うしおのことおぼえてる?

みちお

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  「うしおのことおぼえてる?」



                                           


ぼくは閉じていた目を、開けた。
そして顔の前に掲げたジョッキの向こう、その琥珀色をした液体の向こうの、彼を見た。
なんだかその時ぼくは、全部が、夢であるような気がした。
目の前の、琥珀色のビールの向こうに滲んでいる黒い影も、まわりの、もくもくと煙の充満している明るい部屋も、すっと遠くになり、あっ、夢か……とぼくは気づき、あおいでいた生ビールのジョッキをテーブルに下した。

ゴトッ。

狭い、明るい店内は煙で充満している。店の主人はうちわで焼き鳥の炭をパタパタとあおぎ、カウンターやテーブルに座る客たちはひっきりなしにタバコの煙を吐き出している。
現実がぼくのなかに沁み込んでくる。
どうやら夢じゃない。
たぶん。

目の前では尋(ひろ)が串に刺さった焼き鳥を食べている。
ぼくはふぅと一息つくと、口のまわりについたビールの泡をぬぐい、そんな尋を見やった。
なんだか、子供みたいだなこいつ、とぼくは思う。
実際尋は、あの頃とほとんど変わっていないように見える。いや、もちろんあれから二十年以上経ったわけだから、彼も大人になっている。目尻にはうっすらと小じわが刻まれているし、口のまわりにはやわらかそうではあったけれど、れっきとした大人の無精ひげが生えている。
しかし、それでもやっぱり、尋は何も変わっていない。
うん、そりゃ、彼もたしかに声などは幾分太く、低くなってはいる。
だけど、少々急いたようではあるが穏やかな語り口や柔和な表情、どこか控えめな態度は、あのころのままだ。二十年前の小学五年生の彼が、一日で一気に年を取って、今ぼくの目の前に座っているような、ほんとうにそう錯覚してしまいそうになるほど、驚くほど、彼は何も変わっていない。
といっても実は、ぼくは今日こうして彼に出会うまで、ほんとうのことを告白すると、彼のことなどこの二十年間思い出しもしなかったのだ。
だけどこうして再び出会い、二言三言言葉を交わしただけで、ぼくは彼のすべてを思い出した。

そうだ。うん。
まったく。いやはや。
こいつはこういうやつだったなぁ……

ぼくはそんな尋のその問いかけを受け、しばし彼を茫然と見つめた。
言葉は出てこなかった。
ただ茫然として、何も考えることができず、バカみたいに尋を、すこしうつむいて焼き鳥を食べている尋を、見つめ続けた。


おい?
なんだよ?
えぇ?
いったいぜんたいどういうことだ?
なんで尋の口からその言葉が出てくるんだ?
なんだよ?
まったく。
こいつは俺の心を読み取ったのか?

ぼくはそんなことを思いながら、しばし茫然と尋を見つめる。
それからまた思う。


なんだよ?
ちくしょう。
なんだってんだよ?
あれは俺だけのもののはずだ。
なんでこいつの口からそれが出てくるんだ?
 

ぼくはまるで夢で見る、夢のなかにしか出てこない、そして決して誰にも話したことなどないはずの、例えばある建物とかワンシーンなんかをいきなり他人から話し出されたような時、おそらくそんな時に感じるであろうものと同じ種類の、驚き、違和感を覚え、言うべき言葉をなくして、ただじっと、焼き鳥をほおばる尋のうつむいた顔を見つめ続けた。
そしてそれからぼくは、思わずあたりを見回した。
やはりこれは夢?
なんだよおまえ?いったいなんの権利があって俺の夢、俺の観念のなかに入り込んできてるんだ?
しかしぼくはすぐにこれが夢ではなく、現実であることを、再び認識した。
じゃあなぜ尋がうしおを知っている?
うしお?
そもそもうしおってなんだ?

ぼくはそれを思いだそうとして、宙をにらんだ。

   





二十一年前。
ぼくはちょうど二十一年前の五年生の時に、尋たちのいた小学校を出て、隣町の別の小学校に転校することになった。というのも、新築していた家が完成し、ぼくと家族はその家がある、そちらの方の町に引っ越すことになったからだ。そしてぼくはそれっきり、今日こうして訪れるまで、一度も前の小学校があるこちらの町には足を踏み入れなかった。それどころか、ぼくはどうやらそれ以来一度も、前の小学校のことについては思い出すことがなかったと思う。理由はよくわからない。両親からは以前の友達や学校のことについて話を振られたことがあったのかもしれないが(普通に考えれば幾度かそんなようなやりとりがあったと考えるのが妥当だろう)、しかしその時それに対してどんなふうに答え、どんなようなことを思ったかなど、具体的なことはぼくは何も覚えていないのだ。その他にも、この町でのかつての日々について、なんとなく思いを巡らせ始めるそのきっかけのようなものが、普段の生活のなかでいくらでもあったはずなのだろうが、にもかかわらず、この二十一年を振り返った時、ぼくはこの小学校、そしてこの町のことを思いだして懐かしんだという記憶が、まったくないのだった。
 これは一般的ないわゆる事象といったものに照らし合わせてみても、その範疇に収まった普通のこと、とはとても言えないことであるのかもしれないが、まあとにかくいずれにしろ、ぼくはこの二十一年間、かつてのこの町、そしてこの町の小学校での日々について、思い出さなかったのである。
 ぼくは引っ越しをした隣町で中学校に進み高校に進み、それから大学に通うために四年間東京の方で生活したあと、また町に戻って地元の会社に就職した。それからまた十年あまりが過ぎ、現在に至っている。繰り返すが、その間、今日こうして訪れるまで、ぼくは一度もこの町のことは思い出さなかったし、足を踏みいれることはなかった。
 
それはある日の土曜の昼下がりのことだった。
ぼくは外ですこし遅めの昼食をすませた帰りに、郵便物の確認のために家のポストの口をなにげなく開け、なかを覗きこんだ。そこにはチラシやハガキや茶色い封筒などが確認できた。ぼくはそれらをひとまとめに取り出して玄関扉に向かいながらひとつづつ目を通していった。宅配ピザ、マンションの物件の紹介、美容院の新規開店の案内。
扉を開けなかに入り、玄関脇のゴミ箱にいらないものを次々に捨てていく。そして仕事関係の書類の入った封筒の下に、四角い白いハガキがあるのが目にとまった。ぼくはそれを手に取って眺めた。

同窓会のご案内

ぼくはしばらくぼんやりとそのハガキの字面を眺めた。
 
○○小学校○○年度卒業生 同窓会のご案内
 
あとには時候の挨拶から入り会場となるホテルの名前や最寄り駅の名前も記されていた。
 
幹事 ○○○○

 ぼくはハガキに一通り目を通すと、それを持って靴を脱ぎ玄関を上がりリビングルームに向かった。秋も深まった十一月の昼下がり、家にはぼくひとりだ。母は十年前に、父は三年前に亡くなっている。
部屋のなかには、レースのカーテンを透して、季節的にも、一日の時間的にも、盛りをだいぶん過ぎた、淡い、しかしまだ十分に明るい、白のなかに若干橙色の混じった、日の光が差しこんでいる。
風はほとんどない。ただ、カーテンの下の襞(ひだ)が時おりちいさく揺れる。その揺れは、風で揺れているというよりも、かつての揺れた記憶を、なぞっているかのように見える。光が届かない部屋の隅の方はひっそりと暗く、その暗がりから、暗がりの匂いが漂っていて、その暗がりの匂いを嗅いだような気になるほど、昼下がりの物憂い日差しを浮かべるこの部屋は、静まり返っている。
ぼくはソファーに座り、もう一度ハガキを眺めた。

旧交を温めるべく同窓会を開くことになりました……

ぼくはテーブルの上にハガキを放り出してソファーに沈み込みしばらく天井をぼんやりと眺めた。
しばらくすると、製氷機の氷ができあがりトレイにぶつかる音があたりに響き、ぼくははっとして我に返った。
テーブルの上には白いハガキが載っている。
それはなんだか、この慣れ親しんだ部屋、テーブル、ソファー、茶色いフローリングの床や五年前からそこにある四十インチの薄型テレビのなかで、妙に浮いている。調和した部屋の空気のなかで、その白い、ちいさな、四角いそれだけは、そのなかに混ざろうとせずに、あくまで己の存在を主張している。


目ざわりだな。
異物。
よそからやって来たもの。


どこからだ?


ぼくはしばらくこの調和のなかにまぎれ込んだ白い四角いそれに視線を注いだあと、あきらめてもう一度ひったくるようにそれを手に取った。
外国語が書いてある。
ぼくには、そこに書かれた小学校やホテルの最寄り駅、そしてかつてのクラスメイトの名前が、外国語かなんかのように見えた。いや、というよりもむしろ、その文字の連なりは、なんだか金属かなんかの棒のように見える。そしてそれはどんどん固くなっていってどんどん意味をなくしてゆく。ぼくは顔を遠ざけたり近づけたりしてそれを見つめながら、なんとかそれの心をほぐそうとした。
そして気づいた。
なんのことはない。
ぼくが心を閉ざしていたのだ。
息をひとつ吐いて体の力を抜き、ぼくはその文字の連なりに心を開こうとした。そして根気よく見つめていると、徐々にそれも、心を開き始めた。
途端にぼくは、強い怖れを感じた。
 見たくない。
 するとそれはまたきゅっと固くなり、あっという間に元の金属の棒に戻った。

ぼくはハガキを持った両手を腿(もも)のうえに下ろし、日の光に白く明るく輝くカーテンを映した、目の前のテーブルの、ガラスの天板の表面に、視線を据えた。
そのガラスの表面で、ときおりちらちらと、カーテンの襞が揺れる。
しばらくぼんやりと、そんなガラスの表面に目をやったあと、ぼくはもう一度ソファに深く沈み込んだ。
そして背もたれに頭をもたせかけ、おおきくひとつ、息をついた。
ハガキを挟んだ右手の親指と人差し指をその表面に這わせる。
少しざらざらしている。
ぼくは両の指をその上で強く擦った。
何度も何度も強く擦っているとだんだん指は熱を持って熱くなってきたが、ぼくはかまわず擦り続けた。しばらくそうしているとハガキの擦っている部分は薄くなり破れ、両の指の腹はその摩擦の熱で、皮がむけて赤くなっていた。ぼくはしばらくその赤くただれた指の腹をぼんやりと見つめたあと、意を決してもう一度、その文字の連なりを睨みつけた。
 

○○小学校


徐々にうっすらと、どこかの、校庭の姿が現れてきた。ぼくはまた反射的に心を閉ざした。しかし今度はすぐにまた目を開いた。
校庭は徐々にゆっくりとその姿を現し始めた。
そして今度は教室の姿が現れてきた。ぼくは先ほどよりも強い怖れと抵抗を感じた。しかしぼくは目を開いてそれに身を投げ出した。そして教室もまた、その全貌を現し始めた。
 
小学校だ

ぼくの五年生まで通っていた

ずいぶんと、懐かしい

 ぼくはしばらく、突然現れたその懐かしさに酔いしれた。様々な懐かしい日々の光景がいちどきに押し寄せ、まるでそれがほんとうについ昨日のことのように、いや、さっきまで自分があのクジラ型のジャングルジムで友達と遊んでいたような気がした。校庭の隅にあった焼却炉の熱と匂いが、二十年の時を越えて、目の前にあった。二十年という時の厚みはいったい何だったのか?焼却炉の赤い煉瓦(れんが)の質感や手触り、所々欠けた具合までも、あまりにリアルだった。そう、つい数時間前までぼくはそこにいて、今さっき、そこから家に帰って来たばかりだというように。
教室も廊下も理科室も、窓の下の落書きも、(そう、それは確かにそこにあった)そして、匂い。それぞれの場にあった匂いが、今もぼくの鼻に残っている。
 
さっきのことだ

手を伸ばせば届きそうだ
 
今、そこに出かければ、学校はかつてそのままにあり、友達はあの頃のままそこにいて、実は大人になったというのは、巨大なたちの悪い夢だったのではないかと思えそうな気がした。実際さきほどまでのぼくの日常のリアルは、どこか遠いところに押しやられていた。そして今、ぼくを包み込んでいるのは、単純で素朴な、それでいて果てがなく、輝きに満ちた、世界だった。

どこか遠いところに、そんな先ほどまでの悪夢である日常が、実体をなくして、黒いしみのようにぼんやりと感じられる。

親密な世界。
ぼくはさっきまで、あの教室の前の矛盾のない廊下を歩いていた。そして今、この家に帰ってきた。これまでのすべては悪夢だった。取るに足らぬうそっぱちだった。鼠色に塗られた下駄箱からついさっきくつを取り出して帰ってきたのだ。匂いがまだしっかりと鼻に残っている。帰宅をうながす鐘の音が聞こえる。ついさっき聞いた。あの煙突の向こうの茜色の夕焼けも、ついさっきのものだ。いつも一緒に帰る敦や健太が先に帰ってしまって、今日はひとりで帰らなければならない。どのルートで帰ろうか?あの駐車場を通ろうか?それともあの商店街を歩いてその向こうの踏切を渡って帰ろうか?晩ごはんなんだろう?目の前に食事の支度をする母と部屋の様子が浮かぶ。

そして、時間と共にすこしずつ、それらのリアルさは薄れていった。
そしてずんずんと遠くなり、ぼくはそこにあった匂いも光も陰もわからなくなった。
それらは実体の抜け落ちた影になった。
焼却炉の炎も親密さの影だけを残し、確かな現実のなかでの力強さと輝きは、もはやなかった。
 
 


うしお。

うしお?

うしおって?

うしおは消えた。

ああ、消えたんだ。

すとんと、転がるように、()()()へ行ってしまった。

未来永劫、触れることはかなわない。

ぼくらとは、なんの関係もなくなってしまった。

ぼくはおもわず足の力が抜けて、その場に崩れ落ち、しばらくなにも考えることができなかった。

世界は白々しく、平板で、張りぼてのようだ。
       





翌日。
ぼくは電車に乗りあの町を目指した。
二十一年ぶりに。
同窓会は一週間後だったが、ぼくは町を目指した。
そして車窓からかつてよく目にした景色が飛び込んできた。
一瞬かつての輝きがパッとその町並に閃いたが、それはすぐにその町並自身のなかに沈んでいった。そしてそれはそのまま深く、底の方に沈滞し、いくら目をこらしてももはや浮かび上がってはこなかった。
それはたしかに、かつて子供のころ、よく目にした景色だった。しかしまた、よく見かける景色でもあった。
昨日も見た。同じような町並みを。
似たような建物はどこにでもあるし町並みもよくあるものだ。ぼくはかつてのこの町の形をよく憶えていて、たしかに町は、今もその記憶に近かったのだが、一瞬の輝きが散ってしまうと、いかにもそれは平凡なものに見えた。どこにでもある町。ぼくはそれでも学校の周辺まで行けば違うのではないかと
期待にすがりついて、電車を降りバスに乗りかえ、学校の最寄りの駅を目指した。
そしてバスの車窓から見える景色も、確かに見覚えはあった。当時あったコンビニエンスストアがまだあったりして、そこにかつて貼られていた映画のポスターを眺める自分が一瞬甦ったりした。
しかし、その甦ったポスターの若い男女とその周囲を覆うコンビニの空間、それから雑誌のコーナーのガラス張りの向こうに見える町並み、それらのなかにあったかつての空気もまたすぐに沈んで、目の前にあるのは、取るに足らぬどこにでもあるコンビニ。実際それはほんとうにどこにでもあるコンビニ。ぼくはそれとぼくの家の近所のコンビニの区別がつかない。
バスが駅に着き、ぼくは学校への道を歩いた。細い道の両脇に並ぶ工場から金属の焼ける匂いが漂っている。また一瞬、広々とした永遠の感情が込み上げそうになったが、それもまた、ほのかな懐かしさは残しながらも、単なる金属の焼けるあたりまえの匂いに落ち着いた。
道は思っていたよりも狭かった。ぼくの背がだいぶん伸びたせいだろう。学校はだんだん近づいてきて、景色もそれにつれてより見覚えのあるものになっていったが、ぼくの失望も、より大きなものになっていった。
二十年以上経ってはいたが、それらははっきりと見覚えのあるものだった。
しかし同時にありふれたものだった。
角のスーパーもラーメン屋もガードレールも、緑色に塗られたアスファルトも、はっきりと記憶に刻まれてはいたが、ぼくは昨日訪れたスーパーや、先月食べに入ったラーメン屋、ぼくの家の前のガードレールやアスファルトとそれらとの間に、違いを見出すことができなかった。
やがて学校に着き、ぼくは校門の前に立った。
日曜日だったせいか、そこには人気がなく、閑散としていた。
長い月日が流れたのだろうが、そこから見える学校の姿かたちは、かつてとほとんど変わっていないように見えた。
ぼくは道を引き返し、バスの停留所に向かった。停留所のベンチに座りながら向かいの民家をぼんやりと眺めた。もう一度ぼくは周囲の風景に視線を這わせ、そこにかつてあったはずのものがするりと顔を出すのを期待した。
しかしどこまでもそれらは昨日までと同じ塀や駐車場や民家や道だった。
ぼくはあきらめて暗い気持ちでバスがやって来るのを待った。
停留所には他に客はいなかった。
目の前の道を車が行き交い、それらのエンジンがうなる音と、タイヤがアスファルトを踏みつける音以外、ほとんど音らしい音はなく、周囲はひっそりと静かだった。


視線。


左側、三、四メートルほど離れたところから、誰かの視線がぼくに注がれている。ぼくは体をそちらにねじると、()()を確かめた。
そこには、ひとりの男が立っていた。

ぼくはその男を見て、一瞬とまどいを覚えた。
だいたいぼくはある人を目にしたりすると、その人がいま人生のどのあたりに位置しているのかが、つまり、だいたいのその人の年齢というものが、ぱっと頭に閃くたちなのだが(もちろんそれは少し、あるいは大きくはずれることもある)、ぼくはその時その男に対してそれが閃かず、反射的に年齢を特定しようとするぼくの試みは足をすくわれて転倒し、ぼくは思わずめまいを起こしてよろめきそうになった。
なんというか、その男にはどの年齢も当てはまらないような気がした。
つまりぼくは、男を人生のどの地点にも見出すことができなかったのだ。
だから、八十才と言われればそうなのかもしれないし、実は彼は五才なんだよ、などと言われとしても、そうなのかなと思ってしまったかもしれない。
男は紺色のトレーナーに、下も紺色のスウェットのズボンをはいている。
そして茶色いシャワーサンダル。
十一月の、今日のように肌寒い日には、彼の服装はどこか場違いなものを感じさせる。ぼくは薄手のコートをはおっていたが、それでもすこし肌寒かった。
男はそんな自分を特に変だとは思っていないらしい。
柔和な笑みを浮かべてぼくを見ている。
うっすらと無精ひげ。

見たことがある。

ぼくは目の前のこの男に既視感を覚えた。
男のなかに吸い込まれてゆくような感じがした。
すると男は笑みを大きくして、ぼくの名前を呼びかけ、
「何してんの?」とぼくに問かけた。
そしてとたんに、ぼくは思い出した。

尋。

突然に、尋はぼくの目の前に現れた。
小学校の同級生の、尋。
この町の、五年生まで通っていた小学校の、同級生。
そんな彼を、ぼくはあっけに取られながら、じっと見つめた。
そして彼は、まるでついさっき学校で別れたあと、たまたまここで見かけたからぼくに声をかけたというような、そんな様子をしているのだった。
「帰んの?家?ひとり?」
尋はそう言うと寒そうに両腕を体に巻きつけ、ぼくが座るベンチの端に腰をかけた。そして両足を前後にバタバタと動かし、寒いなぁとつぶやいた。
目尻にこじわが見えた。口のまわりには無精ひげがうっすらと生え、スポーツ刈りの頭髪は、M字型に少し後退している。やはりぼくと同じ、ちょうど三十すぎぐらいの男だ。
しかし尋は、かつての尋だった。
今ぼくは、それに気づいた。
彼は何も変わっていない。
ぼくは足をばたつかせ、両腕で体を抱きかかえながら、少しうつむいて震えているその柔和な表情の向こうに、あの頃から何も変わっていない彼を見た。
尋は相変わらず足をばたつかせて体を抱きかかえながらガタガタ震えている。ぼくは羽織っていたジャンパーを彼の肩にかけた。
彼はしばらくしてぼくの方に顔を向けた。
昔のままの顔だった。


「家、近所やったっけ?」
ぼくはそんな彼につい引き込まれて、さっき別れて今たまたま会ったような感じに質問した。
彼はうれしそうにニッコリと笑うと、「知っとるやろ? すぐ近所やん」と言って、顎で向こうの方を指し示し、ぼくの目をまっすぐに見た。
ひどく懐かしそうにしている。そして彼は目をそらさずにぼくをじっと見つめた。ぼくは少々気まずくなって視線をそらし宙を仰いだ。
「それ貸したるわ。腕通しィ。」
もう一度尋の方を向いてぼくは言った。
尋は今初めて自分の背中を上着が覆っているのに気づいたのか、チラッとそちらに目をやると、感謝の表情を浮かべてそれに腕を通した。

尋は無口だった。ぼくの隣で穏やかな表情を浮かべて道路向こうの民家の壁を見つめている。ぼくも特に何も話さず黙っていた。
空は明るく、あたりには一面に日が差していたが、風は冷たく、冬の気配を孕(はら)んでいた。ぼくらはそんな明るく冷たい、そしてすこし微睡(まどろ)んでいるような、眠たくなるような空気のなかで、互いに無言で、互いに顔を見交わすこともなく、赤色をした粗末なプラスチック製のベンチの上で並んで座り、しばしの時間が流れた。



熱い夏の日差し。


隣では直樹が手のひらに緑色をしたアマガエルをのっけている。
全身真っ黒に日焼けして、Tシャツの襟元には、細かい汗粒が、日の光にきらきらと輝いている。
左側、二メートル程の高さの鉄道の線路の高架にうがたれた、人がひとりかがみながらやっと通れるほどのトンネルのすぐ向こうには、真っ白な砂浜、そして太陽の光を反射して目がくらむような海。目の前には、あちこちさびついて赤茶けている、トタン性の壁で覆われた古ぼけた納屋。降り注ぐ太陽の熱で、それに紙でも触れると、紙は炎を上げるのではないかと思えるほど、発熱している。
草の青いツンとする匂い。
蝉の鳴き声。
他の生徒たちはもう集合していて、お前ら何やってんだというような非難がましい目つきで、遠くからぼくらを見ている。ぼくと直樹はどこか反抗的な気分になっていて、まだそっちには行かず、直樹の手のひらの上の蛙を指先でなでたりしている。
直樹は白くとがった八重歯をむき出して笑っている。
鼻の頭にもその下にも汗がちいさく丸くゴマ粒のように吹き出していて、坊主頭には、まとわりついた汗が太陽の日差しに白く輝き、赤黒く日焼けした顔の上をつるつるすべってゆく。突き出た頬骨のうえには薄紙のような皮がぺらぺらと浮かんで、今にもめくれそうになっている。そしてその下には真新しい、ピンク色をした、どこか内臓じみた質感のつるりとした肌。
直樹が手のひらの蛙をポンと向こうの土のうえに放り投げた。
蛙は地面に落下し、しばらくそこで手足をもぞもぞと動かしたたずんだ後、ぴょんぴょんと向こうの方に跳ねてゆき、そして草むらのなかに消えた。
頭上からは強烈な熱線が降り注ぎ、あたりの、日に白く輝く海面、ふつふつと焼けた、火を噴きそうな赤茶けた線路、暑さが増すにつれ、その生命力を、その碧さを、強くしているような、セイタカアワダチソウの、青臭い濃密な匂い、その草いきれで、ゆらゆらと滲む視界、それらが織りなす夏の世界を、蝉の声がミンミンジージーと、隅々まで満たしている。
ぼくは額の汗を拭う。
真っ青な空。
そこに浮かぶ、真夏の持て余したエネルギーが流れ込み形をなしたかのような、真っ白な、はち切れんばかりの、積乱雲。
風が吹いて、砂を舞い上げ、そのほこりっぽい匂いが鼻を刺激し、目のなかに入り、ぼくは目をぎゅっと閉じる。


目の前ではぼくが舞台上で笛を吹く練習をしている。
広い部屋にはたくさんの様々な楽器が置かれ、グレーのリノリウムの床は天井からの蛍光灯の光を反射してつるつるとした光沢を発している。
白い壁。
窓の外に見える高い鉄塔。
舞台横の扉を開けると、狭い白い壁に囲まれた、螺旋状に下ってゆく、非常階段。
匂い。匂いがする。この部屋独特の匂いが。
この部屋の匂い。
窓から見える町並み。
目の前の道路沿いの、祠のなかのちいさな石のお地蔵さん。
黒く重い遮光カーテンのさらさらとした手触り、匂い。



ちぃちぃと鳥の声。
空が抜けるように青い。
尋の方に目を向けた。
ぼくはゆっくりと立ち上がって尋を見下ろし、「ちょっと歩こか?」と誘った。尋はうなずき、ぼくらは学校の方角へ向かってすこし散歩することにした。並んで立つと、ぼくは尋より頭ひとつ背が高かった。ぼくは背が高かったし、尋は小柄な方だった。しかし尋はそんなことはまったく意に介していないようだった。あの当時はといえば、ぼくは背が低く、尋よりちいさかったのだが、彼からは「背が伸びたね」の一言もなかった。ほとんど彼はそのことに気づいてさえいないようだった。
昼下がりの空気のなかに踏み出しすこしして、ぼくはある変化に気づいて足が止まった。
空気が変わっていた。
空から矛盾が消えていた。
向こうの工場の白い壁は、白い壁だった。かつてのように。
ぼくはその空気のなかに、しばらく茫然と立ち尽くした。風がほほをなでる。ぼくはその風に触れられそうな気がした。同じ世界に属するものとして。
それからぼくらはあの路地に足を踏み入れた。ぼくは夢のなかを歩いている心地だった。こんなことが現実に起こるわけがない。しかしそれはまぎれもない現実だった。錆(さび)色のシミの入った工場の壁が、そこから漂う鉄の焼ける匂いが、家の玄関前に置かれた鉢植えの百日草が、ぼくと同じ世界に属するものとして、かつての輝きを開示し、さっきまでの渇いた世界を彼方の彼岸へ押しやっていた。
まぎれもなくこれがリアルだった。
ぼくはこの世界のなかに自分が属しているのを感じた。
 ぼくは部外者ではなかった。
 属し、守られている。
 踏みしめるアスファルトの地面は、確固たるぼくの足場であり、ぼくを支えている。ぼくがここにあるように、家々や道や空はそこにあり、ぼくらはおなじものだと感じる。
今、世界はぼくを同一のものとして包み込む。
世界はどこまでも広大無辺だが恐れることはない。
 ぼくと世界は()()()()()なのだから。
 ぼくは確固たるアスファルトの上を歩き、世界はその輝きを仲間であるぼくに惜しみなく開示している。

尋が家と家の狭い隙間に入っていった。
ぼくもそのうしろに続いた。
幅は一メートルほどだろうか?もっと狭いかもしれない。尋はまったく躊躇(ちゅうちょ)することなくその狭い隙間をずんずん進んでゆく。
家の壁の上部を日の光が白く照らしている。
ぼくらがいる地面のあたりは、空気が淀み、暗がりが溜まり込んで、様々なものたちが湧き出している。そしてそれらが発する臭気が、あたりを支配している。
ぼくは黒い黴の生えたざらざらした家の壁に手を這わせながら歩き、時おりその匂いを嗅いだ。
饐(す)えた匂い。
上を見上げると家と家の狭い隙間に抜けるような青い空。
壁の上部には白い日の光。
ぼくらのまわりには淀んだ暗がりと、そこから湧きだしたものたちの発する臭気。
外は日の光が照らしているのだろうが、ぼくらは今その光の届かない、未知のものたちが支配するこの臭気のなかを歩いている。暗がりに湧き出したものたちが臭気を発している。
この家の壁の奥にも延々と暗がりは続いている。そして臭気はその奥のほうから漂ってきている。
この道はどこに続いているのだろうか?
 迷路のように入り組んだ路地を、尋はずんずんと進んでゆき、時おりこちらを振り返った。
ぼくはもうほとんど自分が何者で年がいくつだったかも忘れて、ただ前をいく男のあとをついていった。
男は分かれ道に来ても何ら迷うことなく道を選び取り、するりとそこに入っていった。
道は暗さを増しているように見えた。いや、暗さの質が変わってきているように思えた。
頭上には家と家との狭い隙間に青い空があったが、それはなにか先ほどまでの空とは違ったものだった。
変化しない空。
空は色を変えず、薄青いまま、この陰の町を覆っている。
陰の町。
 真っ黒な家々の壁。
 頭上にはその真っ黒と真っ黒の狭い隙間に青い動かぬ空がある。
風は吹かない。
 音は、ぼくと前をいく男のカツカツと響く足音だけ。
この男はいったい誰なんだろう?
 男はぼくを導くように前を歩いている。
 陰のなかを。
 迷うことなく。
 ぼくが勝手についていってるだけなのだろうか?
 彼が、導いているのだろうか?
ぼくはなぜ彼の後をついてゆくのだろう?
両側には黒い家々の壁がぼくらに覆いかぶさるように聳(そび)えたち、その狭間の上空には、青い、動かぬ空。
男はずんずんと歩き、道はどんどんと狭くなる。
 暗い。
 空の青以外はすべて黒で塗りつぶされている。
 ぼくの少し前をいく男の姿がその暗闇のなかにぼんやりと浮かび、男はその暗闇のなかでも迷いも躊躇もなく右に左に路地を入ってゆく。
 聞こえてくるのはザッザッと地面をこする目の前の男の足音と、ぼくの静かな息遣いだけ。
 ぬらりと
 暗闇が全身に纏(まと)わりつく。
 家々は暗闇で覆われ、今や微かな白い輪郭を時おりちらりちらりとその暗闇のなかに閃かせるだけになっている。
 空は相変わらず頭上の狭い狭間にある。
 雲が流れている。
 いつのまに動き出したのだろうか?
 道はどんどん狭くなり、とうとう体を横にしなければ進めなくなる。
 今では男はこちらを振り返りもせず、もちろんひとことも言葉を発さず、体を横にしてなおも進んで行く。
 空が青い。
 前を男が歩いている。
 真っ暗な向こうに真っ白な強烈な光。
 ぼくは男のあとについて、その光を目指して進んだ。   



両膝に手をついて、地面をにらみながら激しいあえぎと混乱が収まるのを待った。
周囲は明るい世界。
まぶしい太陽が、斜め上から世界を遍く(あまね)照らしている。
ちらりと向こうの方に目をやると、学校の屋上が見えた。
ぼくは目を閉じ、息を整え、心を落ち着かせた。
それから目を開けて、尋の方を見た。
 尋の様子は変わらない。さっきとなんらも。
穏やかに微笑んでいる。
 ぼくはなんだか、どこかに何かを置き忘れてきてしまったような妙な違和感や焦りのようなものを覚え、思わず後ろをぐるりと振り返った。
 古い昔ながらの家並みが続き、その向こうの方には青い空のなか、高い灰色の煙突が聳えている。
 ぼくはその向こうに、置き忘れたものを思い出そうとじっと目をこらした。
 しかし実際は、ぼくはなにも考えていなかった。なにも、考えられなかった。
 そして気づくと、煙突の向こうを見つめるぼくの両目からは、ボロボロと涙が流れ、口元からはちいさく嗚咽(おえつ)がもれていた。
 

「学校行ってみる?」
 

 尋が向こうに見える学校の屋上の方を指さして言った。
 ぼくはそちらに視線を移した。
 
 町並み。
 
 ぼくは町並みに視線を這わせた。
 斜め左側に立つ平屋の家の暗い窓ガラスに。
 角の駐車場の金網に。
 自動販売機に。
 そして黒いアスファルトに。
 
 向かいのパン屋。
 明るい店内。
 レジには白衣を着た店主、陳列棚の前でパンを選ぶメガネのおばさん。
 ぼくはガラスの自動扉の前に立ち、なかに入った。
「いらっしゃいませ」と店主。
 おばさんがちらりとこちらに視線を向ける。
 ぼくは店を出て、もう一度世界に目をやった。

 向かいの家のガレージの緑色のシャッターに手を触れる。

 壁が、消えている。
 我々の間を隔てる
 壁が

 周囲を見渡す
 空を見上げる
 青く広大な空が広がる

 いつの頃からか、底なしに見えるようになっていたはずの空が、そうは見えない。

 それは、ぼくと同一のものに見える。
 ぼくの続きに。


 ぼくはここにいる。
 そして彼らはそこにいる。
 喫茶店のメニューボード。
 同一だ。
 そんなことは
 かつて子供の頃、意識したこともなかった。
 あたりまえだった。
 ぼくはは周囲の事物を眺めやった。

 それらには、
 優劣や美醜などはあるかもしれない。
 しかし我々の間の差異など微々たるものだ。
 我々はそれぞれの形を持っている。
 それだけのことだ。
 違いなどないに等しい。
 こんな我々を覆う輪郭など、夢のようなもので、そのうち崩れ去るに違いない。
 
 だけど
 やっぱり
 そう簡単に崩れてもらっちゃ困る。
 だってその方が楽しくないか?
 ぼくははぼくで、君は君で、その方が楽しくないか?
 何を恐れる必要がある?
 我々は同一なのに。
 世界とぼくは同一なのに。

 世界は広大無辺。
 だけどどこまで行ってもそれはぼくの続き。

 底なしの世界。
 その奥底からぼくを脅かすもの。
()()()()()()()
 それが彼方の彼岸で滲んでいる。
 取るに足らぬ悪い夢。


 ぼくは尋をうながし学校に向かって歩いた。
 足元の地面はぼくをしっかりと支えている。信頼。自然な信頼。幼い頃父や母を信頼したような自然な信頼。守護。周囲の事物はぼくに心を開き、ぼくも彼らに心を開き、それはとても自然なことで、ぼくはその鮮やかさと親密さのなかを、確かな大地を踏みしめながら歩いた。どこに行く必要も感じない。行かなくてもいい。ここはぼくの場所だ。

 学校の前に立った。校門の前にグラウンドがあり、その向こうにグレーの校舎。尋はその校舎を眺めている。そしてぼくに目を向けた。まるっきりあの頃のままだ。今やその顔に刻まれた年輪さえもほとんどその奥へと追いやられ、二十年前の、あの頃の尋にしか見えない。
 
 ぼくは校門の向こうに視線を注いだ。今日は日曜でグラウンドには誰もいない。閑散としている。しかし、鮮やかに蘇る。かつての日々が。ジャングルジム。焼却炉。自転車置き場の錆びついた粗末なトタン性の屋根。
 昨日、いやついさっきまでここにいなかったか?すべてはこんなに懐かしいのに、ついさっきまでここにいたような気がする。あのジャングルジムにぶらさがっていたような気がする。焼却炉の炎の熱が顔を灼く。ものが焼ける匂い。グラウンドのほこりっぽい匂い。学校の匂い。
 二十年の月日を、飛び越えてしまった。
 ぼくは居ても立ってもいられず、「入ろう!」、と尋の腕を引っ張り校門の敷居の上に足を踏み出した。
 手に重さがかかる。
 ぼくは尋の方を見た。
 尋はぼくに腕を引っ張られながら、そこを動かず足を揃え、立っている。きょとんとした顔をして、ぼくを見ている。まばたき。ぼくはもう一度軽く腕を引っ張った。動かない。足は揃えられ、地面の上に根を生やしている。パチパチとまばたきを繰り返しながら、ぼくを見つめている。
もう一度すっと、彼の腕を引っ張る。
 足の裏の下、地中深く杭が打ち込まれているように、その揃えられた両足は同じ場所に据えられ動かない。
 また腕を引っ張ってみる。
 動かない。
 もう一度。
 動かない。

 ぼくは手を離し、一歩後ずさった。
 尋はしばらくぼんやりと、先ほどまで握られていた右腕を上げた状態のまま、ぼくを見つめ、パチパチとまばたきを繰り返した。
 それから学校に目をやった。
 学校を見つめている。ぼくは「尋」と呼びかけた。四秒ほどが経過した。尋はくるりとこちらを向いた。じっとぼくを見ている。しかしぼくが彼の視界から体を外しても、彼の視線はぼくを追わないだろう。いや、あるいは追うのかもしれない。どちらでも同じことだ。
 尋は両手を握り合わせ、揉みし抱き始めた。
 尋が両手を揉みしだきながら、周囲に視線を這わせる。
 そしてひとしきりまわりを眺めまわすと、揉み合わされた手の動きはとまり、無表情に静かに、うなだれた。
 顔を上げ、尋はぼくに視線を向けた。
 ぼくは思った。
 ぼくが今ここで暴漢に襲われ刺し殺され、その血しぶきが彼の顔を汚したとしても、彼は眉ひとつ動かさないだろう。
 それの意味するものは、彼のところまでは届かないだろう。
 そして彼は、何事もなかったようにまた周囲を眺めまわすかもしれない。顔に点々と赤い血糊を張り付けたまま。そしてあの枝にとまった緑色の小鳥に目を向けるかもしれない。小鳥は飛び立ち、巨大な、オレンジ色にゆらゆらと滲む、夕日の真ん中に、吸い込まれてゆき、それを見つめる彼は、乾いた短い笑いを漏らすかもしれない。そして鳥が夕日のなかに消え、しばらくすると、また周囲を眺めまわすかもしれない。

 もう一度うつむく。
 そして、両手はその彼の目つきとは反対に、彼とは別の生き物のように、まるで二匹の蛇が絡まりながら格闘しているかのように、盛んに擦りあわされ始めた。顔を上げてぼくを見た。揉みし抱く手のスピードが落ち、それは彼の元へと還っていった。
 ぼくを見つめる尋の呼吸が荒くなっていった。握り合わせた両手の動きがとまり、ぼくをじっと見つめている。目は大きく見開かれ、怯え?目には激しい怯えの色がある。唇は、細かく震えている。顔は、死人のように、真っ青になっている。そして怯えが、彼の全体を硬直させ、生きているものには必須のあの自然な流れが奪われている。
 彼の後ろに底のない闇が見える。果てしない闇が見える。不可解な闇が見える。彼を飲み込んでいる闇が見える。そして闇は彼を遠くへ、遠くへ、ずっと遠くへ、押し流そうとしている。彼は、卑小で、ゼロに近く、ちっぽけで、致命的に、

 
〝よそ者〟だった

 
 そうだ
 ぼくらはみんな
 この世界のなかで
 絶対的に
〝よそ者〟なのだ

 
 よって
 他者である〝無限の世界〟の
 餌食でしかない

 
 尋は目を見開きぼくに縋りつこうとした。
 ぼくに向かって手を伸ばした。
 ぼくははおもわず一歩後ろに身を引いた。
 それからぼくは、勇気を奮い起こして、彼の両肩に手を置き、尋!と鋭く呼びかけた。尋はびくりと体を震わせると、奇妙にしばらく体を揺らせて、うつむき、目を見開いたまま、そのまま動かなくなった。
 微かに橙色を帯び、白く滲む夕日の下部が、地平線に、とろりと、触れようとしている。光と闇が、天と地が、あらゆる事物が、ぼくらのまわりで溶け合っている。
 ぼくはそこに立ちつくして、彼が正気に返るのを待った。

 しばらくして、尋の表情が少しずつ穏やかなものに戻ってゆき、その透き通るように青白かった肌にも、赤味が戻ってきた。そしてその穏やかで無表情な顔をゆっくり起こしてぼくに向け、それから周囲を見回した。それからまたぼくに視線を戻した。口を軽く開き、何か言いたそうだったが言葉が出てこないようだった。それであきらめて軽く鼻からため息のようなものを吐き出すと、また少しうつむいた。表情は穏やかだった。ただまた寒くなってきたらしく、体を両手で抱きかかえてガタガタと震えだした。ぼくは尋の腕を取って促し道を引き返した。そんなぼくに向けた尋の顔は、まるで、赤ん坊のようだった。
 
 巨大な夕日はその身を半分程大地に埋めている。あたりも先程よりも薄暗くなっていた。ぼくらはその昼と夜の境界のなかをあてもなく歩いた。先程の尋の異変が、まだぼくの心の片隅に残っていたが、やはり世界はぼくに親密だった。暮れてゆく世界の影達も、とても身近に感じられる。
 
 どこに行く必要もない
 
 ここはぼくの場所なのだ
 
 もはやぼくは先程のことはほとんど頭になかった。それもまた遠い彼岸に霞んでいった。隣では赤ん坊のようになってしまった尋がぼくに寄り添って歩いている。ちらりとそちらに目を向けると、尋は赤ん坊が母を見るような何のてらいもない目をしてぼくをまっすぐに見返した。ぼくたちは歩き回った。そしてしばらくすると尋は元の彼に戻っていた。かつての彼のように口数も多くなってきた。ぼくらは歩きながら二十年前の出来事を昨日のことのようにしゃべった。特にそのことに違和感は覚えなかった。暮れてゆく世界のなかで、ぼくは確かな大地の上を、親しい世界のなかを、歩いた。しかしやはりまったく不安がなかったわけではない。一瞬ぼくの踏みしめる一歩が、アスファルトの上で沈んだような気がした。そしてその一瞬、大地が、世界が、すっとその色を薄くし、遠い彼岸に霞む、取るに足らないものだったあのたちの悪い夢が、その背後にさもリアルであるかのように姿を現しそうになった。瞬間の出来事だ。ぼくは無意識にそれをすぐにどこかへ追い払い、そのまま忘れた。
 
 

 居酒屋の二人掛けのテーブルに座り、ぼくらは酒を飲み、語り合った。日も暮れてきてお腹も空いてきたので、適当に目についた店に入ったのだ。店は狭かったが明るく活気があり、人々の笑い声とタバコの煙で充満している。子供の頃父とよく訪れた居酒屋を思い出す。尋がタバコを口にくわえ天井に向かって煙を吐き出す。水割りの氷を斜めに睨みながら、ちいさくカラカラとグラスを揺らす。そんな大人っぽい仕草が時おり彼の幼い仕草の合間合間に顔を出した。トイレに立ち、こちらへ戻ってくる彼の姿を見ていると、ふと現れる目つきや仕草のなかに、かつてはなかった大人の彼の内面が垣間見えた。しかし席に戻り、向き合い、その顔を覗き込むと、そこにいるのはあの頃から何も変わっていない彼で、表情もあどけなく、少し舌足らずな話し方もあの頃のままで、ぼくはすぐにまたあの当時の世界に引きずり戻された。

 彼の大人の所作は彼のうえに時おり思い出したように顔を出し、しばらくむなしく漂う。時の経過と成熟とによって、その身に少しずつ刻まれていったのであろう彼の所作は、彼の子供っぽい仕草の合間合間にふと現れ、なんとか彼の「たましい」にまで接近しようと試みているのだが、彼の「たましい」はそれを拒絶している。彼の「たましい」にはなにかそれらの侵入を拒絶する膜のようなものが張っており、時の経過が成熟がもたらしたのであろうそれらの所作の彼へのアプローチは、結局彼の「たましい」までは届かず、侵入は失敗を繰り返し、彼の幼い無垢な世界はその膜によって外界から守られ、その外側に広がる世界など、彼にとって、実体を持たない無意味な干からびた幻にすぎない。のだろうか。
 
 尋は昔のことばかり話した。現在の彼については何も話さなかった。ぼくも取り立てて今の彼のことについては何も尋ねなかったし、特にその後のぼくの人生についても彼に話そうとは思わなかった。そんなことはどうでもよいことのように思えた。というよりも、ぼくらの時間はあの頃に戻り、そのなかで展開していたのだ。ぼくらの「今」は、二十年前のあの頃だった。だからその「後」などは、存在していないようなものだった。考えてみれば奇妙な話だ。ぼくらはほんとうに昨日の、あるいはつい先程までの話をするように二十年前の出来事を面白おかしく話した。「お前、三時限目やったかな?走っとォ途中でどっか行ったやろ?水飲んどったやろ?鉱もおらへんかったなぁ…… 俺も飲みに行こォ思ったけど……」「あのデブ話長いねん! あれ絶対十分は過ぎとったやろ!?メシ食べ終わったらあと五分しか残ってなかったから結局野球でけへんかったし」「お前食べんの遅いねん」「で、どっちが勝ったん? 輝のほう? ホームラン何本出たん?」
 そしてまたゆるやかに現在の時間に戻る。
 といっても完全に戻るわけでもない。
 あれが二十年前の出来事だとは知っているが、ぼくらはそれとひとつづきの場所にいる。いつだってそこに戻って行ける場所に。ぼくの周囲には、あの頃と同じ空気が取り巻いている。
 


 うしおのことおぼえてる?
 


 そのとき、尋が何気ない調子でぼくに訊いた。

 ぼくはその尋の発した「うしお」という音韻を耳にして、しばし茫然とした後、宙を睨み、うしおのことを思い出そうとした。

 そしてぼくはそれを唐突に思い出した。

 男の子。

 うしおとはちいさな男の子だ。

 なんだ。

 うしおとは人間だったのか。

 なんだよ。

 同級生だ。うしおは。

 小学校の。

 なんだよ。

 人間だったのか。

    






 うしお


 うしおは、

 なにひとつまともにできない子供だった。
 
 うしおは、小学四年生だというのに、体格はまるで六つか七つの子供ぐらいしかなかった。
 
 うしお

 うしおは掛け算がどうしてもできなかった。
 足し算と引き算まではなんとか理解できていたようだが、掛け算になるとどうしてもその仕組みを彼は理解することができないようだった。
 
 うしお

 努力はしていた。
 実際うしおは努力家だった。
 ひとりで口をむぐむぐ動かしながら、紙に書かれた数式を睨み、なんとか理解しようとしていた。
 休み時間も。
 うしおはなんとか、みんなのいるところまで行きたかったのだ。
 
 うしお

 そしてぼくらはうしおのことを嫌っていた。
 どうしてなんだろう?
 うしおもみんなに嫌われていることを理解していた。
 そしてひどく悲しんでいた。
 
 
 これから、世界が()()になっていった、そのいきさつを語ろうと思う。
 いや、違うのだ。
 違う。
 実は、世界が()()になったのは、()()が起こったから、というわけではないのだ。
 ただ()()()()するように、世界は他人になっていったのだ。
 ようするに、()()()()()()、だったのだ。
 つまり()()()()()()()()過程、あるいは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()過程で、()()は起こったのだ。

 そういうことだ。

   

 うしおは嫌われていたが毎日学校に来た。ぼくが記憶する限り彼は一度も休んでいない。なぜそのことを憶えているかというと、ぼくは、いや我々は、そのことを忌々しく思っていたからだ。うしおが毎日学校に来ることを。

 なぜ来るんだ?なぜ毎日来るんだ?たまには休めよ。お前なんか来てもしょうがないだろう?
 その愚直さが、より一層ぼくらの彼への嫌悪と侮蔑の気持ちを強固なものにした。うしおが教室に現れるたびに、ぼくらは不愉快な気持ちになり、彼によってぼくらの今の愉快な気持ちは踏みにじられたように感じた。彼の存在によってぼくらの間を流れる調和が乱されたと。うしおもそのことに気づいているように思えた。教室の扉を開けると、その全員の悪意を感じ取り、うしおはしばらくその場に立ちつくし、目にはうっすら涙が溜まっていた。そのように彼はいちいち傷ついていた。
 
 彼の顔と体には大小無数の傷があった。親に虐待を受けていたのかもしれない。しかし誰もそのことに気を留めなかった。先生たちもそうだった。ぼくらは彼はそういう目にあって当然の存在だと思っていた。そしてその傷の存在がぼくらの彼への偏見をまたさらに強めた。彼はそうされるべき卑しい存在なのだと。そのような扱いを受ける彼はやはり卑しい奴なのだと。その傷のひとつひとつがとても不浄な汚れたものに見えた。彼は汚れた存在で、汚れていないぼくは彼を恐れ憎んだ。その穢れが伝染するのを。同情などは一切なかった。
 しかしこれは普通に考えればありえない状況だ。
 公平な目で見て彼は愛すべき子供のはずだ。
 少なくとも、誰も手を差し伸べないなんてことはありえないように思える。
 しかしなぜだか理由はわからないがそういうことがありえた。
 つまりこの世界(宇宙)ではそのようにして、どのようなことだって起こり得るということなのだろう。
 
 うしおは絵を描くのが好きだった。
 特に恐竜の絵を描くのが好きだった。
 彼は誰にも相手にされないということを知り抜いていたので、みんなの輪に入ってゆくのは諦め、休み時間もひとりで絵を描いていた。
 絵は恐竜のものらしかったが恐竜にはまったく見えなかった。とにかく彼はなにひとつまともにできないのだ。だけど彼は一生懸命描いていた。ひとつひとつの線に愛情をこめて。彼はできあがったそれを誰かに見せたかったであろう。そしてわかち合いたかったであろう。実際性懲りもなく彼は幾度かまわりのクラスメイトの前にそれを広げて見せたことがある。口が重い、というより元来あまりしゃべるようにできていない彼は無言であるクラスメイトの方へと向かい、その丸い目を向けたのだった。幾分震えているように見えた。クラスメイトは彼がそんなそばまで寄ってきたことにぎょっとして驚き、目を大きく見開いて身を固くした。まわりの生徒たちの視線もそんな彼らに吸い寄せられた。選ばれた生徒はまるで生贄にでも捧げられたような気持になったのだろう、上体をのけ反らせて強い不快な様子を示し、「なにっ?」と、鋭い語気を含んだ声で、うしおに詰問した。そしてよせばいいのに、うしおはそのわけのわからない、しかし恐竜への愛の籠った絵をその彼の前に広げて見せた。するとクラスメイトは「だからなにっ!?」と、この卑しい虫けらに選ばれてしまった自身の不幸と屈辱に、顔をさらに歪ませながら鋭く言い捨てると、ありったけの悪意と拒絶を込めて拳を自分の顔の横に、目の前の災厄に対して威嚇するように振り上げた。
 (あっち行けや頼むからっ!なんやねんっ!?なんで俺のとこに来んねんっ!?)
 うしおは唇をぴくぴくさせている。これは彼のくせである。彼は表情に乏しく、いつも同じような顔をしている。だから外からは彼の内面を読み取ることは難しい。しかしその時彼の顔色はまるで死人のように青ざめていた。だがもちろん、そんなことは誰も気にかけたりしない。
 クラスメイトたちはふたりを見ている。うしおはもちろん、うしおが関係を持とうとした少年にも、なにかうしおの不浄が伝染したような目で彼らは見ている。それをうしおに接近された少年はわかっていたので、彼の心はより凶暴になっていた。ありとあらゆる暴言をうしおに向かって吐き、ほとんど殴りかからんばかりになり、興奮のあまり目には涙が溜まり、赤くなっていた。うしおは青ざめた顔で唇をぴくぴくと動かし、くるりと背を向けると自分の席に戻り、そのままじっと目を閉じ動かなくなった。

 冬のある日、午後八時半頃だったろうか、ぼくは習字の稽古から帰る道を歩いていた。
 そしてうしおに出くわした。
 彼は暗いなかを、傷だらけの青ざめた顔をして歩いていた。
 彼は出歩くのが好きな少年である。しかしそれにしてもいったいこんな時間にどこへ向かうのだろう?習い事?そんなわけがない。おそらくどこへ行くという訳でもないのだろう。ほっつき歩いているのだ。彷徨っているのだ。目的もなく。家にいられないのかもしれない。
 背中には黒いくたびれたリュックを背負っている。
 彼はこのリュックをいつも背負っていた。
 彼はこのリュックを異常なほど大切にしていた。
 リュックは彼が生涯で一度だけ、誰かから彼に「贈られた」ものだったのだ。
 誰かは知らない。彼も憶えていないのだろう。物心がつくかつかないかの頃のはなしなのだろう。もしかするとそれは単なる彼の思い違いなのかもしれない。単なる彼の願望なのかもしれない。しかし彼の心のなかには、そのリュックと共に、微かなぬくもりが残っているのかもしれない。たとえそれが単なる思い違いだとしても。彼にはそれしかないのだ。
 だから彼はそれをいつも持ち歩き、大切にしていた。そして毎日濡らしたタオルで時間をかけて丁寧に拭いていた。汚れないように地面には置かず、座るときには腿の上に置いていた。
 そんなリュックを彼は今日も背負いながら、青ざめた顔に虚ろな悲しい目をしてほっつき歩いていた。ぼくは道で霊柩車に出くわした子供のような気持になり(実際当時は子供だったわけだが)、いや、それよりもずっと不吉な気持ちになり、さっと立ち止まると、彼に気づかれないようにそろそろと後ずさりしてその場を離れようとした。
 うしおがふとこちらに目を向けた。
 そして目が合った。
 瞬間的に激しい怒りが突き上げぼくを支配した。
「なに見とんねんっ!」
 ぼくの体は怒りのあまりぶるぶる震え出した。そして右足のつま先でアスファルトの地面を思いっきり蹴りつけた。その時あんまり足を高く上げたもんだから腿の裏が伸びて痛めてしまった。ぼくは「いつっ!」と声をあげて腿の裏を押え、隙を見せた間に禍(わざわい)が近寄ってこないよう上目づかいにキッとそちらを睨みつけ牽制した。それから頭をヒステリックに左右に細かく何度も振ると一刻も早くこの薄汚いおぞましい存在とたった二人で置かれているその共有の場から逃れるためにくるりと踵を返し、一歩一歩大地を踏みしめながら、うしおの穢れの勢力が及ばないところまで逃れるため苦しい前進を続けた。
 かなり進んだであろうか。
 ここまで来ればもう大丈夫なはずだ。
 ぼくはまるで火災にあった建物から命からがら生還した人のように、背後の禍が最早自分から遠く離れたという深い安堵を感じ、膝に両手をついて深く息を吐いた。そしておそるおそる後ろを振り返った。
 遠くの方に、五十メートル程向こうの突き当りの公園の前の道に、うしおはまだ立ってこっちを見ていた。  

 小さい。
 四年生にしては小さすぎる。
 こんな小さな子供がこんな時間にこんなところでひとりぼっちでなにをしているんだ?
 
 暗い通りに立つ街灯の白い明かりのなかに、そのちいさな影はぼんやりとひっそりと浮かんでいる。
 両手は背負ったリュックのベルト部分に握られている。

 まだ見てやがる。
 ぼくは興奮してめちゃくちゃに両手を振り回して罵りの言葉を叫んだ。
 ぼくの心にあったのは、
 こっちを見るな!俺とお前は、

()()()()

 でも大丈夫だ。
 先程とは違いぼくには余裕があった。
 ここまで来れば、
 奴の呪いは届かない。

 うしおはくるりと踵を返すとすたすたとどこかへ去って行った。
 どこへ?
 行くところなんかないのに。


 うしおは恐竜が好きだった。
 それも強くて大きいティラノサウルスがことのほか好きだった。
 どこにでもいる普通の男の子なのだ。
 ある日、ぼくらは遠足で恐竜の博物館に出かけた。うしおは例のリュックを背負い、例によって彼のまわりには誰もいなかった。
 うしおはティラノサウルスの全身骨格の前に立つとそれを見上げた。そしてそれを見上げながら「すげえ、すげえ」と連呼し始めた。
 それは素直な気持ちの自然な表出だった。
 うしおは大好きなティラノサウルスの前に立ち、その剛毅な勇壮な姿に、すげえすげえと一本調子な声で賛美を送り続けた。
 そしてその「すげえ、すげえ」はぼくらの癇に激しく障った。
 智也が、「すげえすげえ」と、いかにも意地の悪い調子で、顔を醜く歪め、うしおの背後数メートル離れたところから、うしおと同じように連呼し始めた。
 その顔は悪意にひき歪んでいた。ぼくも彼と一緒にいて、ぼくは他の二人と四人で行動していた。智也は少しうつむきながら、すげえすげえと歪んだ笑みを顔全体に刻みつけて連呼している。
 ぼくは智也を醜いと思った。
 実際その顔はとても醜かった。
 他の二人もそう思っていただろう。
 しかしぼくら三人もそれに同調した。そしてすげえすげえと共に連呼した。その行為には妙に魅惑的なそれに駆り立てずにはおかない魔力のようなものがあった。
 そしてどんどん楽しくなってきて、ぼくらは声を合わせてすげえすげえと、様々にリズムを変えたり声の調子を変えたりして、時々笑いを堪えきれず吹き出したりしながら、連呼し続けた。ぼくらは心の底でそんな自分たちに多少うんざりし、嫌気を感じながらも(はっきりと意識はしていなかったが)、それ以上に互いの間に妙な親密な連帯を感じ、恐竜を見上げている呪われた子供を罵倒し続けた。
 
 俺たちはあの薄汚いクズをやっつけなくてはならない。

 うしおはとっくにすげえすげえは止めていた。
 そして唯一の拠り所である黒いリュックを背負ったちいさな背中をこちらに向けて、じっと石造のように硬直したまま恐竜を見上げていた。
 あるいはその目にはもう恐竜は映っていなかったかもしれない。
 いや映っていなかっただろう。
 ではその時うしおの目に映っていたもの、心に渦巻いていたものは、いったい何だったのだろうか?
 ぼくは(あの汚ぇリュックが余計むかつくんだよなぁ)と思った。
 まったく、
 バカの一つ覚えじゃねぇんだから。


 そしてある日の昼休み、()()は起こった。

 その日もうしおは夢中で絵を描いていた。
 いつもと変わらない昼休み。
 教室の、一番後ろの席から、直樹がうしおをじっと見つめていた。
 どこか異様な目つきだった。
 小学生というにはその目はあまりにどんよりと落ち着き払い、据わっていた。
 どこかで見たことがある目だ。
 元々少し大人びたところのある少年だったが、その時の彼のうしおに向けた目つきはというと、明らかに異様なものだった。
 彼は悪い奴ではなかった。少々乱暴なところはあったが根はいいやつで友達思いだった。時々乱暴を働くのはやさしさを見せることへの照れの裏返しだったのだろう。悪ぶっているというか。しかしまあ少々アドレナリンが過剰に出ていて攻撃性が他の子供より強かったのは確かだ。
 そんな彼がそういう目つきでうしおをじっと見つめていた。ぼくはそれに気づき胸騒ぎを覚えた。と同時に直樹の敵意も当然だと思い直樹がうしおをやっつけることを期待したりもした。しかしそれにしてもあの目つきは嫌だった。あんなのは直樹じゃない。くそっ!要するにこいつが悪いんだ!頼むからいなくなってくれ!
 なんだかその時ぼくは、突然何もかもが嫌になってきた。
 直樹も、クラスの連中も自分自身も。
 ぼくは机に突っ伏して、まわりから己を遮断した。
 直樹が席を立つ音がした。
 歩く音。
 ぼくは机に突っ伏しながら横目でそちらを窺った。
 冬の寒い日だった。
 灯油ストーブの上でお湯の入ったやかんがカタカタ音を鳴らしながら湯気を上げている。
 ぼくの不安はどんどん強くなっていった。
 そして得体の知れない激しい興奮も、同時にぼくのなかにあった。
 ぼくは()()を恐れると同時に待ち望んでいた。
 何かが決定的に変わる予感があった。
 もう後戻りはできない。
 直樹はそのやかんを手に取るとうしおの背後に立った。
 うしおは絵を描くのに夢中でまったく気づいていない。
 まわりの生徒たちもこれから行われようとしている破局のすぐ手前にいながら、それぞれの遊びに夢中になっている。
 直樹の目はおそろしいほどどんよりと据わっていた。
 子供の目ではない。
 そうだ。
 あれは()()()()()()だ。
 そして目の前の災厄、忌避すべきものをじっと見つめた。
 口の端が邪悪にひき歪んだ。
 そしておもむろに手にしたやかんの沸騰したお湯を、その災厄の上に、そのうなじに、残らずぶちまけた。

  ぎゃあっ!

 鋭い悲鳴が上がり、うしおは床の上を転がりまわった。熱い熱いと叫びながら床の上をのたうち回っている。ぼくは巨大なゴキブリが断末魔に喘ぎながらのたうつようなその姿を、嫌悪と爽快を感じながら眺めた。しかしぼくは同時に、目の前を迫るように、白い高い壁が立ち塞がっているのを感じる。向こう側を見ることはできない。目を塞がれている。向こう側にある何かが、どこか決定的な何かが、ぼくの胸と腹のあたりに鉛を飲み込んだような重さを与え、息苦しくさせているのだが、ぼくはその息苦しさの意味がわからない。
 周囲はいつのまにか静まり返り、ただうしおの悲鳴だけが、教室の四角い箱のなかを暴れまわっている。そしてその四角い箱のなかを動くものも、暴れまわるうしおの体だけだ。あとのものたちはぴくりとも動かない。うしおのうなじは真っ赤に爛れていた。涙と汗と鼻水とよだれと小便を垂れ流しながら苦悶のなかを鋭い悲鳴を上げながら転げまわっている。「熱いっ!熱いっ!うわぁぁぁーーーーー!」
 ぼくは恐ろしくなってきた。
 血の気が引き、体が冷たくなってくるのを感じた。
 悪夢を見ているようだった。
 家のことを想像した。
 父や母の元に帰っても、昨日までのような平和な日々は戻ってこないような気がした。いや、そもそもぼくは父母の元へと帰れるのだろうか?昨日までの、家の親密な無垢な空気のなかで寝ころびながら本を読んでいる自分の姿が浮かんだ。小児科の受付で母と並んで、携帯用のゲームをしている自分の姿が浮かんだ。家に帰れば父や母がいるだろう。しかしそこはかつての家ではない。いやそもそも父や母はちゃんとそこにいてくれるのだろうか?ぼくは家に帰った時の二人の姿を思い浮かべることができない。家のなかは匂いや質感や落ち着きを失い妙に白々とふわふわとしている。なんだかやけに白い。二人も白々と質感がない。顔もない。虚ろだ。
 ぼくは帰るところをなくしてしまった。
 やはりうしおは災厄だった。
 同情は湧かなかった。
 ただ怖かった。
 なかったことにしたかった。
 うしおなんてなかったことになれば、またあの平和な日々に戻れる。

 うしおはのたうちながら教室の何もない角に移動していった。
 そしてその角に背中をぴったりくっつけると体と唇を小刻みに震わせながら目の前の己を脅かすものたちに目を向けた。
 その目には、怒りも憎しみも恨みもなかった。
 彼はそういうふうにできていない。
 ただその目にあるのは絶望。火傷の痛みからくる苦悶。ひとりぼっちであるという孤独。彼ははひはひと乱れた息を吐き、そのアーモンド形の大きな一重の目からは絶望の涙が流れている。傷だらけの顔。彼はその頬に、柔らかく包み込むあたたかな手のひらを求めていたが、そこに加えられるものは常に、深く、鋭い、刃だった。
 彼は大切にされることを知らない。
 そして今、決定的な絶望に突き落とされ、とめどなく涙を流し続けている。
 彼の前にはたくさんの人々がいたが誰も彼を気遣うものはなかった。その時みんなが願っていたのはうしおがいなくなることだった。うしおはそれを感じ取った。激しい火傷を負って助けを必要としている彼の眼前に広がるのは、完全なる無関心、そして彼の消滅だった。うしおは目を閉じた。そして痛みと心細さに耐えた。いつものようにひとりで。
 どうやって?
 このちいさな子供が拠り所もなくどうやって耐えるのだろうか?
 その時、うしおは限界を超えた苦しみにうあぁぁぁぁーーーー… と苦悶の声を漏らした。
 うしおは出口のない闇のなかにひとりで捨てられていた。
 そしてその捨て置かれた闇のなかで何かに、彼にとって、いや誰にとっても絶対的に必要な何かに、それに触れ得ることに、完全に絶望してしまったように見えた。
 自分は永遠に捨て置かれるのだという確信。
 縋ってきた微かな希望は幻想でしかなかった。
 生まれてからずっと幾度も見失いそうになりながらもなんとか持ち続けてきた微かな光、時にそれは大きく彼を包み込んでそのなかに恍惚とすることもあった。やはりこの世界は光に満ちていていつかは自分もほんとうにそこに仲間入りできるのではないか?そんなことをほんの短い時間ではあるが感じることもあった。一時の恍惚が過ぎてしまえばまた捨て置かれた現実のなかで自分という存在に永遠の呪いを感じずにはいられず、その時にはより一層の激しい落胆と孤独と、つながりやぬくもりというものの存在に対する疑いが押し寄せ、希望が飲み込まれてしまいそうになることもあった。しかしそれでも彼は見失いそうになりながらも微かな希望を持ち続けた。自分もほんとうは光の子供なのだと。そして努力を続けた。その足りない能力でなんとかがむしゃらに(そして工夫の足りない)努力を続け、なんとかみんなのところまで行こうとした。そうすればみんなのところへ行けるという根拠は何もない。しかしそうせずにはいられなかった。
 微かな希望だった。
 本気では信じていなかったかもしれない。
 常に疑念はつきまとった。自分は永遠に呪われた子供なのだと。
 しかし信じずには生きていけなかった。
 そしてもう信じられなくなった。
 要するに自分は永遠に呪われた子供なのだ。
 そしてうしおは生きるのをやめた。

 そのあまりに悲痛な声にぼくはおもわず目をぎゅっと閉ざし、両手で耳をふさいだ。
 そしてしばらくして、またそろそろと目を開いた。
 うしおは体中からあらゆる体液を垂れ流しながら静かに目を閉じていた。
 何も感じないようにしている。
 己を殺している。
 体は細かく震えている。
 その顔は死人のように青ざめ、無表情に硬直している。
 顔と体に刻みつけられた無数の傷が、彼の忍耐と信じる力を試し続けてきた歴史を偲ばせた。そして彼はとうとう敗れた。彼は自分の存在を呪っていることだろう。なぜ自分は生まれてきてしまったのか?今すぐ消えてしまいたいと思っているだろう。彼は本来誰よりも、人とのつながりを、生きてあることを、喜びとし、愛する子供だというのに。
 そんな彼が消えたいと願っている。
 自分が生きてあることを呪っている。
 彼は敗れた。
 初めから勝ち目などない戦いだった。
 しかし彼はそれを信じず、今まで戦い続けた。
 いや、ほんとは勝ち目などないと知っていたのかもしれない。
 しかし彼はその思いを殺して戦い続けた。
 自分は光の子だと信じようとした。
 なぜなら彼は生きることを愛していたからである。
 彼は死にながら生きることを拒否した。
 そして戦い続けた。
 そしてとうとう敗れた。
 遅かれ早かれやってくるべき時がやって来たのである。
 彼は今冷たく無意味で誰もいない虚無のなかに、それこそ世界なのだという最早逃れようのない実感のなかに還った。
 彼が信じようとした光は闇の陰にすぎなかった。
 気の迷いにすぎなかった。
 実体などない。
 もはや飲み込まれて跡形もない。
 またふと現れたところで、もう踊らされるのはご免だ。
 硬直した丸い傷だらけの顔のその閉じられた両目からは、いつしか涙の流れはゆっくりと止まってゆき、乾いていった。

 しばらくすると担任の先生がやって来た。
 三十代後半の男の先生だ。
 彼は女と身障者と年寄りと、わき見をしながら細い道を向こうから歩いて来て彼の動線を塞ぐカスと、高速道路の、加速車線から本線へ合流するあの境界線上に壁のように立ち塞り、断固として己の前方においての彼の本線への合流を阻止しようとする、そう、例のあのクソ(結局そのクソの後塵を拝することになった彼がそのあとそのクソのケツを計四五分間にわたり追い回すことになったのは、無理からぬことと言わねばならないだろう)を憎悪していた。
 そんな彼は教室のいつもと違う異様な雰囲気を察知すると、訝し気に目を細め、あたりを見回し始めた。そして彼は隅にうずくまるうしおを発見した。うしおの方へ向かってゆく。見下ろす。うなじに広がる赤く爛れた火傷を発見する。目をさっと逸らすと、「ちっ」と舌打ちをする。うしおの様子は変わらない。まるで石にでもなってしまったようにぴくりとも動かず、透けてしまいそうなほど青い顔をして静かに目を閉じている。ほんとうに石にでもなってしまったみたいだ。
 担任は生徒たちの方に目を向けると「誰だぁ?」と威圧的な声音で尋ねた。後ろの自分の席に戻っていた直樹が、椅子にだらしなくもたれかかりながら、ふてぶてしい態度でゆっくりと手を上げた。担任は教室の外を顎でしゃくると「立ってろぼけっ」と命令した。直樹はギ―ッという耳障りな、椅子の脚と床が擦れる音を長く引きずり、だるそうな様子で立ち上がると、できるだけゆっくりと、足を引きずるザッザッという反抗的な音を立てて歩きながら、そのまま教室を出て行った。うしおを見下ろした担任が、立てるか?とうしおに訊いた。青白い石になったうしおは答えない。もはや誰の声も彼には届かない。担任は鼻から軽くふぅと息を吐き出すと、無造作にうしおの腕をつかみ、引っ張り上げ、引きずるように教室を出て行った。
 うしおは人形のようにされるがままになっている。
 涙はとうに干上がっていた。





 災厄は去った。


 ぼくは安堵の息を吐いた。
 これでまた平和で親密な日々が戻る。
 父や母の元へと帰れる。
 クラスメイト達を見回した。
 ぼくの心は晴れなかった。
 彼らが他人のように見えた。 
 父や母も。
 ぼくを取り巻く世界すべてが。
 一過性のものだ。すぐに元に戻る。
 だがぼくは生まれて初めて、死の恐怖にも似た、世界の底なしの穴をのぞきこんだような気がした。
 世界に穴が開いている。
 その時、ぼくは初めてそのことに気がついた。
 世界には穴が開いている。
 しかし、翌日になってみるとすべては元に戻っていた。
 そしてぼくは子供らしい無邪気さで悪夢を忘れた。
 しかしそのころからだろうか。少しずつ少しずつ、世界は、やはり、他人になっていった。あるいは、元々それが他人であったことに気づきだした。
 しかし今思えば、世界が他人に、あるいは他人であったことに気づくようになるのは、避けられなかったのだと思う。
 いずれにしろ、世界はそうなったであろう。
 うしおが消えたことと、そうなったこととの間に、直接的な関係があったわけではないだろう。
 ただ、世界は他人になり、それと並行するように、うしおはひどい目にあい、ごろんとどこかへ消えたのだ。
 いつ消えてしまったのかはわからない。
 はじめっからそんなものはいなかったのかもしれない。
 ぼくはうしおがそこにいると思っていた。
 そう思い込んでいただけなのかもしれない。
 
    *

 ところで、ここまでうしおのはなしに耳を傾けていただいた男性、加えて、男性的精神を心の中心に据えておられる女性のみなさんは、ずいぶんとしらけた気分になっておられるであろうと想像する。
 いや、というか、もう聞いてなどおられないかもしれない。
 というのも、これを語っているこのぼく自身ですら、のちにもう一度これを思い出すことがもしあるとしたなら、そのうち二回に一回は、ずいぶんとしらけた気持ちになってしまうであろうことを、冗談で言っているわけではなく、ほんとうにふざけて言っているわけではなく、ほぼ確信しているからである。
 
   *

 そう。いずれにしろ、それっきりうしおは学校に来なくなった。
 忽然と、いなくなったのだ。
 今思い出せばのはなしだ。
 その頃ぼくらはそのことに気づかなかった。
 妙なはなしだが、ぼくらはうしおがいなくなったことをなんとも思わなかった。
 気がつかなかったのだ。
 先生たちからも何の説明もなかった。
 まるでうしおなど始めっからいなかったかのように、その後もすべては進んでいった。
 そしてもちろんぼくには、あの日うしおが先生に連れていかれてから、うしおのことを思い出したという記憶が今振り返ってもない。(まったく、転校してからはこの小学校のことすらぼくは思い出さなかったのだから。しかし小学校のことを思い出さなかったのはたしかにおおいに不可解なことではあると思うのだが、だがいうなれば、それは思い出さなかったというだけのことなのだ。しかしうしおの場合は……)
 みんなそうだった。
 これは確信を持って言える。ぼくらは誰一人としてうしおのことを思い出さなかった。
 うしおなんていうものは始めっからいなかったとでもいうように。
 やはり、ぼくの思い込みだったのかもしれない。



「うしおって突然いなくなったよね?」
 ぼくは尋に言った。
 そうだ、じゃあなぜ尋がうしおを知っているんだ?
 尋はぼくの顔に目を向けた。そしてコクリとうなずいた。
 そしてすっと視線を逸らし、
「時々見かけるよ」とぼそりと呟いた。
「どこで?」
 ぼくはテーブルの上に身を乗り出すようにして彼に尋ねた。
 尋がぼくの方を向いた。
 その顔は異様に青かった。
 しかし酔っていたせいだろうか、ぼくの意識はずいぶんとぼんやりしていた。そして居酒屋にいてまわりは賑やかだったが、それらはあまり自分とは関係のないことのように思えた。今、ぼくに関係があるのは目の前の尋だけだった。そして尋のその顔の青さは特に気にはならなかった。なにかここでは当然のことのように思えた。だからぼくの顔も尋と同じように真っ青になっていたのかもしれない。
 尋はぼくの顔をしばらく見つめたあと、「歩いてるの時々見かけるよ。あの黒いリュックを背負って。あのパン屋の前も歩いてたよ」と言った。
 尋は死人のように青ざめている。
 しわも髭もいつのまにか消えている。
 ぼくもこんなに死人のような青い顔をしているのだろうか?
 少し心配になったぼくは両手を目の前にかざしてその裏表を交互に観察した。ぼくの両手にはしっかりと赤味が刺していた。ぼくはほっと安堵の息をついた。そして尋に目を向けた。
 青い。
 ああ、彼はあっち側の人間なんだなと、ぼくはぼんやりと思った。そしてぼくはそんな彼を気の毒に思った。しかしぼくにどうこうすることはできない。ものごとはなるようにしかならない。ものごとの摂理にぼくごときが反逆することはできない。わかりきったことだ。
 赤いぼくは青い彼に話しかけた。
「どんな様子だった?」
 青い彼は言った。
「いつものとおりだよ。ひとりで歩いてたよ。あのリュックはいつも一緒だよ」
 そう言って尋は懐かしそうに薄く笑った。
「話しかけたことはある?」とぼくは訊いた。
 青い人はぼくの顔を無表情に眺めた。
 そしてしばらくそうやってぼくの顔を眺めたあと、頭を少し傾け、ぼんやりとした目をして、髪に右手をやった。
 それからゆっくりと、彼は、それを掻きむしった。
 掻きむしっている。
 そして時おり掻きむしる手を止め、ゆるゆると目だけ上を睨むようにして、何かを考えているのか思い出そうとしているのか、その目つきは、異様なほど真剣で、切実なものに見えた。 
 
 
 彼は膜のなかのひとつの独立した世界に住んでいる。
 

 指先が、頭皮をつかむように食い込んでいる。
 唇はなにかぶつぶつと呟くようにちいさく動いている。
 そしてその口の動きが止まると、目が、異様な力を帯び、刺し貫くように一点に据えられた。
 頭皮に食い込んでいた指の力も抜け、ただその目だけが異様な力を孕んで、一点を、突き破ろうとするかのように、まばたきもなく、異様な真剣さと切実さで、睨みつけていた。
 そしてやがて、その力が少しずつ抜けてゆくと、まるで空っぽになった。
 抜け殻のようになった。
 そして尋はその空っぽになった目をぼくに向けた。
 しばらくするとまた元の尋の目に戻った。
 
 
 尋は影のようだった。
 最初から影のようだった。
 無邪気なあの頃のままの笑顔も全部。
 尋はぼくの見ている幻なのだろうか?
 ではあの目の力は何だったんだ?
 あの、校門の前で、ぼくに縋ろうとした時の、怯えた目は何だ?そしてそのあとぼくに向けた、赤ん坊のような無垢な眼差しは何だ?
 尋は影のようだった。
 影は大人びた手つきでタバコを吸っている。
 尋は過ぎ去ったあの頃に閉じ込められたままどこにも行けないのだ。
 彼の表面を膜が覆い、死んだ虚ろな、ほの白い影の世界に彼は生きている。
 その膜の外などは彼にとって存在しない。
 そこが彼の世界なのだ。
 膜の外は不可解な闇。
 呼び戻すことは不可能だろう。
 膜は強固でそのなかにひとつの世界を構成している。
 ひとつの現実。
 生の世界と死の世界ほども、我々の現実とは違う現実。
 しかし死の方がよほどましだ。
 生があって死がある。
 死があって生がある。
 死のなかには生が満ちている。
 しかし彼の世界はなにとも関係していない。
 生とも死とも。
 あらゆる命の営みとも。
 放っておかれている。
 それらはずっとずっと遥かに遠い。


 ぼくは酔っていた。
 そしてさみしくなってきた。
 命あるものたちのところへ帰りたい。
 ぼくは激しく、緑の青さ、人々の弾ける笑い、命の満ちた空気、生の実感に飢え、席を蹴ると出口の扉に飛びついた。 
 扉の前に立つと尋の方を振り返った。
 尋は椅子の背もたれに肘をかけて体をねじり、白い顔をこちらに向けている。
 がらんどうのような二つの眼(まなこ)が、まばたきもせずにぼくに向けられている。
 ぼくは心のなかに虚無が広がるのを感じた。
 尋は虚無そのものだった。
 今にも尋を中心にその虚無は広がり、周囲を覆い尽くし、強固な膜で覆われたその世界は命から遠く離れ、どこかわからないところへ流されていきそうな気がした。
 そしてぼくはそこに取り込まれる。
 命とは関係のないところに。
 ぼくは周囲を見回した。
 世界を膜が覆っている。
 この夜空のはるか上空を、膜が覆っている。
 ここはすでに命から見放されたのか?
 ぼくは客や店員に目を向けた。
 客は陽気に酒を飲み店員は忙しく立ち働いている。
 だがそう見せかけているだけで彼らはもうすでに空っぽなのかもしれない。
 ぼくは店を飛び出し家に向かって走った。
 ここからは十キロ以上の道のりだったが、ぼくはとにかく両の足で走り、懐かしい家を、我が家を目指したかった。
 ぼくはやみくもに走った。
 踏みしめる地面の感触と息の苦しさを全身で感じながら走った。
 周囲の景色は目に入らなかった。
 ただ大地を踏みしめ両腕を振り回して、懐かしい命と確かさの溢れる我が家を目指した。
 通りを曲がる。通りを曲がる。
 そして家が見えてきた。
 明かりは点いていない。
 誰もいない。
 いや、それでいい。
 今はひとりになりたい。
 ひとりで、ぼくを取り巻く命に満ちた空気を思う存分感じたい。
 玄関を開けリビングに飛び込むとソファーに身を投げ出した。
 禍(わざわい)は先程よりは退いたところにある。
 走っている間、ギリギリまで迫っていたそれは幾分退いている。
 家のなかは明かりがついていない。
 ぼくのいるリビングの後ろ、台所のあたり、その濃い暗闇のなかに潜んだ〈それ〉はこちらの隙を伺っている。
 隙を見せたら喰らうつもりだ。

    
 



 灰色のコンクリートの壁。
 
 埃っぽい空気。
 
 白い蛍光灯の明かり。
 
 狭い。
 
 六畳ほどか?
 
 目の前の壁の左隅には、古びた鼠色の頑丈そうな鉄の扉。
 低い天井から射す蛍光灯の無機質な白い明かりのなかを、ほこりが舞っている。
 どこだ、ここは?
 ぼくがもたれている金属の骨組みの二段の収納棚には、体育の授業の時に使うようなマットや跳び箱などが収められている。

 体育倉庫?

 体育倉庫。

 思い出した!
 
 ここは体育倉庫だ。
 小学校の。
 
 物音はしない。
 静かだ。
 ぼくのまわりを覆うコンクリートの古びた床や壁は、蛍光灯の白い明かりに冷たく照らされている。
 ぼくはなんだか嫌な感じがした。
 何もそんなに冷たく光らなくてもいいんじゃないか?
 もう少しあたたかみを持ったってばちは当たらないだろう?
 しかし壁はあくまで冷たく無機質に光っている。
 それを照らす蛍光灯の明かりに暖かみがないのだからしょうがないのかもしれないが。
 いや、蛍光灯の明かりは壁の冷たさを浮かび上がらせているだけだ。
 壁の方がもともと冷たいのだ。
 ぼくは心が冷えて渇いてゆくのを感じた。
 いやなところだ。

 ぼくは壁の左隅にはめ込まれた鉄の扉に目をやり、その向こう側を想像した。
 扉の向こう、廊下を進むと右手に職員室。左に曲がるとさらに廊下が続き、その廊下を挟んで左側には教室が並び、右側にはグラウンドが広がっている。
 この倉庫があるのは学校のそんな場所だ。
 そしてぼくは扉の向こうに広がるそれらの風景を想像した。
 ぼくは立ち上がり、表面の錆びが目立つ重々しいその鉄の扉の前に立つと、扉を押し開けようとノブに手をかけた。
 
 ビクリと、体に緊張が走り、呼吸も心臓の鼓動も一瞬凍りついた。
 
 違う。
 
 そんなものは存在しない。

 扉の向こうに、そんな風景は広がっていない。
 
 ぼくはこの扉の向こうに、
()()()()()()()()()()()()

 ノブから手を離した。

 そしてできるだけ〈それ〉から離れるためにそろそろと後ずさりして、収納棚の鉄骨に背中を押し当てると、そのままその場に座り込んだ。

 あたりを見回す。

 じゃあ、
 
 ここはどこだ?
 
〈それ〉は、この灰色の空間の外側をすっぽりと覆っている。
 この壁の冷たさは、〈それ〉が沁み込んだためのものなのだ。
 いや、この壁自体が〈それ〉が凝り固まったものなのだろうか?
 
 床に目を落とす。
 床にはまだ温かみがあるような気がした。
 ぼくは指先でそのざらざらした床の表面を、幾度か撫でた。

 今に、
〈それ〉は壁を突き破り、ぼくを飲み込んでしまうかもしれない。
 ぼくの呼吸は浅くなり、命あるものからずいぶんと遠ざかってしまった心細さとさみしさに、知らず、頬を涙が伝っていた。

 灰色のコンクリ―トで覆われた空間はしんと静まり返っている。
 死んだような蛍光灯の明かり。
 死んだような冷たい壁。
 よく見ると、床にはずいぶんとほこりが積もっていた。
 隅の方に目をやると、干からびてカラカラに縮んだゴキブリが、ひっくり返って死んでいる。その上にもほこりは積もっている。ずいぶんと長い間、ここには人が立ち入っていないらしい。
 
 
 
 ぐるり

 
 
 突然、部屋全体が傾いた。
 ぼくはあわてて床に手をつき体を支えた。
 しかし次の瞬間、部屋は何事もなかったようにそこにあった。
 
 確かに傾いたはずだが…… それもずいぶんと、すくなくとも三十度ぐらいは、右に……
 周囲を見回したが、その様子に変化はない。床の上に置かれた摩耗し繊維のけばだったサッカーボールは、先程の位置に静止している。
 しばらくそのサッカーボールを見つめる。そして扉の方に目やる。
 目の前の壁には、この部屋と外とを画然と隔てている古びた頑丈な鉄の扉が、この世の初めに打ち立てられた法則のように、あるいは救いようもなく凝り固まって、動きを、血の気を失った、おそろしく年老いた頑固な老人のように、そこにある。
 いったいこの扉はいつからここにあるのだろうか?
 ぼくは想像した。
 遡っても遡ってもそれはそこにある。
 いつしか壁も床も消え去り、扉だけが残る。
 そしてさらに遡ると、扉はゆっくりと、ギィーーーという軋んだ原初の音をたてて、奥へと開き、その両界を隔てる役割を授かる以前の状態へと還る。
 そして、
〈それ〉が流れ込んでくる。
 ぼくは頭を振って想像をやめた。

 
 何も見えない。
 すくなくとも、そこは職員室や教室やグラウンドには通じていない。
 天井からは蛍光灯の冷たい明かり。
 冷たい壁。
 だけどあの扉が閉まっている限りぼくは安全だ。
 そしてあの扉が開くことなどありえない。

 
 ぼくは部屋を見回した。
 ただコンクリートで隔てられた部屋。
 

 あっ!

 窓!

 窓があるじゃないか!

 収納棚のうしろ、分厚いクッションの陰に、外の白い光を映した窓があった。

 
 そうだ。
 忘れてた。
 今日でこの学校ともお別れなんだ。
 明日から今の家の学区の小学校に通うことになる。
 お母さんに今日は早く帰ってくるように言われてたんだった。
 今何時だ。
 外はまだ明るい。
 四時くらいかな?
 早く帰ろう。
 ぼくは収納棚の上段に這い上って窓の方へ向かおうとした。
 
 


「開けてよ」
 
 


 ぼくは驚いてうしろを振り返った。
 
 声は扉の向こうから聞こえてきた。

 あの声は、

 うしおだ。

 間違いない。

 ぼくはしばし茫然と、目の前の鉄の扉とその向こうに立っているであろう小さい子供に目を向けた。
 

「ここは寒くて死んでしまいそうだ。僕をそっちに入れてもらえないだろうか?僕はそっちに行きたい」
 うしおは言った。
 

 ぼくは背後の積み重なったマットに音をたてないようゆっくりともたれかかり、目を見開いて扉の向こうを凝視した。
 大丈夫だ。
 大丈夫だ。
 あの扉がある限り、奴は入って来れない。
 しばらくしてまたうしおは話し始めた。
 

「僕をそこに入れてもらえないだろうか?ここは寒くて死んでしまいそうなんだ。無理なんだ。どうしても無理なんだ。耐えられないんだ。僕はずいぶん長いこと耐えてきた。ずっと耐えてきた。拠り所が欲しいんだ。誰かと一緒にいたいんだ。もたれかかって泣きたいんだ。そうすればまだもう少し、頑張れるかもしれない。僕はそっちへ行けない人間なんだろうか?行っちゃいけない人間なんだろうか?みんなと一緒に歩けないんだろうか?春の土手をみんなと一緒に歩きたい。ずっと夢見てきたんだ。僕はずっとひとりぼっちなんだろうか?光を浴びることはできないんだろうか?やっぱり僕はそういう人間なんだろうか?」

 ぼくは気配を殺して災いが去るのを待った。
 扉の向こうでうしおは何かを言っていたが耳には入らなかった。
 ぼくはちらりと窓の方に目をやった。
 窓は白い光を映している。
 思い切ってそこまで這って行くか?
 いや、ダメだ。
 音を立てちゃだめだ。
 奴に感づかれる。
 奴が諦めて去るのを待つんだ。
 うしおがまた口を開いた。
 
「僕は消えてしまいたい。僕は消えてしまいたい。僕は闇の子なんだ。僕は光の子でありたかったけど、僕は闇の子なんだ。僕は苦しいのも辛いのもさみしいのもいやだよ。でも僕はそういうふうにできているんだろうか?僕は誰かのそばにいて背中を撫でられたい。もたれかかって泣きたい。僕は泣きたいんだ。僕は誰かにもたれかかって泣きたいんだ。いつまでもいつまでも誰かに寄り添って、涙が枯れるまで泣き続けたい」

 そこでうしおは言葉を切った。
 そしてまた話し始めた。

「僕は消えたい。僕は消えたい。僕は消えたい。こんなところにこれ以上いたくない。今すぐに消えてしまいたい。消えたい。消えたい。誰か僕を消してください。神様僕を消してください」

 うしおはおうおうと嗚咽を上げ始めた。
 しかしもたれかかれるものは、誰もいない。
 寄り添えるものは誰もいない。
 彼の慟哭を受け止めるものは誰もいない。
 彼の悲しみは誰にも共有されない。
 ぼくはそのあまりの悲痛な叫びに思わず両手で耳をふさいだ。
 
 
 ママ―  ママ―  ママ― ママ―

 
 うしおは嗚咽の合間に呼びかけた。
 いつまでも呼びかけ続けた。
 ママなどどこにもいないとわかっていながら呼びかけずにはいられない。

 ぴたりと嗚咽が止まった。
 壁の向こうの闇が見えた。
 うしおがこちらに背を向けて向こうの方へと歩いてゆく姿が見えた。
 うしおはなにも身に着けていなかった。
 素っ裸だった。
 そしてその体つきはというと、ようやく歩き始めたばかりの赤ん坊のそれだった。
 そんな赤ん坊がよちよちと手を前にして闇へと向かって歩いてゆく。
 赤ん坊は居場所を見つけることができなかった。
 うしおはどこにも居場所を見つけることができなかった。
 うしおは漂泊を続け、ぬくもりを求め、たびたび致命的な絶望に突き落とされながら、共にある相手を求め続けたが、得られなかった。
 彼はほんとうは知っていたのだろう。
 そんなものは得られないことを。
 知っていながら彼はがむしゃらな努力を続けていた。
 彼は疑念を押し殺して希望に縋りついた。
 幾度も幾度もほとんど常に、疑念は彼を支配し、絶望へと突き落とした。
 しかしそのたびに彼はまた立ち上がり、血を吐くような思いで希望にすがりついた。
 自分は光の子だと言い聞かせながら。
 ほとんど彼の生涯は、生きた心地のしないものだったろう。
 そして今、彼は疲弊しきり限界が訪れ、敗れた。
 元々闇の子である彼が、自分は光の子であるという妄想にすがったところでどうにかなるものではない。
 ()()()()()()()()()()()()と言ったところで勝敗は見えている。
 落ち着くところに落ち着くのみだ。
 もし世界が()()()なら、人間がいくら足掻こうが()()()()()()|のだ。

 こちらに背を向けるというのはいったいどういう気持ちなのだろうか?
 絶対的にたましいに必要な、肉体における水のようなものを、諦めるというのはどういう気持ちなのだろうか?
 しかしうしおは諦めた。
 諦めてしまった。
 今まですがりついていた、ほんとうにただすがりついていただけの微かな希望も消えてしまい、今やうしおは完全に闇の子になった。
 闇の子は干からびた冷たい闇に向かってよちよち歩いてゆく。
 もはやこちらを振り返らない。
 その足取りに迷いはない。
 愛しい世界に背を向けて歩いてゆく。
 そして闇はするりとおさなごを飲み込んだ。


 ぼくはしばらく茫然とうしおを飲み込んだ闇を見つめた。
 それはただ見つめているだけで、なにかぼくという存在が根こそぎにされそうな、すべての価値を無意味にされてしまいそうな、そんな、ぼくの、なんとも心細く寄る辺のない気持ちを、掻き立てた。
 ぼくは寒気を感じて両腕を体にぎゅっと巻きつけた。
 それからうつむき両手で顔を覆った。
 そして、体の感覚に耳を澄ませた。
 不安と心細さのなかで、ぼくの心臓がいつもより速いペースで鼓動を打っている。胃のあたりにも内容物がせり上がってくるような不快感があった。
 ぼくは呼吸に意識を向けた。
 最初荒かった呼吸は徐々に穏やかになり、動悸も胃の不快感も収まっていった。
 ぼくは顔を上げた。
 そしてそんなぼくを、なにやら、激しい、違和感が襲った。


 目を移すと、扉が、十センチ程開いていた。
 心臓が凍りつき、ぼくの体は激しい危機を感じたが頭はそれについていかなかった。
 ぼくの目はしばしその開くはずのない扉の開いている様にくぎ付けになった。
 動悸がかつてないほど速くなっている。
 全身に鳥肌が立ち、ぼくの体はこの状況を逃れようと激しく騒ぎ始めた。
 しかしぼくはその場を動けなかった。
 開くはずのない扉が開いている。
 ぼくは今、その悠久の時のなかのその瞬間に立ち会っている。
 ありえない。
 そんなことはありえない。
 いや、ありえるのか?
 ぼくが今まで信じてきたものは簡単に崩れ去るものなのか?
 
 ぼくのなかで太陽が明日も昇るという常識さえもが崩れ去り、ぼくを支える大地が崩壊してゆくのを感じた。
 ぼくは思わず手を伸ばし、なにか確かなものに触れようとして宙を掻いた。
 〈それ〉が扉の隙間から侵入しようとする気配を感じた。
 すべてが終わる。
 なにかすべてが終わってしまう。
 すべてとお別れだ。
 なにかまったく変わってしまう。
 なにもかも。
 信じていたもの。
 良いと思っていたもの。
 価値あると思っていたもの。
 すべてを飲み込んで。

 
 それはいいことなのか?
 
 わるいことなのか?
 
 どちらでもないのか?

 
 いずれにしろ

 


 逃げなければ!

 


 ぼくは立ち上がると窓の方に向き直り、目の前を塞ぐ分厚い大きなクッションを放り投げようとした。
 動かない。
 見ると、鉄骨のボルトにクッションの繊維が巻き付いている。
 ぼくはもう一度力任せにそれを放り投げようとした。
 動かない。
 クッションは窓の前面で、ぼくと窓との邂逅を阻止しようとする、厳格極まりない、そして決して融通の利くことのない父親のように、その頑なな両手をボルトにしっかりと青筋を立てて絡みつかせ、立ちふさがっている
 頭が真っ白になる。
 それから絶望が、激しい息苦しさを伴い、広がってゆく。
 強烈な焦りに突き動かされ、ぼくは無我夢中でその繊維を引きちぎろうとした。
 ちぎれない。
 頭のなかは混乱し、ぼくはハアハアと乱れた苦しい呼吸をしばらく続けたあと、思わずうわぁと苦悶の声を漏らした。
 呼吸が乱れる。
 心臓が暴れまわっている。
 ぼくは歯を食いしばって理性を引き寄せると、思考停止に陥ろうとする脳味噌をなんとか動かし、この巻き付いた繊維を断ち切る方策を見つけ出そうとした。
 しかしなにも思いつかない。
 歯がガタガタと鳴っている。
 汗みどろ。
 もう無理だ。
 ぼくは絡まりに飛びかかり、その繊維を断ち切ろうと、そこに歯を押し当て、必死の直線的な努力を始めた。
 繊維が歯茎をこすり血が唇を流れる。
 痛みは感じない。
 舌の上に沁み込んだ血の味があるのは、意識のずっと奥の、片隅。
 繊維は切れない。
 ぼくはバッと顔を上げ、またうううと苦悶の声を漏らす。
 しかしなんとか、恐怖に飲み込まれ思考停止に陥ろうとする脆弱な心を動かす。そしてようやく、いくつかのアイディアが浮かぶ。
 一本一本ボルトから繊維をはずしてゆくのはどうだ?
 そんな時間などない!
 ぼくは震える手でズボンのポケットをまさぐる。鍵が入っている。真っ暗な、窒息しそうな闇のなかに、一筋の光明が射す。
 ぼくはぶるぶると震える手で、ボルトに巻き付いた繊維を鍵をのこぎりのように使い、一本一本切っていった。
 そしてようやく、それは断ち切られた。
 ぼくは怒りに任せて「死ねっ!」と叫びながらその忌々しいクッションを右足で床の上に思いっきり蹴り落とし、そして白い光を映す愛しい窓に飛びつき、内鍵に指をかけ、思いっきり下に引き下ろそうとした。
 開かない。
 ぼくは背後が気になった。
 しかしそちらに目を向けてはいけない。
 ぼくは癇癪を起して窓のガラスを拳で叩き割った。
 星が爆発したようにギザギザにガラスの穴は広がり、そこから明るい、白い光が差し込むと、それはぼくの眼前に眩く輝き、部屋全体に広がって行った。
 これだ。
 この光だ。
 ぼくが求めていたものは!
 ぼくはその光の方へ、破れたガラスの窓を潜って、飛び込んだ。

    


 



 鳥の声。
 天井。
 ぼくを囲む空間が、白い光に満ちている。
 帰ってきた。
 安堵。
 鳥の声と、遠くの方に、車が走る音。
 茶色いフローリングの床の上に、斜めに横たわり揺れている、レースのカーテン越しの白い日の光。
 あたたかい。
 世界とはこんなにあたたかく輝きに満ちていたのか?
 小鳥がぴよぴよと鳴いている。
 それを身近に感じる。
 ぴよぴよ。
 命だ。
 ぼくの命はその命のぬくもりと輝きを祝福し、その命もまた、ぼくの命を祝福しているように思える。
 命。
 つながり。
 ぼくの命にその命が流れ込んでくる。
 ああ、


 あたたかい。


 ぼくはその小鳥が枝の上をピョンピョンと跳ねるかわいらしい姿をしばらく眺めた。


 徐々に、意識ははっきりしてきて、それにつれて世界が遠のき、それぞれのなかに閉じこもってゆくのを感じた。
 そしてあの小鳥もまた、己のなかに閉じこもってしまった。
 ぼくのなかに失望が広がってゆく。
 小鳥の声。
 ぼくとは関係ない。
 つめたい。
 連中に、命なんてものがあるのかどうかも、怪しいもんだ。
 
 
 扉が見える。
 開いている。
 そのままにしてきてしまった。
 よかったのだろうか?
 閉めてくるべきでなかったか?
 

 いや、
 あれは開くべき時に開いたのだ。
 そして閉じる時には閉じるだろう。
 ぼくになにができる?
 世界が終るのなら、終わるのだろう。
 続くのなら、続くのだろう。
 ぼくにできることは?

 
 うしおがよちよちと歩いてゆく。
 そして闇がするりとうしおを飲み込む。

 ぼくはごろりと体を横にして、そのまましばらくじっと目を閉じた。

 





 今日も学校は閑散としている。
 月曜日。
 祝日だ。
 午後一時。
 ぼくは校門を潜って学校に足を踏み入れた。
 すぐ左手に守衛室があり、なかでイスに腰かけた守衛らしきふうの年のいったメガネの男が、腕を組んでぽかんと口を開け、頭を前に垂れて気持ちよさそうに居眠りしていた。声をかけようかとしばらく迷ったが、なんとなく起こしてしまうのがしのびなく、それでそのままぼくはそこをあとにして、校庭を横切り、職員室に向かった。
 グラウンドがやけに狭く感じる。
 グレーの校舎も、ずいぶんと低い。
 ぼくの背が伸びたせいだろう。
 あの頃はというと、グラウンドはもっと広々と雄大に広がっており、校舎の方もずいぶんと高く豪壮に聳えているように思えたものだ。
 目の前にはその校舎が迫ってくる。
 左手にはあのクジラ型のジャングルジムが見える。
 焼却炉はもうない。
 法律が変わって勝手に燃やせなくなったからだろう。
 懐かしくはあった。
 二十年以上ぶりなわけだから。
 色々思い出す。
 
 ぼくは職員室の前に立った。
 右手の奥には体育倉庫がある。
 ぼくはそちらをちらりと見やった。
 その倉庫の扉の前から廊下を行って右手には、ぼくの今立っている職員室がある。
 ぼくはうしろを振り返った。
 廊下がずっと続き、左手には教室が並び、右手にはグラウンド。
 確かな、現実の世界。
 ぼくはもう一度倉庫の鉄の扉に目をやり、そのなかの様子を想像した。
 窓ガラスから白い日の光の差した、天井の低いほこりっぽい鼠色の部屋。
 鼠色の、古びた、ひんやりとした壁。
 日の光のなかを、しずかに、きらきらと浮かぶ、ほこり。

 ぼくは職員室のグレーの木製の扉をそろそろと開けた。
 目の前にはずいぶんと広い空間が広がる。そこには机がたくさん、規則正しく並んでおり、そして数人の教員の姿が目に入った。
 ぼくはおずおずと、彼らに対してここの卒業生であることを告げ、それから教室を見てきてもいいかというような趣旨のことを続けて尋ねた。対して、関係者でない人間にひとりで校内を歩きまわられるのは困る、というような彼らからの応答があり、結果、女性教員がひとりぼくについてくる、という、そういうようなことになったのだった。
 というわけで、ぼくはその女性とふたりでこれからの行程を行くことになり、そしてぼくらは廊下に出た。
 明るい気持ちの良い日差しが斜めに白く横たわっているグレーの廊下のうえを、ぼくらはしばらく並んで歩いた。
 ふとグラウンドが広がる右手側の景色に目をやると、その上空、真っ青な空のずっと高いところに、今にも溶け去りそうなうすい斑な雲がひとつ、ひっそりと夢のように浮かんでいるのが見え、そしてあたりのひんやりとした晩秋の空気は、ぼくの首筋に冷たく当たり、鼻の奥をツンとさせた。
 隣の、気の毒にもぼくの監視役を押し付けられることになった格好の、その女性教員も、薄手のスーツ一枚の姿でどことなく寒そうに身を縮め、幾分前かがみに歩いているように見える。ぼくらはそんなふうに並んでしばらく歩き、廊下の真ん中らへんあたりまで来ると、その女性はピタリと、唐突に立ちどまったのだった。そして彼女は目を大きく見開いてぼくの顔を真っすぐ見つめてきた。
 ぼくはそんなふうに不意に向けられたその彼女の眼差しの、その「眼圧」の強さにに思わずひるんで、同じように目を大きく見開き「はい?」と間抜けな声を口から漏らした。
 すると彼女はぼくの名前を口にした。
 だよね?
 ぼくは驚き、女生と睨み合ったまま、しばしの時間が流れた。


 誰だ?


 女性はまだ目を大きく開けたままぼくを見ている。
 それから彼女は目を閉じてがくりとうなだれた。
「憶えてへんわなぁ…… わたしおとなしかったもんなぁ……」
 そう言うと彼女はふるふると頭を振った。
 しかしその様子はどこか、この事態をすこし面白がっているふうにも見えた。
 そして彼女は手をうしろに組んで、また廊下を歩き始めた。
 ぼくもそのうしろを、すこし遅れながら続いた。
 ぼくは幾分前をゆく彼女の、黒い髪をゆるくまとめた後頭部を見つめながら考えた。
 いったい、この人は誰だったっけか? おそらく小学校時代の、同級生かなんかだろうけど…… しかし二十年も経っているわけだし…… こんなやつ、いたっけか?
 ぼくはかつての子供子供していた級友たちのひとりが、こんなふうに大人の女性に変貌していることに、時の経過というものを感じずにはいられず、なんだか竜宮城から帰還した浦島太郎のような気分で、夢から覚めると時間がぎゅっと縮まっていて大人になったクラスメイトが目の前をヒールの音をカツカツ響かせながら歩いている現場に唐突に出くわしたとでもいうような、そんな妙な気持ちになった。
 失われた時間が、まるであのドラゴンクエストのはぐれメタルみたいに、ちょろちょろと向こうに逃げ出してゆく。

 女性は素知らぬふうでさっさと廊下を進んでゆく。
 どうやらぼくが思い出すまで名乗るつもりはないらしい。
 どんどん歩いて行って、とうとうぼくらは階段のところまで辿り着いた。
 そしてそこで彼女はちいさくため息をつき、それからその大きな、少し非難の込められた目をぼくに向けると、「花巻です。花巻真由子」と、名前を打ち明けた。それから「今は山崎ですけど」と付け足した。花巻さんはそう打ち明けたあと、口を結んで幾分上目遣いにぼくをじっと見つめた。そんな彼女の様子に、ぼくは「さあ、思い出しなさい」とせっつかれているように感じた。彼女の軽く握られた右手の指先が、少し強張っているように見えた。
 そしてしばらくしてぼくは思い出した。花巻という響きはぼくの記憶のなかにしっかりと残っていて、その響きは懐かしさを伴い、かつての少女だったころの彼女の姿と共にぼくのなかで甦った。
 しかしぼくには、目の前の大人の女性が、その甦った花巻さんとどうにも一致しなかった。
 いや、確かによく見れば面影がある。
 手足が細く華奢だった体には女性らしい丸みが加わっていたが、この大きな黒目がちな瞳には、たしかに強い、見覚えがあった。
 しかしぼくの憶えている花巻さんはといえば、もっとおとなしくて、すこし暗い雰囲気の、そしてどことなくいつも何かに怯えているような、そんな印象の女の子だった。
 しかし、それに比してどうだろう?
 今目の前にいるこの女性には、ぼくはなんというか、とてもゆったりとした落ち着きを感じるのだ。その物腰には全然ぎくしゃくしたところがなく、女性的な艶めかしいと形容したいぐらいのやわらかみが備わっており、笑顔も自然で華やかで、おのずととこちらの気分もぱっと華やぐような、彼女はそんな様子をしているのだった。
 
「ちょっとあそこではなしせぇへん?」と、花巻さんは校庭の隅のベンチを指さした。ぼくらはそちらへ向かい、その背もたれのない木製のベンチに並んで腰掛けた。
 昼下がりの空は青く晴れ渡っていた。
 校庭の黄土色の土の上には明るい日差しが降り注ぎ、その輝きが、見渡す限りの大地を、牛乳がたくさん入ったコーヒー牛乳のような色に染めている。
 さわやかな心地よい風。
 花巻さんはベンチに両手をついて穏やかに微笑みながら、そんな光の溢れる広々としたコーヒー牛乳のようなグラウンドに目を向けている。
 彼女は二十年ぶりに再会した旧友の隣にいながら、しばらく口を開かず、そのように穏やかな表情を浮かべて、ただ静かに座っている。
 そんな彼女の余裕が、より一層彼女を、自信に満ちた魅力的なものに、ぼくに見せるのだった。
 確かに彼女は変わった。
 人間とは変われば変わるものだ。
 かつての子供のころの彼女を思い出す時、ぼくの脳裏にまず浮かぶのは、鋭くまっすぐに、挑むように向けられた暗い瞳と、それとは裏腹に、ちいさくふるえる唇、そして強張った身に、何かから己を守ろうとしているかのように、両腕をぎゅっと巻き付けている、そんな様子なのだった。
 しかし実は、ぼくは彼女のそんな姿を目にしたことなどは実際にはなかったと思う。
 だが今、かつての花巻さんを思い出そうとすると、なぜかそんなような彼女の姿が目に浮かんでくるのだ。

「二十年ぶりか~」と花巻さんが呟いた。
「早いもんやよねぇ……」
 そう言って花巻さんは目の前の広々とした秋晴れのなかのコーヒー牛乳にしばらく見入り、また口を開いた。
「そやけどなんやろ?毎日見てる景色やねんけど今日はなんや違うふうに見えるわ……」そう言うと彼女はまたしばらく前方に広がる景色に見入った。そしてまた口を開いた。
「そういえばわたし、子供の頃こんな感じでこの景色見とったわ。残っとってんなぁ…… ちゃんと……」
 花巻さんは校舎の上の方に視線を注いだ。
 そこにある教室のなかの様子を、思い描いているのかもしれない。
 その顔が懐かしさに輝く。
 そして彼女はぼくの方に向き直った。
 花巻さんはなんとも嬉しそうな、幸せそうな顔をしていた。
 それからまた、校舎のなかの、かつて彼女が幼い日々を過ごした教室の方を見やった。
「不思議やなぁ…… 毎日見てるのに、不思議やなぁ……そうなんか……」
 彼女はそう呟くとまたぼくを見た。
 あなたもそうでしょ?とでも言うように。
 その時彼女は、ぼくに限りない共感と懐かしさを感じたようだった。彼女とぼくとの間には共通の思い出などはほとんどなかったのだが、彼女は、彼女がかつての日々のなかに見ていたものを、その手触りを、匂いを、光を、陰を、確かにこの目の前の人も同じ場所で共有していた、という、深い感慨と一体感に打たれているようだった。しかしぼくは、確かに彼女に何十年ぶりかに会って、懐かしく、嬉しくはあったのだが、昨日尋に会った時のような、あの、今の現実が後退して、これこそが現実であるとでもいうような、それこそ教室に行くとあの頃のままの情景がそこに展開されているのではないかというような、ほんとうにそうなったとしてもぼくはそれをすんなりと何らの逡巡もなく受け入れてしまうのではないかというような、あの世界が入れ替わってしまったような感慨には、ほど遠かった。
 「教室行ってみよか?」と花巻さんはぼくを誘った。
 期待に目が輝いている。うきうきしている。
 ぼくはやんわりとそれを断った。
 花巻さんはぼくの予想外の反応に不意を突かれたのか、ぴくりとちいさく体を震わせ、しばし静かに、茫然としていた。
 そしてその顔には隠し切れない失望が広がっていった。
 しかしすぐに彼女は気を取り直し、ニコッと笑顔を作ると、また前方に向き直った。
 
 それからぼくらはしばらく話をした。
 大概は小学校時代の話だった。
 彼女はぼくの知る限りあまりあの時代によい思い出はないように思っていたが、とても楽しそうに色々な話をした。そして内気で臆病だった自分のことを少々自嘲気味に話した。しかしそのことに特にこだわりはないようだった。むしろかつての彼女自身に対して、どこか深いやさしい眼差しのようなものを感じた。彼女は中学生になって部活でバレーボールを始めたらしい。そして全国大会にも出場したらしい。「補欠やったけど」、と言って花巻さんは笑った。その他には旦那さんのちょっとした愚痴や、まだちいさい子供が二人いて、子育てが大変なことなども彼女は話した。
 



 うしおのことおぼえてる?
 


 
 ぼくは花巻さんに訊いた。
 花巻さんはぼくの顔を見た。
 そして眉を上げた。
「うしお?」
 目をパチパチさせて花巻さんは訊き返した。
 ぼくはうなずき、「男の子」と答えた。
 すると花巻さんは宙を睨み、それから目線を下げて、首を少し傾げた。
 それについて、思い出そうとしているようだった。
 そしてまたぼくの顔に目を向けた。
「クラスの子ォちゃうよね?」
 ぼくたちの学年はクラスが一つしかなかった。だからぼくも彼女もうしおも一年からずっと同じクラスだった。
 花巻さんはまっすぐにぼくを見ている。
「あぁ、うしおちゃうわ、翔や。なんで勘違いしたんやろ?うしおは中学の時の友達や」
 ぼくはそう言ってあははと笑った。
「あかんで~!友達の名前はちゃんとおぼえとかな~!おじいちゃんやないねんから!」。そう言って花巻さんもふふふと笑った。
 
 尋に会ったよ、とぼくは言った。
 また花巻さんはぼくの顔を見た。
 しかしその表情は先程のようなきょとんとしたものではなかった。目には不意を突かれたような驚きの様子が浮かんでいた。そしてその驚きを含んだ目をじっとぼくに向けた。
「会ったん? 尋君に?」
 そう言うと、目からは驚きの色は徐々に抜けてゆき、少し悲し気なものになった。「家に行ったの?」と花巻さんは続けた。
 ぼくは彼女を見た。
 花巻さんは前に向き直り、両手をベンチの縁について、すこしうつむいている。
「いや」
 ぼくはすこし躊躇したが思い切って言った。「バス停で見かけたよ」
 花巻さんがまたぼくの方を向いた。
 ぼくも花巻さんの方を見た。
 目が合った。
「バス停で?」。彼女は言った。
 そして「お母さんと一緒やったの?」と続けた。
 ぼくはひとりだったよと答えた。
 花巻さんはちょっと驚いたような顔をしてぼくを見た。
 そして「そんなこともあるんや」と呟くと、前に向き直り、うつむいて、下唇を噛み、またしばらく黙った。
「ほとんど家におるの?」とぼくは尋ねた。
 花巻さんは前を向いたままコクリとうなずいた。そして「なんか話しかけたん?」と続ける。
 ぼくは首を振った。
 しばらく黙ってから花巻さんはまた話し出した。
「どう思った、尋君見て?ちょっと様子、変やったやろ?今ずっとあんな感じやねん、尋君」。そう言うと花巻さんは鼻からふぅと息を吐き出して口をぎゅっとすぼめた。
「もう五年になるかなぁ……急におかしなったみたいで……わたしら小学校卒業してもたまに何人かで会って遊んだりしてて、尋君ともずっと、付き合いあってん……大学卒業してこっち帰って来て久しぶりにみんなで会ったらそん時も尋君いて、久しぶり~元気~とかゆうて全然変わってない感じで……」
 花巻さんはぼくの方に顔を向け、また前方に向き直ると言葉を続けた。
「あの子すごいやさしい子ォやったやん?全然変わってへんねん……あのまんまでいつも穏やかそうにしてて……ほんで学校卒業して普通に就職して普通に働いててんけど……」
 そこで花巻さんは言葉を切り、またしばらくうつむいて黙り込んだ。
 目が少し赤くなっている。
 「五年前ぐらいかなぁ……急におかしなって……それから一言もしゃべらへんようになってん……何をゆうても無反応。ベッドの上で、壁に背中をつけて、無表情に座ってるねん……どんなに呼びかけても体を揺すっても何の反応もなし。お母さんがそうしても誰に対しても、同じらしいねん……」
 涙声になっている。
 唇がちいさく震えている。
 「あの目は一体どこを見てるんやろ?いっつも天井の隅に目ェ向けてるねん。ちょっとうっすら微笑んでる気もする……あの目は一体どこを見てるんやろか?何を見てるんやろか?何も見てないんやろか?いったい尋君はどこにおるんやろか?」
 花巻さんは鼻をすすりあげ、続けた。
「わたしな……そんな尋君見てたらものすごい心細い気持ちになんねん……なんやろ……世界がすっと遠くなんねん……なんやろ?一人一人が全部ばらばらになってしまったような……一人一人がそれぞれの、静まり返った……遠くの……」
 花巻さんはそこで言葉を切り、椅子の表面をそろそろと撫でた。そしてぼくに顔を向けた。その大きな目のなかいっぱいに涙が溜まっている。ぼんやりとした、あてどのない目。先程までの、自信に満ちたやわらかな輝きは、跡形もない。その視線は、まっすぐにぼくに注がれている。呼吸は静かに、浅く、乱れ、唇は小刻みに、ちいさく、震えている。そして左手は体にぎゅっと巻き付き、右手の指先は、椅子の表面を、ゆっくりと、水面を泳ぐボートのオールのように揺れている。
 ぼくは彼女の肩に手を置いて力強く撫でた。するとそれに促されるように彼女の瞼は下り、溜まっていた涙が、ぼたぼたと零れ落ちた。
 唇も瞼も、細かに震えている。左腕を上下するぬくもりを感じるたびに、子供のように無防備に、彼女は息をふぅふぅと喘がせながら、涙と鼻水を流し続け、顎の先に溜まったそれは、ぽたぽたと地面に滴り落ちていった。
 しばらくして彼女ははっと正気づいて、慌てて涙と鼻水を拭うと、また前方に向き直って、じっと黙ってそれを睨みつけた。
 
 しばらくぼくらは、ベンチに互いに無言で座っていた。それからぼくは立ち上がり、校舎の方に目を向けると、彼女に訊いた。
「教室見てきていいかな?」
 花巻さんは一瞬戸惑ったような表情を見せ、校舎に目を向けたが、もう一度ぼくに向き直るとコクリとうなずいた。
「内緒」
 そう言って彼女は微笑み、唇の前に人差し指を当てた。
 ぼくは階段の方へ歩き出した。そして校舎の入口に右足を踏み込むと、後ろを振り返った。
 花巻さんがベンチに両手をついて、座っている。
 もうぼくのことなど忘れてしまったかのように、こちらには注意を払わず、ぼんやりと静かに、目の前の景色に見入っている。
 ぼくはハッとして思い出した。
 そういえば彼女はかつて、ここで、このベンチで、よくひとりでこうやってぼんやりと座っていた。
 まわりには野球をする子たちや、ブランコに乗る子、ゴム飛びをする子たちなどがいて賑やかななかを、彼女はぽつんとひとりそこに座って、ぼんやりと、前方の景色を見ていることがよくあった。
 彼女はあの時何を見ていたんだろうか?
 だいたいその視線の先には、野球をする少年達がいたが、彼女がそれを見ていたとは思えない。
 じゃあいったい何を見ていたんだろう?
 彼女に友達がいなかったわけではない。おとなしい子ではあったが仲の良い友達はそれなりにいたはずだ。ぼくは彼女がその仲間たちのなかで楽しそうに笑っている姿も、ぼんやりと憶えている。
 だけど今、思い返してみると、ぼくのなかで彼女についてはっきりと残っているのは、そのベンチにひとりぽつんと座って、野球をする少年達のむこうに、何かを見ている姿なのだ。
 当時ぼくはそんな彼女を時おりちらりと見かけて、何秒かあとにはすぐに忘れ、階段を三段飛ばしで駆け上がったりしていたわけであるが、今こうして彼女について鮮明にくっきりと思い出すのは、すみっこのベンチにひとり座る姿と、そして遠くの何かを見つめるその眼差しだった。
 今も彼女はその時と同じように、ベンチにひとり座り、遠くを見つめている。
 そこには今は野球少年たちはいないが、彼女の視線の先にあるものが、かつて彼女が見ていたものと同じものであることがぼくにはわかった。
 ベンチにはあの頃よりひとまわり大きくなった彼女がいた。
 華奢だった体には、いくらか肉がつき、女性らしく丸みを帯びている。
 そして、その視線の先には同じものがある。
 ただ少女の頃とはちがって、その眼差しから感じるのは、鈍い諦念のようなものだった。
 あの頃の彼女のそれを見つめる眼差しは、もっと震えていて、潤んでいて、そして無垢とも呼べるような、強く頑ななものだったと思う。
 しかし今の彼女のそれを見つめる眼差しには、そのような震えや、潤みや、頑なさは、感じられなかった。
 ただ、彼女の視線の先には、かつてと同じものがある。
 そして花巻さんは目を閉じて、すこしうつむいた。
 
 ぼくはそんな花巻さんの様子をしばらく眺めていたが、彼女はそれを知ってか知らずか、気づいてはいるが、遠い世界のことと感じているのか、もうこちらに目を向けることはなかった。
 

 ぼくは階段の方に向き直り、そちらへ向かった。
 薄暗い階段を上る。
 三階まで上り、廊下を歩き、ぼくがかつて過ごした、そしてうしおが消えた、四年生の教室の前に立った。
 ここであれからニ十回以上、子供たちが入れ替わり、新たな子供たちが時を過ごし、そして出ていったのだなぁと思った。
 扉を開けた。
 ガラガラとがたついた、懐かしい音が響いた。
 匂い。
 匂いが開いた扉から、溢れてくる。
 教室の窓からは、昼下がりの日の光が斜めに差し込み、そのなかをきらきらとほこりが舞っていた。しかし明かりは点いていなかったので全体にすこし薄暗い。
 教室の匂い。
 チョークやほこりや木の床や机の匂い、箒やモップなどの掃除道具の匂い、それらに加えて子供たちや先生の体から分泌された匂いもそこにはあり、そして、何なのかはわからないが、とにかく他の学校とは違うこの学校の教室が発する何かしら独特の匂いも同時にあって、それらは混じりあってかつての、あの、匂いを醸成し、ぼくのまわりを取り巻いていた。
 それらの匂いは、あの頃の情感を一瞬で蘇らせ、ぼくをあの頃に引き戻す。
 うしおの席がある。
 それは長い時を経ても、やはりうしおの席だった。どこかまわりから浮いている。
 ぼくはその机に近づき、その表面をそっと撫で、その右隣の席に腰を下ろした。
 祝日だけあって、とても静かだ。
 何の物音もしない。
 ただ遠くの方の、微かな喧騒を、感じる。

 ぼくは机の上に両腕を重ね、その上に突っ伏し、目を閉じた。

 



 うしお 



 うしお



 戻って来てくれないかな?

 

 うしお

 


 無理なら

 ぼくを君の所へ連れて行ってくれないか?

 君はひとりぼっちなんだろう?

 だから頼む!

 ぼくを君のいるところへ連れて行ってくれ!

 うしお!

 いったい誰が!

 君を守るんだ!?



 ぼくは両拳を机に激しく叩きつけた。


  
 うしお。
 


 絵を描くうしおの姿。
 口をぴくぴく動かしている。
 大きなアーモンド型の一重の丸い目。
 顔は透き通るほど青白い。
 
 まわりには、教室のあちこちには、透明な生徒たちが静かに騒めいている。
 琥珀色の輪郭。
 頭部の上半分は空気に溶け込んでいる。
 そして時に、彼らはアメーバ―のように混ざり合って、境界が消えたりまた現れたりしている。

 うしおは口をぴくぴくと動かしている。
 青白い。
 そして、顔に傷はなかった。
 うなじにも、あの火傷の跡はなかった。
 癒されたらしい。
 うしおは癒され、口をぴくぴく動かしながら、絵を描いている。
 その目にはかつてのようなやみくもな熱はなかった。
 闇のなかで光を求める、あの悲痛な、縋るような、追い求める眼差しはなかった。
 うしおは癒されていた。
 もはやなにものも、彼を煩わせるものはないようだった。
 青白い顔で、光も、熱もない目をして、口元をぴくぴくさせながら、クレヨンを動かしている。

 うしおは出来上がったそれをぼくの前に広げて見せた。
 あいかわらずへたくそだった。
 黒い線と赤い線が、なにやら恐竜らしきものを形作っている。
 ぼくはニッコリと微笑み「よく描けたね」と声をかけた。
 うしおは顔の前に画用紙を広げてじっとしている。
 ぼくは立ち上がり、彼の横に立った。
 うしおがその青白い顔で、ぼくを見上げた。
 丸い頬をした透き通るほど青白い顔のなかの、アーモンド型の丸い目が、ぼくに向けられている。
 その目には何の波風も立っていない。
 何の動きもない。
 光も闇も、希望も絶望も、熱も、焦がれも、溢れる想いも、触れてほしいという渇望も、もはやなにもない。
 癒されている。
 体中に刻まれていたはずの傷は、消えていた。
 癒されたうしおは、青白い顔で、ぼくにじっと視線を注いでいる。
 ぼくはうしおの頬に手を当てた。

「疲れたんやねぇ……」

 と、声をかけた。

「無理もない。ひとりで戦ってきたんやから。ずっと。負けるとわかっとって、ひとりで、真っ暗ななかを、戦ってきたんやから」
 うしおは穏やかな湖面のような、澄んだ癒された顔をして、ぼくにじっと視線を注いでいる。
 すべては、終わったのだ。
 なにもかも。
 そして、
 うしおは癒された。

 ぼくはぼくの水色のキャップをカバンから取り出し、ベルトを締め、それをうしおの頭に載せた。体の割に少し頭の大きいうしおにその帽子はぴったりだった。ぼくは「交換しよう」と言って、うしおの手から絵を描いた画用紙を取り上げて、カバンのなかにしまった。それからぼくはうしおの手をひき、教室を出た。


 ぼくはうしおの手をひいて恐竜の博物館に入った。
 そしてあの、例の、ティラノサウルスの全身骨格が現れた。
 うしおはそれを見つけるとそちらへ駆け出し見上げた。
 ぼくもそちらへ向かいうしおの肩に手を置いてそれを見上げた。
 
 すごい。
 確かにすごい。
 大迫力だ。
 ぼくはうしおと目線を合わせるためにしゃがんだ。
 うしおがこちらを見た。
 ぼくは彼に向かってニッコリと微笑み、そしてティラノサウルスを見上げた。
 それは確かに素晴らしかった。
 うしおの目線で見上げると、それはより一層勇壮で力強く威厳に満ちていた。
 ぼくは思わず「すげえ」と声を漏らし、うしおの肩に置いた手をぎゅっと握った。
 そしてうしおの顔をまっすぐに見て、この感動を、思いを、言葉にせずに彼に伝えた。
 うしおはぼくの顔を見て、そしてティラノサウルスを見上げた。
 その顔に、一瞬少し赤味が刺したように思えた。
 うしおはじっとティラノサウルスを見上げている。
 うしおはいつまでもいつまでも、ティラノサウルスを見上げ続けた。

 ぼくはうしおを連れて家に帰った。
 食事をして風呂に入り、夜が来たので、うしおをベッドに寝かせた。
 うしおはぼくが贈った帽子を被ったままベッドに横になった。
 そしてベッドに横になった彼は、じっといつまでもいつまでもぼくの顔を見つめ続けた。
 顔は青白かった。
 いつまでもいつまでも目を逸らすことなく、ぼくを見つめ続けている。
 そして、
 うしおは、
「ありがとう」とあどけない声で呟いた。

 それは、
 あまりにまっすぐな「ありがとう」だった。
 なんの混じりっけもない「ありがとう」だった。
 それは「ありがとう」そのものだった。
 ぼくの目に、涙が溢れた。
 その涙で歪んだ視界のなかで、ぼくを見つめるうしおの姿がゆっくりと薄れていった。
 ぼくはさみしさのあまり思わずおうおうと嗚咽を上げた。そしてうしおがすっかり消えてしまうとベッドの上にはあの水色のキャップが残った。ぼくは震える手でそれに手を伸ばし手に取ると顔に押し当てそこに残ったうしおの名残を吸い込んだ。そしてベッドのうしおがいたあたりに手を這わせた。
 微かなぬくもりが残っていた。そのぬくもりがぼくに、彼の喪失を思い知らせ、ぼくはまた涙が溢れるのを止めることができなかった。
 

 彼はどこに行ってしまったのだろう?
 またひとりぼっちになっているのではないか?
 ぼくはどうしようもなく心配だった。
 どうすればいいんだ?
 
 ぼくは祈った。
 彼がひとりぼっちになりませんように。
 ひどい目にあいませんように。
 いつかまた、会えますように。




 


 数日が過ぎた。
 ぼくは仕事を終え、家の玄関の扉を開けなかに入り、電灯を点けた。

 目の前に、白い、丸い、塊のようなものがあった。

 ぼくはびっくりしてうわっ!と大声を上げ、尻もちをついた。
 そして茫然として、それを見やった。
 それはうしおだった。
 うしおは人間の姿をしていなかったが、ぼくにはそれがうしおだとわかった。
 それは紛れもなくうしおだった。

 うしおは傷だらけだった。
 その青白い肌には無数の深い傷が刻まれていた。
 そして片目は潰れていた。

 朦朧としている。
 潰れていないほうの目は固く強張り、焦点が定まらず、自分がどこにいるのかも、わかっていないように思える。
 
 ぼくは彼に駆け寄ると風呂場に連れていった。
 そして椅子に座らせた。
 深い傷にはところどころ蛆が湧いていた。
 ぼくはそれをひとつひとつピンセットで取り除き、丁寧に傷口を洗った。全部洗い終えると体を拭き、傷口に薬を塗った。うしおは傷口に薬を塗るぼくを、ピクリとも動かず、その残った片方の目でじっと見つめている。それから傷口を保護するテープを張った。しばらくするとうしおの肌には仄かな赤味が刺し、少し、正気付いてきたようだった。
 治療が終わるとぼくはうしおに温かい食事を与えた。
 そして食事が終わると、うしおは、猛烈にしゃべりだした。

 無理もない。
 今まで誰も彼の言葉に耳を貸さなかったのだから。
 うしおは時に目に涙を浮かべながら、自分の思いをしゃべり続けた。
 何を言っているのかはよくわからなかった。
 それは日本語とすら言えないものだった。いや、何語でもないだろう。
 うしおはなにやらわけのわからない言葉を、とにかく、力の限り訴えた。そしてぼくはそれに注意深く耳を澄ませた。彼の心を感じ取ろうとした。
 なぜなら、
 彼の言葉に耳を傾けること以上に大切なことなどこの世界には何もないことがぼくにはわかっていたからだ。
 何時間も彼はしゃべり続け、ぼくはそれに耳を傾けた。
 彼の言っていることはよくわからなかったが、とにかく彼の気持ちは、痛みは、思いは、望みは、孤独は、そしてあの恐竜を見上げた時、みんなと肩を組んでその感動を共有したかったであろうその渇望は、そしてあんなふうに己の感動を、バカにされ、踏みにじられ、無意味にされた悲しみは、しっかりとぼくに伝わってきた。
 そしてうしおはしゃべり疲れるとこてんと眠ってしまった。
 ぼくは彼をベッドに運び寝かせ、布団をかけた。
 うしおは残った片方の目を静かに閉じ、眠っている。
 ぼくはベッドの横に布団を敷いてそこで寝ることにした。
 電灯を消し目を閉じ、ぼくは眠りに落ちた。

 翌朝になるとうしおはいなくなっていた。
 ベッドには、彼がそこにいた痕跡はなかった。
 夢?
 いや、

 彼は確かにここに来た。
 じゃあ、

 どこに行ってしまったんだ?
 ぼくは不安になった。
 どこか遠い遠い、遥か遠い、暗いところで、あの人間の形を失ったうしおの丸い白い姿が、ひとりぼっちであるのを感じた。
 そこはうしおにやさしくない。
 とてもひどいところだ。
 ぼくは頭をぶるぶると振った。
 そして祈った。
 うしおが無事に戻ってきますように。
 うしおが無事に戻ってきますように。
 ぼくには祈ることしかできない。

 ぼくは祈り続け、何日経ったろうか?
 仕事から帰り、家に戻ると、はたしてうしおはそこにいた。
 また、
 傷だらけだった。
 そして今度は、
 両目とも潰れていた。
 青白い姿で
 茫然としているようだった。
 指先で触れるだけで
 もはや取り返しがつかぬほど損なわれてしまいそうだった。

 ぼくは同じことを繰り返した。
 しばらくして赤味が刺してきて、また彼はしゃべりまくった。
 そして眠り、朝になるといなくなった。

 そういう日々が幾度か続いた。
 ぼくは今度こそ、もう彼は戻って来れないのではないかと彼がいなくなるたびに思った。
 しかし彼は戻ってきた。
 しかしそれは薄氷を踏むような日々だった。
 戻って来れていることはとんでもない奇跡のように思える。
 その奇跡は、ほんの些細なことで、壊れてしまうのだ。
 そしてそうなれば、もはや永遠にうしおは損なわれ、我々と彼との間の絆は完全に断絶する。断ち切られる。もう永遠に手は届かない。
 こんなことがいつまで続くのだ?
 いつかはやはり、 
 敗れるのではないか?
 そう決まっているのか?
 ぼくはぶるぶると頭を振った。
 
 とにかく、
 
 やれることをやるしかない。


 ぼくはうしおの傷口に薬を塗りながら訴えた。
 ぼくを君と一緒に連れて行ってもらうことはできないかな?
 うしおはじっとぼくを見ている。
「うん」とも「いいえ」とも言わず、青白い肌をしてただじっとぼくを見ている。
 ぼくの心は無力感でいっぱいになった。
 初めから無理だということはわかっていた。
 だがうしおのその眼差しに接して、ぼくは痛感した。
 うしおの覚悟。
 うしおはおぞましい宿命を、静かに、粛々と受け入れている。
 ほんとうは怖くてたまらないのだ。
 ひとりぼっちで怖くてたまらないのだ。
 彼はどうしようもない巨大な無慈悲な流れに、連れ去られ、翻弄されるしかないその運命を受け入れている。
 消えたいと願った彼は、また希望を持った。
 ぼくが与えたのだ。
 彼の命への愛は、その無慈悲な運命に彼を耐えさせた。
 なんという忍耐力だろうか。ぼくは敬服せざるをえない。
 しかしそれ以上に、痛々しくて見ていられない。
 彼は受け入れている。
 この無慈悲で陰惨な、己を取り巻く世界の在りようを。
 そして彼の心には、希望がちらちらと、時に消えそうなほどちいさくなりながらも、灯り続けている。
 翌日の朝になるとうしおはまた姿を消した。


 こんな日々がどれほど続いただろう?
 ぼくはうしおがいない間、彼の無事を祈り続け、もし彼が帰ってこなくなったら、地の果てまで探しに行く決意をしていた。
 そしていつかかならず見つけ出す。
 確かに、世界(宇宙)の掟の前で、我々はあまりにちっぽけである。
 やつらが我々をひねりつぶそうと思えば、我々に抵抗する術はない。
 だけどぼくはうしおを助けたいのだ。
 彼に触れたいのだ。
 ぼくは世界の果てまで彼を探し続け、探し当て、その体を抱きしめ、傷を癒す。
 それもまた、世界の確かな、ひとつの側面であり、真実だ。
 誰かが誰かの無事を祈る。祈り続ける。
 それはまぎれもない、世界のひとつの真実。

 うしおが、あのティラノサウルスを見上げ、あの間抜けな声で「すげえすげえ」と感嘆の声を上げ、彼のまわりには彼にやさしい眼差しを向ける人達、共にその感動を分かち合う人達、そしてその共感を感じ取ったうしおは口をむぐむぐと動かし、顔を紅潮させ、じっとその人に視線を向ける。世界がそんなふうではいけないのか?
 ぼくは世界を肯定したい。
 世界を信じたい。


 ぼくはうしおの傷口を洗っていた。
 そしてふと気づいた。
 傷が、
 減っている?
 そして以前は骨にまで達するようだったその深さも、少しましなものになっているような気がした。
 ぼくの心に喜びが湧き上がる。
 しかしすぐに自分を戒めた。
 以前にもこんなことがあった。
 しかしそれは勘違いだった。
 次に来た時には、傷はやはり以前通りの情け容赦のないものだった。
 ぼくはそんな過去の経験から自分を戒め、強いてそのことを特別視しないよう努めてその日もうしおを治療し、食事を与え、話に耳を傾けた。

 そしてまた日々が過ぎた。

 うしおの傷はやはり治ってきていた。
 それはもはや疑いようのないものだった。
 その事実はぼくを心から安堵させ、喜ばせ、癒してくれたが、同時に少し、微かなさみしさも感じた。
 傷が治ったらもう彼はここには来なくなるだろう。
 でもそれはいいことだ。
 とにかく、
 油断せずに最後まで彼の傷を治さなくては。


 そしてとうとう傷は最後のひとつを残すのみとなった。
 ぼくはその最後の傷に薬を塗り込みながら、思わず涙がこぼれるのを押さえることができなかった。
 ぼくもずいぶんと年を取った。
 もう何十年も、仕事以外の時間は彼の無事を祈り続け、そして彼を治療し、話を聴き続けた。
 もちろん後悔はしていない。
 後悔などするわけがない。
 ぼくにとって、そうすること以上に大切なことなど何もなかったのだから。
 いや、世界にとっても、それ以上に大切なことなど、はたしてあるだろうか?
 

 君がいなくなるとさみしくなるよ

 
 ぼくは思わず泣き言を漏らした。
 うしおはそんなぼくにじっと視線を注いでいる。
 そしてうしおは言った。

 

 ばかだなぁ


 うしおは言った。


 君がつないでくれたんじゃないか
 

 うしお


 
 帰り道がわからなくなって
 何度も何度も絶望しそうになった時
 君の声が聞こえた
 君の祈りが聞こえた
 そして僕は
 帰ってくることができた
 
 君が呼んでくれたんだ
 僕を
 そして僕はひとりじゃないって
 思うことができた
 
 だからなんにも心配することはない
 僕はいつでも君を見守っているから


 うしおの姿は薄らぎ、消えていった。
 



 ぼくは立ち上がり窓のそばまで行って、外を眺めた。
 外にはいつもの見慣れた町並みがあった。
 ビルが見える。
 通りが見える。
 木々が見える。
 人々が歩いている。


 




 ここは










                   いったいどこなんだろうか?











                      ぼくは目の前に広がる世界を眺めた。











                              世界は








                 




                           不可解だった


















                             そして








                                



                            言語を絶して












                                



                           途方もなかった






                                


                               








                           そしてぼくは



                             




                          ちいさなちいさな













                               
                                  



 



                              破片











                              



                             だった










                                



                             世界が



                             ぼくを


                             飲み込み









                               



 


                            押し流してゆく


 



 












    



     ぼくはベッドに仰向けになり、右腕で両目を覆った。
 







          うしお



          うしおが



        ぼくを見守っていた。
 



 どこにいるのかはわからないけど、確かにうしおが、ぼくを見守っている。









                         




                    僕が見守っているから大丈夫だよ
















 右手で覆った目から涙がとめどなく流れた。
 しばらく涙を流れるままに任せて、ぼくは嗚咽を漏らしながら、ベッドの上でじっとしていた。
 ひとしきり泣いたあと、ぼくは大きく息を吸い込み、そして吐いた。



 うしおがぼくを見守っている。

 うしおがぼくを、太陽のように見守っている。

 それは決して揺らぐことのない太陽。





 ありがとう

 うしお

 ありがとう

 ありがとう


 ぼくは目を開き、そしてもう一度目を閉じた。



 



                                





                           ありがとう


 

 

 



 うしお
 いつかまた会えるよね?
 ぼくは天に向かって手を伸ばした。

 そしてもう一度深い息を吐き、ベッドの上で、窓からのやわらかな光を身に受け、もうずっとずっと忘れていた深いやすらぎのなか、しばしうとうとと微睡んだ。

うしおのことおぼえてる?

うしおのことおぼえてる?

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 冒険
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-08-13

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