八月のミラージュ
みかんは、かんづめのでよかった。ホイップクリームといっしょに、食パンにはさんで、対角線上にナイフをいれた。かんたんでしょ、と微笑むしろくまが、三角形のみかんサンドを、ぼくのくちに近づけてくる。くちびるに、食パンのあの、ぱさぱさとした感じがわずかに触れて、ぼくがくちをあけると、みかんサンドの先端が、くちのなかにはいってきた。ぱさぱさした食感は一瞬で、すぐにホイップクリームと、かんづめのなかでシロップにつけてあったみかんの、人工的な甘みがひろがった。八月も、もう、半ばだというのに、暑さはやわらぐことなく、にんげんは、いずれ、こういった自然現象にころされるのではないかと、ひそかに思っている。それについては、しろくまの方がもっと、危機感をもっているらしく、ぼくら種族が絶滅しても、きみのことは好きだから安心してね、と云われたことがある。うれしいような、うれしくないような告白だった。
今夏、ぼくはしろくまの部屋で、ほとんどの時間を過ごしていた。ごはんをたべて、映画を観た。ごろごろして、ときどき、買い物に出かけた。ぼくが動画を観ているあいだに、しろくまは本を読んでいたし、しろくまがインターネットで調べものをしているときに、ぼくは洗濯物をたたんだ。セックスをして、ねむる夜もあったし、なにもしないで、ただ、ねむる夜もあった。連日、気温三十五度を超えるせいか、しろくまの部屋のベランダからみえる都会のビル群は、いつも、ぐにゃぐにゃとしていた。とつぜん、台風みたいな猛烈な雨が降ってきたり、ついでに雷も降ったりする。異常気象に、しろくまはどこか、やっぱり、にんげんをうらんでいるようなのに、ぼくのあたまをやさしくなでては、きみはわるくないのにねぇと呟いて、それが、ぼくにはすこしだけ、こわかった。
リビングの窓につるした風鈴が、ちりんちりんと鳴る。
焼け石に水だけれど、と言いながら風鈴をつるした、しろくまの横顔を思い出しながら、ぼくはみかんサンドをゆっくりと咀嚼した。
八月のミラージュ