牢獄の捕食者

いおり

  1. 序章
  2. 第一章 一
  3. 第一章 二
  4. 第一章 三
  5. 第一章 四
  6. 第一章 五
  7. 第一章 六
  8. 第一章 七

序章

 いっそ殺せ。
 何度そう思っただろうか。卒塔婆が繁る墓地を弥七は這いずりまわる。
紅葉に爛れた夜が喚く。野犬の遠吠えが遠くにこだまする。小塚原の刑場に捨てられた骸を喰いに来たか。骨をしゃぶりに来たか。紅葉の首が落ちる。
おおい――闇の端から女の声が弥七を呼ぶ。
わっちの笄は見つかったかい。それともお前が喰われっちまったかい。
弥七は墓地の向かい側にある女郎屋の下男だ。勤め始めてまだ半月だが、黒い毛に覆われた男の脛を洗うのにも慣れ、たっぷりついた腹肉を波打たせながら身悶える年増女の嬌態も苦ではなくなった。
おおい――墓場を見渡す女郎屋の窓から女の白い顔が覗く。
赤い夜が呻く。弥七は我武者羅に朽葉をひっくり返す。乾いた土の匂いに顔を覆われる。口の中が苦い。葉に抉られた指が痛い。けれど女が探す笄などどこにもない。
知っている。そんなものは最初からどこにもない。眠れぬ夜を独りで過ごす女郎は、闇を彷徨い墓場を這いずる弥七の持った提灯を人魂に見立てて楽しんでいるだけなのだ。
 爪に泥が詰まる。冷え切った指先が枯葉をかきわけるたびに虫の殻を破ったような音が響く。
提灯の炎が揺れる。着物の袖から伸ばした左腕が闇の中に剥き出しになった。弥七の背筋が冷たく引き攣る。

炎の中に浮かぶ弥七の腕には、太い入墨が黒々と巻き付いていた。

闇に赤く枝垂れる紅葉がけらけらと嗤う。
視界が渦を巻く。紅葉が火の粉のように降り注ぐ。悪寒に全身が蝕まれていく。いくら女が白粉を塗りたくっても隠しきれなかった皺やしみを見つけてしまった時、弥七は途方もない恐ろしさを感じる。どれだけ外面を整えようと、人は積み上げた過去を消すことはできないことを思い知る。
紅葉が爆ぜる。弥七は蹲った。十七になったばかりの体で必死に入墨を夜から隠す。笄などもうどうでもよかった。彷徨うのは死者でなく弥七だった。
赤い夜が押し寄せてくる。その色づき、垂れ下がった腕でこの罪深き首を締めてくれと弥七は懇願する。だが紅蓮の枝葉は知らぬ顔をして夜を炙り続け、白い月を嬲り続ける。罪人の願いなど叶う筈もなく、咎人の祈りなど通じるわけもなく、ただ無数の指が弥七を指差し嗤う。
ざあざあざあ……枝がこすれ合う。月に乱れ、冷たい闇に爛れる枝葉の群れが呻いている。
 一片の落葉が入墨の上を滑り落ちた。弥七もこうやって赤々と灯りながら枯れ落ちて、土に朽ちていければどれだけ報われただろうか。首を斬り落とされ、胴を裂かれ、野犬に骨すら噛み砕かれてしまえば救われた筈だった。
名も知らぬ墓標(にんげん)が弥七を見下ろしてくる。さあお前の罪を告げろと言うのか。荒れる紅葉が記憶を呼び起こす。
 弥七が物心ついたときには父は既に亡く、母も胸の病であっけなく死んだ。けれどその頃には弥七も父親の昔馴染みという男が商う小さな小間物屋に奉公していた為、食うには困らなかった。丁度十二歳の秋だったと思う。
それから三年は平和に過ぎた。真新しかった母親の位牌が日に焼けてきた頃、弥七は見てしまったのだ。
ざあ、ざあ……――紅葉が呻く。泥にまみれた顔のまま弥七は空を仰いだ。
落ちてくる金色の光が眩しくて、遠くに見えた月の肢体があまりに白くて……弥七は思わず顔を覆う。けれども後光のように貴いその魅力に抗うことなどできなくて……ああ――指の隙間に蘇る過去はあまりに鮮明だ。ざあ……ざあ……
 見てしまったのだ。ああ、見てしまったのだ。
父親の昔馴染みでもある主人が戸棚の奥から黄金の蒔絵を施した重箱を取り出したところを。その中に詰まっていた紅玉の、その闇を裂かんばかりの輝きを――弥七は見てしまったのだ。
あんなものは大したものではない筈だ。ただの飾り玉の筈なのだ。
しかし何故だろうか。こんな欲などこれまでなかった筈なのに。幼い子が月を欲して泣くように、弥七はあの紅玉に魅せられたのだ。その赤く丸く小さな肉体をこの身にかき抱きたくてどうしようもなくなったのだ。
それは身を攀じるほどの渇望だった。喉を掻き毟るほどの懇願だった。沸き立つ血の熱さに皮膚は溶け、早鐘を打ち続けた心の臓は砕け散る。
気が付けば弥七は主人を殴り倒し、紅玉を抱えて夜に飛び出していた。恐怖に震え、何故と自問を繰り返す心はとうの昔に焼き千切れ、ただただ湧き立つ血潮と軋み弾む肉の躍動のままに闇を駆けた。赤く爛れた夜だった。血に噎び泣く闇だった。けれど夜が明ければ夢も醒める。紅玉を抱きしめたまま意識なく倒れ伏しているところを弥七は召し取られ、そのまま小伝馬町の牢に放り込まれた。
罪に救いなどない。主人に怪我を負わせ、盗みを働いた奉公人に将来(行く末)などあるわけもない。もとより弥七も慈悲を願い、救済を欲するような恥知らずではなかった。
ただ恐ろしかった。あの夜、自らに訪れた熱病のような渇望が。悪鬼にも斉しい衝動が。そして沸き立つ血潮に体を溶かされ、心を破壊され尽くした末に隅々まで別人へと作り変えられていくようなあの恐怖を、記憶すら曖昧であるが故に残酷な惨劇の唯一の事実として全身が覚えている。
弥七は自分の躰を抱きしめる。長い牢暮らしで骨と皮にまで痩せた躰は芯まで冷え切っていて、いつ砕けてもおかしくなかった。
血潮を振りまくように紅葉が喚く。落葉の断末魔に呼応するようにあの夜の記憶が破片となって甦るが、繋ぎ止めることはできなかった。ああ――今もまだ、何も思い出せない。
分かっている。気が付いているのだ。あの夜のあの衝動は、絶望にも斉しい渇望は、弥七(・・)のものではなかった《・・・・・・・・・》。
それはこの人の世よりも遥かに遠く、故に圧倒的な()()か《・》の望みなき切望であり、呪詛にも相応しい渇欲なのだ。証などない。ただ確信している。
誰が、一体、なんのために。
そんな事は分からない。確かなことはただ一つだけだ。
――躰を抱きしめる腕に力を込める。脂も失った髪が頬をつき、入墨に抉れた腕をつたう。
この身には怪物が巣食っている。
 くだらぬ渇望に身を焦がし、人間故の欲求に従順な獣が巣食っている。今もまだ弥七の内側から弥七を虎視眈眈と狙っている。その孔だらけの心の隙間から、乱れる血流と呼気の裏側から……ああ――その牙が皮膚に透けて見えるようだ。入墨に穢れた膚を食い破る瞬間を今か今かと待ち望んでいる牙と爪だ。
心を焼きつくし灰にするほどの熱望にこれ以上堪え切れるわけがなく、しかし弥七が肉体に依存する以上、恐怖は常に自分自身と共に在った。
肉体こそが牢獄だった。裁かれるべきは弥七ではなく、この肉体そのものだった。
だから死罪を求めた。死を欲した。
罪を贖いたかったわけではない。ただこの恐怖から逃れたかった。澄んだ夜に紅葉が呻いている。赤い指先が慈悲を乞う。
「死にたかったわけではない」
 自分の声が遠くに聞こえた気がした。死にたかったわけではない――だから主人が傷を隠し、盗まれた紅玉などないと証言してくれた時、その慈愛にただ涙を流すしかなかった。
それでも恐怖が和らぐわけではなく、事実が覆るわけでもない。この身は未だ獣を飼い続ける牢獄なのだ。いつ牙をむくとも分からぬ捕食者を飼い続ける檻なのだ。罪人は未だ裁かれず、咎は贖われていない。
「これでは足りぬ……」
 弥七は蹲る。固く抱きしめた体に爪をたてれば、骨が軋んだ。
こんな入墨では足りない。こんなものは罰にもならない。
「これでは満たされぬ」
 落葉の断末魔が響き渡る。乾ききった血よりも赤黒く、刀の錆よりも腐食した紅葉が髪に絡み、背に積もっていく。
「赦されぬ……」
 獣に食い荒らされる将来(さき)しかないこの肉体が、浄められる日などきっと来ない。
ああ――死者しかいない闇の底で弥七はぎこちなく微笑む。
 救いが欲しかった。
 顔をあげても喚く落葉の最期を看取ることすらできない。乱れる髪に視界が霞む。熱に魘された朱の暗夜に答えなどあるわけもなく、ただ沈黙だけが押し寄せてくる。
(こんなに……)
髪が乱れる。骨が軋む。
(待ち焦がれて……)
入墨が疼く。それは飢えた獣の牙なのかもしれない。
(闇に……)
立ち上がる。赤子を踏み潰したような音が鈍く響いた。
(焼かれ続けているのに……)
仰ぐ空は赤く燃えて、黄金色に輝いていた。
「こんなにも貴女(・・)を欲しているのに」
――風が満ちる。赤く色づいた楓の天蓋がひるがえり、地に広げられた金色の褥が湧き立った。乾いた音が耳を打ち鳴らして通り過ぎていく。その音に誘われたのか。乱れる夜の向こうへと弥七の瞳は吸い寄せられていった。
 朱に狂う視界の先に墓標などなかった。死者もいない。弥七を呼ぶ女の声すら聞こえない。ただ紅葉よりも明るい金色の髪がなびいている。
「……」
 自分の体が震えていることに弥七は気が付かなかった。手を伸ばすこともできず、声をあげることもままならない。紅葉が傅く。まるで御仏の後光のような光が夜に溢れ、闇を照らしだした。
金色の髪の乙女が顕れる。その手には白い月かと思うほど巨大な薙刀の刃が握られていた。
 ああ――……弥七は跪く。乙女の顔は光に満ちすぎて判然としない。しかし光を背負い、白い刃を手にしたその存在は、全てが限りなく貴いこの世の真理と叡智の結晶だった。
「ようやく……お会いできた……」
 呼吸(いき)すらもはやままならなかった。痙攣を繰り返す指をただ絡み合わせる。
薙刀を手にした乙女が弥七の前に立つ。照り映える金色の後光に夜が融けていく。もう何も見えない――夜を嬲り続けた血は洗い流され、錆はとうに磨き落とされた。
『人に報いを』
 頭の中に直接響く声は心地よく、針のように鋭く澄んでいる。
『鬼に贖いを』
 弥七は頭を垂れた。
 巨大な刃が金色の夜に煌めいた。弥七は祈る指に力を込めた。この瞬間を待ち望んでいたのだ。誰よりも、そして何よりも――
滾る血潮の奥底で獣が呻いている。断罪に怯え、贖罪を恐れる畜生の牙は月にも縋れない。この肉体の内側で繰り返される獣の懺悔は戯言に過ぎず、告解は児戯にすら劣る。
『神に裁きを』
 白刃がひらめく。
 闇にこだましたのは獣の断末魔だった。
闇にこだましたのは獣の断末魔だった。

第一章 一

 なんと遠いのか……。
 蒼介(そうすけ)は天を仰ぐ。青く澄んだ空にうろこ雲の襞ができている。しかしその青空の殆どは無数の忍び返しの穂先で塞がれていた。
 此処は江戸の中央に置かれた牢屋敷である。町人(まちもの)の住居や商家と区別する為に屋敷の周りには濠が巡らされ、容易には登れぬ塀と忍び返しに囲まれていた。
 肩に手を置かれる。振り返れば牢の鍵を預かる鍵役同心の熊谷(くまがい)(さきがけ)が蒼介を見下ろしてきた。頬に刻み込まれた皺が今日は一段と深い。
「頼むぞ」
 そう噛み締めるように囁かれる。太い毛に覆われた腕が蒼介の肩をゆっくりと押した。
「はい」
 短い返事を返す。それ以上の言葉はいらなかった。脆い日差しの隙間で熊谷の小さな眼が僅かに震え、羽織から剥がれる爪先が何かを言いかけてやめるのが分かった。
 なんと遠いのだろうか……冷たく晴れた空に手が届く筈もない。町奉行所から来た検視与力と、牢屋奉行の石出帯刀の姿が見える。蒼介は深々と一礼した。
 その先にあるのは無数の格子に別たれたこの世の果てだった。

湿った土に格子の影が列を成す。蒼介の足が光を削ぐごとに、内側に並べられた鞘の奥で誰かが息を呑んだ。牢の奥に潜む無数の眼が蒼介を見つめる。
水瀬(みなせ)様……朝日も届かぬ闇の奥から誰かが蒼介を乞う。手がこすりあわされる。幾つもの頭が垂れられる。ああ――……蒼介は誰にも気が付かれぬように、僅かに肩を落とした。
今日も牢の中の囚人達は蒼介を求めていた。罪人である我が身を責める獄卒にも斉しい牢屋同心の水瀬蒼介に縋りついていた。
世間がこの様子を見れば狂っていると言うだろう。ようやく二十歳になったばかりの青二才に何ができるのかと訝しむかもしれない。
蒼介は瞼を落とす。蒼介自身にはなんの力もない。全てこの身に流れる血が引き起こした業なのだ。
 水瀬様――闇の底から手が伸ばされる。この江戸小伝馬町牢屋敷において、今や蒼介は一筋の光明だった。
「……」
胸が軋む。自分の中に流れる血が鉛のように冷たく重いものに変わっていく。けれど千切れかけた心を曝け出すことなどできない。だから蒼介は只管に背を伸ばし、前を歩く熊谷の広い背中だけを見つめた。
いつだって冷静を装いながら平静を義務付けられている。これが蒼介の役目だった。公儀から与えられ、牢屋敷が求める蒼介の役割だった。血筋ゆえの宿命だった。
 か細い光の中で獣とも魚ともつかぬ腐りきった糠のような臭いが重く澱む。行き場なく詰まりきったこの腐臭が、生きた人間の生身(あるがまま)の臭いだった。
 牢の鍵を熊谷が錠前に差し込む。鈍い音をたてて戸が開いた。
無数の視線が蒼介に集まる。
石河(いしこ)土佐守殿御掛りにて信濃筑摩郡長畝村無宿二十一歳半次、八月二六日入牢!!」
 熊谷の胴間声が鈍く響く。無宿半次――それが今朝の罪人だった。
蒼介が首を刎ねる相手だった。
牢屋同心の役目は囚人の監督と奉行所への送迎、そして処刑に立ち会うことだ。執行者になることなど、これまでならば有り得なかった。
けれど今や公儀は、牢屋同心である蒼介に斬首を任せている。それもまた蒼介の内側に流れる血が引き起こした因果だった。
「名主おりましたァ」
 土を舐めたように荒れた声が牢を震わせる。地べたに並ぶ囚人が合せていた手を剥がし、一斉に平伏した。同時に何枚もの畳の上に腰掛けた髭面の男がきめ板を掲げる。一人だけ綺麗に剃った月代が青白く光っていた。
「無宿半次二十一歳、八月二六日の入牢、他に同所同名は御座りません」
 牢名主の蛮声が牢に響き渡る。同時にきめ板が牢内の板の間に打ち付けられた。がんと人の頭を殴ったような音の中で熊谷が半次を呼ぶ。
「オオイ」
その反響が消えるのも待たず立ち上がったのは、もはや皮も削ぎ落ちて、骨しか残っていないような男だった。
「ああ……」
 男の口から独白とも感嘆ともつかぬ息が漏れ出した。扱け切った顔の中心で黄色い眼が真円に見開かれる。
半次は笑っていた。肉も削げ落ち、皮も剥がれ、数刻後には首を刎ね落とされようとしている人間が顔中で笑っていた。
「水瀬様……」
 半次は自ら歩いて鞘の外に出てきた。死に怯える様子もない。
「蒼介様……」
戦慄く半次の手が蒼介の顔に伸ばされた。乾涸び切った爪先が蒼介の頬に僅かに触れた。
 熊谷の怒声が響く。張番が半次を組み伏せる。
「放してやってください」
 蒼介は思わず張番の腕に触れた。水を打ったように牢が静まり返る。
「お願い致します」
蒼介は身を屈め、床の上に押さえつけられた半次と目を合わせた。
「水瀬様……?」
狼狽える半次を蒼介は静かに見つめる。その視線を逸らすことなく張番を促し、半次を組み敷く腕を解かせた。
「水瀬」
 熊谷の声が蒼介を押し留める。けれど蒼介は首を横に振った。
「私は構いません」
 それは熊谷への返答なのか、それとも半次へかけた言葉なのか蒼介にも分からなかった。けれど躊躇うことなく蒼介は半次の右手をとる。そのまま自分の頬に引き寄せた。
 蒼介の頬に触れた半次の指は震えていた。それは人らしさなどとうに失った乾いた手のひらで、凍えきった指だった。
「水瀬様」
 半次が蒼介を呼ぶ。蒼介は半次の手のひらに頬を預けながら小さく頷いた。
「水瀬様――」
 半次の手に力が籠る。もはや右手だけでなく両の手で半次は蒼介の顔を包んでいた。生きた人の熱い鼓動が手のひらを通じて蒼介に伝わってくる。戦慄く腕の向こう側にある半次の顔は、今にも泣き崩れそうだった。
「水瀬様」
 痺れたように震える手のひらの全てを使って、半次は蒼介の顔を確かめていく。
 額の丸みに触れる――そこは少しだけ前方に突きだしていた。
 鼻の筋をつたう――人よりも高さのある鼻だった。
高い頬骨。えらの張った顎。そして太く根をはった首まで半次の手は蒼介の形を写し取っていく。
「ああ……」
 半次が息を吐く。恍惚に満たされた笑みが顔中に広がった。
 蒼介は半次の手首を握りしめる。そのまま正面から半次の顔を見つめた。歓喜に震える半次の瞳と蒼介の瞳が重なる。

長い睫毛に縁どられた蒼介の瞳は、鮮やかな緑色だった。

「これが真赭(まそほ)様の色で御座いますね」
 蒼介の緑の目を見つめる半次の顔が、笑みで皺になった。
「左様で御座います」
蒼介は静かに答えた。半次は皺だらけの顔で何度も頷く。
「あっしは真赭様を直接は知りません。この牢の中で語り継がれている言葉でしか触れたことが御座いません」
 それが悲しかった――蒼介の頬を包む半次の手に力が加わる。
「この牢を救い、あっしらのような罪人に慈悲をかけてくださったという真赭様を知らずに死ぬのは、ひどく寂しいものだと思っておりました」
 涙を押し殺しているのか、半次の声は震えていた。
「水瀬様は真赭様によく似ておいでだと聞いております」
 蒼介は頷く。記憶の中に金の光が満ちる。それは太陽を身に纏ったように輝く女の姿だった。
「私は黒髪ですが、姉は金の髪をしておりました。けれどそれ以外は同じ顔立ちで御座います」
 蒼介は半次の腕をひく。そのまま自分の顔を近づけた。
「これが姉の顔で御座います」
 半次の皺だらけの満面に喜悦の表情が広がった。
「真赭様……」
 蒼介の顔を再び半次の手のひらがつたう。肉も皮も失ったにもかかわらず崩れることのなかった思慕。永遠にも斉しい救済への願望。その全身に遍いていた渇望は今や蒼介によって満たされていた。
ああ、やはり――半次を見つめながら蒼介は思う。
これは、()い《・》だ。
姉という呪いなんだ……。
それでも目を背けてはならなかった。蒼介は半次を見つめ返す。 蒼介が囚人を見捨てることなどできなかった。見放すことなどできるわけがなかった。
 格子の中で無数の囚人達が蒼介を見上げる。紙がこすれるような音をたてて乾いた手のひらが合された。唱え続けられていた念仏はいつしか牢全体を呼び起こした。
 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
「他にご沙汰は無し!!」
 銅鑼を打ち鳴らすような熊谷の声すらもはや念仏の声に掻き消えた。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……その隙間にエエィという牢の返事が響き渡る。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
張番に縄を打たれ、半次が曳かれていく。その背を見送る念仏が一段と大きくなる。洗い落されることのない垢と汗にまみれた澱みが捩じれ、震え、汗ばむほどの熱気が檻に立ち込めていく。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
蒼介の袖を誰かが掴む。しかし即座に他の囚人に取り押さえられていた。縋った爪は割れ、それでも蒼介を乞う腕はいつまでも伸ばされ続けている。南無阿弥陀仏。ああ南無阿弥陀仏――
これは断罪へといたる罪人への餞別などではない。それは羨望だった。そして死への憧憬だった。懇願と渇望が綯い交ぜになった視線が蒼介の背に覆い被さってくる。
牢獄に繋がれた囚人たちは死を欲していた。断罪を求めていた。
真赭様――姉の名が呼ばれ始める。「狂っている」きっと世間(よのなか)の人間はそう言うだろう。
しかしこれが今の牢獄の常だった。絶望の果てに歪みきった日常だった。

うろこ雲が伸びる秋の空の下で、検使与力が科所を読み上げる。
 澄んだ空の彼方にまで届くような朗々とした声が牢屋敷の改番所に響く。立ち並ぶ獄舎からは未だ念仏が途切れぬことなく唱え続けられていた。
 去年の千曲川の洪水で家も田畑も失った半次が、身よりもなければ頼りもないまま江戸で落ちぶれていくのに時間はかからなかった。かっぱらいで飢えをしのぎ、それでも耐え切れず忍び込んだ小さな居酒屋で見咎めた主人と押し合った末に、その場にあった包丁で半次は相手の胸を一突きしてしまった。
これは食うに困った人間の悲しき末路でしかない。けれど確かな罪だった。罪とは結局、埃のようにつまらぬ理由が山のように積み重なった末の結果でしかなかった。
「死罪申し付ける」
 秋空にひるがえった検視与力の一際鋭い声に念仏の声が呼応する。
「おありがとう」
 死を宣告された半次のはっきりとした返事が、爽やかな秋風を呼んだ。その骸骨のような顔には晴れやかな微笑が浮かんでいた。
久方ぶりの日差しが眩しいのか僅かに眼を細めながら、半次が空仰ぐ。綺麗ですね――そう呟く姿に最早この世への未練など欠片もなかった。
張番が非人に縄を渡す。同時に三人の非人が半次の脇を囲んだ。それでも半次の足は萎えることなくしっかと土を踏む。
「……」
刑場の前に聳える地獄門の前で蒼介は懐から面紙を取り出した。昨晩、町奉行所より石出帯刀に送られた半次の罪状を書き付けた半紙である。
 蒼介はそれを縦にし、半次の顔に当てる。そのまま細い藁の縄を額に回し、縫い止めた。こうやって罪人は自分の犯した罪に最期の瞬間まで咎められ続ける。彼らを見送るのは罪の切れ端だけだった。
「……」
 蒼介は半次の頬に触れた。そのまま顎まで指をつたわせる。そのこけた頬の形を確かめ、削げ落ちた顎の先にいたるまで蒼介は指の腹で確かめていく。
半次が蒼介の顔をその乾いた手のひらに刻み込んだように、蒼介も半次を覚えておきたかった。その人肌を理解しておきたかった。
離れた指先には半次の輪郭が確かに残っていた。これでもう二度と蒼介が半次を忘れることはない。
 これが餞別になるとは思えず、供養の代わりになると信じていられるほど蒼介は自惚れていない。けれどたとえ罪人といえど紙切れ一枚で見送られるなどあまりに(むご)いではないか……。
「水瀬様」
 半次の声が震えた。面紙に隠された顔が戦慄いている。
「おありがとうございます」
 こんなあっしに――細い涙が一筋、顎をつたった。
真赭(まそほ)様の下へ逝けるだけで充分だというのに……こんな……こんな」
 その先は嗚咽に飲み干された。背中が丸まり、大きく痙攣する。
燕兒(えんじ)様にもお伝えしておきます」
 どれだけ水瀬様があっしに尽くしてくれたか――
「水瀬様の御父上様にしっかりお伝え致します」
おありがとうございます、おありがとう……感謝の言葉を繰り返す半次の背を蒼介は抱く。そのまま頬を寄せた。半次の脈打つ体は人の熱に満ちていた。
「参りましょう」
 蒼介の言葉に半次が幾度も頷く。幾筋もの涙が蒼介の頬を濡らした。
「罪は贖われます」
 青く澄んだ空はあまりに遠かった。
「もう誰も貴方を咎めない」
 蒼介は僅かに瞼を落とし、半次の躰を強く抱いた。
刑場へと続く地獄門をくぐる。ここで念をおされずとも一切の希望などとうに捨てている。けれど人であることを忘れることはきっと、とても寂しい。いつだって蒼介はそう思っていた。
土壇場の前に敷かれた空き俵の前に半次が座る。非人の一人が小脇差で半次の首にかけられた咽輪の縄を切った。別の二人が着物をぐっと剥ぎ落す。半次の肋骨の浮き出た胸が露わとなった。そのまま両手がおさえられ、足の親指が引っ張られる。半次の首がぐっと突き出した。
 刑場に植えられた柳が揺れる。干乾びた亡霊の名残のような腕は一体いくつの人の首が落ちるのを眺め、囃し立てたのか。
刑場に並ぶ男たちの視線が蒼介に集まる。一つ呼吸をし、蒼介は石出帯刀、検視与力、牢屋見回り与力、そして牢屋同心の上席でもある鍵役同心の熊谷と群岡善士郎(むらおかよしろう)に一礼した。群岡の青白い顔が小さく頷くのが分かった。
群岡が細長い体躯を伸ばし、姿勢を正す。巨体で赤ら顔の熊谷と並べば、柳の下に佇む幽鬼のような姿がより際立った。
群岡は去年の暮れに肺の病で倒れ、生死の境を彷徨った。しかし養子もとれぬまま職を離れるわけにはいかないと、その細く窶れた身体に鞭うって未だ鍵役を務め続けている。
枯れた柳の枝が揺れる。命の残骸のような落葉が刑場に敷き詰められていく。その一片が崩れるごとに自分の命が削られるのを見るようだ――一年前に蒼介が見舞ったとき、起き上がることもままならぬ病床で群岡はそうこぼした。
幸い人にうつることはなく、今では咳も殆ど出ない。しかし群岡の肉体は痩せさらばえ、その青褪めた顔には黒い隈が影のように広がっていた。それでも群岡は己が役割を忠実に果たし、その責務のままに生き抜こうとしていた。
「……」
 蒼介は土壇場に立つ。抜き晒した刀身に反射する朝日はひどく無残で冷たかった。
一度大きく振るう。飛び散る露の中に見知らぬ男が二人映った。どこかの商家の主人だろうか。日向で植木鉢でも眺めていそうなその目はこれから起こることに対する僅かばかりの恐怖に戦慄きながら、汗ばむほどの期待に震えていた。こうやって人が斬られるところをわざわざ身に来る人間がいる。刑など見世物だった。他人の首が転がるところなど祭祀にもいたらぬ茶番でしかなかった。
 脆い日差しだというのに目がひどく痛む。緑の虹彩は人よりも光に弱かった。けれど動じるわけにはいかなかった。そんなことは何の言い訳にもならないことを蒼介は理解していた。
半次の左脇に立つ。骨ばった首筋が嗚咽に喘いでいた。
――真赭様……
半次の声が耳に浸み込む。蒼介は右手を刀の柄にかける。
諸行無常――そう心で唱えたときには人差し指が柄にかかる。
――燕兒様……
是生滅法……中指を折る。生滅滅已――薬指が添えられた。
寂滅為楽
そう心で叫んだ時には既に刀は振り下ろされ、半次の首は皮一枚残して切り離された。何処からともなく感嘆の声が漏れる。
重りのように首が傾いだ。皮が引き千切れ、血溜まりの筵の上に首が落ちる。即座に非人が残された胴体を前に傾け、脈を打ちながら噴き出す血潮を血溜まりの中へと押し出した。心得たもので早く血が出尽くすよう、首を無くした体を押し揉んでいる。
血溜まりに落ちた半次の髻を別の非人が掴みとる。面紙が剥ぎ取られ、剥き出しの死に貌が検視与力に掲げられた。与力は一瞬怪訝な顔をしたが、それでも納得したのか一つ頷く。
これで終わりだった。これが罰の全てだった。
罪人に救いなどあるわけがない。希望など望むほうが烏滸がましい。けれど慈悲もなければ慈愛もなくただ見世物となって死んでいく運命ほど呪わしいものはきっとない。
それでも半次は笑っていた。打ち落とされた最期の顔は涙の痕すらえくぼのようで、仏よりも柔和に微笑んでいた。それはまさに恍惚と呼ぶに相応しい貌だった。
真赭様……燕兒様の……半次の最期の言葉を蒼介は思い出す。
死者の往生を願う念仏は未だ絶えることなく牢屋敷に響き渡っている。生への執着から解放された咎人ほど幸福なものはきっとこの世にない。
「ご苦労だった」
 熊谷の手が蒼介の肩におかれる。それは労りであると同時に同情で、そして終わることのない懺悔だった。悪かった――そう過去に何度も繰り返された悔悛でしかなかった。
「有難うございます」
 蒼介は静かに答える。
「けれどどうか憐れまないでください」
 熊谷の背中に群岡がいることにも気が付いていた。
「これが燕兒の息子であり、真赭の弟である私の果たすべき役割で御座います」
 牢屋敷の秩序と安寧の手段(てだて)ならば、何を苦に思いましょうか――蒼介は熊谷を見つめた。
遠い空を往く雲は浄土の路を知っているのか。悲しき罪人の手をひいてくれているのか。透き通るほどに青い空は涙雨の一つも降らすことなく、どこまでも他人事のような貌をしていた。
 
半次の遺骸が牢屋敷の裏から大八車に乗せられて出ていく。小塚原の刑場へと取り捨てられるのだ。首を挿げて悼まれることもないままに野犬に貪り食われるだろう。
澄んだ秋の風が蒼介の頬を撫でた。
笞がしなる。
膚が打たれる音が空高く響き、罪人が低く呻いた。往来で平伏する囚人の家主と町名主の肩がびくりと跳ねる。
「四十二、四十三、四十四……」
 箒尻と呼ばれる笞が罪人を打つたびに読み上げる数が増える。鉄よりも無感情に徹した声が乱れることはなく、牢屋敷を巡る濠の水面がただ揺れるだけだった。
牢屋敷の門前に敷かれた筵の上で、裸に剥かれた罪人が苦痛に呻く。その躰がどれだけ苦悶に喘ごうと四肢を押さえつける下男らの手が緩むこともない。まな板の魚よりも惨く跳ねる罪人の体は既に無数の傷痕で埋め尽くされていた。
 石出帯刀と検視与力、そして継裃の徒目付は顔色ひとつ変えることなく澄ました顔で罪人の咎が数えられていくのを見つめ続ける。罪に怯えなければならないのは見せつけられる家主と町名主だ。
「五十」
 控えていた牢医師が素早く罪人の口に気付け薬を押し込む。見開いた眼を覗き込み、若干の生気が戻ってきたことを確かめた医師がゆっくりと目付らに頷いた。投げ出された罪人の四肢は未だ解放されず、徐々に腫れ上がっていく背中は無数の蚯蚓がのたうち回っているようだった。
 蒼介は手桶の水を汲んだ椀を罪人の口元へ持っていく。白目を剥きそうになりながらも罪人はなんとか水を飲み干した。咽喉が二つ鳴る。水瀬様……と呟く声すら噎せこんだ。
 口の端から垂れる水を唾液と一緒にふき取る。汗で張り付いた髪が目にかかっていたのですくって耳にかけてやった。ただの気休めだと分かっていても、やらずにはおれなかった。
「おありがとうございます」
 罪人が喘ぐ。
「瞼の裏で綺麗な女の人が微笑んでいらっしゃいました」
 風が鳴る。錆びた血のような紅葉が散った。
「水瀬様と同じお顔立ちをされておりましたから、きっと真赭様で御座います」
 その罪人の言葉を遮るように蒼介は腰を下ろす。どうしようもなく熱が近い。生きた人間の証がそこにあった。
「牢から出たとしても姉は貴方を見棄てはしません」
 緑の眼がしっかりと見えるように瞬きすら堪えて、蒼介は男を見つめる。
「この百敲きの刑が済んだら、もう一度やり直しなさい。まっとうになりなさい」
 貴方にはその機会が与えられた――蒼介は男の額に手をやる。熱い汗が手のひらに張り付いた。
「あっしは全うになどなりたくない」
 男は首を横に振る。
「あっしはここで裁かれ死にとう御座います」
 男の苦渋に歪んだ顔が蒼介に寄せられた。荒い息に殴られる。
「真赭様と燕兒様の下へ逝きとう御座います」
 蒼介の心が握りつぶされたように痛んだ。
「悲しいことを言わないでください」
 全身の震えを必死に押し殺し、蒼介は両の手で男の頬を包んだ。
「お願いで御座います」
 ああ――これも呪いだ……蒼介はただ男を正面から見つめる。
「どれだけ辛くても悲しくても此処には二度と戻ってこないでください」
 確かめるように力を込める。
「けれど」男の眦が震えるのが分かった。
「あっしは本当は……」
「父も姉もそんなことは望んでいません」
男の顔を力の限り包んだまま額を寄せる。重なる熱の底で擦り切れた血の臭いを感じた。脈打つ血と噴き出す汗はそれだけで貴かった。だから失いたくなかった。
「お願いで御座います」
 男の顔を小さく揺さぶる。それはもはや懇願だった。
「お願いで御座います……」
痛いほど冷たい風が通り過ぎていく――男が小さく頷くのを額で感じた。
「気は済んだか」
 枯れ葉が擦れたような声が蒼介の頭上から振り下ろされた。
「はい」
 蒼介は立ち上がる。罪人ももう何も言うことはないと言うように再び項垂れた。しかしその伏した顔を濡らす涙は尽きることなく溢れ出す。真赭様……小さく祈る声が聞こえた。
「早く退け。邪魔だ」
 笞を手にした男が蒼介を押しのける。手鉤で皮ごと引き伸ばされたのかと思うほど長い顔をした男だ。蒼介は頷き、下がる。
 馬面の男は苦虫を噛み潰したような顔のまま蒼介を一瞥したが、ふんと一つ鼻をならした後は別段気に留める様子もなく足場を固めた。そのまま笞を振り翳す。
 馬面の男の笞が罪人の肩を打つ。二度続けて同じところは打たず、少しでも罪人が痙攣を起こせば次の笞は僅かに弛める。もう何十年と牢屋同心を勤め、この叩役の任を担い続けてきた午藤主馬(ごとうしゅめ)ならではの技量だった。
「五十一、五十二……」
 笞に応える数役の声も朗々と響く。一切の感情は排され抑揚もない。しかし綿を含んだような声は乱れることなく、その単調な繰り返しは安らぎさえ感じさせた。
「六十、六十一、六十二」
 罪が数えられていく。数役の丑守勲(うしもりいさお)が拳を一層強く握りしめる。年を重ねるにつれて厚みを増した腫れぼったい瞼の下で、小さな眼が忙しなく動いていた。罪人の抉れる皮膚を凝視しながら、笞を振り上げる午藤の腕が軋む音を聞く。笞が風を切る瞬間を見極め、溢れる血の臭いを嗅ぎながら呼吸を整える。
「七十五、七十六、七十七」
顎の肉もはみ出す短い首を丑守は更に縮める。繰り返される単調な動きに心惑わされることのないように、執行され続ける罰へと全身を集中させている。打たれているのは罪人ではなく己だ――嘗て丑守は蒼介にそう語った。
一つでも数え間違えれば進退に関わり、打ち損じは自らの生死(いきしに)を問う。試されているのは囚人ではなく数役の丑守であり、そして叩役の午藤だった。もう何十年も罪人の血肉と苦痛を分ちあい運命を共にしてきた二人だった。
「百」
 終わりを告げる丑守の声に午藤が打つ手を止める。下男らが罪人に素早く着物を羽織らせ、牢医師が脈をとる。穿たれる数が囚人の犯した罪の重さだった。腫れ上がった背中こそ咎人の証だった。
 罰を終えた嘗ての罪人は、背中以上に腫れ上がった瞼のまま気を失っていた。蒼介はその瞼に触れる。
これがこの世が蒼介に与えた役割だった。
そして罪だった。

第一章 二

  磔にされた罪人の肉体を貫くのは非人の役割だった。
だから蒼介は瞬きさえ堪えて絶命する罪人を罪木の下から見上げ続けた。槍が一突きされるごとに皮が破れ肉が飛び出し血が噴き出す。けれど懺悔も命乞いも言葉にならぬ絶叫すら降ってこなかった。
 血みどろの罪人達は誰もが微笑み、苦痛も後悔もない貌で地上の蒼介を見つめる。今の罪人にとって、蒼介に見守られながら槍に貫かれることがこの上ない快楽であり幸福だった。
 その異様な光景に見物人たちが後ずさる。恐怖に満ちた戸惑いと慄きに蒼介の背中が塗りたくられていく。血が降る。肉が飛び散る。刑はもう佳境に到ろうとしていた。槍に貪り食われる罪人が絶頂を迎える。
「真赭様……」
 血に覆われた唇が祈る。赤黒い紅葉に爛れた天上から金色の光が降り注ぐ。死にゆく人の最期の影が地上に伸びていく。
 槍が罪人の肉を削ぎ落とすごとに蒼介の脇腹を同じ痛みが貫く。まるで炎が爆ぜるように紅葉が散る。
 首を落とされる罪人よりも遥かに幸福な表情が罪木の上にかざされる。
肉が飛び散る。
ある筈のない激痛が蒼介の全身を喰い散らかしていく。しかし蒼介は眉ひとつ顰めることなく罪人らを見上げ続けた。
蒼介の背中で誰かが嘔吐する。罪人が天を仰ぐ。
真赭様……。燕兒様……。
人よりも遥かに仏に近づいた幸福な罪人の喉元が掻き切られる。それが最期だった。――

忍び返しに突き立てられた野鼠の死骸は食されることもなく、夕陽に晒され続ける。百舌の早贄だ。処刑場からようやく牢屋敷に戻ってきた今の蒼介には、畜生の贄を貫く忍び返しが罪人の肉体を貫いた穂先のように思えた。それでもきっと食されぬ贄よりも罪に殉じた罪人の方が遥かに幸福だった。
蒼介は生まれづいての牢屋同心だった。牢屋敷の外で暮らしたこともない。物心ついたときには既に父親の燕兒が牢の鍵を預かる鍵役同心だった為、牢屋敷の中にある組屋敷で暮らしていた。十年前に燕兒()が死んだ後も米沢町や橋本町に移住することなく、姉の真赭と共に牢屋敷の隅に新たに建てられた家を一つ拝領して暮らしていた。
父親を亡くした姉弟の為に公儀はわざわざ家を建てたのだ。けれどこれが慈悲でないことくらい蒼介は理解していた。憐みですらなかった。
 こんなものはただ混乱(・・)を防ぐだけの手立てに過ぎなかった。
蒼介は額に手をやった。燃えたつ西日がひどく眩しくて辛い。
夕陽に燃える空は十年前のあの夜にも似て、呼び起こされる記憶に抗うことなどできなかった。
「牢入り―」
 夕陽が沈む先から響く非人の叫び声に蒼介は我に返る。誰が刑場の露と消えようと今日もまた新たな罪人がやってきた。

牢庭に建てられた火之番所の前に罪人が並ぶ。赤い夕陽に染められた砂利の上に長い影が十の指では数え切れぬほど伸びていた。
額に犬と入墨を彫られた厳つい男が落ち間で待ち構える熊谷を睨みつけたと思えば、頬に張りついた髪が口に浸み込んでいることにすら気が付かない女が茫然と立ち竦む。蒼介よりも若いだろう少年が鼻を鳴らした脇では、黄色い歯を剥き出しにした太り(じし)の小男がいた。
 熊谷が火之番所の落ち間に罪人を一人づつ呼び寄せる。南北の奉行所、時には火盗改から届けられた書き付けの通りの罪人かどうか確認するのだ。喧嘩に博打、恋慕の果ての刃傷沙汰に強請りたかり。店の金を使い込んだ末に欠落(かけおち)を図った男がいたと思えば食い逃げにいたるまで、軽重様々な罪状が次々と読み上げられていく。尽きることのない罪人にさすがの熊谷の喉も枯れてきた。
 ふと、蒼介は視線を感じた。僅かに首を傾ければ、黒羽織の同心が二人、こちらを見ていた。
町奉行所から派遣された牢屋敷見廻り同心だ。朝または不意にやってきて牢を巡視する。赤黒い陽射しに半身を染めた男たちはまるで塵捨て場の残飯を見るような目つきで蒼介を睨みつけていた。
 見廻り同心が取り締まるのは牢屋同心だった。見張られているのは囚人ではなく、罪を預かり、罰を執行する役人の方だった。
「もう……二十四年にもなるのか」
 町奉行所の同心を僅かに仰ぎながら蒼介の隣でそう呟くのは牢屋同心小頭の鶏冠靭負(とさかゆきえ)だった。平当番の蒼介の直接の上役でもある。
 潜めた声を隠すように洟がすすられる。鶏冠の言うとおり、町奉行所の役人に牢屋見廻りの役が課せられるようになったのは今から二十四年前の享保四年だった。罪と罰が統制され、牢屋敷が名実ともに町奉行所の支配を受ける下位組織として位置づけられるその先駆けでもあった。
括られ、曳かれていく罪人の影が夕陽に揺れる。
この世は八代将軍である吉宗によって成立した時代だといっても過言ではない。前時代に繰り返された貨幣の増鋳によって経済は混乱し、米の値段が安くなったと思えば他の物価は高騰する。金銀の産出量も急激に低下し、逼迫した公儀の財政では旗本や御家人への給米すら満足に渡せない。加えて痘瘡の流行は江戸だけでも八万もの人命を奪っていった。国は疲弊し、不安は混乱を煽る。
そんな時代に登場したのが吉宗だった。先例を変え、格式にすら従わず、絶対的な将軍の権威のもとで国の再編を目指した改革の影響を牢屋敷は強く受けた。
将軍の座についてすぐに吉宗は法の整備に取り掛かった。不安に侵され、混乱に擦り切れた末に複雑になりつつあった世間を整備する為には、整頓された「法典」が必要だったのだ。その編纂に吉宗は心血を注いだ。
 蒼介が死んだ燕兒の跡を継ぎ、牢屋同心見習いになったのは十年前のことだ。跡を継いだと言ってもまだ十歳とあまりに幼かったため、五年後に元服するまでは熊谷が後見人についてくれた。
その頃には法の改革も大詰めを迎えており、毎日のように江戸城からやってきた役人が牢を見廻り、書庫蔵から過去の牢帳を抱えだしていった。黒い影法師のようにのっぺりとした顔の役人たちを何度も蒼介は迎え、見送った。そんな蒼介を見るたびに役人たちは眉を潜めた。
 ――そんな顔にすら慣れたころ吉宗の法典は完成する。
一年前の四月だった。花も盛りを過ぎた頃だった。
全ての大罪は将軍の名のもとに裁かれて、罰は従えられる。鼻削ぎの刑は入墨刑に代わり、罪はその身一代限りと定められた末に嘗ての無慈悲な連坐刑は廃止された。人の価値は確かに以前より高まったのかもしれない。けれど秩序は依然として人命に先だった。
 この世は主殺しと親殺しを最も罪深いものと定義した。自宅が火に巻かれた際に老いた両親を残して逃げたことを咎められ、火罪となった息子もいる。殺意があろうとなかろうと、「不孝」「不忠」そのものが罪となる世が明確な言葉でもって定義され、法によって保障されるようになった。
熊谷が咳払いをする。ようやく半分の囚人の身許が読み上げられた。
情夫の眼を抉り出した女は何度名を呼ばれても応えることすらままならず、孕ませた女に薬を飲ませて堕胎させようとした男は胎児だけでなく女すら喪った。
「恋さえ命がけだ」
 鶏冠の独白は夕陽の影に潰えていく。この世では道ならぬ逢瀬はいつだって破滅にしかいたらない。行きつく先にあるのは地獄にもならぬ牢屋敷(ふきだまり)だけだというのに、それでも人は罪を犯し、咎を繰り返す。秩序に刃向いたいわけではない。平穏を乱すつもりなどなかった。ただ人ゆえの感情に負けただけなのだ。
「燕兒殿が生きていたら、なんと言ったかな」
 鶏冠が僅かに項垂れる。
「この時代は罪人を生む理由を作りすぎた。そう申すでしょう」
 蒼介は静かに答える。夕焼けの中に蹲る人間たちはあまりに罪深く、故に無力だった。
「燕兒殿らしい」
 鶏冠が安堵したように微笑んだ。夕陽に染まるその顔は、瞬きの間に十も老けたような気がした。
法典制定直後から牢に送られてくる囚人の数は跳ね上がり、一年半が経った今となっては大牢の囚人ですら横になって眠れない。牢内で夜な夜な行われる口減らしも数が増え、まっとうな裁きを受ければ死なずに済むだろう人間が殺されては打ち捨てられていく。
 無情でもなければ不条理ですらない。そういう世間(よのなか)なのだ。
この世の罪人は世間の秩序を乱しただけではなく、権威に刃向ったものとして処理される。将軍の権威を回復させんとする吉宗の思惑に基づき、また新たな法の権威を世に知らしめんが為に、人は罪に問われるようになっていった。
牢屋敷しか世間を知らない蒼介は罪と罰を通じて時代を知った。その価値を知った。人の為に法があるのではない。法の為に人が罪に問われるのだ。
 見廻り同心の睨みつけるような視線が膚に突き刺さる。――気が付いていた。相手はずっと蒼介しか見ていなかった。
「……不快だろう」
 鶏冠が囁く。蒼介は小さく首を横に振った。
「いいえ」
 これでいいと思っていた。公儀に監視され、囚われるのは蒼介だけで十分だった。
 きっともう誰にも罪は無い。蒼介はそう思っていた。
全ての罪は燕兒()によって贖われたのだ。
――およそ三十年前に将軍の座についた吉宗は法の改革のみならず牢の改善にも力を入れた。三十年前の牢内の環境は今以上に劣悪で、役人は不正に溺れ、汚職にまみれていたのだ。
囚人の買い物の上前をはねることなど日常茶飯事で、身内からの差し入れは役人全員で分け合っては売りさばく。詰所では博打を繰り返し、挙句の果てには夜な夜な手ごろな女を牢から呼び出しては犯すといったことまで行われていたらしい。身籠ってしまえば腹を蹴破ればいいだけのことで、何人もの女が裁きを受けることなく命を落とした。
そんな日常的に繰り返される暴力が将軍の耳に入らないわけがない。吉宗は風聞の真偽を確かめる為に一人の締戸番坊主を罪人として牢へ送り込んだ。
その結果、役人らの悪事は白日のもとにさらされ、何人かの同心が沙汰を待つ身となった。何人もの女を犯しては殺した男たちであり、中には囚人の身内から金子をまきあげていた人間もいた。
遠島か、それとも切腹か――人でなしの所業に恩赦などあろう筈もなかった。
それを覆したのが当時の叩役だった燕兒だった。熊谷が宥め群岡に縋られても聞かなければ、丑守に泣かれ午藤に殴りつけられても構わず、鷹狩りの最中だった吉宗の眼前に燕兒は飛び出した。
今更何を言っても世迷言でしかない。嘆願にすらなりえない。
『鬼畜の所業ではあった』
 幾人もの役人に白刃をむけられる中で臆することなく、燕兒は吉宗にはっきりとそう言い切った。
『だが人ゆえの罪だ』
 地に膝はつくも頭を垂れることもなく、慈悲を願い出る素振りも見せなかったという。
『我々のもとにやってくる罪人が尽きることなどない。何度も同じような咎を違う人間から聞かされる日々だ』
 燕兒の眼に映る吉宗も微動だにしなかったという。
『だからこの世はこれほどまでに罪深いのかと嘆く暇もない。夜になれば牢の空きを増やすために囚人同士が殺し合う。罰も受けることもなく死んだ人間がいたと思えば、朝には首を斬られる人間が泣き喚いて慈悲を乞う。そして次の日には幾つもの骸が牢庭に積み上げられ、その骸以上の囚人がまたやってくる。あすこにあるのは地上の地獄だ。無限の奈落だ』
 罪を犯した以上、地獄に落ちるのは当然だ。自業自得というものではないか――そう言う警護の役人を一瞥することもなく燕兒は将軍だけを見据える。
『私は牢で繰り返される罪人の懺悔が如何に悲惨であるかをお話ししているわけではない。牢という場所が飽きることなく繰り返す罪の結果と罰の実態が引き起こす人心への弊害をあるがままにお話ししているのだ』
 罪と接するのは我々だ。罰を執行するのは我々だ。
『上様、貴方ではない』
 だから分からぬだろう。知らぬだろう。
『我々の身を蝕む絶望を!!』
『人間が飼い殺してきた狂気を!!』
 それが牙をむいてくる瞬間のその恐怖を――
『お前たちは知らないだろう』
 だから考えろ。
『鬼でもなけれ神でもないただの人間がこの世の地獄でどうして平気でいられる。身を滅ぼさずにいられる。絶望せずにいられる』
 分からない筈がない。気が付かなかったとは言わせない。
『我々を生かすのは我々を不浄役人と罵る世間が繰り返す罪だ』
 この屈辱にどうして堪えられる。
『この現実をどうして受け入れられる』
 世間から見捨てられ、罵られ、それでも他の生き方を選べないというのならば――
『どうして罪に縋らずにいられる』
 どうして自分を生かすものを頼らずにいられようか。
『鬼畜の所業ではあった。だが人間故の罪だ』 
 爛れる夕陽が血みどろの刃のような閃光を放つ。
『我々と同じ情況に身を置いて、我々と同じ罪を犯さずにいられると断言できる人間だけが我々を裁け!!』
 雪がれることのない罪のように夕陽は天を焦がす。
『罪とは世を怨み人を憎む人間が、人間であることを諦めきれないがゆえに犯すものだ』
 西方浄土が赤く染まる。この世の罪は落日によって裁かれる。
『それでも彼奴らを裁くというのならば』
 燕兒が着物を脱ぎ落した。
『この命も共に参ろう』
 とうに諦めた命だ。惜しくはない。――抜き晒した脇差の切っ先を腹にあてる。
『沙汰を待つ連中は心根の弱い奴らばかりだ。黄泉平坂の手をひいてやらんわけにはいかん』
 鈍く光る刃に夕陽が映り、赤く溶けた。
『自分の命で勘弁しろというわけではないのか』
 ――吉宗が初めて口を開いた。
『俺の命は一つきりだ。たった一つの命であいつら全員を救おうなんぞ、それは流石に虫がよすぎるだろう』
 介錯はいらねェよ――もはや口調すら崩れ果てた。
『何が欲しい』
 動じることなく吉宗は燕兒を見下ろす。
『慈悲か』
 燕兒が脇差を握り直す。
『慈悲などいらん。時間だけが欲しい』
 人が変わるだけの時間が欲しい。
『あんた《・・・》は牢を変えるつもりだろう。牢だけでなく世を変え、人の価値すら変える算段(つもり)でいる』
 その為に将軍にまでなったんだろう?
『牢屋敷の狂人たちすら変える事ができずに何が将軍だ』
 笑っちまうぜ――燕兒が初めて白い歯を覗かせた。
『環境と境遇さえ変われば人は変わるというわけか』
 吉宗が顎を撫でる。濃い髭が目立った。
『たぶんな』
 燕兒の正直な答えにふんと吉宗も笑う。
『ならば試させてもらおう』
 これが始まりだった。
『その命、賭けてもらうぞ』
 誰もが終わりなき後悔に溺れ、尽きることのない懺悔を繰り返すことになる、その始まりだった。
その後、切腹は免れまいと思われていた役人たちは手鎖だけで済み、家禄を没収された人間もいなかった。全て燕兒の、罰ではなく時間をかけた更生への訴えが認められたがゆえだった。
しかし、今後再び牢屋同心らの不届きな振舞いが発覚した場合、当人だけでなく燕兒も責めを負うことになったのも燕兒の無謀な直訴がもたらした結果だった。
これは燕兒と吉宗の「賭け」だった。
人は生まれつき悪人なのか。それとも置かれた環境によって悪人になりうるのか。罪人しかいない世界で賭けるものは人の精神(こころ)であり燕兒の命だった。
 なんと愚かしい――そう蒼介は思う。こんな前提では性善説と性悪説の真偽を確かめることなどできない。
「本質が悪に近しい人間が、環境の変化によって罪に手を染めずにいられるか」
 これがこの賭けで知ることのできる本当の結果なのである。現に同じような環境にいた誰もかれもが不正を働いていたわけではない。燕兒にとって分が悪すぎる。
 ――だから賭けの本質など燕兒も吉宗もどうでも良かったのだ。燕兒にとって大切なのは役人らを罪人にしないことであり、吉宗にとって重要なのは牢制の改革だった。
だから吉宗は牢役人らの勤務方法を規定し、牢内掟書を定めることで囚人の差別を防ぎ、牢帳の整備を一層厳しくした。それに加えて町奉行所からの役人の巡回も増え、牢屋同心らはこれまで以上に公儀から監視されるようになった。これが罪の結果だった。罪人が受けるべき仕打ちだった。
牢屋同心たちは時代の囚人であり、その罪は永遠に咎め続けられるものだった。けれど誰も公儀に刃向おうとはしなかった。博打が打たれることもなくなり、夜ごと女を弄ぶこともなくなった。
誰もが燕兒を喪うことに怯えたのだ。自分たちを信じ、人間であることを認め、救ってくれた男を誰もが愛してしまったのだ。だから支配を受け入れてしまった。公儀に飼い慣らされる道を選んだ。
これは父の罪なのかもしれない――蒼介の眼前に並ぶ囚人たちは夕闇の中で誰もが無貌の影法師だった。
役人達は自らの罪を悔いたわけでも、服従によって贖おうとしているわけでもない。ただ燕兒を崇めているだけだ。どれだけ時代に囚われ、罪人のように扱われても役人達は構わなかった。なけなしの誇りすら奪われたところで何を恥じようか。今更何を悔やもうか。
 役人たちは公儀に支配されたわけではなく、燕兒に心酔したのだ。その忠義が果たされ、忠誠を誓える限り、彼らは不浄役人でありながら士でいられた。賤しくも自らの職能に忠実であれた。
それが誇りだった。燕兒はその象徴だった。
 それは囚人達にとっても同じことだった。
叩役を勤めあげ、鍵役助役を経て鍵役となった燕兒は、将軍に逆らった男として囚人にも畏れられる存在となっていた。
『これが結果だ。お前が選んだ人生だ』
 死にゆく罪人に燕兒は冷たく言い放った。
『お前のような男は野垂れ死にするのが関の山だった筈だ。誰にも看取られず孤独に朽ちていくのがお前の宿命だった筈だ』
 だが現実は違う――燕兒は刑場に臨む検視与力や石出帯刀の神妙な顔を指差す。
『お前なんざ生涯お目にかかれなかったようなお大尽共が、お前のためだけに朝から集まってくれてんだぜ』
 あいつらをいっちょ驚かせてやらねェか――そう燕兒は囁く。
『お前の立派な死に様、見せつけてやんな』
 燕兒が囚人に優しい言葉をかけることも、懺悔を促すこともなかった。
『理由なんざどうでもいい』
 生前、熊谷に燕兒がこぼしたらしい。
『泣いて生まれてきて死ぬときも泣くなんざ慌ただしすぎるだろう』
 たいして強くもないのに酒は好きで、呑むと饒舌になった。
『どうせ地獄で苦しむんだ。せめて死の瞬間だけは安らかであって欲しいと願うことの何が悪い』
 こんなしがらみばかりの世の中でよ――そう燕兒は笑ったそうだ。
役人とは思えぬろくでもない言い草であり理屈だと思った。だがそのろくでもなさが罪人達には救いとなった。
罪人にとって権力とは将軍ではなく燕兒だった。それは自分たちを捨てた時代を否定する存在であると同時に、罪を犯した人生すら受け入れてくれる人間だった。
 ――きっとそれが吉宗の狙いだったのだろう。蒼介はそう思っている。
 法の制定を目指し、牢の改革を進める吉宗にとって重要なのは如何に牢屋同心ら服従させ、罪人を支配するかだった。動揺を最低限にとどめ、鬱屈した怒りが公儀にむかわないようにする為には何らかの抑止力が必要だった。反抗の意思すら失わせる手段を欲していた筈だ。
 だから公儀は燕兒の行き過ぎた行動を美談に仕立て上げ、牢屋敷に対する人質としながら誓いすら盾にした。
牢の反抗心は既に燕兒によって満たされている。満たされたがゆえに芽生えた罪悪感を煽るために燕兒は存命を認められたのだ。
燕兒は公儀という支配を機能させるための装置(しくみ)でしかなかった。そうやって燕兒(ちち)は利用され、見事に役割を果たした。
蒼介が生まれる以前の出来事だから、最古参である熊谷や丑守から昔語りとして教えられたことしか知らず、当時はまだ十にもなっていなかっただろう鶏冠の思い出話として聞かされた出来事としてしか分からない。燕兒本人が当時のことを蒼介に話すことはなかった。
分かっていたのだろう。自分が公儀に利用されていることなど重々承知していた筈だ。それでも誓いを守り抜いた。命を賭して牢屋敷を守りぬき、自らの矜持を貫いた。
 ――熊谷が次の罪人を呼ぶ。額に犬の入墨を入れられた男だった。筑前か芸州で既に四度もの罪を犯しているとみえる。死罪以外に先はなく、本人もとうに覚悟を決めているようだった。どこか晴れ晴れとした目が夕陽に染まる。
犬……鶏冠が呟く。その眼はどこか遠くを見つめていた。
 今もまだあの夜の悲鳴を覚えているのだろうか。こんなにも赤い夕陽の頃はあの夜を思い出すというのか。

牢屋敷の全てが焼け爛れ、一人の男の犠牲の上に成立していた安寧すら瓦解したあの夜は、未だ牢屋敷の役人たちの心に深い傷跡を残していた。
 
――燃え上がる炎は闇すら刳り貫いた。それは燕兒の直訴からおよそ二十年が経過した今から十年前の出来事だった。
飛び散る火の粉がようやく十歳になったばかりの蒼介の頬を炙る。腹から溢れる血が止まることなどなく、ただ熱に煽られるにまかせる。倒れこんだ土の熱さに汗ばんだ。
牢の格子が音をたてて崩れていく。目の前に自分の内臓を切り裂いた男の足が現れる。血に濡れた刃が炎に炙られ赤黒く輝いた。
 もはや焦点もろくに結べぬ幼い蒼介の視界に一人の男の姿が映る。薄い膚を炎の影が舐める。女のように細い腕が握る刀が鈍い光を放った。
男が赤く焼け落ちていく天を眺める。その見開かれた眼はどれだけ炎に煽られても瞬き一つしなかった。
犬童(いんどう)さん』
 震える声で蒼介は男の名を呼ぶ。啜った泥が熱くて苦かった。溢れる涙が熱に溶けていく。炎に散る程度の嘆きなどきっと誰にも救われない。
何故――何故このようなことを……どれだけ蒼介が問い続けても犬童が蒼介を見降ろすことはなかった。もう声にすらなっていなかった。
 犬童蛍四郎――まだ二十半ばだというのに落ち着いた男だった。ずっと物書き役を勤め続けてきた牢屋同心だった。丁寧な字を書く男で、細大漏らさず牢帳を仕上げる一方で要点のみを的確にまとめた報告ができる役人だった。どれだけ公儀の監視が厳しくなり、牢帳の管理が複雑になろうとも犬童さえいればどうにかなるだろうと――そう誰からも信頼されていたというのに。
 どうして……貴方が……渦巻く疑問すら火に巻かれて灰になる。もう言葉すら届かない。
それでも脳裏に蘇る記憶はあまりに鮮やかだ。学問にも秀でた犬童は蒼介の手習いの復習にも付き合ってくれた。温かい声だった。優しい腕だった。そんな思い出すらもう炎に食い破られる。
犬童の固まりきった額から汗が溢れ、華奢な顎を流れていく。その姿はまるで炎に炙られ溶けていく氷柱のようだった。人の形をした人でなしだった。
犬童がひとつ瞬きをする。熱に乾ききった唇が僅かに動き、何かを呟いた気がした。軋むように首が動く。
極限まで見開いた眼が蒼介を捉えた。
そこにいたのは犬童ではなかった。夜に降る雪のように物静かでありながら誰からも頼られ慕われた男ではなかった。
犬童の姿をしながらその心はとうに溶け落ちていた。人の感情すら喪った肉の塊は、骨と筋だけで動く機関(からくり)仕掛けの木偶でしかなかった。心すら映さぬ四白眼が炎に煽られる。
『犬童さん』
――炎が湧き立つ。天が爛れ、人の肉が削ぎ落とされる。
犬童が赤黒い刃を引き摺りながら蒼介へと近づいてくる。瞬きすら忘れた犬童の眼が蒼介をとらえた。
刃が振り上げられる。
蒼介は目を背けなかった。
 牢が崩れる。
犬童の眼に蒼介は映っていなかった。

 ――それはまるで腐った果実がもげる瞬間をゆっくりと見ているようだった。

まず赤い肉が剥き出しになった。次に骨が折れる。白い皮膚が糸をひいたと思えばぷつりと切れた。切り落とされた首の断面から勢いよく血が噴き出す。炎よりも熱く、そして激しい。
天が轟く。地が無慈悲に揺れた。
炎の海と鮮血の嵐の中に金色の髪が吹き荒れる。炎に炙られ血に染まり、その金の艶はより輝きを増していく。
 犬童の肉体が崩れていく。それすら金色の乙女は両断した。炎が身悶えながら吼えたつ。
『人に報いを』
 崩れていく天の下で少女が囁く。薙刀の刃がひるがえった。
『鬼に贖いを』
 転がる犬童の首に薙刀の刃が振り下ろされる。果実が潰れるような音が聞こえた。
『神に裁きを』
崩れ落ちた骸が勢いよく踏みつけられる。
豊かな金の髪が獅子の鬣のように振り乱される。
その下から鮮やかな緑の瞳が現れた。

これが蒼介の姉だった。姉の真赭だった。

――その後のことは分からない。痛みで気絶した蒼介は三日三晩生死の境を彷徨っていたらしい。
その間に燕兒は嘗ての誓いに従って腹を切った。
介錯は真赭がつとめた。
 
蒼介が目覚めた時には全てが終わっていて、父親は小さな骨壺に詰め込まれていた。姉は静かな顔で葬儀の片づけをしていた。
結局、犬童が何故このような罪を犯したのか今でも分からない。虫も殺せないほど大人しかった男が誰を憎み、何を呪えようか。だから誰も犬童を怨めなかった。炎の熱にも耐え切れぬまま溶けていった氷柱のような男に、人を怨み続けさせるだけの力などなかった。
だが乱心だろうとなんだろうと一人の牢屋同心が数多の囚人を牢屋ごと焼き殺し、多くの役人をその手にかけたことはまごうことなき事実だった。
だから燕兒は誰に告げることもなく、沙汰に従ったわけでもなく、ただ嘗ての自らの言葉のとおり、その交わされた誓いのままに腹を切った。炎の海の中を生き残った囚人達が全員牢に戻ってきたことを確かめた夜だった。
公儀もそれ以上事件を追及することなく、処罰者は誰も出なかった。誰も裁かれなかった。全て犬童の罪であり、燕兒の咎だった。
だから役人達は詫び続ける。誰を怨むこともできないから燕兒を追い込んだ自分たちの愚かさを責め続ける。燕兒の矜持を讃え、自身の無力を呪い続ける。
そして自分たちの象徴が喪われたことを嘆き続けるのだ。燕兒を語り継ぎながら懺悔を繰り返し、罪と罰に疲れ果てた牢に囚われ続けていくのだ。
 月も見えない夜に吼え立った炎と地を焦がし続けた血飛沫は役人の心すら抉り、消えることのない大きな傷跡を牢屋敷に残した。それに対して燕兒の身の処し方はあまりに清々しく、ゆえにあっけなさすぎた。
最期の言葉すら誰もかけさせてもらえなかった。静かな夜の隅で燕兒は人知れず腹を切り、呻くこともなく真赭に首を打ち落とされた。
その死は燕兒(ちち)真赭(あね)の間だけで完結した。
 だから牢屋同心たちはいつまでも悔い続ける。引き止めることもできなければ、詫びることもできなかったから、別れることすらできずにいる。十年は瞬きよりも短くあまりに長かった。人の後悔が盲信へと変わり、懺悔が信仰へと変わるには十分すぎる時間だった。
 燕兒の名を呟いては死に逝く罪人が微笑み、熊谷が物言わぬ爪先で蒼介に詫び続ける。これは秩序からはみ出した故に断罪される罪人と、世間から弾かれた役人たち故に生まれた信仰だった。国にも護られず、人にも縋れない時代の囚人たちが唯一信じる価値だった。
 懺悔と後悔ゆえの安寧は保たれ続け、死しても燕兒(ちち)は牢屋敷の秩序を守り続けている。死んだがゆえに燕兒(ちち)は永遠に罪悪感の檻の中に牢を閉じ込め続ける。
全て吉宗の計画通りだった。懺悔を繰り返す役人たちは贖うことのできない罪に罰せられ続けていく。牢屋敷は燕兒を信仰することで公儀に屈服し、時代に負けたのだ。
――いつも蒼介は思う。
燕兒がもし天寿を全うしていたらどうなっていただろう。牢は燕兒に感謝し、その死を悼みながらも、きっと崇めることはなかった筈だ。人ゆえの愚かさを呪い、無力な己を責めたてることもなかった筈だ。そして過去に戻ったように役人達は厳しい取り締まりの鬱憤を晴らすように不正に溺れ、公儀が下す法によって裁かれ続けているのかもしれない。
どちらが幸福なのだろうか。赦されないことを知っていながら神に詫び続けて時代に屈服する世界と、刃向うことが赦されているが故に裁かれ続けるろくでもなき運命と――どちらが幸福だろう。
 ……蒼介は知っていた。燕兒が天寿を全うしようと、牢は燕兒を崇める。その死を敬い、祈り続けるのだ。
それは蒼介がいるからではない。
真赭(あね)がいたからだ。
金糸の髪を振り乱しながら犬童を断罪し、緑の瞳で燕兒の最期を見届けた真赭がいたからだ。
しかしそんな男よりも強く、炎よりも猛々しい真赭も丁度一年前に死んだ。
 
四肢をもがれ、内臓をばらまいて死んだ。

蒼介が見た処刑場に散らばる真赭の残骸は、地を埋め尽くす紅葉よりも赤かった――夕陽が崩れていく。
 そんな惨たらしい死に方をする運命に真赭がある以上、牢は赦しを乞い続ける。誰を護ることのできない自分たちの罪悪を責め続けて、懺悔を繰り返す。
燕兒と真赭への思慕が懺悔が悔恨が、牢の秩序を保ち、安寧を保証しているのだ。だからこれは呪いだった。膚を裂かれ、肉を抉られようと逃れることのできない、人ゆえの呪いだった。

ようやく牢庭に並べられた全員の罪状が露わとなる。
夕闇は蒼介の血みどろの記憶を洗い流すことすらしてくれなかった。

 影法師のように連なる罪人を外鞘へと曳いていく。
「あ……」
 鶏冠が僅かに空を仰ぐ。その目は牢屋敷を天から睨みつけるように張り巡らされた忍び返しに向けられていた。そこには鼠の死骸が落ちていく夕陽を仰ぐように突き刺さっている。
「可哀想になぁ……」
 そう微かに呟き、鶏冠は洟を啜った。蒼介は何も言えなかった。
入口を閉めれば前を歩いていた熊谷が振り返る。
「御牢内には法度の品があるぞ。金銀、刃物、書物、火道具類は相ならぬ!!」
 銅鑼を叩いたような声が夕陽にすら染まれぬ牢の闇に響く。張番らが罪人らの縄をほどき、丸裸に剥いた。そして口中や髪の内側、足の裏側まで丹念に調べ上げる。女は女牢に控える非人の女房にやらせるのである。
 歯を剥き出しながら舌を引っ張られ、髪を乱される囚人たちの中に一際気の弱そうな男がいた。年は二十半ばだろうか。白目を剥くのを必死でこらえながら張番に口の中を覗き込まれ、指を喉に突っ込まれている。
「おいおいおい」
 ほんの少し浮き足立つような声が蒼介を押しのける。尖った顔の同心が気弱そうな罪人をじろりと見下ろした。
「ツル《・・》とて牢内では金子はご法度。もし後で見つかった場合、ただではすまねェよ?」
 灰色の顔の中で細い三白眼がにやりと笑う。金の匂いなら即座に嗅ぎ分けるといった風体だった。牢屋同心で蒼介と同じ平当番を勤める梶木鉄平(かじきてっぺい)だ。
 気弱そうな男から血の気がひいていく。視線がうろうろと空を彷徨った末に胸に抱えた着物の衿元に手が伸びた。
「梶木さん」
 蒼介は堪りかねて口を開く。男の手が止まり、蒼介を見上げた。
「左様なものを持っている者は御座いません」
 私も確かめておりますが、一人として金子を忍ばせているものはおりませぬ――そう言いながら蒼介は手にした帳簿を振った。
 罪人らが身につけてきた着物は帯や手拭いの染色、縞柄にいたるまで衣類帳に記録される。罪人達が着物を脱がされていく中で蒼介はそれらを一着づつ確認し、筆を走らせていたのだ。
「そうか。そりゃあ感心なこったな」
 肩をすくませて梶木が笑う。そのまま蒼介の耳元に口を寄せた。
「ちょっとからかってみただけじゃねェか」
 本気にするンじゃねェよ――梶木が冗談のつもりでも男にとってはそうでなかった。
「ここで金子(ツル)を手放したら、あの男が牢でどうなるかくらいわかっておりましょう。冗談でも笑えませぬ」
 蒼介も帳簿を口に当てて声を潜ませる。ツルというのは新たに牢に入った罪人が牢名主に渡す金のことである。十両が相場でそれ以上ならば牢内で優遇されるようになる。大抵の場合、罪人達は銀の小粒を油紙に包んでそれを飲み込んでからやってくる。だがこの男は衿の折り目に縫い付けて持ってきたのだろう。それを梶木は目ざとく見つけたというわけだ。
ここでツルを手放してしまえば、牢内でさんざんきめ板で殴られた末に竹刀で敲かれ、裸にひんむかれて荒縄で縛られ落間に放置される。そして夜中には囚人の手水をひっかけられ、朝には不浄の着物を着せられたすえに熱病人を集めた中に放り出されるのだ。そうやって三日もしないうちに病に侵されて死んでしまった人間をこれまで蒼介は何人も見てきた。
地獄の沙汰も金次第というわけだ。一度牢に入れば娑婆の倫理など通用しないというが、こんなものは娑婆の縮図そのものであった。
「お優しいことで」
梶木が口の端で笑うのが分かった。ひどく楽しげだった。
「死なずに済む人間が死ぬのは惜しいと思うだけで御座います」
 蒼介は静かに答える。筆を休めることはしなかった。
「それに戯れは程々にされたほうが宜しいですよ。まだ見廻りの者がおります」
 そう蒼介が囁けば、梶木が鞘の外を振り返る。そこにはまだ町奉行所の同心達が此方を睨んでいた。おっかねェなあ――そう言う梶木はやはり楽しんでいた。
 梶木は牢屋同心の家の生まれではない。そもそも士分の出ですらない。湯屋の三助だったのが九年前に牢屋同心の株を買ったのだ。同心株は度々売りに出されるが、牢屋同心のそれは他の株に比べてひどく安く、三助でも手が出せるものだったという。
だから梶木は燕兒を知らず、忠義も罪悪感も持ち合わせていない。そんなものに縛られている他の役人達を小馬鹿にしているところもあり、権力に支配されながらも刃向うこともできないでいる限界を嗤っていた。
梶木はいつまでたっても町人(まちもの)だった。どうにもならないこの世の秩序と制度に絶望しながらも、自棄のように笑い飛ばし続けて生き抜く町人だった。
 並べられた罪人達の下帯まで蒼介は記録していく。ようよう終わりに近づいてきたと思った矢先に、ねばりつくような視線を感じた。
「あんたが水瀬の旦那かい」
 顔をあげれば黄色い歯を剥き出しにした小男と目があった。突き出た腹を隠すことなく局部まで露わにしている。
「親父殿は勇ましい方だったと聞いておりますぜ」
 さあ、お前はどうだ、とでも言うのか。分厚い皮膚に埋もれた眼が値踏みするように細くなった。
「余計な口は聞くな」
 蒼介は短く叱責する。張番が小男の背中を押さえつけた。しかし黄色く濁った眼はにたにたと歪み続けている。
「いいねえ。その顔。鬼のようじゃねェか」
 男の目に、蒼介の彫の深い顔が映った。
「――鬼か」
 蒼介は口を開く。熊谷が此方を振り返るのを気配で感じた。
「娑婆では目明しだったと言ったな」
 水瀬――!! 熊谷の叱責が飛んできたが、蒼介は聞こえないふりを続けた。
そうか、目明しか――腸に浸み込んでいく刃のように重く低い声音が牢内から浸みだした。格子から無数の手が這い出す。
水瀬様を鬼という目明しか――暗がりから覗く歯が軋み嗤う。
水瀬様を愚弄するか。この奈落を侮辱するか――生臭い息が充満する。牢内から忍び笑う声が漏れ出してくる。
さあ来い。さあ来い。入墨さあ来い。マケてやるぞ……
鶏冠の叱咤の声すら、囚人たちの声に磨り潰された。この世への呪詛そのもののような無数の思念が蒼介の背に覆い被さる。
さあ、来い……さあ、来い……。
「牢に入った目明しがどのように歓迎されるかは知っているだろう」
 さあ来い。さあ来い。マケてやるぞ……マケてやるそ……
幾本もの指が格子にかかる。闇を這いずる牢の含み笑いが夜を待ちかねている。組み伏される男を蒼介は冷たく見下した。
「鬼の恐怖を知る前に人の絶望を思い知れ」
 ――叫ぶ声すらもはや遠かった。

熊谷に竹刀で殴られた肩がまだ痛い。蒼介は手水場で手を洗う。軒下に吊り下げた提灯が揺れて黄色い灯りをほっと落とした。
手水鉢にはられた水に蒼介の顔が映る。
揺れる水面に浮かぶ蒼介を熟れた鬼灯のような灯が照らした。
その顔に浮かぶ影は人よりも深く、そして濃い……。
「――……」
 蒼介は濡れた手で自分の顔に触れる。鬼と揶揄されても仕方がない。蒼介の顔は姉と同じで彫が深く、決して平坦ではなかった。
燕兒とは似ても似つかない顔だ。母親は蒼介が生まれた年に死んだ為、どんな顔をしていたのか蒼介は知らない。ただ神田の道場主の娘で真白(ましろ)という名前の途方もない美人だったとしか聞いていない。
 燕兒も真白もこの江戸で生まれ育った男女だった。それにも関わらず真赭と蒼介だけが異形の見目だった。どうしてこんな顔が生まれたのか、何度姉に聞いても睨みつけられるだけでろくな答えは返ってこなかった。
 誰から伝わった顔立ちにしろ、蒼介の顔は真赭によく似ていた。だから牢屋敷は蒼介を見るたびに真赭の死を思い出す。囚人達の感情を奪って役人たちに懺悔を促しているのは、真赭によく似たこの面差しだ。この顔が――蒼介は水面に拳を振り上げた。
「おい」
 しわがれた声が闇から滲みだす。行き場を失った拳は力なく垂れさがった。
「いつまで覗き込んでやがる」
 女か、てめェは――夜の先から午藤の長い顔がぬっと現れた。提灯の灯が揺れる。
「熊谷に大分絞られたそうじゃねェか」
 蒼介は少し苦笑しながら頷く。もう噂は広まっているようだ。
「囚人の戯言なんぞにいちいち構うな。何年この仕事やってんだ」
 子供じみた真似してんじゃねェよ――手にした刺又で自分の肩を叩きながら、午藤は憎々しげに吐き捨てる。渋い顔と刺のある言い方は生まれつきだという話だった。
「熊谷さんにもそう言われました」
 蒼介の隣で揺れる灯が季節外れの蛍のような光を零す。
「――お前ェ」
 午藤が苦い顔を更に渋くする。
「わざとだろ」
 長い顎がしゃくられた。
「なんのことでしょうか」
「とぼけるな」
 蒼介と午藤の間を灯りの雫がほとほとと落ちていく。
「梶木をかばったんだろ」
 ふんと午藤が鼻をならす。
「ちょうど奉行所からの見廻り役が来ていたからな。ああやって自分が騒ぎを起こせば、囚人から金子(ツル)をせしめようとした梶木の戯言は見過ごされると思ったんだろう」
 それにあの時、嘘を吐いたのはお前のほうだ――刺又が土を抉る。
「金子を仕込んでいる人間がいるにも関わらず、そんなものはないと言い切ったのはお前だ」
 本人の真意はどうあれ、梶木の戯言は御法度である金子の有無を確かめるためにカマをかけただけだと言い逃れることができる。けれど蒼介の行為は明らかに不正を見逃すものだった。
「そうやって確実に自分が責められる理由を作っておけば、梶木が咎められることはなくなる」
 咎めさせることができなくなる――午藤が唇を噛み締めた。
「人を庇うのもいいが、自分が罰せられる理由を作るんじゃねェ」
 蒼介は僅かに目を細めた。灯りの輝線が目に沁みる。
「熊谷さんも午藤さんも、私をかいかぶりすぎで御座います」
 そんな事、考えてもおりませんでした――落ちてくる光はこんなに優しいのにひどく眩しかった。
「私はただ子供じみた未熟者だっただけで御座います」
 午藤が額に手をやりながら項垂れる。こいつは――と独り言ちるのが聞こえた。
「なんでもいいが、隙を見せるな」
 午藤が背を向ける。羽織の裾がひるがえった。
鮫島(さめじま)のことを忘れたのか」
 鮫島――彷徨う明かりが夜に戦慄く。骨の砕ける鈍い感触が手のひらに広がった。
 それはひと月前に切腹した同輩の名だった。蒼介が首を斬り落とした男だった。
「いつだって公儀は俺たちを罰したがっている。その理由を欲している」
 午藤の背に這わされる灯りの影は未だ成仏できぬ咎人の罪か。
「牢屋敷なんぞこの世に最も疎まれ、憎まれるべき場所だ」
 それが宿命だと午藤が呟く。老いた影に這い寄る灯かりが無慈悲に踏みつけられた。
「いつか俺達が罰せられ、裁かれる日が来たとしてもそれも運命だ」
 人を打ち続けてきた人間は恨み言すら聞き飽きたのだろうか。誰にも縋れず、愛されることもない生業は業となってその身を貪り続ける。
だがな――午藤の背を慈悲にもならぬ灯が覆う。
「お前は見届けなきゃならねェもんがある」
 人の命を孕んだ鬼灯よりも儚い(ほのお)が水面のように震えた。
「忘れるな」
 午藤が振り返ることはない。
「真赭を殺した男はまだ牢にいるんだ」
 揺れる灯がひとつ落ちた。――

 薪が崩れる。火花が飛び散り、炎が夜を焦がした。
「……」
 がらがらと夜が崩れるような音を聞きながら、午藤は刺又を握りしめる。長く伸びた影に気が付いたのか、拷問蔵の前で俯いていた丑守が顔をあげた。その腕には突棒が抱えられている。
「何も異常はねェな」
 丑守が頷く。午藤とて何か起こるとは思っていないのだが、念を入れておくにこしたことはなかった。
普段ならば拷問蔵を見張ることなどない。だが、今は事情(・・)が異なる。いつもなら閉じられたまま無言を貫く裏門すら篝火が焚かれ、警護の役人が夜を睨みつけている。拷問蔵の前に広がる牢庭にも指又や突棒を携えた牢屋同心が行き交い、誰もが炎に煽られ熱気に汗ばんでいた。
この拷問蔵に押し込めた大罪人(・・・)の沙汰が下り、刑が執行されるまでは牢屋敷は眠れない夜を過ごし、天は炎に煽られ続ける。
「蒼介は?」
 おどおどとした丑守の声に炎が弾ける。
「がたいがいいだけの子供だ」
 そう午藤が言えば、丑守が一つ頷いた。その顔に炎が影を作る。それでもでっぷりと肥えた顎と首の境界線は見当たらない。
丑守の視線の先には、刺又を持って夜を見廻る蒼介がいた。他の役人よりも頭一つ高いうえに体格もいいので目立つ。空恐ろしくなるほど整った顔は炎に照らされ、くっきりとした影を半身に作っていた。
「きっと泣いていても分からんなぁ」
 濃い影に隠れがちになる蒼介の顔を見つめながら丑守が呟く。
「一年前に真赭が死んでも泣かなかった奴だ。今更泣くものか」
 午藤は吐き捨てる。
「見えるところではな」
 午藤の言葉に丑守が小さく頷いた。
 父を奪われ、姉を殺され、それでも罪人の斬首を繰り返す。悲しみが晴れるものか。寂しさが癒されるものか。けれど蒼介が誰かにその胸中を曝け出すことは一度もなかった。
丑守が困ったように午藤を見上げ、そして項垂れる。
「……これ以上燕兒のことを背負わせて、真赭の死を引き摺らせるのはあまりにも酷ではないか」
 非人のやるような仕事までさせて――肥えた顔を炎が煽る。
斬首される罪人に面紙をつけるのは非人の仕事であり、敲かれる罪人に水を飲ませるのは下男の役割だった。それに斬首そのものも町奉行所同心の職分なのだ。どれも牢屋同心の蒼介がやる仕事ではなかった。
燕兒が死んだあと、罪人たちは混乱した。燕兒の切腹とは自らのろくでもなき人生の最期に与えられた慈悲すら公儀に奪い取られた瞬間であり、この世に対する二度目の敗北そのものだった。死の間際に醜態を晒す罪人が増え、牢へ見廻りに来る目付への暴言も日に日に過激になっていく。その混乱を正したのが真赭だった。
『父の娘である私が彼らの手を引きましょう』
 それが私の牢への償いであると、真赭は言った。
『犬童を裁きの場に引き出すことなく殺し、そして父を手にかけたのは他らなぬ私で御座います。私が貴方がた牢屋役人を迷わせ、そして囚人達を惑わせたといってもよい』
 それが私の罪であると、人形のように整った顔で真赭は言い切った。漲る力の象徴のような金の髪と相対した者を圧倒させる強い眼差しを今でも午藤は忘れられない。
『父が最期まで望んだのは牢の安寧と囚人の平安。私が父の遺志を継ぎます』
 貴方がたをこれ以上、悲しませるわけにはいかない。罪人達をこれ以上苦しめるわけにはいかない。
『父を慕ってくださった貴方がたの為にも、私が罪人の手を引きましょう』
 その凛然とした物言いと堂々としたふるまいに午藤は何も言えなかった。
無秩序を窮めつつあった牢に手を焼いていた公儀から許可をとることなど造作もなかった。そして真赭が死に赴く罪人へ面紙をあて、最期の言葉をかけるようになった。
『次の御世に幸多からんことを。神のご加護を』
 そう囁きながら真赭は罪人の額に自分の額を寄せる。罪を折半するようなその行為は限りなく清らかで慈愛に溢れていた。
人とは異なるゆえに誰よりも美しい真赭の姿が、罪人にとって神女そのものとなるのに時間はかからかなかった。真赭の顔を間近に見れると死罪になることを喜ぶ罪人すらいた。そうやって真赭は牢に尽くしてくれた。
 そして真赭の死後は弟である蒼介がその役割を引き継いだ。
『私がやります』
 そう言い切った蒼介は真赭と全く同じ顔をしていた。
『父と姉の遺志は私が継ぎます』
 緑の目はあまりにも真っ直ぐすぎた。
『牢の安寧の為ならば、何を迷いましょうか』
 そして刃を手にした蒼介は救済の生きた象徴となった。罪深き肉体を罰し、精神(こころ)を救うその姿は燕兒と真赭の生きた証そのものだった。
「罪人の首を刎ねるだけでなく、その最期すら背負うなんてどれだけ辛かろう……」
 焼け落ちていく天から目を逸らす丑守は、地に伸びては引き千切れる自分の影だけを見つめていた。
「そんなことを言えた口か」
 午藤は吐き捨てる。丑守が振り向いた。
「恥を知れ」
 まるで手負いの獣ように炎がのたうち回る。
「赦されたいと願うなら腹を切れ。それができないというのなら詫びの言葉なんざ金輪際口にすんじゃねェ」
 もはや贖罪の道など残されていない。地獄の業火に焼かれることすら敵わない。
「罪人でい続けろ。それが燕兒を見捨て、今の牢屋敷を作り上げてしまった最古参(おれたち)の役割だ」
 丑守が観念したように項垂れて頷く。炎に翳るその横顔は醜く肥えきり、垂れ下がった肉が顎の下で溢れかえっていた。
「今更、どうにもできねェよ」
 分かっているだろう――午藤は袖をまくり上げる。炎に爛れる夜はひどく暑かった。
「もはや蒼介に頼らなければやっていけねェんだ。吉宗のご機嫌をとるために増やされた囚人を束ねるためには、燕兒の威光と真赭への忠誠がなければならん」
 世間に捨てられ、時代にも見放された人間たちを統率するためには、将軍ではなく牢自身が生んだ信仰が必要だった。その信仰を維持する為に蒼介がいた。燕兒の息子であり、真赭の弟である蒼介が、真赭と同じ容姿をしながら牢屋同心としてこの牢屋敷にいること。そして何よりも自らを裁いてくれること――それが何よりも重要な事実だったのだ。
時代の反逆者であると燕兒と断罪者でもある真赭は罪人よりも罪深い。だからこそもはや神にも斉しい存在だった。罪人が最期に信じる価値だった。
「神なんぞ限りなく人為的なものだ」
 世に捨てられ、時代にも見放された人間だからこそ、自分たちの神が必要だった。罪人ゆえの渇望だった。
「人の欲深さにゃ呆れて物も言えねェ」
 そう午藤が吐き捨てれば言えば丑守が少し微笑んだ。
「――私は、お前が鍵役になるものだと思っていたよ」
 燕兒と熊谷に続くお前が……そう呟く丑守の声が炎の影に揺らいだ。
「何故、叩役に甘んじる」
 今更それを聞くかと午藤は土を蹴る。煤で足袋が汚れた。
「お前が数役を続ける理由と同じだ」
 そう吐き捨てれば丑守が悲しそうに頷いた。火の粉が散る。吼える炎は涙の痕すらきっと赦さない。
「私達はもう罪人の肉体から離れることができない」
 丑守の緩み切った頬を炎が炙る。午藤と丑守はとうに鍵役助役にあがり、鍵役の任についていてもおかしくない年齢に達していた。それでも二人とも叩役と数役の任にしがみ付くように就き続けていた。
「罪人の苦悶を間近に感じ、直接苦痛を与える役割を担っていれば燕兒に報いていられるような気がしたんだ……」
 丑守の小さな眼に映るのは後悔にも満たぬ湿った諦観だった。懺悔にすらなりえなかった。午藤は何も答えなかった。けれど丑守の言うとおりだった。笞を振り下ろすたびに詫び続けることが赦される気がしていたのだ。
熊谷魁、群岡善四郎、午藤主馬、丑守勲。牢屋敷で燕兒と同輩だった人間たちはもう僅かしか残っておらず、この五十路を越えた四人が最も旧い時代を知っている。
吉宗が将軍の座につく以前の牢屋敷を知り、今とは異なる倫理と秩序によって罰が執行される中で育ちながら、それを正面から否定された世代だった。定義されていく罪と書き換えられた罰によって囚われる歴史の道程を、人生として生きてきた男たちだった。
 篝火が夜を乞う。爛れた天の闇は夜よりも濃い。。
「いつまでこんなことを続けるんだろうな」
 炎に照らされた拷問蔵の戸に丑守がそっと触れる。
「いつも誰かを不幸にして……」
 その扉の裏側にある罰の結果を確かめるように、自らの罪の証を慰めるように、丑守の指が戸をつたう。錆が剥げて、爪が赤く染まった。
「俺たちは何を護り続けているのだろう」
 自らの矜持も無く、友すら喪った。
「人の命を贄に権力に奉仕し続けるだけの存在に成り下がった俺たちが一体何を護れようか」
 ――丑守が項垂れる。炎が吼える。
「俺たちは罪人にすらなりえない」
 暗い焔に焼けつく夜の中で午藤は吐き捨てた。丑守の顔が上げられることはなかった。
「ただの家畜だ」
薪が崩れる。音をたてて燃え盛る篝火がどれだけ天を焼こうと、人の救済にはならなかった。

第一章 三

 縁側の向こう側で夜空が赤く火照っている。炎が弾け、薪が崩れる音が僅かに聞こえた。
「呼び出したりして悪かったな。疲れているだろう」
 一つ咳払いをして鶏冠が蒼介を見つめる。
「いえ」
 短く答えて蒼介は座り直した。鶏冠家は牢屋敷にある同心の組屋敷の一番端にあり、いやがおうにも外の喧騒に触れる。蒼介が通された座敷は風通しも良く、塀の向こう側を行き交う役人達の足音さえ聞き取れた。
「お久しゅうございます」
 細い腕がすっと伸び、蒼介の前に茶が出された。見れば鶏冠の細君の雪枝が微笑んでいた。名前の通り色の白い細君で色黒の鶏冠と一緒になった時、囲碁夫婦だと燕兒が言ったのを思い出した。
「燕兒様にも大変お世話になりました」
 そう雪枝が頭を垂れる。鶏冠と雪枝の仲人を務めたのが燕兒だった。靭負と雪枝で名前が同じなら一緒にならねェわけにはいかねェだろうと本人すらよく分かっていない勝手な理屈をこねて笑っていたそうだ。
 けれど名前が同じなら気も合うのか、鶏冠と雪枝は祝言まで顔も見たことがなかった二人だとは思えぬほど仲睦まじい夫婦だった。鶏冠が牢の巡回も行う小頭になり、牢屋敷で暮らさなくてはならなくなっても嫌な顔一つせずに着いてきて、柔らかな新雪のような笑顔をたやすこともない。毎日鶏冠が持ってくる弁当も、正月でもないのに人参が花形に切られているなど何やら可愛らしいもので溢れていた。
 そんな気丈ながら未だ少女らしい一面も残っている雪枝の顔が、今日はどこか暗く、悲しげだ。まるで日陰の雪だ。よく見れば指は爪先まで僅かに震えていた。
「水瀬様にも……」
 そう雪枝が何かを続けようとしたとき、鶏冠が咳払いをした。もういい、行きなさい――暗にそう促しているのが分かった。雪枝は端正な顔を悲しげに歪め、それを押し隠すようにもう一度、蒼介に手をついた。
 襖が閉められる。その向こう側で雪枝が涙を堪えているのが分かった。どうしたのかと蒼介が聞く前に、申し訳ないと鶏冠に謝られてしまった。
「本当にお前には色々なものを背負わせてしまった」
 蒼介が口を開くのもまたず、火をくべられた薪ががらがらと崩れていくように鶏冠は言葉を続ける。
「俺の父親の代からお前達には……お前には」
 鶏冠が膝で拳を握りしめる。鶏冠の父親は燕兒によって命を救われた男の一人だった。酒乱なうえに女好きで、宿直となれば酒を持ち込み、女を嬲って楽しんでいたらしい。鶏冠の母親もそんな夫に見切りをつけて、跡取りとなる鶏冠を生んだあとはさっさと離縁して違う家に縁づいた。そうやって母親にも見捨てられた鶏冠は、詰所で酔い潰れ、罪人の愛液にふやけた父親を引き摺って帰ることもしばしばだったそうだ。
 燕兒殿に庇ってもらうような父親じゃなかったんだよ――と、昔語りの中で鶏冠が寂しげに微笑んだことを、蒼介は今でも覚えている。燕兒に拾われた男の命は結局、一年ももたなかった。水子の祟りかそれとも酒の呑み過ぎかは分からないが、その死に顔はどす黒かったらしい。
 庇ってもらえるような父親ではなかった――それは暗い夜を彷徨い続けるような言葉だった。だから蒼介は考えてしまう。
 本当は鶏冠は父親に腹を切ってもらいたかったのではないだろうか。最期のけじめをつけてもらいたかったのではないだろうか。どうしようもない父親の、それを唯一の矜持として、鶏冠は悼みたかったのではないだろうか。
 けれどそれは叶わなかった。病で死んだ男の罪は結局贖われることなく、士としての不名誉すら雪がれなかった。それが鶏冠の、たった一人の肉親である父親の、人生の全てだった。
 きっと本当は誰も救われなかった。全て燕兒の罪だった。
「……父のことはもういいんだ」
 鶏冠がふっと微笑む。心の底を見透かされたような気がして蒼介はひどく恥ずかしかった。
「燕兒殿は牢を救ってくれた。それは間違いがない。だから父は罪人として処断されることなく、人として死ねた」
 それで十分なんだ――鶏冠は蒼介を慰めていた。お前が責任を感じる必要はないんだと、泣いて喚く子供の背を撫でてあやすように鶏冠は蒼介を気遣っている。
「父のことは、もういいんだ」
 確かめるように鶏冠は繰り返す。火の粉が弾ける音が遠くに響いた。
「だが真赭殿のこと、お前は本当に納得しているのか?」
 ――蒼介の胸が爛れたように痛んだ。真赭の無残な死骸が記憶の中に蘇る。
「あのような死に方をされて、今もまだ下手人と思わしき男は牢内にいる」
 あの一年前の朝、処刑場に飛び散った真赭の躰はもはや人の形を留めていなかった。
「一年以上、裁きはおろか調べも進まぬ。お前は本当にそれで納得しているのか」
 ずんぐりとした体を押しかがめた鶏冠が蒼介を伺うように覗き込んでくる。
「全て公儀が決めたことで御座います」
 ――自分の声を蒼介は遠くに聞いた。それでも過去はいつだって鮮明で、火の粉を撒き散らす炎よりも獰猛に渦を巻きながら手のひらで触れられるくらい近くにある。
「もはや私の出る幕は御座いません」
 記憶の隙間に鶏冠の躊躇うような視線を感じる。蒼介は拳を握ることもしなかった。平静を纏い冷静を装い続ける。それが燕兒の息子であり真赭の弟である蒼介に課せられた義務だった。
「真赭の死の事実を知りたいとは思わないのか」
 蒼介はゆっくりと首を振った。けれどそんなものは嘘だった。
 あの日、巻き散らかされた腸をかき集めることもできなかった。ただ刑場にいた罪人を捕えるだけで精一杯だった。今となってはそれが正しい判断だったのかすら蒼介には分からない。
「何も語れぬ罪人を追い詰められませぬ」
 心を押し込める。暴れる過去を炎の音で焼き捨てたつもりになる。
「それに全て公儀が決めたことで御座います」
 それでも本当は蒼介は姉の死の真実を知りたい。いつも理不尽な死の理由を求め、意味を欲している。
「姉のことはもう過ぎたことで御座います」
 ――違う。まだ何も終わっていない。何一つ納得していない。けれどこれ以上、水瀬家のせいで牢屋敷を動揺させたくない。
『いつだって公儀は俺たちを罰したがっている』午藤の言葉が脳裏に蘇る。そうだ。蒼介の我儘で今の牢屋敷をこれ以上危険に晒すわけにはいかない。公儀にその理由を与えてはならない。
「罪人は永牢にも斉しい刑を受けているようなもの。それでもう充分で御座います」
 結局、蒼介の心は表面だけを綺麗に磨いた粗悪な硝子細工に過ぎなかった。それでも嘘を吐き続けるしかなかった。
「充分で御座います」
 蒼介は繰り返す。心の内側に押し込んだ過去は手負いの蛇のように暴れ血反吐を吐いて事切れた。それでいい。自分の過去よりも牢屋敷の明日のほうが大切だ。
「それに私達には果たさなければならぬ責務が御座います」
 真赭の死ではなく、今、やらねばならぬことが蒼介にはある。
「鮫島に報いる為にも、私達は公儀から与えられた役目を全うしなければなりませぬ」
 鮫島――半月前に切腹した牢屋同心の名が出た瞬間、鶏冠の顔色が変わった。濃い眉が顰められる。唇が震える。
「水瀬……」
 再び詫びるような目線が蒼介を貫く。
「鮫島の介錯はやはり俺が……」
「そんなことは御座いません」
 蒼介は鶏冠の言葉を遮った。無礼だと分かっていたが言わせたくなかった。これ以上、鮫島のことで詫びられたくなかった。――詫びて欲しくなかった。
「鮫島が望んだことで御座います。鮫島の最期の望みであり、そして願いで御座います」
 それをどうか無にしてやらないでください――そう蒼介は息もつかずに言い切った。
「お願い致します」
 手を畳につき、蒼介は頭を下げる。
 これまで何十人もの首を落としてきたが、同輩である鮫島の首を斬った時の感触は今でも手のひらが覚えている。砕けた骨の重みも破れた皮膚の柔らかさも、腹を切ったとは思えぬほど安らかな死首の貌まで蒼介は忘れない。
 鮫島主水。蒼介より二歳年嵩の牢屋同心であり、蒼介と同じ平当番を勤めていた男だった。涼しい一重の目元をした端麗な顔立ちの男で、大身旗本の子息だと言っても通りそうな品の良さがあった。
「あれから何日経ったことか……」
 鶏冠の声に蒼介は顔を上げる。
「明日でちょうどひと月で御座います」
「そうか……早いな」
 そう言い、鶏冠は眉間を指で押さえた。溢れる涙を堪えようとしているのだ。自分が初めて持った部下の死とは、息子の死にも斉しいのかもしれない。蒼介は僅かに瞼を落とす。蘇る過去は鮮明だった。
 
 蒼介と鮫島は共に牢屋同心の家に生まれ、共に牢屋敷で育った。
 
 鮫島の父親は気位の高い臆病者だった。背後で笑い声が起これば自分を嗤ったのだと思い込み、それがたとえ町中であろうと真っ赤な顔で怒鳴り散らし刀の柄に手をかけた。牢への差し入れを改めるときも握り飯の一粒一粒を切り刻むような有り様で、牢を巡回させればいちいち囚人の頭数を確かめる。どうせ死人が出ているというのに申し渡しの人数と違うと言っては真っ青になって数え直しているものだからうんざりした張番が牢名主に死者がいるかどうか聞いてみろと言うのに、罪人の言うことなど信じられるかと聞く耳持たない。
 職務に忠実だといえば聞こえはいいが、融通もきかなければ学習もしない男だった。進展もしないから改善もままならない。割れきった器に必死に水を注ぎこんでいるような男の性根によって、牢屋同心達の仕事は常に滞っていた。罪人への対応だけならともかく、男は同輩が買ってきた菓子ですら何が入っているか分からないと払いのけ、互いの指が触れたと喚きながら爪先の感覚が無くなるまで手を洗い続ける。その異様なまでに潔癖で、狭量な男を誰もが疎み、遠巻きにした。
 男が欲した世界はいつだって自分だけを清潔に保たせてくれる沈黙の密室で、その先にある世間とは得体の知れぬ魔性が巣食う不浄の闇そのものだったのだろう。
 牢屋同心である限り、人間の、人間であるが故に孕み落とされた穢れに接しないわけにはいかぬというのに、男はその事実すら受け止められずにいたようだった。ずっと針で開けた障子穴から外の景色を覗き見て、それが世の全てであると思いこむような生き方を続けていた。 
 そうやってほんの僅かだけ見えた現実を自分の捻じ曲がった妄想で補完して、思い込みの世間(世の中)に一方的に擦り切れていくような小心者ほど権力を欲する。だから男は燕兒が牢の信頼を集め、自分よりも年少に関わらず先に鍵役になったことを赦し難い屈辱だと受け取った。
『上様に逆らえば我々の立場がより悪くなることは分かっていただろう。何故そのような愚かな振舞いをした男が敬われる』
 これは正論だった。けれど嫌われ者の正しさが受け入れられることなどない。男の主張は黙殺され燕兒は祀りあげられていった。
 男にとって燕兒とは救済の象徴ではなく、公儀の圧政の表象だった。そして自らの敗北の証明だった。
「――……」
 闇の奥に過去を思い出す。それは蒼介が九歳の冬だった。
 白い息を吐いて、襟巻に顔を埋めながら鮫島家の前を通った時、偶然垣根の向こう側にいた鮫島と目があった。
 お互い何かを言おうとしたのかもしれない。蒼介は自分の口が僅かに開いたのを覚えている。
 けれど家の奥から鮫島の父親が現れた。
 その時の男の姿を今でも蒼介ははっきりと覚えている。土壇場で暴れる囚人よりも鬼気迫った面持ちの男が光も届かぬ部屋の隅に立ち竦んでいた。
 男の躰が傾ぐ。青白く光る眼が限界まで見開かれた。
 人とは到底思えぬ四白眼が蒼介をとらえる。こめかみに浮き出る血管が引き攣るように動いた。
蒼介は思わず一歩後退る。
男の血の気の抜けきった唇が戦慄いた。
 大きな手が振り上げられる。蒼介は腕で顔を覆った。
鈍い音が冬の空に響く。
縁側に鮫島の体が転がった。
『……』
言葉は蒼介の喉で凍えきって、悲鳴さえあげれなかった。
暈音(かさね)さん……』
 なんとか幼名(名前)を呼ぶ。それが精一杯だった。
鮫島の手のひらが蒼介に向かって広げられる。気にしなくていいと、お前には関係のないことだと、そう言うように向けられた鮫島の手のひらは蒼介のものよりも遥かに大人だった。
 蒼介を制しながら鮫島は決して父親から目を離さなかった。眉をひそめ顔を歪めることもなく、白く引き攣った顔のまま固まる父親を見つめ続けた。
 それは享受であり抱擁にも斉しい愛情だった。誰からも愛されずささくれた心を振り回すだけの父親を鮫島は心から受け入れていた。
 ――そのまま蒼介は逃げ出した。後も振り返らず一目散に逃げた。
 霜を踏み躙りながら思い知る。理不尽な嫉妬。不条理な暴力。そんなものは牢屋敷で暮らしていれば嫌というほど見てきた筈のものだった。この世の現実がどんなものか、蒼介はずっと燕兒の背中で知り続けていた筈だった。
 けれど結局、蒼介は何も分かっちゃいなかった。
 荒く冷たい息のまま蒼介は家の一番奥にある押入れに潜りこむ。
 しっかりと戸を閉めて、襟巻の中に顔をうずめ、耳すら塞ぐ。それでも最後に見た男の貌が忘れられない。鬼よりも醜く、死霊よりも禍々しく冷たい人間の執着が蒼介に迫ってくる。
 蒼介は知っていた――あの男の燕兒への嫉妬はいつも息子への折檻で晴らされていた。そして繰り返す暴力の理由を燕兒だけでなく蒼介にも求めるようになっていた。
 鮫島を殴る音が今もまだ耳の底にこびりついている。あの時、男は息子ではなく蒼介を殴っていた。それがひどく恐ろしかった。自分が憎まれていることを信じることなどできなかった。
 どれくらいの時が経ったのだろうか。泣き疲れた蒼介が籠る押入れの戸が無遠慮に開けられた。同時に人を斬り伏した後のような凄まじい目つきがに見降ろされる。真赭だ。
真赭が泣き顔の弟を優しく慰めることなど一度もなかった。母親を早くに亡くし、後に父親を手にかけ罪人の最期を看取り続けることになる異形の少女だ。たった一人の弟を憐み、甘やかすことなどなかった。
 大きく、金の糸で縫われたような睫毛で縁どられた姉の瞳は無言のままだ。蒼介は縮こまるしかなかった。
『暈音さんが……』
 鮫島が殴られたのは私のせいだと蒼介は必死に声を振り絞る。燕兒の息子である自分がいるから鮫島は虐げられる。今日だって自分と目を合わせたから殴られた。そう言えば姉の目が一層吊り上る。蒼介は思わず身を庇った。涙が溢れて止まらない。
 真赭の視線が蒼介の顔から僅かに逸れる。その先には青黒い痣が広がる膝小僧があった。蒼介の胸がぎくりと跳ね上がる。
 相手は町奉行所同心や与力の息子たちで、牢屋同心の子供ならば自分たちの家来だと思っているような子供達だった。そこに加えて人とは違う蒼介の容姿は、単純な子供を煽るには充分な異形(素材)だった。
『なんで私はこんな顔なのでしょう』 
 自分とよく似た姉を見上げることなどできず、蒼介はただ涙で崩れた顔を腕で必死に覆う。
『私がこんな顔だから――』
 あの子供も殴られる――蒼介の言葉が終わらぬうちに真赭の腕が蒼介の前髪を掴んだ。
無理やり顔を上げさせられる。爪が額に喰い込む。
 蒼介に近づけられた真赭の顔は獅子そのものだった。太陽のような輝きを身に纏い全ての獣の頂点に立つ、無慈悲な支配者だった。
蒼介になど全く似ていなかった。
 押入れの奥に突き飛ばされる。あっと思う暇もなく乱暴に戸が閉められた。頬を張られたような音に耳を噛まれ、蒼介は闇に独り残された。
 爪をたてられた頭が痛かった。けれどそれ以上に心が痛かった。静寂にまで責められているような気がして、蒼介はまた泣いた。姉の燦々と輝く光と圧倒的な存在感は、いつだって蒼介の脆弱な心を粉々にし、その奥に隠した自惚れを露わにする。
 ずっと蒼介は知っていた。道場や学問所から帰るときは必ず鮫島が前を歩いてくれるのだ。言葉はない。振り返ることもない。けれど鮫島は二歳下の蒼介の足取りに合わせて歩いてくれていた。これ以上蒼介が他の子供たちに虐められることがないように、鮫島はいつも蒼介の近くにいてくれた。
 聡明な男だったから蒼介を慮りながら、父親の感情を煽ることのない境界を常に保ち続けていた。それは父親の為でありながら、蒼介への思いやりでもあることも蒼介は理解していた。そんな優しさと強さがひどく嬉しくて、だからこそ憎らしかった。
 この涙は嫉妬だった。鮫島の父親と同じ身勝手な妬みで幼稚な自己保身だった。
 
 家にも牢屋敷にすら居づらくて、蒼介は掘割にかかる小さな橋の上から揺れる川面を覗き続けていた。魚の影が見えたと思えばすぐに波の向こう側に消えていく。枯れた柳が重りを失ったふりこのように揺れていた。
 ふいに背後に人の気配を感じた。誰かが蒼介の背を通り越して、右隣に佇む。
 見上げれば鮫島の横顔がそこにあった。額には膏薬を貼っている。蒼介に向けられた左頬はまっさらなままだが、右頬は黒く腫れていた。
『……』
 澄んだ川面が白い瞬きを何度も繰り返す。何度風の吹く音を聞こうとお互い口を聞こうとしなかった。
 風が鳴る。
『怖い思いをさせて悪かった』
 その一言を確かめるように、ゆっくりと鮫島は口にした。たった一言だけだった。それでも無数の美辞麗句を並べ立てた綺麗ごとよりも遥かに確かな言葉だった。
『――……』
 首を横に振ることも、鮫島を見つめることも蒼介はできなかった。今、何かを口にすれば、罅割れて粉々になった薄氷のような心を振りかざしてしまいそうで怖かった。
 悴んだ頬が擦り切れていく。伝えることは伝えたというのか。名残を惜しむ様子もなく鮫島が離れていく。
 けれどほんの少しだけ――ほんの瞬きの瞬間だけ、鮫島の袂が蒼介に触れた気がした。
 追いかけなくてはと思った。それでもその伸びた背を見送ることも何かを言い返すことすらできなくて、頼りなく揺れ続ける川面を蒼介は眺め続けていた。
 
 犬童の事件が起こったのはそれから一年後のことだった。夏の名残も失われ、秋の気配も濃くなってきた夜半の出来事だった。
 
 鮫島の父親も犬童に殺された。胴から斬りおとされた首が、腹を斬られて地面に転がる蒼介をずっと睨みつけていた。
 あの夜、鮫島も蒼介も父親を喪った。猛る炎と過去の因果の果てに肉親を奪われた幼い二人だった。
 砕かれた日常の残骸をどれだけ継ぎ足したところで元には戻らない。鮫島の父親が死に、燕兒が死んだことで鮫島と蒼介は焼け爛れた死骸だらけの牢獄に放り出されてしまった。
 しかし蒼介と鮫島が言葉を交わすことは殆どなかった。きっと何を話しても悲しいだけだということが分かっていたからかもしれない。
 あの日の川面は白々と輝き、風に揺れていた。そんな二筋の並行して流れる川のように、時にすれ違ったとしてもまた離れ、交り合ったとしてもすぐにはぐれていくような二人だった。それでも背を向け合うことはなく、突き放すこともなかった。
 目も合さず、けれどずっと鮫島は蒼介の隣にいてくれた。だから蒼介が思い出す鮫島の顔はいつも横顔だ。すっきりとした顔立ちは年を経るごとに大人びていき、そしていつまでも高潔だった。
 二人には時間が必要だったのだ。互いに父を悼みながら、その生涯が過去になるための時間が必要だったのだ。
 けれど牢は燕兒に囚われ続けた。燕兒の死が語られるごとに鮫島の父親の死も繰り返される。燕兒が信仰へと昇華されるために、神にも斉しい英雄に嫉妬する浅ましい人間として、鮫島の父親が語られたのだ。
 蒼介は何もできなかった。ただ燕兒が祀り上げられ、鮫島が貶められていくのを眺めるしかなかった。信頼されながら孤立せざるをえない鮫島を隣で見つめるだけだった。
「何故、こんなことになってしまったのかな」
 ――鶏冠が静かに呟く。蒼介は頭を上げた。
 鶏冠は昔を懐かしむように、開け放たれた障子の向こうの夜空を眺めている。焚かれた炎がじんわりと天を温めていた。
「鮫島があんな企てに巻き込まれるなんて」
 信じられないんだよ……鶏冠が一つ瞬きをする。その瞼の裏で鮫島はどんな顔をしているのだろうか。思い出したくない悪夢は確かな現実でしかなかった。

 それは色づいた紅葉が鮮やかに枝垂れる夜だった。
 ほんの半月前の出来事だった。

 町奉行所に一人の男が訴え出た。それは謀叛の訴えだった。
『首魁は浅草の鳥越で学問所を開いている男だ』
 広間に集めた牢屋同心たちを前に熊谷は静かに切り出した。切り立った絶壁を登るように慎重に言葉を選び、一言喋るごとに同心たちの反応を確かめる。
『名は土宮統』
 その名が明かされた時、牢屋同心からどよめきが起こった。熊谷の眼が固く瞑られる。群岡が腕を組み、丑守が口を開けたまま固まったのを蒼介は覚えている。
 土宮統――それは嘗て牢屋同心を勤めていた男の名前だった。
 しかし土宮の名に牢屋同心らが慄く理由はそれだけではなかった。
 熊谷が息を吸う音が響く。動揺は沈黙へと変わり、誰もが祈るような目つきで熊谷を見つめた。
 違う人間であってくれ――誰もがそう願った。
 しかし熊谷の疲弊しきり一筋の光も見えぬ闇の迷路に迷い込んだ末のような面差しには欠片ほどの希望も見当たらなかった。
『皆も知っての通りあの犬童の兄である』
 熊谷の絞り出すような声が広間を押し潰した。
 嘗て牢屋敷を火の海にした犬童蛍四郎は双子の片割れだった。日をまたいで生まれた兄弟は互いの名を知るより先に引き離された。
『犬童家は畜生腹の家系だ』
 そう嘗て蒼介に教えたのは他ならぬ土宮統だった。
『双子ならばすぐに子供のいない牢屋同心の家に養子にやられる。それがしきたりだ』
 双子といっても朴訥とした顔立ちの犬童とは異なり、土宮ははっきりとした目鼻立ちが印象的な男だった。その長い睫毛に縁どられた左目の下に涙のようなほくろがぽつりと落ちていたのを蒼介はよく覚えている。
双子がよく生まれるのは始祖が犬と通じ合ったが故の呪いだと、そう土宮は笑った。『双子を生まねば殺したとまで噂されるほど犬童家の因果は深い』
 そのときの土宮の目にどこか暗いものが浮かんだことに蒼介は気が付いていた。それは犬童にはない表情だった。
 それでも弟の犬童と同じく土宮もまた学問が好きな男だった。犬童のように書に長けているわけではなかったが和算や天文が好きで、蒼介も算盤を教えてもらう一方でよく一緒に星を眺めた。
『冬の星は夏よりも綺麗に見えるだろう?』
 そう白い息を吐きながら微笑む土宮の顔は蒼介よりも幼く見えた。
『天は人よりも旧い時を知っているんだぞ』
 そう言いながら土宮は蒼介を抱き上げる。
『千では足りぬ時間を俺たちは眺めているんだ』
 そう言われてもあの小さい無数の瞬きが人の命よりも遥かに長い時の名残だなんて蒼介には到底信じられなかった。けれどそう思いながら天を仰いでみれば、ひどく自分が小さな存在に思えてどうしようもなく心細くなる。だから蒼介はぎゅっと土宮にしがみついた。
『おいおい』
 土宮が蒼介の頭を撫でる。
『恐がらせてしまったか?』
 そう言いながら土宮は蒼介を抱きしめてくれた。『お前の目も星のようだというのに、何を恐れることがある』
土宮の指が蒼介の眦に触れた。ああ――……あの時の土宮の力強い体温も心音さえ蒼介ははっきりと覚えている。その温かさは人でしかなかった。
犬と契った穢れた血だとどれだけ陰口をたたかれようと犬童と土宮は共に満天の星を眺めることのできる無垢な二人だった。
その愛はそれ故に悲劇だった。

 そして十年前の犬童の事件以降、土宮は牢屋同心の職を辞した。
 
 その後の消息は誰も知らない。売りに出されていた土宮家の御家人株を買ったという梶木ですら、土宮がどんな男かはろくに知らないようだった。まるで流れ落ちる星が一筋の光すら残さず夜に潰えていくように、土宮は牢屋同心たちの前から消えていった。
 全てが浅い夢の中の出来事であったかのように、土宮の面影は牢屋敷の中から徐々に薄れていった。そして犬童の事件から生まれた燕兒と真赭に対する信仰は土宮という存在を徹底的に消し去っていった。そうやって誰もが事件の当事者たる犬童そのものから目を逸らし続けていたのだ。牢屋敷が抱え込もうとしていたのは燕兒への懺悔と真赭への後悔だけだった。
 そしてこの赤く爛れた秋の夜、牢屋同心たちの記憶の底から、犬童の影と罪を引き連れて、土宮は再び姿を顕した。
『謀叛ということは倒幕か?』
 群岡の声が響く。磨き抜かれた刀身を剥き出しの首筋に張り付けるような感触を感じさせる声だった。場が凍り、静まり返る。熊谷が頷いた。群岡は納得したように瞑目した。
『この十年……』
 そこで熊谷は一度言葉を切った。時間の重みを感じたのだろう。
『この十年、土宮が何処で何をしていたのかは分からない』
 役人達は微動だにしなかった。沈黙すら凍えきり、時間が遠ざかっていくのを蒼介は感じた。
『しかし一年ほど前……ちょうど洪水もおさまった時期だ』
 それは去年の七月も末の頃の出来事だった。
 七月二十八日の夜半から降り続いた雨は高潮を大川に呼び込み、そして利根川を崩壊させた。関根城を押し流した水流は両国橋や永代橋を倒壊させ、本所や浅草が水の底に沈んだ。
 死者四千名――未曾有の水害だった。
 蒼介も公儀が出した舟に乗り込み、民衆の救助にあたった。再度降り出した雨の激しさと無慈悲な風の冷たさは今でも全身が覚えている。呻き吠え立てる闇が巨大な怪物のようで、助け上げた人間が軋み揺れる舟の上で冷たくなっていくのを蒼介は為す術もなく見つめた。
 凍りついた時間は溶けることなく、いつまでも蒼介の中に冷たく横たわっている。熊谷の息を吸う音が聞こえた。
『土宮は自らが開いた蘇芳院という学問所で一つの信仰を布教し始めた』
 どよめきが起こる。蒼介の足元が鈍く揺れた。
『相手は全てこの牢から出た入墨者たちだった』
 その身に生涯消えることの無い罪を背負い、罰を受けた者たち――蒼介の額に交わした多くの熱が蘇り、手のひらには肉が裂け骨が断たれていく感触が広がった。熊谷の視線が僅かに蒼介に向けられる。
『その蘇芳院は…‥』
 蒼介は姿勢を正す。膝の上の手を固く握り直した。
『表向きは出牢後で働き口もなければ身寄りもない人間たちの憩いとなるよう天文学を中心に教える学問所だったが、その実態は仏教とも神道とも異なる独自の信仰を広める場だった』
 独自の信仰――無数の百足に埋め尽くされているような悪寒に全身が覆い尽くされていく。それでも蒼介は熊谷を見据えた。
『その信仰とは土宮が独自に作り上げた暦によって生活をするものだった。集まって祈祷をする日や働く日、そして針仕事をしてはならない「悪か日」というものに到るまで、季節の移り変わりや日の傾く角度によって信仰者の生活は徹底的に管理されていた』
 天への従属と服従のもとに成立する秩序によって信仰は成立していた。
『それだけならば罪を犯した者たちの更生を目指した活動として、讃えられるべき行いだっただろう』
 それは法の為に罪を欲する公儀が認めず、牢が与えることができなかった赦しだったのかもしれない。秩序を維持する為に排除された人間たちが生まれ変わる為の手段と理由にもなりえただろう。
『だが、土宮が立ち上げた信仰には生まれてきた子供に行う禊に関する教えがあった』
 それは「角欠ぎ」と呼ばれる禊であり、祭司である土宮が生まれた子供の頭部に水を灌ぐ行為であった。
『生まれたばかりの子供とは悪魔の角を生やした罪の国の住人だというのが土宮の主張だった。また親の罪が子に伝わらぬよう、悪しき因果を断ち切るためにもこの禊は重要なものだった』
 その禊とは赤子だけでなく信者全てに行われたそうだ。この禊が行われなければ――
『土宮のいうところの神に救われぬ』
 熊谷の鈍い声が冷たい広間に鉛のように沈み込んだ。誰も微動だにしなかった。時間が固まって閉ざされていくようだった。『全て――』その次の言葉が千切れて消えていくことを誰もが願った。
『全て隠れ切支丹の教えそのものだった』
 萎びた果実を絞るよりも苦しげな熊谷の言葉は、乾いた血が固まったような輪郭を持ちながら牢屋同心たちの胸に刻み込まれた。 
 蒼介の心の臓が握り潰されていく。それでも鼓動はやむことを知らず胸の内側で手負いの獣ようにもがき続けていた。
 切支丹。それはこの国が最も恐れる異教であり、邪法だった。赦されざる信仰であり存在すら認められぬ神だった。
 記憶の中で金の髪が乱れる。緑の眼が潰れた臓腑の裏側からこちらを見つめてきている――……
 それは最も罪深き神――蒼介の胸が潰れる。逆流する感情を必死に堰き止めれば肩が震えた。熊谷の悲しげな視線が物言わぬ爪先のように触れるのを感じた。
『ただの異教ならば捕え、改宗さ《転ば》せてしまえばいい』 
 その熊谷の言葉には僅かながらの公儀への苛立ちが滲みだしていた。荒れ狂う海に翻弄される笹の舟のように無力で、抗う術すら見出せずにいる己を呪い続けている。
『しかし土宮はあろうことか、その邪法の教えに従い、公儀に仇なそうとした』
 炎の海の中で弟を喪ったこの世の獄卒は、権力者の安寧を護るために作られた秩序によって処罰された嘗ての罪人たちを引き連れて、仮初の平安に反旗を翻した――それは地獄の反乱だった。
『既に多くの焙烙を手に入れ、屋敷に隠し持っていることが密告によって明らかになっている』
 もはや誰一人として息を呑むことすらできなかった。土宮の信仰とは圧倒的な暴力を伴った秩序への反逆そのものだった。
『手始めにこの牢屋敷を攻め、罪人達を解放。同時に町中に火を放ち、混乱の内に江戸城を攻め落とす』 
 これが土宮の計画だった。そこに永遠の安寧も心からの贖罪もましてや魂の救済すらなかった。
『罪の解放と罰の反乱』
 それこそが土宮の目的であり、それは狂気にも斉しい虐殺への入り口だった。この出来合いの法の権威の為に罪に問われた人間たちならば、土宮の蜂起にきっと呼応するだろう。
『今や罪人の数は千に届きかけているからな』
 群岡の錆びついた刀で切り結ぶような声が広間に沈んだ。巻き戻ることを赦してくれない時間は最も非情な瞬間に冷たく凍りつく。
(しかし)
 蒼介は気が付いていた。嘗ては役人だったとはいえ今や一介の浪人者と、行き場のない罪人達がどうして火器の類を集めることができたのだ。
 誰かが裏で手引きをしている。
 この世の崩壊を願う何者かが存在している――……。
『おい』
 不躾な梶木の声があがった。
『その土宮という奴はこの牢のことをよおくご存じのようだが、十年前と今とは変わっていることのほうが多い筈だ』
 鍵役も変わるわ、処刑にも拷問にも立ち会う牢屋同心がいるわ――梶木の細い目が蒼介を嬲るように見つめた。
 やめてくれ――蒼介は胸の内側で叫ぶ。姿勢をどれだけ正しても平静を装うことすら本当は難しくなってきた。
 それは誰もが思いながら、あえて触れずにいたことなのだ。
 それでも聞いておかねばならねェだろ――そう言うように梶木の唇が吊り上った。目を背けるな。汚れ仕事なら買ってでてやるというのか。それともただ秩序が瓦解していく様子を愉しんでいるだけなのか。
『出牢した罪人達がいると言っても限度があるだろう。ただ牢屋敷を攻め落とすだけならば、四方を囲んで大砲でもぶっ放せばいい。だが罪人達を解放するというのなら、その前に鍵を開けておかなければならねェ。それなら鍵の場所はどうなる。熊谷や群岡の旦那が脅しに屈するようなたまか?』
 熊谷が腕を組む。群岡が僅かに天井を仰いだ。この二人ならば即座に相手を斬り伏せるか、自分の舌を噛み切るだろう。
 梶木が手を広げる。
『俺らの中に密通者がいる可能性は?』
 ――幾度目かの沈黙が訪れる。熊谷の分厚い瞼が落とされるのを蒼介は見た。

 再び瞼が上げられたとき、熊谷は土宮一党の中に鮫島の名前があったことを確かな声で告げた――……
 
 足元から世界が崩れていく感覚を蒼介は味わった。誰もが嘘だと口々に叫んでいたのを思い出す。しかし牢屋同心の抗議も虚しく、奉行所は土宮一党の捕縛に向かった。
 その捕り手に蒼介も加えられた。公儀への謀反という大逆に対して、公儀は捕縛のみならず武術そのものの腕を認めた人間たちで捕り手を組織したのだ。恩情も裁きすら必要ない。公儀は斬り捨てることすら許可した。
『鮫島がそんな企てにのるわけがないことは分かっております』
 熊谷に向かって蒼介は必死に微笑んだ。けれどその顔はきっと引き攣っていた。
『相手が土宮殿であろうとも、得体の知れぬ信仰に唆され、ましてや我々を危機に晒すような男であるはずが御座いません』
 そう蒼介は確信していた。だが、もし罠にかかったならば、誰かに陥れられたのならば、どうなる。
 だから蒼介は捕り手として夜に潜んだ。土宮に恩情をかけるつもりは毛頭ない。しかしこの夜に起こる事を誰にも誤魔化されたくなかった。自分の眼で鮫島の潔白を見届け、証明するつもりだった。
 けれど夜は非情で世は無情だった。
 夜が爆ぜる。捕り手に囲まれた土宮の屋敷は断末魔すら溶かす炎に包まれていた。
 赤く色づいた紅葉の四肢を炎の腕が毟り取る。赤黒く呻く炎の中に、磨き抜かれた端麗な面立ちが浮かび上がるのを蒼介は為す術もなく見つめた。
『腹を切ろうと思ったんだが』
 炎の中で蒼介を見つけた鮫島は僅かに微笑んだ。
『間に合わなかったな』
 ――違う。そんな言葉を聞きたいんじゃない。けれどもう蒼介は首を横に振ることすらできなかった。
『手間をかけさせることになってしまった』
 申し訳ない――そう鮫島は言いながら右手を高々とかかげた。
 青褪めた死相が燃え落ちる闇に露わとなる。虚ろな眼の下に浮かぶ小さな黒子は生涯流すことのできなかった涙のようだった。
 それが土宮の死首だった。
 鮫島が討ち取った反逆者の最期の姿だった。

 夜はどこまでも暗く、そして血に濡れていた。
「誰も鮫島が土宮に加担したなど思っちゃいない。あいつは無実だ」
 そう言って鶏冠は洟をすすりあげた。後悔しているのだろう。自分の部下でもある鮫島を救うことができなかった自分を責めているのだ。
 何故……誰もがそうやって問い詰めたかった。しかし武士が入れられる牢である揚屋敷に収監された鮫島は町奉行所の役人たちに警護され、牢屋同心たちが近づくことは一切許されなかった。
『私が土宮殿を殺したことは事実だ。それだけでも十分裁かれるだけの罪がある』
 そう鮫島は言い、後は一切口を噤んだ。どれだけ吟味役の与力に問われ、脅されても、動じることなく静かに坐し続けた。
 燃え落ちた土宮の屋敷からは何十人もの人間の死骸が発見された。消し炭のように黒く焼け焦げた骸ばかりだったが、誰もが祈るような形に手を合わせて身悶えた様子もなかった。
 屋敷の回りに角木を積み上げ火を放ち、更に集めた火器の類を全て爆破した末の最期にしては安らかな死に様だった。覚悟の自決だったのだろう。それは彼らが信じた神への殉死だった。
 しかし首魁である土宮の死骸だけは肩口から首を斬りおとされていた。その肉体は爛れた紅葉の上に捨て置かれ、そして首は鮫島の手の内にあった。
 あの夜、尾のように長い髪を振り乱した土宮の死首を、鮫島は炎の中で高々と掲げた。その死を見せつけるように。自らの罪を謳い上げるように。一切の穢れをはらった禊の後のような整然とした面立ちで、鮫島は死者を闇に突きつけた。
 
 そして黙して何も語ることなく白洲に臨んだ。

『おおそれながら!!』
 たまらず奉行所の白洲に飛び込んだのは蒼介だった。既に何人もの役人達を振り切ってきた為、袖は破れ、袴の裾は泥の塊でしかなかったが構うことなどなかった。
 町奉行所同心が振りかざした刺又が目の前に突き刺さる。けれど蒼介は動じることなく頭を下げ続けた。
『この者は推測でものを語らぬ人間で御座います。知らぬこと、分からぬことに対しては口を噤むしかないことを知っている男で御座います』
 蒼介は更に深く身を折った。白洲の砂利が掌に食い込んだ。
『憶測は邪心を呼び起こし、人心を惑わす、そう嘗てこの男が口にしていたのを私は聞いたことが御座います』
 それは真赭が死んだときの出来事だった――腫物を扱うように蒼介に接しながら、それでも真赭の死の真相について陰で邪推を繰り返す男たちに鮫島が放った言葉だった。
『人心が乱れれば世が乱れる。それにくだらぬ憶測は誇りにかかわるぞ』
 そう最後に付け加えて鮫島は詰所から去っていった。よく覚えている。
『そのような男がこのような罪を犯す筈が御座いません。上様に逆らい、この世を乱そうとするわけが御座いません』
 どうぞもう一度の詮議を。いま一度の慈悲を。
 そう訴えかける蒼介を一瞥することもなければ、整った表情を崩すこともなく鮫島は真っ直ぐに背を正し続けた。けれどその膝に置かれた拳が握りしめられるのを蒼介は確かに見た。
 ――結局、蒼介は白洲からも奉行所からも蹴り出され、謹慎を命じられた。
 
 そして鮫島は切腹を申し付けられた。磔でもなければ獄門でもなかったところに僅かばかりの恩情があっただけだった。
 
 蒼介が介錯をつとめることに決まったのは、鮫島のたっての願いという話だったが、公儀が決めたことだった。傷痕はどこまでも抉られて、癒すことすら赦されなかった。
 誰もいない夜だった。
 蒼介がいなくなっても悲しむ家族はもう誰もいなかった。蒼介はたった独りで、鮫島にはまだ母親がいた。
 だから蒼介は腹を切ろうと思った。
 誰の声は届かず、救いの手すら差し伸べられないならば、あるのはもはやこの身ひとつだけだった。抗議にすらならないかもしれない。結果は何も変わらないかもしれない。それでも蒼介は命を賭けるつもりだった。それが蒼介の矜持だった。そして唯一赦された抵抗だった。
 しかし刃に手を添えたとき、町奉行所の同心が訪ねてきた。――
「――あいつは誰よりもお前を心から信頼していたからな」
 鶏冠が寂しげに項垂れる。堪えることのできなかった涙が一筋、眦を濡らして頬をつたった。刑を明日に控えた鮫島の最期の願いは、蒼介と話をすることだった。
「父親を喪い、姉を奪われ、目には見えない重圧に耐えながら牢屋敷の期待に応え続けている」
 俺には決して真似できない――そう鮫島は鶏冠に打ち明けていたそうだ。冷たい夜の果てに炎の影が揺れる。
「強い男だと言っていたよ」
 その鶏冠の口を借りた鮫島の言葉に蒼介は頭を強く振った。違います――そう呟く声ももう弱かった。
 蒼介は強くなどなかった。まだ泣くことすら赦されない卑怯で無力な男だった。

 あの夜の牢獄はいつもより寒くて、慣れた道の筈なのに他人のように冷たかった。
 
 鍵を開けてもらうことはできなかった。格子の向こう側にいる鮫島は少し痩せた。
『呼び出して悪かった』
 蒼介は首を振った。格子を握りしめていないと鮫島を責めてしまいそうで、そんな自分の弱さがまた恨めしかった。
 そんな蒼介に気が付いているのだろうか。鮫島は格子のすぐ前まで来てくれた。指が重ねられる。
『震えてるな』
 鮫島が微笑む。そうやって確かめられるのがまた悲しくて、悔しかった。
『いつまでも変わらない』
 手が握りしめられる。
『素直で優しい男だ』
 鮫島が真っ直ぐに蒼介を見つめる。だから蒼介は初めて鮫島を正面から見た気がした。端正に整えられた顔が優しく微笑んでいる。何故、こんなことに……そんな問いにもう意味はないことを蒼介は悟る。
 過ぎた時間にもうなんの価値もなかった。無数の人の死骸を踏み越えた先で反逆者の首を討った男は、罪人として処罰される。そんな理不尽すら鮫島はとうに受け入れていた。鮫島の顔が近づけられる。蒼介は思わず口を開いた。
『私が……』
 私が腹を切ります――その決意が言葉になる前に鮫島の指が蒼介の唇を遮る。こうやっていつも鮫島は蒼介を理解して、無言で護ってくれた。それがいつだって悔しくて悲しかった。
『私は……』
 剥がされた指の先で、絞り出す自分の声が震えていることに蒼介はようやく気が付く。なんと情けない。なんと無力だ。
『お前に伝えなければならないことがある』
 鮫島の口が開く。重ねた指が絡まる。
『……水瀬』
 鮫島の澄んだ眼差しの先に蒼介はいた。
『お前が背負わされた宿命は誰よりも残酷なものだ。奪われ、裏切られ、傷つけ、傷つけられながらそれでも醒めることなく繰り返される悪夢そのものだ』
 宿命――指の先から熱が剥がれ落ちていく気がした。
『父も死に姉も殺され、そして自らの手で同輩をも処断する。これ以上の悪夢があるというので御座いますか』
 溢れる声は震えていた。
『貴方は一体、何を伝えたいのでしょう……』
 蒼介は項垂れる。鮫島がどうしようもなく遠かった。
『……』
 鮫島は何も答えない。だから蒼介は悟る。
『私には伝えられないことなのですね』
 それほど蒼介が背負う宿命とは重く、そして蒼介自ら理解しなくてはならないものだというのか。
 鮫島の両手が蒼介の手を包んだ。泣く子供をあやすように、夜に怯え、人を恐れる子供を諭すように。強い力が込められる。
『どれだけ複雑で過酷な宿命であったとしても、お前ならきっと受け入れられる。そして乗り越えられる』
 蒼介よりも長い指は爪先まで温かかった。
『覚えておいてくれ』
 鮫島の澄んだ面差しは蒼介を真っ直ぐに見つめていた。
『鬼が人である限り、神もまた人だ』
 鬼と人。そして神――蒼介の記憶の中で赤い炎が渦巻いた。
『貴方は……』
 震える声は形にすらならない。鮫島の整った顔が悲しげに綻ぶ。
 人に報いを
 鬼に贖いを
 神に裁きを
 ――金の髪が揺れ、血濡れの月が地に聳えたった
『貴方は何を知っている』
 思わず蒼介は身を乗り出す。貴方は何を知っている。どうして口を噤んだまま死のうとする。
『貴方は一体――』
『怯えるな』
 鮫島の僅かに歪んだ顔が蒼介に近づけられた。
 怯えるな――鮫島が蒼介を揺さぶる。
『何も怯えることはない。畏れることもない』
 神もまた人だ――鮫島は繰り返す。
『それを覚えておいてくれ。何も悲しむことはない』
 鮫島に抱きしめられる。薄い左耳が蒼介の唇に近づけられた。格子越しの抱擁はただ苦しく、そして限りなく遠かった。
『お前に罪はない』
 羽織に爪がたてられる。鮫島は本当に何も言わずに死ぬつもりなのだ。罪にもならぬ宿命だけを背負って果てるつもりなのだ。そして全ての理由は蒼介にある――
『何故……』
 割れた心が胸を抉る。父も姉も蒼介に何も言わずに逝ってしまった。そうやって誰もが蒼介を置き去りにしていく。一欠けらの温もりも一時の思い出だって永遠じゃない。
『そんなものを与えられたって……』
 戦慄く視界の先に姉の厳しい顔が蘇る。あれは最後の寝小便をしたときに叱られた顔だ。あまりに尖った目をするものだから、そんな顔をすれば本物の鬼になってしまうぞと、濡れた布団を干しながら父が豪快に笑っていた。――そんな姉ちゃん、蒼も嫌だよなあ。
『一人で生きていくには悲しすぎるのに』
 もう二人はいない。思い出は遠すぎて悲しすぎる。堪えきれずに頬をつたった涙が鮫島の腕を濡らした。詫びることすらもうできなかった。
『何故、私を置いていく』
 瞼を落とせば時間が止まるような気がした。けれどただ熱い涙が溢れて零れ落ちていくだけだった。
『私は貴方を死なせたくない』
 死んでほしくない――鮫島を必死に抱き返す。その近づけられた左耳に訴える。それでも格子の距離は遠すぎた。鮫島の鼓動が見当たらない。
『一人にしないでください』
 それが蒼介の本音だった。涙が枯れ果ててこの身が裂けても叫び続けたい本心だった。それでも鮫島は首を横に振るう。詫びるように背中に回された腕に力が込められた。
『これが俺の約束だ』
 溢れる涙が零れていくごとに時間が過ぎ去っていく。その先には何もない。
『これが俺が交わした契約だ』
 鮫島の右手が涙に濡れた蒼介の頬に触れる。左手は背中に回されたままだった。長い指が涙に濡れた睫毛をすくう。
『それに……』
 鮫島が微笑む。
『お前は一人じゃない』
 揺れる視界の中で鮫島が霞む。それがひどく恐ろしかった。抱きしめていなければ消えていってしまいそうなほど儚かった。
『どうしてそんな……』
 声が震える。水に濡れた半紙のように皺になった自分の顔が鮫島の瞳の中に映った。
 酷なことを貴方は言うのでしょう――鮫島の躰をかき抱く。格子の向こう側にある熱が欲しかった。手のひらだけでは足りなかった。
 一人でないなどとどうして言えるのか。今、こんなにも蒼介は寂しい。一欠けらの星も見えぬ闇の底を彷徨う迷い子よりも寄る辺ない精神を抱えて、冷たい時間の中を流離っている。
『私はまだ貴方に何も伝えていない』
 蒼介はあの冬の朝に逃げ出したきりだった。泣いて蹲り、そして去っていく鮫島の背を追うこともできなかった。
『水瀬』
 鮫島の手のひらが蒼介の頬を包む。そのまま促されるように蒼介は顔をあげた。
『……俺はな』
 泣き腫らした視界の中に翳ることのない鮫島の顔があった。
『ずっとお前のことが羨ましかった』
 それは懺悔ではなかった。赦しを欲しているのでもなかった。
『燕兒殿の息子という重圧を抱えながら、真赭殿と同じ人とは異なる容姿であるが故に牢屋敷ここで生きていかねばならない』
 檻の中で生きていかねばならない――頬を包む鮫島の手に蒼介は自分の手を重ねた。
 鮫島の言うとおりだった。こんな人でなしの容姿すがたかたちで外で生きていけるわけがなく、牢屋敷以外に自分を受け入れてくれるところがあるとは思えない。そうやって囚われる道を選んだ。これが蒼介が生き延びる手段だった。
『それ故にお前は自分の為さなければならないことを理解している。燕兒殿の後継者になることを誰もがお前に望んでいるから、お前は常にその身以上の結果を残さなければならないことを分かっている』
 だからお前は世間の期待を一身に背負いながら、自分で自分を追い込んでいる――それが生きる術だったんだろうと囁く鮫島の声が牢に静かに浸み込んでいった。
 その通りだった……ばらばらになった心を拾い集めたくて、溢れる涙を流してしまいたくて蒼介は思わず顔を伏せる。
『私は……』
 まっさらな鮫島の左頬に項垂れる。熱い涙と嗚咽にまみれた声は惨めなくらい震えていた。
『牢屋敷の期待を裏切るわけにはいきません。父と姉が積み上げてきた信頼や名誉を私自身の手で崩すわけに参りません。それに私は此処でしか生きていけない』
 自分を生かしてくれた恩のためにも蒼介は努力し、報いなくてはならなかった。求められるならばなんでもやった。非人の仕事だってやったし、罪人の首だって何度だって刎ねた。――鮫島の手が蒼介の頬に触れる。
『そんなお前を俺はずっと憐れんでいたんだ』
 牢はあまりに冷たくて、けれど膚に伝わる鮫島の熱はどこまでも暖かった。この熱が明日の朝には喪われるなんて信じられなかった。信じたくなかった。
『可哀想だと思っていた』
 格子の向こう側から鮫島の指が蒼介の頬を撫で、そして睫毛に触れた。
 その指に促されるように蒼介は瞼をあげる。
 雨上がりの空のような微笑が蒼介を見つめていた。穢れもなければ果てもなく、理不尽も不条理すら受け止める顔だった。
 ――赦されたと思った。
『私も貴方を憐れんでいた。可哀想だと見下していた』
 今はもうこんな事しか言えない自分が情けなくて、蒼介はただ鮫島の手に頬を預ける。それでも鮫島は頷いてくれた。
『俺が親父に殴られたとき、俺の名前を呼んでくれただろう』
 いつかの朝が蘇る。蒼介は思わず鮫島の右頬に手をやった。そのまま半月のように開いた右耳へと指をつたわす。
 鮫島は穏やかに微笑んでくれた。
 見目好い耳の繊細な丸みを蒼介は確かめていく。産毛の残った耳朶はどうしようもなく柔らかく、そして温かった。――ああ……あの日の傷痕はもうどこにもない。
 ようやく戻ってきた気がした。あの逃げ出した朝に辿り着いた気がした。
『嬉しかった。お前が俺を見ていてくれたことが分かって、嬉しかった』
 鮫島の腕が蒼介の首に回される。
『嬉しかったんだ……』
 格子を挟んでもう一度抱きしめられる。先刻のような噛み付く抱擁ではない。背中に回された腕が何度も動いて蒼介の形を確かめた。その背中の先にある鼓動に触れるように。自分の半身を確かめるように鮫島は蒼介を抱きしめる。
 父親の存在に縛られ、肉親によって隔たれた二人だった。その父が死んでも、信仰によって引き裂かれた二人だった。
 だからこそ唯一の相手だった。
 可哀想だと、憐れだと、それがお互いに望んでいた理解であり、赦しだった。
 これは甘えかもしれない。それでもお互いにとって大切な言葉だった。格子の向こう側にいる鮫島は限りなく遠くて、あまりにも近すぎた。
『……』
 鮫島を抱きしめる。こんなに近くにいるのにどこまでも遠い。
 いつだって自分たちはそうだった。だからこそ今のままではお互いを貪るだけだと思っていた。傷を舐めあうだけだと思っていた。お互いが親の因果も人の業も背負える男になれたとき、初めて向かい合えると、その日が来ることを信じて生きていた。
 時間さえあれば――どれだけそう思ったことだろうか。けれどもう、どちらも口にすることはなかった。後悔を遺したくなかった。
 最期に触れた心音だけで十分だった。
 ――体が離される。
『蒼介』
 初めて名前を呼ばれた。そしてこれが最期だった。
 鮫島の指が蒼介の睫毛をすくう。その下にある緑の目を見たいのだと鮫島は無言で蒼介を促す。
『……綺麗だ』
 鮫島が蒼介を覗き込む。滲む視界に映った鮫島は誰よりも貴く、美しかった。
 最期まで澄んだ眼差しの人だった。兄にも斉しい人だった。
 ――斬り落とした鮫島の首からは目が覚めるほど鮮やかな赤い血がさっと散った。最期の瞬間まで高潔な男だった。どこまでも美しく潔い人だった。
「あいつはきっと幸せだったよ」
 鶏冠が息を吐くように呟く。そう自分に言い聞かせているようだった。
「あいつは誰よりもお前を気にかけていた。その気持ちさえ伝わっているのなら」
 あいつは幸福だった筈だ――鶏冠は今はもう、瞬きの一つもなく蒼介を見つめている。凪いだ海のように落ちついて、星の降る夜のように静かな瞳だった。
「それを伝えたかったんだ」
 鶏冠が首を傾けて笑う。綿のように柔らかく、そして無垢な笑顔だった。
 濡れ衣をきせられ、碌に調べられることもなく死ぬことがどうして幸福だといえようか。それでも蒼介は知っていた。
 我々の命は自身のものではない。
 公儀のものなのだ。
 公儀が腹を切れといえば刃向うことなく粛々と腹を切る。それが蒼介たちに課せられた宿命であり、赦された矜持そのものだった。その矜持を鮫島は護り徹した。
「まだ何も終わっておりませぬ」
 蒼介は静かに言った。夜の静寂に自分の声が響いて消えていく。人はあまりに無力でそして非力だ。闇にすら摩り下ろされる。
「土宮の処刑が済むまでは牢屋敷は試され続けております」
 鮫島が殺した男であり反逆の首魁でもある土宮統の亡骸は、塩詰にされて拷問蔵の中にある。この時代は親殺しや主殺し、夫殺しなど秩序に反逆した人間を決して赦さない。死してもその骸は塩詰にされて然るべき刑に処せられる。
 それは見せしめだった。
 この世の秩序に刃向った者の末路は将軍の権威として民衆に見せつけられる。
「鮫島の死で動揺している牢屋敷の我々が、嘗ての同輩でもある土宮の処刑を滞ることなく遂行できるかどうか。公儀は常に私達を試しております」
 通常ならば塩詰にされた骸は非人頭の溜に保管される。しかし今回は牢屋敷で保管し、警護しろという命がくだったのだ。
 公儀に反旗を翻した一味の首魁だ。密告者が把握していた人間以上の仲間がいることも十分に考えられる。いつ報復があるともしれず、骸を取り返しにこないとも限らない。その為には溜のような場所よりも、四方を濠と塀に囲まれた牢屋敷で牢屋同心と町奉行所の役人達に警護させたほうが安全であるというのが公儀の言い分だった。
 だから牢屋敷では夜通し火を焚き続ける。刺又を手にして、幾度も交代を繰り返しながら拷問蔵にある土宮の死骸を見張り、護り続ける。同輩を陥れた大逆人の死骸を公儀の威信のために警護するのだ。
「私達は成功させなくてはならない」
 蒼介は膝の上で手のひらを握りしめる。
「土宮という大逆者をこの手でしかるべき刑に処さなければならない」
 牢は緊張を続けていた。不条理に擦り切れながら、それでも役割を全うしようとしていた。
「それは公儀の為ではない」
 決して鮫島を見捨てた公儀の為ではない――口には出さずとも蒼介は心の中で叫ぶ。
「鮫島の為で御座います」
 蒼介はきっぱりと言い切る。これは断罪だった。蒼介たちが唯一赦された土宮への復讐であり、公儀の支配すら越えた先にある鮫島への弔いだった。
「今夜、お前を呼んだのは鮫島のことを伝えるためだったんだが……」
 鶏冠が肩の力を抜いた。しみじみとこの半月の悲劇を過去として噛み締めているようだった。
「それを聞けて良かった」
 そして一つ大きく瞬きした。
「お前には俺たちの業を背負わせてしまい、宿命すら課してしまって申し訳ないと思っている」
 鶏冠が微笑む。その顔は人にしては穏やかで悲しすぎた。
「だがお前が燕兒殿の跡を継いでくれて良かったとも思っている」
 それだけで私たちは救われる――炎に焦がれた夜は何処までも優しくて、そして残酷だった。
「お前は死罪にならず、入墨や叩刑で出牢する罪人たちにも声をかけてやっているだろう?」
 蒼介の手に汗にまみれた額の熱さが蘇る。蒼介が最も恐れていることは、燕兒を求め真赭を乞い続けた人間が死罪になるために罪を犯して牢に戻ってくることだった。
 牢の安寧と世の平安が一致するとは限らない。だから生きて牢を出る人間には懇願し続けた。もうここには戻ってくるなと、父や姉の名を出してまで蒼介は祈り続けた。
「この一年で牢に戻ってくる人間は一人もいなかったよ」
 蒼介は小さく頷く。今となってはそれが蒼介の唯一の救いだった。
「こんな何が罪になるか分からぬ時代に、一度道を踏み外した者がまっとうになるのは難しいだろうと思っていたが、全てお前のお蔭だ」
 鶏冠の柔らかい顔がよりほぐれていく。まるで仏のような顔立ちの男だった。
「……私は」
 蒼介は口を開く。
「ただ父と姉の名を借りただけに過ぎませぬ」
 全て燕兒と真赭の力であり、罪人達の努力の結果だった。
「それに私は父ほどできた人間でもなく度胸がある男でも御座いません」
 静かな夜の裏側で炎はいつまでもぐずり続けている。
「父のように同輩すら救えなかった」
 蒼介は拳を握りしめる。
「それに火器の類を一介の牢屋同心にすぎぬ鮫島や浪人者である土宮が集められるとは思いませぬ」
 何者かが裏で糸をひいている――それは誰もが既に感じ取っていた。
「本来ならば土宮の一件を吟味し直し、鮫島の汚名を雪ぐべきで御座いました」
 けれどそれは出来なかった。どれだけ公儀に訴え出ても、また仕事の隙間を縫って市中を駆けまわっても、なんの証も出てこなかった。
 鮫島の名を挙げた密告者も火盗改の屋敷で舌を噛み切って死んだ。
 結局、蒼介は誰も救えなかった。父も、姉も、同輩すら護れなかった。
「だからこそ自分の役割を全うしたいと思っております」
 蒼介に何ができるのか。それはただ父を敬い、姉を崇めてくれる人たちの安寧を護ることだけだった。これ以上、公儀に牢屋敷を罰せさせる理由を与えないことだった。
「まずは土宮の処刑を無事に済ませ、鮫島に報いとう御座います」
 これで鮫島が浮かばれるとは思えない。
 しかしけじめをつけたかった。
 
 
 誰もいない家の戸を開ける。
 人気のない廊下は冷え切っていて、蒼介の足音だけが響いては消えた。闇の向こう側では炎が天を焦がし、役人達が眠れぬ夜を過ごしている。蒼介も仮眠をとった後は梶木と交代しなければならなかった。
「……」
 蒼介は仏間の障子をあけた。沈黙だけに迎えられて、それでもそこには蒼介の父と姉、そして顔も知らない母の位牌があった。
 蒼介は仏壇の前に座る。背筋が自然に伸びた。
 茶碗に米粒を残しても平気な顔をするような燕兒だったが、先祖供養だけは厳しかった。五供をきらしたことはなく、毎朝の礼拝にも必ず蒼介と真赭を従えた。
「父上、姉上」
 そちらに半次はもう着きましたか?――蒼介は懐から小さな包みを取り出す。開いたその中から出てきたのは金色の二分金だった。
「もし三途の渡し賃が払えず困っているようで御座いましたら、これを渡してやってください」
 蒼介は位牌の隣に置いた小さな壺にその二分金を納めた。
 斬首を務める役人には公議から刀の研ぎ代として二分が与えられる。だが蒼介は一度も与えられた金に手をつけなかった。壺の中で二分金同士が触れ合う。耳を澄まさなくては聞こえないくらい小さな音がちりんと鳴った。これが人の命の音だった。
「…‥」
 その儚い音色を耳に残したまま、蒼介は鈴棒でりんにそっと触れる。鈴虫がころころと鳴く秋の夜に、澄んだ音が響いた。
 ――蒼介は手を合わせる。瞑目すれば自分の心音が形になって現れた気がした。その規則正しい音は寄せては返す波のようで、けれど徐々に遠ざかっていく。
 蒼介にとって祈りは眠りに落ちていく感覚に近かった。
 絡みあった指が解けていくように緩やかに精神こころが躰から離れていく。それは少し心細くて、けれど心地よかった。
 りんの音が消えていく。幼い頃、蒼介が目を開けても、燕兒は拝み続けていた。誰よりも長く、深い祈りを捧げる人だった。
 燕兒は誰を悼んでいたのだろう。母だったのだろうか。蒼介の母親の真白は蒼介を生んですぐに亡くなっている。だからいつも蒼介の中で母というものは白い靄のようで夢よりも儚く抽象的な存在だった。けれどきっと父や姉にとっては確かな〝人〟だった。
 だから蒼介もりんの音が消えても、合わせた手をすぐに放すことはなくなった。
「……」
 遠いところでせせらいでいた心が体に戻ってくる。蒼介は合せていた手を放す。目を開けても誰もいなかった。透明な鈴虫の声音だけががらんどうの部屋に浸み込んだ。
『燕兒殿の跡を継いでくれて良かったと思っている』
 鶏冠の言葉が蘇る。蒼介は手を膝に置いた。僅かに悴んだ指を握りしめてほぐした。
「跡を継ぐなんてそんな立派なものでは御座いませぬ」
 言葉にしてしまえば胸が潰れていく。そうしなければ蒼介は生きていけなかったからだ。この牢にしか居場所がないからだ。それを気遣い、憐れんでくれた鮫島はもういない。
 跡を継いでくれて良かったと、鶏冠だけでなく熊谷や丑守たちもそう思っていることを蒼介は知っている。それが蒼介の救いだった。
 生かされることが嬉しかった。人でなしと誰に罵られても構わなかった。そうやって牢屋敷に甘え続けていた。
 あまりにも蒼介は身勝手で本当は感謝される価値もなかった。
「何が、自分の役割を果たしたいだ……」
 気障なことを言ったと蒼介は顔を歪める。結局、蒼介は鮫島の非情な死を過去にできるだけの理由が欲しいだけなのだ。
「……」
 丸められた半紙のような心のまま蒼介は仏壇の地袋を開ける。手を伸ばせばすぐに冷え切った壁に触れた。その指を切るような冷たさは、人を躊躇させるのには十分だった。
 ――それでも蒼介は少し力を入れる。まるで障子が外れるような音をたてて壁が剥がれた。二重扉だった。死んだ真赭が作ったものだった。
 その内側に蒼介は手を伸ばす。身を捩らなければならないほど狭く、飛び散る埃に少し噎せた。
 手首が戸口に擦れる。がたがたと不器用な音が響く。打ち付けた痛みに耐える手が引き摺り出したのは、薄く埃の積もった文箱だった。
「……」
 蒼介は手の甲で埃をはらう。黒々とした表面が光沢を取り戻す。
 なんの装飾もなく、使い込んだ跡すらない。止まった時間が箱の形に固められたようだった。
「姉上」
 小さく呟き、蒼介は蓋を開ける。黴の臭いが湧き上がる。。

 そこに納められていたのは一冊の本だった。
 
 焼け焦げたように茶色い表紙が蒼介の手をざらりと舐める。本特有の柔らかさなどどこにもない。分厚く固い、皮で綴じられた本だ。
「――……」
 蒼介は無言で本を見つめる。題名すらない本は無貌のまま蒼介を見つめ返してくる。
 
 蒼介は表紙を捲った。
 
 ――ちりん……。
 
 その時を待っていたというように、本の裏側から何かが鈴のような音をたてて落ちた。
「……」
 障子の向こう側から白い月の光がさめざめと浸みこんでくる。
 
 その中に浮かびあがったものは――……
 
 蒼介は畳からそれを拾いあげる。勢いあまったからか爪が畳縁を僅かに抉った。鋭い痛みが走る。誰が見ているわけでもない。誰かがいるわけでもない。誰もいない。
 それでも。
 それでも――
 蒼介は手のひらを固く握りしめた。冷たく凍えた拳で殴られたように胸が潰れていく。必死に蹲れば言葉にもできない嵐のような感情が一つの情景を呼び起こし始めた。蒼介の全身が粟立つ。
 それが何時の出来事なのか蒼介には分からない。鈍色の雲から細い雨がつたい落ちていく。
 濡れた紅葉が枝垂れる。顔を隠すように傾けられた赤い傘の下で一人の男が石榴に歯をたてた。鈍い音と共に皮が破れ、赤い実が露わとなる。まるで肉のような色だった。
 男は同じ傘の中にいる女に齧りかけの石榴を差し出す。火の粉をまぶしたような女の髪が雨を弾いて金色に光っていた。
 女は石榴を受け取らない。その代わり男の手を自分の両の手で包んだ。そしてそのまま男の跡が残った肉に自らの歯をたてた。――
「……」
 記憶が波のように遠くの沖へとひいていく。そのままもう戻ってこなければいい。
 蒼介はゆっくりと手のひらを開いた。手のひらを悴ませるほど冷たい「それ」は元は真鍮で作られていたのだろうか。でも、もう今は磨いてくれる人もいなくなって赤く錆びついていた。
 時間はいつまでも止まったままだというのに、それでも罪はきっと永遠に赦されない。女の粒のように揃った歯が男の跡に重なる。
 ああ――……「これ」は手のひらにおさまるくらい小さいのに。
「貴方はどれだけの人間を死に追いやった」
 蒼介は問う。手のひらの中の男・が答えてくれることなどないと分かっていても聞かずにはおれなかった。
 固い表紙の本を膝に置き、その上で手のひらを握りしめる。このまま握り潰してしまえればいいのにと何度も思う。
 硝子の破片のような月光が障子をつつく。
 自分が祈っているのか。それとも呪っているのか。蒼介には最早分からなかった。
 ――それだけで私たちは救われる。鶏冠の言葉が蘇る。
(そんなことはない)
 蒼介は知っている。
「私たちはきっと誰も救えない」
 貴方たちが信じる貴方たちの神は決して赦された人間ではなかった――……。
「父も姉もきっと誰よりも罪深かった」
 女が果実を啜る。蒼介は固く重い本の上で拳を握りしめる。手のひらの内側で固まるものが心の真ん中に突き立てられていくのを感じた。
「私は誰も救えない」
 繰り返してしまえば槍で突かれたような痛みが脇腹を抉り胸を貫く。蒼介は磔られた囚人だった。さめざめと泣いてくれる秋の月すら仰げない罪人だった。
 ――蒼介は本を捲る。猫の舌で舐められたような感触が指の先まで広がった。膚を炙り鼻を犯した黴の臭いが口の中を舐めまわす。
  どれだけ捲っても蒼介の見知った文字はなかった。皮で綴じられた本はこの国のものではなかった。そこで問われる思想はこの国の誰も救わなかった。
「貴方に何度、人は裏切られた」
 蒼介は手のひらで握りつぶした男に再度問いかける。答えなどないと分かっていても聞かずにはいられなかった。

 蒼介が握りしめるのは錆びついた小さな十字架だった。
 その中央に磔られるのは人間の罪を全て背負った男だった。――

 



 その夜、鶏冠と細君の雪枝が自害した。

第一章 四

 雨に濡れた紅葉が鶏冠の棺に縋った。
まるで赤子の指みたいだなぁ――鶏冠が昔、紅葉を眺めてそう言ったのを蒼介は聞いたことがある。小さく丸い目を何度も瞬かせて、嬉しそうに言っていた。子供が好きで、少し夢見がちなところがある人だった。
蒼介の頬を雨がつたう。枯葉の苦みが口の中に広がった。
遺書には、鮫島は決して公儀に刃向うような男ではなく、そのような罪人として処罰されるような人間ではないと改めて訴えたうえで、鮫島の名誉が回復されないまま土宮の処刑が執行されるならば、それは全ての牢屋同心への侮辱であるとまで書き遺されていた。
 これは命を賭けた最期の抵抗だった。鮫島の汚名を雪ぐだけではなく牢屋同心全員の名誉を護るための死だった。
すすきが項垂れる。無言の葬列が人気のない畦道を進む。
 ――一番最初に変わり果てた二人の骸を見つけたのは蒼介だった。
血の海の中で咽喉を突いた雪枝だけはまだ息があったが、医者の介抱も虚しく夜が明けるのも待たずに命を落とした。自らの命でもって夫の名誉を保証した妻だった。
 濡れた紅葉が枝垂れる。細い雨だ。
『それを伝えたかったんだ』
静かな雨の向こう側に鶏冠の声が聞こえた。
『燕兒殿の跡を継いでくれて良かったと思っている』
 あれは全て鶏冠の遺言だったのだ。
雨が目に沁みる。笠はもう役目を果たさない。霞む視界の先で赤い紅葉の群生が身を寄せ合っていた。
 気が付かなかった――蒼介の肩には棺を乗せた担ぎ棒がある。けれど鶏冠の重みはどこにもなかった。
雪枝の様子がおかしかったことに気が付いていたのに、鶏冠の決意に気が付かなかった。蒼介はただ自分の役割を全うしたいと言いながら、独り善がりなけじめを欲していただけだった。どこまでも蒼介は愚かで無力で、そして身勝手だった。
小塚原の火場で二人が焼かれていく。そぼふる雨の空に赤い炎が揺らめいた。
紅葉が枝垂れる。雨が零れていく。
 ――百舌の贄にされた鼠が可哀想だと、そう呟いた鶏冠の姿がどうしても忘れられなくて、葬儀の前に蒼介は塀に梯子をかけた。忍び返しに腹を串刺しにされたまま放置された鼠の体は思った以上に硬くて、少し力を入れなければ抜けなかった。埋めてやろうと思ったのだが、雨にぬかるむ土は少し寒いかもしれないと、綿を敷き詰めた箱の中にまずは入れてやった。
泥のような土を箱に被せながら、ふと蒼介は思った。鼠を見上げた鶏冠は一体誰を可哀想だと言ったのだろうか。喰われることもない、ただ捧げられるだけの死に何を重ねていたのだろう……。
紅葉が枝垂れる。立ち昇る一筋の煙は答えを返してくれなかった。
「……」
静かな雨だれの向こう側から、突き刺すような視線を感じた。
 蒼介は笠を少し持ち上げる。細い雨の先にいたのは若い男だった。――

雨が鳴る。紅葉は項垂れ、すすきはより深く身を折った。

来た道を戻る人々の足取りは重く、ただ鶏冠の白い骨を納めた骨壺だけが乾いた音をたてた。
「骨が笑ってる」
 熊谷が少しだけ微笑んで骨袋を優しく撫でた。
「よく死んだ」
 そう熊谷は噛み締めるように言った。よく死んだ。よく死んでくれた――……
「何故、死を尊ぶのでしょうか」
 突き刺すような視線のまま熊谷を睨みつけるのは十四歳の少年だった。今年、見習いから牢屋同心に上がったばかりの兎山(とやま)信之助だ。潜められた声は雨に擦り切れて泥に沈んでいく。
(名誉の為の死であったからで御座います)
 蒼介は心の中に言葉を押し込める。
鶏冠の死によって牢屋敷はその矜持を主張することができた。護ることはできなくとも、誇りゆえの怒りを公儀に突きつけることはできた。――そう思っていても蒼介は口には出さなかった。ただ雨に打たれるがままだった。
「他に手段はなかったのでしょうか」
 無言の蒼介を兎山は赤い目で問い詰める。秋の雨に濡れているというのに、その頬は上気していた。
「死は何も解決しません」
 何も解決はしないが、私達が唯一赦された抵抗の手段だ。そして自分の誇りを主張できる方法だ――そう蒼介は思ったが無言を貫いた。兎山が欲しているのはそんな回答ではないことを分かっていたから、押し黙るしかなかった。
顎の下まで雨がつたう。紅葉の指先がうなじに触れる。
兎山の父親はおととし病で死んだ。ようやく四十になったばかりだったが、生来病弱な性質だったという。四十路を迎えることができたのはきっと燕兒のお蔭だとそう微笑んでいたのを蒼介は昨日のことのように覚えている。誰よりも死に近い男だったから、何よりも燕兒を身近に感じていたのかもしれない。
 これで燕兒殿に償いができる――その男は兎山にそう言い遺して死んだそうだ。
『私の父に一体なんの罪があったというのでしょう』
 牢庭ですれ違った時に兎山がそう呟くのを蒼介は聞いた。
自分の父親が自分が罪人であると言い続けるのを聞くことは、子にとってどれだけ酷なことだろう。死が償いの手段だと微笑む父親を兎山はどう受け止めたのだろう……。
雨が泥を打つ。ぬかるみに沈む足が重い。兎山が蒼介を見上げる。
「鮫島さんの名誉の回復を目指すならば、私達は土宮の計画の全貌を探りだすべきで御座います。死んだところで何が報われましょうか」
 未だ丸みをのこした頬を雨が濡らしている。兎山はあまりに幼かった。
公儀が牢屋敷で鮫島の切腹を執行させ、蒼介を介錯人としたのは牢屋敷の役人達に見せつけるためだ。鮫島が土宮に加担していたかどうかなど問題ではない。そのような疑いをかけられたことすら罪そのものなのだ。疑惑すらこの世は処罰する。公儀は自らの威信を揺らがすものはほんの僅かの可能性ですら赦さない。
そして公儀は鮫島の切腹によって、燕兒に忠誠を誓いながら真赭を崇める牢屋敷を牽制し、威圧したのだ。
 蒼介は兎山に気が付かれぬよう僅かに目を伏せる。
土宮と死んだ罪人達が信仰したのは燕兒と真赭だ。証はないが蒼介は確信している。罪人達が抱えた公儀への反逆心を、土宮は燕兒と真赭に対する信仰を利用することで煽った。切支丹という、将軍とは異なる存在を唯一神として崇め奉る宗教を模倣する。それによって逆賊としての結託を強めた。
公儀に弾圧された犠牲の象徴ともいえる信仰に信望を仮託させることによって、大逆の精神はより培われたのだ。
切支丹――仏壇に隠された箱を思い出す。十字架に磔られた男は蒼介にとって救済の象徴などではなかった。
 燕兒とは似てもにつかぬ真赭と蒼介の異形な顔立ちの訳も、蒼介に処刑が任されている本当の理由も、全ては秘匿された十字架の向こう側にあるのだろう。
 公儀が知らぬわけがない。露見していない筈がない。全て知っているのだ。切支丹に関わる品を水瀬家が隠していることも理解していて、牢で生まれた信心も把握しているがゆえに土宮の反逆を制圧し、蒼介の介錯で鮫島を切腹させたのだ。
誰をどれだけ信仰しようと、お前たちを本当に支配しているのはこの公儀なのだと――そう暗に、そして残酷に、現実を突きつけた。
誰も救済されなかった。抵抗すら認められないまま、誰もが無慈悲で圧倒的な権力に屈服した。
鳴る雨は誰の死もきっと悼まない。ただ囃したてるだけだ。
 この世は不条理ゆえに絶対の秩序というものが存在している。刃向えば人として生きることすらままならぬ世の中で、たった一つだけ赦された人間らしさこそ死だった。
そんなことくらいこの若い牢屋同心も理解しているだろう。理解しているからこそ赦せないのだ。
「これでは犬死にで御座います」
 兎山の語気が強まる。溢れる涙は鶏冠に手向けられたものではなく鮫島へのものだった。蒼介を厭う兎山が慕い続けたのは鮫島だった。
「いつも水瀬さんは平然としていらっしゃいますね」
 兎山の視線は更に鋭く尖り、もはや苛立ちすら隠し通せなくなっていた。雨に紅葉が散る。泥が穿たれる。
「鮫島さんを介錯したときもそうだった」
 雨だれが心まで打ち鳴らして通り過ぎていく。前を行く人間の黒い背中が無言のまま蒼介を睨みつけてくる。
「貴方は鮫島さんを逃がすことだってできた」
 握りしめた拳は指先まで悴んでいた。
「処刑される罪人を救済できているとしても、貴方は同輩を救えていない。それどころか誰をも悔やませ、過去に囚え続けている」
 兎山の震える声は蒼介の記憶を煽る。雨が鳴る。
 お父上様にも――雪枝の震える指先を思い出す。父のことはもういいんだ――鶏冠の悲しげな微笑はきっと本心だった。
誰もが最期の面会者に蒼介を選んだ。蒼介は死の象徴であり、そして懺悔の対象だった。本当は誰も救われてなどいなかった。誰もが囚われたままだった。
牢屋敷(あそこ)は狂っていると思います」
 雨を挟んだ視線の先で兎山の顔が涙に拉げた。その口から僅かに覗いた歯が喉笛を噛み切ってやりたいというように震えている。
「公儀に従いながら過去を悔やみ続けている。その後悔が死こそ唯一の贖罪だと理解させてしまっている」
 後悔だけが真実だった。懺悔だけが救済だった。
「誰も貴方を信頼なんてしていない。あるのは狂信的な執着と盲信的な懺悔、そして後悔だけで御座います。貴方はそれを煽り続けている」
 雨が強まる。騒ぎながら散る紅葉は噴き出す血のようだ。
「狂っているとしか思えない」
 血を吐くように兎山が嗚咽を繰り返す。雨に摩り下ろされ、土に拉げたとしても胸を食い破る澱みが消えることなどない。
「水瀬さんは人を死に誘い込んでいらっしゃる」
 地に落ちた紅葉が泥に沈んでいく。
「心の内側を食い荒らし続ける後悔を煽り、死を覚悟させる理由を与えてしまっております」
 顔のない葬列が過去を悼む。
「囚人達が遠島でなく死罪を欲し、敲きや入墨でなく獄門を望んでいることはご存じで御座いますよね」
 死を前にした罪人が顔中で笑って燕兒を乞い、笞で打たれる囚人が真赭の名を呼んで気を失う。……それを蒼介はどう思っていた。
「死を恐れない人間なんて、それはもう人ではない」
 これは《・・・》()い《・》だ《・》――ずっと蒼介は知っていた。
「貴方たちが牢をおかしくした」
 知っていた……無言の葬列が雨の中をいく。
「人間から確かな感情を奪い、過去を償わせ続けている」
 兎山が蒼介を睨む。蒼介は目を逸らさなかった。
「貴方自身が呪いなんだ」
 雨に打たれた紅葉は血のように溢れて散っていく。
「貴方さえいなければ、きっと誰も死ぬことはなかった」
 悲しむこともなかった。償われない罪に嗚咽することもなかった。
「貴方が死ねばよかった」
 兎山の赤い目はもう瞬きの一つもしない。紅葉が枝垂れる。
「貴方は人の罪悪を喰い散らかして生きている」
 骨の笑う声すらもう聞こえなかった。
 

 静かな雨が骨に沁みる。濡れた躑躅の匂いに包まれた墓地には蒼介しかいなかった。
 目を瞑る。時化る海の中心から離れていくように。嵐を外から仰ぐように。心を落ち着かせていく。それでも雨の匂いは濃く、紅葉の赤さは瞼の裏側に焼け付いて離れない。
『貴方自身が呪いなんだ』
知っていた。牢にとって蒼介は罪の証だった。全ての罪を咎を思い出させ、責めさせる存在だった。それを理解していて、それでも蒼介は牢に居座り続けた。
「――……」
 蒼介は瞼を上げる。静寂の先には燕兒と真赭の墓があった。
 乾いた音が足元で鳴る。濡れそぼった枯葉の下で無数の蟻が白い芋虫を齧っていた。
 芋虫の躰が幾度も攀じれる。それでも蟻の顎からは逃れられない。
蒼介もこうやって人を食い物にして生きてきた。燕兒も真赭も牢屋敷の後悔の中で未だ息吹き続けている。
 雨に紅葉が枝垂れる。蒼介は肩に傾ぐ傘を目の前の墓に差し出した。背が濡れる。兎山の涙もこんな風に冷たかったのだろうか。けれどきっともっと純粋だった。
牢屋敷の誰もが水瀬家を尊んでくれるわけではない。燕兒の吉宗を相手にした大立ち回りから三十年近い年月が経過しており、犬童の夜からは十年だ。ようやく十歳を越えたような牢屋同心の若手らにとって燕兒や真赭など伝説よりも現実感のない存在であり、自分の父親が過去に囚われ続けて蒼介に謝り続けるのを見るのは屈辱以外の何物でもないだろう。
こんなものなのだ。蒼介など燕兒と真赭の庇護がなければ何の価値もない。そんなことは蒼介自身もよく理解している。
親を軽蔑する傾向にある若手に人気があったのが鮫島だった。面倒見の良い男だったということもあるし、燕兒を神格化させる為に父親が貶されていたことが、牢の現状に対する鬱憤を抱えていた若手たちを惹きつけ、幼い義憤を煽った。
 古参にとって蒼介が過去の象徴であるように、鮫島は若手の反抗の形象だった。
傘に半分だけ体を埋める。雨に濡れた肩が重い。泥を引き摺った衣は鉛のようだった。
このまま地の底へ沈んでいければどれほど楽だろう――足に縋りつく土が人の指のように思えた。背中を打ち続ける雨の中に罪人の念仏が響き、おありがとうおありがとうと死首が繰り返す。
蒼介が背負うのは信仰だった。そして牢屋敷が産んだ観念だった。
死を恐れない人間など人間ではない――記憶の底から兎山が蒼介を責める。罪人たちによって牢内で語り継がれ続けた燕兒と真赭は、いつのまにか伝説を越えた神にも斉しい存在となっていた。世間から見捨てられ、時代にも裏切られた人間たちの最期の救済であり、信じるに値する存在だった。
 真赭様と燕兒様のもとへ逝ける――罪人が死に怯えたのはもう過去のことだ。
南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏……蒼介の耳の奥に、囚人達が唱える念仏が蘇る。嘗て斬首に赴く罪人に牢内が唱えたのは南無妙法蓮華経の題目だった。処刑を免れた日蓮上人にあやかっていたのだ。しかしそれが今や往生を願う念仏に変わってしまった。
南無阿弥陀仏……ああ、南無阿弥陀仏……。
一欠けらの希望すらもはや罪人達は必要としていなかった。
雨が背をつたい落ちていく。すくいとることもできない。
二人を直接知る人間が一人、また一人と減っていくごとに二人の運命は神話に近いものとなり、人間としての実態は失われていった。
 伝説になった死者の人生はいずれ神話となる。
神は人に産み落とされ、人を喰らって成長する。
そして人は――……
「群岡さん」
 蒼介はそっと背に呼びかける。雨の音だけが響く静寂に人の気配が動くのを感じた。
雨の筋が土をつたって流れていく。
 群岡が燕兒と真赭に手を合わせる。その背は羽織の上からでも分かるくらい痩せていた。
「……それを納めにきたのか」
 墓に向かい合ったまま、群岡が蒼介に聞いてくる。
「ええ」
 蒼介は雨を仰ぐ。濡れた躑躅の影で金糸の髪が揺れた気がした。
「やはり断られてしまいました」
 蒼介が抱えた荷には白の長着と群青の袴が包まれていた。鮫島の介錯を務めたときに身に着けていたものだった。
「大逆者の血を知るものなど受け取れない」
 そうはっきりと寺の住職は言った。もはや世間(世の中)にとって鮫島とは公儀に仇なそうとした反逆者でしかなかった。慈悲などなかった。
「……雨は過去を呼びますね」
 僅かに空を仰げば濡れた紅葉が炎のように色づいている。雨音の隙間に遠い過去が映っては消えていくのを感じた。
 鮫島の祖父――燕兒を妬み蒼介を憎んだ男の父親は元は煙管の羅宇の挿げ替えを生業としていた。梶木と同じ同心株を買って牢屋同心になった人間だった。
武家の出身でもなければ生まれが良いわけでもない男は牢屋同心の面汚しでもあり、そのような人間が自分たちと同じ立場にいること自体、牢屋同心には堪えがたい屈辱だった。
今の牢屋敷でも元三助の梶木に対する風当たりは厳しい。梶木の座った後の畳をこれみよがしに拭いてから座る男がいるほどだ。今から五十年以上前にはもっと陰湿な嫌がらせが繰り返されていたことなど容易に想像がついた。宿直の交代が来ないことなど当然で弁当箱に人糞が詰め込まれていたことさえあったと聞いたことがある。
 そして結局、鮫島の祖父は首を吊って死んだ。金で買った身分は人生を保障してくれるものではなかった。
自分の父親が出自ゆえに追い詰められていく様子を鮫島の父親はどう思ったのか。自分をこんな薄情な世に遺した父をどう思ったのだろうか。親の仇にも斉しい場所で生きていかなければならない運命をどう思ったのだろうか――……。
雨音がほどけていく。けれど死者の悔恨に生者はいつまでも苛まれる。
「過去は常に現在(いま)と共にあるものだ」
 群岡が立ち上がる。人としての熱を喪いつつある声が蒼介の左頬に触れた。
「雨が降れば草木が色づき秋が深まるように、この世の万物は過去も未来もなくただ互いに触れ合い、つかの間の逢瀬を繰り返してはほんの僅かの痕跡を残して過ぎ去っていく」
 生身のまま死を知り続けた群岡の瞳は巡る命の渦を見つめているのか。
「この世に実体など本当はない。あるのはただ、現象のみ」
 泥の窪みに溜まった澱みに波紋が広がる。
「出来事は全て縁りて起こるもの。ある原因は幾つもの結果を引き起こし、次の瞬間にはその無数の結果があらゆる原因の一つとなる」
 細い雨の向こう側に誰かの首が落ちたような気がした。
「この世は因果によって流転を繰り返す」
 その生も死もきっと過去から続いた因果の終焉でしかなかった。
「だから誰を責めることもできん」
 灰色の目に映る雨は朽ちた人の命の名残のようだった。
「だからこそ人とは悲しいもので御座います」
 蒼介はそっと呟く。雨の音が強まる。
「誰かの死が繰り返されることにどうして心が慣れましょうか」
 絶え間なく移り変わるこの世は荒れ狂う獰猛な海だった。そんな世界に明確な理由など求めることもできず、人は舟にも満たぬ一片の葉のように翻弄されるしかない。
「心を持っているのに、自分自身ではどうすることもできない宿業に人は縛られ、運命に苛まれる」
 牢屋同心の無分別で幼稚な矜持が鮫島家を不幸にした。けれどその矜持はこの時代によって作り上げられたものだった。時代に侵され血筋を恨む。解放への渇望は死でしか補えない。
「心を持つがゆえに人は苦しみ、悲しまなくてはならない」
 無力だからこそ救いを求める。非力ゆえに悔やみ続ける。
「だからきっと……」
 蒼介は顔を上げて微笑んだ。
「何かに縋り、信じなくては人は生きていけないのかもしれませんね」
 人とは因果に閉じ込められた囚人だった。そして蒼介はその囚人ゆえの後悔に寄生して生きる人でなしだった。
「群岡さん」
 蒼介は包の中の着物を抱きしめる。雨にけぶる墓地に立ち込める靄は眠る死者の夢なのか。
「もし慈悲も情もない因果から人を救おうと思ったならば、どうしたら良いと思いますか」
 針のような雨が土に刺さる。水瀬――群岡の僅かに伸ばされた腕を蒼介は微笑んで遮る。
「少しお聞きしたいと思っただけで御座います」
 他意は御座いません――そう言えば群岡は諦めたように腕を組んだ。
「実体なきこの世は人すら曖昧だ」
 かつては雨だれの一滴であったものが川を流れた末に海へと変わるように、人も常に変化の中にある。
「昨日の俺が今日の俺と同じであるとは誰にも証明できず、俺もまた先祖とこの世が交差することで生じた現象の一つに過ぎん」
 人とは現象である。命とは一瞬の出来事である。
「人が悲しむのは心があるからだというお前の言い分は正しい。そして心があるということは我執に囚われすぎるということだ」
 我執があるから人は死に怯え、後悔を繰り返し、欲望や嫉妬に苛まれる。
「本当に人が救われたいと願うならば、生と死の分別もなく、繰り返される業を負うべき普遍的な魂の存在すら否定する」
 人を苦しみから解放し、この世を平安へと近づけるならば……雨に濡れた死者の墓標はもう誰も導かない。
「誰もが無我の境地へといたることだ」
 縋ることもできない細い雨に紅葉が傾いだ。

第一章 五

 火の粉が弾ける音が遠くに聞こえた。
熊谷は腕を組む。冷え切った部屋の向こう側で、幾筋もの炎が夜空を焦がしていた。土宮の処刑は明日に迫っていた。
「燕兒と真赭に参ってくれたのか」
 熊谷の言葉に群岡が小さく頷く。そうかと熊谷は僅かに微笑んだ。それでもう心残りなど何もないような気がした。
「お前に確かめておきたいことがある」
 青褪めた群岡の顔が部屋の中に浮かび上がる。闇に灯る行燈の炎が墓場から迷い出た幽鬼のような男を憐れむように舐めた。
「――……」
 熊谷は短い首で頷いた。どれだけおかしな咳を繰り返し、鼓動が弱まり脈が遠ざかろうとも常に褪めた面差しの群岡に熊谷が隠し事などできるわけがない。昔から恐ろしく冴えた頭の男だった。
「土宮と死んだ罪人達が信仰していたのは燕兒と真赭なのだろう」
 考えずとも分かるか――熊谷はああと頷く。
「切支丹が信じる神にやつされてはいたがな」
 彼らは燕兒の庇護を願い、真赭による救済を欲していた。土宮は牢屋敷が生んだ信仰を知り、それを自らの復讐に利用したのではないだろうか――熊谷はそう考えていた。
「犬童の復讐か」
 群岡の血の気も失せ窶れきった顔が歪められる。炎が僅かに陰った。
「しかしあの温和しく賢かった犬童があのような暴挙に出る筈がない。理由にすらならぬ原因が存在していると俺は考えたい」
 無数の人間の脂を啜り、肉を喰らった赤黒い炎が天を焦がす――よく覚えている。当時の熊谷は鍵役助役だった。狼狽するだけの部下を叱咤し、一刀のもとに斬り伏された鮫島の父親の懐から鍵の束を取り出して必死に囚人達を逃がした。
煤にまみれ煙にまかれ涙も嗚咽すら枯れ果てた罪人達が燕兒の名を呼ぶ。窒息の恐怖の中で人が縋るのはいつだって信仰だった。生きながらにして神に斉しい価値(あたい)を有し始めた人間だった。
燕兒なら後で来る、大丈夫だ――熊谷はそう罪人達を火の粉から庇い続けた。
この夜、燕兒は火盗改の屋敷に呼ばれていて不在だったのだ。履物も履かず裸足のまま裾をからげた燕兒が戻ってきたときには、既に牢は焼け落ち、娘が狂乱者の首を薙ぎはらった後だった。
 頬を熱に煽られる。
 呻く炎の筋を背負った花車な男が刀を振るうのが見えた。血が吹き飛ぶ。悲鳴が飛び交う。人の脂にまみれた刀は濁りきってもはや鏡の役割すら果たしていなかった。
『犬童!!』
 罪人を門へと押しやりながら熊谷は叫ぶ。銅鑼を叩くような自分の声が赤い夜に反響したと思えば、犬童の首が傾いだ。
火の粉が散る。炎が轟く。
幾筋もの炎を背負った犬童の顔は熊谷の見知ったものではなかった。極限まで収縮した瞳孔はただ一点を凝視しながら何も見ておらず、白い膚は炎の熱すら滑り落としていくほどに無機質だった。
そこにいるのは犬童ではなかった。
犬童の形をした人間の殻だった。
「あれは犬童ではなかった」
 熊谷は顔を押さえる。冷たい群岡の視線が辛かった。
「俺もそう思っている」掠れた灰色の答えに骨が軋んだ。
「しかし心はどうあれ、肉体は犬童そのものだった」
 群岡が懐で腕を組む。
「それ故に公儀は全てを彼奴一人の罪とし、燕兒は腹を切った」
 それを定めだと受け止めてしまったのが牢屋同心達の罪だった。吉宗の改革に疲弊し、燕兒まで喪った牢屋同心たちに権力に刃向う力など欠片も遺されていなかった。
そして犬童の兄である土宮は誰に護られることもなく、双子の片割れの汚名を雪ぐことすらできないまま職を離れた。
 熊谷が最後に見た土宮は、鈍色の雲に包まれた空を茫と眺めていた。好きな星も探せず、真昼の月にすら見放された孤独な男の疲れ果てた姿は歴史の敗者そのものだった。
 土宮の瞼が少し伏せられる。
土宮は熊谷に気が付いていた。しかし無言のまま薄い羽織がひるがえされる。鈍い冬の朝だった。雪も降っていなかったから声をかける理由すら見つけられなかった。
「そうやって俺たちは犬童と土宮のことを忘れようとした」
 公儀に逆らうこともできない無力な獄卒達は、燕兒を喪った理由を探すことすら諦めて、絶望というにはあまりに幼稚な感情に囚われ続けている。
いつだって後悔を続けている。燕兒だけでなく犬童に、そして土宮にも熊谷は詫び続けている。しかしそれこそが罪だった。
「鮫島を死なせ、鶏冠まで喪うことになってしまった」
 項垂れれば炎の音が遠くに響いた。それがあの夜のものなのか、それともこの後悔の果てに行き着いた闇の呻きなのか熊谷には分からなかった。
 ……不意に熊谷の脳裏に瓦礫の山と成り果てた牢屋敷が蘇った。嘗て自分たちの住居があった場所を真赭と蒼介が眺めている。まるで太陽の化身のような光を放つ真赭の横顔はひどく険しく、そんな姉を見上げる蒼介の眦には堪えることのできぬ涙が溜まっていた。
ああ――光に眩む目で熊谷は思い知る。
この幼く美しい姉弟を二人きりにしてしまったのは時代でも歴史でもない。不甲斐なく意気地なしの己だった。――
「詫びるくらいなら腹を切れ」
 真水で浄められた刀身のような群岡の声が熊谷の喉に張り付く。
「そう午藤なら言うだろうな」
 色褪せた顔が炎の影に滲んだ。
「ならばどうする」
 熊谷の低い声は裁かれぬ罪で汚れきった鈍らだった。群岡の瞼が少し落とされる。
「せめて土宮の処刑を見届けてからだろう」
 炎が闇を溶かした。
「そうだな」
鈍く灯る火の中に自分の情けない顔が見えた気がした。
赦されなくても構わなかった。憎まれるならばそれが罰だった。それでも最も長く牢屋同心を勤め、最も旧い時代を知る熊谷には確かな贖罪が必要だった。
「懺悔も後悔も俺たちの世代が作り上げてしまった罪悪だ。その責任だけは果たさねばならん」
燕兒、犬童、鮫島、鶏冠。そして土宮――無言のまま死んでいった者たちは決して確かな罪状を遺して裁かれた罪人ではない。全て牢役人たちが犯した罪の結果だった。無力で卑怯な懺悔が積み上げた罪悪の末路だった。だからこそ土宮の裁きを見届けることこそ、熊谷の最期の責務だった。
「どうせ遺されて悲しむ者もおらん」
 熊谷の細君は二年前に大八車に轢かれて死んだ。唐突に訪れた別れは受け止めるだけで精いっぱいで、今でも熊谷の心は細君の形に欠けている。
「跡継ぎは?」
 群岡の褪めた目が鈍く光る。熊谷は首を横に振った。
「熊谷家の業は俺で絶つ」
 それが最期の贖罪だった。因果も因縁も遺したくはなかった。
「――しかし土宮の処刑は牢屋敷を変えるだろう」
 群岡の冷えた声に炎が身震いした。
「今は将軍という存在の権力を誇示し、その名によって制定された法が如何に有効であるかを主張したい時期だ。人の罪とはその手段であるといっても過言ではない」
 熊谷もそれは承知していた。土宮の刑はただの磔ではなく、鋸引きに決定している。それは吉宗の法が定めた最も過酷な刑だった。
 たとえ百年以上の月日が流れていても、切支丹といえば島原で起こった乱を誰もが想起する。流された血はどれだけ時間が経っても褪せることはなく、混乱は遠い過去であるがゆえに現実以上の生臭さを伴いながら日常の裏側で未だ呻き続けていた。
この国で生きる人間にとって切支丹とは世俗を乱した反乱の象徴であり、同時に鬼や天狗にも匹敵しうる異形と脅威の表象でもあった。
そして天地を想像し、人間すら創り上げた造物主たる神への忠誠を誓う切支丹は、将軍を頂点にした秩序を作り上げようとする公儀の基盤を揺るがす存在になりかねない。
だからこそこの国は切支丹を弾圧し、罰し続ける。土宮に対しても国は残酷と残虐の限りを尽くした刑を執行するつもりでいる。最高に苛烈な刑を劇的に執行することによって、切支丹信仰の末路を民衆に突きつける算段なのだ。
「しかし問題は土宮が元は牢屋同心であり、あの犬童の兄であるということだ」
 それはもう既に世間の知れるところとなっている。
「切支丹のみならず水瀬家に対する信仰も明るみになるのも、時間の問題だ」
勿論、真赭の目立つ容色も、燕兒の神をも畏れぬ直訴の末路まで世間は知り尽くしている。しかしそれが表立って騒がれなかったのは牢屋敷という限定された閉鎖的な場でのみ存在していた異形だったからだ。
「一切から見放され、合切から見棄てられた場所で執行される罰や懺悔など堅気からみれば劇場(しばい)の一幕のようなものに過ぎん」
 臆病な炎が身を竦める。
「だが土宮の刑が執行されたならば、どれだけ暢気な民衆も黙ってはいない」
 都を火の海にし公儀転覆をも企てさせた信仰が、牢屋敷で生まれた神の忠誠に基づくものであると知れたならば――
「燕兒と真赭は切支丹という強烈な観念と共に、罪人達の反乱の理由として強く認識される」
 群岡の老いさらばえた眼が闇の底で青白く光っていた。
「そしてその信者は自らの死すら厭わぬ反逆の徒となりうると思われるだろう」
 秩序の維持の為に排除された人間達が、この平安を瓦解させる。多くの虐殺と弾圧によって成立した時代が罪人によって打ち砕かれる――それは公儀に対する謀叛だけに留まらない。
「これはもはや罪なき民衆に対する大逆だ」
 権力に肥えた支配者だけでなく、あらゆる階層の人間が反逆の対象となる。例外はない。
「そう認識された場合――」
 炎すら凍りつく冷たい闇が呻く。
「蒼介はどうなる」
 群岡の青白い眼に凍てついた炎の指が縋った。
「……」
 群岡に言われずともそれをずっと熊谷は考えていた。
細い燈火が闇に身を削り続ける。
 燕兒の息子であり真赭の弟である蒼介が牢屋同心として牢屋敷にいる。そして囚人たちの望むがままに刑を執行し、拷問に立ち会うそうやって囚人は蒼介を慕うことで燕兒と真赭への忠誠を更に強めていく――……この世を見棄てるくらいに。
「もはや蒼介は円滑に罰を執行する為の手段ではない。安寧を崩壊させる反逆の、()き《・》た《・》象徴へと世間によって挿げ替えられていく」
 本人の意思など置き去りにして、世間は蒼介を罪人を束ねこの世に反旗を翻す逆臣として設定していくだろう。
「そうすれば公儀も蒼介を罰する口実ができる」
 公儀もこれ以上、土宮のような反逆者を出したくない筈だ。
尾張徳川藩(・・・・・)のこともあるからな」
「――……」
 群岡の口から浸みだすように出たその存在は、今やこの国の反逆者の代名詞だった。
「恐怖による支配は永続的ではない。慈悲がなければ民はついてこん」
 切支丹にも斉しい異常な信仰の出現と、その反逆に民衆は慄く。
「これは過去の怨念を引き摺りながら現実に蘇った異形の反乱だ」
 切支丹に罪人。この世の罪悪の象徴ともいえる存在全てが反旗をひるがえす。そんな時代が迫っていると民衆が錯覚すれば、都は混乱するだろう。だからこそ――群岡の薄い唇が歪む。
「公儀は邪教から国を救済する慈悲深い君主として出現する絶好の機会を与えられた」
 開府以来の怨敵ともいえる切支丹を、民衆を恐怖に陥れた罪人として調伏する。
「この国で生きる者ならば誰もが無意識のうちに感じる共同の恐怖を利用することによって、将軍は悪鬼から民衆を守護し神すら平伏させる絶対の存在として君臨することができよう」
 それは暴君が救世主となる瞬間だった。仄暗い炎が闇に身を攀じる。
「公儀はその機会をずっと待っていた」
 熊谷の臓腑が一つづつ裏返っていく。吐きだす息すら凍り付いていた。
「そしてようやく口実が与えられた」
 熊谷は拳を握りしめる。公儀によって抑圧され排除されようとしている存在達が求めた信仰とは、秩序が求めるこの世の基盤を揺るがしかねない邪教そのものへと変貌しようとしていた。
「牢が生んだ信仰を将軍の権威によって圧殺する瞬間がようやく訪れた」
 俺たちは見ている筈だ――群岡の褪せた眼が細い明かりの隙間から鈍く光っている。
「この世は切支丹を決して赦さない。限りなく邪まで果てしなく罪深き存在として弾圧し、人間であることすら否定する」
 その苛烈を窮める吟味の結果も。生きた肉塊であることすら放棄させる残酷な末路を――
「俺たちは知っている筈だ」
 それは過去に脚色された御伽話などではない。
「俺達は異国の宣教師をこの目で見た最後の人間だ」
 土気色の肉体。切り裂くような悲鳴。熊谷らにとって切支丹とは圧倒的な現実だった。神を乞い、その名を叫びながら死んでいく人間の慟哭は、抗うこともできなければ神話にすら挿げ替えることのできない事実そのものであった。
「公儀は自らに刃向う存在を粛清する」
 その理由を探し、時に与え続けている。群岡の窪んだ顔に深い影が落ちた。
「水瀬家が隠している十字架のことも公儀は把握している」
 闇が凍る。火の粉が弾ける音が夜に散っていく。
 ああ――あの蒼介が父と姉が大切に隠し持った品を簡単に捨てる筈がない。今もまだどこかにしまいこんでいる筈だ。
「それを理由に――」
 いくらでも裁ける……
群岡の冷え切った声は熊谷の錆びついた心を鈍く抉った。
「公儀は反抗の意思すら奪いつくしたい筈だ」
 罪人を唆した罪で蒼介を裁いてしまえば、もはや牢は誰を崇めることもできないだろう。尽きぬ後悔と懺悔の中で打ち拉がれていくだろう。
そして公儀は今度こそ牢を従える――やめてくれということもできず熊谷はただ右手で顔を覆った。
全て熊谷らが作り上げてしまった罪だった。この弱く惨めな精神にふさわしい末路だった。
 そうして罪人とは邪教を信仰した異形と成り果て、牢屋同心とは安寧に反逆の牙を剥いたこの世で最も罪深き獄卒と成り果てる。そしてそれを調伏した救世主として公儀は君臨し、自ら定めた法の価値を高めることに成功する。
「俺たちの命で蒼介を救えるだろうか」
 剥がした手のひらの裏側にいる自分がどんな表情をしているかなど熊谷は知りたくもなかった。
「わからん」
 冷たく群岡は言い切る。贖いにもならない命かもしれない。償いにすら満たない存在かもしれない。
「それでもそれが俺たちの最期の責務だ」
 分かっている――熊谷は嘆息する。この無力で卑怯なまま老いた身が誰かを救済することなどできる筈がない。本当は望むことすら烏滸がましかった。
 だがな――群岡が指を絡み合わせ顔の前に近づける。
「以前から俺には気になっていたことがあった」
 なんだと熊谷は僅かに眉間に皺を寄せた。灰色の指の向こう側から這い出した青白い群岡の眼が熊谷をとらえる。心音も弱まり鼓動すら遠ざかりつつあったとしても、群岡の芯は手入れの行き届いた刃のように冴えていた。図体ばかりでかくて蚤の心臓の熊谷よりもよほど先を見透かし、そしてあらゆる可能性を思考する男だ。
「どうしてここまでお上は切支丹に怯える」
 島原の記憶が蘇るからか。将軍への不服従の象徴だからか。
「ここまで徹底的に弾圧しなければならぬものなのか」
 闇に凍てつく炎の首が折れる。
「未知への恐怖か。それとも過去に起こった島原のような惨劇が繰り返されることに怯え、恐れ、慄いているだけなのか」
 鈍く光る群岡の眼に炎の指が這いずった。
「切支丹とはそもそも何者だ」
 それは嘗て南蛮から伝えられた邪教。神の子である男の処刑によって、人間の罪は贖われたと信じる異教――闇が息を殺した。
「一人の罪人が死に赴くことによって人間は救済されたと信じる奴らは決して死を恐れない。それどころか悦んで死んでいく」
 まるで今の罪人達のようにな――群岡の瞼が薄く落とされる。
「なにがそこまで奴らをかきたてる」
 嘗ての武士が主君に殉じたように切支丹は死を尊び、悦ぶ。
「奴らにとって信仰に基づく死とは神への忠誠に他ならぬ」
 しかしその存在は実体なき概念――血肉に基づいた恩義ある主君とはわけが違う。
「だからこそ俺は問いたい」
 群岡の細い眼が極限まで見開かれた。炎が湧き立ち、闇に悶える。
「奴らが信じる神とは何者だ」
 沈黙が音をたてて崩れた――
   

第一章 六

 牢の中で生まれた赤子は産声すら上げることなく、蒼介の腕の中で冷たくなった。長く伸びた臍の尾の先にいる母親も既に事切れていた。僅かに開いた双眸がやるせなくて、未だ温もりを残した瞼を蒼介は撫でる。寂しい死の手触りがした。
未だ赤子と繋がったままの女の腹には大きな傷跡があった。そこから赤子を取り出したわけでもなく、女が死を図ったわけでもない。その腹を横断する傷痕はひどく深く、そして旧かった。
「この女だけでは御座いません」
 砂を掻き毟るような乾いた声が暗がりから忍びだす。
「罪人達は燕兒様との繋がりを求めているので御座います」
 産婆の底の見えない穴のような目が蒼介を見つめていた。女の傷痕は燕兒の切腹を模したものだった。誰もその本当の傷を見たことがないというのに、その概念だけが自分の身を傷つけるほどの願望となって顕れる。今の牢では珍しいことではなかった。
 蒼介は胸の中の赤子に額を寄せる。人間と言い切るには未熟な顔がただただ愛しかった。それなのにどうして人は死者を求め終わりを乞うのだろう……。
「人は死に帰するといいます」
産婆が鋏を手渡してくる。蒼介は赤子を抱く手に力を込めた。
臍の尾を切り落とす。命を絶つ音が響いた。

闇に炎が轟く。連夜燃やされる篝火に焦げ付いた同心たちの顔に浮かぶ疲労は色濃く、駆り出された刺又は引き摺られるようにしてその萎びた背中を追っていた。牢庭の中央にいる蒼介にも火の粉が降りかかってきたが、振り払うことももうできなかった。
「辛気臭ぇ顔してるな」
 鉋で削ったような細い顎を撫でながら梶木が寄ってくる。
「赤子が自分の腕の中で冷たくなっていくことに耐えられるほど、私は強くありません」
 蒼介は僅かに顔を伏せる。炎に炙られ地に伸びる自分の長い影が来し方すら分からぬ(まよ)い子のように揺れていた。
「人気者は大変だねェ」
 梶木のこけた頬を火の熱が炙る。突棒にしだれかかっているものだから、少し猫背な姿勢が余計にだらしなく見えた。
――薪が崩れる。火花が散る。その乾いた音が泣くこともできなかった赤子へ向けられた唯一の供養のような気がした。
 牢内で出産された子を最初に抱くのも蒼介の役割だった。己が罪を浄めてやってくれと女囚は赤子を蒼介に差し出した。
 けれど誰もが死産だった。牢のような環境で胎児が育ちきること事態が稀なのだ。そして母である女たちに出産に耐えきれるだけの力が残っている筈もなかった。
だから蒼介は生きた赤子を抱いたことがなかった。柔らかな心音を腕の中に感じたこともなければ、生命そのもののような力強い泣き声さえ聞いたことがなかった。
炎が燃えたつ。赤い影が牢庭を焼き尽くしていた。
きっと蒼介の裁きの日は近づいてきている。公儀は蒼介をもう見逃しはしないだろう。明日の土宮の処刑が終われば、しかるべき処罰が下される。限りない懺悔と後悔を煽り続け、人を死に追いやってきた男にかける慈悲などもはや何処にも存在しない。
覚悟はできていた。人の罪悪に寄生することで生き永らえようとした蒼介に、相応しい末路だった。
「全く、馬鹿みてェな話だよなぁ」
 梶木が突棒を肩に担ぐ。熱い夜が人間の形に焼き付いていた。
「確かに真赭はこっちの足が竦むくれェ綺麗な女だったがよぉ。それでもただの女じゃねェか」
 はっと息を吐くように梶木が嗤う。
「神になれるくらいの器があったとは思えねェ」
 別に蒼介は不快には思わなかった。けれど頷きはしなかった。
「鮫島だって最期まで気障なやろうだったしな」
 鮫島の首が落ちたとき、梶木が僅かに目を逸らしたことを蒼介は知っていた。本当に馬鹿みてェだと梶木は繰り返す。
「なんの面白みもねェ」
 だからよお――だらけた姿勢のまま梶木が蒼介を仰ぐ。
「俺はお前のことが嫌ェだよ」
「はっきり言ってくれますね」
 蒼介は僅かに首を傾け梶木を見る。梶木は平気で嘘を吐くがこういう悪態に対しては正直な男だった。
「好かれていると思ったことは御座いませんでしたが?」
 そう僅かに蒼介が微笑めば、違いねェと梶木も笑った。薄い唇が拉げれば僅かに長い八重歯が目立つ。冷たく爛れていく炎の夜の中で少しだけ心が解れていくのを蒼介は感じた。
「囚人からの付け届けで実入りはいいと聞いていたのがこの様だ」
 下手を打ったというように梶木が両手を広げる。背後で焚かれた篝火が手負いの蛇のように呻いた。
「どいつもこいつも媚びることなく全うに死んでいきやがる。全部お前のせいだ」
 罪人達は金に頼ることもなければ権力にへつらうこともなく、ただ信心だけを自らの弔いとして罪人達は罰を受け入れながら死んでいく。それはあまりに純粋でゆえに限りなく残酷だった。
「つまらねェ話だ。三助のほうが余程楽しめた」
 長い歯を覗かせて梶木が首を傾ける。燃える炎に煽られて細い顔の半面だけがめらめらと光っていた。
「それでもよぉ。お前が死ぬところくれェはきっちり見届けてやるよ」
 ――蒼介は思わず梶木の顔を正面から見つめた。炎の中に浮かび上がった梶木の顔に現れるのはいつもの絶望じみた嘲弄ではなかった。為す術もなく焼け落ちていく夜にむけられた同情と、そこで焼かれ引き裂かれていく虫けらへの憐みが綯い交ぜになったようななんともいえぬ表情(かお)だった。長い影が揺れる。
「それで少しは気が晴れらぁ」
 そう言い、梶木は小さなくしゃみをした。一つ呼吸をするごとに冬が近づいてきそうな冷たい秋の夜だった。
「そういう覚悟は辛いだけで御座いますよ」
 少しだけ蒼介は微笑んだ。ぎこちなくとも笑ったほうがいい気がした。
「覚悟なんて御大層なもんじゃねェよ」
 ふんと梶木が鼻を鳴らす。
「どうせ人は生まれた時から死ぬようにできているたったそれだけのもんなんだ。覚悟なんぞ決めているうちに一生が終わっちまう」
 覚悟で腹が膨れるか。おまんまが食えるか。
「人間てのは昨日洗い流した垢を今日もまた流す。そうやって無意味で無価値で無駄なばかりで出来てやがんのよ」
 梶木にとってはこの世の秩序もそれを支配する公儀も、そして牢屋敷の信仰と悲劇すら無価値で無駄なものだった。
 それでも蒼介の最期だけは見届けてくれるというのか。それに気が付けば頬を炙る炎の熱が少しだけ柔らかく感じた。
「有難うございます」
 少しだけ俯いて炎が弾ける音に隠すようにして蒼介は呟いた。梶木が少しだけ此方を向いたような気がしたが、気が付かないふりをした。
 少しだけ溶けた心が炎に舐めとられた。
「しかし土宮や犬童って奴は一体何がしたかったのかねェ」
 大欠伸をする梶木の顔が炎の影に見え隠れする。「双子だったんだろう」
 血は争えないとでも言いたいのだろうか。蒼介は首を横に振る。
「確かに犬童さんと土宮さんは双子の兄弟で御座いました」
 容姿も性格も全く似ていなかった。しかし星を見上げる二人の瞳は澄みきって幼い蒼介を抱くその腕の力強さは決して人の心を知らぬ畜生などではなかった。
「いくら弟を失ったからといって倒幕などという人の道を踏み外すような真似をされる方では決してなかった」
 犬と交わって生まれた家と貶められ、生まれながらに引き裂かれながら、それでも二人は共に牢屋同心として生きようとしていた。そんな二人に罪も罰もある筈がなかった。
「私はそう信じております」
 蒼介は刺又を握りしめる。その手は僅かに震えていた。人の世の吹き溜まりの中で人としての扱いさえ受けずにいた兄弟の気持ちをどうして蒼介が語れるというのだろう。
「殺されかけたってェのに甘い奴だな」
 梶木が理解できないというように嗤った。砕かれる火の粉が十年前の夜と重なる。あの時、蒼介の腹を切り裂いたのは確かに犬童だった。瞬き一つしない開ききった瞳孔は死者としか思えず、人としての心などとうに溶けきっていた。
「あれが本当の犬童さんだったとは思いませぬ」
 手のひらが汗ばむ。人の心など分かりもしないのに、それでも蒼介は信じていたかった。最期まで犬童は人であったとそう思い込んでいたかった。
「ならなんで犬童とやらは狂ったんだろうな」
 梶木が欠伸をする。心底どうでもいいと思っているようだった。けれど蒼介の心は騒ぐ。炎に焼かれた紅葉が散る。
「その理由が分かれば、きっと誰も苦しまずにすみました」
 蒼介は必死に声を絞り出す。爛れた紅葉の裏側に犬童の姿が蘇った気がした。
畜生の血を引くと言われた犬童家が潰え、そして土宮が家を捨てたことでその血筋は完全に絶えた。
誰もが二つの家が終わりを告げたことを静かに受け入れていた。その供養さえ蔑ろにして、ただ自分自身の救済だけを望んでいた。
紅葉に包まれた闇の奥で血濡れの犬童が振り返る。その先の炎に爛れた夜で打ち落とされた土宮の死首が無言のまま蒼介を睨みつけていた。
牢屋敷の誰もが自分達が犬畜生と貶めた相手に赦しを乞うことさえしなかった。犬童も土宮も本当はそんな薄情な牢屋敷を怨み憎みそして呪っていたのかもしれない。
蒼介は首を横に振る。紅葉が散る。
犬童も土宮も決してそんな男ではなかった。闇に吹雪く炎に紅葉が焼かれていく。この世には死者ばかりが積み上げられていく。
「人は死に帰す……」
 炎に炙られた心から剥き出しになったのは先刻の産婆の言葉だった。
全ての生物は必ず死ぬ。死ねば必ず土に還る。その言葉と共に記憶の底から髭の剃り跡すら見当たらない滑らかな輪郭が浮かび上がる。筆より重い物を持ったことがないような手が文字をなぞった。
『骨や肉は地に降り倒れて隠れ野の土となる』
小さく円らな犬童の目に幼い蒼介の顔が映る。その向こう側には金色の髪が揺れていた。犬童の形の良い唇が動く。
「それを鬼という」
 篝火が崩れる音が響いた。蒼介は我に返る。
「なんでィそれは」
梶木の怪訝な顔が炎の中にぼんやりと浮かぶ。蒼介は刺又で体を支える。視界が判然としない。
「儒学で講じられる知の一つで御座います」
 何故いきなりこんなことを思い出したのか。自分の声に霧がかかっている。春の靄のように柔らかな犬童の輪郭に触れ続けている気がする。
「人は陽の気と陰の気によって出来ております。その陽の気を魂とし、陰を魄とする。死ねばその魂は天に、そして魄は地に還る」
 記憶の中で金色の髪が蒼介の頬に触れる。犬童の顔が上げられる。その柔和な顔がはにかむように微笑んだ。
 蒼介の肩に真赭が手を置く。その手のひらは人形の膚のように滑らかなだけで、人らしい熱など欠片もなかった。冷たい少女の声音が蒼介の頭上からそそがれる。
『土に入って腐るものは骨肉のみ。陰の気である魄は地に朽ちるのではなく還るのである。よってそれを帰に依りて鬼とする』
 人の魂は天へと浮上し馨しく凛然と輝く。
『天に上るものは魂でありそれを精とし、また神と呼ぶ』
 自分の声に嘗ての姉の声音が重なっている気がした。
うなじを焦がす炎の熱すら冷め切って、闇が凍り付いていく。
「故に死した人間を祀るには、かの鬼といい神というものを合せて祀る」
 これこそが聖人の教えの極致である――炎に過去を炙り尽くされる。姉の輝く金の髪が焼けついていく。
「それが……」
 蒼介は天を仰ぐ。

「鬼神論」
 
 炎が湧き立つ。姉の気配が剥がれていくのを感じた。
「さすが生まれついての二本差しは教養が違うねェ」
 梶木が耳をほじくっている。蒼介は息を吐いた。手は悴んでいるのに頭の中は熱く爛れたままだ。
「申し訳ございません。つまらない話をしました」
 自分が何を謝っているのかすら分からなかった。ただ何故かひどく過去が騒がしい。まるで今もどこかで犬童と真赭が生きているような心持がする。
「それによればよゥ」
 梶木は何も気が付いていないようだ。髭の目立ち始めた尖った顎を撫でている。
「結局、鬼も神も人に外ならねえてことか」
 炎が吼えた。
『鬼が人である限り、神もまた人だ』
 澄んだ声が響く。今はもう遠すぎて触れることもできない人の記憶が蘇る。
「貴方は……」
 思わず声が漏れる。梶木が驚いた顔で蒼介を凝視するのが分かった。炎が漲る。過去が吼えたつ。
「貴方は何を知っていた」
 観念としての鬼も概念としての神も元は人だというのならば、一体私達が信じるこの世界は何で出来ている。
「人に報いを」
 言葉が口をつく。――人を祀るということはどういうことだ。炎が渦を巻く。
「鬼に贖いを」
 焼け落ちた筈の過去が爛れたまま蘇ってくる。
「神に裁きを」
 ――闇が轟く。無数の悲鳴が夜を引き裂いた。

蒼介は我に返る。反射的に刺又を構えた。
「梶木さん!!」
 茫然とする梶木を叱咤する。足場を固めた。
炎が天を貫く。その昂ぶりに呼応するように頭が焼ききれるように痛む。歯を食いしばり耐えた。闇が呻くのを感じる。
熱が充満する。炎が騒ぎ立てる。過去も未来も綯い交ぜになった無数の時間が牢庭を飛び交っている気がした。蒼介の額を汗がつたう。
夜を斬り裂き、闇を抉る悲鳴は牢からあがっていた。動揺と狼狽が波を打ちながら押し寄せてくる。
しかし悲鳴と恐怖は囚人達だけのものではなかった。
湧き立つ暴れる炎の奥で、割れた鐘をかき鳴らすような鈍い音が響き渡る。夜を引き裂き、闇を叩き割るような音が、拷問蔵の内側からこだまする。
拷問蔵を囲む同心たちが後ずさる。先陣に立つ午藤と丑守の構えた刺又が蔵の戸に向けられているのを蒼介は見た。
「水瀬!! 梶木!! お前らは牢に向かえ!!」
 午藤の怒声にも斉しい指示が飛ぶよりも早く蒼介は牢へ駆け出していた。飛び散る火花に頬を焦がされる。
悲鳴が飛び交う。怒気がうねる。
 蔵の中に誰かがいる筈がない。
生きた人間が入り込んでいるわけがない。
あの中にいる人間はたった一人だ。
拷問蔵にいるのは裁かれることも赦されなかった罪によって弟を喪った憐れな――

どうしようもなく憐れなたった一つの肉塊の筈だ。

「何があった!!」
 外鞘にしがみつき蒼介は叫ぶ。牢の錠前は固く閉ざされており、鍵を持っている熊谷と群岡の姿は見当たらない。誰かが侵入した形跡もない。しかし――……
 風に炎が煽られる。牢の中が露わとなる。
まずもげた腕が見えた。そして砕けた顔が分かった。
 獣に食い荒らされたような人間の死骸で牢は埋め尽くされていた。
――それは一年前と全く同じ光景だった。
蒼介の頬が破れるように突っ張る。記憶の中に金の髪が溢れ出す。
「水瀬!!」
 熊谷の胴魔声が響く。
頭を殴られたような衝撃と共に蒼介は刺又を身構えた。
それは熊谷の蛮声に反応したからではない。これは限りなく獣に近い衝動だった。捕食者に襲われた獲物のとる本能に過ぎなかった。
 うなじが焼け付く。炎に爛れた闇が崩れていく。誰かが何かを叫んでいるが蒼介の耳にはもうなにも届かない。
眩い金色の光が視界に満ちる。何もかもが焼き尽くされていく。
過去も未来も現在すら今や何処にもなかった。脳髄の奥底で醜く焦げ付いていた思考も、みすぼらしくしがみ付いていた意識すら遠ざかっていく気がした。
声が出ない。そんなものにもう意味はない。
赤黒く歪曲した月が天にかかっていると思えば、それは巨大な薙刀の刃だった。
金の髪が逆立つ。
湧き立つ光の向こう側から鮮やかな緑色の目が浮かび上がる。
炎が闇を切り落とした。

顕現(あらわ)れたのは真赭だった。
死んだ筈の蒼介の姉だった。――

時はとうに止まっていた。誰かの叫び声ももう聞こえない。悲鳴も吐物の臭気すら蒼介には届いていなかった。
「姉上……?」
 構えていた刺又を握り直すこともできなかった。全身の力が抜けていく。
「姉上……」
 月を身の内に宿したかのように透き通った白い膚。燦然と輝く金の髪。そしてこの世の全てを圧倒する緑の瞳――……。
真赭だった。まごうことなき蒼介の姉だった。
「――」
 刺又を取り落す。鈍い音が遠くに響いた。
「私は……」
 もはや蒼介の精神(こころ)は幼いあの日に戻っていた。別れたのはたった一年前だというのに、一人の時間はあまりに長すぎた。
「私は誰を救うこともできませんでした」
父上が築き上げた平安も姉上が守り抜いた秩序すら、私は保つことができませんでした。徒に罪悪を煽り続けて、死に赴く理由と衝動を与えてしまっておりました。
 土宮殿に罪を犯させました。
鶏冠殿の決意に気が付くこともできませんでした。
私は――
「鮫島を殺しました」
 心ががらんどうになっていく。そんな上等なものは蒼介には最初から用意されていなかった。
「結局私は誰にも報えませんでした……」
 真赭の冷たい瞳が蒼介を射抜く。人間らしい温もりも感じなければ手触りすらなかった姉の恐ろしさは、昔と何一つ変わっていなかった。
だからこそどうしようもなく美しかった――
「私は貴女にも報えなかった!!」
 最早蒼介は叫んでいた。とうに喪ったと思った感情が渦を巻き、全身を責め上げてくる。
「父が死んだとき、私は貴女を護ると決めたんだ!!」
 十年前のあの夜、蒼介は乱心した犬童に斬りかかり、そして返り討ちにあった。
「私がもっと強かったら、貴女の手を穢させることはなかった!!」
蒼介がもっと強かったら、真赭に犬童を殺させることはなかった。父の介錯を任せることもなかった。
「貴女だけに重荷を背負わせることはなかったんだ……」
だから蒼介は学問にも武術にも必死に励んだ。小さかった体だって人よりも大きくなったし、少しは賢くなったつもりでいた。真赭を護る為ならば命だって惜しくなかった。
けれど真赭は殺された。蒼介の目の前で無残に殺された。
 結局、蒼介は自らたてた誓いすら果たせなかった。だから裁かれるべきは蒼介だった。断罪されるべきは他の誰でもなく、蒼介ただ一人だった。
「姉上」
 蒼介の眼前で薙刀が振りかざされる。金の髪が逆立つ。
何もかもをも圧倒する光が降り注ぐ。姉は太陽を身に纏った女だった。溢れ出す光はこの世に初めて降り注いだ日差しそのものだった。
『人に報いを』
 姉の声が響く。そうだ。姉は何時だって厳しく、そして正しい行いだけをする人だった。蒼介は微笑む。
『鬼に贖いを』
 僅かに瞼を落とす。
『神に裁きを』
 刃が振り下ろされるのを微かな景色の中で見た。――

炎が吼えた。

叩き付けられた地面はひたすらに熱かった。
薙刀の刃が切る風に煽られる。受け身を取ることすらままならず、肩から落ちるのが精いっぱいだった。思わず蒼介は呻く。
 蒼介……
 名を呼ばれたような気がして薄く瞼をあげた。頭の芯は靄がかかったように判然としない。だが徐々に世界が輪郭を取り戻していく。
(姉上……)
 霞む視界の中で蒼介は姉を探す。けれど真赭の姿はもう何処にもなかった。ただ見上げた天を無数の火の粉が行き場も失くした人の魂のように渦巻いていた。
しかし夢ではなかった。切り裂かれた蒼介の頬から血が溢れ出す。
「蒼介……」
 もう一度名前を呼ばれる。蒼介は身を攀じる。自分以外の鼓動を躰の上に感じた。
「蒼介」
 蒼介の頬に人の指が触れる。骨と皮でようやく形を保っていると言ってもいいほど痩せこけた惨めな指だった。
「大丈夫?」
 糸のように細く滑らかな黒髪が蒼介の胸に広がる。その奥から青白く震える顔が覗いた。
「……」
 言葉など出てこなかった。蒼介は夢から醒めきらぬ白痴の下愚よりも茫然とするしかなかった。
「大丈夫……?」
 今にも泣き出しそうな顔が蒼介を見降ろしてくる。蒼介の体に覆い被さるのは針金のように痩せさらばえた男だった。
「あ……」
 蒼介の頬の傷に気が付いたのか。男が愕然とする。
「ごめんな」
 今にも折れそうな指で男は自分の着物の裾を握り、蒼介の頬を必死に拭う。襤褸にも斉しい布地が傷口を擦るたびに鈍い痛みが走った。
僅かに顰めた蒼介の顔に気が付いたのか。それとも堪えきれなかったのか。男のひっかき傷のように細い目から涙が溢れ出す。
「ごめんなぁ……」
 糸よりも細い目から零れたとは思えぬほど大粒の涙が真っ直ぐに蒼介に落ちてくる。繰り返される詫びの言葉も只管に純粋だった。

これが牢屋敷が抱えた最期の裁かれぬ罪人だった。

真赭を殺した男だった。

第一章 七

 その日、牢で出た死者は五名だった。
大牢で三名。揚屋敷で一名。女牢で一名。

八丁堀一丁目半兵衛店座頭 遊行 四十二歳
 二年ほど前から赤坂裏伝馬町の留蔵女房初と密通を重ねていたが露見。留蔵を初もろとも鉈で殺害。居宅に火を放つ。

神田鍛冶町伝右衛門店 三郎太 二十七歳
鍛冶屋角蔵の弟子。切れ味を試してみたかったからと、師匠である伝蔵を自ら打った脇差で正面から胸を一突きし殺害。

日本橋二丁目伊勢屋手代 清次郎  二十一歳
上野一丁目慳貪屋の妻鶴との密通の末、伊勢屋から三十両を盗み出した末に欠落。箱根の関所で心中に失敗したところを捕縛。

小石川御門内寄合辻番所 辻番人 友右衛門 五十四歳
暮れ六つに頭痛を訴えながら辻番所を訪れた重八という中間を宿泊させたところ、重八が死亡。伺いもなく辻番所に人を泊めた罪で牢舎。

 深川木場二丁目家主武兵衛妻 ひめ 十八歳
祝言の翌日に夫である武兵衛が胴巻きの中に金子を隠し持っていることを知る。その金子を強奪するために武兵衛を同人の脇差にて刺殺。

 年齢も性別も、そして入牢の日付すら異なる各々の罪人は刃もなく鋸すらない牢の中で(はらわた)をぶちまけて骨まで砕かれて死んだ。
 生前の面影どころか人間の形すら遺していない死骸ばかりだった。飛び散った内臓が誰のものかすら分からなかった。

そして牢内だけでなく、都でも同時刻に同じ死に方をした人間がいた。

深川蛤町元十郎店 繁蔵 三十八歳
深川のあさり売り。賭場で重ねた借金で首が回らなくなり、隣部屋の浪人に無心。断られて逆上した末に殴りかかり傷を負わせる。百叩き後、出牢。

千住小塚原中村町旅籠備人 弥七 十七歳
元小間物屋の手代見習い。主人を殴打した後に売り物の飾り玉を手にし逃亡、捕縛。入墨の後に出牢。


二人とも紅葉も色づき始めた頃に出牢した囚人だった。
もげた四肢はがらくたのように打ち捨てられ、飛び散った内臓を納めるための腹さえ引き裂かれていた。
誰もが食い荒らされ、飢えた獣に体内から捕食されたかのような死に様を晒していた。

何もかもが真赭の死の模倣だった。

違うのは死骸の傍に捕食者の姿が遺されていないことだけだった。


 そして土宮統の屍は塩詰の樽だけを残して拷問蔵から消えた。

牢獄の捕食者

牢獄の捕食者

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-08-12

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