の前をただ毎日通るようになったわけではないわ。いつもポケットの中に小石を忍ばせていた。小指の先ほどの小さなものよ」
 あの家の門が近づき、ほえ声が聞こえると、洋子はサッとポケットに手を伸ばす。
 そしてまん前を通りぬけながら、小石を、太郎丸めがけて投げつけるのだ。
「もちろんいつも命中するわけではないわ。むしろ、外れることのほうが多い。だけど毎日毎日、通りぬけざまに小石を投げつけられて、いい気分でいるはずがない。一度だけだが鼻の真ん中に命中して、太郎丸はそれこそ爆発するようにほえ立てた。何事かと、家人が庭に飛び出してきたほどだわ」
 そうやって、洋子と太郎丸は敵になっていった。
 たった数日のうちに、洋子の足音を耳にするだけで太郎丸は猛烈にほえ、興奮し、鉄の門の向こうではね回るようになった。
「やつは私にかみつき、八つ裂きにしたいのだろうけど、まさかね。門は大きく高く、翼でもない限り飛び越えることはできない。それ以前に、太郎丸は太い鎖でつながれている。私の顔を見ているときのやつの怒り、憎しみは想像もつかないほどだわ」
 そろそろよいころだろうと、洋子は最終的な作戦を実行することにした。
 啓次郎を観察し、何曜日は何時に家を出、何時ごろに帰ってくるか、洋子は予測できるようになった。
 啓次郎は大学生で、経済学を学んでいた。
「そういうある日のことよ。今夜、兄は夜の8時ごろ帰ってくるだろうと私は見当をつけた。そして家の近所で待ちかまえていた。人通りの少ない物影で、太郎丸のいる家から遠くはなく、かといって近すぎもしない。ここからでは私の足音も届かず、太郎丸が騒ぎ出すことはなかった」
 数分待つだけで、啓次郎が近寄ってくる姿を、洋子は遠くに見つけることができた。
 物影に身を隠し、洋子は啓次郎をやり過ごした。
 啓次郎は気づきもせず、洋子を追い越していった。
 十分な距離をとり、洋子はついていくことにした。
「足音を消し、私は息までつめていた。やがて兄は、太郎丸がいる門の前にさしかかった。兄は立ち止まり、太郎丸に目を走らせた。太郎丸も気づき、立ち上がって尾を振っている。兄は一瞬ためらい、今日は太郎丸の相手をしたものかどうか、迷っている様子だったわ。学科の試験が近いので、余分な時間はないという気持ちだったのね」
 啓次郎がそのまま歩き続ける気配を見せたとき、洋子がどれだけ落胆したことか。
 だがあの太郎丸だ。
 太郎丸はクウンと甘える声を出し、もう一度、啓次郎の注意を引いたのだ。
「…顔をほころばせ、ついに兄は門へ近寄っていった。期待に満ちた太郎丸の息づかいまで聞こえてくる。兄はかがみ、門のすきまから手を差し入れ、太郎丸の頭をなで始めた。太郎丸は目を細め、兄の指をなめようとする」
 これこそが、洋子が待っていた瞬間だった。
「パタパタとわざと足音を立てて、私は歩いていったのよ。太郎丸の耳が一瞬でピンと立つのが見えたわ。ご丁寧に門の前まで行き、私は太郎丸に顔を見せてやった」
 この瞬間、犬の脳の中で、怒りと憎しみのスイッチが入ったのだ。
 息を吸い込み、筋肉を震わせ、太郎丸は全身を緊張させた。
 怒りに取り付かれ、もう何も見えてはいない。
 そういう瞬間には善悪はなく、自分のそばにいる者はすべて、ただ邪魔な存在でしかない。
 それが味方であるか敵であるか、もう判断もつかない。
「この何日かの経験で、太郎丸の心には怒りが分厚く積もっていた。私にかみつき、全身の力をアゴに込め、牙を突き立てることしか、あの瞬間のあいつの頭の中にはなかった。八つ当たりでも何でもかまわない。私への攻撃心を満たすためなら、手近なものに何でもかみついてしまう。そしてこのとき、太郎丸の目の前には兄の手首があったのだ」
 人間の手首には、太い血管が通っている。
 あのサイズの犬なら、骨もへし折る強い力が出せる。
「兄の悲鳴は夜の空気をつんざき、町内の全員を飛び上がらせたわ。家々の窓や扉がガラガラと開き、人々が姿を見せたほどだ」
 人々はすぐに啓次郎のありさまに気がついたが、そのときには洋子は姿を消し、家とは反対の方角へと歩き始めていた。
 まわりの注意を引かないように、できるだけ平静な足取りを保った。
「そのまま町へ出て、喫茶店でコーヒーを飲んで時間をつぶし、私は家にはゆっくりと帰った。玄関を開けると、メイドがすぐに飛んできた。彼女の顔は紙のように真っ白だったが、それは予想していたことだ」
 メイドはこう言った。
「…お嬢様、お兄様が事故でなくなりました」
 死因は出血多量だった。
 あの後すぐに病院へ運ばれたが、間に合わなかったのだ。
「ああ、やれやれ。明日は兄の葬儀だ。面倒くさいけど、せめて悲しみにくれる妹の演技を心がけてやろう。それに、あのことを思い出すたびに私はうれしくてたまらず、思わず笑いが浮かんでくる。まわりの人々の目からそれを隠すのに、どれだけ苦労していることか」
 それは洋子の誕生日のことだ。
 あと一週間で、洋子は20歳になる。

忘れ物

 僕は駅のトイレへ行き、手を洗っているところでした。
 目の前には大きな鏡があり、背後の景色が写っています。
 その中に小さな男の子の姿があり、僕の後ろに並んで順番を待っているのでした。
 僕は急いで手を洗い終え、場所を空けるために振り返りました。
 でも驚いたことに、そこには誰もいないのです。
 5、6歳の男の子が確かにいたと思ったのに。
 男の子どころか、トイレの中はガランとして人影もありません。
 変だなあと思いながら、僕はトイレをあとにしました。
 数日後、また同じトイレを利用する機会がありました。
 手を洗いながら僕は、先日のあの男の子のことを思い出していました。
 そして顔を上げて鏡を見ると、またそこにいるではありませんか。
 何か言いたげな表情ですが、口は閉じています。
 僕は振り返り、場所を譲ろうとしました。
 でも今度も誰もいないのです。
 やはりトイレの中は空っぽで、人影はありません。
 個室のドアもみんな開いたままで、誰かが隠れている気配もありません。
 同じようなことが、同じ場所でその後も何回か続きました。
 意地になって、僕は学校帰りにはいつもこのトイレに立ち寄るようにしていました。
 そのたびにあの男の子が鏡の中に現れるのです。
 だけど彼は口を閉じていて、何も言いません。
 そして僕が振り返ると、もう影も形もないのです。
 僕はだんだん腹が立ってきました。
 そしてあるとき、振り返らずに鏡の中へむかって話しかけてみたのです。
「君は一体、どういうつもりなんだい? なぜいつも僕に付きまとうんだい?」
 すると男の子はにっこりと笑い、ある方向を指さすではありませんか。
 でもそれが奇妙な場所で、あのトイレには外へむいて開いた窓が一つあるのですが、そのすぐ外にあるひさしのあたりなのです。
 ひさしというのは、窓のすぐ上にある短い屋根のようなもののことですが、古いトイレだから瓦屋根になっていて、赤く錆びた雨どいが取り付けてあったりします。
 トイレと同じように、男の子の身なりもかなり古くさいということに僕は突然気がつきました。
 短く切った丸刈り頭をしているので、耳が左右にぴょこんと大きく目立ちます。
 着ているのはくすんだ茶色の学校制服のようなもので、歴史の本で国民服と紹介されているやつです。
 つまりあの男の子は、第二次世界大戦ごろの服装をしていたわけです。
 そして僕はまた、突然あることを思い出しました。
 僕の家はこの駅からそう遠くないところにあります。
 同じ家の中に両親や祖父も一緒に暮らしていますが、僕は祖母の顔を見たことがありません。
 祖母は第二次世界大戦のときに死んでしまったのです。
 そのとき祖母はちょうどこの駅にいて、列車に乗ろうとしていたのだそうです。
 待合室で発車時刻を待っていたのでしょうが、そこへアメリカ軍の飛行機がやってきたのでした。
 駅の建物はまわりの家々よりも大きく、よく目立つから、爆弾をぶつける目標として便利だったのかもしれません。
 大型の爆弾が命中し、跡形もなく吹き飛んでしまいました。
 祖母はそのときに死に、僕が毎日利用しているのは、戦後建て直された新しい駅だったのです。
 古い時代の駅というのは、今とは少し構造が違っていました。
 トイレが駅の外にあり、別の建物になっていたのです。
 公園などにある公衆便所を思い浮かべてもらえばいいと思います。
 小さな小屋のような建物で、駅のトイレとはどこの町でもみんなああいう感じでした。
 だから爆弾が爆発した後、駅の建物は木っ端微塵になり、地面にあいた大きな穴以外は何も残っていなかったのですが、トイレだけは奇跡的に無傷だったのです。
 戦争が終わり、駅は作り直され、でもトイレだけは当時の姿のままで現在に到っているわけでした。
 駅員や他の乗客たちと同じように、祖母の遺体は発見されませんでした。
 粉々に吹き飛んでしまったのです。
 祖母は金持ちの家から嫁に来ていて、高価な持ち物をいろいろと持っていたそうです。
 中でも一番だったのはダイヤの指輪で、誰でもあっと驚くほど大きく、売れば相当なお金になるものだそうでした。
 戦争のころには、うちの家はそれほどお金持ちだったのです。
 でも今はそうじゃなくて、かなり貧乏になって、両親がこそこそ話しているのを偶然耳にしたのですが、借金を返すために、いま住んでいる家ももうすぐ売り払わなくてはならないということでした。
 父が経営していた会社が倒産し、僕の家には本当にお金がなかったのです。
 それは僕にとっても悲しい話でしたが、子供にどうにかできることではありません。
 何も気づかないふりをして、毎日学校に通い続けるしかありませんでした。
 僕たちには、援助してくれる親戚も何もなかったのです。
 そんなところへあの不思議な男の子が現れ、トイレの窓の外を指さしたわけでした。
「えっ?」
 僕は思わず振り返ってしまいました。
 そのときには男の子の姿はもう消えていましたが、彼がどこを指さしていたのかは、はっきりと覚えていました。
 僕は窓に近寄り、ひさしを見上げました。
 なんということのない景色です。僕は両手をかけ、窓にはい上がってみました。
 ひさしがさっきよりもずっと近くなります。
 雨どいにだって手が届きそうです。
「あっ」
 突然バランスを崩し、僕は窓から転がり落ちそうになりました。
 思わず手が伸び、雨どいをつかんでしまいました。
 でも戦争前から立っている古い建物です。
 雨どいは簡単にちぎれ、ガタンと外れてしまいました。
 だけどそのとき、雨どいの中から何かが出てきたのです。
 長い間内部に引っかかっていたものが、雨どいが壊れたことで転がり落ちてきた感じでした。
 床に落ちて、小さな音を立てました。
 僕はなんとか窓から落ちずにすみました。
 ほっとしたけれど、雨どいの中から落ちてきたものに気がついて、思わず悲鳴を上げそうになりました。
 手首のところで切断された人間の手だったのです。
 僕は床に降り、何度も深呼吸をして気を落ち着け、やっと顔を近づけて観察できるようになりました。
 その手が何十年も前の古いものだということはすぐにわかりました。
 からからに乾いてすっかり黒ずんでいるけれど、女の人の手のようです。
 その指に大きなダイヤの指輪を見つけたとき、僕がどれだけ驚いたことか。
 もちろん、これが祖母の手だという証拠はありませんでした。
 手をそのままにして、僕は駅員を呼びにいきました。
 駅員は警察官を呼び、警察官は鑑識課員を呼び、翌日の新聞に記事が出る大きな騒ぎになりました。
 アメリカ軍の爆弾によって吹き飛ばされ、祖母の身体はバラバラになり、手首もちぎれて遠くへ飛ばされたのでしょう。
 そして偶然あの雨どいの中にポトンと落ち、だけどあんな場所だから誰にも気づかれることなく何十年もたってしまったのでしょう。
 僕たちにとって幸運だったのは、これは祖母の結婚指輪だったのですが、指輪職人が製造番号を刻印していて、しかも製造品の台帳を今でも保管していたことです。
 刻まれていた番号から、これが祖母のものであることはすぐに証明できました。
 だから僕は、今でも以前と同じ家に住み、転校することなく同じ学校に通っています。
 家を売って引っ越す必要はなかったわけです。
 指輪を売って得たお金は借金を返してもまだ余裕があり、父はそれを元手に新しい仕事を始めることができたのです。
 たぶんこれはハッピーエンドなのだろうと思います。
 蛇足ですが、その後僕があのトイレを利用しても、あの男の子が姿を現すことは二度とありませんでした。

汽車道

 ああ、あの山道のことかい?
 君も気がついたのだね。
 たしかに奇妙な道ではあるよね。
 木と森以外は何もない石村山地の中央部を、まるで定規で線を引いたかのようにただ一本、どこにも通じていない幅の広い道が走っているのだからね。
 あの険しい山中なのに坂道でもないしね。
 あの道のことを、地元の連中は『汽車道』と呼んでいるのだよ。
 汽車道というのは、鉄道の線路の古い呼び名さ。昔々の言い方だよ。
 あの道になぜそんな呼び名がついたのか、村人に質問しても無駄だよ。
 ニヤニヤするばかりで、何も答えてはくれないさ。
 ひょんなことから僕は、その理由を知ったのだけどね。
 興味があるなら話してあげるよ。


 昭和20年ごろのことだから、ずいぶんの昔の話だよね。
 戦争に負けて、日本はアメリカ軍によって占領されていた。
 米兵が我が物顔で歩く姿は、あのころ国中のあちこちで見られたものさ。
 そういう米兵は何万人といて、まじめな兵ももちろんいたが、中には悪さや乱暴を働く者も少なくなかった。
 石村にも20人ばかりの米兵がやってきていた。
 村はずれに旅館が一つあるのだが、そこを宿舎にして滞在していたんだ。
 これがそろいもそろって悪い奴ばかりで、果樹園に入り込んで勝手に実を食べるわ、家々に忍び込んで金品を盗むわ、あげくは銃を持ち出して、面白半分に牛を撃ったりした。
 それを止めるどころか、上官も一緒になって笑っているんだな。
 村人はひどく腹を立てていた。
 だが我慢するしかなかった。日本は戦争に負けたのだから。
 しかしその我慢も、とうとう限界に達する日がやってきた。
 乱暴な運転をするジープが、こともあろうに村の子供を二人もはねころしてしまったんだ。
 運転していた兵は肩をすくめるばかりで、そのまま立ち去ってしまった。
 まったくひどい話だろう? 子供に何の罪があるというのだね。
 その夜、米兵たちの目を盗んで一ヵ所に集まり、村の男たちは計画をねった。
 何とかしてアメリカ兵たちに仕返しをしてやろうというんだ。そして話がまとまった。
 地図には描かれていないし、どの資料にものっていないはずだが、石村から少し入った山奥には、昔から鉄鉱石が眠っていたんだ。
 鉄の原料だよ。そういう鉱脈があったんだ。
 だが埋蔵量が知れていることもあって、わざわざ費用をかけて掘り出そうという話にはならなかった。
 しかし戦争が始まり、鉄が不足するようになると、さっそく開発が計画された。
 山中に鉱山が開かれ、鉱石を運び出すために、石村駅へ通じる鉄道が建設された。
 それがあの汽車道という山道の由来なんだ。
 名前だけでなく、あそこは本当に線路だったんだよ。
 もちろんこれは軍の最高機密であり、村人以外に知る者はなかった。外部の人間にしゃべることは固く禁止されていた。
 戦争が終わっても、その線路はまだ残っていた。
 終戦と同時に採掘は中止され、閉山して列車が通らなくなって何年もたち、草や木におおわれて、ちょっと見ただけでは線路とはわからない姿になっていたがね。
 もちろん米軍は、そんな線路の存在など夢にも知らなかった。
 当たり前さ。軍事機密ということで、どこのどんな地図にも記載されていないんだから。
 地図を見ても、あのあたりは空白で、ただの雑木林ということになっているね。
 そうだ。その山中、地図の空白地帯にも、あの沼だけは記されていたんだな。
 どういういわれがあるのか、鳥沼という名でね。
 本当に広い沼でね。湖と呼びたくなるサイズではあるが、相当な風が吹かない限りはガラスのように動かない水面の数メートル下に、黒くやわらかい泥がたまっているんだ。
 ここに足を踏み入れてはいけないよ。
 深い泥につかまり、動けなくなる。
 そういう沼なんだ。
 さて、村人たちはその廃鉱山に目をつけた。
 週に一度、米兵を乗せた専用列車が真夜中に石村駅を通過する。
 豪華な車内設備を持ち、ものすごいスピードで疾走してゆく特急列車だ。
 日本人が乗車することはもちろん許されていない。
 乗客だけでなく、機関士から車掌まで、すべてアメリカ人で固めていたんだ。
 次にその列車が石村駅を通過するのが月のない暗い夜であることも、村人たちは計算に入れていた。
 その準備のために、村人たちは非常によく働いた。
 木を切り、草を刈り、何年も捨てられたままだった線路をたった数日で元通りによみがえらせたんだ。
 この線路は石村駅から分岐して、終点は元の鉱山だった。
 だがその途中に例の鳥沼があり、それを長い鉄橋で渡っていた。
 村人たちは、この鉄橋も修理したわけではなかった。
 それどころか真ん中あたりで破壊してしまい、鉄橋が沼の中央で突然プツンと終わる形にしてしまったのさ。
 村人たちだけでは、この計画を実行するのは不可能だったろう。
 国鉄内部にも共犯者がいたに違いない。
 米軍の専用列車がやってくる直前にポイントを切り替え、本来行くべき本線をはずれて、山の奥へと方向を変えさせるわけだからね。
 だがあの時代、米軍を快く思っていない者などいくらでもいたから、共犯者を得るのは難しい仕事ではなかっただろう。
 専用列車が走る夜が来て、翌朝になって、米軍は大騒ぎを始めた。
 こともあろうに列車が一本、まるまる行方不明になったのだからね。
 何時間待っても目的の駅に着かなかったんだ。これは何かが起こったに違いない。
 米軍は警察を総動員して行方を探させたが、何の手がかりもなかった。
 列車は文字通り蒸発してしまったかのようだった。
 真夜中の列車だから目撃者もなく、どの駅のあたりで消えたのかすらわからない。
 これは本当に大きな事件になった。
 だが脱線事故なのか、単にポイント係のミスで行先を間違えただけなのか。
 事件なのか事故なのかすら分からないのだから、さすがの米軍も日本人の責任を問うことはできなかった。
 調査は半年以上続いたが、結局何もかも不明のままで終了してしまったよ。
 ほとぼりが冷めたころ、村人たちは総出で証拠隠滅に取りかかった。
 山中の線路をすべて取り除き、ただのさら地に変えた。
 あの汽車道という道は、そうやってできたのさ。
 えっ? 専用列車に乗っていた米兵たちはその後どうなったのかって?
 それはもちろん決まっているさ。人が訪れることもない鳥沼の泥の底深く、今でも列車と一緒に眠っているはずだよ。

空のレンズ

 何かの音が聞こえたような気がした。
 ぐっすり眠っていたのだが、照夫はいっぺんに目が覚めてしまった。
 枕から頭を上げ、空耳だったのだろうかと耳をすませた。

 コツコツコツ。

 もう一度同じ音が聞こえてきた。
 部屋の外を誰かがゆっくりと歩いているようだ。
 ベッドを抜け出し、照夫はそっとドアを開けたが、何も見えなかった。
 ひんやりとした夜の廊下があるだけだ。
「あれえ?」
 足音を忍ばせ、裸足のまま照夫は廊下を歩き始めた。
 ここは伯母の家だ。
 まだ一週間にもならないが、両親があいついで亡くなったので、照夫は引き取られてきたのだ。
 伯母には子供がなく、数年前に夫をなくして一人ぼっちだったのだ。
 照夫は歩き続け、廊下の曲がり角を曲がった。
 窓の外には月があり、明るく照らしている。
 もう一つ曲がり角を曲がったところで、照夫は鹿と鉢合わせをした。
 本物の野生の鹿だ。
 まるで照夫が追ってくることを知っていたかのように、一頭がそこに静かに立っていたのだ。
 驚きのあまり、照夫はもう少しで悲鳴を上げるところだった。
 それくらい巨大な動物だったのだ。
 色は茶色をしている。
 肩は照夫の背よりも高く、胸板はトラックのバンパーのように分厚い。
 角は森の古木のように複雑に枝分かれし、頭の上を飾っている。
「さっきのあれは、この鹿の足音だったんだ」
 と照夫は気がついた。
 鹿は大きな瞳で照夫を見つめていた。
 茶色く色をつけたガラスのような表面に、肝をつぶした表情の照夫の顔が反射している。
 鹿は首を振り、
「ついてこい」
 とでもいうように合図をした。
 少なくとも照夫にはそう思えた。
 だが照夫は呆然と突っ立ったまま、身体を動かすことができなかった。
 こんな動物が家の中に突然現れたことに、それくらい驚いていたのだ。
 鹿はすでに数歩歩き出しかけていたが、照夫は歩き始めることができなかった。
 すぐに気づいて、鹿が戻ってきた。
 じれったそうに近づき、照夫の寝巻きのそでをくわえて引いた。
 強い力ではなかったが、照夫は少しよろめいた。
 そのまま後ずさりをするようにして、鹿はゆっくりと歩き始めた。
 すぐに照夫の足が順調に動き始め、このままちゃんとついてくると納得できたのだろう。
 鹿は口を離した。
 照夫の背後にまわり、角でつつかれたり、鼻で押されたりはしなかったが、2人で廊下を進んでいった。
 開いたままのドアがあり、庭へ出ることができた。
 外の空気は暖かく、芝生の上を数歩歩いた。
 足の裏のチクチクする感触から、裸足でいることを照夫は思い出した。
 夜の庭はしいんと静まり返って、何の動きも見えなかった。
 ベンチの前で鹿が立ち止まったので、照夫はその背中に乗ることができた。
 背中は広く、毛はやわらかかった。
 照夫が思わず指でなでると、鹿が歩き始めた。
 裏木戸も開いたままになっていた。
 鹿と照夫はそこを通り抜けていった。
 ゆったりとカーブしながら茂みの中を小道が続き、そのまま森の奥へ向かっている。
 草の下から、ときどき虫が鳴く声が聞こえてくる。
 こずえから見下ろすフクロウの目が、月光を反射して光っている。
 数匹のリスが、さっと照夫たちの進路を横切った。
 照夫たちは森の奥へと進み続けた。
 やがて前方に湖が見えてきた。
 平らな水面が月光をきらきらと跳ね返しているのだ。
 照夫たちは岸へと近づいていった。
 そこは砂浜のようになっている。
 水に向かって、照夫たちは進んでいった。
 ぴちゃぴちゃという静かな水音が聞き取れるようになった。
 鹿は足をぬらし、水中へゆっくりと身体を沈めていった。
 照夫は思わず足を引っ込めたが、思ったほど冷たくはなかった。
 照夫はひざを伸ばし、足先がぬれるままにした。
 指の間を通り抜けていく水は快く、まるでくすぐられているような気がする。
 鹿は水上を泳ぎ始めていた。
 胸板が船のように波をかき分けている。
 長い首を、船のマストのように高くかかげている。
 森の中とは思えない大きな湖で、まわりはうっそうとした木々におおわれている。
 月が真上にあり、そのすべてを照らしている。
 湖の中央に達するころ、照夫はもう一度月を見上げた。
 大きく明るい満月だ。
 照夫は目を落とし、月が水面に落とした影を眺めた。
 丸い姿が水面に反射しているのだ。
 確かに始めはそう思った。
 だが、それが勘違いであることに気づくのには何秒もかからなかった。
「あれれ?」
 照夫は目をこらした。
 あれは月が反射した姿ではなく、何かが水中に沈んでいるのだと気がついたのである。
 それが光を発しているのだ。
 鹿も泳ぐ方向を変えたようだった。
 その光に向かって、水上でゆっくりとカーブを描いたのである。
 月と同じように、その不思議な光も黄色がかっていた。
 波のせいでゆらゆらしているが、深さ何メートルあるのか知らないが、こうやって水面にまで届くのだから、豆電球のように弱い光ではないのだろう。
 むしろ、どこかしっかりした力強さを感じさせる光だ。
「何が光っているのだろう?」
 と照夫は思った。
 だが何もわからない。
 鹿が光の真上まで行ったので、まっすぐに見下ろすことができるようになった。
 身体を乗り出し、首を曲げて照夫はのぞき込んだ。
 鹿は泳ぐのをやめ、振り返って照夫を見ている。
 彼が何を考えているのか、わかったような気がした。
「OK」
 と小さな声で言い、照夫は寝巻きを脱ぎ始めたのだ。
 脱いだ寝巻きを洗濯物のように角に引っ掛け、覚悟を決め、照夫は水中へ降りていった。
 岸のあたりよりも少し冷たかったが、首まで沈み、息を整えた。
 胸いっぱいに空気を吸い込み、水底へ向かって泳ぎ始めた。
 水中はほとんど真っ暗だったが、あの光だけははっきりと見ることができた。
 波でゆらゆらしない分、よりくっきりしている。
 ちらりと上を見ると、波越しに揺れる月を見ることができた。
 もう一度下を向き、照夫は泳ぎ続けた。
 光の正体をはっきりと見ることができる場所までやってきた。
 照夫は驚き、それ以上に少しあきれ、思わず息をはいてしまった。
 あわてて口を押さえ、一度水面に戻って息継ぎをするか、このまま水中にとどまるかを考えた。
 水面には戻らないことに決めて、照夫は顕微鏡に向けて手を伸ばした。
 大きなものではなかった。
 学校の理科の授業で使うのと同じぐらいの大きさだ。
 理科室の顕微鏡とそっくり同じ形をし、砂の上にちょんと置かれ、光をはね返している。
 ずいぶんと不思議な眺めではあった。
 魚たちが理科の勉強でもしているのだろうかという気がした。
 だがもちろん、まわりには魚など影もなかった。
 照夫の息はつきかけていた。
 顕微鏡をつかみ、砂をけり、水面へ向かって泳ぐのがギリギリだった。
 月を目指して、照夫は上昇を続けた。
 1分後には、照夫は再び鹿の背中の上にいたのである。
 角から寝巻きをとり、顕微鏡をそっと包んだ。
 鹿は岸に向けて泳ぎ始めていた。
 数分後には水を出て、砂の上を歩いていた。
 森を抜け、伯母の家へと戻っていったのだ。
 あのベンチのところで照夫を背中から降ろすと、鹿はさっと駆け出し、裏木戸を抜けて森の中へ姿を消してしまった。
 家の中は暗く、何も変わった様子はなかった。
 照夫は足音を忍ばせて歩き、寝室へ戻った。
 顕微鏡を物入れに隠し、再び寝巻きを着て、ベッドにもぐりこんだ。
 30秒もたたないうちに、照夫は眠り込んでしまった。


 翌日は、日差しの強い明るい朝が待っていた。
 目を覚ましてすぐ、照夫は昨夜のことを思い出し、物入れのドアを開けてみた。
 顕微鏡がちゃんとそこにあることを確かめて、ニンマリした。
 服を着て、朝食を食べるために食堂へ歩いていった。
 この日は夕方まで伯母は家を留守にしたので、照夫は好きなだけ顕微鏡を調べることができた。
 確かに顕微鏡には違いないが、全体の形や装飾はひどく古めかしい感じがする。
 あの湖底に何十年もあったのかもしれない。
 手の小さい人のために作られたのか、レバーやつまみがとても小さい。
 使い方はよくわからなかった。
 レンズの中を何度ものぞき込んだが、真っ暗なだけで何も見えなかった。
 レンズの中は黒々とし、本当に何も見えない。
「ちぇっ、これじゃあ何の役にも立たないじゃないか…」
 とうとうあきらめて、机の上に置いたまま、照夫は忘れてしまった。
 その後は一日、外で遊ぶことにし、照夫が自分の部屋に戻ってきたのは、夕食をすませてからだった。
 そのときになって、顕微鏡を机の上に出しっぱなしにしたことにやっと気がついた。
 今は窓から月光が差し込み、顕微鏡を照らしていた。
 そのメカニカルな姿は、昼間よりもずいぶん明るく輝いて見える。
 照夫はなんとなくレンズをのぞき込んだ。
 だが今朝とは違い、その内部が真っ暗ではないことに気がついて、とても驚いたのだ。
 何もかも忘れて顕微鏡にかじりつき、照夫は夢中になってのぞき込んだ。
 自分が何を見ているのかを理解するのには、長い時間はかからなかった。


 顕微鏡を手に入れてから、あっという間に数年がすぎた。
 照夫は伯母と暮らし続け、顕微鏡は物入れの奥にしまって、密かに持ち続けた。
 毎日学校から帰ると、伯母と夕食を食べ、照夫は自分の部屋へ引き上げる。
 寝るまでの時間を静かに過ごすためだが、照夫はこの時間が一日のうちで最も好きだった。
 顕微鏡を取り出し、机の前に座り、その中をのぞき込むのだ。
 毎日毎日、もう何百回もそうしているのだが、そのたびに胸が高鳴るのを感じる。
「今日はどんなものを見ることができるだろう?」
 顕微鏡の使い方にも照夫はすっかり慣れていた。
 レンズを上下に移動させ、ピントを合わせて、どこでも好きな場所を自由自在に見ることができるようになっていた。
 顕微鏡をのぞき込むのは、いつも月が昇ってからだ。
 そうでないと意味がない。
 月が地平線の向こうに顔を見せるころ、照夫はいそいそと顕微鏡を持ち出すのだ。
「月って本当は、誰かが作った巨大なレンズじゃないのかな?」
 という気がすることがある。
「…そして、この顕微鏡がそれに接続されているんだ」
 この顕微鏡をのぞき込むと、照夫は地球の姿を眺めることができるのだ。
 まるで人工衛星に乗って飛んでいるかのように、地球をとんでもない高度から見下ろしている映像だ。
 黒々とした宇宙の闇に浮かび上がる地球は、美しいという言葉だけでは例えようもなく、まったく不十分である。
 それだけではない。
 照夫は、その地球の地表、そのどこにでも、この顕微鏡の焦点を合わせることができるのだ。
 対物レンズを送り出し、対象物をかなりの大きさにまで拡大して眺めることもできる。
 そこまで拡大せずとも、大洋の中央を行く船や、砂漠を横切る長い貨物列車、中国の万里の長城などは簡単に見分けることができた。
 万里の長城は、ミミズのようにくねくねと曲がりながら伸びているが、月光を受けて、とても美しく輝く瞬間がある。
 対象に向かってどのくらいまで近寄ることができるのか、照夫は一度実験をした。
 地図で見慣れている海岸線を見つけ出し、自分が住んでいる町をめがけて照夫は近寄っていったのだ。
 鉄道の線路をたどるとわかりやすかった。
 カーブを描いた川の形にも見覚えがある。
 やがて照夫は、すぐに自分が住むこの家をレンズの中に見つけることができた。
 門のわきのイチジクに花が咲いているところも、昼間見ている光景とまったく同じだ。
 庭のすみで伯母が野良猫にエサをやっている姿も見える。
 家の南側へ目を移し、照夫は自分の部屋の窓を探した。
 そして薄いレースのカーテン越しに、机の前に座って顕微鏡を夢中になってのぞき込んでいる自分の姿を見つけることができたのである。
 そうやって夜の世界を散歩しながら、大洋の中央を漂流している小さなボートの姿に気がついたことがある。
 雲のない晴れた夜で、もしかしたら最後の一本かもしれないが、ひげもじゃで疲れ切った顔の男が火をつけた煙草の光に気がついたのだ。
 なぜこんな海の真ん中にと思ったので、対物レンズを送り出し、照夫は近づいていった。
 制服から見て海軍の水兵で、どうやら難破船から脱出してきたようだ。
 本当に小さなボートで、人の姿はその男一人しかなかった。
 月光を受け、ボートを取り巻く海面はきらきらと美しく輝いているが、男の顔は悲しげだった。
 きっともう何日も漂流しているのだろう。
 対物レンズを引き戻して距離をとり、照夫はまわりの海を探した。
 だがなんという落胆。
 周囲に船の姿はまったくなかったのである。
 さらに距離をとって、もっと広い範囲を探したが、やはり一隻も見えなかった。
 何十キロか向こうに貨物船がいることはいたが、走っている方向がまったく逆だ。
 この船があの漂流者を見つけることはありえない。
 照夫はあせりを感じた。
「僕はどうすればよいだろう?」
 何分間も迷ったが、心を決め、照夫はついに行動を起こした。
 足音を忍ばせて、伯母に見つかることなく通りに出て、公衆電話へ行くことができた。
 受話器を上げてコインを入れ、交換手を呼び出した。
「もしもし…」
 話を聞いても、海軍の担当者はまったくピンとこない様子だった。
 だが照夫は、できるだけていねいに状況を説明したのだ。
 海岸から何百キロも離れた海上を水兵らしい男が、たった一人で漂流していること。
 航路から離れているから、発見される可能性はとても低いこと。
「そうだ。船の名前は…」
 担当者はいかにも疑わしそうに聞いていたが、ボートに書かれていた船名を告げると、突然態度が変わった。
「なんだって?」
 自分の名をきかれる前に、照夫は受話器を置いた。
 誰にも見られることなく、無事に家に帰ることができた。
 小さなボートで漂流していた水兵が一人、海軍の艦船に救助されたという記事が数日後の新聞に載ったので、照夫はほっとした。
 ただ匿名の通報者があったなどとはまったく書かれていなかったから、照夫の通報がどれだけ役に立ったのかはわからない。


 この顕微鏡を通して、照夫は様々なものを見た。
 鏡のように輝く南極の氷原や、そこで遊ぶ動物たち。
 真夜中に海峡を越えていく何億匹もの蝶たち。
 この世界には、人間の知らない光景が一体いくつあることか。
 だが楽しいことばかりではない。
 つい先日だが、ある国が鼻の下にヒゲを生やした独裁者の下で団結し、ひそかに再軍備に取りかかっていることに照夫は気づいてしまったのだ。
 国境へ向かう貨物列車に積まれていたのは、明らかに戦車だった。
 係員がドアをわずかに開けた隙に照夫は見てしまったのだ。
 だが世界の人々がこの事実に気づくのは、まだまだ先のことだろう。
 そのときには、あの国は戦争を始める準備を終えてしまっているに違いない。
 でも照夫には、どうすることもできない。
 今回は、ボートで漂流している水兵とはわけが違うのだ。
 あの国は今、平和的国家と考えられているのだ。
 誰も照夫の話などまともに取り合ってはくれないだろう。
 その夜以来、照夫は、その国の様子を観察しないではいられなくなった。
 世界の他の部分への興味など完全に失ってしまったのだ。
「もうすぐあの国が戦争を始める…」
 なんとかして世界中の人々に警告を送ることはできないだろうか。
 照夫はそのことばかり考えるようになった。
 だからあの夜も、照夫は顕微鏡を通してその国を眺めていたのである。
 レンズの中央には駅が浮かび上がっていた。
 大都会にある大きな駅で、ちょうど列車が到着しようとしているところだ。
 外国から来た特急列車のようだが、たくさんの乗客たちが棚からカバンを降ろし、下車するために通路を歩き始める姿が窓越しに見えていた。
 みな裕福そうで、仕立てのよい服を着ていた。
 それも当然かもしれない。
 これは各国から訪れた政治家たちを乗せた特別列車なのだ。
 明日からこの町では国際会議が開かれるということを、照夫は新聞で読んで知っていた。
『世界平和のため』などと白々しい大ウソをついて、あの独裁者が呼びかけて開くものだ。
 会議場の演壇の上で、独特の大きな身振りでもって、あの独裁者がまたいいかげんで自分勝手な理屈を振り回すのかと思うだけで、照夫は腹が立って仕方がなかった。
 列車が停車し、乗客たちがホームにあふれた。
 おつきや護衛の者もたくさんいる。
 大きなカメラを持った新聞記者たちも同行している。
 荷物を抱え、彼らはゆっくりとホームを歩き始めた。
 この駅にはホームが2つあり、そのもう一つの線路めがけて別の列車が接近しつつあることにも照夫は気がついた。
 だが人の乗った列車ではなく、ただの貨物列車だ。
「ふん」
 照夫は鼻を鳴らした。
 先日見たのと同じように、この貨物列車にも実は戦車が積まれているのではないか?
 それが、平和を求める各国の政治家たちのすぐ横を通過していくのだ。
 照夫は胸が悪くなった。
 ホームに差しかかり、貨物列車は駅を通り過ぎようとしていた。
 それを目にした瞬間、なぜなのか自分でもわからないのだが、あらがいがたい衝動に駆られ、気がつくと照夫は、貨物列車めがけて思いっきり顕微鏡をズームインさせていたのである。
 いつもはゆっくりと優しく回すつまみを、乱暴にグイとひねったのだ。
 レンズの中で機関車が照夫に迫り、ふくれ上がるかのようにドンドン大きくなってゆく。
 それでも照夫は指を止めなかった。
 もう視野は巨大な黒い車体でいっぱいだ。
 だが照夫は接近を続けた。
 相手が大きすぎ、照夫の目にはもう車体の一部しか見えていない。
 まるでツバメに変身して、貨物列車にむかって体当たりをしようとしているかのようだ。
 機関車にぶつかるまで、もう何秒もない。
 ものすごい勢いだ。
 そして次の瞬間、思いがけずガチャンと大きな音が聞こえ、顕微鏡が粉々に砕け散ったのである。
「あっ!」
 レンズは無数の破片になり、きらきら光りながら飛び散った。
 照夫にケガをさせるようなことはなかったが、砂糖つぼの中身をぶちまけたときのように、机の上に散らばったのだ。
 あまりの出来事に呆然と見下ろしていたが、とうとう照夫はため息をついた。
 彼の顕微鏡は破壊され、完全に失われてしまったのだ。
 机の上にあるのは、今ではねじれた金属とガラスの破片でしかないのだ。
 もう二度と夜空の散歩を楽しむことはできないだろう。
 数年にわたる照夫の密かな楽しみは、手の届かないところへいってしまった。
「ううん、でもこれでよかったのかもしれない…」
 という気もした。
 数ヶ月のうちには戦争が始まる。
 顕微鏡を持っていたとしても、照夫に見ることができるのは戦場や廃墟ばかりだ。
 きっとひどくつらく、悲しい思いをするに違いない。
 あきらめて顕微鏡の破片を片付け、照夫はベッドに入ることにした。
 だがその翌朝、新聞を読んで、ひどく驚くことになった。

○○国の首都にて、大列車事故発生

 列車事故が起こっていたのだ。
 もちろん事故現場は、照夫が昨夜、顕微鏡で見ていたあの駅である。
 平和会議のために各国の政治家たちが到着した直後に、その事故は起こった。
 駅を通過しかけた貨物列車が、なぜか突然脱線し、速度が出ていなかったので乗務員たちにケガはなかったが、車両は転ぷくし、貨車たちは折りかさなり、車体が破れ、積荷があたりに散乱したのだ。
 そして、その積荷が問題だった。
 何十台もの戦車だったのだ。
 しかも工場で完成したばかりの新品ばかり。
 国際条約により、あの国では軍備が一切禁止されているにもかかわらず…。
 だからこの件は、ただの脱線事故というよりも、政治的な意味のほうがずっと大きかった。
 それが、新聞記事の活字の大きさに反映していたのである。
 照夫はむさぼるように呼んだ。
 掲載されている現場写真に目をこらした。
 この事故が起こったのは、各国の政治家たちの目前なのだ。
 カメラを持った記者たちも同行していた。
 あらん限りのフィルムを使って、彼らが現場写真を撮り続けたのは想像にかたくない。
 24時間以内に、その写真は世界中の新聞紙面を飾ったのである。
 あの独裁者に対して、もちろん世界中から非難が集中した。
 最初は何とか言い逃れようとしたが、結局はあの男も辞任を表明せざるを得なかった。
 世界中の国々が協調して、あの国に対する完全な経済封鎖と国交の断絶を表明したからだ。
 そんなことをされれば、どんな国でも一瞬で干上がってしまう。
 ここまで何年間も極秘に進められてきた再軍備も、完全に白紙に戻された。
 独裁者は失脚し、別の政権が誕生した。
 その新政権にしても、各国からの厳しい監視つきということで、当分は厳しい運営を余儀なくされるだろうが、照夫も同情する気にはならない。
 しかしこれで、世界が新たな戦争に巻き込まれることは回避できたのだ。
 一件落着ということなのだろう。
 だが不思議なのは、脱線事故の原因がいくら調査してもさっぱりつかめなかったことだ。
 車両にも線路にも何の異常もなく、すべてが正常で、全員が首をかしげるばかりだった。
 そういう非常に奇妙な事故だが、もっとも奇妙なのは機関士の証言で、
「…ホームを通過しようとしたとき、突然真横から何かに衝突されたような強いショックがあり…」、
 あっと思ったときには脱線していたということだ。
 長い鉄道生活の中でもまるで経験のないことで、
「まるで見えない巨大な手によって、突然機関車が真横からぶん殴られでもしたようだった」
 と機関士は証言を締めくくったが、結局何もわからず、事故調査は原因不明のままで終了するしかなかったのである。
「うふふ…」
 真実を知っているのは、現場から遠く離れた東洋の島国に住む少年ただ一人…。

トンネル

 あの憎い敵機に追われていたとき、私の頭の中にある考えは唯一つでした。
「なんとかして、この列車を次のトンネルまで走らせなくてはならない」
 敵機はアメリカのグラマンでした。濃い青色に塗られた海軍機です。それが機銃を発射しながら、私の運転する列車を追いかけてくるのです。
 第二次世界大戦中、鉄道は重要な戦略目標でしたからグラマンが追ってくるのは当然で、しかも私が運転していたのは貨物列車でした。軍事物資を運んでいるのですから、パイロットの目の色が変わるのも無理はないでしょう。
 ダダダ、ダダダと弾丸が周囲の地面にめり込むのが感じられました。生きた心地も何も、あったもんじゃありません。
 もしかしたら車体にだって2、3発は食らっていたかもしれません。しかしいくら飛行機でも、トンネルの中までは追ってくることができません。しかもトンネルは、もうすぐ目の前だったのです。
 私は、機関車のコントローラーを全開に保ち続けました。そんなことをすればモーターに無理がかかるに決まっていますが、構っておれなかったのです。
 そして、やっとトンネルの入口を入って停車することができたときの安心感ときたら、とても言葉では表せないほどでした。
 このトンネルは、列車の全長以上の長さがありました。私の列車は、甲羅の中に頭と尾を引っ込めたカメのように、すっぽりと身を隠すことができたのです。
 まったく、やれやれという気分でした。
 もちろん敵機は、トンネルの出口で待ちかまえているかもしれません。だけど私は、10分でも20分でもここで待つことができます。飛行機の燃料には限りがあるのです。いずれ空母へと戻らなくてはならなくなるでしょう。
「それじゃあ、敵さんの顔でも拝見するか」
 機関車の運転台から降りて、私は徒歩でトンネルの出口へ向かおうとしました。だけど異変が起こったのは、その瞬間のことだったのです。
 突然足元がグラグラとゆれ始めたのです。転覆する心配まではありませんでしたが、機関車の車体までユサユサと音を立てました。
 かなりの規模の地震でした。東南海地震という言葉を聞いたことはありませんか? 戦争中のことなので報道もされず、記録もあまり多くは残っていません。国家のエネルギーをすべて戦争に注いでいた時代なので、国民の意気をくじくような情報は統制されたのです。
 マグニチュード7・9といいますから、本当に大きな地震だったのですね。これが私のいたトンネルに襲いかかってきたのです。
 機関車から離れ、私は数歩歩きかけたところでしたが、とても立ってなどいられませんでした。
 ゴゴゴという音と共に、トンネルの壁にヒビが入りました。どこか遠くからは、岩の崩れる音が聞こえ始めています。身をかがめ、私はできるだけ体を小さくするほかありませんでした。
 揺れがどれほど長く続いたかはわかりません。体の上にいくつか小石が落ちてきたのを感じましたが、幸いケガをすることはありませんでした。
 揺れがやっと収まると、小石を振り落とし、私は見回しました。自分がまだ生きていることが不思議な気もしましたが、とにかく光があり、私は見ることができたのです。
 光がある理由はすぐにわかりました。機関車のヘッドライトがまだ光っていたのです。
 その光のおかげで、出口が完全に崩れ落ちていることは、すぐに見て取ることができました。天井を突き破って、巨大な岩が落下していたのです。地震が起こるのがあと何秒か遅ければ、私はあの真下を歩いていたに違いありません。
 しかし、そんな幸運を噛みしめている余裕はありませんでした。私はバネのように立ち上がったのです。
 機関車の運転席によじ登り、私は急いでヘッドライトのスイッチを切ったのです。この様子では、もう線路は停電しているはずです。ヘッドライトはバッテリーで点灯しているに違いありません。この先は何が起こるかわかりません。万が一を考え、電気を節約しなくてはならなかったのです。
 物入れの中を探して、懐中電灯を見つけることができました。それを手に再び機関車から飛び降り、私はトンネルのもう一つの出口の様子を見に駆けていったのです。
 予感は的中し、私は大きな絶望を感じることになりました。こちらの口も完全にふさがっていたのです。大きな岩と瓦礫にフタをされ、はい出すどころか、外の光一つ見ることができませんでした。
 私は列車ごと、トンネルの中に完全に閉じ込められてしまったのです。
「ふうう」
 私はため息をつきました。あせっても仕方がありません。
 もちろん何回も調べましたが、どちらの出口にも、人がはい出せるような隙間などありませんでした。
 いずれ救助隊がやってくるとして、一体いつになったら岩や瓦礫が取り除けられ、脱出路が開かれるのだろう。私は頭を落ち着けて考えました。
 これほどの大地震なのです。救助を必要とする箇所は何百、もしかしたら何千にも及ぶことでしょう。このトンネルに救助の手が伸びるには、少なくとも一週間はかかるに違いありません。
 乾電池を節約するため、懐中電灯のスイッチまで切ってしまい、鼻をつままれてもわからない本当に真っ暗な中で、私は考えをまとめようとしました。前線ではないとはいえ、これでも戦争時代を生き抜いてきた人間です。多少は肝がすわっていたかもしれません。
 頭の中でいくらか作戦が出来上がったところで、私は機関車へと戻りました。そして手を動かし始めたのです。
 機関車に積んであるバッテリーの配線を外し、作業用の小型ライトにつなぎ代えました。大して明るくはないけれど、懐中電灯よりは長持ちのする明かりを得ることができました。
 電気機関車とは、電気部品の塊なのです。その気になれば、役に立つパーツを色々と見つけることができるものでした。
 次に私は、貨車を調べ始めたのです。
 貨物列車ですから、色々な荷物を積んだ貨車が何十と連結されています。それを一つ一つ開いていったのでした。
 石炭や砂、木材を積んだ貨車もありましたが、これらはどうやっても役に立ちそうにありません。そのほか、エンジン用の部品を木箱に詰め、山のように積み上げた貨車もありましたっけ。
 でも私は幸運だったに違いありません。何両か調べるうちに、軍用の食料を積んだ貨車に行き当たったのです。
 陸軍のどこかの部隊へ送られるものだったようですが、段ボール箱いっぱいの食料品がそれこそ何十とあり、中身は乾パンや缶詰で、もちろん味のよいものではありませんが、飢える心配はなくなったわけです。
 この食料には、密閉された新鮮な飲料水のビンもそえられていました。量は少ないけれど砂糖菓子の包みもあり、「これはなかなかのご馳走だぞ」と、こおどりしたものです。
 まったく大した宝の山でしたよ。これだけ物資があれば、一週間どころか、もっと長く生き延びることができそうな気までしたほどです。
 食料と水が手に入ると、他のものが気になってきました。空気です。
 ただこれは、初めからあまり問題ではありませんでした。トンネルの中をかすかだが風が流れていることに、私は気がついていました。出入口はふさがれていても、風が通り抜けるだけの穴や隙間はどこかに開いていたということなのでしょう。
 ここまで私は、電池の電気を節約し、慎重に行動してきました。用のないときにはスイッチを切り、何一つ音の聞こえない真っ暗な中でじっと座っていたほどです。それが2日目か3日目のことでしたが、積荷の中に新品の乾電池を見つけたとしたらどうです?
 本当にその通りのことが起こったのです。どこかの電器メーカーの出荷品だったのでしょう。貨車一台分の乾電池の山です。頭がくらくらして、私は夢を見ているような気持ちがしたものでした。これで私は、明かりの心配もしなくてよくなったのです。
 貨物列車とは、本当にさまざまな荷物を運んでいるものです。長いこと機関手をしていたくせに、私も今さらのように感じ入ったものでした。
 長い貨物列車とは、一つの町を支えることができるほどの多種、多量の物資の集まりなのですね。
 私はガソリンを見つけました。畑で使う肥料や農機具も見つけました。利用法があるわけではありませんが、自転車なんか一ダースもありましたよ。
 このころから、私の気持ちにある変化が訪れました。それまでは、救助隊がやってきて、助け出してもらえる瞬間が待ち遠しくて仕方がなかったのに、それを恐れる気持ちが生まれたのです。
 その理由については、もう少し後でお話しすることにしましょう。
 それにしても、これはあまりいい道路じゃありませんね。泥だらけで、歩きにくいったらありゃしない。通る人もないのでしょう。人里離れたこんな山中ですから、無理もありませんが。
 この角を曲がるとそろそろ視界に入ってくるはず…、ああ見えてきました。あのトンネルですよ。月光を受けて、線路が光っているではありませんか。あれが、あの時私が閉じ込められたトンネルの入口なんです。
 いま何時です? もうそんな時間ですか。では最終列車が通過するまであと15分、目立たないように、ここらに座っていることにしましょう。
 さて話の続きです。
 そうやって私は貨車を1台1台調べていったのですが、ついに奇妙な貨車に行き当たることになりました。
 真っ黒に塗られ、箱のように四角いけれど、いやに長い車体をしているのです。中身を積み降ろしするドアが車体の中央ではなく、片方に寄っているのも不思議な感じです。
 でも私は、すでにこの貨車の正体を知っていました。当時の鉄道ではおなじみの存在だったのです。700型有蓋車といい、持ち主は国鉄ではなく、なんと日本海軍なのでした。
 魚雷を積み込み、輸送することを目的に作られた車両だったのです。今では考えられませんが、まったくそういう時代だったのですよ。
 ドアにはもちろん厳重に封印がされていましたが、地震のせいでトンネルの一部が崩れ落ち、この貨車の屋根に大穴を開けていたのです。車内へ入り込むのは簡単なことでした。
 私だって、何かを探してという目的があったわけではありません。ただ好奇心を感じ、魚雷というものを眺めてみたくなっただけです。魚雷なんて、言葉は知っていても、一般人が実際に目にする機会はほとんどありませんでした。
 明かりを手に、私はおそるおそる車内へ足を踏み入れました。輸送するときには魚雷から信管や火薬は抜き取られていることを知ってはいましたが、それでもなんとなく恐ろしかったのです。
 でも私の怖さは、一瞬で驚きへと変化することになりました。この貨車が運んでいたのは、魚雷とはまったく別のものだったのです。
 軍とは巨大な組織です。そして巨大であればあるだけ、表に出せない金や品物が増えてゆくものかもしれません。
 どこからやってきたものなのか、私には見当もつきませんでした。時代は第二次世界大戦の後半です。南方のどこかから持ってきたのかもしれません。海軍はこれを売って、新しい戦艦でも建造するつもりだったのかもしれません。
 あれれ、ついに列車が来ましたか? あのトンネルへ入ってゆきましたね。ええ、あれが今夜の最終列車です。ではそろそろ御輿(みこし)を上げましょう。
 もう見当がついたかもしれませんが、魚雷輸送貨車の中で見つけたものを、私は少しくすねたのです。早く言えば盗んだということですが、私だって、この戦争が負け戦だということは知っていました。戦争に負ければ、海軍もただではすまないでしょう。多少の盗難事件が発覚しても、追求する余裕はないだろうと思われました。
 戦争のせいで私だってグラマンに追われ、トンネルに閉じ込められるような目にあったのです。このくらいの盗みは多めに見てもらえるだろうと考えたのです。
 だけど問題がありました。くすねるのはいいとしても、それをどこに隠すかということです。
 ちょっとかさばる物なので、ポケットに入れておくわけにはいきません。救助隊が来たときに、すぐに発見されてしまうでしょう。
 私は、どこかに隠し場所を見つけなくてはなりませんでした。戦争が終わり、世の中が落ち着いてから取りにこようと思ったのです。
 しかしどこへ隠そう?
 列車に隠すのはいいアイディアではありません。いずれ列車は回収され、修理工場へと送られることでしょう。その時見つかってしまうに違いありません。
 私は少し頭を絞らなくてはなりませんでした。最終的に隠し場所と決めたのは、一体どこだと思います?
 戦争が終わって何年もたつけれど、まだ発見されてはいません。もし見つかっていれば、犯人として真っ先に疑われるのは私ですが、警察は私に近づくそぶりすら見せていません。
 私はトンネルの中に隠すことにしたのですよ。トンネルの内部ではあるが、修理工事が始まってもまずわからない場所です。
 目立たないけれど、トンネルには小さな横穴があったりするのです。もともとは建設工事に使われ、完成後は不要になり、忘れられてしまう穴なんです。
 隠し場所として、これほど打ってつけのところはありません。貨物列車の積荷の中にはセメント袋もあって、線路の砂利と混ぜて壁をふさぐのは難しい仕事ではありませんでした。
 そのコンクリートはカチンコチンに固まり、今ではまわりの壁とほとんど区別がつかなくなっていることでしょう。
 でも年を取ると、そういう壁を壊すという作業がひどく面倒に感じられましてね。だからあなたを仲間に引き込んだのですよ。
 ついに救助隊がトンネルへやってきたのは、私が隠し終えて、痕跡を消したり隠ぺい工作もやっと追えた2日ほど後のことでした。もちろんうれしくはあったけれど、このトンネルの中で何があったのかを悟られないよう気をつけるのは苦しいほどでした。
 さあ、ついに私たちもトンネルの入口まで来ましたね。では懐中電灯をつけましょう。
 トンネルの内部は湿っぽくて、いつもこんな匂いがしているのですよ。私と列車を救出したあと、トンネルはこのように完全に修理されたのです。今でもちゃんと列車が走っていることは、さっきご覧になったとおりですよ。
 例の横穴は、入口よりももう少し先です。さあ歩いてゆきましょう。
 そういえば辰五郎君、君は私の娘とは同い年で、小学校のころにはよく一緒に遊んでいたのでしたね。ふふふ、君はいささかガキ大将だったが。
 そんなにびっくりした顔をすることはないじゃないか。まさか本当に私が君の正体に気づいていないと思っていたかい?
 とんでもない。同じ町に生まれたよしみで、こんなにいい話を持ちかけてやったのさ。戦後の混乱期に、どこかよその町へ引っ越していった君を探し出すのにどれほど手間がかかったことか。
 もちろん君は、私の娘のことを覚えているだろうね。
 そうさ。まだ小学4年だったある日、娘は突然行方不明になってしまった。妻と私は色々手をつくして探したが、手がかりすらなかった。まるで神隠しにでもあったかのようだったね。
 どうした辰五郎君? 娘の話が出たからって、君が不安に思う必要はないじゃないか。
 娘が行方不明になった日の夕方、駐在の警察官が君の家を訪ね、「道子ちゃんがどこへ行ったか君は知らないか」と質問したとき、君がはっきりと首を横に振ったのを、私は昨日のことのように覚えているのだからね。娘の件に無関係なら、君は何も心配する必要はないさ。
 道子は、妻と私が年取ってからやっと生まれた一粒種でね。だがそれが突然いなくなってしまった。
 私はもちろんだが、特に妻にはショックが大きかった。道子がいなくなり、死んだものとあきらめて墓を立てて1年もしないうちに、妻は病死してしまったのだよ。誰が悪いと名指しするわけじゃないが、道子の行方不明に責任のある者がもし存在するのであれば、それは2人分の命を奪うという罪を犯したことになるのさ。
 ひょんなことから私は思い出したのさ。行方不明になる日の昼過ぎ、君と道子が一緒に貨物駅のほうへ歩いてゆく姿を見かけたことをね。
 しかし昔話はこのくらいにしよう。
 さあ着いたぞ、辰五郎君。
 そこの壁をごらん。そこだけコンクリートの色がわずかに違うだろう? ここさ、ここに横穴があったんだ。
 さあ辰五郎君、もうカバンを置いていいよ。ここまで長い道のり、重かっただろう。
 えっ? このカバンの中には何が入っているのかって? 
 もちろんコンクリート壁を壊して、宝物を取り出すための道具さ、と言いたいところだが、実は違うんだな。君が驚くようなものだよ。暗い中で申し訳ないが、カバンから取り出してくれるかい?
 そう、そこを押せばカバンのフタが開くよ。中に手を入れてごらん。
 おやおやおや、これはまたパチンといい音がしたものだねえ。でも痛くはなかっただろう? カバンから手を出してみたまえ。
 手錠さ。なんと君の手首に見事にはまっているじゃないか。引っ張ってもだめだよ。取れるはずなんかない。
 そのカバンの中には丈夫な太い鎖も入っていて、手錠はその鎖に連結されているんだ。
 辰五郎君、このコンクリート壁からも鎖が伸びているのが見えるかい? これは昨日の真夜中、私が苦労して打ち込んでおいたものさ。
 君の鎖を、こっちの鎖に南京錠で固定するんだ。
 パチン!
 ほらできた。
 どうだい辰五郎君、まるで首輪をつけられた飼い犬みたいに、君はもう線路から一歩も動くことができないじゃないか。あきらめてそこに座って、私の話に耳を傾けてはどうだい?
 君は、私が貨車の中に金塊でも見つけたと思ったらしいが、そうじゃないのさ。私が見つけたのは、そんなものじゃない。道子だったのさ。
 そうさ私の娘だよ。かわいそうに、あの子はすでに凍え死んでいた。
 ふん、なんだいその顔は。
 いい加減に認めたらどうだね。あの日君は道子を連れて、家の近所の貨物駅へと入り込んだ。もちろん遊び場所を探して、何の気なしに忍び込んだのだろう。そしてドアが開いたままの貨車を見つけ、好奇心に駆られ、2人で中へ入ってみたのじゃないかね?
 2人とも目を丸くしたことだろうと思うね。海軍の本物の魚雷なんて、大人でもなかなか目にすることはないからね。
 ところが、ここで思いがけないことが起こった。
 何かの事情で仕事場を離れていた作業員たちが、突然貨車のところへ戻ってきたのさ。もちろん、怖い顔をした憲兵も一緒にだよ。
 軍の兵器の積み込み作業なんだ。憲兵が同席しないはずがない。
 あの時代、軍事機密の保護は徹底していたからね。見つかれば子供でも大変なことになるのは、君も道子もわかっていた。だからとっさに身を隠した。
 君は車外へ飛び出す余裕があり、ホームの物影へでも隠れたのだろう。だが道子は運が悪かった。貨車から飛び出すタイミングを失ってしまったんだ。だから貨車の車内で、魚雷の陰に潜むしかなかった。
 その次に何が起こったと思う? 憲兵と作業員たちは、なんと貨車のドアを閉め、厳重に鍵をかけ、そのまま貨物列車を発車させてしまったのさ。
 その列車を次の日、私自身が運転することになるとは、なんという皮肉だろうねえ。
 道子はどんなにか恐ろしかったことだろう。真っ暗な貨車に閉じ込められ、泣いても叫んでも誰にも聞こえない。いつ停車するのかも知れず、貨物列車はえんえんと走り続ける。道子は、妻と私の名を何度も何度も呼んだことだろう。
 あの寒い季節のことだからね。道子は翌朝まで生きてはいなかっただろう。
 屋根の破れた貨車の中で私が見つけたのは、道子の死体だったのさ。
 その時の私の気持ちが想像できるかい?
「お父ちゃん、お父ちゃん」とよくなつく子だった。夏祭りの日など、飴玉を買ってやったら、とても喜んでね…。
 その道子を、私はこの手でトンネルの中に埋葬してやったのさ。
 さっき君が鼻の下を長くして聞いた横穴や、そこに詰めたセメントという話は、みんな道子の埋葬のことだったのだよ。金塊なんてものじゃない。かわいそうに、道子はこのコンクリートの向こうで骨になっている。
 そうするしかなかったんだ。いずれ救助隊がやって来れば道子も見つかり、スキャンダルになるのは目に見えている。道子を死に至らしめた犯人は君だと、私は一瞬で悟ったよ。
 でも君の祖父は陸軍の大将だったじゃないか。
 あの時代、大将といえば相当なものさ。戦争が終わるまでは、君の責任を問うことはあきらめるしかなかった。事件を表ざたにしても、君の祖父があっという間にもみ消してしまっただろう。
 だが戦争は終わり、世の中は変わった。あの後も毎日列車を運転して、このトンネルを通ってきた私の気持ちがわかるか? このトンネルは道子の墓なのさ。
 さあひざまずけ。墓の前で祈りをささげるんだ。
 それが、生きている間に君がする最後の行為だからさ。
 何だって? まだ10歳だった時分のことだから、許してくれというのかい?
 道子も10歳だったのだよ。道子はそんな年で死ななければならなかったんだ。
 そのつぐないさ。君は道子よりも15年も長生きができたんだ。それだけで幸せじゃないか。
 ほら聞こえたかい? あれは汽車の汽笛だ。もうすぐここへ一番列車がやってくるのだよ。
 もちろん私には、君の手錠を外してやる気などないさ。鍵のかかった貨車の中に道子が閉じ込められていることを、君が誰にも告げる気がなかったことと同じさ。
 さて、私はそろそろ行くよ。列車が来る前に、トンネルの外に出ていたいからね。
 時間はあと5分。その間に、あの世で妻や道子と顔を合わせたときにする言い訳でも、せいぜい考えておくのだね。

飛行機

 飛行機に乗った時、僕は奇妙な経験をしました。旅の疲れもあって旅客機の座席でうとうとしていたのだけれど、ふと目が覚めると機内が空っぽなのです。客室は無人で、誰も座っていないイスがいくつも並んでいるだけで、人影はまったくありません。
 スチュワーデスの姿もなく、居眠りをしている間に何が起こったのだろうという気がして、僕は不安になりました。もちろん、もともと極端に人の少ない便でした。機内には始めから6人しかいなかったのです。でも今は6人どころか、僕一人しか姿がないのです。
 たった6人しかいない状態でこの飛行機が飛ぶことになったのには、もちろん理由がありました。夏休みに一人で旅行に出ていたのですが、家に帰る日が来たので、僕は空港へ行ったのです。だけど行ってみると、おかしなことが起こっていました。乗る予定だったのは午後10時発の最終便だったのですが、なぜかオーバーブッキングになっていたのです。機械のミスで、定員よりも2人多く座席の予約を受け付けていたのです。
 でもだからって、何日も前から予約している乗客をほってはおけません。無駄が大きいとわかっていながら、航空会社はもう一機飛ばす決心をしたのです。それに搭乗したのが、僕ともう一人の乗客でした。この飛行機は、正規便に15分遅れて空港を離陸しました。
 もう一人の乗客というのは、かなりの年のおじいさんでした。頭は完全にはげていて、ヒゲもきれいにそっているので、耳がなければまるで満月のようです。よく太っていておなかも大きく、座席に身体を落ち着けるのに苦労しているようでした。スチュワーデスの一人が手伝ってあげるのが見えました。
 スチュワーデスは2人いて、僕の世話はもう一人がしてくれるようでした。だから2人の乗客と2人のスチュワーデス、操縦室にいる操縦士と副操縦士を合わせて6人が搭乗していたわけです。
 どういうわけか、2人のスチュワーデスは色の違う制服を着ていました。おじいさんの世話は赤い服を着た年上のスチュワーデスがして、僕の世話は紺色の制服の少し若い人でした。座席に座るとき、この人がカバンを荷物戸棚の中に入れてくれ、僕は彼女を見上げました。
「こんなことはよくあるの?」
「こんなこと?」
「こんなに空っぽで飛ぶことだよ」
 スチュワーデスはにっこりしました。「私も初めて経験します。めったにないことでしょう」
 離陸準備が済み、バタンと音を立てて入口のドアが閉められました。エンジンが大きな音をあげ、機体がゆっくりと動き始めました。そうやって離陸し、僕はいつの間にか眠り込み、目を覚ますと2人のスチュワーデスとおじいさんの姿は見えなくなっていたわけでした。
 シートベルトを外して立ち上がりながら頭をしぼり、僕はこれまでに機内で起こったことを思い出そうとしました。居眠りを始める少し前のことですが、機長が客室に顔を見せたことを思い出しました。定年間近とまでは言えないけれど、意外なほど年長の人でした。さっきの若いスチュワーデスとなら親子と言っても通るかもしれません。
 注意して見ていたわけではないのですが、機長があのスチュワーデスに何かをささやくのを見たような気がしました。何を言ったのかはもちろん聞こえませんでした。だけどスチュワーデスの顔色が変わって、「あれ?」という気がしたように思います。でも僕はもう眠りかけていて、それ以上のことは何も覚えていません。
 座席を離れて歩き回り、僕は機内を探しました。ジャンボのような大型機ではないので、探す場所などすぐになくなってしまいました。それでもやはり、僕は誰一人見つけることができませんでした。客室はもちろん、ギャレーもトイレも人影一つないのです。
 僕にはわけがわかりませんでした。まだ探していないのは操縦室だけです。エンジンは静かな音を立て、飛行機は空を飛び続けています。外を見ると星が輝いています。下を向くと、どこなのかわからないけれど、山か森のようなものが暗く広がっていて、ときどき村や町の明かりが見えます。
 鍵がかかっているに違いないと思ったのですが、操縦室へ続くドアに触ってみました。すると鍵などかかってはいなくて、ドアは軽く動くではありませんか。みんなここにいるのだと思って、ほっとして僕は大きく開きました。だけど、すぐにまたがっかりしなくてはなりませんでした。操縦室の中にも人影はなかったのです。
 もちろん僕だって、操縦室とはどんな場所なのか興味がありました。思っていたよりも狭くて、パイロット2人だけでいっぱいになる感じです。イスの前には操縦かんがあり、小さな時計のような形をしたメーター類が目が痛くなるほどたくさん並んでいます。
 操縦席の背に無線機のヘッドセットが引っかけてあることに気がつきました。マイクロフォンとヘッドフォンをくっつけて一つにしたような道具です。これを使って無線機で話をするのでしょう。なんとなく手に取りました。子供っぽい行為といえばそうかもしれません。気がつくと僕は、そのマイクロフォンにむかって話しかけていました。
「ええと、誰か聞いてる?」
 すると驚いたことに、無線機から男の声が返ってきました。固い声で、こう聞こえました。
「ただいまこの周波数を使用中の方へ。これは航空機専用の周波数です。直ちに電波を出すのをやめなさい」
 僕は目を丸くしましたが、すぐに気がついて返事をしました。
「これはいたずらじゃないよ。僕はいま本当に飛行機の上から送信してるんだから」
 しばらくの間黙っていましたが、やがて相手は答えました。「ボクね、おじさんをからかっちゃいけないよ。すぐにスイッチを切りなさい。お仕事の邪魔なんだから」
「邪魔してるのは、そっちだよ。僕はいまPPM113便の操縦室にいるんだから。これは緊急事態だよ」
「PPM113?」
「東京発○○行きの最終便だけど、予約ミスがあってもう一機飛ばすことになったやつだよ」
「そこでは何が起こってるんだい?」
「僕は乗客の一人だよ。寝てて目が覚めたら、パイロットもスチュワーデスも誰もいなくなってたの」
「なんだって?」
 僕は事情を始めからすべて説明しなくてはなりませんでした。管制官は黙って聞いていました。こう言って、僕は締めくくりました。
「…それでいま、僕は操縦室へやって来たところなんだよ」
「どうも理解できんなあ。いたずらじゃないのかい?」
「じゃあこの飛行機のパイロットを呼び出してみたら? 応答するはずないと思うけど」
「少し待っておくれよ」
 しばらくの間、管制官は静かになりました。予備の別の周波数を使って、この飛行機を呼び出そうとしたのだと思います。だけど、もちろん応答があるはずはありません。少しして、当惑した管制官の声が返ってきました。
「本当に113便は応答がない。ぼうや、ぼうやの言っていることは本当なんだろうね」
「本当だよ。ウソなんかついても仕方がないもん」
 管制官は静かになってしまいました。でも30秒ぐらいして、こう言いました。
「ぼうやの名前を教えてくれるかい?」
 僕は自分の名を言いました。どこかに連絡を取って、きっと乗客名簿と照らし合わせたのだと思います。数分して返事がありました。
「わかった。どうも君の言うことは事実らしい。それでもう一度きくんだが、本当に君以外は誰も機内にいないんだね?」
 僕はもう一度事情を説明しなくてはなりませんでした。だけど今回は他の管制官たちも横で聞いているようで、いくつか質問を受けました。もちろん僕はすべてきちんと答えることができました。それが済むと管制官は言いました。
「113便、応答してください」
「はーい」
「今おじさんたちがこっちでいろいろ考えているからね。少し待っておくれよね。操縦室の機械には絶対に触っちゃいけないよ。わかったね」
「ねえ、この操縦室の床下には何があるの? 床にハッチみたいなものが見えてるよ」
「ああ、それは車輪の格納室だよ。着陸するときに出す車輪が収めてあるんだ。だけど、どうしてそんなことをきくんだい?」
「機内で人が隠れそうな場所は、もうここしか残っていないもん」
「まさかそんな場所に人間が隠れるものだろうか」
「さっき僕がこの操縦室に最初に入ってきたとき、このハッチがカチッと閉まる音が聞こえたような気がしたよ。取っ手も半分上がったままだったしね。何も考えずに、僕が足で押さえてロックしちゃったけど。だから下にいる人は、出たくても出られなくなってるんじゃないのかな」
「それはありえることかもしれない」管制官の声が緊張しました。
「考えてても仕方がないね。今からこのハッチを開けてみるよ」
「やめたほうがいい。何が起きるかわからない。もし下にいるやつが…」
「なに?」
「いや、つまりその…」
「凶悪なハイジャック犯だったらということ?」
「そうだ」
「でも、この飛行機の中に僕は一人ぼっちではいられないよ。そのうち燃料が切れちゃうもん」
 管制官は止めようとしましたが、僕はもう決心していました。マイクロフォンをほうり出し、かがみこんでハッチの金具に手をかけました。
 車輪格納室は箱のように四角い狭い部屋で、内部は暗かったけれど、ハッチが開くにつれて様子が見えてきました。海水浴で使う浮き輪を何倍にも大きくしたようなタイヤが2つ、仲良く並んで収まっています。それを支える巨大な脚もあるのですが、今は折りたたまれ、しつけの良いワシのようにひざまずいています。
 この部屋にも床があります。中央にまっすぐな切れ目があるので、着陸のときにはあそこから割れて開くのでしょう。その床の上を血が流れているのを見ることができました。すみのほうでは水たまりのようになっています。でもその血はもう固まりかけています。
 そういう床に人が倒れているのです。4人いて、折り重なるように横たわり、ピクリともしません。だけど部屋の中にはもう一人いて、この人は床の上に立って、僕を見上げていました。部屋の壁にはハシゴがあるので、その気になればこの人は簡単に登ってくることができます。だけど僕は、なぜか怖いとは思いませんでした。
 ハシゴをつたって、あの紺色の制服のスチュワーデスはゆっくりと上がってきました。気がついたときには、僕は手を差し出して手伝っていました。
「ありがとう」
 少し恥ずかしそうに彼女は言いました。2人で並んで操縦室の床に立つと、心配そうな管制官の声がヘッドフォンから聞こえてくることに気がつきました。
 でも僕も彼女も、そんなことは気になりませんでした。手を引かれ、僕は客室へ連れていかれました。スチュワーデスは、座席の一つに僕をそっと腰かけさせました。それから話し始めたのです。
「あなたはひどく驚いたでしょうね。気がつくと機内は完全に空っぽで、しかも車輪格納室には死体が折り重なっているのですから」
「うん、まあね…」
「その説明を今からしましょう。あなたには何も悪いことはないし、元気で地上へ降りてほしいと思っているのです」
「そんなことできる?」
「充分に可能です。もう気づいているかもしれませんが、この飛行機の機長は私の父です。親子で同じ航空会社に勤務しているのです。でも私には母はいません。数年前に亡くなりました。母はあるとき急病におちいり、ある病院に担ぎ込まれたのですが、そこの医師はろくな診察もせず、いい加減な手当てだけして、母を放置したのです。母が亡くなったのは翌朝のことでした」
「へえ」
「メスを入れるのは忍びなかったのですが、別の医師に依頼して、私たちは死後解剖を行いました。その結果わかったのは、あの悪党医師は伊藤という名なのですが、その信じられないほどのいい加減さでした。どんな新人医師でも見落としっこない病変を見落とし、死ぬ必要のない母を死なせたのです。どうあっても許せない怠慢でした」
「ふうん」
「もちろん父と私は伊藤医師を訴えました。裁判にかけようとしたのです。でも伊藤には、政府や役所に有力な友人が何人もいたのです。名をあげればきっとあなたも知っているであろう人々です。その人たちの口出しがあって、裁判は私たちの負けとなり、伊藤は無罪を認められてしまったのです。父と私にはもうどうすることもできませんでした。伊藤の不正を暴き、罰する方法は失われてしまったのです」
「それからどうしたの?」
 スチュワーデスは悲しそうに微笑みました。「本当にどうすることもできませんでした。父と私は以前どおり、航空会社の仕事を続けるしかなかったのです。でも神の思し召しかもしれません。何の予告もなく今日という日が訪れたのです」
「今日って? 何が起こったの?」
「この飛行機に、何も知らない伊藤が乗り込んできたのです。しかも機内はほとんど無人といってよい状態です。こんなに空っぽの便など、私は話に聞いたことさえありません。
 父と私が同じ便に搭乗するのは珍しいことではありません。でもそこへ、無人の機内と伊藤の搭乗という2つの大きな偶然が重なるなど、神様の意思が存在するとしか思えないではありませんか。私たちはそれを無駄にすることはできなかったのです」
「どういうことなの?」
「私は娘ですから、父と共に死ぬことに異存はありません。でも他の人たちはどうなります? もっとも気になったのはあなたのことです。赤い制服の先輩スチュワーデスと副操縦士にとっては、職務上の死と言えなくもないでしょう…。だけどあなたはそうではありません。気の毒ですが、先輩スチュワーデスと副操縦士を助ける方法はありませんでした。でも、あなた一人なら助けることができるかもしれません。私はその可能性に賭けたのです」
「どうやったの?」
「最初父は、墜落させてこの飛行機もろともあの憎い伊藤を殺すつもりでいました。搭乗する姿を父は偶然目にして、伊藤だと気がついたのです。そして決心を固め、私に伝えました。そのときには、この飛行機はすでに空の上にいたのです。父を思いとどまらせる方法はありませんでした」
「それで?」
「規定の高度に達し、自動操縦装置をセットしたあとで、『点検のためだ』と言って、父は副操縦士を車輪格納室へ行かせたのです。父の手の中には、すでにステーキ用のナイフが握られていました。ギャレーから持ち出したものです。無防備でいる副操縦士ののどを突くのは難しい仕事ではありません。そうやって副操縦士は亡くなりました」
「赤い服の先輩スチュワーデスは?」
「父に言われるまま、私が操縦室へ呼びこみました。殺害方法は副操縦士のときと同じでした。すでに父と私の服は血まみれでしたが、そのあと2人で客室へ行き、伊藤を操縦室へと連れてきたのです。あなたはぐっすり眠っていました」
「伊藤は抵抗しなかった?」
「私たちの手にはナイフがありましたし、相手は老人なのですよ。難しい仕事ではありませんでした。伊藤も死に、死体は他の2人と同じ場所に落とされました」
「お父さんは?」
 スチュワーデスはため息をつきました。「私にあとを任せ、自ら命を絶ちました。母のあとを追うため、父はここ何ヶ月もずっと死に場所を探していたのです。裁判が不本意な結果に終わり、すべての希望をなくした父は、毒薬を常に持ち歩くようになりました。父は今、母とともにいます」
「この飛行機はどうなるの?」
 僕は不安そうな顔をしていたに違いありません。スチュワーデスはにっこりしました。
「私が安全に着陸させることができます。小型飛行機の免許を持っているのですよ。こんなに大きな飛行機の操縦かんには手を触れたこともありませんが、一度降ろすだけなら何とかなるでしょう」
 スチュワーデスは腕時計をのぞき込みました。
「どうしたの?」
「そろそろ空港が近づく時刻です。私は操縦室へ戻ったほうがよいでしょう」
 僕を座席に座り直させ、スチュワーデスはベルトを締めてくれました。そのあと一度立ち上がりかけましたが、何かを思い直した様子です。不意にかがみ、僕の額にキスをしてくれました。
 スチュワーデスは客室を出ていき、ドアがバタンと閉まって、操縦室の中に姿を消しました。エンジンの出力をしぼり、機体がゆっくりと旋回を始めたのは数分後のことでした。床がわずかに斜めになるのを感じながら、僕は自分がなぜか幸せな気分でいることに気がつきました。理由はわかりませんでした。キスをしてもらったからかもしれません。
 床下のどこかから、油圧装置が作動する音が聞こえてきました。着陸に備えてハッチを開き、車輪を出すためでしょう。この飛行機のおなかは爆撃機のように開き、丸いタイヤが顔を出したに違いありません。
 僕は気がつきました。4人の死体は車輪格納室に入れてありました。そのハッチが大きく開いたのです。死体がどうなったのかは簡単に想像がつくではありませんか。この飛行機が『爆撃機のようにおなかのハッチを開いた』という言い方は、あながち間違っていません。
 きっと彼女はこの飛行機を安全に着陸させてくれるでしょう。何も心配することはないと思います。飛行機が着陸すると、すぐに警察官が駆けつけてくるでしょう。ドアが外から開かれ、僕はすぐさま連れ出されると思います。そのときまでには、きっとスチュワーデスは自ら命を絶っていることでしょう。彼女の父は、持ち歩いていた毒薬の一部を娘にも分け与えただろうから。
 でも二人とも、安らかに死んでいったことでしょう。一つの復讐がこれで終わったということなのだから…。

言霊

 世には、
『言霊』
 というものがある。
『言葉のうちに潜む神秘の魔力』
 といった意味で、例えば、
「明日は雨が降ればいい」
 と発言したから、雨が降ったのだ、などと解釈される。
 だからこそ、遠足の前日に口を滑らせた小学生は、科学的には何の責任もないにもかかわらず、同級生たちの迷惑そうな視線を集める破目になるのだ。
『口から言葉を発することが、魔力のパワーを本当に持つのか』
 という科学的な議論は、どうでもよい。
 私など、そんなことは毛ほども信じていない。
 しかし日本人は、古来より信じてきたのだ。
 そのことを示す古いエピソードが、私の胸の中にある。


 今から数十年も昔…。
 私の通っていた学校は、実に国際色豊かだった。
 各国の外交官や企業社員が娘を通わせたためで、アメリカ、ドイツ、ブラジル、インド、中国、ロシア、エジプトと、何でもありだった。
 この娘たちの間で、あるとき議論が起こった。
 彼女たちは、それぞれ母国語を上手に話したが、
『どの国の言葉が、もっとも強い言語なのか』
 という論争だ。
 昼休みだけでなく、通学路でも、歩きながら議論が続いた。
 もちろん、
『言語の強さとは何か?』
 が、第一に議題に上った。
「それは、美しい詩をつむぐ能力のことだ」
 と一人が言った。
 別の一人は、
「論理的に物事を述べ、考える能力のことだ」
 と言った。
 一人が笑いながら、
「口ゲンカに勝てる力じゃない?」
 と言った。
 その後も議論は続いたが、結論が、
『相手を呪う時に、最も強い力を発揮する言語のことである』
 に落ち着いたときには、私もあきれた。
 私は日本人だが、父がこの学校の教師だったので、特別に入学を許されていたのだ。
 家に帰って、私は兄にこの話をした。
 兄は面白がり、さっそく悪だくみに取りかかった。
 兄と私は計画を練り、その夜はわくわくしながら眠りについた。
 父の書斎には、カラスの剥製が飾られていた。
 色は真っ黒で、クチバシが太く、二本の足を踏ん張って、ガラスケースに収まっている。
 私たちは、これを密かに持ち出したのだ。
 その日の授業が終わり、女生徒たちは下校し始めた。
 様々な国籍の娘たちが、同じ制服を身につけ、さんざめきながら通りを歩くのは、なかなかの眺めだったと思う。
 やがて道は、小さな川を渡る橋に達するが、そこで私は立ち止まり、指さしたのだ。
「あら、あそこにカラスがいるわ。見える?」
 そこにはコンクリートの高い塀があり、カラスが一羽とまって、
『われ関せず』
 という様子で、よそ見をしているのだ。
 私は同級生たちを振り返った。
「ねえみんな、どこの国の言葉が一番強いのか、ここでちゃんと結論を出しましょうよ」
「どうするの?」
 とドイツ人の少女が、青い眼で私を見つめた。
「実験をするのよ。この橋の上から、あのカラスに向かって、呪いの言葉をかけるの。そうすればわかるんじゃない?」
「面白そうね」
 と大柄なアメリカ人の娘が言った。
 黄色い髪と、そばかすだらけの顔で、何かあると、いつも自分が一番にやりたがった。
 カバンを置き、手すりに身を乗り出し、カラスを指さし、彼女は叫んだ。
「カラスよカラス、言霊の名において、お前に命じる。今すぐ死んで、その塀から落ちよ」
 彼女の声は大きく太く、あたりに響いた。
 カラスは、ほんの少し身じろぎをしたが、平気な顔で、まだそこにとまったままだ。
 次にドイツ人の少女が前に出た。
 アメリカ人と同じことを、ドイツ語で叫んだ。
 だが何も起きなかった。
 次にロシア人が前に出た。
 でも結果は同じだった。
 そうやって私たちは、一人ずつ同じことを試みた。
 インド人、ブラジル人、中国人、エジプト人ときたが、結果はやはりまったく同じだ。
 カラスは、身じろぎをするが、死ぬ気配はもちろん、声に驚き、飛び去る様子もない。
 いよいよ最後が私の番だった。
 私は身を乗り出した。
「カラスよカラス、言霊の名において、お前に命じる。今すぐ死んで、その塀から落ちよ」
 すると、どうだろう。
 カラスは突然、体をぴくぴく震わせたかと思うと、足をよろめかせ、塀からポトリと落ちたではないか。
 地面に転がり、もう身動きもしない。
 それこそ一瞬で凍りつき、その動きのない様は、いかにも剥製だ。
 しかし娘たちはだまされた。
 彼女たちの驚きようときたら、大変なものだったのだ。
 私は鼻が高かったが、笑い出さないよう我慢するのが苦しかった。
 もちろんあのカラスは、父の書斎から持ち出したものであり、塀の向こうには兄が隠れていた。
 私と兄は示し合わせ、芝居を打ったのだ。
 だが少女たちは本気にし、日本語をほめそやし、それまでは馬鹿にして、授業中も身が入らなかった娘までが、翌日からはまじめに日本語を勉強するようになった。
 その授業を受け持つ父も、この突然の変化に驚き、大いに喜んだ。
 兄と私は、もちろん秘密を守り通した。
 二人だけで思い出しては、笑いあったのだ。
 これだけならいい。
 だが後日談があるのだ。
 剥製のトリックの部分は抜きにして、
『世界で最も強い言語は、日本語である』
 という実験結果が得られたという話を、私は父にしてしまったのだ。
 父は大変驚き、喜んだ。
 父は愛国者で、
『日本国は、他国の上に立つべき特別の存在である』
 という信念を、かねてから抱いていた。
 私のこの与太話が、父の信念をさらに強化してしまった。
 無意識の奥深くで、日本人は言霊の力を信じている。
 だからこそ、結婚式の席で、
『別れる』や『切れる』
 という言葉を使わないよう、スピーチ原稿に知恵を絞るのだ。
 父の目には、娘の私が、日本語の言霊の力を証明したように見えただろう。
 父は国粋主義者であり、友人知人も多かった。
 その何人かが我が家を訪ねるのも、珍しくはなかった。
 ある日も来客があり、偶然父の部屋の前の廊下を通りかかったとき、中の会話が私の耳に届いた。
 決して盗み聞きをしたのではない。
 大きな声なので、耳に入ったのだ。
 父は、例のカラスの話を客人にしていたのだ。
「ほう、なるほど…」
 と、うなずく声の調子から、客も話に引き込まれているのが伝わってくる。
 私は、思わずため息をついた。
「私のイタズラを本気にする人が、また一人増えたのだわ」
 その客人が帰るとき、なぜか父が私を呼び寄せた。
「おい和江、ちょっと出てきて、お客様にご挨拶をしなさい」
 戦前の家父長制の時代、娘が父の言いつけに逆らえるわけがない。
 私は言われたとおりにした。
 玄関で靴をはきかけていた客の前へ出て、頭を下げたのだ。
 客人は上機嫌で、私を見ていたと思う。
 自分の意に沿うよい話を、聞くことができたのだから。
 国民であれば誰でも、自分が生まれた国に誇りを持っている。
『唯一無二の偉大な国家だ』
 と思っている。
 その自負心の正しさを、実験で証明した娘なのだ。
 憎たらしいわけがない。
 お辞儀を終えて頭を上げ、その客人の顔を見たとき、私はひどく驚いた。
 腰を抜かしかけた、と言ってもいい。
 そこにあったのは、新聞記事の写真や、映画館のニュース映画で、何度も見たことがある有名な人物の顔だったのだ。
 それが誰であったか、ここで述べることはしないが、あなたもよく知っている人物なのだ。
 学校の歴史教科書で、顔はおなじみに違いない。
 ただの学校教師に過ぎない父の顔が、これほど広いとは、娘の私さえ知らなかった。
 客人は、各種省庁へ顔が利くどころか、内閣や国会でさえ出入り自由な人。
 いずれ総理大臣になるであろう人。
 この人が、それ以降の日本の歴史に大きな影響を及ぼしたことは、歴史に明らかだ。
 そして日本は数年後、第二次世界大戦へと突き進んで行くのだ。
 私は、自分のした小さなイタズラが、この国の運命を決定付けたような気がして仕方がない。

スフィンクス

 深夜の一人ぼっちの塾帰り、ひとけのない暗がりから突然スフィンクスが飛び出して、僕はとても驚いた。スフィンクスとは、エジプトのピラミッドのそばに巨大な石像が作られているあの怪物で、ライオンの背中にワシの翼を乗せ、でも頭だけは人間の若い娘で、青い瞳がきらきら光っていた。
 僕は走って逃げようとしたが、スフィンクスはすばやく、簡単に追いつかれた。そして伝説の通り、スフィンクスは口を開いたのだ。
「今からお前にクイズを出す。正解できなければ、お前を食い殺すぞ」
 僕は言い返した。「正解したら何をくれるんだい?」
「なんだと?」スフィンクスは目を丸くした。
「僕が勝ったら何をくれるのさ?」
「いやつまり、クイズに正解したら、お前は殺さない。お前は命が助かるのだ」
「そんなのフェアじゃないよ。正解できたら、あんたは僕の言うことをきくんだ」
「何をきけと言うのだ?」
「ふふふ、それは内緒だよ」
「まあよい」スフィンクスは首を縦に振った。「正解すれば、私はお前の言うことを聞こう」
「ほいきた」
「これが私のクイズだ。朝は4本足。昼は2本足。夜は3本足なのは何か?」
「うーん…」
 数秒間思考した後、僕は答えた。
「僕の家には『ちゃぶ台』があってね。片付ける時に邪魔にならないよう、足は折りたたみ式だ。両親はどちらも朝早く出勤するし、お姉ちゃんも朝が早いから、朝食は僕一人でゆっくり食べる。狭い部屋だけど、僕一人だけなら、ちゃぶ台の足を4本とも伸ばしてゆったり使える」
「それがどうした?」
「土曜日、僕とお姉ちゃんは昼前に学校から帰るけど、仕事の関係で、お父さんとお母さんも土曜日には家で昼食を食べる。だから部屋の中はものすごく狭くて、ちゃぶ台の足は2本しか伸ばせない。残りの2本は折りたたんだまま、押入れの中に半分入れて、なんとか場所を確保するんだ」
「なんだと?」
「夜になると、お父さんはまた仕事に出かける。だから家の中は少し広く、夕食はちゃぶ台の足を3本伸ばすことができる…。つまりクイズの答えは、『僕の家の土曜日のちゃぶ台』だよ」
「おおお…」
 突然大きな声を出してスフィンクスが泣くので、僕は驚いた。大粒の涙を流し、くやしがっている。ハンカチを出し、僕は涙をふいてやった。
「ありがとう」スフィンクスは言った。「私が負けたのだから、言うことをききましょう。どうすればいいの?」
 顔を上げて見つめるスフィンクスの表情は本当に愛らしく、僕は少しの間見とれた。
「私は何をすればいいの?」再びスフィンクスが言った。
 僕は言った。「スフィンクスの祝福を受けた者は、一生涯を幸福に暮らすって本当かい?」
「本当です。私には豊穣の神アモンの力が宿っています。あなたは私の祝福が欲しいのですか?」
「そうだよ」
「やれやれ、最近の子供は何を考えているのかしら? でも仕方がないわ。約束だもの…」

「そうやってあなたは、スフィンクスから祝福を受けたのね。それが15年前のことね」と娘は言った。好奇心で目を大きく見開いている。美人だが、田舎出身の素朴な感じもあり、こういう娘を妻にする男は幸運だ。
「ええ、そうですよ」そういえば僕もそろそろ結婚相手を決める時期だなと思いながら、僕は答えた。
「魔物からキスされるって、どんな気持ち? 怖くなかった?」
「恐怖は感じなかった。とにかく彼女は美人で魅力的だった」
「スフィンクスは人間の女の顔をしているのね。スフィンクスはあなたのどこにキスをしたの?」
「ここさ」僕は彼女の前に見せた。
「右手の人差し指? スフィンクスの祝福を受けて、具体的にどう人生が変わったの?」彼女の好奇心はつきず、目玉もビー玉のように丸いままだ。
「あれ以来、僕のこの指は魔法の指になった」
「魔法? どんな魔法が使えるの?」
「なんでもさ。試験に合格したいと念じながら、この指でペンを持てば、まず不合格はない。あれ以来、僕は一度も受験勉強をしたことがないんだよ」
「それだけ?」
「違うさ。あるところに、魅力的な若い女性がいるとする。すると僕は、この指を彼女の頬に触れさせて言うんだ」
「なんて言うの?」
「やって見せようか?」僕は、彼女の頬に祝福の指を触れさせた。
「ええ、面白そうだわ。ぜひお願い」
「その女性に、僕はこう言うんだ。『頼む。ぜひ僕と結婚してくれ』ってね」
「すると彼女はどうなるのかしら?」
「もちろん拒むことなんかできない。1週間後には彼女は白いドレスを着て、僕と並んで教会にいるのさ」
 彼女との会話が済んだ後、僕はすぐに立ち上がった。やるべき仕事は山ほどある。
「やれやれ、突然忙しくなったぞ。礼服やドレスの手配。教会の予約。友人知人への招待状の印刷か。これは1週間で間に合うかな…」

しみ

 小学生なりに私は悩んだ。転校していった正雄と、どうすれば再び教室で机を並べることができるだろう。計画を立て、私は実行に移した。古い油絵の道具を戸棚から持ち出し、通学カバンに忍ばせたのだ。
 放課後になり、校内がひっそりするまで私は待った。そして理科室へむかったのだ。
 私が巧妙だったのは、人間の形をしたシミを一度に描かなかったことだ。絵具はうんと薄め、一塗りしただけでは何も見えないほどだ。道具は下駄箱に隠し、10日間かけて、私はゆっくりと影を濃くしていった。そして、この濃さでちょうどいいと思える頃になって声を上げ、私は理科室の壁を指さしたのだ。
「あれ? あの壁のシミは、なんだか人の形に似ているんじゃない?」
 効果はてきめんだった。同級生たちはざわざわと騒ぎ、全員がその壁に目を奪われた。だが立ち上がって近寄り、近くから観察する者は一人もなかった。私の作品は、それほど真に迫っていたのだ。
 薄ぼんやりとした黒い人影だ。だがよく見ると、ところどころ細かく描き込まれた場所がある。くっきりとした目じり、あごの先のとがったヒゲ、やせて浮き出したあばら骨など、本当によい出来だった。
 今から考えれば、変に苦しげだったり、いかにも恨みを込めた表情にしなかったことが効果をあげた。まるで聖者のように静かな表情で、両目を閉じ、瞑想しているのだ。理科室に教師が入ってきたのはその時だったが、生徒たちが見つめる物にすぐに気がつき、教師もはっと息をのんだ。
 壁のシミは、すぐに学校中の話題になった。休み時間には生徒全員が見物に訪れ、昼休みには校長まで姿を見せたほどだ。
 ほっておいてもこの話は祖母の耳に入るだろう、と私は思った。私の祖母は迷信深く、この小学校は呪われていると信じるだろう。母に命じ、祖母は私の転校手続きを取らせるだろう。私が転校してゆく先は、正雄のいるあの学校以外にありえない。
 だが事態は、予想外の方向へと走り始めた。翌日には、新聞記者の一団が学校を訪れたのだ。
 あのシミは大きな記事になった。その翌朝には理科室が閉鎖されたので、私はとても驚いた。
 ついには有名な学者があのシミに興味を持ち、本格的な調査に乗り出したのだ。シミは壁ごと取りはずされ、精密検査のために研究所へ運ばれる。そのための工事が始まったのだ。
 私は青くなった。そんなことをされたら、ただの絵具の落書きだとすぐにばれる。もちろん犯人まではわからないが、決して楽しい気分ではなかった。その日、校内はずっと騒がしく、作業員の声や土木機械の音が響いて、私は憂鬱だった。
 昼食がすみ、午後の授業が始まるころに、作業の準備が終わった。次はコンクリートの大きな一枚板を、クレーンでゆっくりと持ち上げるのだ。
 だが持ち上げてみると、その向こうに四角い通路がぽっかりと開いているなど、誰が想像しただろう。口をポカンと開け、作業員たちは顔を見合わせた。誰も知らない通路が、壁の裏側に隠されていたのだ。教師たちが呼ばれたが、みな首をかしげた。最古参の校長ですら聞いたこともなかった。
 懐中電灯を手に、恐る恐る数人が中へ入った。天井の低い通路が、急な下り坂になって、地の底へと続いた。第二次世界大戦中には、この町にも軍の兵器研究所があった。毒ガスの研究をしていたが、昭和20年の終戦時、残った毒ガスはここに埋められ、隠されたのだ。軍事機密ゆえに知る人は少なく、やがて忘れられ、その真上に小学校が建てられた。
 地下へ降りた作業員たちが見つけたのは、毒ガスを入れて積み上げられた金属製の箱の山だったのだ。恐ろしいことに一部が腐り、毒々しい中身が漏れ出していた。もちろん、その日のうちに小学校は閉鎖された。
 私が知っていることはこれだけだ。転校し、正雄と同じ学校へ通うようになっただけで、私は満足だった。
 だが最後に一つだけ、不思議なことがある。その後、私は面白半分に、あのシミの絵をもう一度描こうとしたのだ。画用紙を広げ、道具はあの時と同じ物を用いた。
 だが私は落胆した。私のブラシが紙の上に生み出したのは、似ても似つかぬひどい出来だったのだ。あの絵を自分が描いたとは、自分でも信じられなかった。実を言うと、「絵がうまい」とほめられたことなど、それまで私は一度もなかった。むしろ私の絵は普段からへたくそだった。
 あの絵を画用紙の上に再現しようと、私はその後も何度か試みた。だが一度も成功しなかった。ブラシの先から生み出されるのは、はるかに及ばない駄作ばかりだ。でもあの時、私の手がブラシをつかみ、私の足が理科室の床に立っていたのは間違いない。ならば、あの時の私はいったい誰だったのだろう? 誰が私にあのシミを描かせたのだろう? 

蜂の巣

 それまでまったく存在を知らず、話に聞いたこともない秘密の小部屋の家の中に発見したとき、なぜあのような行動を取ったのか、加代子本人にもうまく説明することができなかった。
 それだけではない。
 知らぬ間に加代子の手は電話器を取り、指は母の家、つまり実家の番号を押していたのだ。
 2、3回ベルが鳴ったところでカチリと音がして、母の声が聞こえてきた。
「はい、佐藤でございます」
 それは、いつもの通りの母の声だった。だが奇妙な衝動にかられ、加代子は自分でも理解できない行動をとったのである。
 母のいる実家を離れ、加代子は何年も伯母と同居していた。
 足が不自由で車椅子が必要になった伯母と同じ屋根の下、加代子はこれまで長い時間をすごしてきたのだ。声や話し方をまねるのは難しくはなかった。
 伯母の声音で、加代子は母に呼びかけたのだ。
「もしもし和子かい?」
 想像通り、母の返事は驚きの色に満ちていた。しかし…
「えっ、お姉ちゃん? お姉ちゃんなの? まさか本当にあの世から生き返ったのかい?…」
 という返答は、母がいくら迷信深い女とはいえ、あんまりである。
 だが加代子は、こうなることを無意識のうちに予想していたのだ。
 伯母の声音で、加代子は静かに続けた。呼吸一つ乱れないことに、自分自身でも恐れを感じながら…。
「ああ和子、もちろん私だよ。エンマ様の特別なお許しを得て、こうしておまえに電話しているのさ」
「ああお姉ちゃん、本当にあの世からかけているのかい? ああうれしい。お姉ちゃんが死んでから、今日でちょうど一年だものねえ。じゃあ今度こそ、うまくいくんだね」
「今度こそって?」
「なんだ忘れたの? 無理もない。死んであの世へ行った人なんだもんねえ。20年前、身寄りのない女の子をもらってきて、あたしが養子にしたじゃないか」
「そうだったかねえ?」
「そうさ。この子をいけにえに、お姉ちゃんは何回も何回も呪いをかけたけれど、だめだった。女の子はずっとピンピンして、足にケガをする気配もなかった。とうとうお姉ちゃんは自分の足を直せないまま、ある日、蜂に刺されて死んでしまったねえ。真夜中、寝ている部屋の中に蜂が入ってくるなんて、なんと運の悪いことだろうねえ…」
「和子、その養子って、加代子のことを言っているのかい?」
「当たり前じゃないか。それでお姉ちゃん、加代子の命を取って、代わりにお姉ちゃんがこの世によみがえる準備が全部済んだんだね? だからエンマ様のお許しが出て、こうして電話してこれたんだろう?」
「もちろんそうに決まっているさ。ところで和子、年のせいか最近私は物忘れが激しくてねえ。加代子の命をとって、私が生き返るあの仕掛けって、どうなっているのだっけねえ?」
「お姉ちゃん、そんなことを忘れては困るよ」
「忘れてやしないさ。ただほんの少し頭がぼんやりして、自信がなくなっているだけさ」
「頼りないねえ。あたしがしっかり思い出させてあげるよ。今日はお姉ちゃんの命日だ。その日に合わせて着くように、加代子には私から小包が送ってあるんだ」
「小包?」
「中身はあの子の大好きなお菓子だから、すぐにペロリと食べてしまうさ。日暮れまでには眠り薬が効いて、加代子はだらしなく眠りこけるに違いない。そのころを見計らって、あたしが出かけてゆくのさ」
「加代子の家へあんたが行って、何をするんだね?」
「うふふ、それは後のお楽しみだよ。全部あたしがうまくやるから、お姉ちゃんは何も心配しなくていいんだよ。子供の頃みたいに、また二人だけで楽しく暮らしたいねえ。あれあれ、もうこんな時間だ。あたしは加代子の家へ行く支度をしなくちゃならない。名残惜しいけど、電話を切るよ」
 チンと音がして、電話は切れてしまった。
 母から届いた小包はテーブルの上に置かれ、加代子はまだ封を切っていなかったのだ。ここへやってきて、母は何をするつもりなのだろう。加代子は頭を悩ませなくてはならなかった。
 母が姿を見せたのは、一時間後のことだった。家の前に自動車の止まる音があり、少しして、玄関がそっと開かれる気配があった。
 わざと真っ暗にした部屋の中で、加代子は待っていたのだ。足音を忍ばせて廊下を通ってきた母は電灯のスイッチを入れ、加代子の姿を見てひどく驚いた声を出した。
「あら加代子ちゃんいたの?」
「ええ、待っていたのよ」
「どうして明かりを消しているの? 元気にしているかと、様子を見に来たのよ。今日はあんたの伯母さんの命日でもあるしね。あんた、あたしが送ったお菓子は食べたの?」
「食べるわけないじゃないか」
「どうして?」
「なあ和子、お菓子の中には眠り薬が入れてあると、おまえ自身が電話で言ったじゃないか」
「なんだって? あんたは親を呼び捨てにするのかい?」
「まだわからないかい? 私は加代子じゃないんだよ。もちろん肉体は加代子のままだが、魂はおまえの姉なのさ」
「お姉ちゃん?」
「フフフ、その通り。エンマ様も粋なことをなさる。私を単に生き返らせるよりも、加代子の魂を取ったあと、その空っぽの肉体に私の魂を入れるほうが何かと便利だろうとおっしゃった。それはそうだろうねえ。死んだはずの人間が元の顔かたちのまま歩き回ったら、世間が変に思うからねえ」
「じゃあお姉ちゃん、ついにこの世に戻ってきたんだねえ。ああうれしい。また二人で暮らせるよ。あの頃はよかったねえ。そういえば、あの金持ち男のことを覚えているかい?」
「いいや、この世に戻ってきたばかりで、まだ少し頭がぼんやりしているのだよ。思い出させてくれるかい?」
「もちろんさ。とてもおもしろい話なんだよ。もう20年前になるけど、ある男がいたのさ。妻に早く死なれ、一人娘の世話と仕事で毎日忙しくしていた。その家に、あたしが家政婦として住み込んだのさ。男は会社を経営していて、若いのに羽振りが良く、それはそれは立派な屋敷だったよ」
「へえ」
「もちろん、あたしはまじめに働いたさ。掃除に洗濯、幼稚園への子供の送り迎えとね。数ヶ月たち、すっかり信用を得たところで、あたしはお姉ちゃんを呼び寄せたんじゃないか」
「その男の屋敷へかい? やってきて、私は何をしたんだい?」
「おやおや、すっかり忘れちゃってるんだねえ。数日の間、お姉ちゃんは物置の中に潜んでいたのさ。夜中にそっと抜け出し、お姉ちゃんは屋敷の中のつくりや、どこに何か置かれ、どのように保管されているかをすべて調べた。金庫の合鍵も作った。そしてある日…」
「どうしたね?」
「あの日は幼稚園の遠足があった。だから母親の代わりとして、あたしは娘につきそって一緒に出かけたんだ」
「ほう」
「犯行に遠足の日を選んだのは、あたしのアリバイを作るためだったけどね。もう一週間になるのに、屋敷の中にお姉ちゃんが潜んでいることなど、あの男は夢にも知らなかった」
「それで、どうなったんだい?」
「あたしと娘が遠足に行っている間に、お姉ちゃんは屋敷の中から金目の物を運び出そうと奮闘していた。それは成功するかに思えたが、一つだけ計算違いがあった」
「なんだい?」
「忘れ物でもしたのか、あの男が不意に会社から帰ってきたのさ。屋敷の中で、お姉ちゃんと鉢合わせしてしまった。『おまえは誰だ? この泥棒め』、と捕まりかけたが、さすがはわが姉様、大きく重い花瓶で、とっさに男の頭をゴチンと叩き割った」
「男は死んだのかい?」
「当たり前じゃないか。一瞬でグウとも言わなくなった。盗品をかかえ、お姉ちゃんはすぐさまドロン。ネズミ小僧なみの鮮やかさだったねえ」
「おまえはどうしたんだい?」
「どうもも何も、何食わぬ顔で娘と一緒に遠足から戻ってきたさ。そして110番したが、警察はまったく不審がらなかった。みんな同情こそすれ、あたしは疑いの目を向けられることさえなかった」
「娘はどうした?」
「お姉ちゃんも鈍いねえ。その娘が加代子だよ。事件のあと、あたしが養子にしたのさ。ガキのくせにかなりの財産を相続したことも魅力だったし、何よりも本人があたしになついていたからね」
「そしてその後、加代子をいけにえに、私の足を直す呪いを色々と試してみたが、うまくいかなかったということだね」
「お姉ちゃん、やっと思い出してくれたんだね。これでもう安心だ。おや? 安心といえば…」
「どうしたね和子?」
「いや、ただ気がかりなんだけどね。あのとき盗品の中に、債券があったのさ」
「債券?」
「死んだ男が、娘のためにと買った物さ。それがなんと総額…」
 声を小さくし、和子は金額を口にした。その数字の大きさに、加代子も目を丸くした。
「…そんなに高額なのかい?」
「あの男は金持ちで、しかも一人娘だからね。ところがこの債券には、あらかじめある日付が決められていたのさ。20回目の誕生日が来て、加代子が成人しないと現金化することができないんだよ」
「だが和子、加代子の20歳の誕生日はもうとうに過ぎているじゃないか。その債券は、どこかに隠しておまえが保管しているのだろう? どうして現金化しなかったのだい?」
「事情があるのさ。事件の後、弁護士がしゃしゃり出てね。よせばいいのに、盗難品のリストを作って、警察へ提出しやがった」
「債券もそのリストに載っているというのだね。そうか。現金化しようとすれば、そこから足が着く。盗難届けの出た債券なのだから」
「その通りさ、お姉ちゃん」
「でも方法はあるんじゃないのかい? 家の中を片付けていたら、盗まれたと思っていた債券がひょっこり出てきた。盗難届けは間違いであった、と私が警察へ連絡すればいいんじゃないのかい?」
「お姉ちゃんがかい?」
「私じゃない。『加代子』がさ」
「ははあ」
「現金化にはもちろん『加代子』の…、いや私のサインが要る。でもそれは問題ない。ペンを手に、サラサラと書いてみせるさ。誰にもばれっこない」
「そりゃそうだよ、お姉ちゃん。さっそく明日、警察に届けを出そうよ。午前中に警察へ行き、午後は銀行へ回ろう」
「善は急げというやつかい?」
「そうともさ、お姉ちゃん。あたしはさっそく債券を取りに行ってくるよ。ちょっと遠い場所に置いてあるが、車があるから2時間もかかりゃしないさ」
 和子は機嫌よく出かけてしまった。
 自動車の音が遠ざかったことを確認してから、加代子は立ち上がった。受話器を手にし、今度は警察へ電話をかけたのだ。

 和子は予想通りの時間に姿を見せた。息をはずませながら家の中へ入ってきたのだ。
「お姉ちゃん、これだよ」
 さっそく取り出し、和子はテーブルの上に広げたが、加代子が何も言わないので、不審そうな顔をした。
「お姉ちゃん、どうしたんだい? 手にとってごらんよ」
 だが指紋採取の関係で、債券には出来るだけ手を触れないように、と加代子は刑事から言われていたのだ。手を伸ばす代わりに、加代子は口を開いた。
「ねえ和子、事件の後、この債権はずっと今までおまえが保管していたのだね。他の盗品はどうしたんだい?」
「すべて売って金に換えたよ。どうしたんだい、お姉ちゃん? 様子がおかしいよ」
「なんでもない。ただちょっと疲れただけさ。ところで和子、お願いだから、そこのふすまを開けてくれるかい?」
「開けてどうするのさ?」
「いいから開けてごらんよ。きっとびっくりするよ」
 さらに不審そうな顔をしながらも、和子は言葉に従った。そして大きな悲鳴を上げたのだ。
 飛び出してきた刑事の手を逃れ、とっさに反対側へ走ろうとしたが、そこにもう一人別の刑事が待ちかまえていたのでは、さすがの和子も逃げ切ることはできなかった。
 しばらくの間、憎々しげに加代子をにらんでいたが、和子はすべてを悟ったようで、きっぱりと言った。
「あたしはすべてを黙秘するからね。人を逮捕するなら、逮捕状を見せなさいよ」
 刑事は慣れた様子で答えた。
「逮捕状はこれから請求するさ。これは、重要参考人としての任意同行というやつでね」
「任意って、あたしは承知してないよ」
「刑事2人の目の前から走って逃げられるものなら、やってみるがいいさ」
「ちぇっ覚えてろ。加代子、おまえはなんて娘だ。親をこんな目にあわせるなんて、ただではすまないからね」
 加代子は口を開いた。
「刑事さん、今の発言は脅迫になりませんか?」
「いやいや、殺すとかなんとか、もっと強い言葉でないとね。では我々は失礼します。もうすぐ鑑識の連中が来るはずなので、例の秘密の小部屋を見せてやってください」
「わかりました」
 刑事たちに左右をはさまれ、和子は行ってしまった。
 鑑識の人々はすぐに現れた。テレビドラマで見るように紺色の制服を着て、道具類を入れた銀色のスーツケースをいくつもさげた物々しい姿だ。
 すぐに加代子は、小部屋へと案内した。
「ほほう」
 鑑識課員たちは目を丸くしたが、それも無理はない。目の錯覚を利用して、ちょっと見ただけでは存在に気が付かないようになっている。いつの間にどうやって用意したのか、本職の大工が手がけたしっかりした作りだったのだ。
 小部屋の内部は、まるで小さなコレクションルームのような眺めだった。
 写真が何十枚も、壁にじかに貼られている。すべて加代子の写真なのだ。
 最近の姿を写したものも、まだずいぶん小さく、小学校低学年か、もしかしたら幼稚園時代かと思える古いものまである。
 だが写真にはすべて共通点があった。どれも例外なく、加代子の足の部分に鋭利なナイフで傷がつけられていたのだ。勢い余ったのか、紙が千切れかかっているものまである。鑑識課員は言った。
「おやお嬢さん、この写真だけじゃないんですか?」
 写真の奥に並んでいたのが、雑多な小物類だ。ハンカチや小学校の名札、靴下の片方といったもので、手に取ると、加代子がいつの間にかなくしたと思っていたものばかりだ。子供らしい文字で名前が書かれているので、確かに元は加代子の持ち物だったとわかる。
 これらにも例外なく、ナイフで傷がつけられているのだ。ぞっとすることにハンカチなどは、見慣れない呪文まで書き込まれている。若い鑑識課員はため息をついた。
「これが呪術というやつか…。はじめて見たよ」
 鑑識の本格的な作業が始まって一時間ほど過ぎた頃、いったん席を外していた加代子は再び呼ばれ、小部屋へと入っていった。
「どうかしたのですか?」
「ええお嬢さん、ちょっと発見がありました。お手数ですが、あなたも見てください」
 加代子が案内されたのは小部屋のさらに奥まった場所で、そこでさらに隠し部屋が見つかったのだ。鑑識課員がその戸を開いたのはいいが、中にあったのは高さ一メートルほどの金庫で、開け方がわからなかった。
「この金庫には番号式の鍵がついていますね。開けて中を確認したいのですが、その数字がわからないのです。お嬢さんに心当たりはありませんか?」
「4桁の数字なのですか?」
「ええ、そうです」
「だったら、わかるかもしれません。ちょっと待っていてください」
 加代子は一人で自分の部屋へ戻った。宝石箱のところへ行き、また小部屋へと引き返したのだ。
「お待たせしました」
「それは何ですか?」
「伯母の形見の指輪です。サイズが合わないから私は使わなかったのですが、裏側にほら、小さな数字が刻印されていることに気がついたんです」
「ああ本当に書いてありますね。その番号をこの金庫に試してみましょう」
 はたして金庫はすぐに開くことができた。
 だが金庫の内部はほとんど空で、入っていたのが、40センチほどもある大きなガラス瓶一つきりだったのには、鑑識課員も驚いた。
 しかもこの瓶には中身があり、死んでからすでにかなりの日数が過ぎているが、数匹の蜂の死骸だったのだ。
 鑑識課員は首をかしげた。
「これは何ですかね?」
「ははあ」
「何です、お嬢さん?」
 加代子は鑑識課員を振り返った。
「ちょっと思いついたことがあるんです。刑事さんに連絡はつきませんか? うまくいけば、母の口から事情を聞き出せるかもしれません」
 翌日、加代子は警察署へ行き、刑事たちと合流していた。加代子の口から作戦を聞かされ、半信半疑の顔をしていたが、刑事たちも最後には承知した。
 留置場から引き出され、和子は取調室へ入れられた。この部屋の様子はマジックミラー越しに、隣の部屋からも見ることができる。
 最初、和子は不満そうな顔で座っていたが、刑事が部屋に入ってくるなり顔を上げた。刑事とのやり取りを、加代子はすべて目撃することができた。
 刑事は言った。
「娘さんのことでお知らせがあります」
 椅子に腰掛けたまま、和子はじろりと見上げた。
「ふん、加代子なんか娘と思ったことはない。金を目当てに養子にしただけさ」
「昨日の夜、加代子さんの家に蜂が姿を見せましてね」
「えっ?」
「一年前にあなたの姉が亡くなったときにも、蜂に刺されたのが死因でしたね。蜂の姿はないものの、鋭い針にさされた跡が皮膚に残っていた。体内からは蜂毒も検出されたのでしたね。それと同じ種類の蜂が昨夜、加代子さんの家に現れたんです」
 突然大きな声を出し、和子はニヤリと笑った。
「なんだって? 同じ種類の蜂?… なるほどそうか、さすがはお姉ちゃんだ。誰にも知られず、家の中でひそかに蜂を飼っていたのだな。それを使って事故に見せかけて、加代子を…」
「なんですって?」
「あんたも鈍いねえ。あの小部屋を見ただろう? 姉には呪術の知識があり、自分の足を直すために加代子をいけにえにしようと考えた。足のケガを加代子に移し、自分は治癒しようとしたのさ。だけど、それはうまくいかなかった。それならば、せめて加代子の財産だけでも手に入れよう、と姉は考えたに違いないね」
「なるほど…」
「だがあたしが思うに、姉は大失敗をしたようだ。機会を見て加代子の寝室に蜂を放し、刺し殺させようという計画が、何かのはずみで姉自身が刺されたのだろうよ。そう考えれば、すべての説明が付くじゃないか」
「真夜中だから加代子さんは何も知らず、ぐっすり眠っているわけですね。でもあなたの姉が亡くなったのは、真冬のことでしたよ」
「冬には昆虫は冬眠しているが、寝室は暖房されている。温められて活発になった蜂が、朝になって起き出した加代子に襲い掛かるという寸法だったろうよ」
「ところが、その計画が狂ったわけか」
「何かの理由で、蜂を手に持ったまま、姉は一旦、自分の部屋へ戻ったのだろうさ。加代子が不意に起き出したのかもしれないね。だけど姉の寝室ももちろん暖房されていたわけさ。蜂はすぐに目を覚まし…」
「ははあ」
「しかしまあいいじゃないか。うそつき娘は死んだんだ。姉と私のために、きっと蜂が仇を取ってくれたのだね」
「いえいえ、確かに家の中で蜂は見つかったが、それが加代子さんを刺したとは言っていませんよ」
 そう刑事が口にしたときの和子の顔を、加代子は一生忘れることはない。あれほどの憎しみと怒りに満ちた表情を、加代子は見たことがなかった。
 和子は刑事につかみかかろうとしたが、同室していた婦人警官に止められてしまった。そしてすぐさま、留置場へと送り返されたのだ。
 これ以上一秒でも同じ屋根の下にいることには耐えられなかったので、加代子は警察署近くの喫茶店へ移動した。刑事もすぐに追いかけてきて、腰を下ろすなり口を開いた。
「どういっていいか、何もかもお気の毒なことでした」
「ええ、母も伯母も、何年もの間うまくお芝居をしていたのですね。私はまったく気がつきませんでした」
「人間の中には、そういうことのうまい者がいるのです。警察官をしていると何度も目撃します。人を信じることができなくなりますよ。そういう人間は、真に迫った演技を何十年でも続けることができるのです」
「あの金庫の中で、伯母はひそかに蜂を飼っていたのですね。それを使って私を殺すつもりで…」
 刑事はしばらく黙っていたが、やがて言った。
「例の債券のことですが、証拠品なのですぐにはお返しできませんが、現金化は可能だと銀行が返事をしてきました。それを元手に、気晴らしの旅行でもなさってはどうです?」
「いいえ、あの債券はしばらくあのままで置いておこうと思います。父が私に残してくれた宝物ですから。父の愛情そのものなのですから」

 何日かのち、あの刑事が突然家へ姿を見せたときには加代子も驚いたが、すぐに部屋へ通した。茶を出すと、刑事は口を開いた。
「私などが突然現れてびっくりされるかと思ったが、すぐ近くまで来たので、お元気でいるかと気になりましてね。なにしろ伯母さんとお母さんが相次いで、ああなってしまったわけですから」
「ありがとうございます。元気いっぱいとはいきませんが、なんとかやっております。このあたりに来られたということは、近所で何かあったのですか?」
「大した事件ではないんですがね。この町内のため池に灯油を流した者がいまして、水面が油だらけになりました。その捜査なんです」
「そんな事件にも警察が乗り出しますの?」
「ため池は農業に必要なものですから、被害届けが出ています。油が流されたのは深夜らしいんですが、目撃者などいないとあきらめていたところ、親の目を盗んで夜釣りをしていた中学生が名乗り出てくれました。親に怒られたらしく、むくれていましたが、なだめたりすかしたりして、話を聞いてきたところです」
「そうなのですか」
「目撃証言に従って池の底をさらうと、灯油缶を引き上げることができました。ところが驚いたことに、この灯油缶は中身が9割以上残っていましてね」
「灯油がですか?」
「フタはしてあったものの、わずかにゆるみがあったのでしょう。そこから漏れ出し、水面に油膜を作ったわけです。しかし犯人は、何を考えて捨てたんでしょうなあ。たかが灯油とはいえ、買えば金がかかるわけですし」
「そうですね」
「私が思うに犯人は、灯油がごくわずかだけ必要だったのでしょう。しかしまさか店へ行って、『灯油をコップに一杯だけ売ってくれ』、とは言えない。ひどく目立ち、店員に顔を覚えられてしまいます。だから石油缶ごと買い、必要な分量だけを抜き出し、残りは丸ごと捨てるしかなかったのでしょう」
 加代子は首をかしげた。
「その人は、そんな少量の灯油を何に使ったのでしょうね。でもそれだけの手がかりで、犯人を捕まえることができますの?」
「ある警察犬の話を聞きましてね」
「警察犬?」
「それが変わった犬でしてね。石油やガソリンにも税金がかかることはご存知でしょう?」
「ええ」
「ところが最近は、石油を大量に買いこんで量をごまかして、脱税する連中がいるんです。余分な石油はどこかに隠しておくんですな。だから、それを探し出すために特別に訓練された警察犬が存在するわけです」
「石油の匂いを探り当てる犬なのですか?」
「そうです。どんなに少量でも地面にこぼれていれば、すぐに探り当てます。犬の鼻とは本当にすごいものでしてね。たとえこぼしたのが一年前だったとしても、まだまだ十分な匂いが残っています。この町内を一通り歩けば、まず見逃すことはないでしょう」
「その犬はいつやってくるのですか?」
「明日ですよ。いま同僚が、その犬を借りに出かけています。明日の朝早くから匂いの捜索を始める予定なんです」
 その後もしばらく世間話をして、やっと刑事は帰っていった。
 玄関へ出て、にこやかに見送ったが、その瞬間から、加代子はがぜん忙しくなった。台所に買い置きの酢が十分にあるだろうか、と気になって仕方がなかった。夜になるのが、とても待ち遠しかった。
 田舎のことだ。加代子の家から数分歩くだけで、道は細く、坂もきつく、やがて人気のない本物の山道になった。
 闇の中で懐中電灯を使いながら、加代子は18ヶ月前のことを思い出そうと努めていた。
「一体あれは、どのあたりだったかしら?」
 さいわい加代子は、すぐに見つけ出すことができた。以前にも目印にした角ばった白い岩を見つけることができたのだ。
「このすぐ右側に、以前は蜂の巣があった。だけど私が掘り返したので、今では穴しか残っていないはず…。あああったわ。さあ、酢のビンをポケットから取り出そう」
 だが加代子は仕事を終えることができなかった。背後から突然、強い光で照らされ、小さく悲鳴を上げたのだ。
 その光源は懐中電灯で、聞き覚えのある声が響いた。
「ははあ、かつてそこに蜂の巣があったのですね」
 近寄ってきて、刑事が気楽そうに穴をのぞきこむので、加代子は答えた。
「ええ」
「掘り返して、巣の本体はどうしました? 茶色く大きなのがあったでしょう?」
「小さく壊して、川に流してしまいました」
「蜂の死骸はどうしました? 灯油を吸わされ、窒息して何百匹も死んでいたと思いますが」
「それも巣と同じようにしました」
「ああそうか。生き残っていたのは?」
「たった一匹でした。でもそれで充分だったのです。私が蜂を捕まえ、伯母の寝室に放して刺させたのだと、どうしてわかったのですか?」
「ファーブル昆虫記ですよ」
「昆虫記?」
「ファーブルは有名な昆虫学者ですね。あなたの家へ行ったとき、その本が本棚に並んでいることに気が付き、私も買ってきて読みましたよ。蜂の巣の内部を観察したくて、ファーブルは気温の低い真夜中に森を訪れ、巣に灯油を流し込んで、中の蜂を殺すんです。そうしておけば、翌朝安心して掘り起こし、思う存分観察することができるんですね」
「何もかも、すべてわかっていたのですね。警察犬の話もウソだったのですか?」
「でもため池のことは本当ですよ。あなたの家の暖房がセントラルヒーティング方式で、灯油など必要ないことも一目でわかりました。ねえ加代子さん、あなたの父上を殺したのは伯母さんであると、どうして知ったのですか? それゆえの復讐だったのでしょう?」
「それは、この世には根っからの悪人、本物の悪党は存在しないからですよ」
「どういうことなんです?」
「伯母は無慈悲にも父を殺しました。母はその共犯ですが、姉妹して一流の悪党を気取っていたくせに、やはり人の子です。良心の呵責だけはどうすることもできませんでした」
「伯母さんは、あなたに罪を告白したのですか?」
「違います。良心の呵責からの救いを求め、二人は信仰の道へと走りました。そして入信したのが、霊魂の復活だの、エンマ大王による死後の裁きだのを主張する教派だったのです」
「なるほど」
「良心の呵責をしずめるだけでなく、伯母に至っては、呪術を用いて足の治療まで期待したようですね」
 刑事はうなずいた。
「その儀式の跡は私も見ました」
「伯母と同居を始めて以来、私は何度も真夜中に目を覚ましました。耳が遠くなり、伯母は話し声が大きかったのです。その声で寝言を言われれば、誰だって起きてしまうでしょう」
「寝言の内容からわかったのですか?」
「『和子、和子はどこだ? いい加減な下調べをしおって』、だの、『なぜだ。なぜおまえが今頃帰ってくる? ええい仕方ない。この花瓶で…』、などと毎晩やられてはね」
「今あなたが手の中に持っている小ビン。中身は酢ですかね? その酢は、犬の鼻をごまかすための匂い消しですね」
「ええ、これ以上匂いの強いものを思いつくことができなかったのです」
「いもしない警察犬の鼻をごまかす方法など存在しません。蜂を捕まえ、入れておいたガラス瓶はどこに保管していたのですか?」
「屋根裏部屋です。車椅子の必要な伯母はハシゴを上がることができませんでした」
「それが18ヶ月前のことですね。しかし最近になって、あの小部屋を発見した後、あなたは再び蜂を用意しなくてはならなくなった。あのガラス瓶を金庫の中に入れて、わざと鑑識課員に発見させたのでしょう? だけどそれが、私が疑問を感じるきっかけになったのですよ。それまで私は、あなたに同情こそすれ、疑ってみることはなかった」
「どうしてですか?」
「鑑識で調べた結果、金庫の中で見つかった蜂がすべてオスだったからです。オス蜂は針を持たず、人を刺すことはありません。警察の目をごまかすために犯人がごく最近、再び森へ行き、蜂の死骸を見つけて持ち帰り、金庫の中に入れておいたのだとしたら、それは確実にオスです。この真冬に森で見つかる蜂は、オスだけだからです。蜂の生態とはそういうものですから」
「そこから私を疑い始めたのですか? 蜂のオスメスまでは、私も気がまわりませんでした」
「ええ、まずオスであることで私は疑問を持ち、あなたの部屋でファーブルの本を見かけたことを思い出したのです」
「金庫の中に蜂を隠すことで、母に揺さぶりをかけることができると、突然気が付いたのです。思いつくと、実行しないではいられませんでした」
「それはわかりますが、署まで同行願います。殺人犯である伯母さんには同情を感じませんが、私は法を執行しなくてはなりませんので」
「そうですね。それは私にも理解できます…。あら刑事さん、あなたの肩にとまっているのは蜂じゃありません? こんな冬の夜にどうしたのでしょう」
「なんですって?」
 加代子の様子がおとなしいので、刑事も油断していたのだ。加代子から注意をそらし、自分の肩のあたりを大きくはらった。
 加代子にはそれで十分だった。そもそも父の仇を取った後、長く生きるつもりはなかったのだ。
 怒りに任せて伯母を殺し、よしんば警察にばれなかったとしても、次は加代子が良心の呵責に苦しむことになるのは明らかだ。加代子はつぶやいた。
「だから私は事前に準備をしていた。せめて父の墓前に報告したかったが、ここ数日の忙しさで、果たせなかったことだけは残念だわ」
 錠剤は常にポケットに忍ばせてあった。それを取り出し、ごくりとのみ込むのは難しくはない。
 すぐに気づき、刑事は顔色を変えたがもう遅い。応援と救急車を呼ぶため、刑事はドタドタと駆け出したが、どう考えても間に合わないだろう。
 目を閉じ、心の中で再び加代子はつぶやいた。
「18ヶ月前、私はここで何百という蜂を殺してしまったが、その同じ場所で今、自分も死のうとしているのだわ。蜂たちもきっと許してくれることだろう…」

遺志


 子供のころから、僕にはある性癖がありました。困ったことだと自分でもわかっていたのですが、どうすることもできませんでした。
 他人の書斎や町の書店、公共の図書館などへ足を踏み入れることが、僕にはとても苦痛でした。引き金が引かれ、あの性癖が刺激されるともうどうしようもなく、止めるすべもないまま身を任せるしかないのです。
 親しい友人には話してありましたが、初めて目撃する人はみな驚き、続いてクスクスと笑い始め、最後には不思議そうに僕の顔を眺めなおすのでした。
 あるとき僕は、語学関係の蔵書が充実していると評判の図書館の中にまぎれこんでしまい、しかも気がついたときには、棚一つを占領してずらりと並ぶ数十冊のドイツ語辞書と対面してしまったことがありました。
 その瞬間にいつもの性癖が始まったのは言うまでもありません。僕が本棚の前を離れることができたのは、やっと40分後のことでした。
 自分の意思とは関係なく腕が伸び、僕はドイツ語辞書を手に取ってしまうのです。
 それがどんなに大きな本であろうと、小さなポケット版であろうと関係はなく、一度などは縦横が1メートルもある18世紀の超大型本を持ち上げようとして骨折しかけたほどです。
 ドイツ語辞書のページを開き、僕はPの項を探します。あせりと興奮のあまり指が震え、額にうっすらと汗までかくほどです。
 Pの項を見つけ出すと、次はその最初のページを開きます。
 それはつまりOとPの境目のページのことですが、それを見つけて僕は数秒間顔を近づけて眺め、ほっと息をつき、辞書を閉じ、やっと本棚に戻すことができるのです。
 目に入ったドイツ語辞書すべてについてこの動作を行うのですから、図書館や書店で本棚いっぱいに並んでいるのと出くわしたとき、僕がどんなに大変な思いをすることになるかは簡単に想像がつくでしょう。
 この性癖は友人たちの間ではよく知られており、親切な人々はよく気をつかってくれました。
 僕は読書家で、いつも出入りしている書店もあったのですが、その店のドイツ語辞書を納めた本棚の前にはカーテンが取り付けてあり、いつでもさっと引いて中身を隠すことができるようになっているのは、もちろん僕への配慮からなのです。
 因縁と言おうかなんと言おうか、僕の祖母はドイツ語に堪能で、ドイツ文学に関する研究書まで書いたような人でしたが、そういえばこの祖母には奇妙な話がありました。
 もう何年間も誰も祖母の姿を見ていないのですが、それが自然な死ではなく、ある日を境に行方不明になり、その姿がぷっつりと消えてしまったのです。
 書斎にいるはずなのが、夕食の時間になっても出てこないので使用人が様子を見にいき、部屋が空であることを発見したのでした。
 警察にも通報され、捜索や捜査が行われましたが何の手がかりもなく、祖母の姿が見かけられることは二度とありませんでした。
 でもこれは僕がまだ子供だったころのことなので、正直に言うと僕は、祖母の顔はあまり覚えていません。
 ドイツ語辞書に関する性癖のおかげで、僕は学校時代にもさんざんからかわれたものでした。
 もちろんドイツ語を学ばないですむ学校に進学したのですが、級友たちが面白半分にドイツ語辞書を僕の机の上にぽんと置くことがしばしばあったのです。
 すると僕の身体は自動機械のように動き始め、級友たちは大笑いをするのです。僕はひどくくやしい思いをしましたが、どうすることもできませんでした。
 でも次第にあきられ、このイタズラも行われなくなっていきました。
 成人し、僕は弁護士になっていました。本当は医師になりたかったのですが、それにはどうしてもドイツ語を学ぶ必要があり、あきらめるほかなかったのです。
 祖母のことですが、行方不明とはいえすでに三十年近く経過しているわけだから、近々裁判所が死亡宣告を出す予定になっていました。死亡が宣告されると法的には死者と同じ扱いになり、祖母の遺産は母と叔父によって相続されることになります。
 その関係で、どうしてもある書類が必要になりました。田舎にある小さな土地の所有権に関する記録で、ないと困るというほどではありませんが、あれば事務手続きが非常に簡単になります。
 それを探すために、僕は祖母の書斎へ足を踏み入れることにしました。
 定期的に鍵を開け、使用人たちの手で掃除がされていましたが、三十年間使用されていない部屋はがらんとしていました。
 家具のほとんどはすでに運び出されていましたが、いくつかある本棚だけは中身と一緒にまだ残っていたのです。
 その中にかつてはドイツ語辞書がいくつも並んでいたはずですが、母が命じて何年も前に地下室へ片付けられていたので、僕は何も気にすることなく足を踏み入れることができたのです。
 僕は書類を探し始めました。ところがそれも、いくらもたたないうちに中断されてしまいました。
 並んでいる本の背に指を走らせ、何か書類がはさまってやしないかと僕は調べていたわけですが、そのときに気がついてしまったのです。
 すべて取り除いてあったはずなのに、手抜かりがあったか、分厚い本ではないからそうは見えなかったということかもしれません。たった1冊だけれど、僕は本棚の中にドイツ語辞書を見つけてしまったのです。
 体中の毛穴から汗がどっと噴き出してくるような気がしました。注意深く行動してきたせいでここ何年も経験していなかったあの性癖がまた僕に取り付き、支配しようとするのが感じられました。
 でももうどうすることもできません。僕は身を任せるしかないのです。
 気がついたときには僕は辞書を開き、Pの項の最初のページを目にしていました。
 小さな文字でアルファベットが並び、発音や意味の説明が書かれています。なんということのないただの辞書のページです。でも僕は、奇妙なことに気がつきました。
 赤インクを使って、誰かがそのページのすみに書き込みをしているのです。
 インクの色でなんとなくわかるのですが、辞書と同じようにかなり古そうな書き込みです。きっと何十年も前のものでしょう。
 その筆跡に見覚えがあることに気がついて、僕はひどく驚きました。
 死亡宣告を得る手続きの関係で、このところ毎日のように手書きの書類を目にしている祖母の字だったのです。あの独特なペン使いは間違いようがありません。
 目を近づけ、すぐに僕は読みはじめました。こう書かれていました。


この屋敷の中で何か探しものをする必要が生じたときには、私の書斎の暖炉の左から3番目のネジをゆるめてみるとよい。


 どういう意味なのか、もちろん僕にはさっぱりわかりませんでした。
 でもこれは、祖母が書いたものなのです。『私の書斎』というのは、いま僕がいるこの部屋のことに違いありません。
 僕は暖炉に近寄りました。今は冬ではないので、火はついていません。
 正面には大きな鉄板でできた部分があり、横一列になって、たしかにネジが並んでいます。
 あまりに当たり前すぎて、今まで気づきもしなかったものです。僕がさっそくねじ回しを探しにいったのは言うまでもありません。
 ねじ回しの先を当てると、左から3番目のネジはすぐにゆるめることができました。数回まわしたところで、部屋のどこかからガタンという音が聞こえてきたので、僕は驚きました。
 振り返って見回すと、足元のじゅうたんに一ヵ所、奇妙な形でしわが入っていることに気がつきました。
 さっきまではなかったものです。まるでその下に秘密の入口でも隠してあるような形に見えます。
 じゅうたんを持ち上げてみると、やはりそうでした。
 自分が生まれた家なのに僕もまったく知らなかったのですが、こんなところに秘密のドアがあったわけです。固くロックしてあったものが、さっきのネジをまわすことでゆるみ、1センチばかりずれたのでしょう。
 僕は懐中電灯を探しにいきました。
 秘密のドアは上へと持ち上げる形になっていて、とても重かったけれど、なんとか開くことができました。懐中電灯の光を向けると、石でできた階段が下へむかって伸びているのが見えました。
 僕はゆっくりと降りていきました。
 長い階段ではありませんでした。途中に曲がり角があって見通しはきかなかったけれど、すぐに終点につきました。
 昔はきっと酒蔵だったのでしょう。ドアがあって、それを開けると小さな部屋に出て行き止まりになりました。
 その部屋の中で、祖母が僕を待っていました。
 もちろん生きている祖母ではありません。もう三十年もたっているのです。服毒自殺をしたようで、小さなテーブルがあり、その上に薬の小ビンとすっかり乾いたグラスが置いてありました。
 テーブルの隣にはイスがあり、祖母はそれに腰かけていました。祖母の手の中に紙が握られていることに気がつきました。
 そっと手を伸ばし、僕は祖母の指の間から引き抜きました。これも祖母の字で、僕にあてて書かれた伝言でした。


おまえの母の部屋へ行き、壁にかけてある馬の油絵を調べなさい。
絵を裏返して、額の裏側を見るのです。
木枠の表面に、ごく小さな穴があるはず。
そこに針の先を差し入れ、強くひねってみるのです。
内部に書類が一枚隠してあるのを発見することでしょう。
自分のためを思うのであれば、それを今すぐ燃やしてしまいなさい。


 書かれているのはこれだけでした。
 意味はわからなかったけれど、とりあえず指示に従って、僕は母の部屋へ行ってみることにしました。
 鼻の上にメガネを乗せ、ソファーに腰かけて母は読書をしていましたが、僕が入ってゆくと顔を上げました。僕は黙って、祖母からの手紙を見せました。
 手を伸ばして手紙を受け取り、メガネの位置を直し、目をこらして文面を読んで、母はため息をつきました。
「とうとうおまえが真実を知るときがきたのですね」
 母の部屋は屋敷の奥まったところにあるのですが、中庭に面した明るい場所でした。
 壁にかかっている油絵のことは、僕は子供のころから知っていました。白い馬の絵で、強い風の中に立ってたてがみをなびかせています。
 嵐が近いのか、ごく小さくですが、はるかかなたにいなづまが描かれています。黒い雲から発して、今にも大地を鋭く突き刺そうとしています。
「何をためらっているのです?」母は僕をせかしました。「早くその絵の裏側を調べてごらんなさい」
 言われたとおりにすることにしました。イスを持ってきてその上に立ち、油絵に手を伸ばします。
 いったん降ろして机の上に乗せ、絵を裏返してみました。目を近づけてよく見ると、たしかに小さな丸い穴があります。
 針の先を差し込むと、それはすぐに開き、隠されているものもすぐに見つけることができました。
 額の内側を巧妙にくりぬき、目立たないようにフタがしてあって、そうと知らなければ見つけることはまず不可能でしょう。
 出てきたのは、祖母が言うとおり一枚の書類で、ひどく古びています。
 折りたたまれているのを広げ、僕は目を通しました。母の声が聞こえてきました。
「いいのですよ。その書類を燃やしてしまっても、私は何も言いません。おまえの叔父はきっと不満に思うだろうけれど」
 叔父というのは母の弟のことです。この屋敷に同居していますが、この日は朝からどこかへ出かけて留守をしていました。
 どういう職を持つどういう人かはこの物語とは直接関係はありませんが、あまり人に誇れる叔父ではないということだけは申し上げておきましょう。
「この紙は?」
 絵の中から見つかった書類を、僕は母に見せようとしました。
 でも母は首を横に振り、受け取ろうとはしませんでした。その代わり口を開きました。
「それはおまえの出生証明書ですよ」
 出生証明書というのは、僕が生まれた日に役所が発行したもので、僕の名と生年月日、生まれた病院名、両親の名が記されています。きちんとした書式にのっとった公文書です。
「でもこれによると…」出生証明書に書かれている内容が意外だったので、僕は口を開こうとしました。
「その書類は、おまえが私の実の息子ではないということを証明するものです。おまえの叔父、つまり私の弟がのどから手が出るほどほしがっている書類でもあります。私たちの目を盗んで家の中を勝手に探したりする人だから、そんな場所に隠しておかなくてはならなかったのです」
「どうして?」
「弟はひどく欲張りだからです。実の息子ではなく、おまえには本当は相続権はないということになれば、この家の財産はすべて弟が独り占めすることができます。
 おまえは孤児でね、ある日この屋敷の玄関の前に捨てられていたの。私たちが拾い、世間体もあって、役所には実子として届けたわ。でもその出生証明書が表ざたになれば、おまえは相続権を失うことになる」
「この出生証明書はどこで手に入れたんですか?」
「おまえと一緒に玄関の前に置かれていたのですよ。人を雇ってひそかに調べさせたのだけど、実のご両親はすでに亡くなっているわ」
「おばあさんは、なぜこの出生証明書を命をかけて隠そうとしたんですか?」
 母は再びため息をつきました。
「私の弟はそれほど恐ろしい人間だからです。今でも誇れる弟ではないけれど、若いころからずいぶん悪いことをしてきた男なのですよ。
 だから30年前にも、その出生証明書のありかを白状させるため、弟はおまえの祖母を攻め立てました。自分の実の母なのに、毎日毎日激しい口調でです。それに耐え切れなくなって、母は命を絶ったの。地下室へ降りてゆき、毒を飲んだのです」
「でも、なぜそんなにまでして僕のために?」
 母は微笑みました。
「おまえが私のお気に入りで、自慢の息子だからですよ。母にとってもお気に入りの孫でした。30年前、母と私は話し合い、とにかくこの場は時間を稼ぎ、先のことは成人したおまえ自身に決めさせようということになりました。
 当家とは縁のない孤児として、遺産を相続することなく、しかし叔父とは縁を切って生きるか。あるいは出生証明書は燃やしてしまい、当家の跡取りとして、だがあの男の親戚として生きるか」
「僕の奇妙な性癖は、このことと関係あるんですか?」
 この質問については、母も首を横に振るしかないようでした。
「それは私にもわかりません。母の霊がさせていたことかもしれません。出生証明書を見つける手がかりはドイツ語辞書の中に隠してあるのだから、おまえの注意をそこに引きつける必要があったのでしょう」
「だけど…」
「さあ、その書類をどうするか決めなさい。燃やしてしまうのなら、ここに必要な道具があります」
 母は、僕の目の前に小皿とマッチの箱を置いてくれました。


 出生証明書は明るく燃え上がり、あとにはわずかな煙と小さな灰の塊が残るだけでした。
 窓を開けて煙を追い出したあとで、母は静かに読書に戻りました。僕は部屋を出て、そっとドアを閉めました。
 廊下で偶然叔父に出会いました。外出先から戻ってきたところなのでしょう。
「やあ叔父さん、お帰りなさい」
 僕が声をかけると、普段あまりないことなので叔父は驚いたような顔をしていましたが、すぐに返事をしてくれました。
「ああ、ただいま」
 僕の顔つきや表情から叔父が何か感づいたかどうかはわかりません。でも、どうでもよいことでした。裁判所が祖母の死亡宣告を正式に出せば、財産は母と叔父の間で二等分されることになります。
 父は何年も前に死に、母は寡婦です。もちろん、年老いた母も先は長くないでしょう。
 母が死ぬ日を、叔父は指折り数えていることでしょう。それまでには何とかして出生証明書を見つけ出し、財産をすべて自分のものにして、この家から僕を追い出すつもりでいるのでしょう。
 だけど、それはもう不可能になりました。僕は母の財産をすべて引き継ぎ、この屋敷の中で生きてゆくことになります。
 毎日顔をあわせて生きるには、叔父はいささかタフな相手かもしれません。
 でも僕は若いし、今は元気だけれど、年が離れているとはいえ叔父は母の弟なのです。いずれ年を取ってゆくでしょう。もう勝負は見えているではありませんか。
 そう、最後にあの困った性癖のことです。
 母が言うとおり、原因になっていたのは死んだ祖母の霊だったのかもしれません。祖母は僕に真実を伝えたかったのでしょう。
 その目的は達成されたわけです。この日以降、あの性癖はウソのように消えてしまい、僕が悩まされることは二度とありませんでした。

しんきろう


 蜃気楼(しんきろう)とは、海でしか見ることができないものだと僕は思っていたのだが、本当は陸地でも発生することがあるんじゃないかと、今ではひそかに考えている。
 僕はそういう経験をしたんだ。真夏のカンカン照りの昼下がりで、僕はあのとき、砂漠の真ん中にいた。
 僕は最初、自分の頭が暑さでおかしくなったんじゃないかと思った。 たしかに、おかしくなっても仕方のないような気温ではあった。
 アリゾナの太陽はバカみたいにまぶしくて、砂漠の真ん中に立っていると、ハンバーグみたいに鉄板の上で焼かれているような気がしてくる。
 僕は、ここまでこの暑い中を距離にして200キロ以上も、日影のまったくない道をバイクで走ってきたのだった。
 普通、スピードを出せば風が当たって、バイクに乗っていても少しは涼しいものだが、空気があまりにも熱いので、いくらスピードを出しても、大量の熱い空気が吹きつけてくるばかりで、僕はひどい目にあっていた。
 僕は学生で、夏休みを利用してアメリカを旅行していた。僕の家は金持ちではなかったが、アメリカへ行くと言えば、両親は必要な金を出してくれた。
 たぶん両親は、僕がアメリカで英語を勉強してくるとでも思ったのだろう。でも僕は、そんなことをするつもりは全然なかった。
 うまい具合に知り合いからオートバイを借りることができたので、僕はそれに乗って、毎日あちこち走り回っていたのだ。
 自分でも意外だったが、僕は砂漠がとても気に入ってしまった。
 だから僕は、ずっとロッキー山脈の西側を旅していた。ロッキーを越えて東に行くと、コロラドとかカンサスといった中西部になって、乾燥地帯ではなくなる。
 僕はいったんロッキーを越えてカンサスシティーまで行ったのだが、畑ばかりがどこまでも続く景色がつまらなくなって、また砂漠地帯に戻ってきていたのだ。
 それはともかく、このとき僕がいたのがアリゾナの砂漠だったというのは間違いない。
 僕は大きな道や、高速道路にもあきあきしていたので、思いきって、地図には細い線でしか載っていないような道に入ってみたのだ。それでも舗装のしてあるちゃんとした道だった。
 僕がその道を走っていると、砂漠の真ん中に突然、警報機つきの踏切が見えてきて、それが近づいていくと、不意に鳴り始めたのだ。
 それは構わない。アメリカにだって列車は走っているし、踏切にも警報機ぐらいある。
 だから僕は踏切の手前で止まって列車を待っていたのだが、どうせ貨物列車か、せいぜいアムトラックぐらいしか通らないものと思っていた。列車はなかなか来なかったので、僕はエンジンを止めることにした。
 そこへ、砂でできた丘を回り込むようにして、とうとう列車が姿を見せた。
 でも、それが私鉄の電車だったのだ。XX電鉄。関西地方を走っているあの私鉄だ。
 たった二両編成だったが、見覚えのある茶色の塗装だったし、僕は子供のころあの電車の沿線に住んでいたから、絶対に見間違うはずはなかった。
 独特の古くさいデザインだったし、パンタグラフをシュルシュル言わせながら走ってくるところなんか、子供のころに見たそのままだったんだ。
 電車は急ぐふうもなく、カランカランと僕の前を通っていった。スピードはきっと60キロくらいだったろう。
 線路が良くないのか、頭を左右に大きく振っている。車内に人影は見えなかったが、冷房はないらしくて、窓は全部開けてあった。
 もちろん僕は驚いた。こんなところを日本の電車が走っているはずはない。
 僕は、まるでウソみたいな気分で電車を眺めていた。太陽の光を跳ね返しながら、電車はゆっくり遠ざかっていった。
 でも僕は、そのまま見送ってはいられなかった。すぐにエンジンをかけてバイクをスタートさせ、電車を追いかけ始めたんだ。
 うまい具合に、踏切のところからは別の道が線路に平行して伸びていて、そこを走れば電車を追いかけることができた。
 なぜ日本の電車がこんなところにいるのか、僕には見当もつかなかったが、とにかく追いかけて、理由を探ろうと思ったのだ。あの電車がどこへ行くのかわかれば、理由がわかるかもしれない。
 僕は電車を追いかけ続けた。
 舗装のない道だが、幅は広かった。だからスピードは出せた。
 でも、あまり近寄りすぎたら砂ぼこりをかけられるから、少し距離を開けて電車についていった。暑くてたまらなかった。
 電車は、僕の存在などまったく気にしない様子で走り続けた。僕も遅れないように走り続けた。
 道と線路は、しばらくのあいだ砂漠を走っていたが、ちょっとした丘を回り込んだところで、やがて前方に小さな町が見えてきたんだ。
 いかにも砂漠の町といった感じの小さな町で、家も100軒はなかっただろう。小さな家が密集していて、あまり豊かな感じはしなかった。
 線路は町に入ると、すぐに駅になった。電車はそこで停車するようで、ゆるゆるとスピードを落としていった。
 僕も電車について、そのまま町へ入っていった。
 僕は、ゆっくりとブレーキをかけた。町はずれの駅の前で、僕はバイクを止めた。
 大きな駅ではなかった。建物が一つあるだけの小さな駅。気がつくと、僕はその真ん前にいたんだ。
 でも駅の建物を見て、僕はまた驚いた。
 それは、アメリカの他のどの場所でも見たことがないような、日本風の駅だったのだ。木造で白い壁と瓦屋根のある、少し前には日本のどこにだってあったような建物だ。
 僕のいた位置からは、駅の入口を通して改札口が見えて、その向こうにさっきの電車が止まっているのが見えた。
 僕はバイクのスタンドを立てて、キーを抜いた。ヘルメットを脱いでバックミラーに引っかけ、バイクを降りた。
 暑くって、汗が流れて目に入ったが、僕はもう、その駅以外は何も目に入らないような気がした。
 本当に、どう見たって日本の駅なのだ。何式建築というのかは知らないが。
 駅の建物の内部を見透かすようにすると、改札口を見ることができた。
 だがそこには、もちろん自動改札機などはなく、今は誰もいないが、発車前には駅員がやってきてキップにハサミを入れるのだろう。
 でも乗客が極端に少ないのか、改札口を通って下車する姿は一人も見えなかった。
「ふうん。おかしなこともあるもんだ」
 体の向きを変え、後ろを振り向いた時、僕はまた驚いた。
 なぜって、駅の建物に向かい合うようにして、商店街があったのだ。それが、この駅と同じように、日本にあるとしか思えない町なのだ。
 アメリカ製の幅の広い乗用車では絶対に通り抜けられない狭い通りだが、黒い瓦の乗った木造の小さな家や商店が、その両側に、いくつもくっついて並んでいる。
 太陽が真上から照りつけて、粒の細かい砂利を敷きつめた通りは、ほとんど真っ白に見えた。駅と同じく、ここにも人影は全然なかったが、いろいろな店が並んでいるようだ。
 僕は少し歩いてみることにした。
 通りには、派手なのぼりや電飾看板などは一つもなく、なんとなく全体におとなしい雰囲気だった。
 それでも、それぞれの店は看板を出し、ちゃんと営業しているらしく、さびれた感じはない。
 ただ、どこか田舎っぽい感じがあって、都会の商店街というよりも田舎の町という気がした。
 僕はゆっくりと歩いた。スニーカーの下で砂利がはぜて、小さな音を立てた。
 入口が開いたままで、誰も座っていないイスやテーブルが丸見えになっているお好み焼屋があった。のれんの隣に風鈴があって、風でかすかにチリンチリン鳴っていた。
 店の奥にも人影はなかった。ソースの匂いが漂ってきそうな気がした。
 その隣は、間口の狭い駄菓子屋になっていた。お菓子や福引が山ほど並べてあって、そこらじゅうの壁や天井にも、おもちゃやゴムボール、竹ひごを曲げて作るゴム動力の飛行機といったものが、ゴタゴタぶら下げてあったり、束ねてクギに引っかけてあったりする。
 子供のころに食べた、甘いような苦いような人工甘味料の味を不意に思い出した。
 でもこういった店は、普段なら子供でいっぱいのはずだが、ここにも誰もいなかった。子供どころか、大人の姿も見えない。
 その隣は荒物屋で、金色のヤカンとか(いろいろな大きさのがある)、瀬戸物とかザルとかスコップとか、そういったものを並べていた。
 次は風呂屋で、のれんが出ていたから、開いてはいたのだろう。出てくる人間も入っていく人間もいなかったが、下駄やぞうりが何足か脱いで置かれていたから、客はいたのだろう。
 風呂屋の壁に映画のポスターが一枚張ってあることに気がついた。怪談映画のポスターで、納涼大会の出し物らしい。
 恐ろしい顔に化粧をした女が、こっちを見ていた。僕は子供のころ、この手の映画が怖くてたまらなかったことを思い出した。
 通りの先には、日よけをした魚屋とか、たれの匂いのしてきそうな焼き鳥屋とかが、まだまだ並んでいるようだったけれど、僕は手近かな店に入ってみようと思った。
 あんまり暑くて、のどが乾いていたから、コーラを買うつもりで、ちょうどそこにあった食料品店に入ることにした。
 この食料品店は特に背の低い建物で、雨どいが、頭がつっかえそうなぐらい低い位置にあった。ガラスをはめた木の戸はもちろん全部開いていたが、その手前に、今まで気がつかなかった細い溝があって、透明な水が勢いよく流れていた。
 透き通っていて、いかにも冷たそうな水だった。人が通る場所には木のドブ板が渡してある。
 こんな砂漠で、こんな水がどこから流れてくるんだろうと僕は一瞬思った。
 店の中は少しひんやりしていて、薄暗かった。食料品の匂いがした。
 パンとかインスタントラーメンとか、缶詰、菓子といったものが並んで、ゴタゴタしていた。アイスクリームを冷やす機械がでんと置いてあって、じーんというかすかな音をたてていた。
 煙草屋も兼ねているようで、店の奥には、木とガラスでできた小さなカウンターがあって、その中にいろいろな種類の煙草が並んでいた。カウンターの向こうにも、煙草のカートンがいくつも積んであって、生の煙草の匂いがすることに気がついた。
 だけどカウンターの中に見えているのは、最近ではあまり見かけない古い銘柄の煙草ばかりだった。僕は煙草なんか吸わないが、子供のころ大人たちが吸うのを見た覚えがあった。いこい、わかば、ききょう、こだま、そんな銘柄が並んでいた。
 僕はもう、自分がアリゾナにいるんだということをすっかり忘れてしまった。
「すいません」
 僕は、店の奥の誰かに向かって言った。
 でも誰も返事をしない。少し待ってみたが、やっぱりなかった。
「すいません」
 僕はもう一度言った。でも返事はない。暑い日だから、みんな奥で昼寝でもしているのかもしれないと思った。
 仕方がないから買い物をあきらめて、店を出ることにした。
 僕は通りに出た。すると、さっきは気がつかなかったのだが、すぐ目の前に電柱があって、それには細長い金属の看板が打ちつけてあるじゃないか。
 ペンキで字が書いてある。あちこちの町で、『ここは何町何丁目』と書いてあるような板だ。
 僕は電柱に近寄って、字を読んでみた。
『日ノ出町1丁目』
 ローマ字でも英語でもなくて、日本語で書いてあったのだ。でも僕はもう驚かなかったし、この町には日本語の看板がふさわしいような気もした。
 僕はちょっと感心した。日ノ出町とはまた、えらく日本的な名前じゃないか。だけどアリゾナの砂漠の真ん中に、こんな町が存在する理由が、僕はわかったような気がしたんだ。
 いかにも日本から移住してきた日本人たちが、自分たちが開拓した町につけそうな名前じゃないか。
 つまりここは、何十年も前に日本から集団で移住してきた日本人たちが作った日本町なのだ。僕はそう思った。
 そして彼らは自分たちの町を、可能な限り故郷の風景と同じにしたのだ。日本から材料を輸入して日本風の家を建て、商店には、日本から輸入してきた商品を並べる。
 彼らは日本の町を丸ごと一つ、アリゾナの砂漠に持ち込んだのだ。
 たぶん、ここから何キロか離れたところには大きな鉱山か工場があって、彼らはそこで働いているのだろう。とんでもなく極端な企業城下町で、閉鎖的と言えば言い過ぎだが、そのせいで外部から人の入ってこない、離れ小島みたいな町が生まれたのだろう。
 まったくここは、アメリカにある日本の飛び地のようなものだ。
 さっきの電車もきっと、古い電車を日本から輸入したもので、鉱山か工場か知らないが、そこへ通勤する人たちを運んでいるのだろう。
 今は昼間だから、電車の客も少ないのだ。朝や夕方には、たくさんの日系人が乗るに違いない。
 そう考えて、僕は気分がすっきりした。
 でも暑いのはあいかわらずだ。
 のども渇いていたけれど、この町にいてはコーラは飲めそうもないし、一秒でも早く冷房のきいた部屋に逃げ込んで、シャワーを浴びたかった。
 僕はバイクに戻り、ヘルメットをかぶってエンジンをかけた。そこからは振り返りもせずに、さっきの道を逆に走り、僕は日ノ出町を離れた。
 あの踏切のところまで戻って、もとの舗装道路に乗り入れたんだ。アクセルを開き、僕は熱い風を浴びた。
 ところがこのあたりから、だんだんおかしなことになってくる。なんだか僕には、あれが日系人が作った町であるというのが、突然ばかばかしく思えてきたんだ。
 アメリカでは、一般の道路は制限速度が55マイル。つまり時速88キロだ。日ノ出町を離れ、舗装路の上を走り始めてすでに1時間ほどたっていたから、あの町はすでに100キロばかり後方に離れていたことになる。
 それだけの距離を置いて、僕も少しは冷静に考えることができたのかもしれない。
 アメリカに住む者が、日本住宅を建てるための資材や電車を輸入することが、どれだけ大変であるか。いかに日本の生活を懐かしんでいても、輸送費だけでいくらかかることか。実行できるわけがない。
 だから僕は、考えを変えた。
 どういうメカニズムか知らないが、あれはきっと蜃気楼の一種だったのだ。僕は理科系の人間じゃないが、物理学者にでも質問すれば、適当な説明を教えてくれるかもしれない。
 いやいや、そうじゃないかもしれないぞ。
 乾ききったアスファルトの路面を眺めながら、僕の頭は次々と奇妙な考えをひねくりだすようだった。
 日本風の町を見て、僕がバイクを止めたあの地点は、舗装道路からは何キロも外れていた。
 もしも蜃気楼を見なければ、僕はあんな場所へ足を向けはしなかっただろうし、町など実在しないのであれば、そもそもあそこは何もない砂だらけの砂漠の一地点にすぎないだろう。
 何者かの手で、僕はあの場所まで呼び寄せられ、おびき出されたのではなかろうか。
 なんのために?
 この暑さなのに、僕は突然冷気を感じ、背中がブルっとした。心を静めるため、声を出した。
「そうさ、誰が何のために、僕をあんな場所へ呼び寄せたというんだい? ヒッチハイクでもしようってのかな?」
 不安を隠すために、僕はそんなことを口にしたのだ。強がっていたのかもしれない。
 もう午後も遅く、夕暮れに向かって、すでに太陽は傾き始めている。日が斜めに差し込むと、僕とオートバイの影が、砂漠の砂の上に長く伸びた。
 ここ数日の間に、それは見慣れた影ではあった。バイクと僕のシルエットが、すこしかしいで、砂の上を黒々と走ってゆく。
 だが僕は気がつき、息をのんだ。
 僕はもちろん一人旅をしていた。ならば砂の上に投影されるのは、オートバイと僕の影だけであるはず。
 だけどそうじゃなかった。僕ははっきり見てしまった。
 砂漠にうつる黒い影。
 バイクに乗り、ハンドルを握っている僕の影の背後には、まるで二人乗りをするかのように、たしかにもう一人分の影法師があったのだ。

黒太郎


 その漁師の名は平蔵といい、もう若くはなかった。
 日に焼けた顔に、真っ白な髪と長いヒゲ。体は小柄だが、それは自分の船に合わせたサイズで、今でもキビキビと敏捷に動くことができた。
 息子も娘もみな、すでに成人し、
「いい加減に引退しろ」
 とすすめるが、平蔵は隠居など、退屈で仕方がない。
 平蔵の船も古いが、船体はまだしっかりしており、特にエンジンは角が取れてこなれ、今がちょうど脂の乗り切った感じがする。こんなに調子のいい船を、いま手放すなど考えられない。
 嵐が通り過ぎたばかりの早朝、その空の青さに、平蔵は矢も盾もたまらず出漁したのだ。他の漁師たちは様子見で、昼ごろまでエンジンをかけることはない。
 しかし平蔵は、本当に海が好きだった。
 漁村に生まれたが、平蔵の父は漁師ではなく、違う商売をしていた。
 平蔵は、あとを継ぐでもなくいたが、18歳のときに軍隊にとられた。そして水兵になった。
 その2年後、兵役が明けて村へ戻る頃には、すっかり海に魅了されていたのである。そのまま自然と漁師になった。
 エンジンを響かせ、舵を操り、まだうねりがある海上を平蔵は進んだ。
「今日は西の岩礁へ出かけよう。嵐の後、なぜかあそこには魚が集まる…」
 それは、彼の師匠が伝えた知識の一つだった。
 師匠は、平蔵よりもはるかに年上、まだ漁船にエンジンなどなかった時代の生き残りだった。当時、20歳過ぎだった平蔵の目には、いかにも年寄りに見えたが、師匠は大酒飲みで、ほどなくして体を悪くして死んだ。
 もう50年も前のことだ。
 この日も、岩礁は好漁だった。
 高価に売れる魚をいくつも引き上げ、船の中は、すぐにいっぱいになった。これが漁師というものの醍醐味であろう。
 満足した顔で、平蔵は家路に着いたが、目をこらしたのは、岩礁を離れて、40分ばかり過ぎたときである。
「おや、あれは何だ?…」
 波間に、何者かがチラリと見えたのだ。
 方向は右手奥。水上に2メートルばかり、三角形にまっすぐに突き出すので、最初はヨットの帆かと思った。
「ヨットだと? こんな荒天に出てくる酔狂なヨット乗りがいるのか?…」
 まったく奇妙な話である。
 しかもその帆が、まるでゴム製であるかのように真っ黒なのだ。その正体に思い至った瞬間、平蔵の体を、電気のような衝撃が走りぬけた。
「あれはシャチだ。黒太郎だ。あれほど体の黒いシャチが、この世に2匹といるわけがない…」
 平蔵の胸の中で、心臓がドクドクと激しく鼓動を打ち始める。
「しかし黒太郎は、もう少し南の海を縄張りにしているはずではないか? ははあ、今年の冬は、やけに暖かかった。例年にない暖冬だ。それでここまで北上したのか…」
 世界中どこの海にも、野生のクジラが存在する。
 シャチはその一種。
 黒太郎とはその中の一匹で、噂は平蔵の耳にも届いていた。
 いわく、魚網を外から食い破り、せっかく獲った魚を、半分以上持ち去る。
 長いさおで一本釣りをして、やっとかかった体長2メートルを越すカジキマグロを、泥棒猫のように盗んでいく。
 などなど、漁師仲間からは蛇蝎(だかつ)のごとく嫌われ、恐れられた。
 黒太郎を退治せんものと、過去に何人もが挑み、すべて失敗していた。
 中には、黒太郎のせいで絶命した者もおり、それが有名な網元、つまり大家の跡継ぎ息子であり、その死が当時、世間でかなりの騒ぎになったとは、平蔵も師匠の口から聞かされていた。
 その黒太郎が今、平蔵の船に平行して泳いでいるのである。
 そのサイズときたら、体長が船と同じほどあるのだ。一瞬並んだとき、平蔵の目に、自分の船が、いかにチャチに思えたことか。
 話に聞く以上の脅威なのである。
 しかも平蔵には、黒太郎の心が読み取れるような気がした。
「あの嵐の中では、さすがの黒太郎も餌にありつけなかったろう。やっと嵐が治まったのはいいが、やつは、このあたりの海のことは素人も同然。すきっ腹がチクチクと痛むが、そこへ獲物を満載した小さな漁船が通りかかる…。やつにとっては、餌箱も同じだ…」
 この瞬間、平蔵が感じ、その年老いた肉体を電気のように駆け抜けていったのは、闘志でもプライドでもなかった。
 確かに平蔵は、もう50年近く海に生きてきた男である。
 だが平蔵が感じたのは、純粋な恐怖だったのだ。
 シャチという、あれだけ巨大な動物の前に立ってみるとよい。しかもそのシャチが、空腹に違いないと分かっているのだ。
「何か身を守るものは…」
 と平蔵は見回したが、武器に近いものといえば、モリが1本だけである。
 長い木の棒の先に鋭い鉄の刃がつき、ヤリのようになっている。網にかかった魚が大きすぎ、手で引き上げるのが不可能なときに用いるものだ。
 しかし、こんなチャチなモリでは、分厚いシャチの表皮を貫けるかどうかさえ怪しい。
 実は平蔵も、魚をさばくためのナイフは所持していたのである。
 これは、海軍にとられて水兵になった頃、最初の給料で購入したものだ。
 刃は短いが、柄はずんぐりと長くとってあり、太めなこともあって、しっかり握ることができる。
 海軍とは荒っぽいところで、刃に血を吸わせたことはないが、この刃物で身を守ったことは何度かある。
 だが、荒くれ水兵が相手ならともかく、シャチが敵では、
「何の意味もない…」
 結局、平蔵は覚悟を決めるほかなかったのである。
「もう引退しても良いのではないか…」
 と勧めてくれた息子や娘たちの顔が目の前にちらつくのを、平蔵は振り払わなくてはならなかった。
 もはや平蔵には、生きて家に帰る望みも、明日という日を目にする希望もなかった。
 唯一つ思い浮かぶのは、孫の一郎のことである。何人かいる孫の中で、この一郎だけが、
『祖父がする漁師という仕事』
 に興味を持ってくれるのだ。
 まだ小学3年なので、もちろん海へ連れ出すことはできないが、他の子供らのように、
「やれサッカー教室だの、少年野球だの…」
 ということはない。
 週に1度か2度、学校帰りに漁港で待っていてくれることもある。
 平蔵が昼網(ひるあみ)から戻るのを期待しているのだが、そのあと2人して、トロ箱いっぱいの魚をいくつも桟橋に積み上げるのである。
 フライパンのように丸く小さなエイの尾を、平蔵がナイフで切り落とす様など(この尾には毒針がある)、一郎は面白そうに眺めているのだ。
「この一郎なら、いつか、わしのあとを継いで、漁師になってくれるかもしれん」
 と平蔵は密かに思うこともあった。
 その望みは、年を追うごとに、平蔵の頭の中で大きくなっていったのである。
 しかしながら…、 
 いくら今、調子の良い平蔵の船も、
「いくらなんでも、一郎が大人になるころまでは持つまい…」
 それは仕方のない事実である。
「ならわしは、一郎の将来のために、何を残してやれるだろう?」
 それが、最近の平蔵の頭を占める悩みとなりつつあった。
 伝えてやるとすれば、
「漁法か、魚の採り方か?」
 いかにも漁師らしい発想ではあるが、それには平蔵も、自分で首を横に振る。
 平蔵自身が、自分がいささか時代遅れの古い漁師であることを、百も承知していた。
 漁獲高では、今もまだ現代の若い漁師たちに負けるものではないが、追いつかれ、追い抜かれるのも時間の問題であろう。
「なにしろ最新の漁船ときたら、魚群探知機やらレーダーやら、ややこしい機械をいろいろと積み込んでいるのだから…」
 残念ながら、それらの機械はどれもが、平蔵の理解を超えているのである。
 だが平蔵にも、はっきり分かっていることがある。
「この先の時代、一郎が漁師になるころには、漁業は今よりももっと様変わりしているだろうということさ…。わしなんぞには想像もつかない世界に変貌しているだろうて」
 だから、平蔵が今もっている知識や漁法を、一郎に伝えてやっても仕方がない気がするのだ。新時代の漁業の前では、平蔵の古い知識など、もはや出番はなかろう。
 しかしここで、今日この日、平蔵は黒太郎と出会ったのである。
 普段から見事に不信心な男であるが、今日に限っては突然、この出会いを神に感謝したい気持ちになった。
 なぜなら、
「将来、漁師になった一郎に残してやれるものが見つかったからさ」
 シャチを含め、クジラという動物が非常に長命であることは、平蔵も聞き知っていた。
 70年や90年はあたりまえ。
 中には、230歳まで生きた個体まで確認されている。
(余談だが、クジラを解剖し、その耳の中で見つかる耳石という石のようなものを調べ、その年輪を数えるという方法をとる)
「つまりこの黒太郎めは、一郎が漁師になったときでも、まだ充分に元気で生きており、わしらの魚場を荒らし、魚を横取りしてくれるであろうということさ…」
 平蔵の表情は変化していた。先ほどまでは、額に皺を寄せて沈うつだったのが、明るく変わっていたのである。
 もちろん緊張と恐怖で、指はまだぶるぶる震えている。
 しかし平蔵は幸福であった。
 この男は、自分にふさわしい死に場所を見つけたのである。


 黒太郎と平蔵の死体が発見されたのは、数日後のことであった。
 といっても、死亡の日付ははっきりとせず、いろいろと調査の結果、平蔵の最後の出漁の直後であろうと想像されたのに過ぎない。
 海流の関係で、死体は、平蔵の母港からは少し離れた別の港にたどり着いていた。
 港の桟橋に流れ着いた形なのである。
 シャチとは、本当に巨大な生物である。
 体長8メートルというから、波にチャプチャプ浮かぶ生命のない姿を、安全な桟橋の上から見下ろしても、息をのむほどである。
 その全身は一部のすきもなく真っ黒で、
「黒太郎とは、本当によく言った名だ」
 と見物人たちは納得したものである。
 その黒太郎の背にまたがるようにして、平蔵は死んでいた。
 まるで競馬の騎手のような姿であるが、平蔵の左足は、ひざから先が失われており、それは黒太郎との格闘の結果らしい。
 その平蔵の死体であるが、恐らく黒太郎と同時に死亡したのであろうが、それがなぜ分離もせず、ここまで一緒に流れ着いたのか、大いに不思議であった。
 見物人たちも、やいのやいのと議論しあったのである。しかし、正解を言い当てたものは一人もなかった。
 ただシャチの死体が打ち上げられたというのであれば、せいぜいしかるべき大学のクジラ研究家にでも連絡すれば済むであろう。
 だが平蔵は人間の死体であり、すぐさま警察へ通報がされた。
 死体を見慣れているはずの警察官たちも、港へやってきて、この光景には驚いた様子だったが、とにかく平蔵を収容しなくてはならない。
 沖へ流れ出さないよう、黒太郎のヒレにロープが結び付けられ、作業が始まった。
 死体が発見されたのは早朝だったが、なぜ2つの死体が分離しないのか、理由が判明したのは昼過ぎのことであった。
 それだけの時間がかかってしまったのだ。
 失われた左足の先はともかく、平蔵の右腕が見えないことは、最初から不思議がられてはいた。
 クジラやシャチに、鼻の穴は存在しない。
 いや、ないとは言っても、
『人間のように顔の中心にはない』
 というだけで、シャチも動物であるから、空気を呼吸する必要がある。
 そのための鼻の穴、これを『呼吸孔』というが、これがシャチの頭の真上にあるのだ。
 死体を調べ、警察官たちが驚愕したのは、平蔵の右腕がこの呼吸孔に突き刺さり、深く深くもぐりこんでいることが発見されたからである。
 海の男、漁師の腕であるから、平蔵の腕は少女のように細くはない。
 いくらでかい生物とはいえ、黒太郎の呼吸孔も、家の雨どいのように太いのではない。
 だが、平蔵の右腕は深く、肩の付け根まで完全に黒太郎の体内に埋まり、手のひらなどは、肺の近くまで達していたのである。
 そうやって、平蔵は黒太郎の呼吸孔を完全にふさいだのだ。
 人間であれば、口と鼻が内部でつながっているから、鼻をふさがれても、口で呼吸することができる。
 しかし、クジラはそういう体の構造にはなっていない。口を通しての呼吸は不可能なのである。
 呼吸を完全にふさがれた黒太郎は苦しみ、恐らく猛烈に暴れたであろう。しかし平蔵は振り落とされなかったのだ。
 黒太郎は、苦しまぎれの潜水も試みたであろう。それでも平蔵は離れなかったのである。
 新鮮な空気を求め、黒太郎の肺は、絶望的な吸引を行ったであろう。その力は恐ろしいものだ。
 だが結果的に、平蔵の腕をさらに深く引き込むだけに終わったであろう。
 平蔵の死体を収容した警察車両が桟橋を離れたのは、もう日が暮れる頃であった。
 それだけ長時間の作業となったのには理由がある。
 平蔵の死体を引きはがすため、警察は黒太郎を解体しなくてはならなかったのである。

軍馬

 現代からは100年近く昔、N市は軍隊の町であった。
 それはつまり、町の中心に軍の部隊が駐屯(ちゅうとん)し、広い基地を構えていたからだが、ここにいる兵員数を数千とすれば、この人数が非番となると町へ繰り出し、歓楽街に金を落とすのである。
 そのほか、食料や各種の物品を軍に納入する業者も少なからず存在するわけだから、N市において、
『兵隊さん』
 という言葉には一種、特別に良い響きがあったのも、うなずけよう。
 実は軍も、そうそう良いことばかりではなく、酔った兵たちによるイザコザや喧嘩で、町の人間が迷惑を受ける場合もあった。
 しかしそれでも、市全体としては、軍隊の存在を歓迎していたのである。
 正式には、陸軍第X師団と称したが、町の人々はただ、
『師団さん』
 と呼ぶことが普通であった。
 その師団から、一人の軍人がタカシの家を訪れたのは、ある秋の日のことであった。
 この軍人の名を田中少尉というが、この男、やっとやっと士官学校を卒業し、本職の軍人になったのは良いが、その先がいけなかった。
 その後はパッとせず、もちろん手柄も立てられず、すでに40歳を過ぎているのに、中尉への昇進が困難とされる人物だったのである。
 その代わり、部下たちに対してはガミガミと口やかましく、部隊でも嫌われ、それがさらに評価を下げ、昇進を遅らせるという悪循環になっていた。
 ギョロ目で小さなアゴ、それでもって、そこらへんの廊下に、ちょこなんと立っているところなど、まるで道に迷ったイワシのようであり、事実若い兵たちは影でそう呼んでいたようである。
 軍隊には、
「停限年齢」
 というものがあり(定年とは異なる)、例えば田中のような少尉であれば、45歳までに中尉に昇進できなければ、自動的に身を引いて退職するという制度なのである。
(停限年齢は階級により異なる。例えば大尉なら48歳、少佐であれば50歳というように)
 その停限年齢が、田中には迫っていたのである。
 この先もずっと、一生を軍人で勤め上げるつもりというよりも、軍以外の世界を一度も経験したことのない田中にとって、なんとしても数年内に中尉へ昇進することが、まさしく死活問題だったわけである。
 こういう田中少尉が、タカシの家を訪れたのだ。
 この時代、弾薬や食料など、戦争をするのに必要な物品を運ぶ荷馬車や、場合によっては大砲をけん引するため、軍隊では馬を大量に必要としていた。
 いわゆる『軍馬』である。
 田中少尉は今、その軍馬徴発(ぐんばちょうはつ)の任についており、決まった数の馬を、期日までにかき集めなくてはならない。
 徴発とはつまり、民間の家から、ものを無理やり持っていってしまうことである(代価は支払われる)。
「お国のため、戦争のために差し出せ」
 ということで、この時代には、ままあったことだ。 
 そうやって軍馬を集めるのであるが、頭数だけでなく、馬の質ももちろん問題にされる。
 タカシの馬の噂を聞きつけ、田中少尉は、ひざをポンと叩いたのである。
「おお、これこそ、わしが点数を稼ぐのに役立つよい馬じゃ」
 この田中少尉が家を訪れ、応対したのが、タカシの母親だった。
 この日、タカシは折悪しく留守をしており、もしもタカシが在宅であれば、物語の結末は大きく変化していたであろう。
 タカシの職業は馬追いであった。
 現代の日本には存在しない職業だが、馬を飼い、その背に荷物を乗せ、料金を取って輸送したり、荷物を満載した荷車を引いたりする。
 かつては、どこの村や町にも珍しくない職だったのである。
 もともとは、タカシの父親がこの馬追いであった。
 その父が早くから病死したということもあったが、尋常小学校の卒業後、高等小学校へ進むことよりも、馬と一緒に働くことを選んだのである。
 父に似て、タカシも無類の馬好きであった。
 しかし、馬ならどの馬でもよいというのではなく、タカシが愛情をそそぐのは、自分の家で飼っている馬、一頭きりだったのである。
 この馬の名を緑丸といい、誕生日も近く、タカシと緑丸は、ほとんど同時に生まれたといってよい。
 その後も、同じ家の中で一緒に育ち、成長してきたのである。タカシが生まれて初めて乗馬したのも、もちろん緑丸の背であった。
 この雌馬とタカシの間にどれほど親しい感情の交流があったのか、部外者の知るところではない。
 緑丸はただの馬ではなく、
「とにかくでかい」
 というのが、目にした者が共通して抱く印象だった。
 緑丸の肩は、どんなに長身の男の背よりも高い位置にあり、腹の下には子供が5人並んで立つことができた。
 だがおとなしく、暇な日には近所の子供を乗せ、ぽっくりぽっくりと村を一回りしたものである。
 タカシの家を予告もなく訪れ、もちろん田中少尉は、例の高圧的な調子で、
「緑丸をお国へ差し出せ」
 と迫ったことであろう。
「あれは、息子が大事にしている馬ですから…」
 と、しぶる母親に対して、
「なに? お国に差し出すことができぬというのか? この不届き者め」
 とも吐いたであろう。
 問答が続き、やがて母親には耐えられなくなり、緑丸を引き渡してしまった。
 いかめしい表情をして、田中少尉はニコニコ顔を隠し、
「うむ、始めから素直に差し出しておればよいのじゃ」
 これほど良い馬を徴発できたのだから、自分の有能を上官にアピールできると考えたのであろう。ある意味で、田中少尉も必死なのである。
 力は強いが、おとなしい馬である。
 たづなを引かれ、馬屋から引き出されても、反抗はしなかった。田中少尉の手に引かれ、トラックに乗せられたのである。
 母親はずっと遠くから、それを見送るほかなかった。
 やがて夕方になり、帰宅したタカシは、真っ青どころか、頭が真っ白になった。母親から、緑丸の顛末(てんまつ)を聞かされたのだ。
 自分の力不足を母親は何度もわびたが、そんなもの、タカシの耳には入らなかった。頭の中でタカシは、すでに駐屯地への道筋を思い浮かべ、考えていたのである。
「母ちゃん。行って緑丸を取り返してくる」
 父親の跡を継いだというだけではない。
「進学してはどうか?」
 という教師や周囲の勧めを振りきり、進んで馬追いになろうとした少年なのである。野生動物の強さと強情さを併せ持つ人物であった。
 いかにもこの彼らしく、この出来事を、
『賄賂(わいろ)を用いて政治的に解決する』
 ことなど思い浮かびもせず、ただ直情に、
『力づくで奪い返す』
 という決意をしたのである。
 もちろん母親は止めようとしたが、そんなことを聞くはずはない。玄関の戸を開け、タカシは夕闇の中へ姿を消した。
 日常的に警備されているとはいえ、前線からは遠い国内である。しかも広い敷地を持っている。
 真夜中を待てば、駐屯地に忍び込むのは不可能ではないし、事実タカシは成功したのである。
 消灯時間が過ぎ、兵舎の明かりも消されたことも、もちろん確かめてある。
 暗闇から暗闇へ、足音を忍ばせて歩き、やがてタカシは、厩舎(きゅうしゃ)を見つけ出すことができた。専属の厩務員も雇われてはいるが、今は就寝しているのだろう。ここも明かりが消えている。
 厩舎の建物は複数あり、タカシに取って幸運だったのは、ある建物の中に、緑丸がたった1頭で入れられていたことだ。
 タカシが忍び込んでも、他の馬たちが騒ぎ出すということがなかったのである。
「ちくしょう」
 ここでタカシは、小さく悪態をついた。急いで出てきたので、たづなの用意を忘れたのである。
 しかしまあ、なんとかなるであろう。
 タカシは思い直した。タカシと緑丸の息はぴったりと合い、普段でも、たづななしで乗馬することが可能だったのである。
 タカシはさっそく、緑丸を静かに連れ出そうとしたが、あれだけの大きな馬で、それは土台無理な話であった。
 各所に見張りの兵が立っているのである。その一人から、さっそく誰何(すいか)を受けた。
 問われて、もちろん名乗るわけにはいかない。
 タカシなりに、
『自分の馬を取り戻しに来ただけ』
 ではあるが、客観的には、
『ただの馬泥棒にすぎない』
 ということは本人も理解していた。
 たてがみをつかみ、緑丸の背に飛び乗ったのである。
 その見張りも敏感で、頭のいい兵だったのであろう。
『一人では手に余る…』
 ととっさに判断し、仲間を呼んだのだ。
「おい来てくれ。曲者だあっ」
 それを尻目に、タカシと緑丸は駆け出していたのである。
 ほとんどが床についていたが、部隊の全員が起き出し、武器をたずさえて集合するには5分とかからなかった。
 カチャカチャと銃の鳴る音。
「何が起こったんだ?」
 という話し声。
 黒いブーツの響きが敷地を満たした。
 しかしながら、この夜の当直指揮官は、ひどく気の短い男だった。なんと一斉射撃を命じたのである。
 何十発もの銃声が緑丸のあとを追い、タカシを乗せたまま、緑丸は駆け続けた。
 タカシは優れた乗り手であり、緑丸も彼の癖を熟知していた。
 植え込みや駐車中の自動車、固まっている兵たちを軽々と飛び越える様子は、翼が生えているとしか思えないほどだ。
 だがそれを狙って、兵たちは引き金を引き続けたのである。
 銃弾を体に受けるとは、タカシにとって、もちろん生まれて初めての経験だった。
 痛いというよりも、ズンとした衝撃なのである。トンカチでもって、いやというほど、思いっきり体を叩かれる感じなのだ。
 タカシは、まず脇腹に一発を受けたが、たてがみから片手を外して触れると、ペンキのように赤い血がベットリと着き、手のひらが見えないほどである。
「ちくしょう、撃たれた…」
 真夜中の闇の中である。訓練された兵隊であっても、目標に命中させるのは難しい。
 しかも目標は動いているのだ。
 だが、タカシよりも体が大きいぶん、緑丸にはさらに命中しやすく、かすった弾数はそれに勝るが、この馬は悲鳴一つあげなかった。それほど気丈な馬だったのである。
 弾丸をよけ、兵たちを踏み越え、何人かはひづめの下に踏み敷きながら駆け続けた。
 しかし出口はないのである。いくら緑丸でも、駐屯地を囲む塀を飛び越えることはできなかった。出入口の門は、騒ぎの最初に固く閉ざされてしまったのである。
 緑丸は疲れ知らず。
 しかし相手は銃弾。永久に逃げ続けることはできない。
 銃声が何十と響き、兵たちは弾倉をいくつも空にしたのである。そのうちに兵たちは気づき、指揮官に向かって声を上げた。
「隊長殿、あの少年はすでに死んでおります」
 そのとおり、タカシはすでに事切れていた。
 あれだけの弾幕の下にいたのである。首はガクンと折れ、髪が垂れ下がる。弾丸は雨あられと降り注いだのだから、むりもない。
 だがタカシは落馬しなかった。たてがみをつかみ、緑丸に固く固くしがみついていたのである。


 体が大きいだけでなく、緑丸は頭のよい、賢い馬であった。恐らく流れ弾を恐れてのことだろうが、
『兵たちが自分を、ある建物には近づけないようにしている…』
 と気づいていたらしいのだ。
 季節は秋で、冬が近づきつつあった。冬季の暖房のため、ドラム缶に詰め、倉庫の中には灯油が大量に備蓄されていたのである。
 また、軍隊の施設であるから、もちろん弾薬庫がある。
 その油倉庫と弾薬庫へ自分を近づけまいと、兵たちは腐心している。
 それに緑丸は感づいたのだ。
 もちろん動物に、灯油や弾薬という言葉の意味が分かるわけがない。
 しかしなぜか人間たちは、自分がその方向へひづめを向けるたびに、顔色を変えるではないか…。
 まずは灯油であった。
 緑丸は突然、ロケットのように進路を変え、全速力を出したのである。
 背中の上で、タカシの死体がさらに激しく踊るが、落馬してしまうことはなかった。
 タカシの手指は、緑丸のたてがみを、それほど強く握り締めていたのである。
 油倉庫の前面は、10名ほどの兵が2列になって銃を構え、守ってはいた。
「撃てっ!」
 指揮官が命令すると、再び轟音とともに1発が命中し、2発が緑丸の胸をかすったが、足を止めるどころか、スピードをゆるめることさえなかった。
 そのまま緑丸はぶつかり、まるでボーリングのピンのように、兵たちをなぎ倒したのである。
 数名の頭蓋骨を踏み割ることも、緑丸は忘れなかった。
 鍵はかけてあっても、油倉庫のドアはそう分厚いものではなかった。それを押し開き、あっという間に緑丸は内部に駆け込んだのである。
 おろかな兵が、その後ろ姿へ向けて発砲し、上官から殴られたが、もう遅かった。
 緑丸に蹴り倒され、フタが開いたドラム缶から漏れ出した灯油に、熱い弾丸が接触し、引火したのである。
 それは恐ろしい眺めであった。


 油が爆発的に燃え始めるだけでなく、破れたドラム缶から漏れた油が炎の川のようになって、駐屯地の中へ広がり始めるに至っては、兵たちが浮き足立ったのも無理のないことであろう。
 緑丸を仕留めることよりも、炎からいかに脱出するかを考えなくてはならなかったのである。
 そこへ、再び緑丸が姿を現したのだ。
 それを目にし、兵たちはアッと声を上げ、銃を持つ手までお留守になった。油を受け、緑丸の体は燃えていたのである。
 もちろん、緑丸の全てが炎に包まれていたのではない。
 肩から頭にかけては油を受けておらず、でなければ炎を吸い込み、肺が焼け、すぐに倒れてしまったであろう。
 またそうであれば、たてがみも燃え、タカシの死体は落馬してしまったであろう。死してもなお、タカシの手指はほどけていなかったのである。
 しかも緑丸の足取りは、まだいささかも乱れてはいない。
 しっかりと力強く、進み続けるのだが、その進む方向に目を走らせたとき、兵たちも指揮官も、みな青くなった。
 弾薬庫であった。
「先回りしろ。弾薬庫を守れ」
 という命令が出はした。
 それに従う下士官と、兵たちもいた…。


 やっと夜明けごろ、駐屯地の火災は鎮火したが、消防隊の努力の結果ではない。
 すべてが燃え尽き、自然に消えたのである。
 木造の建物ばかりだった駐屯地は、崩れ落ちた灰の山と、石造り、あるいはコンクリート作りの基礎部分を除けば、ほとんど何も残ってはいなかった。
 兵たちの焼死体は無数に折り重なり、炭のように黒い人形(ひとがた)をしてはいるが、顔つきも何も、もはや区別できない。
 ベルトのバックルや靴の鋲(びょう)、手にしていた銃やサーベルなどの金属製品を除けば、衣類もすべて焼けてしまっている。
 だが火災に襲われたのは、駐屯地だけではなかった。
 風にあおられ、塀を超え、通りを渡り、火は周囲の家々へも燃え移ったのである。
 日本の家屋は、木と紙と竹でできている。しかも過去2週間、一滴の雨も降らず、すべてが乾ききっていた。
 N市の家々は、付木(つけぎ)も同じだった。駐屯地の内部で起こったことが、もう一度市街で繰り返されたわけである。
 真夜中のことで、すでに就寝している市民も多かった。
 物音に目を覚まし、寝ぼけ眼(まなこ)で雨戸を開け、夕焼けのように赤く燃える空を見上げた。
 多くの市民には、寝巻きから着替える暇もなかった。多くがそのまま、裸足で逃げ出したのだ。
 しかし…。
 ここで駐屯地の弾薬庫が引火、大爆発し、火の粉を町中に撒き散らしたのである。
 風向きにもよるが、意外と思えるほど駐屯地からは遠距離であるのに、それでも炎上したケースがある。
 ただ市民の運命は、兵たちよりはマシだったかもしれない。
 駐屯地とは異なり、町は四方を高い塀に囲まれてはいない。それゆえ、逃げ場を失うことなく脱出に成功した市民もいたのである。 
 しかしその市民たちも、本当に着の身、着のまま、炎の中ですべての財産を失った者も多かった。
 夜が明けて、母親の証言から、駐屯地に忍び込んで緑丸を連れ出そうとしたのがタカシであったことは、すぐに知れた。
 田中少尉のいささか強引なやり口も、同時に判明したのである。
 なにしろ火災の被害は大きく、非番で駐屯地を離れていた者を除いて、師団はほぼ全滅し、その師団のおかげで繁栄していたN市も、市街の半分を焼失する結果に終わったのである。
 その原因を作った田中少尉の横暴さに、どれほどの非難が集中したかは、簡単に想像がつく。
 火災の前夜、緑丸という良い馬を徴発できたことで、すっかりご機嫌になり、都合よく非番だったのを利用して、田中少尉は町へ飲みに出かけていた。
 そして居酒屋のテーブルで酔いつぶれているときに、駐屯地の異変を知らせる、けたたましいサイレンを耳にしたはずである。
 しかしサイレンも、白川夜船(しらかわよふね)の目を覚まさせるには、まだ足りなかったようだ。
 結局田中は目を覚ますことなく、店の主人の機転で、家財道具と一緒に荷車に乗せられ、火の粉の海からの脱出となった。
 だから、田中がようやく目を覚ましたのは、すっかり鎮火してからのことである。
「こりゃいかん。何があったか知らないが、師団が大変だ」
 命の恩人とも言うべき居酒屋の主人に礼を言い、軍服のポケットの中にあった小銭をかき集め、なんとか酒の支払いを済ませると、田中は駐屯地に駆けつけたのである。
 そこへ着くまでの道々の様子、門からのぞき込んだ駐屯地の様子に、田中は息をのんだが、もちろんまだ、自分が原因だとは気づくよしもない。
 火元となった駐屯地の門前には、多数の群集が集まっていたが、その中の一人の女が突然、田中を指さし、
「アッ、このお人…。この軍人さんが、うちの息子の馬を無理やり持っていったんじゃ…」
 それがタカシの母親だったのである。
「なんだと?」
「このチョビヒゲ野郎…」
「ちくしょう、俺の家を…」 
 これほどの大火の火元であるということで、師団に対する人々の非難は、かつてないほどであった。
 師団長の増田中将も急を聞き、官舎から駆けつけていたが、門前に集まる群衆を抑えかねていたのである。
 罪のない国民に、まさか銃やサーベルを向けるわけにもいかない。しかも多勢に無勢だ。
 そういう増田中将にとって、田中の出現は、天の助けと思えたことだろう。
「はっ? 師団長殿、自分が何かいたしましたので?」
 と田中はギョロ目を、さらにギョロギョロさせるばかりである。
 群衆の中から、年長の男が一人、前に進み出て、
「師団さんには、町中の者が普段からお世話になっておりますから、一日も早い再建をお祈りするだけで、文句を言うつもりは一つもございませんがね…、中将さん。だけど、この少尉さんのことだけは、俺たちに任せてもらえませんかね?」
 男の言葉づかいは丁寧だったが、その背後には、どす黒い迫力と敵意が感じられる。特に目立つ容貌、服装でもないが、かたぎの人間ではないのだろう。
「う…、まあよろしかろう…」
 と増田中将も答えるのが精一杯だったのである。
 なにしろ師団は壊滅し、今ここにいる兵は30人にも満たない。殺気立って集まっている数百の群集とは、比べるべくもなかったのである。
「あ…、そ、そんな…、師、師団長どの…」
 それが、人に聞かれた田中少尉の最後の言葉であった。
 燃え尽きたタカシと緑丸は、とうとう骨すら発見されなかった。

呼びだし


 交換学生として留学し、アメリカ人の家にホームステイするなど、一生に一度、あるかないかのことだ。
 そのステイ先で真夜中に起こされ、見ると窓の外にパトカーがいるのも、毎日あることではない。
 パジャマから着替えて1階へ降りると、この家の主人と保安官が玄関で話しているのが目についた。なにやら深刻なことらしい。
 要は私を連れにきたということらしいが、わざわざ女の保安官をよこしたのは、保安官事務所の配慮なのだろう。
 そのまま私は、パトカーに乗り込んだ。
 警察の自動車など、乗るのは生まれて初めてだったが、車内は日本の自動車よりも広く、座っていても両手が自由に動かせるスペースがある。
 緊急走行というのではないが、サイレンは鳴らさずとも頭上の赤ランプだけは点滅しており、パトカーのことをスラングで『チェリー』と呼ぶのが納得できるような光を四方にまき散らしている。
 道路に出て、アクセルをグッと踏み込むと、私を連れだす事情と理由について、保安官が説明を始めた。
「砂漠の真ん中のこんな田舎町だけれど、住人はみな顔見知りだという美点があるわ。あなたは日本人ね。高校生?」
「はい」私は答えた。
「あなたがやって来る前、この町に日本人は一人しかいなかったわ。名はミキヨ・ロジャーズ。アメリカ兵だった夫と結婚して、第2次大戦後にこの町へやってきた。子供はなく、夫が亡くなった後は、ずっと一人暮らしだった」
「ご商売は? 何をする人だったんですか?」
「大地主よ。お屋敷も大きく立派だわ。使用人に囲まれて暮らし、英語が上手で、ミキヨが日本語を口にするところは誰も見たことがない」
「へえ」
「そのミキヨが今、死にかけているの。相当なお年だものね。医師の見立てでは、明日の朝までは持たないそうよ…。でもそのミキヨの最後の言葉を、誰ひとり理解できないの」
「英語ではないのですか?」
「なぜか日本語なの。死に臨み、突然英語を捨てたらしい。意識はまだあるけど、とにかく口から出るのは日本語だけだわ」
「だから私が必要なんですね」
「この町の周囲100マイル、日本語ができる人はあなたしかいないの。ミキヨは遺言を書いておらず、死後の財産の取り扱いには、弁護士も苦慮するかもしれない」
 パトカーが屋敷に着くと、私は本当に驚いた。映画でしか見たことがない贅沢さだったのだ。
 門を入ってからの道も長く、うっそうと木々が茂り、その向こうに3階建ての尖った屋根が見え隠れしている。
 玄関前には数台が駐車し、その中の黒いベンツが弁護士の車だろうか、と思った。
 すぐに私は、奥まった寝室へ案内された。
 ベッドの中で、ミキヨはやせて、年相応に皺の多い顔。小さな身長はまるで小学生のようだ。
 もちろん昏睡状態などではなく、私が入ってくるドアの音で、ミキヨは目を開いた。
 視線が合ったので、ベッドわきにあった椅子に私はそっと腰かけた。
 気をきかせてか、アメリカ人たちはみなドアから出てゆき、部屋の中が老女と私の二人きりになったのはこのときだ。
 長く顧問を務めたのか、弁護士もかなりの老人だが、この人が最後に後ろ手にドアを閉めた後になってやっと、私も部屋の中を見回す余裕が出た。
 寝室の広さは、そう、学校の教室ふたつぶんほどもあるだろう。床には分厚いじゅうたん、周囲の壁は木材が張られているが、きっとマホガニーとかの高価な材料なのだろう。
 ベッドは大きく、3人ぐらいなら楽に横になることができる。
 このベッドには天蓋(てんがい)があり、太い木の柱がそれを支えているが、カーテンがしつらえてあり、その気になればベッドだけを、まるで小さな部屋のように囲って仕切ることができる。
 かすかな声が聞こえたので、私はベッドの上のミキヨを振り返った。ミキヨの唇が動き、何かの言葉を紡いだようだ。
「お姉ちゃんは誰?」
 声はそう聞こえた。
 もちろんミキヨが言ったのだ。か細い声ではあったが、しかし老女のか細さではなく、私の耳には少女の声のように聞こえた。
「えっ?」
 私はその顔の上にかがんだが、ミキヨは遠慮なく見上げてくる。まるで、ゆりかごの中にいる赤ん坊と目が合うときのようではないか。
 再び同じ声が聞こえた。
「お姉ちゃんは誰? どこから来たの?」
 いくら少女のような声で、かつ、それがミキヨの唇の動きに合っていようと、私は少し混乱した。
「私のこと?」
「うん、お姉ちゃんのこと」
 この時になってやっと『ははあ、そういうことか』と私は内心納得した。
 医学的にどういう用語を用いるのかは知らないが、この老女の精神は子供時代に戻ってしまっているのだ。
 だから英語を話さないのも道理であろう。彼女の精神は、まだ英会話を学ぶ前の子供時代に帰っているのだから。
「お姉ちゃんは看護婦さん? それともお医者さんかな? …お母ちゃんはどこ?」
 正直に言っておくが、私は演劇など一度も学んだことはない。小学校でも中学でも、もちろん高校でも、演劇部には所属したこともない。
 しかしこの時、私は確かに演技をする気になったのだ。
 理由はよく分からない。死にゆく同胞への花向けのような気持だったのかもしれないし、小さく縮んでしまったような高齢の女のあのような表情を見、視線を向けられてしまえば、誰だって多少の演技をする気持ちになるのではなかろうか。
「お母さんは、ちょっと用事でよそへ行っているのよ。すぐに帰るわ」
 そう。私が言ったことは嘘八百もいいところだ。死にかけた老人の前で嘘をついた私を責めたければご自由に。
「そう、すぐ帰ってくるのならいいわ」
「何か話したいことがあるの?」
「うーん」
「どうしたのかな?」
「あのね…」
ミキヨが黙り込んだので、糸口を探すような気持で、私は言った。
「ミキヨちゃんのお父さんは、どんな人?」
 ところが知らず知らず、私は決定的なことを口にしていたのだ。ミキヨの表情がきゅっと硬くなり、一瞬は泣きそうになったが泣くことはなく、何かをグッと飲み込んだ顔をして、小さな声をさらに小さくした。
「お父ちゃんが怖いの」
 ミキヨの表情の変化に驚いていたが、私もまだシッポを丸める気はなかった。このあたり、私は自分で思うよりもよっぽど気の強い娘のようだ。
「どうしてお父さんが怖いの?」
「たたくの」
「お父さんが?」
 うん、というようにミキヨはうなずいた。
「どんな時にたたくの? ミキヨちゃんだけをたたくの?」
「ううん、お母ちゃんもお兄ちゃんもたたかれる。お酒を飲んで、酔っ払ったとき…。理由もないのに…」
 要するにミキヨの父親は酒乱だったのであろう。幸いにも、私の家族にそういう人物はいない。
「たたかれると痛い?」
 我ながら無神経な愚問であった。だがありがたいことに、ミキヨの表情に変化は少なかった。
「痛いよ。ワーワー泣く。お母ちゃんなんか、私よりも、もっともっとたくさんたたかれる。止めに入って、お兄ちゃんも投げ飛ばされる」
「そのお父さんはどこにいるの?」
 そう問うと、ミキヨは首を左右に振るのだった。「お父ちゃんはもういない。どこかへ行っちゃった」
「どこへ?」と質問して、私はとっさに刑務所を連想した。ミキヨの父親は、酒の上で何かの犯罪を犯したのかもしれない。
 だがミキヨの答えは、私の想像とはまったく違っていた。
「この間、とても寒い寒い晩があったでしょう?」
「うん、あったね」
 と私はうなずいた。
 自分の役者ぶり、嘘つきぶりを誇らしくは思わないが、すでに私は、ミキヨの語る物語に強い好奇心を感じていたのである。
「あの夜ね、ほらお外には雪がたくさん積もっていたでしょう? 戸を開けて外を見ていたら、白くてとてもきれいだった。でも『寒い』って、仕事から帰ってきたお父ちゃんに叱られた」
「…そう」
「お父ちゃんはまたいつものようにお酒を飲み始めてね…。顔が赤くなって、お母ちゃんのことを怒り始めた」
「お父さんは、何と言ってお母さんのことを怒ったの?」
「それは聞いてない。怖くなって、私はお布団の下に潜り込んじゃったから…。そのまま眠ってしまって、目が覚めたら…」
「目が覚めたら?」
 内緒話でもするように、ミキヨがさらに声を小さくしたので、私はもっと耳を近づけなくてはならなかった。
「…目が覚めたら、お父ちゃんは静かになってた。いつもと同じで、ゴーゴーいびきが聞こえたよ」
「お母さんとお兄さんはどうだったの?」
「二人の声も聞こえた。私が眠っていると思っていたけど、こっそり聞いてたの。小さな声でお話ししてた。私は全部聞いてたの」
「何のお話をしていたの? お母さんとお兄さんは」
「まずお兄ちゃんがこう言った。
『お母さん、今だったらお父さんを外へ連れ出すことができるよ。橋のところまで行って、水に落として来ようよ』」
「えっ?」
「するとお母ちゃんが答えたの。
『前から言ってたあのことかい?』
『今がチャンスだよ。ミキヨはぐっすり眠ってるし、お父さんもグーグー寝てる』
『だけどねえ…』
『お母さんが言い出したんじゃないか』
『でもねえ』
『いや、俺はやる。今夜を逃したら…』」
 これを聞かされて、私はどんな顔をしていたのだろう。自分でも想像できないが、自分の声がかすれていたことはよく覚えている。
「…それで、お母さんとお兄さんの声は聞こえなくなったの?」
 単なる悪事の相談だけであってほしいと、私は願っていたのだろう。してみると、私もあまり肝っ玉の太いほうではないのか。
 だがミキヨの次の言葉は、私の願いを打ち砕いた。
「物音が聞こえて、お母ちゃんとお兄ちゃんがヨッコラショと言った。2人ともぞうりをはいて、戸をガラガラと開けて出ていったよ。その時は外の風が吹き込んで、お布団の中にいても少し寒かった」
「ミキヨちゃんは、それからどうしたの?」
 ミキヨは首を横に振った。「私は何もしてない。もう一度眠くなって、目を閉じて、気がついたら朝になってた」
「お母さんとお兄さんは? お父さんは?」
「お母ちゃんとお兄ちゃんは家にいたよ。お父ちゃんは、もう仕事に出かけたということだった。朝早い仕事だから」 
「それから?」
「お父ちゃんは二度と帰ってこなかった」
「…」
 ミキヨの言葉にどう返事をしてよいやら、私は見当もつかなかった。
「…」
 と、これが私の口から出た唯一の反応だったのだ。
 私には想像がつく。雪の降る真夜中のことだ。目撃者はおるまい。そして翌朝、どこかずっと下流で、水死体が一つ見つかっただろう。
 いや、父親はどこかへ行ってしまった、とミキヨは言った。ということは、どんなに大きな川なのか、水死体はとうとう発見されずに終わったのか。 
 私に話して心底安心したのだろう。まだ子供のような表情をして、涙も乾かないままであったが、ミキヨはホッとした顔をしている。それだけでなく、うつらうつらし始めたようだ。
 しかし私はと言えば…
 死にゆく一人の老人を安らがせたと言えば、格好はいいかもしれない。
 だが私の正直な気持ちはそうではない。
 とんでもない重荷を私はミキヨの背中から取り除け、あろうことか自分の背にしょい込んでしまったのだ。
「このクソばばあ…」
 と私はベッドを蹴飛ばしてやりたい気分であった。しかし、そんなことはできない。
 ミキヨが安らかに死亡したのは、その3時間ほど後のことだ。
 ミキヨが目を閉じてしまうと、私はアメリカ人たちを呼び入れた。最後の看取りは、医者や弁護士たちに任せたのだ。
「ねえ君、ミキヨは最後に何の話をしたのだい?」
 好奇心で鼻の穴を大きくしているアメリカ人たちを、私がどれだけ迷惑に感じたことか。だが、
「誰にも口外しないでくれ、と故人の意思ですので…」
 という言い訳をタイムリーに思いつけたことだけが、あの夜に起こった良いことだ。
 腹が立ったので、「頭痛がする」を口実に、私はミキヨの葬儀を欠席した。
 それが、ひとの心に特大の石の重しを残していった老女への、私にできる唯一の仕返しだったのだ。

意地


 井上梅五郎といえば、N町で知らぬ者はなかった。
 大工の親方で、体は大きく背が高く、煙草が好きで、いつもスパスパやっていた。
 停留所でバスを待つ間も例外ではなく、ヒゲは黄色く染まっていた。
 あの路線のバスは、1時間に一本しかない。文子も登校に利用するから、梅五郎の顔はすぐに覚えた。
 車内は禁煙だから、もちろん梅五郎も煙草を捨てて乗り込んだが、しかしあの男、何もせずにただ立っているだけで匂う。
 ある日、車内でついに文子は口を開いたのだ。
「ねえおじさん、もう少し煙草は控えたほうがいいんじゃありません? 長生きできませんよ」
 この年代の娘は怖いもの知らずである。しかし梅五郎は顔色も変えなかった。
「そうかい? 母親のおっぱい臭いあんたのセーラー服の匂いよりは、多少はマシだがね」
 車内は爆笑の渦に包まれた。
 文子は顔を真っ赤にし、まだまだ学校は先だったが、ちょうど停車したバス停でそそくさと下車してしまったほどである。
 そのツンとした後ろ姿に、梅五郎はまわりの乗客と、さかんに目配せをした。
 もちろん騒ぎはこれだけではすまなかった。
 翌朝から梅五郎は、バスがやってくるギリギリの瞬間まで煙草を吸い、煙を肺の中いっぱいに貯め、一息も吐き出さずに車内に乗り込むようになったのだ。
 そして文子を見つけて真横に立ち、当たり前のような顔で話しかける。
「やあ文子さん。今日はまた一段とお美しいですなあ」
 その息が煙たいこと煙たいこと。
 文子はウッとうなり、ハンカチを鼻に当てて下を向く。
 梅五郎は顔を上げ、まわりの男たちとニヤリと笑い合う。
 文子だけでなく、まわりの乗客たちも匂いを感じたが、窓を開けて換気することはできなかった。季節は真冬で、このバスは暖房のききが悪いのだ。
 同じことが何日か続くと、
「この車内は禁煙ではないか」
 と文子は車掌に苦情を言った。
 車掌は苦笑いしながら注意をしたが、梅五郎はおどけた顔で、
「おいらは車内じゃ一本も吸っちゃいませんぜ」
 と答えるばかりだった。
 翌日から、文子は車内でできるだけすみに場所を取り、梅五郎を避けるべく試みた。
 だが梅五郎も、身体は大きいがひどく身軽なので、ちょっとした隙間を見つけ、ひょいひょいと近づいてくる。これには文子もどうにもできなかった。
 そうこうするうち、梅五郎は新しい作戦を思いついた。
 煙草を2本まとめてくわえ、2倍の煙を体内に蓄えてからバスに乗るようになったのだ。
 あの狭い車内、3メートルの距離を取っても匂いが届き、文子は閉口し、ますますすみで小さく縮こまった。
 梅五郎は調子に乗り、一度にくわえる煙草の数を増やした。3本になり4本になり、ついに5本になった。
 火のついた5本の煙草を同時に吸う光景は、なかなかの見物だったが、それが梅五郎の最高記録となったのである。
 その朝も梅五郎は、5本の煙草に同時に火をつけた。遠くにバスが見えると肺を忙しく動かし、梅五郎は煙を精一杯、吸い込んだ。
 本当かウソか、まわりの者の耳には、古びたバンドがこすれる時のような音がその体から聞こえたそうだ。
 バスが停車した。煙草は5本とも灰皿に捨てられる。
 息を吐かないために口を閉じ、顔を真っ赤にして、梅五郎はバスの踏み段を上がった。
 一段、もう一段。
 ひどく苦しそうだ。
 それでも3段目を登りきり、バスの床に立った。
 だが突然、梅五郎はウッと叫び声をあげ、白目をむいたのだ。
 そのまま意識を失い、前のめりに倒れた。突き出た腹が床でバウンドしたが、起き上がる気配はない。
 気を失っていたのだ。
 それを見下ろし、文子はフンと鼻を鳴らしたとか鳴らさなかったとか…。
 大きな体ゆえ、何人もで力をあわせて梅五郎を車外に運び出し、すぐに病院へ担ぎ込んだが、そのまま二度と目を覚ますことはなかった。
 ご臨終である。
 変死体であるから、梅五郎ももちろん警察へ運ばれ、解剖が行われた。
 そのときの執刀医の証言によると、死体の胸を切り開き、ろっ骨を取り除いて肺にメスを入れた瞬間、死後すでに半日が経過していたにもかかわらず、白い煙がまるで入道雲のようにポワッと立ち上り、ひどく驚いたのだそうである。
 死亡診断書の死因欄には、
『窒息死』
 と記入された。

からす

 
 かつてN駅の東側には操車場があり、それはそれは広大なものだった。
 貨車が何百両も集結し、一日中、出たり入ったりを繰り返すのだ。蒸気機関車が吐き出す黒い煙で、晴れた日でも、空はあたかも曇っているかのように薄暗かったのである。
 カラスのカア太は、この操車場近くの住民にはよく知られた鳥だった。
 特に大きくも小さくもないが、鳴き声がえらく甲高く、ちょっと聞いただけではカラスとは思えない。
 人なつっこい鳥で、人間を恐れず近寄り、悪さもしないからかわいがられ、しまいには人の手からじかにエサをもらうまでになった。
 近所のパン屋などは「カア太弁当」と称して、袋に詰めたパンの耳や切れはしを売って、ちょっとしたこづかい稼ぎをしたほどだ。
 そんなある日、このカア太が恋をした。
 こともあろうに人間を相手にだ。
 マリ子という名の娘で、目が不自由なので盲学校に通っていた。
 だが彼女の家は線路の反対側にあり、毎日この広い操車場を横切る長い踏切を渡らなくてはならなかったのである。
 線路が本当にいくつもあり、貨車だけでなく、通過する特急や急行列車も多い踏切だ。
 誰にとっても、あそこを安全に渡るのは大変な仕事だった。そこをマリ子は毎日ひとりで通ったのだ。
 カア太とマリ子がどうやって知り合い、仲良くなったかは誰も知らない。
 だが人々が気づいたときには相当に親しく、朝と夕方には、カア太は必ず踏切のそばで待ちうけるようになった。線路の両側には並木があり、それにとまって待つのだ。
 マリ子が姿を見せるとサッと飛び降り、カア太は彼女のすぐ前に立つ。ほんの1メートルもないところだ。
 そしてトコトコと歩き始める。
 何秒かおきに振り返り、カアカア鳴きながら道案内をするのだ。
 とても賢いカラスで、接近する列車がある時には絶対に渡り始めようとはしなかった。
 列車が通過するのをきちんと待ち、それから歩きだすのだ。
 この仲むつまじさを、人々はとてもよいことだと考えた。
 噂が広まり、ついにはマリ子が通りかかる時間になると、その姿を一目見ようと見物人まで集まるようになった。
 だが当のマリ子は目が見えず、そんな騒ぎなどまったく知らなかった。
 しかしこういう微笑ましい光景も、長くは続かなかった。
 若い娘は恋をするものだ。マリ子も例外ではない。
 その青年の名を、仮に新一としておこう。
 マリ子と新一は恋人同士になった。学校の行き帰り、新一はうやうやしくマリ子をエスコートするようになったのである。
 それでもカア太は、変わらず踏み切りに姿を現した。しかしカラスが人間の青年に勝てるわけがない。
 ステッキを持つ手で新一がいまいましそうに払いのけると、もはやカア太は、マリ子に近寄ることさえできなかったのである。
 その目の前で親しげに手を取り合い、新一とマリ子は踏み切りを渡ってゆくのだ。マリ子ももはや、カア太のことなど思い出しもしない様子だ。
 カア太がフラストレーションを感じているのは、誰の目にも明らかだった。
 事実カア太は、いかにもイラついた声で鳴き、ついには誰彼かまわず通行人に当り散らすようになった。
 樹上から降下して頭上すれすれを飛び、クチバシでつつくマネをするのだ。
 これには人々も閉口したが、理由は理解できるので、カア太の駆除を役所に依頼する者は現れなかった。
 ついには風の噂で、マリ子が結婚したらしいという話が流れてきた。そういえば、もうマリ子は盲学校にも姿を見せなかった。
 結婚のお相手はもちろん新一だ。新一は金持ちの家の跡継ぎで、この先も人生に何の不安もない。
 当然ながら、マリ子の結婚をカア太に報告する者はなかった。そんなことをして、あのクチバシで頭をつつかれたい者はいない。
 このころから、カア太のさらに奇妙な行動が、踏切近くで見られるようになった。
 入換機関車と呼ばれる機関車がいて、列車をけん引して走る通常の機関車とは違い、操車場の外へ出ることはない。
 常に操車場の中にいて、貨車を何両も連結して、まるでコマネズミのように、あっちの線路へ移動させたり、こっちの線路へと動かしたりということを一日中繰り返しているのだ。
 だから自然と、踏切あたりでは最もよく見かけられる機関車ということになる。
 本当の話、例のパン屋が売っているカア太弁当を購入してカア太に与えているのは、主にこの入換機関車の乗務員たちだったりした。
 この日、入換機関車はちょうど昼の休憩時間中で、乗務員たちは機関車を停車させ、弁当を広げていた。
 以前であれば、踏切の近くに機関車を止め、カア太も昼飯のお相伴にあずからせたものだが、カア太が人間を攻撃するようになってからは乗務員たちも閉口し、停車場所を100メートルほど西へずらしていたのである。
 ここならば、カア太の襲撃を受けることはなかった。
 ところがどういう風の吹き回しか、この日のカア太は奇妙にも機関車のすぐそばまで来ていた。そばの電線にとまり、ちらちらと下界を見ているのだ。
 ただし悪さはしなかった。
「おやカア太のやつ、今日はどうしたのだろう?」
「2、3日前からですよ。いやにおとなしくて、つついても来ませんね」
 乗務員たちは不思議がった。
 すでに昼食を終え、乗務員たちは弁当の包みを片付けにかかっている。カア太が行動を起こしたのは、その瞬間のことだった。
「あれ…」
 最初に気づいたのは、機関助手の若者だったが、指さす暇も、言葉を言い終える暇もありはしない。
 まるでカア太は、この時をじっと待ち構えていたかのようだった。羽ばたきながら電線を離れ、ついっとツバメのようにカーブを描いたのだ。
 そのまま思い通りの軌道に乗り、狙った方向へとクチバシを一直線に向けたのである。もはやカア太は、一個の弾丸のようであった。
 蒸気機関車とは、石炭を燃やして水を水蒸気に変え、その力で走る。
 だから当然、ボイラーの内部では、真っ赤な炎が常に燃えているのだ。本当は赤いというよりも、オレンジがかった白に輝く炎だ。
 走行中も待機中もこの炎は維持されなければならず、だから機関助手は、一日に何十回も石炭を放り込む。
 そのためのスコップと石炭を入れる口、つまり焚口(たきぐち)があるのだ。スコップを用いるのだから、その焚口がそれほど小さな入口であるはずがない。
 乗務員たちのいつもの習慣ということで、カア太もよく承知していたのだろう。
 昼食後の一服ということで、乗務員たちは焚口を開け、煙草に火をつけようとしていたのだ。
 ところが、
「あっ…」
「カア太のやつ…」
 乗務員たちの見ている目の前で、近寄ってきたカア太は、この焚口へと身を投げたのである。
 もちろん、とっさに助け出すといった温度ではない。乗務員たちには、見ていることしかできなかった。
 あの小さな体に強力な炎である。カア太は一瞬で燃え尽き、骨のカケラも見つけることはできなかった。
 誰が積み上げたのか、今でもあの踏切ばたへ行けば、カア太を供養するための石塚を見ることができる。

山の蜂

 僕は小学生で、両親や祖母と一緒に田舎の小さな家で暮らしていた。農家であり、あまり大きな面積ではないが、田畑を耕して生活していたんだ。
 ある日、祖母が死んだ。
 特に持病はなかったが、年ではあったのだろう。自然な老衰で、朝目が覚めると息をしていなかったのだ。
 両親はため息をついた。農繁期でなかったのは幸いだが、それでも通夜に葬式、墓の手配と、忙しい数日間になるのは目に見えている。
 僕は一人っ子だったが、自分もできるだけ手伝いをして、親に負担をかけないようにしようと心に決めたほどだ。
 とにかく両親は、寺と親戚へ知らせに行くことにした。
 ところが電話どころか、ちゃんとした道路もない山奥なのだ。両親が二人とも出かける必要があって、棺おけをはじめ、葬式に使う道具類もそろえなければならない。
 両親が戻ってくるのは早くても午後遅く、もしかしたら夕方前になるかもしれなかった。それまで僕は、家の中に一人でいなくてはならなかったのだ。
 祖母は布団に入り、頭を北に向けた形で寝かされていた。
 春なのにひどく暑い日で、窓は大きく開け放してあり、祖母の枕元では線香に火がつけられ、かすかな煙がただよっていた。
 さすがに同じ部屋の中にいる気はしなくて、僕は隣の部屋でぼんやりしていた。
 娘時代には大変な美少女で、美貌を聞きつけて映画会社がスカウトに来たとか、年頃になると縁談を求める釣書が何十も届いたという話だったが、年を取ってからの姿しか知らない僕にはあまり関係のないことだった。
 僕と祖母は、仲が悪かったわけではない。また、かわいがってもらえなかったわけでもないが、僕も祖母の死を特に悲しんでいたわけではないんだ。
 なんだか、死体になった祖母と、自分のよく知っている祖母とが同一人物であることが、どうにも信じられない気持ちがしていたんだ。今から考えれば、祖母の死を目にして、僕も混乱していたのかもしれないね。
 その僕があることに気づいたのは、そのときだった。大きな羽音は立てないのでギリギリまで気が付かなかったのだが、一匹の蜂が祖母の口元に止まるところだったんだ。
 毒々しい黄色をした巨大な昆虫で、あなたもどこかで目にしたことがあるかもしれない。
 だけど僕は、そいつを追い払うことができなかった。数メートルの距離があったし、人を刺し殺す恐ろしい毒をもつ蜂でもあった。
 山に住む子供は、あの蜂にだけは絶対に手を出すなと、小さい頃から散々注意を受ける。
 蜂を追い払うための棒を求めて、僕の目は部屋の中をさまよったが、その時にはもう遅かった。あっと思ったときには、蜂は祖母の口の中へと姿を消していたんだ。
 あまりの出来事に、僕はどうすることもできなかった。恐る恐る祖母に近寄り、開いたままだった口をそっと閉じてやることしかできなかった。
 やがて両親が家に戻ってきたが、蜂のことなど僕は一言も口にせず、その後は何事もなく葬式が行われたんだよ。
 僕が住んでいた地方には、変わった風習があった。死体は焼かず、そのまま土に埋めるんだ。
 死体を入れる棺には、節を抜いた竹筒を刺して、空気の抜ける穴を作ってやるという習慣もあった。まるで土中に潜んで身を隠す忍者みたいだが、大昔からあるやり方なので、誰も疑問を持たなかった。
 僕の家の墓は裏山にあって、勝手口を出て、山道を登って数分かからないところだった。祖母の葬式以降、母に言われ、新しい花や線香を持って、僕は毎日のように墓へ行くようになった。
 だが僕は、その言いつけが嫌ではなかった。言われなくても、僕は祖母の墓を自分から毎日訪れていたと思う。墓にある変化が起きていることに気が付いていたんだ。
 さっきの空気抜きの穴さ。
 この穴を通って、蜂がさかんに出入りしていることに気が付いたんだ。
 つまりあの日、祖母の口の中へ入っていったのは女王蜂だったに違いない。それが生んだ何百匹という子孫が、今はこの穴を出入りしていたんだ。
 もちろんこのことも、僕は誰にも話さなかった
 さらに事件が起こったのは、数週間後のことだった。いつものように墓へやってきたのだが、地面に大きな穴が開いているのを見つけ、僕はひどく驚いたのだ。
 穴ができていたのは、ちょうど棺が埋まっていたあたりで、人が一人通り抜けられるほどの直径があったが、どんな道具を使って掘ったのかはよくわからなかった。
 家に飛んで戻り、今度こそ僕は両親に知らせた。両親も驚き、僕をそのまま駐在所へと走らせたのだ。
 犯人はもちろん、何が目的の犯行かもわからず、やってきた警察官も首をかしげるばかりだった。
 すぐに本署へ連絡が入れられ、刑事たち数人も姿を見せたが、やはり何もわからなかった。
 僕は直接見せてはもらえなかったが、話に聞いたところでは棺の内部は空っぽで、祖母の死体は影もなかったそうだ。
 しかし埋葬から日がたち、腐敗していたはずの死体を犯人がなぜ欲しがったのかは、誰にも見当がつかなかった。
 警察は捜査を行ったが、山中のことゆえ目撃者もなく、成果のないまま、村人の噂からも少しずつ忘れられていった。
 そんなころ、村でちょっとした出来事があった。
 といっても悪いことじゃない。新しい店ができたんだ。
 いやいや、笑ってはいけない。一日に2本しかバスの来ない停留所があったが、その真ん前に新築されたんだ。
 なんでも、どこかの家の次男坊が都会へ出て就職していたのが、結婚してどう気が変わったのか、Uターンしてきたということだ。
 だけど感心するような店ではないよ。間口も小さくて、普通の家とあまり変わらないんだから。
 商品はパンとかお菓子とかインスタント食品とか。コーラとかビン入りのジュースとか。
 亭主は農作業をするということで、都会から来た若い奥さんが店番だった。こんなに小さな店でも、やっと田舎の子も買い食いの楽しみを味わうことができるようになったという意味はある。
 こづかいにもらった10円玉を握りしめ、もちろん僕も学校帰り、その店の常連になった。まだあの時代には、「寄り道をせずに家へ帰れ」などと小言を食らうことはなかったからね。
 だけどこの店で、僕はちょっとした発見をした。
 映画館なんて、僕は町へ連れて行ってもらった時に運が良ければ立ち寄ることができるぐらいで、1年に一度楽しめるかどうかだった。
 それだけに映画とは都会の匂いを感じさせるものだったが、その宣伝ポスターが、この店にも張られるようになったんだ。
 店があるのはバス停の真ん前だ。それに目をつけ、映画会社が店主に、いくばくかの掲出料を支払っていたのだろう。
 その1枚を目にして、僕は気が付いた。
 ある映画の主演女優。といってもデビュー間もない若手なのだが…。
「あれっ、これはおばあちゃんじゃないか」
 まったくその通りだったのだよ。
 僕の祖母は本当に美貌の持ち主だったから、古いアルバムに残されている写真も多かった。実際の話、小学校の遠足などで撮る機会の多い現代の僕よりもたくさん写真があったと思う。
 娘時代、何のかんの理由をつけて祖母の実家を訪れ、写真を撮ってゆく親戚や縁者は多かった。そういう連中が祖母の機嫌を取るため、できた写真をプリントして送ってきたんだね。
 喜ぶどころか、祖母はそれを迷惑に感じていたそうだ。だから、どこかの金持ちの御曹司のところで玉の輿に乗るのではなく、幼なじみではあるが何の特徴もない祖父のところへ嫁に来たといういきさつがある。
 祖母の古い写真をよく知っている僕が、見間違えるはずはない。あの女優は祖母だよ。埋葬された時よりも、ずいぶんと若返っているけれど。
 生まれてからずっと同居していた僕が、勘違いをすると思うかい?
 あの蜂には、どうやらそういう不思議な作用があるらしい。
 だけど僕は、映画ポスターの話など両親にはしなかった。店の前の道を両親が通ることはあまりないから気づきはしないだろうし、教えてやっても混乱するばかりで、なんの役にも立つまい。
「おばあちゃんはおばあちゃんで、新しい人生を始めたんだ」
 そう思って、僕は納得することにしたんだ。
 あの時代のことだから、映画なんて年間に何十本も作られる。ポスターもどんどん張り替えられてゆく。
 いつもいつも祖母が出演する映画ばかりではなかったけれど、何ヶ月かおきに僕は、祖母の元気な顔を見ることができた。
 祖母は、スターへの階段を着実に登っていたようだ。僕も遠くから応援していたのだよ。
 蜂によって肉体を乗っ取られ、顔は同じだが、中身はまったく別の人間に変化してしまう。
 それを僕は、特に恐ろしいことだとは感じなかった。
「まあ、広い世界にはそういうこともあるさ」
 ぐらいの気分だった。
 僕が風邪をひいてしまったのは、ちょうどこのころだ。特に寒い日々だったのでもなく、水に入って冷たい思いをしたのでもない。
 だけど数日の間、僕は咳が止まらなくなった。両親は心配し、風邪薬を飲まされた。
 とはいえ、病院へ行くほどの症状ではなかったし、学校を休むこともなかった。
 だからあの時も、ランドセルを背負って僕は下校中だった。
 小学校のあるあたりを過ぎると、家は途端に少なくなり、友人たちとも別れ、僕は一人きりになる。
 道も、田んぼの間の細い道に変わる。例の店なんて、もうはるか後ろだ。
 突然、僕は咳がしたくなった。
「あれれ、昨日はもう直ったのかと思うぐらい咳が出なかったけど…」
 立ち止まり、僕は口に手を当てた。
 咳はいったん収まったかに見え、出る気配が消えた。
「あれ?」
 そこでまた咳の気配。
「?」
 喉の奥に、なんだかむずかゆいような奇妙な感覚がある。
「面倒だから、出してしまおう」
 僕は少し力を込めた。
 ゴホン。
 咳が出た。
 だけど変なんだ。咳だけじゃなく、何か別の物も喉を通り抜けたような感じがある。
 うん、確かに何かが僕の喉の内側に触れていった。
 僕は手のひらを見た。そして、何が自分の喉の奥から現れたのか、はっきりと見ることができた。
「死ぬ前に、おばあちゃんもこんな咳をしてたのかなあ」
 もう一度咳が出た。ゴホン。
 喉にはまた同じような感覚があり、再び何かが僕の喉を通り抜けていった。
 それは、さっきの1回目と同じように手のひらに乗っている。もちろんどちらも生きていて、足を動かし、羽も小刻みに震わせている。
 2匹の蜂…。

予言


 その男は名を森野丸一といい、N市に住んでいたが、子供のころから非常に迷信深かった。
 その迷信深さは、実は町内でも有名なほどであった。金持ちの家の一人息子に生まれたので、特に働く必要はなく、平穏な日々を送っていたと言えば言えるかもしれない。
 しかし例えば、何かの理由で外出するというだけでも、丸一の場合はかなり大変だったのである。
 まず丸一は、自動車など運転しない。
「自動車は縁起が悪い」
 のだそうである。なぜなら、
「タイヤが4つであるから」
 だから丸一は、タクシーに乗車することもない。外出や旅行には、常に列車かバスを用いた。
 タクシーがダメで、なぜバスなら良いのかというと、
「バスにはタイヤが6つある」
 からだそうである。
 あるときN市で区画整理があり、町名が大きく変更された。
 町名をどう変えるかは市議会が決定したのだが、屋敷に届いたその通知を見て、丸一は文字通り真っ青になり、ついで震えあがった。
「どうなさったのです、旦那さま?」
 と執事が声をかけたが、それに答えて震える指先が示す先には、半年後に丸一の屋敷が名乗るようになる新町名が書かれていたのである。

『N市○○町9丁目…』

「はあ旦那さま、数字の9でございますか? それはまた…」
 執事の慰めなど、もちろん丸一の耳に入りはしない。すぐに顧問弁護士に連絡を取り、市役所へと向かわせたが、
「町名と住所変更はすでに決定済みのことなので、今さら撤回はできない」
 と当たり前の返事が返って来ただけであった。
 それを聞いて、丸一はどう行動したか?
 もちろん引っ越しをしたのである。
 引っ越し先は慎重に選ばれ、4丁目でも9丁目でも、13番地でもない。
 風水に気をつかうのも当たり前。ああだこうだと、不動産屋にはかなりの無理を言ったそうである。
 丸一には一人、ひどくお気に入りの占い師がいた。
 食う物も飲む物も、着る服の色でさえ、丸一はこの占い師の言いなりと言ってよかった。
 だから丸一が常に黄色の帽子をかぶり、紫色の洋服を着ているのだって、本人の色彩感覚のゆえではないのである。
 顧問料として、丸一は毎月、相当な金額をこの占い師に支払っており、その指示に1から10まで従っているからこそ、現在の自分の人生があるのだと信じていた。
 誰がどこの占い師の言うことを信じようが、それこそ勝手であるが、ある時この占い師が奇妙なことを口にした。
「丸一さん、あなたはきっと、最期はマグロに当たって死にますよ」
 占い師が、なぜそんなことを言ったのかは分からない。
 本当にそういう占いが出たのか、単なる冗談だったのか、はたまた丸一に対して、何かしら悪意を持っていたのか。
 しかし丸一のように単純な人物にそんなことを言えば、どうなるかは簡単に想像がつく。まったくその通り、丸一はマグロを徹底的に避けるようになったのだ。
 それまでも特に好物だったふうはないが、とにかく寿司屋へは、つま先を向けようともしなくなった。
 使用人にも命じ、屋敷の中でも、マグロの含まれるものは一切の調理を禁じた。
 ごくたまに外食や旅行に出かけるに際しても、食事や宿泊予定の店や宿には事前に厳重な問い合わせをし、
『マグロなどカケラ一つ、汁の一滴たりとも混入しない』
 と約束させてからでないと出かけないというほど徹底していた。
 それだけではない。
 屋敷の書斎にあった書籍の中からも、マグロという言葉を含んでいそうなものはすべて取り除き、庭に山と積んで消却したという。
 丸一は読書家でもあったから、辞書や百科事典、料理関係の本など、マグロという文字を含みそうな本は少なくなかったが、丸一の予防ぶりはいささか常識を外れていたのである。
 だが幸いなのは、丸一が独身者であったことで、マグロを徹底的に排除するというやり方に従わされる不幸な妻子など始めから存在しなかったわけだ。
 変わり者による害のない奇行と、町の人々も笑っていた。
 例の住所変更の件で、ちょうど屋敷の新築とそこへの引っ越しが完了したところでもあり、近所の住民も最初の頃こそ、
『丸一さんのお屋敷』
 と呼びはしたが、それもすぐに、
『マグロなし屋敷』
 と風雅とはいいがたい名に取って代わられつつあった。
 しかし当の丸一は、そんなことは夢にも知らず、ある意味で平穏な生活がその後も続いたのである。
 しかしここで、別の人物がこの物語に登場する。その名を仮にSとしよう。
 中学を卒業して、Sは鉄道会社に就職した。
 そしてある踏切に配属されて警手となり、列車が近づくたびに遮断機を動かすことが仕事になった。
 手動式の遮断機で、手でハンドルをぐるぐる回して上下させるのである。
 小さいが列車本数の多い踏切で、Sは毎日張り切って仕事にあたった。
 特急ツバメや遠く九州へ向かう夜行列車、新鮮な魚を一秒でも早く東京へ送り届けるために全速を出す鮮魚急行などもここを通る。
 Sは責任感の強い人間で、物事を決められたとおりにキチンとこなすことに喜びを感じていたから、毎日毎日定められた時間に列車を通過させ、赤いテールライトを見送る仕事が性に合っていたのかもしれない。
 だがある日、そういう生活に思いがけない出来事が降りかかった。
 この日もSは、いつものように鮮魚急行の通過を待っていた。朝早くから東京へ行き、魚を降ろして帰ってくる空の列車だ。
 この踏切を通り過ぎると、鮮魚急行は鮮魚市場へ通じる線路で停車し、魚を満載して、再び東京めざして出発するのだ。
 白く塗られた冷蔵貨車ばかり20両編成の長い列車で、ごうごうと通過していくのはいつもの光景だった。
 だが今日は、それがいつもと違うことにSは気がついた。
 機関士が運転台の窓から身を乗り出し、Sめがけて大きな声で何かを叫んでいるのだ。
 車輪の轟音のせいで、何を言っているのかはもちろん聞こえない。
 叫んでいるだけでなく、機関士は大きく両腕を振り回してもいる。
 何か普通でないことが起こっているに違いないとSは気がついた。機関士の表情はそれほど必死で、何かを訴えようとしていたのである。
 目が合った瞬間、機関士が機関車のブレーキ装置を指さしたことをSは目にとめた。
 絶望に満ちた表情で、機関士はまた何かを叫んだ。
 列車のブレーキが故障し、きかなくなっているのだとSが気がつくのには、一秒もかからなかった。
 踏切のわきには、警手のための小さな小屋がある。Sはその中に飛び込み、電話機をひっつかんで耳に当てた。
 Sは、交換手を呼び出そうと試みた。緊急事態の発生をN駅へ通報するのである。
 だが交換手は答えなかった。Sが何度スイッチを押しても、電話機は、うんともすんとも言わないのだ。
 いつもならハキハキした若い娘の声で、
「はい、鉄道電話交換台です」
 と返事があるのだが。
 ここでSは思い出した。
 今日は鉄道電話は故障しているのだ。
 昨日どこかでトラックが電信柱に衝突してしまい、修理に一日かかるということだった。
 なんてことだ。こんな日に。
 電話機をほうり出し、Sは駆け出すほかなかった。
 鮮魚急行はもう通り過ぎてしまい、赤いテールライトが遠くに見えているだけだ。
 Sがこの場を離れると、遮断機は下がったままになってしまうが、気にしている余裕はなかった。
 Sは自転車に飛びつき、さっとまたがったのだ。Sは毎日これに乗って、自宅から通勤していた。
 全身の力を込めて、Sはペダルをこぎ始めた。
 ここから駅はそう遠くはない。自転車だと直線距離を行くことができるからだ。
 だが列車はそうではない。地形の関係で半円形に大きなカーブを描き、ぐるりと迂回して走る。
 うまくいけば、自転車のほうが先に着くことができるかもしれない。
 Sはスピードを上げた。
 子供のころから住んでいる町だから、地理はすべて頭に入っている。
 どの道を行けば最も早く駅に着くことができるか、Sは考えた。
 そのためには、まず女学校を通り抜けなくてはならない。
 あの学校は敷地が広い。迂回していては、とても間に合わないのだ。
 舗装のないデコボコ道に自転車を飛びはねさせながら、Sはつむじ風のように駆け抜けていった。
 今しも道路を横断しようとしていた野良猫のしっぽを、Sはぎりぎりのところでよけることができた。
 猫は驚いて飛びのき、Sにキバを向けたが、かまっている余裕はない。
 女学校の校門が見えてきた。小学生のころ以来、一度も足を踏み入れたことのない場所だ。
 姉がここの生徒だったので、入学式や卒業式に同行したからだが、あのころと校内の様子が変わっていないことを期待するしかなかった。
 砂ぼこりを立てながらグラウンドを横切り、Sの自転車は校舎の中へ飛び込んでいった。
 ひんやりとした廊下に出る。たまたま歩いていた女教師が、あわてて飛びのいた。
 Sは、かまわずペダルをこぎ続ける。
「ちょっとあなた」
 と声が聞こえたが、もちろん無視することにした。
 不意に女生徒たちの歌声が聞こえてきた。合唱の練習をしているのだろう。
 ということは、音楽室はあの方向にあるのだな。
 暑い日なので、教室のドアは開け放されていた。Sは、そこから音楽室の中へ飛び込んでいったのである。
 ピアノをひいていた若い教師が、大きな悲鳴を上げた。
 とうとう曲がりそこね、Sは机をいくつかなぎ倒したが、そこには誰も座っていなかったのは幸運というしかない。
 女生徒たちの黄色い悲鳴を背後に聞きながら、Sはあっという間に音楽室をあとにしていた。裏庭に面したドアも、風を通すために開いたままになっていたのだ。
 タイヤで芝生を踏みつけ、金魚のいる池に車輪を取られて大きな水しぶきを上げたが、Sの姿は10秒後には裏門の外へ消えていた。
 狭い路地に入り、さらにスピードを上げたのだ。
「うまくいけば、本当に間に合うかもしれない…」
 心臓も破れんばかりに自転車のペダルをこぎ続けるSの目前に、ようやく大きく細長い建物が見え始めた。
 これがN市の鮮魚市場だ。
 近在でとれる海産物を一手に扱っている場所で、敷地は広く、構内を移動するのに仲買人たちが自転車を必要とするほどだ。敷地内には専用の駅まである。
 積み込みを待つために、今ごろそのホームには、魚介類を入れた木箱が何百も積み上げられているに違いない。
 ホーム全体が魚の匂いで満ちていることだろう。ゴム長靴をはいた男たちが、鮮魚列車の到着を今か今かと待っているのだ。
 守衛の制止を振り切り、Sの自転車は市場の正門を突っ切っていった。
 ハンドルを押さえ、急カーブをきった。
 古い自転車だったせいか、大きな音を立てて突然チェーンが切れたが、気にしているひまはなかった。
 それに、もうそんなことはどうでもよかった。Sは目的地に到着したのである。
 自転車をほうり出し、Sは駆け出した。
 仲買人たちでごった返す中を進み、ホームへ急いだ。
 ホームの様子は、想像していたとおりだった。
 魚を詰め込んだ木箱が整然と並んでいる。
 その手近な一つに手をかけ、Sが中身を線路に向けてばらまき始めたとき、まわりの男たちには意味がわからなかったに違いない。
 一瞬は呆然としたが、すぐにSに飛びかかり、やめさせようとした。
 その手を振りほどこうとSは暴れた。男たちはますます手に力を込める。
 だがSの口から出る言葉を聞いて、男たちも迷いを感じないではいられなかった。
「ブレーキの壊れた鮮魚列車が暴走している。もうすぐここへやってくる。ここで止めないと大変なことになるぞ」
 仲買人たちは、きょとんとして顔を見合わせた。
 自由になったSは、線路に魚を落とす作業を再開した。
 だが彼の表情に真実を感じとることができたのだろう。仲買人たちも一人二人と加わっていき、一分もたたないうちには全員が手伝い始めた。
 線路はすぐに魚で埋めつくされることになった。
 ハマチ、サバ、アジ、タチウオといった普通の魚から、タコやイカのたぐい、ナマコやシャコまでいた。
 何をあわてたのか、なんの役に立ちそうもないダシジャコをまき散らす者までいた。
 線路はそうやって埋めつくされたが、鮮魚列車を止めるにはまだ不十分だと思われた。
 仲買人たちは仲間に声をかけ、もっと多くの魚を持ってこさせた。
 巨大な冷凍庫の扉が開かれ、保管されていた中身までが大量に運び出されたのだ。
 鮮魚列車が姿を見せたのは、その最後の一匹が線路の上に並べられたときである。
「来たぞ」一人が叫んだ。
 ヘッドライトを光らせたまま、鮮魚列車はものすごい勢いで接近してくる。
 汽笛を鳴らし続けているが、スピードがにぶる気配はまったくない。
 駅の入口を通過した。ホームめがけて、矢のように飛び込んでくる。
 魚の山に衝突し、鮮魚列車の速度はガクンと落ちた…。


 事件が起こったのは、気持ちの良い昼下がりのことであったと記憶されている。
 外出などせず、いつものように丸一は屋敷の中にいたが、N市の反対側で暴走列車の騒ぎが起こっていることなど、もちろん夢にも知らなかった。
 しかも丸一は、あまり上機嫌ではなかった。
 ちょうど書斎で新聞を読んでいたのだが、遠洋マグロ漁船の盛衰にかかわるルポを紙面に見つけ、鼻息も荒くクシャクシャに丸め、ゴミ箱に突っ込んで成敗したところだったのである。
「マグロの記事を載せるなど、まったく非常識きわまる新聞だ…」
 とそのとき、いかにも金持ちの屋敷らしく開放的なデザインで、開け放たれたままだった大きな窓を通って、部屋の中へ飛び込んできたものがある。
 それは重く長く、流線型をして、何に一番似ているかと問えば、疑いなく砲弾であろう。
 その『砲弾』は轟音とともに飛来、着弾し、読書テーブルごと書斎の床に大穴を開けたのだ。
 そのすさまじさは屋敷中の人間を飛び上がらせ、書斎へ駆けつけさせるのに十分だったのである。
「ああ、旦那さま…」
 屋敷の使用人たちばかりでなく、近所ではその飛来物を直接目撃した者までおり、警察への通報が数件あったそうである。
 鮮魚市場の駅において、線路上には大量の魚介類が積み上げられた。
 そこへブレーキの故障した鮮魚急行が飛び込んでくるが、ねばっこいタコやイカを車輪の下に巻き込みながら減速し、やがてゆっくりと停止した。
 つまり大惨事を未然に防ぎ、一人のケガ人も出すことはなかったのである。
 しかしである。
 線路にうずたかく積まれた山の頂上には、偶然ではあろうが、あるものが置かれていた。
 生ものの魚をすべて置いてもまだ足りず、冷凍倉庫の扉までが開かれたことは、読者もご記憶であろう。
 機関車と貨車を合わせた鮮魚列車全体の運動エネルギーが、魚介類の上にぶちまけられたのである。
 ならばゴルフボールのごとく高く打ち上げられた魚が一匹ぐらいいても、特に不思議ではあるまい。
 その飛ばされた魚というのが、なんと冷凍マグロであった。
 シッポと内臓、エラ部分を切り落とされただけの丸々一匹である。重さは100キロにもおよんだ。
 しかもこれが、冷凍されてカチンコチン、まるで鉄のように固い。
 つまり丸一は正真正銘、マグロに当たって死んだのである。

ホラーのかけら

ホラーのかけら

いくつか書きためたホラー短編集です。 一つだけ変な作品が混じっていますが、 でもなぜかこの作品も、ホラーに含めなくてはならないような気がしたのです。

  • 小説
  • 長編
  • ホラー
  • 青年向け
更新日
登録日 2020-08-14

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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