足の指

草片文庫(くさびらぶんこ)

足の指

赤い猫の物語。縦書きでお読みください。


 茜がシャルルドゴール空港に着いたのは、二月十八日の四時。飛行機は予定通りの到着である、しかし、手続きと、迎えに来る人を待っていて、外に出るのは五時を過ぎることになった。迎えに来てくれているはずの、ホームステイ先の人が来ていない。
 到着ロビーの外に出ると、空気がとても冷たい。雪こそ降っていないが、いつ降りだすかと思うほどの寒さで、どよんと雲が垂れ下がり、なんとも気が落ち込んでしまいそうになる。
 これから数ヶ月、フランス語の学校に通う。自分でも出来そうだと思ったら、さらにデザイン関係の専門学校にいってみようと思う。もしだめなら、ヨーロッパを放浪して、資金が尽きたら日本に帰って、派遣会社にでも登録しよう。そんな、曖昧な計画で日本を出てきた。初めての外国で、しかも一人で来てしまったことに不安がないといったら嘘になる。
 最初の一月は、語学学校から紹介された家にホームステイをすることになっている。英語が通じるというステイ先であるが、茜自身、そんなに英語も出来るわけではない。大学をでてから一年間、アルバイトをしながら、フランス語と英語の学校に通ったが、ちょっと慣れただけで、なにも分からないのと同じだ。
 度胸が据わっていれば、郊外鉄道を利用し、北駅に出て、地下鉄に乗るのだろうが、やっぱり自信がない。それで、タクシー乗り場に来てしまった。電話番号は聞いているが、電話のかけ方が分からない。よく考えたら、ANAのカウンターに行って、教えてもらえばよかったのだろうが、なんだか、一人でやらなきゃという、変な気負いがあったのだろう。やっぱりあわてているのだ。
 タクシー乗り場では数人が待っていた。一番後ろに立っていると、何台か止まっている車の間から、猫がでてきた。猫はタクシー待ちの人々の顔を見上げながらのんびりと歩いてくる。日本の茶猫より、色が赤っぽい。赤猫と言っていいほどだ。
 野良猫にしては人を怖がらない。一番後ろの私のところに来ると、立ち止まって、金色の目を私に向けて、にゃあああ、と大きな声で鳴いた。口の中が真っ黒で、歯まで黒いように見えたのは気のせいだろうか。お歯黒をした猫などありえない。猫は一鳴きすると、尾っぽを立てて、空港のほうに消えていった。どこかに住処があるのだろう。
 自分の番が来た。タクシーに、ホームステイ先の住所を見せた。十一区の語学学校の近くにあるアパルトマンだ。
 運転手は黒人で、私のスーツケースを軽々とトランクに入れ、愛想よく頷いて、乗るように促した。私がぼーっと立っていると、さっさと、運転席に乗り込んだ。そうだ、ここはパリだ。自分でドアを開け車の中に入った。
 運転手は手際よく車を出すと、セーヌ川沿いを走らせていく。やはり、違う文化だ。目に異臭がただよう。日本に生れてよかった。おそらく、セーヌを見て、ここに住む人とは違う感激を味わうことができているのだ。逆もあるだろう。パリの人が日本に来た時の感激と同じなのだろう。
 四十分ほどで目的のところに着いた。狭い通りに石でできた建物が連なっている、いかにもパリといった風情の一画である。
 一つの建物の前でタクシーは止まった。
 「ここだよ」と、運転手が指で指し示す。
 本当だろうか、と心配になる。運転手が言った。
 「葬式のようだ」
 黒っぽい服の婦人が二人、中に入っていく。
 私が英語で話したので、彼も仏蘭西なまりの英語でしゃべってくれた。フュネラルと、始めは分からなかったが、彼の口の動きで、その単語を思い出した。
 私はいやな予感がした。それで、運転手にもう一つの住所を見せた。語学学校である。近くのはずである。
 彼は頷くと、車をもと来た方向に走らせた。ちょっと大きな通りに出て、二本ほど先の、やはり狭い道に入った。車は一つの白く塗られた建物の前で止まった。さっきのアパルトマンとそんなに変わらない、ちょっと大きいほどのビルだ。入口に私の行く語学学校の名前があって、ちょっとほっとした。学校の中から白黒斑の猫がでてきた。よく猫に会う日だ。
 そこで降りて、かなりの額のユーロを払い、チップも弾んだので、運転手は荷物を、語学学校の中まで持ってきてくれた。
 受付で名前を言うと、眼鏡をかけた太ったおばさんが、「おー、岬」と、私の名前を言って、ホームステイ先の一人暮らしの婦人が昨夜急に亡くなったことを、英語で話してくれた。心臓麻痺のようだ。フランス語では全く分からなかっただろう。
 それで一週間ほど、近くの小さなホテルに泊まるように手はずを整えてくれた。それと、入学の手続きもそこで済ませてしまった。
 予約をしてくれたプチホテルに行ってみると、なかなかよいホテルで、語学学校まで歩いて五分と近い。ただ、すごく安いわけではない、一週間の間に、ホームステイ先を見つけてくれることになったので、それを期待するしかない。
 ここはパリ十一区、中心から東に位置する一番人口の多いところと聞く。ちょっと歩くと、リシャール、ルノアール大通りに出る。そこに地下鉄のプレゲ、サバン駅がある。地下鉄4番線である。その線には北駅や東駅があり、北駅からはオランダ、ベルギー、ロンドンに行く国際列車、東駅からはストラスブルグなどのアルザス地方、さらにドイツ、オーストリア、ハンガリーなど東欧まで行く国際列車がでている。それに、プレゲ、サバン駅を越して一駅分歩けば、バスチーユ広場に出て、バスチーユ駅がある。そこからは地下鉄1と8番に乗れる。一週間で、とりあえず地下鉄の乗り方、駅からの国際列車について知ることができた。この地下鉄1番線はかなり便利な線であり、住むには良いところであることが分かった。

 三月から始まった語学学校は、初級クラスにいれられた。受付のおばさん、スーザンは親切な人で、イギリス人である。フランス人の夫とともに年金生活をしているようだが、英語ができることで、この学校でアルバイトをしている。彼女は面倒見のよい人で、最初に言ったとおり、住まいを紹介してくれた。そこも歩いて十分ほどのところのアパルトマンの三階である。持ち主は奥さんと画廊を経営している、ピエール ペルシエさんだ。奥さんは世話焼きのシルビーさんだ。画廊は大通りに面していた。
 シルビーさんがアパルトマンに連れて行ってくれて、いろいろ説明してくれた。昔はその部屋に住んでいたようだが、今は郊外の一戸建てにいて、通ってきているとのことだ。だから、いたいだけいていいと言ってくれた。それだけではなく、イラストの勉強に来たと言ったら、画材屋や、評判のいい専門学校も教えてくれた。
 茜はフランス語学校で教わったものを、生活に生かせるようにするため、パリの中を歩き回ることにした。
 この語学学校には、日本人は一人の男の子しかおらず、しかも、人見知りの激しい、とても外国でやっていけるような子ではなかったので、口も利かなかった。いろいろな国から生徒たちが集まっているが、特に親しくしたくなるような子はいない。
 むしろ街の中が面白かった。アパルトマンからルノアール大通りに出るまでの道に、パン屋、雑貨屋、ワインバー、ソウセージ屋、様々な店が並んでいて、通ううちにそこの人たちと話が出来るようになった。
 朝、カフェレストラン、シャルージュでコーヒーを飲み、場合によってはクロワッサンなどを食べ、学校に行く。
 シャルージュで知り合った九十近いおばあさんは、私がコーヒーを飲んでいると、にこにこして、何も言わずに同じ二人がけのテーブルにすわる。背は茜くらいだろう、腰も曲がっていないし、しわはあるが白い顔に大きな目、真っ赤な口紅を塗った大きめの口、尖った鼻、白髪を茶色に染めて、いつも眼鏡を首から吊るしている。
 最初は私に天気がいいね」とか、「寒いね」ぐらいしか言わなかったが、三度目くらいだったろう、「うちの猫が風引いてね」とか、「明日は亭主のおたち日で、墓参りさ」とか言うようになり、「あたしゃ、エメ、あんたさんは」と聞いてきた。
 まだ下手なフランス語で「わたしは、アカネです」と答えると、「日本人だろ、語学学校かい」と聞くので頷いた。
 「そんだけ話せりゃ、いかなくたっていいじゃないか、ここで、私と話しなよ、ただで教えてやるよ」と笑った。
 本当にそうだなと思った。
 「授業が始まるので、お先に」と立ち上がると、
 「勘定はいいよ、話してくれたから、おごりだよ」とエメは手を振った。
 茜がカウンターのほうを見ると、背のすらっとした中年を過ぎたマスターが、髭をはやした口元に笑みを浮かべて頷いている。アランドロンとどこか似ているくらい格好がいい。エメに礼をいうと、
 「また、話しておくれ、ありゃ息子だよ、アランさ」とマスターを指差した。名前までアランだ。驚いて、もう一度二人に礼をして店を出た。
 「日本人は礼儀正しくていいね」と言うのが聞こえた。
 昼は学校の近所のカフェでサラダなどを軽く食べ、時間があれば地下鉄で町に出た。夜はマルシェで買ってきたもので簡単な料理を作る。通りのパン屋のおじいさんはバケットを買うと、おまけにクロワッサンをひとつつけてくれたりする。夜はあまり出歩かない。絵を描いている。本当ならデッサンの練習でもすればいいのかもしれないが、どうしても頭に浮かんできた想像の物体を描きたくなる。
 半年ほど経つと、何とか日常会話に自信が持てるようになった。美術学校をシルビーに相談して選び、通うことになった。シルビーとピエールには家賃を月に一度届ける。その時いろいろ相談するが、とても良いアドバイスをくれる。
 絵の学校はモンマルトルにある。地下鉄2に乗ってブランシュで降り、モンマルトル墓地の方向に歩いて三分ほどのところである。
 美術学校にはクロッキーの練習からはじまる基礎コースと、いくつかの専門コースがある。茜は基礎コースを選んだ。古典的なものを選んでおいたほうがいいだろうと思い、油絵はあまりやりたくなかったが、一応、それも受けることにした。
 ある日の朝、カフェ、シャルージュに行くと、エメが赤っぽい猫を抱きかかえて、コーヒーを飲んでいた。猫と一緒は始めてである。
 「来たね、どうだい、絵の学校は」
 茜もエマのテーブルに座って、コーヒーを頼んだ。
 「ええ、まじめに行ってるわ」と言ったら、エメは大きな口をあけてあははと笑った。まじめというのが面白かったらしい。
 「靴がだめになったの、どこで買ったらいいかしら」
  と、フランス語で言うことができるようになった。何とかパリを楽しめるようになったのはずい分歩いたからだ。
 「そうだね、アルノ爺(じじい)のところでもいいかもね、あたしの名前を出せば、安くしてくれるし、普段ものから、手作りのものまであるよ、気に入らない爺さんだがね、靴作りは上手いよ」
 後で聞いたことだが、エメが八十五歳の時、だから五年ほど前なのだろうか、七十のアルノ爺さんと、やっぱり七十のアンドリアン爺さんがエメの取り合いで決闘したという話だ。杖を振り回して、要するに、ちゃんばらをしたらしい、アルノ爺さんがアンドリアン爺さんの頭を引っぱたいて、決着したようだが、どっちにしろ、エメは気に入らなかったようだ。アンドリアンはいつも行くパン屋のおじいさんだ。
 アルノ爺さんの店は、隣の通りの、赤っぽいレンガでできた古いビルの一階だった。上のほうは、アパルトマンになっている。
 「ほほう、日本の嬢ちゃん、靴かい、何、ズック靴、よしなよ、柔らかい皮で作ったほうが履きやすいし、ずーと長持ち、そりゃ、安くつくよ」
 太ったからだを揺らしながら、丸い顔を皺くちゃにして笑った。
 「エメの赤猫は元気だったかい」
 茜が頷くと、「気をつけなよ、あの猫はね、魔物さね、持ち主もね」
 などと、まじめな顔をして言った。
 茜が迷っていると「お金があるときでいいよ、今、柔らかくていい皮がはいったから、どうだい、二週間で作ってやろう、まあ、エメの顔を立てて、半額でどうだい」
 「おいくらですか」と、おずおずと聞くと、「へへ、金持ちなら、千ユーロというところだが、貧乏学生にゃ、百ユーロの半分、五十ユーロにまけるよ」
 確かに安い、パリの繁華街で靴もずい分見たが、皮製の手作りの靴がそんな値段で買えるわけはない。
 「ありがとうございます、お願いしようかな」と言うと、アルノじいさんは太ったからだを揺すって、踊るように歩き回った。喜んでいるのだ。それから、靴の形を聞いたので、
 「落ち着いたのを」と言うと、店の中に置いてある靴のどれかというので、ちょっと男っぽい紐のついた靴を指さした。
 「ああ、わかった、いいね、ちょっとしたパーティーでも使えるよ」と頷いた。
 色は何がいい、というので、迷っていると、
 「あんたは、日本人にしては背が高いし、色も白いから、橙色などどうだい」と、皮を持ってきて見せてくれた。
 「黒の服にはよく合うよ」というので、「橙色は好きです」と答えると、
 「よし、いいのを作ってやろう」
 そう言って大きく頷き、靴型を持ってきて、茜の足を古ぼけたメジャーで計った。
 「一発で、ぴたっと合う靴を造っちまうからな、出来たら、エメに言っとくよ、とりにおいで」
 アルノじいさんはもう、作り始めようとしている。きっと、久しぶりの手作りの靴で嬉しかったのだろう。
 その店を出ると、アパルトマンの入口に赤っぽい猫と、子猫が一匹たたずんでいた。エメの猫とよく似ている。
 その足でシャルージュにもどると、エメはまだ店にいた。
 「そりゃよかった、いい記念にもなるよ、アカネ」
赤っぽい猫はエメの膝の上で身づくろいをしている。
 「アミラも喜んでいるよ」とエメが猫を見ると、「にゃああ」と鳴いた。赤猫はアミラと言う名前のようだ。
 「どうだい、今晩、我家においで、夕ご飯つくるから、七時ころどうだい」と誘われた。もちろん喜んで、と答えた。

 夕方エメの家に行くのに、花でも買おうと、地下鉄広場の花屋にいった。可愛い花束があったので買ったのはいいが、エメの家がどこだか聞いていないことに気がついた。近くなことは確かなのだろう。そうか、アランに聞けばいいのだ、と思い、七時ちょっと前に、シャルージュにいくと、エメが待っていた。
 七時からこのカフェはおじいさんのバーテンダーと給仕の若い女の子の飲み屋になる。夜には来たことがない。もう、蝶ネクタイの老人が準備を始めている。アランは前掛けを外して帰る準備をしている。エメが茜を見ると言った。
 「やっぱり来たね、あたしゃ家の場所を言うのを忘れてたね」
 「さあ、いこうか」と、エメが立ち上がって猫を抱えた。
 「近いのですか」
 「ああ、あんたも知ってるさ」
 とエメはビルに挟まれた小路に入った。そこを過ぎると隣の通りである。そこに現れたのは、あの靴屋のレンガのビルだった。靴屋に行った時は大きな通りに出てからぐるっと回ったのに、こんなに近かったのだ。
 アルノじいさんの店はもう閉まっている。
 すると、エメはそのビルに入っていった。
 「このビルに住んでるのですか」
 「そうだよ、アルノ爺と同じビルさ、あたしのだよ、安く貸してやってるんだ」
 ビルにはエレベーターはない。石の階段だけだ。ビルは三階建てで、一つの階に二軒あるようだ。一階は倉庫と、アルノじいさんの靴屋だ、エメの家は一番上の三階だった。エメは息切れもせず上まで同じ調子で歩いた。
 エメの部屋はとてもしゃれている。置いてあるものが昔の色をしている。臙脂色のソファーだって年代物で、ちょっと擦り切れているが、部屋に溶け込んでいる。壁には赤い猫の絵が掛けられている。これも相当古いものだろう。
 茜は買ってきた花を差し出した。
 「おやありがとよ、奇麗な花だよ」
 そう言って、花を窓際に置いた。窓からは近所の家の屋根が連なって見える。
 「おすわりよ」茜はエメが指差した椅子に腰掛けた。
 「アランは一緒に住んでいるのですか」
 「いや、アランは郊外にいるよ、子供も二人」
 「それじゃ、エメは一人暮らしなんですね」
 「そうさ、気楽でいいよ、アミラと二人ね、さて、食べるものは大体作ってあるんだよ、ちょっと、火をつけてくるからね」そう言って、キッチンに行った。
 すぐにもどってくると、「一杯呑もうや、飲めるんだろ」
 と、もってきたデキャンターから赤葡萄酒を大きなグラスに注いでくれた。
 「ブルゴーニュ、ボージョレの赤だよ」
 茜はワインの銘柄はよく知らない、しかし、ボージョレだけは知っている。
 「さー、よく来てくれたね、日本のお嬢さん」
 自分のグラスも一杯に満たすと、エメはカチンと、グラスを茜のグラスにあてて、ぐいっと半分も飲み干した。
 「うめえね、かわい子と一緒だと、どうだい、絵のほうはうまくいってるのかい」
 「ええ、楽しんでいます」
 アミラがテーブルの上に乗ってきた。エメはキッチンから、パンとサラダとシチュウをもってきた。
 シチュウはレストランで食べたものより美味しい。
 「すばらしい味」
 「あたしゃ、料理人だったのだよ、あのカフェレストランは私と亭主でやってたのさ、お代わりはどうだい」
 茜はもちろんうなずいた。エメはキッチンに行くと、またたっぷりのビーフシチュウをもってきた。
 「パンはアンドリアンのバケットさ、昔から、あいつのパンを使ってたんだ」
 このシチュウにこのパンがとても合う。
 「息子さんは料理はしないのですか」
 「アランは、コーヒーの専門家になっちまったからな」
 「この建物は歴史がありますね」
 「そう、大昔から、あたしのうちのものだよ、仏蘭西革命よりずっと前からあるからね」
 茜は歴史に疎い。
 「何年ぐらいになるのかしら」
 「十七世紀の始めからだからね」
 「三百年以上前ね」
 「そうだよ、パリはね、どの建物も、みんな直しながら使ってるんだよ」
 「ここは何家族いるのです」
 「アルノの爺にしか貸していないよ、他の部屋は使えない」
 「もったいないですね」
 「修理代が出せないからね、あたしの代でおしまいさ」
 「夜は何をなさっているの」
 「テレビもないし、早く寝ちまって、お日様が顔を出したら起きて、アミラと一日中いっしょでね、公園に行ったり、マーケットに行ったり、結構忙しいんだよ」
 「そういえば、アルノさんのところに靴をお願いしにきたとき、このアパルトマンの入口にアミラと似た赤い猫が親子でいましたけど、ここに住んでいるのではないのですね」
 「アミラには友達が多いからね、あたしも一緒に遊ぶんだ」
 「壁の赤い猫の絵も古そうですね」
 「そうだよ、あたしの先祖がこの建物を建てたときからのものでね、誰が描いたのかわからないが、気に入っているんだ、アミラと似ているだろう」
 アミラは赤っぽい茶色だが、絵の中の猫は描いた時は真っ赤だっただろう。汚れているので、薄茶けて見える。
 テーブルの上にいたアミラが立ち上がって、エメの腰掛けている前にやってきた。
 「なんだい、アミラ」
 エマは皺のよった顔をほころばせて、赤い猫を見た。
 アミラは、にゃご、と鳴いた。
 「日本のお嬢ちゃん、アミラがお腹をすかしたようだ、ちょっと、お願いがあるんだけどね」
 エマがかしこまって茜を見た。
 「なんでしょう」
 「足をだしてくれないかね」
 「私の足」
 茜は不思議そうな顔をした。
 「そうだよ、靴下を取っておくれよ」
 意味がわからず、茜は右足の靴下を脱いだ。
 「足を、この椅子に乗せておくれ」
 エメが腰掛をもう一つ茜の前に置いた。茜は靴下を脱いだ足をその上に載せた。
 そのとたん、アミラが金色の目をきらきらさせてその椅子に飛び乗った。
 「ほおら、いいだろう」エマが言うと、アミラが茜の足先を舐め始めた。ちょっとびっくりして、ピクンと足を引こうとすると、「我慢しておくれ」とエマが言う。
 茜がじっとしていると、アミラは茜の親指から小指まで奇麗に舐めた。くすぐったいどころではない、指を舐めてしまうと、足の裏、足の甲、かかと、くるぶしみんな舐めた。
 茜が目をとじて、我慢をしていると、「左側もお願いね」エメの声が聞こえる。
 茜は左の靴下も取り、足を椅子の上に載せた。目をつぶっていると、アミラが同じように舐め始めた。なぜか、少しばかり気持ちがよくなってきた。
 「日本のお嬢ちゃんは我慢強いいから、今に気持が良くなって、幸せになるよ」
 アミラは左足もすべて舐めた。
 「終わったね、ありがとよアカネ、今日はこれでおしまい、アミラ、おりなさい」
 赤い猫は椅子から下りて顔を洗い始めた。茜は靴下をはいた。
 「さあ、最後の一杯を飲もうかね」
 時計を見ると、もう十時を回っている。
 「遅くまですみません」
 「いや、来てくれて嬉しいよ、またおいでよ」
 デキャンターに残っていたワインをついで、「それではお休みの乾杯」
 そう言って一気に飲んだ。
 茜は立ち上がって、改めて礼を言うと、部屋をでた。
 アパルトマンの出口に行くと、赤い猫の親子が立っていた。

 それから、二週間ほどして、シャルージュでエメが「アカネ、アルノがね、靴が出来たと言ってたよ」と教えてくれた。
すぐに取りに行った。アルノ爺さんの丸い眼鏡の奥の小さめの目が、嬉しそうだ。「できたよ、ほら、いい出来だ」と靴を茜の前にもってきた。てっきり、編み上げの靴かと思ったら、そうではなかった。形は思った通りだが、細い紐は使っておらず、足首のところだけを少し幅のある革でできた紐でとめるように出来ていて、ウオーキングシューズでもあり、ちょっとしたパーティーならそのままいけそうな靴である。
 「素敵」
 「履いてごらん」
 アルノが椅子をもってきた。腰掛けて両足を入れてみると、靴を履いてないと思うほど軽い。立ってみた。黒いパンタロンをはいていたので、靴が生える。
 「日本のお嬢ちゃん、いいねえ」
 アルノは指を靴の踵のところに差し込んた。
 「おや、計った時よりちょっと足が小さくなったようだな」
 首をひねった。
 「大丈夫です、ちょうどいい」
 それでも、アルノは首を傾げている。
 「エメのところに行ったかい」
 「はい、ごちそうになりました、とても料理が美味しかった」
 「そうだろう、あの婆さん、口は悪いが、料理といったら一品だ」
 「アミラちゃんに足を舐められちゃった」
 それを聞いたアルノはオヤッと言う表情をした。すぐに「きったないね、もう舐められないほうがいいよ」と笑った。さらに「ほんのちょっと、あわなかったから、三十ユーロでいいよ」と言う。
 「こんな素敵なの、ほんとうなら千ユーロなのでしょ、五十ユーロじゃや安くて申し訳ないわ、こんな奇麗な靴は日本じゃ作れない」
 そう言って、財布から五十ユーロをだした。
 「いいのかい、学生さんじゃ大変だろ、よし、これはおまけだよ」
 と、革用の靴磨きのセットをくれた。それも、木で出来たいい刷毛である。
 「ありがとう」と、店を出ようとすると、
 「このズックどうするかね、ほつれを直しておいてあげるから、取りにおいで、茸狩にに行く時にはこの方がいいからね」と、脱いだままの汚れたズックを指差した。奇麗な靴を履いたら、それをすっかり忘れていたのだ。
 「え、いいんですか」
 「いいよ、またおいで、暇なんだ、あのアミラにゃ気をつけなよ」
 と手を振った。茜は何度もお辞儀をして、絵の学校へ向かった。だけど、アミラに気を付けろってなんだろう、引掻かれないようにと言うことなのだろうか。しかしすぐに忘れた。橙色の靴は茜をうきうきさせていた。

 その年の内に何度か、エメの夕飯に呼ばれた。エメは料理が上手で、いつも違うものだったが、極上に美味しい。彼女の造ったキャベツ巻きなどは高級レストランでも食べることができないだろう。
 ただ、かならず、赤い猫、アミラが茜の足をもとめた。足先を丁寧に舐めた。まるで、それが食事のようにである。茜も舐められるのに慣れ、いや、むしろ、気持ちの良い思いをするようになった。

 年が明けて、ずい分パリは寒いところだと思いながらも、絵の学校にかよっていた。しかし、画廊主から借りているアパルトマンは、設備が整っていて、寒くないし、快適である。ただ、どこもそうなのだろうが、使えるお湯の量が少ない。給湯器が余り上等じゃないのだ。スイッチ一つで温度が自由になる風呂に慣れている日本人にはちょっと大変かもしれない。
 絵の勉強は楽しいものではあったが、特に刺激的なものではなかった。むしろ、家で書き始めたミジンコのイラストに興がのってきた。実は茜が卒業した大学は理学系で、ミジンコの卒業研究をした。ミジンコの分類をする研究者になりたいと思って入学したが、遺伝子を扱わないと生物学をやっていけない。茜は遺伝子など生化学的な反応にはあまり興味がなかった。ミジンコはあの形がかわいいのである。だから、ミジンコの生態学のようなことをしたかったのだが、それでは食べていけないのは明らかである。卒業研究では、ミジンコを形で分類するためにずい分たくさんのスケッチをした。絵を描くのは好きである。高校時代は一時、美術系の大学に行こうと考えたこともあった。絵が描けると、いろいろな分野の仕事につながることであろう。どのような会社でもパンフレットは作るし、何かの説明に絵は必要になる。そんなことで、大学卒業したのを期に、絵をもう一度学んでみようと思ったのである。それで、パリに留学と考えたのである。
 パリは街中に絵が溢れている。それが刺激になって、アパルトマンでミジンコのイラストを描き始めた。ミジンコはよく知っているので、いろいろなデザインができた。漫画も描けそうある。
 こうして、パリに来てもうすぐ一年になる。
 今年になってからは、ミジンコを動かしたくなり、コンピューターグラフィックも履修することにした。とても忙しくなった。イラストが面白くなり、夜の作業が楽しくなった。それに、学校で遅くまでフリーにつかえるコンピューターで、ミジンコのグラフィックアートばかりではなく、アニメーションの勉強も始めたからである。
 しかし、朝はコーヒーを飲みにシャルージュにいくので、エメとは毎日のように会って話をする。彼女のパリの知識は面白い。教えてもらったところに行ったりもした。こうして、茜は夜が忙しく、このところエメの夕食の誘いに行けないでいる。

 そんなある日、夜十時ごろ、やけにお腹がすいてきた。夕食はサンドイッチだけだったし、昼は絵の授業が忙しかったので、食べることができなかったからだろう。ちょっとまともなものを食べたくなって、家主の画廊の近くにある、大きなカフェに行った。その通りはホテルもあり、観光客も歩く安心な場所である。しっかりした食事をしたいときに行くことにしている。
 そのくらいの遅い時間になると、立ち飲みの常連客がたくさんいる。空いていたテーブルに座り、サラダとオムレツとビールを頼んだ。
 「おや、アカネじゃないか」
 ちょっと離れた大きなテーブルから声がする。振り返ると、画廊の主人のピエールだ。シルビーもいる。
 「こっちいらっしゃいな」
 とシルビーが呼ぶので、茜はウエイターに指で移るよと示して、シルビーたちのテーブルに移動した。
 シルビーとピエール、それに中年の女性が一人と、おじいさんが三人で大きなテーブルを囲んでビールを飲んでいる。
 「日本から絵の勉強に来たアカネだよ」
 と、ピエールが紹介してくれたので、みんなに挨拶をした。
 「彼女はブリジッド、美術雑誌の記者さんだ」
 「フランス語うまいじゃないの」
 ブリジッドが言った。
 「アカネはここに来て、まだ一年なんだ、フランス語の上達がはやいんだ」
 ピエールはそう言った。次におじいさんたちを紹介してくれた。
 「クロードとリシャールは画家、ルイは写真家でね、みんな親爺のころから、うちの画廊で個展を開いてくれている」
 三人とも髭をたくわえていて、落ち着いた感じの好々爺だ。
 「絵の勉強はうまくいってるの」
 シルビーが聞いてたので、今、ミジンコのデザインやアニメを作って楽しんでいる、といったら、「ミジンコ、面白い、そのうち見せて」と身を乗り出した。それを聞いていたみんなも見たい見たいと言った。
 「今度、アパルトマンにいくわね」
 「ええ、どうぞ」
 そこに、サラダとオムレツが運ばれてきた。
 「お腹すいちゃって、いただきます」
 「いい靴はいてるわね、日本製」
 ブリジッドが茜の足に目を留めた。
 「いえ、近くの靴屋さんで作ってもらったんです、日本にはこんないい靴はありません」と答えると、「ああ、アルノ爺さんだろ、あの靴屋はいい、腕もいいし、安い、よくみつけたね」とリシャールが笑顔になった。
 「エメが教えてくれたんです」
 「あの、シャルージュの婆さんかい」、
 クロードがおやおやといった顔で茜を見た。
 うなずくと、「エメが赤い猫を飼っていただろう」
 とリシャールが聞いた。さっきから赤ワインをしこたま飲んでいる。
 「ええ、いつも赤い猫、アミラちゃんといっしょ」
 「このワインはブルゴーニュ地方の、ボージョレーだよ、その地方には、姿の見えない赤い猫が夜な夜な屋根の上を歩くという話がある。いつもは見えないが、ボージョレーの新酒を飲むと、見えるというんじゃよ、それに、月の明かりが当たると、見えるとも言うんだ」
 リシャールはぐっとワインを飲んだ。
 「その赤い猫は何をしてくれるのですか」
 茜が聞くと、「幸せになるんだと、と言うより、新酒を飲むと幸せになるんじゃな、新酒は十一月解禁だから、今飲んどるのはわしみたいに古いやつなのだがな、だけんど、日本のお嬢ちゃんと会えて、幸せじゃ」と、グラスを持ち上げた。
 茜も笑った。
 また、ワインをぐーっとあけた。
 「飲みすぎじゃないかい、おまえさん」
 クロードが、注意をしている。
 「なあ、お嬢ちゃん、エメのところにはもう行ったのかい」
 ルイが写真機を取り出して、「写真撮るよ」と茜が返事をする前にシャッターを押した。
 「オムレツが似合うね」と変なことを言っている。
 「ええ、エメさんはとても料理がお上手です」
 「他に何かされなかったかい」
 「赤い猫ちゃんに足を舐められちゃった」
 三人は顔を見合わせて、さらに、シルビーとピエールは驚いたような顔をした。
 「なんなの」
 ブリジッドが興味を持った。
 「なあ、お嬢ちゃん、何度舐められた」
 「四回か五回です」
 「もう舐められてはだめだよ」
 言っていることが分からない。クロードが話し始めた。
 「あの、建物は古いものでな、ある話が残っているのだよ、建てられたのは千六百年代だね、その後、おそらく百五十年も前のことだが、エメのおじいさんがあのビルをアパルトマンにして、人に貸していたんだよ」
 そう言って語り始めたのは次のような話だった。
 「ジェロームという若い男が二階に住んでいてね、洋服屋に勤めていたのだけどね、仕事が終わり、食事を済ませ、一杯飲んでアパルトマンに帰って寝たんだそうだ。
 夜中にジェロームは月の明かりに目を覚ました。満月だったのだ、カーテンを引き忘れていたようだ。
 すると、窓の外に黒い猫の影が見える。どこかの飼猫が窓際伝いに散歩しているのだろうと思っていると、ジェロームの家の窓に前足をかけ、伸びをして部屋の中を覗きこんだんだ。
 金色の目がきらっと光ったそうだ。それで、前足でガラスを引っ掻いた。
 キーキーとやな音がするので、追い払おうと思ってベッドから出たジェロームが窓に近寄ると、逆光で黒く見えたのだが、真っ赤な猫なのがわかった。真っ赤な猫などこの世にいるわけはない。それは珍しいものだ。ジェロームは窓を少し開けた。よく見ようと思ったからだ。すると、真っ赤な猫は、部屋の中に入ってくると、机の上に上がって、丸くなって寝てしまった。
 ジェロームは猫に触ってみると、毛はフワフワしていて、とても手触りの良いものだった。目が覚めたら外に出るだろうと思って、寒くない時期だったので、窓を少し開けたまま、もう一度ベッドに入った。
 またぐっすりと寝入ったところが、すぐに足が何かに舐められているような気がして目を開けると、なんと、真っ赤な猫が、ジェロームの足の指を舐めていた。はっと、ジェロームが起き上がろうとすると、いきなり赤い猫が足先に噛み付いて、足を食ってしまった。あっという間だった。両方の足首をだ。痛くなかったのは幸いだった。
 赤い猫は舌なめずりをすると、尾っぽをふりふり、窓から出て行ってしまった。
 両足先が無くなった、ジェロームは途方にくれたそうだ、そりゃそうだ。足先がなくなったら靴も履けない、歩けない。ジェロームは起き上がってみると、からだが揺れるが立つことはできた。痛くもない。ちょっと安心したジェロームは、朝になったら考えようと思って、再度ベッドに入ったそうである。
 朝、朝日が差し込み、目が覚めたジェロームは昨夜のことを思い出した。布団をめくり上げてみたら、足先はきちんとあった。これは夢だったのかと思って、朝の支度をして、さて、仕事に出かけようとしたら、靴が合わない。足が大きくなっていたのだ、二周りほど大きい。仕方なく、サンダルを履いて、行きつけの靴屋に行って、戸をたたいた。朝早かったのでまだ開いていなかったのだ。それを無理に開けてもらった。おかみさんが顔を出した。
 「はあい、おはよう、ジェローム、朝早くからどうしたの」
 「足が大きくなっちまったので、靴がほしい」
 ジェロームは靴屋のおかみさんに足を見せた。
 「ほんとね、この大きさだと、この靴しかないな」とちょっと古びた茶色の紳士靴をもってきた。洋服屋にいるジェロームは、まず靴がないと様にならないので、それを買い求めた。「この靴、昔からあるのに売れなかったものだから、安くていいわ」とおかみさんは捨てるような値段で売ってくれた。ジェロームはそれを履いて仕事に行ったわけである。
 歩くのに不自由ではなく、気にならなくなった頃である。また、夜中に足がくすぐったいので目を覚ますと、窓が開いていて、真っ赤な猫が金色の目を輝かせてジェロームの足に食いついていた。「やめろ」と布団を跳ね除けた時には、また両足の足先が食われてしまった。赤い猫は舌なめずりをしながら外に出て行ってしまった。
 これは夢だと思って、ジェロームは再びベッドに入った。そしてあくる朝、やっぱり足先はあった。しかし、ちょっと小さいようだし、色も白い。同じように、靴屋に行って、靴を見繕ってもらった。
 「どうして、足がこんなに変わるのさ」おかみさんは不思議そうな顔をした。
 「医者も分からないそうだ、そういう病気があるらしい」と医者にいってもいないのに嘘を言って、ともかく、小さめの靴を出してもらった。黒っぽい靴である。
 「そんな病気じゃ、しょっちゅう靴を替えなければならないね、安くしとくから、いつでもおいで」靴屋のおかみさんはまんざらでもないように笑った。
 しょうがない。そういうことで、また違う靴を履く破目になった。
 しばらくすると、赤い猫がやっぱり足を食っちまって、生えてきた足先は小さくて細長かった。靴屋のかみさんは「こりゃ、女もんだね」と、青っぽい靴をもってきた。仕方なく、それをはいて仕事に行ったが、こうこんなことが続くと、大した稼ぎもないのに、靴代が馬鹿にならない。
 一度赤い猫を捕まえようとしたのだが、するりと逃げられてしまった。とうとう、違った大きさの靴が五足も貯まってしまった。さて、これでは大変と、ジェロームは誰に相談したらいいか考え、やはり、医者に行くしかないと覚悟を決めた。
 足の具合が悪いと、洋服屋の主人に相談すると、通り三つ離れたところにいい医者がいると、教えてくれた。
 医者はジェロームが入っていくと「見たところ、何も悪いところはないようじゃが、どうした」と頭の白髪をかき上げた。それで、ジェロームは包み隠さず起きたことを話した。信じてもらえるとも思えなかったが、それしかないと思ったからだ。
 すると、医者はジェロームのアパルトマンの住所をみて、「あー、こりゃいかん」
 と、頭を振ってこう言った。
 「アパルトマンを変わらなきゃだめじゃ、あそこは、場所が悪い、教えてやろうな、あの持ち主はそんな説明をしなかっただろう、赤い猫の保護者達だからな」
 話はこうだった。あの建物が出来る前は、そこが公開処刑場で、何人もの犯罪者が首を刎ねられたり、槍で突かれたりしたそうだ。たくさんの処刑者がいたが、その中で、有名な魔女裁判があった。ある一家が、夜中に店から食いもんを盗んで走って逃げたということだ。夫と妻と三人の子供達だ。みな男の子だったという。善良な市民であったのだが、だまされて一文無しになり、橋の下で寝起きをしていたのだ。
 店から取られたのはパンだとか、ソーセージだとか、ちょっとした食べ物である。盗んだのを見たという証言が寄せられ、その一家が捕まった。濡れ衣なのだ。本当は、そのあたりの名士の子ども達が夜遊びをして、ちょっと腹が減ったから盗んだのに過ぎない。そいつらが言い触らしたものだから、町の者達もそうだそうだということで、その家族が捕まってしまったのだ。それで、その一家は足先の切断の刑に処せられたのだ。
 町の住民達が見守る中で、手を縛られ、柱の間に張ったロープに吊るされ、五人とも両足首を刀で切られたのだ。
 五人は痛さにうめいたそうだ。足先から血が滴り落ちた。
 ところが、滴り落ちた血が敷石の上で、盛り上がった。見る間に赤い猫になったのだそうだ。見ていた住民は驚いた。すると、赤い猫たちは一番前で見ていた本当の犯人である若者たちの足に噛み付き、ことごとく噛み切ってしまったのだ。住民たちは大慌てで逃げたそうだ。もちろん、処刑官の足首も食いちぎられたそうだ。
 処刑された五人は死んでしまったのはもちろんだ。血がなくなってしまったからな。だが、血は赤い猫になった。
 そこに、黒装束の女が現れると、五匹の赤い猫はその女についてどこぞへと行ってしまったそうだ。
 何十年か経ったとき、土地が安かったのだろう、誰かがその場所を買って、今のアパルトマンを建てた。お前さんが住んでいるアパルトマンだよ。しかし、その建物から赤い猫が出てきたとか、猫を連れた女が出てきたと噂が広まって、とうとう、赤い猫の住んでいるアパルトマンということになった。
 「そのアパルトマンには長い長い年月、主人しか住んでいなかった。誰も借りようとしなかったのだ。しかし、そのような噂話も忘れられておってな、あんたみたいに借りる人が現れるようになったわけだ。どこぞに、その赤い猫がおるんじゃろ、怨念だな、足を食われないように別のアパルトマンに移ったほうがいい」
 医者はジェロームの足を見ることもしないでそう言ったのだそうだ。
 ジェロームはそれからすぐに他のアパルトマンに移った。そうしたら、赤い猫に足を食われることはなくなった。確かに、その建物にはジェロームだけで、年老いた持ち主しがいただけだったのである。そのアパルトマンはまた、持ち主だけになった。
 そういう、長い話があの建物にはあるのだよ、日本のお嬢ちゃん、エメ婆さんはあの建物の持ち主の子孫、あれを建てたのは赤い猫を連れ去った女性だという話でもあるからな、それにエメの足を舐める赤い猫は、魔女狩りの被害者の血から生まれた赤猫の子孫だろう」
 茜はオムレツを食べるのも忘れて聞いていた。
 嘘でしょ、と、頭の中では思っていた。
 「心配要らないよ、赤い猫除けのペンダントを今度あげるから、エメのところに行く時にはそうっとそれを身に付けていきなさい」とシルビーが言った。
 「お嬢ちゃんに、赤ワインをあげてくれないか」
 マスターの「はーい」と言う返事が聞こえた。
 それから、絵の話になった。今度、みんなで、ミジンコの絵を見に来ることになった。

 シルビーとピエール、それに、あの三人のお爺さんの芸術家、それにブリジットまで、茜の部屋にやってきた。壁一面に張られたミジンコのイラストや絵を面白がった。それに、PCで作ったミジンコのアニメを見て大喜びした。
 「さすが、漫画の国のお嬢ちゃん」とクロード爺さんは、大仰に褒めた。
 「そうね、本気で、どうお、日本に帰る前に、うちで個展してみたら」とシルビーとピエールが言ってくれた。
 いい人たちに囲まれたものである。
 その時、お守だという、ペンダントをもらった。黒い猫のペンダントだった。
 それを身につけたので、エメの誘いに乗ってみる気になった。
 久しぶりにエメのうちに行くと、アミラ以外に四匹の赤い猫が行儀よく床の上でおちゃんこをしている。茜はびっくりして、クロードたちの話を思い出していた。
 「近くの猫たちが遊びに来ているのよ、こっちから、バスティアン、フィルマン、カロン、シャルル、みんな男の子、アミラと仲がいいの、きっとアカネが来るということを知っていて遊びに来たのよ」
 エメはいつものように美味しい料理を用意してくれた。ワインも美味しかった。
 「いつも美味しい」
 「いや、来てくれて嬉しいよ、忙しそうだね、いい絵が描けそうかい」
 「ええ、画廊のシルビーやピエールも応援してくれています」
 「ああ、あの二人はいい人たちだね、おしどり夫婦だよ」
 エメがとても話にでた赤い猫を匿った女性の子孫だとは思えない。
 「あそこに集まる男どもに会ったかい、クロード、リシャール、ルイはみんな私に惚れてたんだよ」
 そう言って、エメは笑った。
 なぜかその日、アミラは茜の足を欲しがらなかった。
 茜が帰るとき、五匹の猫たちは、わざわざ付いてきて、出口で見送ってくれた。金色の目が残念と言っているようにも思えた。
 それから、一年後、画廊でミジンコのイラスト展をやった。ブリジットが雑誌に小さくではあるが取り上げてくれたこともあり、かなりの人が来てくれた。エメもアランも来てくれた。エメもきてクロードたちと長い間話をしていた。
 可愛らしいミジンコの絵本作りましょう。と、ある出版社がいってくれた。今その製作に励んでいる。絵の専門学校はとうに止めてしまった。資金ももう底を尽くし、日本に帰りどころだろう。三年いたことになる。ミジンコの絵本は日本に帰ってから出版されることになる。シルビーとピエールが窓口になってくれている。
 
 日本に帰る二日前、エメとアミラのイラストを仕上げた。エメのところに持っていくと、喜んで、大昔からある赤い猫の絵の隣にかけた。
 「赤い猫に、私が加わったね、ありがとね」
 アミラがよってきた。茜はそうっと、黒い猫のペンダントを首から外すと、ポケットに入れた。靴下を脱いで、アミラの前にだした。
 アミラの目が輝いて、椅子の上にのってきた。小さな舌が指を舐めていく。右が終わると、左の足先も舐めた。
 気持がいい。気が遠くなりそうだ。
 舐め終わったアミラが「にゃー」と鳴いて茜をちらっと見ると、顔を洗い始めた。
 友達の四匹の赤い猫がやってきた。
 その猫たちにも、茜は足を舐めさせた。四匹の猫が舐め終わっても、茜はしばらくぼーっとしていた。
 「ありがとね」
 エメが茜を抱擁した。
 五匹の猫が別れ際に茜の足に擦りついた。
 茜の足の指は赤猫の舌を一生涯忘れることはできないだろう。
 茜は日本に帰っても、あまり間をおかず、赤猫に会いに、パリにくることになる予感がしていた。

赤猫幻想小説集「赤い猫」(2019年一粒書房発行)所収

足の指

足の指

パリに留学した茜は、一人のおばあさんと出会う。おばあさんの飼っていた赤い猫は、茜の足の指をなめる。赤猫は足首を切断された無実の家族の血から生まれたという話が伝わっていた。。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-08-14

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted