懺悔の密室

 白い手首が土を這う。
時々振り返るように指が曲がっては止まぬ雨を仰いだ。細い雨に土はぬかるみ、茂る葉が(こうべ)を垂らす。
「喪った体をね……。探しているんですよ」 
 ああやって、ずうっと――庵の主人が雨よりも優しく微笑んだ。

音もなく、けれど確かに雨が降る。濡れる庭は霧に煙り、湿る土は雨だれに沈んでいく。

泥の中で虫がもがいていた。

膝の上に置いた手の甲が僅かに冷える。けれどその感覚もどこか他人事で、まるで人の夢の中に浮かんでいるようだ。
(本当にこの手は自分のものなのか)
 確かめるように左手を右手に重ねるも、疑問すら曖昧で、雨音に浸み込んでは消えていく。
しとしと……しとしと……
泥を彷徨う白い手が、もがく虫をそうと知らぬまま潰していた。
「……」
 何もない。信之助はちらりと部屋を見る。
この部屋には何もない。八畳の座敷だが、床の間に掛け軸も掛けられていなければ花も活けられていない。ただ欄間の隅に僅かに溜まった埃が湿気を吸って固まっていた。
視線を戻す。
ただ庵の主が無言で微笑んでいるだけだった。

開け放された襖の向こうに雨に濡れた庭が広がる。霧に霞み、靄に煙り、露の重みに耐えられぬ葉は項垂れては雫を零す。打たれた泥濘に波紋が広がった。

まるで囚人が首を打たれた瞬間のようだった。

「本当に此処には何もないと思いますか?」
 濡れた肌を拭く絹のような微笑が信之助の心を覗き込む。思わず主人の眼を正面から見つめた。
「貴方はまだ若い。目の前のものに気をとられるのは仕方がないこと」
名前も分からぬ。正体も知らぬ。ただこの庵の主とだけ男は名乗った。
がらんどうの部屋を統べるのは顔も長ければ鼻も長く耳も首も長い男だ。頬に刻まれた皺は大きくて深く、垂れた瞼は眼球を半分覆っている。しかし細い髷を結った髪は瑞々しいほどに黒く、瞼に埋もれがちの眼は無垢な若者のように瞬いたと思えば千年を生きた賢者のようにふと静まる。
「雨に触れてごらんなさい。空白を見つめてごらんなさい。指の一つも動かさず、口を閉じて無言のまま、目も見開くことなくこの時と空間を感じてごらんなさい」
 遠くにある筈の男の手が信之助の瞼に触れたような気がした。
しとしとしと……
瞼が薄く、けれど確かに落とされていく。視界が狭まるごとに雨の音が耳の深いところで響いていく。
本当に此処には何もないと思いますか――男の言葉が胸に幾度も押し寄せては波紋を作った。
 湿気った土の匂いが肌に浸み込んでくる。果てしなく苦いのに何処か甘く感じるのは青葉の香りを含んでいるからだろうか。葉脈に植え付けられた虫の卵や土に潜む黴が体内に吸い込まれていく気がした。
虫が蠢いたのか。肌が隆起する。着物に隠れている筈の肌が、その下に潜めている筈の臓腑が血肉がこの部屋に直接触れる。
雨が震えている。
白い手首の指が土を掴む。

――誰かが信之助の背後に立った。

思わず振り返る。
けれど其処には誰の姿もなく、ただがらんどうの部屋が無言のまま広がっているだけだった。
沈黙が広がる。敷き詰められた畳は沈黙だけを孕む。
けれど確かに誰かがいた……。
 心の臓が跳ねる。呼吸をなんとか落ち着かせようと胸に手を置いたその瞬間――
きゃっきゃ
今度は声まで聞こえた。甲高い声を響かせて、信之助の脇を姿の見えぬ子供が二人走り抜けていく。姿も見せぬまま気配だけを残して遠ざかっていく。
「……」
 信之助の肩に誰かの手が置かれたような気がした。けれど何もなかった。
ああ――……信之助は確信する。
此処には誰かがいる。何かがいる。
「空ではないでしょう?」
 老いも若きも共に孕んだ眼球が信之助の心の隙間まで覗き込んでくる。一瞬を永遠に変え、重なり合うことの無い時間を同時に知る眼差しが信之助の記憶を呼び起こす。
何か思い詰めているのかと――奉行所の書庫で同輩に尋ねられたのは何時だったか……。
見えぬ人の姿が空の部屋の中に浮かぶ。過去の自分の記憶と信之助は出逢う。
しとしと……しとしと……
そうだ、何と答えていいのか分からず口籠っていれば、此処に行けば良いと教えられたのだ。
『答えを探しあぐねている人間が行く場所だ。俺も世話になった』
 そう同輩は言った。長く降る雨に声が滲んでは細く消えていく。
――ああ……もう同輩の顔すら霧に隠れて靄の中だ……。
『嘘は通じない。すぐに見透かされるからな』
 庵の主の眼が瞬きをする。信之助の心を味わったのか。記憶はどんな味がするのか。――そんなことをぼんやりと考える。
 男の目の前にはいつの間にか文机が置かれ、これまた何処から出してきたのか分からぬ紙が引かれていく。男の手には筆が握られ、硯には鈍い光沢を放つ墨が既に広がっていた。
雨の音が遠い。
『正直でいろ。それが全てだ』
 同輩の声が遠くに霞みながら蘇る。
「さて」
 年を刻み込んだしわがれ声が部屋に波打つ。
「もう一度聞きますよ。向井信之助殿」
 墨を含んだ筆が紙の上で首を折る。
「貴方は人を、殺しましたね」
白かった筈の手首は泥にまみれ、天を仰ぐ力すらもう残っていなかった。
「……そう言えば、そうなるのかもしれませんね」
 小さく呟くように信之助は答える。
「ほお。自分のやったことに確信が持てないと。貴方はそう仰る」
 それはひどく興味深い。男は口を窄め、口笛でも吹こうかというほど機嫌よく筆を滑らせていく。
「いや。面白い。なんて滑稽だ」
 雨が躍る。雫が跳ねては土を溶かす。
「自分の罪も咎も知らぬとは。なんて悲劇。なんて喜劇」
 信之助の背後で誰かの影がにたりと口だけを覗かせて嗤った。
 墨が紙の上に溢れては連なっていく。筆の先から生まれて繋がっていく言葉の羅列は泥にまみれた手負いの蛇の行脚か。
言葉が鎌首もたげる。毒を孕んだ牙が信之助を狙う。
筆が滑る。人の心を吸い込んで、人間の一生を縫いとめていく。
「貴方の罪はこの世の記憶となり、記憶は記録となって永遠に保たれ続ける」
 どれだけ贖おうと償おうと、この世は決して罪を忘れない。
硯の墨が揺れる。僅かに瞬いた艶はまるで刹那を切り裂くように瞬いて消えていく星の一瞬のようだった。
 星の最期を孕んだ男の筆が信之助をがらんどうの部屋に繋ぎ止めていく。一文字増えるたびに膝が畳に一針縫い止められて剥がれなくなっていく。
(彼らもそうだったのだろうか……)
 信之助の記憶が筆の動きに合わせて蘇ってくる。筆を握る男の指が信之助の指になり、紡がれる文字は嘗ての信之助の連ねた言葉となっていく。
脳裏に繋ぎ止められた囚人の姿が現れた。
頭から押し潰されたように拉げた四角い顔の男だ。目は落ち窪み生気など欠片もなく、ただ泥のように濁ったまま乾いた唇を引き剥がして喋る。
 これは誰だったか。――信之助は記憶を辿る。
ああ、思い出した。はばかり半蔵などと呼ばれていたちんけな無宿だ。身寄りもなければ宿もなく、ただ賭場を渡り歩いてはどこかの長屋の厠で夜を越し続けた男だ。厠を選ぶのは屋根もあれば壁もあり、溜め込まれた糞尿の臭いが包まる夜着の代わりになるからだと湿った声で喋っている。その言葉をそのまま信之助は書き留めていった。
 聞けば聞くほどつまらぬ喧嘩だった。壺振りを殴り、客を縊ることがあったのかと思うほど下らぬ理由だった。それでも目の前の男の言葉を言葉の通り信之助は掬い取っては筆で繋ぎ止めていく。一切の脚色も加えずに、ただ起こった事実だけを縫い止める。それが信之助の役目で例繰方同心としての職務だった。
厠に放り込まれた二体の死体は顔すらもう分からなかった。最期の表情すら記憶されぬ末路だった。
 はばかり半蔵は首を刎ねられて死んだ。その胴体は刀の試し切りに使われて、捌かれた魚のように打ち捨てられた。
その罰まで信之助の筆は書き留めた。
 囚人の罪を記録して、その咎が招く裁きの結果までこの世に残し続けていく。忘れ去られていく歴史の一瞬を、法規に裁かれ秩序に排除された人間たちの憐れで無力な人生を、信之助はこの世に縫い止めては繋ぎ止めて積み上げていく。
しとしとしと……
細い雨が降り続ける。墨の香りが滲むように漂っては土に浸み込んでいく。
 町奉行所の例繰方同心など日陰者もよいところだ。市中を巡って罪人を捕えるわけでもなく、日本橋の商人(あきんど)たちが上方と交わす荷に目を光らすわけでもない。
ただ罪を、罰を、この世の秩序からはみ出した一瞬の出来事を、筆で掬い取っては言葉で縫い止めて、書に閉じ込めては封をするだけの存在だ。
「それでいいと思っております。今も、これからもずっと」
 埃の詰まった書庫に籠り、罪の記録者でありながらこの世の編者である事こそ信之助の平穏だった。
 筆を友とし、感情を言葉に置き換えていけるならば、それが幸福だった。人を捕えることなど到底できず、裁くことなど考えただけで恐ろしい。
人ほど怖いものはなく、人ほど狂いやすいものはない。
 人ほど感じやすいものはなく、人ほど脆いものはない。
 ――男の筆が蛇のように蠢く。溢れる墨がどろりと流れたと思えば赤く染まった。

女が転がっている。

がらんと広がる無人の部屋に女が転がっている。

白い着物は胸元まで赤く染まり、まるで庭に咲いた椿の花弁を纏っているようだった。
湿り、滑り、零れては垂れていく血の塊が女の胸で元で花開く。鼓動はとうに止まり、生気も喪った白い体はふやけた海月のようにだらりと畳に横たわっていた。
雨が滴る。白い手首は泥に沈み、元の体の記憶すらきっともう喪った。

人は病めば血を吐いて死ぬ。人を斬れば血を撒き散らして死ぬ。それが途方もなく恐ろしくて……虚しかった。
 男の筆が進んでいく。無限を孕んだ白紙の上に信之助の記憶が記録されていく。そうやって幾つの人生を言葉に残しては縫い止め続けたのだろうか。
この男も、そして信之助も……。
そう思えばいつの間にか、このがらんどうの部屋が奉行所の書庫に変わっていた。
窓から僅かに差し込む光に埃の粒が光る。天井まで積み上げられた覚書の山が信之助を見下ろしてきた。
四方を囲む覚書の群れは何十年にも及ぶ罪と罰の記録だ。この世の暗いところだけを集めては纏めた世界はもはや一つの歴史そのものだった。
時を経た紙の匂いが黴と混じる。これが圧縮された時間の匂いだった。行き場を喪ったがゆえに濃厚な歴史の臭気が渦を巻く。
人を殺せば自分の横腹を槍で突かれる。十両も盗めば首が飛ぶ。火を放てば火で炙られ、盗みを働けば生涯消えぬ入墨に縛られる。
秩序を乱し、秩序の為に裁かれた者たちの一生が、その末路と共に頁に詰め込まれては澱みを作っていた。この世の秩序を脅かした無秩序は記録の中で永遠に裁かれ続ける。忘却すら許されない。
紙の隙間から誰かが此方を覗いている。小さく、しかし無数の眼球が捲られることも忘れた頁の暗がりから生者を見つめている。誰かが騒いでいる――そう思えば、それは綴られた言葉の端から浸みだす罪人の息遣いだった。
助けてくれと慈悲を乞うのか。ここで終わりだと観念するのか。無機質な言葉の檻に封じ込まれた感情はいつまでも枯れることなく、その瞬間を保ち続けていた。
差し込む日の光は細くて、積もる埃はあまりに無力で、ただ堕落した人の蠢く懺悔と恐怖が蠢いては唸り続ける。
ずぶりと足元が泥濘にはまったように揺れた。
書庫にいると底なしの沼にはまり込んで、頭から抑え付けられているような感覚にいつも信之助は陥った。罪人の最期の慟哭が、誰にも受け止められなかった慙愧の念が歴史の臭気と合わさって小さな部屋の中を逡巡し続けている。
逃げ場などなく、行く末すら見失った人間の歴史に食い潰されそうになる。
こうやって胸の底に隠した心の形すら分からなくなるまで潰れてしまえばどれほど楽だろうか。――信之助は思う。
痛みなどない。生きることに痛みは伴わない。ただ圧迫される苦痛だけがこの世の全てなのだ。
そうやって人は罪に脅かされ、歴史に潰されては摩り下ろされていく。けれど決して報われはしない。
しとしとしと……
信之助の心を書き留めていく男の指は信之助のものか。そうやって幾つもの罪の人生を、罰と共に記しては積み上げていったのか。墨は言葉となり罪を縛り上げる枷となる。
「人が死ねば記憶は喪われるが、記録は失われない」
 信之助は呟く。体は死んでも書き留められた記憶は記録となって未だ生き続け、呻いては嘆き続けている。
ああ――記録が積み上げられたあの部屋は、成仏すら許されない罪の亡霊たちの霊廟だ……。

しとしとと雨が土を打つ。どこかで泥が跳ねる音が聞こえたような気がした。

「罪の亡霊の霊廟は永遠の牢獄にも等しかった。私はその獄卒で御座いました」
 信之助は少しだけ微笑む。何故笑えたのか自分でも分からなかった。
「記録の獄卒だというのですか」
 男が聞いてくる。信之助は一つ頷いた。
「記録は正しく記され残されるべきもの。私は常に感情を排し、ただ罪人の言葉をそのまま写し取っては記憶を記録として封じ込め続けました」
 そんなものは誇りにもならない。ただの役割だ。
「それは罪人への弔いで御座いますか? それとも同情?」
 男が筆を走らせながら尋ねてくる。雨に打たれた葉の頭が深く垂れる。
「どちらでも御座いません。私は記録する者としてこの世の事実をあるがままに写し取っていくにすぎません。そこに私の感情など必要御座いません」
 信之助はきっぱりと答える。嘘も無ければ偽りもなく、言葉を濁す必要すらなかった。
「ほう……」
 男が信之助を見つめてくる。ひどく不思議そうなものを見る目だった。
「人の心はそんなに無感情で無機質でいられるものでしょうか。貴方は今までただの一つも、ただの一つもですよ、自分の主観を交えた言葉を用いることなく記録を続けたと、そう言いきるので御座いますか?」
 男の顔の皺が更に深まった。まるで悪戯をした子供にその手段を問うような意地の悪い笑みだ。
何百年を生きた賢者のように悟りきった顔をすると思えば、次の瞬間には虫や鳥に夢中になる頑是ない子供のような貌になる。
この男には顔がない。生きてきた人生の年月を感じさせる重みがない。ただ「男」という(設定)をとっただけの存在だ……。
にやにやと男が笑っている。
その笑みは蜻蛉の羽を一枚づつ毟り取っては喜び、暗がりに蹲った蛇の尾を掴んでは引き摺り回し地に叩き付ける少年そのものだった。
ああ、この男は好奇心に支配されている。
好奇心がゆえに子供は罪を犯す。人は罰を受ける。
そしてこの男はそんな罪を愛している――信之助は直感する。
ざっと雨の音が一つ大きくなった。遠くで雷がなったような気がした。
「人の心は移り変わりやすいがゆえに、モノを見る目もまた曇りやすい」
 いつの間にか男の文机の上には髑髏が一つ、置かれていた……。

人の髑髏ではない。獣かと思ったがそれも違う。
一尺二寸ほどの大きさの骨だ。その先はひどく尖っている。
嘴だろうか。しかし鳥にしては大きすぎる……。
「これはね」
 骸骨を撫でながら男が微笑む。顔に深い影が落ちて、ひどく得体のしれない存在のように思えた。
「天狗の髑髏(しゃれこうべ)で御座います」
 細く開いた男の口から僅かに牙が覗いた気がした……。

「天狗の?」
 まさか――思わず口の端だけが吊り上る。開けられた障子に近い右半身がひどく冷たい。
「ええ。天狗の」
 男はなおも薄く笑う。瞼の隙間から覗く眼球に信之助の顔がくっきりと浮かんでいた。
「まさか」
 眼球に飲み干された信之助の顔が歪む。暗い雨が呼んだ霧が部屋の中にまで浸み込んでくる。
「紅毛国にいる大鳥とか、大魚の頭骨とか……そのあたりでしょう」
 信之助の声が上ずる。ああ……自分は今、同意を求めている。そう気が付けば何かがひどく浅ましい気がした。
雨がひたひたと落ちては泥に渦巻く。煙る庭が澱んでは霞み、少しづつ遠ざかっていく気がした。
「ひどく抽象的な答えで御座いますね」
 天狗とどう変わらないのでしょう――手のひらに乗せた髑髏を弄びながら男が言う。笑みを含んだ声はひどく柔らかく、僅かに遠ざかったと思えば近づいてくる不思議な波長だった。
「そう。確かに紅毛国にいる獣かもしれないし、私たちが生まれる遥か以前、人間など影も形もない頃に存在した古代の生物の髑髏かもしれない。けれど答えは出ない。またそんな獣や古生物が存在するかどうかも分からない。ならば天狗と何も変わらないではありませんか」
 まあ、可能性の高さという点を考えれば天狗の方が遥かに分が悪いですがね――男の皺が更に深まり、まるで傷のように見えた。
「天狗だっているとは証明されていないが、いないとも証明されていない」
 信之助の背がひたと冷える。
記録されない事実。記録する者の手からすり抜けた現実。もしそこにこの世が欲する答えがあるとすれば……。
「この世は誰にも知られないままひっそりとけれど確かに在り続け、私たち人間には永遠に理解できないもので溢れかえっている」
 人の心もきっと同じ……男の言葉が信之助の背筋をなぞっていく。
「どうせ分からぬならば天狗と言った方が面白いし、喜ばれるではありませんか」
 現にこれを持ち帰った時、道を歩く人たちが天狗の骨だと集まってきましてね――男はひどく楽しそうだ。
ふと信之助は思い出した。同輩の一人にひどく石に凝った人間がいた。河原を巡っては変わった形の石を見つけて拾って帰る。そうやって何個もの石を自宅の一室に蒐め、置く場所さえ慎重に考えて、少しでも納得がいかなければ夜通し配列の順序だけでなくどちらの石を手前に置くかということまで思案するといった具合だった。
信之助には何が楽しいのか全く分からなかったが、そういう趣味の人間がこの世には何人もいるようで、そんな同好の士が同輩の家に集まっては自分の蒐集品と相手のものとを交換していたようだった。
そうやって何か分からぬ正体不明のモノを蒐めては人に見せることがこの男も生きがいなのかもしれない。
『喜ばれるではありませんか』
 違う……信之助は気が付く。この男はモノを変わったモノを蒐めて喜んでいるだけではない。それを自慢して鼻を高くしたいのでもない。
この男はモノを通じて人間を見ている。
髑髏の刳り貫かれた眼窩の先から男の視線が這い出してくる。
賢者でありながら愚者であり、頑是ない子供のような態度すら無貌の男が蒐めるのはモノではなく人の反応だ。
そうやってモノをダシにして、人間を記録し続けていくつもりなのか。
男の眼に信之助が浮かぶ。
 ――ほら、今も男は信之助を観察している。
「人はそうやって都合の良いものだけを選びとって生きている。この天地はあまりに広大で萬物には際限がないがゆえに、人は知らないものをなんとか自分の知っているものに置き換えて考えようとする」
 だからね――髑髏の向こう側で男の目が光った。
「もしかしたら、貴方は自分にとって都合の良いところだけを抜き出して罪人の言葉を記述しているのかもしれない。もしかしたら罪人は無意識のうちに自分を護る言葉を選んでいるのかもしれない」
 貴方は本当に、事実だけを書いていると言い切れますか。

針のように冷たく細い雨が、庭の樹皮を穿った。

「私は坊主でもなければ神主でも御座いません」
 信之助は静かに答える。
「私の役割は罪の記帳と罰の記録。慈悲や慈善は商っておらず、懺悔や悔恨を聞いたところでどうしようもない」
罪は伝搬する。人ほど狂気に侵されやすいものはなく、人ほど空しい心の持ち主はいない。罰は裁きを求めて罪人を追いかけ続ける。
書庫では永遠に罪と罰の追いかけっこが繰り返されていた。
「記録に感情は必要ありません。感情は事実を濁らせます。私はそれを徹底し続けた」
 心を鬼にしなくても良い――そう言ったのは確か与力だ。名前ももう出てこず、顔も靄に滲む古参の与力だ。
『心を鬼にしなくても良い。ただ亡霊になれ。人の世を仰ぎ見る霊になれ』
 そう与力は言った。
「人に罪に罰に、そして世間に食われない為に、私は感情の全てを剥ぎ取って罪人を記録し続けました。食われない為に私は自らを亡霊にしました」
 亡霊はこの世の事実しかきっと知らないでしょう――信之助は微笑んだ。けれどそれはただ口を吊り上げただけのぎこちない真似事だった。
男は満足げに頷く。その手の上にあった筈の髑髏はいつの間にか消えていた。
噛みあっていないことは分かる。向こうが求めている会話を信之助が出来ているとは到底思えない。
けれどそんなものなのだ。
罪人の、囚人の、亡霊の対話など、えてして噛み合わぬものなのだ。人間などいつも矛盾に矛盾を重ねて生きている。
「では、そんな貴方がどうして人を殺したのでしょう?」
 男の声が雨と共に耳朶を打った。

手の甲が冷える。自分の手もいつか切り離されて泥の上を彷徨うのだろうか……。

「それは……」
 信之助は口を開く。雨音が響く。
「おおっといけない、いけない」
 男が制してくる。差し出された手のひらが信之助の前で何度も振られた。
「悲劇を語るときは落ち付かなくては。悲劇は焦って語れば語るほど喜劇になる。もっと気を持たせてくれなければ」
 ねえ、そうでしょう――手のひらの向こう側から男の顔が滲みだすように現れた。
「人殺しほど喜劇になりやすいものはないのですから」
 男が両手を広げる。まるで蝶の羽のようだ。
「この世の歴史は悲劇と喜劇がないまぜになって出来上がったもの。これほど面白い芝居小屋もそうそうない。この世は劇場だ。そして人生は演劇だ」
 男が雨を煽る。泥を打ち、庵の屋根を鳴らしていく雨音は拍手かそれとも歓声か。姿を見せぬ無限の観衆がこの庵を包んでいる。
「さあ、教えてください」
 無数の眼が信之助を見つめている。姿も見えず、顔も分からぬ存在が信之助の罪が語られるのを待っている。
「ゆっくりと、けれど確かな貴方の悲劇を」
 男の手が更に広がる。
「貴方という悲劇を」
 ――雨はまだやまない。

凍えた左手をそっと上げる。
その下から現れた右手の甲には、蝶の形をした痣があった。
 

 二

はらはらと蝶が飛ぶ。
まるで光の粒のような鱗粉を散らして、青い風を全身で受け取りながら飛んでいく。
幼い信之助はずっとその蝶を見つめていた。
信之助の甲にある痣のように千切れた醜い蝶ではなく、透き通るように清らかで一瞬だけ煌めいては消えていく星の瞬きのように尊い存在だった。
蝶がふわりと舞うたびに信之助の目の前を羽がひるがえる。
羽だと思ったのは風を孕んで膨らむ振袖で、飛び散る鱗粉だと思ったのは滑らかな黒髪から零れた艶だった。
少女は踊る。三味線の音色に合わせてひらひらと、蝶よりも軽く光よりも眩しく踊り続けていた。

「私には五つ離れた妹が一人おりました」
 淡い雨が庵の屋根を鳴らしては過ぎていく。右手に刻まれた蝶型の痣が僅かに疼いた気がした。
「踊りの上手な娘で、七歳の頃に大奥に奉公にあがりました」
 丸い頬に似合った円らな瞳が信之助を見つめて微笑む。限界まで膨らんだ蕾が一斉に花開いたその朝に、妹は産声をあげた。
「花の祝福を一身に受けた妹でした。名もそのまま桜とつけられました」
 信之助は目を細める。雨がまるで妹の足音のように思えた。花を衣に舞う天女と見まごうほど、軽やかに弾む少女(おとめ)だった。
「不浄役人の娘が大奥にあがれるなんて、父も喜んだことでしょう」
 妹の足取りだと思えば細く冷たい雨すら心を込めて紡がれた糸のように思えてくる。透き通った雫の向こう側に溶かされているのは花の幻か。
細い指が空を揺蕩い、見えぬ時を織りあげ舞い続ける。
そうやって花の一生を舞い、時の一瞬を踊る少女だった。
「花は手折るものでは御座いませんからね」
 静寂に男の声が浸み込んでいく。
「無垢に生きる姿をその時間ごと楽しむもので御座います」
 時からも場所からも切り離された花など物言わぬ骸に過ぎぬ――雨が一瞬遠ざかり、何処かで誰かの時間を穿った気がした。
「まあ、死体を愛でる趣味の方もいらっしゃいますがね」
 やまぬ雨もまた一興と、諦めるように乾いた微笑が男の貌に浮かんだ。
「そういえば、今、お父上の話がでましたね」
 男が筆を持ち直す。その下から溢れる墨の連なりが父の髭と重なった。
「喜ばれたとか」
 濃く、太い髭に剃刀があてられる。細い刃が喉に近づいていくのが堪えきれぬほど恐ろしく、剛毛が削ぎ落とされていくたびに知らぬ人間の顔が現れていくような気がして怖かった。
「……いえ」
 雨が勢いを増した気がした。泥が飛び散り庭石を斑に染める。
「そんな、気がしただけで御座います」
 荒れる波に穿たれ続けた巌のような父は、笑うことなど滅多になかった。

父は岩のように寡黙な男だった。その背中は後ろを歩く中間の体を簡単に隠すほどで、父が町を歩けば後ろ暗いところのある連中はすぐに顔を伏せ、雑踏の端で息を殺した。
語らず、笑わず、ただ役目を役割のまま忠実にこなし裁きの場に罪人を引き渡す男だった。
裁かれるべき罪を探し続けては追い続ける、そんな命令に常に忠実たらんとする男は機関(からくり)仕掛けの人形だったのかもしれない。

 信之助は自分の顔を撫でる。つるりとした卵の剥き身のような顔立ちは母譲りで、父とは全く似つかないものだった。
だからこそ父の顔を覆う髭が恐ろしく思えたのかもしれない。顔を変えるほど髭が生えることは信之助にはなかった。
「お父上は確か定廻り同心でしたね」
 男は筆を走らせる。言葉は信之助の過去を写し取って、その時間の全てを抉りだしていった。
「ええ。腕のたつ人でしたから」
 剣の腕前を見込まれ、若い頃から探索方としてのいろはを叩き込まれたらしいが詳しいことは知らない。信之助は剣術や体術といった武道は全くこなすことができず、早々に諦めたくちだった。ただまとまった字を書け、人の言葉を的確に掬い取っては明確に写し取れる才を買われ、例繰方についた。
それで良かったと思っているし、父に劣っているとも思わない。人には向き不向きというものがある。
ただ父には似なかった。それだけの事なのだ。
「妹君は天女のように踊りがうまく、お父上は剣が達者」
 なかなか立派なお家ではありませんか。――男の筆の先から溢れる墨が掠れては滲み、ふっくらと盛り上がったと思えば鈍く瞬きながら細い線を描いて千切れた。まるで人の一生のようだ。
「ならばお母上は?」
 男の眼が信之助を包んで墨に零した。

母――細い雨が針のように土を突く。跳ねる泥を見るたびに皮膚に無数の孔が穿たれていく気がした。

「母は……」
 男の目が鈍く光っては信之助を瞼で咀嚼する。そうやって幾つもの記録を貪り続けたのだろうか。
信之助の背後に誰かが立つ。振り返ることもできず、振り返ったところでどうせ影すら見えない。ただ空の胃袋のような部屋が広がっているだけだ。
ああ――赤い血を胸元に花開かせて、息絶えた女が畳の上に転がっている。萎れ、朽ち果て、乾いて、腐っていく骸が誰を見つめることなくがらんどうの部屋に打ち捨てられていた。
「母は……胸の病で死にました」
 つい先日の事で御座います――流れていく雨よりも虚しい事実だけがそこにあった。
「それは、お気の毒な事で御座います」
 眉をだらりと垂れ下げたと思えば口もへの字に曲げて、滑稽なほど芝居がかった顔をした男が母を悼む。背後に佇む誰かが憐れむように信之助の背中を眺めて、そして消えていった。
「寿命でしょうか。それとも……」
 男の皺が深まり、顔の影が濃くなった。
「摂理とか」
 冷たい刃が信之助の背を撫でていく。肩に誰かの手が置かれた気がした。荒い息が耳の中を掻き毟ってくる。
 部屋の鼓動が聞こえたような気がした。

雨が降る。葉が萎れては雫を吐き出して朽ちていく。

「不条理も摂理。過酷な運命もまた定め」
 感情は理屈を凌駕する。けれどそれもまたこの世の条理。
 生きた部屋の中で男の筆から墨が溢れては言葉が連なっていく。掠れては滲み、黒々と輝けば細く流れる。人の生涯を掬い取るたびに墨は黒でもなければ灰でもなく白にも混じらぬ無限の色彩へと至っていく。
「つまらぬ人間の心を写す時は何の変化も起きぬもので御座います」
 墨はあまりに正直だ――筆に墨を含ませながら男がほくそ笑む。
「さあ、貴方の生涯はどのような可能性を墨にもたらせてくれるのでしょう」
 硯の中で筆の首が折れたような気がした。
 私の人生など――信之助は手を握りしめる。右手の甲に刻まれた蝶の痣が雨に疼いた気がした。
 兄上……花がほっこりと開くような声と共に信之助の右手が柔らかな手に包まれた。
『どうぞお体にお気をつけて』
 両手で信之助の右手を包み込みながら、桜が見上げてくる。その潤んだ瞳のなかに信之助が滲みながらも確かに映っていた。
このまま桜の時が止まればいいのにと心から願ったことを覚えている。そうすれば生涯この瞳は信之助だけを写しこむだろうに。
けれどそんな子供じみた我儘を言える筈もなく、妹の門出を祝えぬ兄と思われるのも悲しくて、ただ引き攣った笑顔で送り出すしかなかった。
そうやって気持ちに靄をかけて、感情を霧で覆うことを覚えていく。人はこうやって世間と折り合いをつけて秩序を乱さぬことを覚えていくのだ。それが生きるということで、生き延びる手段でもあった。
下女の老婆が桜を連れていく。
信之助の手の届かぬ遠いところへ、花は散る姿も見せることなく去っていく。
ただ置き忘れられた未練だけがいつまでも信之助の中で蹲っていた。桜の姿を雨が遮る。思わず手が伸びた。
「おや」
 男の視線が信之助の手の甲を捉える。ああ――信之助は右手の痣を見つめた。
「昔のもので御座います。焚火の火の粉でやられたのだと母が言っておりました」
 記憶に無いほど遠い出来事で御座います――爛れた蝶の羽はきっともう飛べない。けれど桜が舞えるのならば己の羽などどうなっても良かった。桜が頷くのならば、いくらでも笑って見送ってやろうと思った。
「記憶にないと、そう言うのですか?」
 男が信之助を食い潰すように見つめてくる。その視線は何処を見つめる。
雨が滴って、泥は弾け、靄のかかった庭の木々は足を亡くした亡霊のようだ。
「……ええ」
 信之助は短く答えた。
「この世で起こった出来事には全て理由が御座います」
 そしてその出来事は記憶となってこの世に刻み込まれ、波紋を残していく……男の筆がぐるりと渦を巻くように動いた。
土の上にできた水たまりに波紋が広がる。
「何が、言いたいのでしょうか」
 信之助は右手を握りしめた。なんの熱も感じなければ、ただ抉れた皮膚の痕が微かに冷気に浸みた。
「貴方が忘れようと、誰が口を閉ざそうと、この世は決して真実を逃さない」
 そういう事で御座いますよ――庭の木々がざわめく。
雨が甲高い声で叫んだと思えば、無数の見えぬ影が信之助を通り抜けて走り去っていった。
まるで野分の中に放り出されたように息が詰まる。雨の粒に正面から顔を叩かれているようだ。皮膚が引き攣った。
「この世に生まれた出来事は記憶という波紋となって永遠に伝わり続け、時に過去すら覗き込むでしょう」
 部屋の鼓動が高まる。壁が蠢き、畳が律動を繰り返す。
「出逢っては別れ、別れては巡り合う。秩序など実に平面的な概念だ」
 信之助の手の甲が疼く。羽の爛れた蝶は何も語らない。黙して忘れたふりを続けていく。
「誰も何も語らなければ平穏は維持できる。誰もが傷ついたことすら口に出さなければ罪は罪にも至らない。それこそが真の平和。諦めが板につき、絶望すら日常ならばそれが幸福。それがこの世」
 なんて残酷なのでしょう。なんて滑稽なのでしょう。男の筆は何を語り、何を騙っているのか。
「貴方が喪った羽を受け継いだ妹君は大層幸福だったのでしょうか。それは諦めを知ったから? それとも絶望にも至れなかったが故に……」
 彼女は不幸だった?――
『私は、恐ろしゅう御座います』
 桜は最後の夜にそう言った。まだ十にもならぬ少女は無垢な瞳に涙を浮かべ、花が散るようにはらはらと泣いた。
気丈な娘ではなかった。咲いては散ってを繰り返す花よりもか弱く慎ましい少女だった。
『見知らぬところへ行くのは鬼に喰われるように恐ろしい』
 花が萎れていく。無垢で純粋な魂は誰よりも穢れに怯えていた。
 大丈夫だと、何も恐ろしい事はないと。信之助はそう言って慰めた。お前はその器量と技量をかわれたのだ。何を恐れることがあろうか。堂々と胸を張っておれと言った信之助の言葉は桜に届いたのだろうか。桜は濡れた瞳で少し微笑みながら信之助を見つめた。
これまで何度も隠れては泣いて、怯えていたのだろうか。頬に残る涙の痕が憐れでならず、思わず信之助はその痕に触れた。桜は少し驚いた顔をしたが、すぐに信之助の手のひらに自分の頬を寄せる。
信之助の手に包まれた少女は涙に濡れながらも、春に身を委ねる蕾のようにふっくらと微笑んでいた。

雨が土を穿つ。泥に沈む地に底などなかった。

桜から文が届くことはなかった。
三年たってようやく里帰りが許されるだろうと思ったが桜は帰ってこなかった。城からの遣いすらやってこなかった。
桜は不幸だったのだろうか。それとも家のことを忘れるほど幸福だったのか。
「……」
 父も母も桜の事を話題にもあげようとしなかった。最初からいなかったように振舞い、桜の気配は日ごと家から薄れていった。滲むように、掠れるように、残り香すら靄の中に包んで何処へと消えていった……。
 母は胸だけでなく足も悪かった。杖をつかなければ歩くこともできず、家の中に籠りきっていたのが余計に胸の病を悪くしたのだろうか。雨で流れていくように妹の気配が薄れていくごとに母は寝たり起きたりを繰り返していった。
「まるで妹の記憶が母まで連れ去っていこうとするようでした」
 信之助は呟く。男に語っているのか。それとも昔を憐み、懐かしんでいるのか。
この見えぬ影が蠢いては過ぎ去っていく中での昔語りで、妹の痕跡を見つけようとしているのか。――分からない。答えなどないのかもしれない。

 ある日、思い切って父に聞いてみたことがある。
 どうして母の足は悪いのかと。母に直接聞いたこともあったが、母は困ったように微笑んで信之助の頭を優しく撫でただけだった。
『なぜ母上は歩けないのでしょうか』
 そう信之助が尋ねた時、父は屈むこともなくその小さな目をただ信之助に向けただけだった。
それはまるで機関仕掛けの人形のような動きだった。中に詰め込まれた歯車が軋む音すら聞こえた気がした。
 あの時、初めて父に感情を見た。憎悪、嫌悪、憤怒、怨嗟――そんな言葉では到底掬いきれぬ。小さく故に深く窪んだ眼は暗く濁り、一点に澱むことしかできぬが故に濃厚な反吐のような感情が確かに蠢いていた。
針のような雨が地に突き刺さっていく。それは裁きかそれとも断罪か。
「あの時、気が付くべきでした」
 濁る眼球。けれど飢えた猟犬のように鋭く、仇を目の前にした人間よりも張りつめた確かな憎悪。行き場を失ったが故に暴れることもできなければ吐き出す術すら忘れてしまった反吐の塊こそ父の眼球だった。
「私は……父に疎まれているのだと」
 ああ、雨が一つ落ちるたびにこの世から切り離されていく……。

誰かが信之助の隣を嗤いながら遠ざかっていった。
ほんの少し花の匂いがしたと思ったが気のせいだった。

「おや」
 男が口を窄めて、嫌味なほど驚いたという顔を作っている。
「疎まれていた!! それは貴方の主観ではありませんか!!」
 いや、結構結構――腹を抱えるほど男は笑う。
「そして僥倖。なんという僥倖」
ひどく上機嫌だ。
「貴方はこれまで決して自分の主観を話そうとはしなかった。心では感じていても、決して言葉にはなさらなかった。ただ事実だけを淡々と述べ続ける。まるで罪人の調書を書きとるようにね」
 男は今度はその顔を手のひらで包んで笑う。生酔の酔客のようにどこまでも愉快に、そして滑稽に、男はこの瞬間を楽しんでいる。
切り取られた一瞬を、刳り貫かれた一時を、男は記述しては編集し、そして笑いながら弄んでいく。
男の笑い声が部屋を震わせる。
呼応しているのか、湿気を孕んだ大気が捩じれていく気がした。
「……そんなに面白いことでしょうか」
 信之助は思わず眉間に皺を寄せる。がらんどうの部屋が、信之助と男以外の人間の気配などないこの庵が、まるで巨大な胃袋のような気がしてきた。
飲み干されて為す術もなく消化されていく。
男が笑う。顔を覆う指の隙間から覗く目は、この世のありとあらゆるものを混ぜ合わせた末のように黒々と輝いていた。
部屋が震える。
ああ――信之助は直感する。
 罪も罰も記憶も記録も全て全てすべて……

この男の滋養となるのだ。

「ええ、大変面白く、そして素晴らしい事で御座います」
 男は顔から手を引き剥がす。現れた顔は慈悲を与えられ、慈愛を注がれた末のように恍惚としていた。心の底から男は信之助を楽しみ、そして味わっている。この骨の最後の一本まで切って舐めつくされるだろう。
その口が動くたびに見える細い牙で、赤い舌で。――
「この世には賢者を気取り、森羅万象のあらゆる出来事を人間は知ることができると思い込んでいる人々がいる」
 男の白目が黒目に侵されていく。まるで太陽に月の影がかかっていくようだ。
「けれど知れば知るほど天地が如何に広大で萬物がどれだけ際限ないものかを突きつけられ、人はただただ絶望していく。そしてこの世には「在る」ことは分かっていても、それが「何」かは分からないもので満たされている。人など塵芥よりも無価値で無知なもので御座います。そんな存在がこの世の全てを知ろうなど烏滸がましいにもほどがある」
 この世には人よりも人でないものの方が圧倒的に多いのだから仕方がない――そう言い、黒い目で男は笑う。その闇をはめ込んだような眼球はまるで、男の語るところの人の目には見えぬもの全てを詰め込んでいるように思えた。
「我々はただ蒐めることしかできない」
 雨が生む霧が視界を削り取っていく。
「私たちは知によって世界を拡げることはできても、外へ出ることはできない。私の世界はせいぜいこの部屋程度のもの」
 ――ふいに信之助の周りが騒がしくなった。はるか遠くから、それともすぐ近くから、それも分からない。ただまるで都の中にいるような人間の喧騒が、そして野を行く獣の気配が信之助の体を取り巻いては突き抜け過ぎ去っていく。生臭い息の臭いが、ぼとりと垂れる涎の感触が体をつたっていった。
「私は決して此処から出ることはできません」
男が笑う。部屋が軋んでは振動する。時がうねる。
「そう思えばこの部屋も牢獄のようではありませんか」
 
我々は誰もが自分の牢獄を持っている――

「だからこそ、私はこの部屋を豊かにしたい。せめてもの慰みに。せめてもの抵抗に」
 男の筆は何を写し取り、何処へ保管されるのか。人の一生のように溢れては掠れて引き攣れては盛り上がる墨の行方すら信之助は知らない。
「人の知は間違いばかりかもしれません。言葉も嘘ばかりかもしれません。人の中にある記憶は時と共に損なわれていくものですし、記録はいつだって感情的なもので御座います」
 筆が更に勢いを増す。男の喜びに呼応しているのか。それとも信之助の騒ぐ心を写し取っているのか。溢れる言葉はまるで鎖のようで思わず信之助は目を逸らした。
 雨音が時間すら削っていく気がした。
「けれどその感情こそ最も人間を豊かに見せる」
 光はとうに雨に削ぎ落とされた。
「さあ、感情を思い出したところで……」
 牢獄の暗がりに潜む男が黒く塗りつぶされた目で笑う。
「教えてください。貴方の罪を」
 雨が土を抉り、奈落を掘り出す。
「貴方という罪を」
 ――逃げ場など何処にもなかった。

 三

「私は元服すると同時に例繰方になりました」
 細い雨はこの世が抱えきれずに取り溢した記憶の糸のように思えてきた。紡ぎあげることもできず、布を織ることもできずに忘れられてしまった人間の欠片たちだ。
「もう、七年は前の話で御座いますね」
 雨の中に自分の過去が映ったような気がした。信之助自身も忘れている信之助の記憶が解けては土に浸み込んで消えていく。
「桜が……妹がいなくなってから母は部屋に籠りがちになりました。定廻りから臨時廻りになった父は日中は外に出ており、私は奉行所で顔を合わせる事すら稀でした」
 そうやって家族は互いの顔すら見ないまま、一つ屋根の下で暮らしている筈なのに別々の時間を過ごしていく。やまぬ雨で作られた深い海で隔たれたような家族だった。
「この世は本当はもともとは一つの大陸であったと言います」
 男が筆を走らせながら語りだす。雨が庵の屋根を叩く。
「それが長い……本当に長い時間をかけて幾つもの大陸に分断されました。今のような形になるまでに海に沈んだ島や大陸も御座います」
 途方もなく悠久にも永遠にも等しい時間が今の世界の形を作り上げた――……。海鳴りの音が耳の奥に響いた気がした。雨から潮の匂いが漂い、口の中が塩辛くなる。
思わず指で舌に触れた。
「この世は常に揺れ動いては移り変わってゆくもの。大地とて例外ではない。地よりも脆い人がどうして別たれないというのでしょう」
 口を開けばごぽりと鈍い音をたてて水泡が溢れる。こんな脆くて拙い息の塊に信之助はこれまで生かされてきた。
ああ――泡は水面に辿り着くことなく割れて消えていくのか。そして体はただ見えぬ水底へ沈んでいくのか。
「分かたれた世界は永遠に言葉すら通じず、価値観すら理解しあえない。侵略はできても共有は決してできない」
 蝶の痣が呻いている。雨の冷気にさらされて骨の芯まで冷えていると思ったが本当は見えぬ波に晒され続けていたのかもしれない。
「……それは」
 信之助の声が裏返れば男の唇が吊り上る。包丁で切り裂かされたような口はまな板の上で腸を曝け出した魚のようだ。
「喩えとしてはひどくかけ離れておりますね」
 それが精一杯の皮肉だった。
けれど海の気配が途絶えることはなかった。耳の中で響く海鳴りは喪われた大陸の怨嗟か。
カシャカシャと骨を重ね合わせるような音が雨の端で聞こえた。きっと先刻の髑髏がどこかで信之助を嗤っている。
「それは失礼いたしました」
 男が微笑む。そして信之助に続きを促す。
見慣れぬ巨大な海獣が、骨だけを晒して信之助の隣を歩いて行った気がした。
水が詰まったのか胸が苦しい。息の塊が胸を押し潰しては暴れている。
赤い血を胸元に花咲かせて、ぽとりと首を落とす椿よりも虚しく朽ちた母の姿が蘇る。――母も苦しかったのだろうか。今の信之助よりもずっと、ずっと……。
「――母は胸の病がひどくなったのでしょう。うつしてはならないと、私は襖の向こう側から声をかけることしか赦されませんでした」
 母の世話は下女の老女が一身に引き受けてくれた。向井家に古くから遣えてくれている人間で、老い先短い身が病の何を恐れようかと血を吐き続ける母を看病し続けた。時々、母が日の光にあたる様子を信之助は遠くから眺めた。
日に当たれば氷のように溶け、風に吹かれれば小枝のように折れるのではないか。そう思ってしまうほど母は痩せ細り、まるで枯木で作った箒のようだった。その虚ろな眼は抜けかけた睫毛に蠅が止まってもきっと気が付かない。ほんの僅か残った一つまみの命の欠片でようよう人の形を保っていた。
「……そんな母を貴方はどう思いましたか?」
 包丁で裂かれた傷痕のような眼が信之助を腹の底まで覗き込んでくる。
「憐れだと? それとも醜いと?」
 男の口から僅かに覗いた舌がまるで腸のように思えた。剥き出しの内臓。嘘偽りのない好奇心。それが男の全てなのかもしれない。
 雨が切り裂いた世界の隙間に母の死体が転がっている。固まりつつある骸は体温すら喪って爪の先まで白くなっているというのに、ただ溢れる血だけがひどく生暖かった。
「母というのは……」
 信之助は口を開く。雨の向こうに転がる母の死体が血を吐く。枯れて朽ちた体の一体何処に、これほど大量の血が詰まっていたというのか。
「誰であっても悲しくて虚しくて、そして愚かなものでしょう」
 
雨音に世界が閉ざされていく気がした。

 桜がいなくなってから母は部屋に籠りがちになったが、それでも幾年かは信之助も母の部屋に出入りが許されていた。
父は……いつ何を食べているのかも分からなければ、どれだけ寝ているのかすら分からない人だった。罪を取り締まり、裁きを求めることだけを目的とした機関人形に食事も睡眠もきっと必要なく、罪人だけが日々の糧だったのやもしれぬ。
けれど信之助は気が付いていた。
 確かに父はそう言った。その眼の裏に隠しこみ、臓腑の底に潜め続けた黒く重たい感情が、あの時ほんの一瞬だけ滲み出た。 父の唯一の失態だった。それは機関人形が一度だけ人になった瞬間だった。
 長い……それこそ大陸が動くほどの年月を経た巌のように巨大な体躯を持った父だったが、それはその身の内に抱えた鉛以上に重くて冷たい「何」かを隠すための匣に過ぎなかった。
 子を恨み、憎しむという罪には、それを隠さねばならぬという葛藤こそ罰だというのか。
信之助は愛されない子供だった。
理由など分からない。知ろうとも思わなかった。
父はこれ以上信之助を憎まない為に、距離を置き続けているのだろう。それこそが父の最後の、そして唯一の愛だった。
そういうものだと、諦めてしまえば楽になる。目を瞑り、何も望まなければそれが幸福なのだ。乾いた絶望こそ人間を安寧へと導いてくれる。――それを信之助は幼い頃から身を以て知っていた。
父は無力だった。そして非力で臆病者だった。だからこそ不器用で破裂しかける憎悪を抑えては時々垂れ流していくしかなかったのだ。それを受け止めるのもまた、子としての務めだった。
信之助や――頬もだいぶやつれた母が縁側から空を仰ぐ。まだ会話をするだけの力が残っていた頃だった。
『今日は雨が降ると思います。傘をもって出掛けなさい』 
 肉も殆ど削げ落ちているのに必死に笑みを作ろうとする顔が痛ましかった。そうやって母はいつも心を形にしようと努めていた。
 母が仰いだ空は何処までも青く澄んでいて、雲一つない。けれどやはりその日は夕方から雨が降った。細く、淡く、そして甘い雨だった。
 母は風の流れや大気の揺らぎを察する力に長けていた。野を駆ける獣のように鋭く、ほんの僅かの変化でも敏感に捉えるのだろうか。どれだけ朝に晴れていようと夕立の頃合いまで的確に言い当ててしまうのだ。その術を本人は誰にも伝えるつもりはないようだった。きっと本能か、それとも生まれ持った性質なのだろう。誰が真似できるものでもなく、きっと母自身も理解していない。
考える前に全てを「知っている」人だった。
『ところで信之助』
 母の首が軋みながら動き、信之助を見つめる。抉れた肉に窪んだ眼はまるで朽ちた骸骨のようだったが、その瞳は未だ光を失ってはいなかった。
『貴方がお役目を忠実にこなしていることは母も存じております』
 母の懸命の笑顔で引き攣る皮は爪を入れればきっとすぐに破けてしまう。けれど母は信之助に微笑んだ。
『罪を記述し続け、罰を管理し続けるお役目はひどく辛いでしょう。けれど感情を忘れてはなりません。情けを喪ってはなりません』
 この時、砂で作った城のよりも母の体は脆く、殆ど崩れかけていた。それでも母はその心根の先まで母親であった。
 ――気が付いていたのだ。信之助が自ら感情の亡霊となる道を選んだことを、母は気が付いていたのだ。下らぬ同情で記録を違えぬ為に。罪に心を食われ、自らが罪人とならぬ為に。人の世を仰ぎ見る亡霊になる道を信之助が選んだことを母は気が付いていたのだ。
『人は人としてしか生きられません。悲しみを忘れた人間は喜ぶこともできません』
 母の枯れた手が信之助の頬を包む。その指の隙間から母の命が零れていくような気がして恐ろしかった。握り返すこともできなかった。
『貴方はこれから多くのことを知り、そして傷つく。苦悩も苦痛も決して忘れてはなりません。痛みを知らない人間は自分が傷ついたことも分からず、血を垂れ流したまま傷口から腐っていく』
 決して感情を忘れてはなりません。母はもう一度繰り返した。
 人の変化すら母は見抜いていた。無意識の仕草の一瞬から母は全てを悟るのだ。この世の一瞬、そして刹那の中に母は膨大な情報を読み取る。人より遥かに少ない時間しか与えられていないが故に母の一瞬は尊かったのだ。
母が空を仰ぐ。その窪んでもなお力を失わぬ瞳はきっと信之助とは違う世界を覗いている。誰よりも時間が有限だからこそ何よりも無限を知っているのだろう。
動かぬ足は枷にすらならず、母は心でもって何処へでも飛んで行ける人だった。
桜はきっと母によく似たのだろう。
 その体重を感じさせぬ軽やかな舞が記憶の中に蘇る。桜が躍れば地に伏した花弁すら再び息を吹き返した。この世の全てに愛されて祝福された少女だった。
髪の房が翻るたびに春が歌うような気がした。
母も桜もこの地上に生まれるべき人間ではなかったのかもしれない。本当は鳥や木を飾る花のようにもっと天に近いところに生まれるべき存在だったのかもしれない。
 天の手違いか仏の勘違いか。この世はきっとそんな過ちばかりで造られている。
 信之助は手の甲を見た。そこに羽を広げる蝶はその身の内すら分からぬほど爛れきり、きっとこの地を飛び立つ日は永遠にやってこない。

巌のように黙っては鉛のような嘘を腹の底に沈めていく父と、飛ぶための羽を焼いてしまった信之助は、どれだけ悔いても祈っても、きっと天に愛されない。

 だから信之助は罪を記録し、罰を管理し続ける。
地上の、更にその最下層の歴史を書き留めては保存し続ける。地獄にも至れぬ人間の分際で、地上の奈落をただ記し続ける。
悲しみを忘れた人間は喜ぶこともできぬと母は言った。痛みに慣れてはいけないとそう言った。
信之助とて感情を排除しようとしているわけではない。ただ事実を曇らせないよう、起きてしまった現実を歪めないよう努めているだけなのだ。
お慈悲をと泣き崩れる女の涙を記したところで罪が軽くなる筈もなく、相手が悪いと怒鳴り散らす男の唾が飛んだ回数まで書いたところで咎が赦されるわけでもない。
 裁きを与えるのも情けをかけるのも信之助の役割ではない。
役目以上の事をすれば身が滅ぶ。心が死ぬ。
 泥水のように広がっていく罪人の感情を啜って生きていけるわけがなく、行き場無く蟠っていく後悔と怨嗟を飲み干したところで毒にしかならぬ。
 汚泥に沈んで窒息していくような人間が身近にいたわけではない。ただ本能だった。罪への懺悔をまともに聞いてはならぬ。涙を正面から見てはならぬ。
特に女の涙は心を抉る。

信之助は顔を手で覆う。雨の音が誰かの涙のように聞こえて頭が痛かった。本当は悲しむことに耐えられない。
人の焦燥に、人の憐憫に、人の因縁に、本当は耐えらない人間なのだ。
そういう弱い人間だと理解する前に知っていたから、感情を退けた。見ぬふりを続けて起こってしまった出来事の表面だけを書き留めていった。罪と罰の終わらぬ歴史を何処までも無機質にそして無感情にこの世に繋ぎ止めていった。
書庫に覚書が積み上げられていく。歴史は培われ、いつまでも罪は滅びず、罰がその役割を終える日はまだ遠い。
一冊、また一冊と覚書を埃の溜まった書架に積み上げていくたびに腹が据わっていくのが分かる。覚書の中に詰まった人の歴史が錘となって、胆を更に深みへと落とし込んでいってくれた。
そうやって囚人に石を抱かすように歴史を積み上げて、信之助もまた機関人形になっていったのかもしれない。

それで良かった。涙も悲しみも後悔も懺悔も悔恨も信之助にはもう充分だった。
どれだけ日に翳し、風を仰いでも火に焼けた蝶は二度と飛べない。花を乞い、空の青さを願うのが精一杯だった。
ああ――六年経っても桜は帰ってこなかった。

『その痣の痛みを覚えている?』
 布団の中から母が尋ねてくる。信之助は無言で首を振った。
『そう……』 
 少し寂しげに、けれどどこか安堵したような貌で母は頷いた。
『この痣はきっと貴方を苦しめることでしょう』
 母が震える手で信之助の痣を包む。肉の削げ落ちた手のひらは骨が飛び出し、温もりすら抜け落ちていた。死に程近く、だからこそ切迫した命の一瞬が信之助の痣に切り込む。
『けれど決して怯えてはなりません。ひるんでもなりません』
 命を贄としながら母は信之助に語りかける。その声は喉を搾り上げるように細く、もはや懇願に等しかった。
『もしこれから先、何があっても』
 母の手の力が強まる。見上げてくる眼が戦慄いている。
『父上を憎まないで下さい』
 何故ここで父が出てくるのか――そう聞くことすら憚れた。
ああ――信之助の視界が揺れる。拉げた頬。尖る顎。母が見知らぬ女に思えて仕方がない。空を仰ぎ雨を予感した母に天は欠片ほどの慈悲も与えてくれない。
『貴方は罪人ではない』
 貴方は情けを忘れた罪の子ではない――母の爪が信之助の痣を引っ掻く。憎んでいるのか。それとも愛おしんでいるのか。きっと母自身も分かっていない。
『私は罪を犯した』
 震える母の眼からとうに枯れたと思った涙が筋を作った。ほんの一筋、けれど確かな悔恨と懺悔の証だ。
『けれど貴方を生んだことは絶対に罪ではない』
 絶対に罪ではない――それは信之助に言っているのか。それとも己に言い聞かせて知るのか。ここにはいない父に語りかけて伝え続けているのか。
母の部屋には何もない。ただほんの一枚の着物がかかった衣桁があるだけのがらんどうの部屋が母の命を咀嚼し続けていく。
『貴方は罪人ではない』
 母の指が信之助の痣から離れる。そしてゆっくりと信之助の顔に触れた。最初は額に、そしてその形を確かめるように鼻梁を撫で、唇に触れた。
ああ、良かった……母が微笑む。――初めてこの骸にも等しい女の顔が母と重なった。
 母の着物の裾から覗く右足は見るたびに細くなり、弱っていった。杖をつけば歩けるということだったが、元々抱えていた胸の病のこともあり立ち上がることすらままならなくなっていた。
信之助は知っていた。
母の足は生まれつきのものではないと。
母の右足には太ももから腱までを抉る刀傷が深々と残っていた。――

長い雨だった。
冷たくて侘しくて、土に埋めた不快な記憶まで穿っては掘り起こしてくる雨だった。

「母というものはいたく愚かなもので御座います」
 信之助は呟く。男の筆が水を得た魚のように跳ねては紙の上を走っていく。墨が黒々とした光沢を放っていた。
 ある日、とある囚人の母だという腰の曲がった女が僅かばかりの金子を携えて家にやってきたことがある。どうかお慈悲をと何度聞いたか分からぬ言葉で、息子を捕縛した父に頭を下げていた。
父に頭を下げようと、信之助を罵ろうと、どうにもならぬというのに女は諦めなかった。盗人の手引きをした息子が打ち首になるその日まで仏でもなければ神でもなく人の加護を願い続けた。
結局、その母は息子の後を追うように首を吊ったと風の噂で聞いた。
恨んでいただろうか、父を、そして信之助を。
雨を散らしていく風の音が首を括った老母の呻き声に聞こえた。
二人とも罪を捕え、記述する者でしかないのだ。裁くこともできず情けをかけられる立場にもない。それでも母というものは諦めきれないのだ。腹を痛めた子供の為ならば世の道理すら覆さんと慈悲を乞い、摂理にさえ従わない。
けれど仕方がないのだ。それが母だ。
どこまでも不条理で我儘で自死すら厭わぬ暴力的かつ一方的な愛こそ母そのものなのだ。

一筋の雨の裏側に母の後ろ姿が映った気がした。

「母という存在には多くの伝説がありますね」
 極めて偏執的で、限りなく利己的な愛を行使するのは大抵母親で御座います――男の手の上に一つの像が乗せられていた。
 腹に赤子を抱え、右手に石榴の実を携えた――鬼子母神だ。
「自分の子の為に他人の子供を殺す女も改心すれば神になれる世で御座いますからね」
 神の裏側で人とも魔とも分からぬ男が薄く笑った。
「母も嘗ては子と一体。けれどいつか子は己が母でないことを知る。母も子が自身でないことを理解する。こんなことは繰り返される普遍ですが、人間の根源に結びつく性質であるが故に悲劇を生みやすい」
 女はいとも簡単に母になりますが、それに比べて男はなかなか父にはなりにくい――それがまた不幸だと男は像を撫でながら語る。
「嘗ては一つだったものが二つに分かれるのですから互いに相手を求めるのは当然でしょう。けれどそんな事は道理にそぐわない。何故なら母はすでに父の妻なのですから!!」
 なんという麗しき不幸!! なんという滑稽な悲劇!!
まるで大向うからかかる掛け声のように雨が騒ぐ。泥が跳ねては土が打ち鳴らされる。
「さあ、それで貴方のお母上はどうなったのですか」
 男がほくそ笑んだ。
 冷気に晒され続けた蝶の羽が固まっている。
もう飛ぶことすら望めない。
――桜を迎えに行くことすらできなかった。
「母は……血を吐いて死にました」
 細い信之助の言葉など簡単に雨の裾に浸み込んで流れていった。

母は独りで死んだ。誰に縋ることのないままにがらんどうの部屋で血を吐いて息絶えた。

 どんな天気の日だったかすら覚えていない。ただ空白のような部屋に転がる母の胸だけがひどく赤くて、花を散りばめたことを覚えている。
ただ、――ああ、あの乳房から乳を吸ったんだなと、信之助は血みどろの母の胸を見てそう思った。未だ脈打つ血潮は母の鼓動のようで、嬰児の頃の記憶が僅かに蘇ってくる気がした。
母の傍らには父がいた。
父がいたということは夜だったのだろうか。……それすらもう覚えていない。変わり果てた母の骸を、信之助は静かに見下ろした。母の顔は痩せこけた末に干乾びて、どうしても記憶の中にいる母と結びつかなかった。ただ血に濡れた胸乳だけが母だった。
葬儀の日は雨だった。誰かの涙が目立たぬよう、雨の選らんで母は逝ったのだろうか。答えなど何処にもなかった。
 黒く分厚い雲を仰ぐこともできず、やまぬ雨の下を誰もが俯いて歩く。土の上で弾ける雫が前を行く人の涙なのか、それとも雨だれなのか。自分が泣いているのかすら、もう分からなかった。
湿気を孕んだ体が重い。泥から無数の指が裾を掴んでは引き止めてくる。濡れた袖ごと地中に引きずり込んでくれればいいのにと心から思う。叫ぶこともできず喚くことも赦されぬまま、奈落にすら至らせてもらえない。
 いつの間にか父が隣にいた。
雨は人の気配を消す。
傘で遮られているからかひどく遠いところに父がいるような気がした。凍えきった体は熱すら失って、息遣いすら凍らせる。
父の唇が開いたような気がした。
『……悪かった』
 そのまま父は顔も見せぬまま、巌のような体を雨に穿たせて信之助から離れていった。
悪かった……父は確かにそう言った。
何を謝ったのか。
何を悔いたのか。
『何に祈ったのか』
 ああ、この死は信之助の疑問に一欠けらの解答もくれない。

此処に降る雨は、あの時の雨なのだろうか

そんな愚かなことを考える意味が何処にあるのだろう。けれど信之助は開け放された障子の向こう側を仰がずにはいられなかった。
そうやってもう一度あの時間と繋がっていたかった。この世に残された記憶の波紋を追いかけていたかった。
結局、桜は母の葬儀にも帰ってこなかった。
「……」
 墨をする音が遠くに聞こえる。人知れず咲いて散っていく花の弔いもしてくれるのだろうか。
「お母上のことは大体わかりました」
 ひどく満足げな男の声に我に返る。
まるで歌でも歌おうかというほど弾む声が信之助の膝先まで転がってくる。
「胸を病み、足を抉られ、それでもなお骨の髄まで母だった女の憐れな末路」
 男が手を広げる。信之助の腹の底で何かがぐるりと蠢いた。
「実に陳腐極まりない!! ありふれた悲劇にもなりはしない!!」
 罪と罰の歴史を重石にして沈めたはずの感情が鎌首もたげてくる。
「しかしそれ故に酷く惨めだ!!」
男の唇が耳まで裂けた気がした。心の深いところにある底なしの沼が澱んでは激しく渦を巻く。
「その言い方はないでしょう」
 這い出してくる激情を必死に抑え付ける。狂ったようにのた打ち回る手負いの蛇よりも獰猛な怒りが、信之助の身の内で幾度も咆哮する。
「いや、実にいい。私は喜んでいるのですよ」
男の尺取虫のように歪んだ眼はひどく嬉しそうだった。
「けれど私は貴方の罪を教えてもらいたい」
 男が一つ立てた人差し指を唇の前に持ってくる。けれど要求されるのは沈黙ではなかった。
「だからどうぞお父上の話を聞かせてください」
 ゆっくりと、秘め事はどこまでもゆっくりと……

雨はひたすらに冷酷だった。

 私は罪を犯した――あの時母は確かにそう言った。


「父のこと、ですか……」 
 信之助は呟く。雨が言葉の隙間に浸み込んで、声も攫ってくれればよいのにと思った。
しとしとしと……
 男が先を促すように手を差し出してくる。その顔に浮かぶ笑みは土産の包みをほどいていく子供のそれだった。
そうやって人間の皮をめくっては(ほど)いて、その内側にある秘め事を愛で続けてきたのか。そうやって人の記憶をほじくっては感情を蒐集し続けてきたのか。
男の姿が雨の気配に揺れる大気に滲んでは掠れる。人の形をとっていながらその輪郭はひどく虚ろで、けれどその内側は分厚い霧で埋め尽くされているようだった。
実体がない――信之助は思う。男は男であり男でない。名を名乗らなかったのはきっと名などないからだ。
「ええ。貴方のお父上のことで御座います」
 男が筆の尻骨を口元にやる。その端から吊り上げられた口角が僅かにはみ出した。
「貴方は父のことになると途端に口が重くなる。心の中でどれだけ考えていても表面的で抽象的なことしか言わなくなる」
 雨が生んだ霧が信之助の体を包んでくる。誰かの足音がその中を通り過ぎていった。
「貴方がお父上と過ごされた時間はお母上との時間よりも遥かに少なかったのではありませんか?」
 男の眼は心の底にも及んでいるのか。実体の無い男は霞となり霧となり信之助の記憶にも浸み込んでいくというのか。
嘘も通用しなければ、隠し事すら意味をなさなかった。
「全て分かっているのなら、私に話させる必要はないのではありませんか?」
 信之助は必死に腹の下に力を込める。握りしめた手はただ冷たくて、痣となった蝶は飛び立つ気配すら見せなかった。
雨はどこまでも悲しくて、羽を断たれた蝶はひたすらに弱い。
春を探すことも桜を迎えに行くこともできない。
「何を言いますか」
 男の声が少し仰け反った。
「罪は自覚されなければ罪に至らない。語られない記憶などひどく味気ない」
 芝居がかった声色だ。がらんと広がる部屋に朗々と響き、天地を震わせては雨すら歪ませていく。
「私が知りたいのは感情。そして主観で味付けされた記憶」
 芝居の演者なのか。筆が紙の上を踊るように滑っていく。
「そこに……」
 信之助は空白に満たされたままの紙の先を見つめる。
「そこに私の記憶が封じ込まれた時、私はどうなっているのでしょうか」
 雨が静かに降る。墨の中に記憶が溢れ出す。
「その答えはご自身で試して御覧なさい」
 足跡一つない雪原よりも白い紙はどこまでも感情を連れ去ってくれそうだった。
「……」
 信之助は僅かに唇を湿らせた。
「貴方の言うとおり、私は父とまともに接したことは殆ど御座いません」

 疎むことが父の愛だった。
それに誰もが気が付いていたのだろうか。幼い頃、信之助は祖父の親戚たちに育てられた。

「父方の親戚、ではなく、祖父の親戚という言い方を誰もがしました」
 雨の音が耳に浸みたと思えば人の声になる。祖父の親戚を名乗る人間たちは礼儀作法から論語、兵法に至るまで一通りの学を信之助に身に着けさせた。学問の内容など殆ど忘れてしまっているものもあるがとりあえず恥ずかしくない程度の知恵は身に着けたと思っているし、役人として働けているのも、学問を通じて学び方や世間の成り立ちを覚えたからだと思っている。
恩は感じている。感謝もしている。
けれど何故彼らは父や母に信之助を任せようとしなかったのだろう。
彼らは皆、「祖父の」親戚だと言う。それ以上は何も語らず、自らの関係を信之助に語るときは必ず祖父を中心にあげた。信之助とて気が付く。
父は彼らの縁者ではなかった。
「父は祖父の戸籍上の息子に過ぎなかったのでしょう」
 恐らくは養子であったと思われます――信之助の胸の内がまるで氷のように溶けては言葉になって零れていく。
「きっとあまり公にはできぬところから父は貰われてきたのでしょう」
 誰も何も語らなかった。徹底された沈黙の中で信之助は教育された。親戚を名乗る人々は父も、そして母も全く信用していなかったのだろう。――今なら分かる。
「母もどこの生まれとも分からぬ娘だったそうで御座います。わざわざ一度、どこかの武家に養女として入ってから父の妻になったと聞いたことが御座います」
 そうやってこの世の仕組みに粛々と従いながら、それでも異物として扱われ続けた夫婦だった。
「秩序を乱す可能性があると認識されたが最後、人は生涯監視され続けるものだと知りました」
父と母は不幸だったのか。それでも幸福だったのか。
 父が剣の腕を磨き、探索方のお役目に忠実に在り続けたのは、そんな世間への忠義を示す為だったのか。
それとも見せつけるためだったのか。
「……それも一つの反抗だったのかもしれません」
 なんと虚しく、そして悲しく、けれど正しい選択だったのか

雨が降る。
静かに、ただ天から落ちて土に浸み込むだけの秩序に、忠実に従い続ける。
 
信之助の脳裏にもう何年も前の記憶が蘇る。男の筆から溢れる墨が呼び起こしたのか。それとも雨の隙間に見えたのか。記憶の破片が結びつく。
 父の裸の背中が信之助の目の前にある。きっと井戸で体を拭いているのを偶然見たのだろう。千年の時を経た巌のように頑丈な背中だった。
けれどその背中には大きな刀傷があった。
深く、そして途方もなく古い十字傷だった。体が成長するたびに傷も広がっていったのか。背中を両断する袈裟懸けの一刀を二つ、父は背負い続けていた。
それはまるで罪の烙印のようだった。
背負わされた罪はひどく重かったろう。辛かったろうに苦しかったろうに。けれど父は何も言わず、ただ黙し続けた。
信之助は手に、母は足に、父は背に、それぞれの業を背負って生き続けていた。唯一自由だった桜は秩序の籠に閉じ込められてしまった。そうやって傷をかすがいにしながら罪を確認しあって生きていくしかない家だった。
なぜ父は信之助を疎んでいたのか。母はそんな父の本心を知っていたのだろうか。それでも父を恨むなと母は信之助に訴える。
誰も理由を言わない。きっと入り組んだ感情は言葉にもできず、心の底に蟠っては沈んでとぐろを巻いていくしかないのだろう。
この世には聞いてはならぬことが多く、知らぬ方が幸福なことが多すぎた。だから嘘も憎しみもわだかまりも、全て封をしてしまいこんでしまうのが一番だった。
 けれどきっと失ったふりを続けられた記憶ほど醜悪に腐敗していくものもない。
「いつか必ずその臭気は魔を呼び寄せ、罰を引き寄せます」
 私はそれを身を以て知りました――信之助の背後で誰かの記憶が蹲って呻いていた。

滴る雨はどこまでも冷たくて、そして心を抉ってくる。土に深く埋めた思い出したくもない過去を掘り出してくる。

信之助の目の前に腰の曲がった小さな老婆が座っている。年齢は七十をとうに越え、皺で隆起した顔はまるで無数の糸で締めあげられているようだ。摘まめばきっとずるりと頭皮ごと剥ける。
スリで食い繋いできた女で、寄る年波には勝てなかったのかつまらぬ失敗でお縄になった。普通なら番所で叱りを入れて終わる程度のことだがそれなりに名の通った女スリだったらしい。
殆ど歯も抜け落ちて、何を言っているのかはっきり聞き取れないような老婆だが野放しにするわけにもいかぬと判断されたようだ。世の暗いところを生きてきた人間の最期を飼い殺すのも悪くないと思った連中がいたのかもしれない。
 女の歯を失った口は落ち窪み、顎が異様に突き出している。それでも細い皺を無数に刻んだ皮膚の隙間から覗く眼球は鋭い瞳孔で二分されており、女の頭は未だ老いきっていないことをはっきりと示していた。
女の目が信之助を捕える。笑ったのか――丸められて打ち捨てられた半紙のような顔が更に皺くちゃになった。
 まるで蛇のように陰湿で、針よりも細い眼球が、信之助の皮膚を突き破り心の臓をつついてくる。完全に突き刺すことなく甚振ることを楽しむような視線だ。獲物の喉に牙だけを突きつけて涎を垂らす獣のように醜悪な老女は、これまでのどの罪人よりも悪人だった。
老婆の口が含んだ綿を噛むように動く。満足げに、まるで泣く子の為に月でも手に入れたかのように。
『ア、ンタ……』
一つ、そして一つ、丁寧にそして確実に老婆は言葉を吐き出していく。
 アンタはあたしの息子によく似ているねエ……
信之助の背が凍る。座る畳から無数の手が這い出してきて信之助に縋り付いては膝を縫い止めていく気がした――よく覚えている。
アンタのその手の痕、まるで蝶みたいだねえ……
老婆の枯れた指が信之助の右手の甲を指してくる。思わず左手で覆い隠したが遅かった。

ウチの家の男は皆、体のどこかにそんな痣を作って生まれてくるんだよ

その日はどこまでも分厚い雲が空を覆っていて、光の一粒すら見えなかった。

「結局、その老婆はほどなく牢の中で死にました」
 雨が老婆の目のように思えてくる。信之助は顔を伏せた。男の滑らせる筆の音があの時の自分の筆と重なった。
「死に顔はひどく満足げで、もうこの世になんの未練もないといった風だったといいます。罪に罪を重ねてそれを問われることもなく生きてきた根からの悪人で御座いました」
 雨が土を穿つ。人の過去も死体もきっと掘り返す。秘密は秘められたままではいられない。
「死期の迫った女が最期を賭した嘘であり、出任せだと思えればどれだけ良かったか。そうやって思い込んでいれば、きっと今まで通りこれからも生きていけたでしょうに」
 雨が這いずる。地を抉り、土砂を撒き散らして、樹皮を穿つ。
男の筆が蠢いては文字が紙の上でのた打ち回る。墨は何よりも正直にこの世の全てをその細部に至るまで活写して、感情の濁りも澱みもしこりも捩じれすら全て暴いてくる。
 生きていけたでしょうに――信之助は繰り返す。男の眼が心の内側から信之助を見つめている。
「母も、父も」
 そして私も――信之助は額に手をやる。冷たい指の先に心の底まで冷えた。
「信之助殿」
 男の視線が手首をつたい痣で止まる。蝶の羽は凍りついて飛ぶ術すらもう忘れてしまった。
「もう一度聞きますよ」
 霞む世界は亡霊にも等しく、けれど此処は死しても逃れられぬ霧の牢獄だった。
「貴方は、人を殺しましたね」
 雨はどこまでも無情で、救済すら用意してくれなかった。

「私は……」
 言葉すら凍てついて、ただ音の塊が零れ出しただけだった。

 心をなぞった老婆の指は毒を孕んでいたのか。
気が付かなければよかった。知ろうなどと思うべきではなかった。
信之助に罪があるとすれば、それは無知でいようとしなかったことだった。
 誰もが黙して語らず秘して噤んだ隠された罪を暴こうとしたことそ信之助の罪だった。
誰も幸せにならぬと分かっていた筈だった。分かってはいたが悟ってはいなかった。理解もきっとしていなかった。だから天井まで積み上げられた覚書をひっくり返し、言葉と文字の間を彷徨いながら一つ、またひとつと罪の梯子を上っていった。
 乾いた墨の匂いに噎せ返り、眠っていた年月を象徴するような埃に咳き込んで、記憶と記録によって積み上げられた罪と罰の歴史を必死に辿った。何が信之助を突き動かしたのかは今でも分からない。
頁を捲るたびに皮を引き摺るように老いた老婆が窪んだ口で何かを語りかけてくる。
――本当は知りたかったのだろうと。
アンタは本当は理由を欲していたんだよ。父親に疎まれる理由を欲し、憎まれる訳を欲し、母親の足に刻まれた傷痕の意味を欲していたんだよ。
――信之助は眉間に皺を寄せる。結局、人は意味も価値もない「理由」を知りたがる。訳を欲して身勝手に納得したがる。それが幸福へ至るとは限らないのに。
老婆が嗤う。破れた半紙のような貌で嗤う。
痣が疼いて仕方がない。爛れた皮膚はもうこれ以上治ることはない。そんな事は分かっているのにどうして悟れないのか。
アンタは望んでいたんだ――老婆の拉げた声が天井から降り注いでは信之助を押し潰してくる。錐のように細い瞳孔が心の奥まで抉ってくる。
そう。信之助は望んでいた。蝶の羽が空に広がる時を。父という呪縛を越えて再び息を吹き返す時を欲していた。

母のように天を仰ぎ、妹を迎えに行く羽を求めていた。

枯れた指の感触が痣をなぞった。
――思わず手にしていた覚書を取り落す。
老婆の嗤い声だと思っていたものは信之助が捲る覚書の音だった。

 雨が鳴る。庵の屋根を打ちならしては通り過ぎていく。
「この痣は私を苦しめると、そう母は言いました」
 信之助は痣を撫でる。熱もなければ痛みもなかった。
「けれど父を憎んではならぬと、そうも言っておりました」 
 私は罪を犯した――あの時、母は確かにそう言った。
「この痣はきっと母の罪の証であり、父の罪そのものでもあるのでしょう」
 罪の烙印を刻まれていたのは父ではなく信之助だった。
「だからこの痣の由縁さえ分かればきっと……」
 湿った土を孕んだ雨の匂いはひどく苦くて、思わず噎せ返る。
「きっと私は解放されるのだと」
 そう思っておりました――雨の音はどこまでも遠かった。
土を弾く雨だれが桜の足音に変わる。
 溢れる髪のひとすじが零す艶の瞬きも、ひるがえる衣の軽やかさも、その円らな瞳が零した涙の痕さえ、信之助は覚えている。
 限りなく純粋で果てしなく無垢な少女の一瞬に、罪もなければ罰もなかった。籠の中で輝ける存在ではなかった。
最後の夜にどうして引き止めなかったのかと信之助は幾度も後悔した。その度に痣は疼いて罪を主張する。お前のせいだと囁いて、お前ごときが何を言うと嘲り嗤う。
 理由も分からぬ罪ほど重く、訳も知らぬ業ほど深いものはなかった。
 雨が沈んでいく。土はもう泥濘へと変わり、囚人の足枷にしかならない。
「けれど刻み込まれた罪は永遠に罰せられ続ける」
 解放などありえないことは信之助が一番よく知っている筈だった。記録された罪はその記録の中で罰を受け続ける。人の牢獄を作るのはいつだって人だった。
 細い雨が霧を呼び、男の輪郭を滲ませては霞ませていく。
「赦されるはずなどなかった。私も父も母も」
 筆の先から溢れる言葉の羅列が信之助を縛る鎖であり、牢獄の檻だった。
 筆の先から僅かに墨が溢れて斑を作る。黒く滲んで垂れていく墨の先が赤く染まったと思えば母が流した血に変わった。
 命を吸い込んで脈を打つ血の花が母の胸に溢れていく。痩せ細り、天を仰いでいた頃の面影すら喪った母の隣にいたのは父だった。――

 雨に打たれ冷たくなった手首が泥に沈んでいく。失った体を探しては彷徨った手首に抗う力などどこにもなく、一欠けらの祈りに縋ることすらしなかった。
「あの手首は……」
 母のものだったのでしょう――信之助は僅かに庭を見つめた。
 
祈るための腕もなければ指さえも母は持っていなかった。
母の右手は手首から斬り落とされ、胸に横たえられた切口から澱みなく溢れる血が母を赤く飾っていた。
その花弁を持たぬ花が最期の手向けなのか。それとも最期の罰で罪だったのか。
降る雨すら赤く染まって、泥は誰も悼まない。
もう脈も打たぬ母の手首を持って、がらんどうの部屋に佇むのは父だった。
「母は父に殺されました」
 雨はどれだけ人間を憂いても、欠片ほどの慈悲も与えなかった。

 悪かったと――母の葬儀で父は信之助に謝った。
 母を殺したことを謝ったのか。
母を殺めたことを悔いたのか。
それとも母が赦してくれることを祈ったのか。
「それも、もう分かりません」
 この庵を濡らす雨はあの時の雨なのだろうか。それならば人の胸の内も教えてはくれないか。
「父もすぐに死んでしまいましたから」
父も母も、信之助が自らの痣の由縁について調べていることに気が付いていた。
「気が付いたからこそ互いに死を選んだのだと思っております」
 男の眼が霧となって信之助の心の狭間を覗き込んでくる。
「貴方はもう彼らの罪に気が付いていると。貴方の痣に込められた業を知っているというわけで御座いますね」
 信之助は小さく頷いた。
「私は父の子ではありませんでした」
 
あの日の雨は心に浸みるほど冷たかった。今思えば母の涙だったのかもしれない。

「この蝶が飛べる日など来るわけがなかった」
 信之助は手を目の前に翳す。爛れた蝶はひどく無様で飛ぶ術すら覚えていなかった。
「罪人の血を持つ人間がどうして空を求めたのか。お恥ずかしい限りで御座います」
 どれだけ手を伸ばしても蝶は空に届かず、天を乞うこともない。ぶらりと垂れ下がって地を見つめるのが似合っていた。
「雨に虐げられ、星も見上げることなく泥だけを知っていれば不幸であることにも気が付かず幸福だったでしょうに」
 求めてはならぬものを求めてしまうから、人はいつまでたっても満たされない。
雨が泥を穿つ。
「母は罪人に犯され、私をもうけました」
 ――探索方だった父が嘗て縄をかけた下手人の中に遠島になった男がいた。それがあの老婆の息子だった。
「女スリに育てられた上に遠島になるような男が黙って島暮らしをする筈が御座いません」
 どういう手段を用いたのかは分からないが島を抜け出した男は真っ直ぐに父の元へと向かった。
恨みは深く、憎しみは殺意へと挿げかわる。命を賭けて島を抜け出さなければならぬほど父を恨んでいたのか。それとも生きたまま屍にならぬための手段としての殺意だったのか。それももう分からない。
「父が在宅かどうかも確かめず押し入ったくらいで御座います。憎悪というにはひどく幼稚なものでしょう」
 犯す罪に理由などなく、報いに都合などなかった。
 たまたま一人で留守を守っていた母が犠牲になった。足の腱を切られ、逃げ出すこともかなわぬまま犯された。
結局男は帰ってきた父に一刀で斬り伏せられた。なんと愚かだ。なんて無様だ。生きたことになんの価値もなく、その命になんの意味もなかった。斬られて露わとなった腹に浮かぶ蝶の痣だけが、男の恨みが父に報いた最期の一太刀だった。
母が歩けないのは信之助が生まれたからだと父は言った。信之助を見るたびに、父は母を守れなかった事実を突きつけられる。母が杖をつくたびに信之助を疎ましく思い。自分の罪を何度も思い知らされる。
信之助の右手の痣が男のことを思い出させると、火箸で焼いたのも父だった。それでも痣は火傷の痕に変わっただけだった。
「……仕方がないことで御座います」
 焼かれた蝶は死ぬこともできず、更に醜い形に生まれ変わっただけだった。
「気持ちの整理をつけられるほど父は器用ではありませんでした。これ以上疎まぬよう憎まぬよう……そして傷つけぬよう私から距離を置くのが精一杯だったのでしょう」
それをどうして責めれようか。不器用だと嗤えようか。
「そんな愛し方しかできぬ親もおります」
 蝶は羽ばたき方すら忘れてしまって、永遠に感情に苛まれ続けて地に縫い止められていく。雨に濡れた羽は重すぎて、火に焼かれた体は内臓すら溶け消えた。
「けれど貴方のご両親は貴方を捨てて死を選んだ。そこに愛はあったのでしょうか」
 男の眼がうっすらと細められる。雨露の一欠けらも逃さず、人の矛盾する感情の一筋すら男は追及し断罪するというのか。
「私が真実を知ることが恐ろしかったのかも御座いません。子から断罪される前に自分たちの手で贖いたかったのかもしれません」
 それは愛というにはひどく愚かなものだったのかもしれない。
「母が自らを罪人だと言ったのは、父がいながらにして罪人の慰みものになったからでしょう」
 それでも母は信之助を生んだことは決して罪でないと言い切った。
「それだけは真実だった」
 降る雨は牢の格子なのか。こうやって閉じ込められた狭い空間の中で人は罪を悔いては罰で贖っていく。拙い感情を振り回して愚かな罪人となっていく。
「母は自らの罪が露わとなる前に父に罰を求め、父は自ら罪人となる道を選びました。そうやって罪を分け合いながら死ぬことこそ二人の唯一の安寧だったのかもしれません」
 背中に十字の傷を背負い、世間から疎まれながらも探索方として生きねばならなかった父は誰よりも罪を憎み、罰を欲していたのかもしれない。それを母はずっと知っていたのだ。
 罪と罰に翻弄され、断罪こそ救済だと思う人生はひどく暗く、そして冷たいものだ。そんな世界で母だけが父の光だった。分厚い雨雲の狭間からほんの僅か覗く日差しだったのだろう。
「母は父に断罪されることを望み、また父は母を罪とすることで自らの光を閉ざしました」
 そうやって罪を共有し、互いに罰を与え合うことで赦されたつもりになっていたのだろう。手を取りあえた気になっていたのだろう。
「あの二人は互いに深く想いあっておりましたから」

 天から見放された雨はどこまでも冷たかった。

「貴方はそれで良いのでしょうか」
 一筋の光もなく、ただ雨に浸された暗がりから男が信之助を覗き込んでくる。霧となりながら靄と霞み、亡霊よりも覚束ない人の形は誰かであって誰でもない。
「そうやって親からも見放され、それでもそれを愛だと信じていたいのでしょうか」
 信之助は手の甲を見つめる。爛れた皮膚にこびりついた蝶の羽は罪の烙印だった。
「……母の葬儀の直後、父は腹を切りました」
 介錯もなく、ただ母が死んだ部屋で父は自らの腹に刃を突き立てた。
「突き立てた刃に腸が巻き付いたのでしょうか。横一文字に引ききることもできずにおりました」
 信之助が部屋の襖を開けた時、父は未だ死にきれずにいた。
「別段驚きはしませんでした。母の葬儀から予感はしておりましたから」
 ああ、やっぱりな――ひどく冷めた頭で信之助は蠢く父の体をその背から見つめる。喉を掻き毟るような喘鳴は土を穿つ雨なのか。自らの墓を掘り続けているのか。
 溢れ出す血は脈を打ち、けれど内臓を引き千切ることすらできぬ刃に父はどれだけ絶望しただろう。それを自らの失態と嘆くのか、それも罰と受け止めたのか。信之助には分からない。
「それが父の望んだ道ならばどうして私が止めれましょうか。私はこの存在そのものが罪なのですから」
 そう、信之助自身が罪なのだ――それに気が付いた瞬間、信之助の脳裏に浮かんだのは父の救済でもなければ母の死に顔でもなく、涙に濡れながらも微笑む桜の顔だった。
罪もなければ罰もなく永遠に無垢なまま生き続ける少女の姿だった。
「もし私の出生が世間に知れれば桜はどうなるでしょう」
雨が花となる。土は花弁で埋め尽くされ、幼気な少女が舞うたびに春が芽吹いていく。それでもいつも思い出すのは最後に見た涙の微笑なのだ。
「私はどうなっても構いません。禄を取り上げられようが、野垂れ死のうがそれが天命と受け止めましょう。けれど桜にそんな思いだけはさせたくなかった」
 父の背中が巨大な虫のように蠢いている。呻く声が地を這いずって、信之助の足元を強く揺すぶった。
「母はもう死にました」
 蠢く父の体から溢れだす血は信之助には欠片も流れていない。けれどそこには全ての罪の記憶が孕まされていた。
「父さえ死ねば私の出生を知る者は誰もいなくなる」
 
誰もいなくなる――雨の音が一際大きくなった気がした。
 
崩れ落ちた父の背に突き立てた刀はなかなか抜けなくて、父の体を踏みつけて引っ張ることでようやく引き抜けた。
血が脈を打ちながら噴き出してくる。剥き出しになった腸が溺れ死んだ蚯蚓のように血の海の中に横たわっていた。
首を刎ねる技量など信之助には備わっていなかった。けれど背中から心の臓を一突きにするくらいはできたとみえる。
刀を投げ捨てる。もう鏡としての役割も果たさないただのガラクタだった。
「……」
転がる父の顔を覗いてみればひどく穏やかな顔をしていた。もっと唖然としているか苦悶に切り刻まれているかと思ったが、今まで見た父のどの顔よりも優しくて、そして満たされたものだった。雨に削られては穿たれるしかなかった巌はようやく慈悲を得れたのか。罰せられた罪は救われたのか。
「何処までも憐れで身勝手な男だと、そう思いました」
 雨は記憶を洗い流してはくれない。感情は積み重なっては泥に沈みこんでいつまでも渦を巻く。
「けれどこれで私のことを知る人間は誰もいない」
 信之助は少しだけ微笑む。雨にすら負けて、霧にも攫われるだろうか細い微笑だった。
「私以外は――……」
 断たれるべき罪はたった一つだった。

 雨の中に母の手首が沈んでいく。もう天を仰ぐこともできず、土の暗がりにしか戻れない憐れな末路だった。

「私は、父を殺したのか。それとも罰したのか」
 私の罪は私自身であり父への贖いではない――信之助の言葉を男の筆が掬い取っていく。
「よく分かりません」
 誰かが教えてくれるとも思わない――雨が遠くで鳴り響く。誰の涙も拭わぬまま、ただこの世を責め続けては喚いている。
「けれどここで私がいなくなれば、桜を脅かすものはきっと無くなります。孤児にしてしまうことには心が痛みますが、きっと祖父の親戚らがどうにかしてくれるでしょう」
 罪人は信之助だけだった。粛清されるべきは信之助で、贖うべき咎を抱えているのも信之助だけだった。
分厚い雲に光は遮られて行く末ももう見えない。これが終わりだった。ここで終わりだった。――
雨の中を低い笑い声が這いずってくる。
「そうやって貴方は自らの罪から逃げ出そうとしている」
 男が嗤い続ける。霧を纏い靄を羽織り、雨を統べながら空白の時間を揺蕩い続ける男が信之助の罪を記して嗤う。
「人は牢獄。自覚されない罪を背負い続ける咎人。特に貴方は目に見えるものしか見ようとせず、言葉でしか考えられない限りなく罪深い存在だ」
 手の甲に刻まれた痣が疼く。羽ばたきを忘れた蝶の嘆きか。それとも果たされぬまま朽ちた憎悪への憐憫か。
「貴方は罪ではないとお母上ははっきりと仰ったそうじゃありませんか」
 なぜそれを疑うのでしょう――男は記憶を辿り、感情を読み解いていく。その裏側に隠された真実を解しては露わにしていく。
「貴方の罪は存在ではない。貴方の罪は目には見えぬところにある人間の根源ともいえる場所にある」 
 男の眼が歪んでは崩れていく。実体なき微笑はこの世のいかなる場所にも蔓延る無数の眼球だ。人の内側から人を食い破り、この世の真実の全てを暴いては記録していく。
 人は牢獄。雨は人を閉じ込めては罰していく。その孕んだ記憶を突きつけて感情まで攫っていくというのか。
「自分が死ねば妹は救われると。それで罪は贖われたと。本当にそう思っているのなら実に下らない。ああ下らない」
 男はひどく楽しそうだ。絶望が男の糧なのか。それとも失望が贄なのか。男は記憶を通じて人を観察する。その不確定の存在と不安定な実体のままこの世を雨と共に穿っては嗤い続ける。
それが人だ。それがこの世だ。
 誰もいないのに障子が閉まる。
雨の音が遮断され、月ひとつない夜よりも深い暗がりへとがらんどうの部屋が落ちていく。
それでも男の姿だけがはっきりと見える。雨が生んだ霧を纏い、溢れる墨で人の業を記しては弄ぶ存在が信之助を見つめてくる。
「そんな実にくだらないものと無自覚な嘘の積み重ねでこの世は成立していく」
 嘆かわしい。実に嘆かわしい――男が顔を手で覆って嗤う。吊り上った唇から僅かの覗いた歯は一体何を咀嚼して生きてきたのだろう。
「さあ、教えてあげましょう」
 指の隙間から男の眼が歪みながら這い出してくる。
「貴方の本当の罪を」

 沈黙した世界がひとつ、脈を打った。

 五

部屋が脈を打っている。壁が蠢き、畳が律動を繰り返す。部屋全体が意思を持っているようだった。
生きている――信之助は悟る。
この部屋は生きている。部屋だけではなくこの庵全体が意思を持った生き物なのだ。
「ここは生きた記憶が宿る場所」
 目の前に座る男の輪郭がぐにゃりと歪んだ。まるで海の底をさらう渦のようだ。そうやっていくつもの記憶を検索しては語って、人の形を模していたというのか。
一つ気が付けば、また一つ視えてくる。
 雨の音かと思えば波が岩を穿つ音だった。潮の匂いが押し寄せてくる。
閉め切られた障子に無数の魚の影が浮かんだ。
「貴方は自分の目の前に現れるものしか視えない。この世にはこんなに多くの記憶が混在しては互いにすれ違っているというのに」
 巨大な鯨が悠々と障子の向こうを泳いでいく。影しか見えぬ姿は見せぬ。けれど確かに障子の向こう側は海だ。それも信之助が見たこともないほど遠く、そして旧い海が広がっている。
「現在は常に未来と繋がっているが、同時に過去とも遭遇する。そうやって何度もすれ違っては離れて、幾度となく円を描いては果てしのない先へと続いていく」
 何かが信之助の胸を背後から貫いてくる。鈍い衝撃が僅かに体に響き、肋骨が膨らんだと思えば巨大な獣の影が信之助の内部から生まれ、通り抜けていった。
揺れる鬣の影が雨の粒を弾く。獅子か、それとも麒麟か。姿も分からなければ名前も分からぬ動物が信之助とすれ違う。
 出逢っては離れる。離れては巡りあう。
遠くに響くのは馬の嘶きか蹄の音か。群衆の歓声が雨だれの向こう側で湧き上がったと思えば、刃が肉を断つ音が鈍く聞こえた。
「貴方に分かりますか」
血の臭いが鼻を突く。飛び散った臓腑の感触が膝に広がる。それは父の肉か母の血か。
父の背中を貫いたときの感触が手のひらの上に蘇る。焼けて潰れた蝶の羽が疼いた。
過ぎ去った筈の獣の影がこちらを振り返った気がした。
誰かがいるのではない。――信之助はようやく気が付く。
何かが起こっているのだ。
刃が背をつたっていく。花が開いたと思えば血が噴き出した。
 誰かの経験が、何かの行動が、がらんどうの部屋に行き交っている。時も関係なく、場所も隔てた複数の歴史が同時に渦を巻いている。
「此処は無数の記憶が集まる場所」
 男の声が頭に直接響いてきた。襖に無数の目が並んだと思えば、畳にも広がっていく。
「黴の生えた歴史から忘れ去られた存在まで、この世のありとあらゆる出来事が記述され、蒐集されていく場所で御座います」
 無数の眼の内側にどこかの誰かの記憶が歴史となって映し出されている。男は無数の眼球でもって無限を知っているということか。
霧が渦巻き、記憶を孕んだ粒子が集まって男の輪郭を再び生み出す。筆は無限の色彩を生み出す墨を含んで白い紙には永遠にも等しい記録が誰も知らぬ複数の真実と共に記されている。
「人間は誰もが罪の小匣で懺悔しか赦されない密室。けれど此処は違う」
 男の声が少し裏返ったと思えばひどく若い声になる。その背後で子供の笑い声が響いてくる。
「此処は何処にでもあり、何処でもない場所。この世の何処とも交わらぬままこの世の全てを知っている場所」
 幼子であり老人。愚者であり賢者。一でありながら全となり、ただ人間の感情を記録し続けるだけの存在に顔などなく実態もない。
「秩序と無秩序が行き交う混沌の縁とでも言えるでしょうか」
 男の言っていることの欠片も信之助には分からない。
いつしか襖は再び開け放され、雨の音は蘇っていた。
「貴方の罪は目に見えぬ、それ故に根源的なもの」
 男の机の上にはいつの間にか匣が一つ置かれていた。直方体の、一尺ほどの高さの匣だ。
いやだ――直感的に信之助は悟る。
「やめてください」
 思わず溢れ出した声は震えていた。雨だと思ったのは自分の歯が鳴る音だった。
痣が疼く。羽を焼かれた蝶が悶えている。
「貴方の罪は人故にそれ故に、人の冒涜ともいえるもの」
 男が匣の蓋を開ける。
やめてくれと叫ぶ声も雨に攫われて、土に喰われていく。
男の手が匣の中に入れられる。徐々に匣の中身が露わとなっていく。
見たくない。見たくない。知りたくない。気が付きたくない。
懇願すら届かない。喚こうが泣こうが真実は変わらないと誰かが耳元で囁いてくる。
顔を伏せることすら許されない。誰かが信之助の背後から頬を掴んで顔を正面に向けてくる。臆するなと。真実を見つめろと。
罪を自覚しろと。
「これが貴方の妹君でしょう?」
 微笑む男の手に抱かれるのは一体の人形だった。

それはただの一人遊びだったのかもしれない。
最初は夢の中の出来事だったのかもしれない。

傘を被って花の枝を携えた人形は家の片隅にずっと置かれていたものだった。
誰が買ったものか分からない。誰がこしらえたものかす分からない。物心ついた時から視界の端にちらついては消える人形だった。
「どれだけ見事な人形だと思えば、あまり大したものではありませんね」
 男が人形の頬を撫でる。埃が溜まっていたのか男の指がつたったところだけ生白い肌が露わとなった。人形は顔色一つ変えはしない。
「父親からは疎まれて、母親には罪の意識を植え付けられた貴方は新たな家族を欲した。限りなく愛らしく、果てしなく従順で無垢な少女(おとめ)を欲した」
 それはただの一人遊びだったのかもしれない。
最初は夢の中の出来事だったのかもしれない。
「けれど夢はいつしか現実に挿げ替えられて、父親との溝が深まるにつれて妄想の妹は現実感を伴い始める。決して実現しない貴方の妄想は貴方の世界の事実となる」
 気が付いていたのでしょう。知っていたのでしょう。
人形に頬を寄せる男がほくそ笑む。愚かだと嗤うのか。それとも憐れだと慰めるのか。
「貴方に妹などいない」
 
貴方のご両親は貴方が生まれるまでずっと子供ができなかったのですから――幸福は全て妄想。現実は常に非情。

雨が心を穿ってくる。傷を隠した薄皮を剥がしては浸み込んでくる。
ああ、誰も救われない。何も報われない。
「貴方はいもしない妹への思慕に囚われて、父親を殺害した」
 男が人形を掲げて仰ぎ見る。踊る少女の一瞬を切り取った人形は何も言わず何も見えていない。ただの土塊だ。
「それが私の罪だと、そう仰るのですか」
 男の唇が吊り上った。人形は瞬き一つしない。ただ拭われた埃の痕だけが涙の流れた後のようだった。
「まさか」
 雨が音をたてて土を食らう。
「まだ気が付きませんか。貴方の罪に」
 
花は咲かない。雨に萎れて根まで腐ってしまった。

 無垢な少女は出来損ないの土塊でしかなく、物言わぬ骸よりも冷たくて脆い。
 根源的で人間的がゆえに冒涜でしかない罪――男が囁いてくる。流れるように溢れて擦り切れては千切れていた墨すら呼吸を潜めていた。
「この人形の顔、誰かに似ていませんか」
 男の指が人形の荒い睫毛をすくう。質問を変えましょうか――男が薄く嗤う。
「貴方は誰に似ていると思って、この人形を見ていましたか」
 ひるがえる袖。少し天を仰ぐように上げられた顎。
「粗ばかりが目立つ人形がゆえに貴方の妄想を受け入れる器となりやすかった」
 貴方はこの器に誰を注ぎ込ましたか――雨が世界を裂いていく。
一瞬を切り取られているが故に無限を知る人形だった。人よりも短い時間を生きるしかないが故に永遠を知る人だった。
天を仰ぐそのまなざしはこの世ではない違う世界を見つめている。歩くことすらままならない足だというのに、その心は誰よりも軽やかだった。
 雨が蠢く。世界がぐるりと捩じれて引き千切れた。
「そうですよ」
 男の嗤いをこらえたような声が忍び寄ってくる。痣が疼いては骨ごと抉ってくる。
「貴方はずっとお母上を――」
 男の言葉は雨に飲み干されて地中で蠢いた。
 
 母も嘗ては子と一体――男の言葉が蘇ってくる。部屋に渦巻く記憶が雨に呼び起こされて反復されていくのか。
寄せては返す記憶の波の底で誰かが呻いている。
父の末期の声か。腹を切り損ねて苦痛に蹲る父を信之助はじっと見つめる。
――けれどいつか子は己が母でないことを知る。母も子が自身でないことを理解する。こんなことは繰り返される普遍。人の世の常であり人が誰もが通る一つの儀式――ああ……男の声が頭に響いてくる。
苦悶に痙攣する父の体が無防備に信之助の前に差し出される。
けれど普遍あるがゆえに人間の根源に結びつく性質は悲劇を生みやすい――母は父に断罪されることを望み、父は母によって罪人となりたがっていた。
罪を共有し、互いに罰を与え合うことで赦されたつもりになりながらお互いに深く想いあっている愚かな二人だった。
けれどそれも愛だった。
信之助に注がれる愛よりも遥かに深くて、そして確かな人の情だった。
父の背が目の前にある。がらんどうの部屋の中で母を殺した男が罰を欲してる。
 嘗ては一つだったものが二つに分かれるのですから互いに相手を求めるのは当然でしょう――母の手が信之助の顔を撫でていく。ああ良かったと、あの時確かに母は言った。涙の痕を頬に残して信之助に微笑んでくれた。
 誰かが喘ぐ。母を殺した男の声だ。未だこの男の罪は裁かれないというのか。腹を切ることも禄にできず、無様に転がるしかない男は母の為に死を選ぶというか。
けれどそんな事は道理にそぐわない――靄にかすみ、雨に浸み込む言葉が溢れては澱む。
記憶の底で信之助が刀の柄を握る。抜いた刃は白々と輝いて、呻く男の背をはっきりと映し出していた。
この男は、この男は――……信之助は刀を構える。
雨が震える。雫が弾けて泥が飛び散った。

何故なら母はすでに父の妻なのですから!!

霧が裂けて視界が開けていく。
荒れる息の音が煩わしいと思えば信之助自身の呼吸だった。内臓が反転したと思えば腹の中身が喉を這い上がってくる。胃液になるまで吐き続けた。
破れた半紙。崩れた人形。硯から零れた墨が畳に波紋を広げていく。
記憶を描くことも感情を記録することすらもうできまい。
墨と混じって赤黒く濁った血の中で男が事切れていた。父の呻き声だと思っていたのは男の断末魔だったのか。――ああ、もうそれも分からない。
信之助は刀を手放す。血が弾ける音が遠くに聞こえたと思ったがそれは雨の音だった。
「……」
 信之助の手が人形を拾う。捩じれた首を元に戻し、血の海に飛び散った手足を拾っては繋いでいく。一つひとつ確かめるように、失った時を埋めていくように、信之助は人形をもう一度作り直していく。
右手の手首だけは何処を探しても見つからなかった。
それでも信之助は満足そうだった。
人形を見つめる信之助の顔に笑みが浮かぶ。
「迎えに来たよ」
 細い雨が静かに地を濡らしていく。
右手を失った人形をしっかりと胸に抱き、信之助は庵を後にする。男の骸に一瞥の哀悼も捧げぬまま、血みどろの信之助の姿は霧の向こう側へと溶けるように消えていった。
後には足跡すら残らなかった。





音もなく、けれど確かに雨が降る。濡れる庭は霧に煙り、湿る土は雨だれに沈んでいく。靄のかかった庭の端には小さな井戸があり、その脇には二本の葦が揺れていた。
その根は霧に霞んで見えない。
(まるで亡霊のようだ)
――そう思えば右手の甲に刻まれた痣が僅かに疼いた。
 白い手首が土を這う。
時々振り返るように指が曲がっては止まぬ雨を仰いだ。細い雨に土はぬかるみ、茂る葉が(こうべ)を垂らす。
「喪った体をね……。探しているんですよ」 
 ああやって、ずうっと――庵の主人が雨よりも優しく微笑んだ。

懺悔の密室

懺悔の密室

  • 小説
  • 中編
  • 時代・歴史
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-08-12

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