猫のお墓

冬雨子

最近、過去の夢を見る。
過去の夢といっても事実がありのまま流れてくるわけではなかった。過去の自分が成し得なかったことを夢の中の自分が勝手にやってみせたり、或いは過去の自分を責めるような視線で見てきた奴から、視線だけではなく実際に言葉で詰られたりなど、今こうして現実世界で反芻しても耳を塞ぎたくなるようなものばかりだった。昨日のことは夕飯のメニューすらとっくに忘れてしまったのに、過去のたった一日、あの日のことは、朝何を食べたか、どんな服を着てズボンを履いていたか、何曜日だったか、何時間目に何の授業が行われていたか、蛾のようにそれら全てが鮮明に記憶にへばり付いて何日も何年もそのままだ。夢にまで見るほどに。
正直、さっさと忘れたかった。いや、実際に俺は忘れていた。だってもう何年も前の話だ。俺の人生にはもっと大切なことがたくさん起こってきて、そのたびにあの日の記憶は濃度を下げていった。だけど、夢によって無理矢理呼び覚まされる。そして不本意な罪悪感に駆られる。
俺が何かしたのだろうか?
俺は何かをするべきだったのか?
今更どうにもならないことを知らない誰かに問いかけ続けた。


「おい、おーい、楓ー」
耳元で聴き慣れた声がしてハッと目を覚ました。どうやら机に突っ伏して眠ってしまっていたようだ。授業の記憶が全くない。壁掛け時計に目をやると、すでに4時近かった。
「お前5限の途中からずっと寝とったけど」
顔が寝汗でじっとりと濡れている。俺を起こした張本人である葵は、俺の顔を指差して「てかめっちゃ跡ついてんだけど!」と笑った。
「はよ帰ろーぜ。昨日何時まで起きてたん?」
葵は俺の机の上に散乱している教科書やノート、筆記用具を勝手に片付け始める。よく見るとノートの上の文字はだんだん力を失い、眠気に勝てず息絶えていた。
「どうせあの子...彩花ちゃん?と夜中まで電話してたんやろ?エッロいなー」
「いやそれどこがエロいねん、てかもうアヤとは別れたっつーの」
「ありゃそうだっけ?じゃあ馴れ馴れしくアヤとか呼ぶのもうやめたら?」
「一年も付き合ったんやぞ。そんな簡単に変えられへんわ」
そかそか、とどうでも良さそうな相槌が飛んでくる。俺は現実に影響をきたすほど夢に苦しめられているというのに、この男は気楽で羨ましい。こいつには、例えば自分のせいで誰かが自殺してしまったとしても、その経験を「失敗」と一言で片付けてしまいそうな無神経さがある。さらには「失敗」と銘打ったそれを「成長」の糧にまでしてしまいそうだ。無自覚に他人を死に追い込むような残虐性が脳天気な性格と隣り合わせで歩いているから恐ろしいのだ。そんな人間がこんなすぐ近くにいるなんて、世界はどんな仕組みになっているのかわからない。
というのも全部俺の憶測なんだけど。俺の悪い癖だ。他人をすぐ分析しては「こういう人間だ」と決めつけてしまう。
廊下の角を曲がると人影が近づいてきて、俺は避けきれずにぶつかってしまった。
ぶつかった相手は腕に複数枚のプリントを抱えていたようで、転んだ拍子にそれらが床にひらひらと舞い落ちる。
「あ、ごめん、大丈夫?...」
必死にプリントをかき集める彼にそう声を掛けると、そいつは顔を上げ、俺の目を見た。
「......」
彼は何かを言いかけていたようだったが、俺は無視してその場を足早に立ち去る。心臓が耳の奥でぐわんぐわんと騒いでいて、歩いているのに足の裏に感触がない。
「え、アレって羽柴くんやん!学校来とんのめずらし」
「...そやな」
「やっぱすげー髪色」
まるで俺の焦燥を見抜いたかのようにタイミングよく現れるじゃないか。本当はそこで待ち伏せしてたんじゃないか?あいつなら有り得なくもないから余計に忌々しい。
「アレって先生に言われへんの?」
「知らん」
「羽柴くんてわりとヒーキされとるよなあ。先生もみんななんか優しめじゃね?」
「......そりゃ病人には優しくなるやろ」
葵はわざとらしく吹き出して「病人とか言うなや!」とバカデカい声を上げた。俺はともかく、葵てめー、あいつと喋ったことすらないくせに昔から知っているかのように堂々と馬鹿にするなよ。
俺の心にはまた雲がかかって、太陽さえ隠してしまった。



羽柴律は俺の幼なじみだ。今現在も同じマンションに住んでいる。俺たちの在住地域は人口が少なく、それに比例して子どもも少なかった。だから俺たちはよく二人きりで遊んでいた。高校生になった今でも病院通いの日々を送っている律は、昔から病弱であまり激しい運動ができず、母親が少々過保護であったことも関係して屋外で遊ぶことは禁じられていた。そのためか、生まれ持った性質なのかは不明だが色白で痩せていて、髪も男児にしては長く伸ばしていたのでまるで女の子のようだった。俺は当時本気で律のことを女だと思っていた。誤りだと気づいたのは小学校に上がってから、律が黒のランドセルを背負い出した頃だった。



今日は7月16日木曜日。再来週から夏休みに入る。ということは、残り7日だ。そんなカウントダウンをし出したのはいつからだったか。はっきりと脳の表側にその記憶が登場して来ずとも、無意識で日数を数えていた。
ベッドの上に寝そべりながらスマホを見る。気がついたらもう17日になっていた。残り6日を乗り越えれば夏休みだ。鬼門となるのは明日だが家から出なければ大丈夫だろう。
...だけど、どうして俺ばかり逃げ回らなきゃならないんだ。俺は何もしてないじゃないか。それとも自分じゃ気づかないだけで周りの人はみんな知ってる俺自身の罪でもあるのか?そんなのあったら早急に突きつけてくる奴が一人くらい絶対にいるはずだ。
やはり俺に罪はないんじゃないか。
そうわかっていても心の中から正体不明の罪悪感が消えることはなかった。
スマホで検索をかければすぐさま現れるそれ。丁寧に正式な名前まで付けられて、探偵気取りの連中が憶測や主観の意見を並べてはポエムを読んで終わる。なあ本気でそれ思ってんの?アクセス数稼ぎたいだけじゃねーのか。記事が投稿されたのはほぼ一年前。末尾には「新たな情報が入り次第追記していきます」と書かれているもののそこから更新はない。
どうでもいいくせにほっとけないふりなんかするなよ。関係ないんだから黙っててくれないか。お前に何がわかるんだよ。
...こんなもの、寝る前に見るからきっと夢になってしまうんだ。
口からため息が零れる。忘れよう。いや忘れてはならないが、今は思い出したくないんだ。だから目を閉じて記憶の彼方に飛ばそう。
なのに夢の中の俺はまだ過去に居た。とっくにいない彼に必死に謝っていた。


ピンポーン。
玄関のチャイムが一つ鳴り、重たい体を引き摺りながらインターホンを確認すると、そこには律が映っていた。チッと思わず舌打ちが漏れる。
なんで今日に限ってお前が現れるんだ。玄関の扉を開いた時、ありったけの嫌悪を込めて律を睨んだ。
「おはよ」
そうやって俺に何気ない挨拶をする律は微笑みもしない。昔はよく笑う奴だったが最近はぴくりともその口角を上げることはなくなった。俺の前で、だけかもしれないけれど。
「...何の用?」
そんな律がただひたすらにムカついて、ぶっきらぼうな話し方しかできなかった。
「あ...は、話したいことがあって...」
俺の雰囲気に威圧されたのか律は俺からふいっと目を背けた。それが心地いいような腹立たしいような、なんだかカオスな気分になる。
「...ごめん、家族以外と話すの久しぶりやもんで、」
「なに?話したいことって」
律は説明が長い。周りくどい上にすぐ脱線する。それを知っていたから俺は律の言葉を遮った。
「今日...ってさ...、...わかるやろ...」
その言葉を聞いた瞬間、胃がきゅっと締め付けられた。夢の内容がこんなところでまたリフレインされる。
だけど仕方ないのかもしれない。今日はもう諦めた方がいいのかもしれない。
ふいに全てをかなぐり捨てたくなった。
「あのさ...ちょっとさ...ゆっくり話さへん...?」
「...話すことなんてない」
「俺が話したいだけやから」
縋るようにTシャツの袖を掴んでくる。俺はその腕を勢いよく振り払った。白くて細い律の腕は、そんな乱雑な扱いをしたら簡単に折れてしまうかもしれない。
「なんなん今更、俺に何しろっつーんや」
「そんな...なんもやれなんて言わん、俺の話、...俺、いろいろ調べてきたから...」
お節介だ。母親に似たのか。優しげな口調で残虐な言葉を紡ぎ出そうとするその態度は、笑顔で鋭利な刃物を突きつけるサイコパスそのものだ。
だからこそ俺は反抗する。
「そんなんいらんって!俺だって思い出したくないんやて!もうほっといてくれよ...」
「で、でも」
思わず手が動いてしまった。なにも考えずに振り下ろした平手は、律の頬に当たって鈍い音をたてた。それだけでは我慢できず、Tシャツの肩を掴んで突き飛ばす。律の体はそれだけで簡単によろけ、尻もちをついた。
「帰れ」
地面に蹲ったまま顔を上げない律を残して俺は扉を閉めた。



『〇〇県小6いじめ犯人は同級生Mくん!?担任が告発文を燃やして隠蔽!!』
『小6自殺犯人の現在!住所、顔、SNS特定!すでに引っ越した!?引越し先は...』
『小6いじめ自殺男子、自殺直前に友人に電話をかけていたことが判明。』
『〇〇県小6いじめ、届かなかったSOS___』



やがて夜になり、母親がパートを終えて帰ってきた。独り言なのか俺に話しかけているのかわからないが、レシートがどうたらと言っている。「なあ楓ー?」と、ついに俺の名前を呼びつけてきたので、仕方なく部屋から出てリビングへ足を運んだ。
「なんやねん...」
「なにあんた寝とったの?起こしてまってごめんなー」
思ってもないであろう謝罪を投げかけられる。
「それはいいけど、そんでなに?」
母は、
「あーそやこれこれ。ポストに入っとってなー」
と言いながら俺に長方形の紙を差し出してきた。俺はそれを素直に受け取る。やはりレシートだった。
「なんか不思議でさー。それ4年前のやつやねん。そんな古いレシートがなんでうちのポストに入ってるんやろうな」
刑事ドラマが好きな母はこういう些細な出来事にいちいち意味を持たせようとする。杞憂で終わることがほとんどだけど。
...しかし、今回ばかりはそうではなかった。
俺は何かに奮い立てられて、反射的に玄関へ向かい適当なスニーカーを突っかけた。背中に母の動揺した声が降りかかってくるけど、返事をする暇はない。施錠もせずに駆け出す。表札には「羽柴」とメルヘンな字体で表記されている。チャイムを鳴らすと、「はーい」と高い声が部屋の奥から聞こえてきた。ものの数秒で扉は開き、見慣れた女性が顔を指す。
「あら楓ちゃん!久しぶりー!どうしたのー?」
甲高い声と間延びした口調にペースを奪われ、つい愛想笑いしてしまう。そんな余裕ないのに。
「あの、律っていますか?」
焦る気持ちはこうしている間にどんどんチャージされていく。俺を突き動かす、この感情はなんなんだろう。
「あー。りっちゃんならさっきコンビニ行くって出てったけど...」
「ありがとうございます!」
ちゃんとお礼した。印象はそこまで悪くないだろう。あの過干渉母親、息子が夜に一人で出歩くのを許すようになったのか。
俺は頭の中で最寄りのコンビニを思い浮かべた。きっとあそこだろう。あそこ以外にもコンビニはいくつかあるが、俺の直感があそこだと言っていた。
夏の夜は薄暗い。視界は数メートル先まで見える程度だ。アスファルトの端からクビキリギスの喚き声が聞こえる。生暖かい風がTシャツの隙間から入り込んでわずかな清涼感を与えてきた。
目指すコンビニにあと少しで辿り着きそうだった道の先で、見慣れた人影がぼんやりと見えた。
律だ。自動車が行き交う道路を見つめて動かない。俺はそんな律の姿を見ても驚かない。律はああいう変な奴なんだ。しかし、そのまま道路へ足を踏み入れることは予測できなかった。俺はハッとして律を追いかける。幸い車通りが少ないタイミングで良かった。少しだけ冷静になれた。道路の真ん中でいそいそと羽織っていたパーカーを脱いだ律は、それで何かを包んで腕の中に抱えた。そして立ち上がり反対側の道へ歩き出そうとしたのと同じタイミングで、乗用車が律の方向へ走ってきていた。そりゃそうだ。あの乗用車はルールに従い走行していただけだ。悪いのは律の方だ。
間に合わないかもしれない。しかし迷っている場合ではなかった。
「律!」
こちらを振り返った律の瞳が星空をトレースしてキラキラと輝いていた。そのまま瞳のブラックホールに吸い込まれたのかと思ったが、どうやらまだここは現実世界のようだ。
怒りのクラクションを背中に受ける。生きていた。
「楓...?」
「おま、なにしてんだよ!あっぶねーな...!」
律の腕の中にある、パーカーで包み込まれたものに目をやる。
「...それ、なに」
「猫」
「......もしかして死んでる?」
そう尋ねると律はこくりと頷いた。よく見るとパーカーに収まりきらなかった尻尾が無残な潰れ方をして垂れていた。
「そんなの、ほっときゃいいのに」
「だってあんなとこに放置したら、また轢かれたりカラスにつつかれたりするかもしれんし...、俺に埋葬してもらうために、あそこで死んだのかもしれない」
そんなわけないだろうと思わず鼻で笑いながら言いたくなってしまうようなことを、本気で口にするような人間なのだからそりゃ友達もできないわけだ。
「どっか埋めれるとこあるかな」
そう独り言ちながらフラフラと歩き出していく。
近所の公園の、桜の木の下にそれを埋めた。たまたま近くの畑にスコップが放置してあって好都合だった。
土の中の猫に向かって合掌をする律。
見せかけではなく、心の底から正真正銘の真心で向き合うのだ。
俺にはその理由がわからない。さっきはこれを「お節介」と単純化してしまったが、冷静にことを考えるとそこまで簡単なものではないような気がして仕方なかった。
ただの「お節介」でこんなことできるわけないんだ。
「......お前、...優し過ぎんか」
律の視線が俺に流れた。
こんなこと言うつもりで追いかけたんだっけ。
「ほっときゃいいんやそんなもん。お前が殺したわけじゃないんやから。お前に関係ないやん」


どうして電話に出なかったんですか?どうして助けなかったんですか?どうして見て見ぬふりをしたのですか?


「...俺、猫好きやし」
「なんなんそれ。おかしいって。なあ、このレシート」
俺はポケットからくちゃくちゃになったレシートを取り出す。
「あ、それは、あの日、電話に出られんかった理由が必要やと思って...やっぱり物的証拠?てのがいるなーて思って、...俺レシートとか財布にため込んでまうタイプやん?見つかってよかった...、」
「もういいんやって。証拠もなにも、もう過ぎたことなんやって。お前がそんなしゃしゃり出んくても、もう終わったことなんやって」
「終わっとらんよ。だって楓は傷ついたまんまやん」


ご遺族にかける言葉はありますか?反省しているんですか?残酷なことをした自覚はありますか?


「...楓は悪くない。見て見ぬふりなんかしとらん。確かに止めたりはしんかったけど、ちゃんとアンケートに書いたこと、俺は知っとる」
そのアンケート、燃やされちゃったけどね。
「楓のことなんも知らんくせに、勝手なこと書いて...俺一人がなんかしたところで意味ないってわかってるけど...」
どうしてそこまでできるのか。自分の人生の時間を削ってまで。
「俺は...優しいんじゃなくて、楓がほっとけないだけ」
「お前やっぱおかしいよ。こんなん普通じゃないって」
俺は責められて当然の人間だった。見てるだけでなにもしなかった。勇気を振り絞ってアンケートで告発のようなものをしたけれど、目の前で燃やされたらすぐに諦めた。電話も出なかった。コールには気付いてたけど、敢えて応答しなかった。
心のどこかで「いじめられて当然だ」って、「そんなに辛いなら早く死んでしまえ」って、「俺なんかに頼らないでくれ」って思ってた。
それを簡単に見透かしてしまう人間がこの世にはたくさんいた。
だけど、そんなにみんな偉いのか?俺の過ちをそんなに上から目線で追及できるくらいお前は善人なのか?誰だって意識的に人を傷つけることはあるはずなのに、俺の場合たまたま大ごとになって取り沙汰されただけなのに、自分にそういう一面がないってどうしてそんなにはっきりとアピールできるんだ?住所を顔写真をSNSを特定して晒し上げてみんなで説教するのがこの世の正義なのか?
そうやって声を上げたくても俺には度胸がなかった。俺はもうはたから見たら加害者の一人なんだ。
「...自分でも自分のやっとること、自分勝手やなって思う。けど...俺だけ我慢する必要なんてないかなって」
近くでクビキリギスが鳴いている。あの植え込みの中とかに隠れているのだろうか。
「楓のことが...」
いつの間にか夜が深くなって、さっきまでは見えた足元も暗闇に飲み込まれた。
なのにどうしてお前の目はそんな中でも光を放っているのだろうか。外灯も月も、星さえも吸収して、その輝きだけが俺に降り注ぐ照明だ。
いつか太陽にだってなれる。
「す...好きやから」
何年ぶりに微笑みを目にすることができたのだろう。
夜が明ける。

猫のお墓

猫のお墓

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-08-13

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