マンドレーク家の双子

雨宮雨彦


 僕はみんなからハンサムだと言われるが、自分ではよくわからない。だけど僕がやってきたときの村の女の子たちの騒ぎぶりを見れば、そうなのかもしれないという気がする。
 森の中を一人で歩くことが好きだったので、僕は寺子屋に通う道も気にならなかった。
 僕の家は村を離れた一軒家で、少しでも近道をするためにいつも森の小道を突っ切るのだが、それがまったく嫌ではなかったのだ。
 寺子屋は神父が片手間にやっているもので、正式な学校ではもちろんないが、近在にある唯一の教育機関だった。僕も不満には思っていたが、こんな田舎では他にどうしようもなかったんだ。
 森は暗く、頭上はまるで天井のように葉や枝でおおわれている。道は狭く、人や馬が行くギリギリの幅しかない。
 どういうわけかこの日、僕は雨具を忘れて寺子屋へ出かけていた。あの季節は雨が多く、長靴やレインコートなしではとても歩けないのだが、授業が終わったあと、降り始めないうちにと急いで歩いてきたのに、森の中ほどでとうとう雨につかまってしまった。
 仕方がないので、大岩の下に避難することにした。道の途中に大入道のように空に張り出した岩があり、その下なら雨に当たらずにすんだのだ。
 といっても、まわりはみなびしょぬれで、座ることすらできなかった。
 ここで雨がやむのを待つしかなかったが、すでに体はすっかり濡れ、いくらもたたないうちにガタガタと震え始めるに違いなかった。マイカに出会ったのは、そのときのことだった。
 マイカという女のことは、以前から噂で聞いていた。森を歩くのなら気をつけろ、とも言われていた。
 廃墟も同然の城に住み、何をするでもなく幽霊のように森の中や、無人の荒地をさまよっているらしい。
 迷信深い連中は、マイカの姿を見かけるだけで十字を切ることさえあった。
 そのマイカが馬に乗って不意に現れ、大岩の下にいる僕の目の前を通り過ぎていったんだ。
 もちろんマイカも馬も雨を受けていたが、どちらも分厚い布をかぶり、体が濡れることを防いでいる。
 マイカは少しうつむいている。だが馬は何も感じないらしく、泥の上を平気で歩いていた。
 僕の存在に最初に気づいたのは馬だった。大きな黒い瞳で目に留め、ほんの少し歩調をゆるめてブルルと鳴いたが、背中の上の女主人に伝えるには、それで十分だった。
 マイカが顔を上げ、こちらを見つめたようだった。
 でもマイカの顔は見えなかった。それが雨よけの布のせいではないことがわかるのに、時間はかからなかった。
 雨よけ布がなくても、彼女の顔は見ることができなかったに違いない。マイカが濃いベールで常に顔を隠しているということを、僕は思い出したのだ。
 マイカの容貌について話すとき、村人たちはいつもひそひそと声を潜めた。いわく、子供のころマイカは顔にひどいケガを負ったらしい。いや、大やけどをしたのだ。いや顔だけでなく、体中に大きな傷を受けたらしいなどなど。
 噂の真偽はともかく、このときもマイカはすっぽりと顔を隠していた。
 そのマイカと出会って、胸がドキンとしなかったといえばウソになる。馬は自然に立ち止まり、次の瞬間にはマイカが口を開いていた。
「今日は寒いわ。そんなところで濡れていては、あなたは風邪をひいてしまうわ」
「だって…」
 マイカの馬は大柄で、その大きな瞳も僕を見つめている。今にも噛み付かれてしまうのではないか、という気がした。
 馬の背中にかけてあった布を手に取り、マイカがポンと投げてよこしたのは、そのときのことだった。
「それをかぶって、私の後ろをついてくるのですよ。城はすぐそこです。服を乾かしてあげましょう」
 返事をしようとしたときには、馬はもう向きを変え始めていた。少し迷ったが、大岩の下を出て、ついていくことにした。
 雨はなかなか降り止まなかった。城が見えてきたのは、水と泥のせいで靴がすっかり重くなり、頭の上に布を押さえておく手もだるくなってきたころだった。木々の間に浮かび上がる城の姿に、僕はとうとう立ち止まってしまった。
 城は黒い石で作られ、ゴツゴツと不器用に地面から突き出している。二重になっている城壁や深い堀など、まるっきり中世のままの感じだ。
 はね橋が渡され、その堀を渡るようになっている。渡りながら気がついたのだが、雨を受けて水面いっぱいに波が立っていた。
 屋根の下へ入るとすぐにメイドが現れ、手を取ってマイカを降ろしてやり、馬を引いてどこかへ姿を消した。ついでに僕の手からも、雨よけの布を受け取っていった。マイカが身振りをするので、僕はついていった。
 決して小さな城ではないのだが、とにかく何もかもが古びていた。服を脱いで裸になり、毛布をかぶって火の前にいるように、と言われた。
 マイカはすぐにどこかへ行ってしまったが、見たこともないほど大きな暖炉がキッチンにあり、イスを借りて、僕はその前に座ったのだ。寒さも体の震えも、すぐに引っ込んでしまった。
 キッチンだから、もちろんコックが出入りした。中年のよく太った女で、スープ鍋をかき混ぜるためにそばへやってきたとき、僕は話しかけた。
「おばさんは、この城で長く働いているの?」
「もう十五年になるね」
「この城には、どういう人が住んでいるの?」
「マイカ様の他にかい?」
「うん」
「マイカ様もお気の毒な方さね。あのお顔のせいで嫁にも行けない。本家からも見捨てられたようなものだね」
「本家って?」
「もちろんマンドレーク家のことさ。あんたも知っているだろう? マイカ様は、あの大金持ち一族の一員なのさ」
「へえ…」
 好奇心を感じ、もっと話を続けたかったが、別の仕事があるようで、コックはやがてどこかへ行ってしまった。
 少しして、すっかり乾いた服が返ってきた。さっきのメイドが運んできてくれたのだが、身振りからこの人は口がきけないのだとわかった。質問することはあきらめ、僕は服を着て、家へと帰った。


 このころから僕は、いろいろと奇妙なことを経験するようになった。
 最初は、寺子屋の帰り道に花が並べられるところから始まった。つまれてきたばかりの新鮮な花が、明らかに人間の手で、僕を迎えるかのように道の両側に飾られているのだ。まるで祭りの日に村の通りを行くちょうちん行列みたいに、森の中に長くずらりと列を作るようになった。
 それが何日か続き、ついには珍しい種類のカブトムシが、細いヒモでもって、木の枝から目立つように釣り下げられるようになった。
 こういうカブトムシがこの森にいるということは聞かされていたが、僕はまだ一度も実物を見たことがなかった。興味をひかれて立ち止まり、しげしげと眺めた。
 だが意味がわからなかったので、カブトムシが自分のものだとは気づかず、ヒモをほどいて持って帰るようなことはしなかった。今から考えれば、森の中に隠れ、贈り主は僕の姿をじっと見ていたに違いない。
 翌朝起き出して、ひどく驚いた。窓の外に、またあのカブトムシがぶら下げてあったんだ。角の形や大きさに見覚えがあり、昨日と同じ虫に違いなかった。
 窓を開け、顔を突き出したが、誰の姿も見えなかった。急いで服を着て外に出ると、足跡を見つけることができた。女の足跡で、窓のそばに来て、カブトムシを結びつけるために爪先立ちした跡まで見つけることができた。
 そこを離れ、足音を忍ばせてその人物が歩いたらしい先には、馬のひづめの跡も見つかった。ひづめはとても大きく、すぐにマイカの馬のことを思い出した。
 あのサイズの馬は、近在には一頭しかいないに違いなかった。


 村祭りが近づいてくると、村の話題はたった一つになった。
『祭りの騎士に選ばれるのは、一体誰だろう』
 祭りの騎士とは、村の少年の中から毎年選ばれ、行事の中心になる。これに選ばれることは村内の人気のバロメーターであり、その年の騎士の名を発表する日が近づくと、男の子はみなそわそわし始めるのだ。
 でも僕はあまり気にしていなかった。村にやってきたばかりの新参者だから、選ばれる可能性は少なかった。
 ところが意外なことが起こった。
 騎士に決まった者の名は教会の壁に張り出されるのだが、それがなんと僕の名だったんだ。友達に聞かされ、走って見にいったが、その通りだった。
 自分の目が信じられないような気までしたが、何度見ても間違いではなかった。
 まわりの連中に冷やかされ、背中をぽんぽんとたたかれ、女の子たちにはキャーキャー言われ、僕は騒がしい一日を過ごすことになった。
 そんな僕を、もう一つの驚きが待っていた。まわりに人がいなくなったところで神父が現れ、僕に耳打ちをしていった。その内容が僕を驚かせたんだ。
 今年の騎士には僕を選べ、という指示を出したのは、あのマイカだったというんだ。
 この村は何世紀も昔からマンドレーク家の領地であり、かつては法的なもめごとから、男女の結婚許可、死人を埋葬するための墓地の割り当てといったことまで、すべてマンドレーク家が支配していた。
 その名残りが今でも残っていて、『今年の騎士には誰を選ぼう』というとき、村からマイカの城へ使者を出し、その指示を受けるという習慣があった。いつもの年であればマイカは、『そちらのよろしいように』と答えるのに、今年はなぜか違ったらしい。
「今年の騎士には、カイをお選びなさい」
 だから僕の名が教会の壁に張り出されることになったわけだった。
 祭りの準備が始まり、騎士に選ばれた者として、僕が最初の義務を果たす日がやってきた。
 日曜日だったが、身支度をして、朝早く家を出た。言うべきセリフの書かれたメモはポケットの中にあったが、昨夜のうちに頭に入れてしまっていた。
 毎年のことだから、城の人々もよくわかっていて、用意をすませて待ちかまえていた。神父と待ち合わせて一緒に城門をくぐると、あのメイドが待っていて、すぐにマイカのいる場所へ連れていってくれた。
 この城は過去に本当に領主の住まいだったことがあり、そのときの『謁見の広間』が現在でも残っていた。古めかしい大きな玉座があり、それに腰かけていたが、マイカは立ち上がって迎えてくれた。
 もちろんマイカは、いつものように濃いベールで顔を隠していた。あの下にはどんな顔があるのだろう、とチラリと思った。
 広間はガランとして薄暗く、片側にある窓から光が差し込んでいる。玉座のわきに立てかけてある長い剣が、それを受けて輝いていた。
 儀式そのものは簡単だった。マイカの前に進み出て、覚えてきた問答を僕がやってみせるというだけで、本当にすぐにすんだ。まずマイカが言う。
「なんじは誰なるや?」
 僕は答える。
「村はずれに住むカイ」
「何のためにここへ来られた?」
「その剣により祝福を受け、騎士となるため」
 問答がすむと、僕はマイカの前にひざまずき、剣を取って、マイカが僕の肩をぽんぽんとたたくのだ。
 これで儀式は終わるはずだった。人目があるのだから、マイカもめったなことはできない。でも彼女はかなり大胆だったのかもしれない。
 剣で肩をたたくとき、狙いをつけるのに苦労しているふりをして顔を近づけ、マイカはそっとささやいたんだ。小さな声だから、他の人の耳には入らなかっただろう。
「カイ、あなたは私の弟におなりなさい。そうすれば、ちゃんとした学校へ行きたいという願いをかなえてあげましょう。私には、それだけのお金と力があるのですよ」
 数日して祭りは終わり、僕は無事に騎士の役目を果たすことができた。
 ほっとして家に帰った夜のことだったが、今日はおもしろい一日だったなと思いながらベッドに入ると、誰かが窓をコツンコツンとたたく音が聞こえることに気がついた。
 立ち上がってカーテンをどけ、窓をそっと開けてみると、そこにいたのはマイカのメイドだった。メイドは、白い紙に書かれた手紙をそっと差し出したんだ。
 受け取ると、メイドはすぐに身をひるがえした。黒い服を着ているので、その姿はあっという間に見えなくなったが、足音だけはしばらく聞こえていた。
 僕は手紙を開いた。高価なしっかりした紙に、いかにも弾力のある上等なペンで書かれている。女らしく繊細で華やかな文字だが、同時に強い意志も感じられる。
 差出人はもちろんマイカで、城で交わした会話の返答を求めていた。僕に返事を書かせたいらしいが、マイカが指定するその投函方法が変わっていて、むしろ僕は書くべき返事の内容ではなく、投函方法のおもしろさに心を奪われてしまった。
 僕は、マイカに返事を書きたくて仕方がなくなった。
 今から思えば、すべてマイカの計略だったのだろうが、あのときの僕は何も気づいていなかった。僕のような年齢の子供をおもしろがらせ、何かに誘い込むのに、あれほどうまい方法は他にないに違いない。
 次の日曜、僕は一人で村へ出かけた。人目を忍んで、教会の裏の墓地へと入っていった。
 どの墓石を調べるべきかは、すでに教えられていた。約束どおりの位置に、すぐに鳥カゴも見つけることができた。その中には伝書鳩が入っていて、まん丸な目で僕を見つめていた。
 よく人に慣れた鳩なので、足に手紙を結びつけることも簡単だった。空に放すと音を立てて羽ばたき、あっという間に見えなくなってしまった。
 僕とマイカの関係は、こうやって始まったんだ。
 マイカは約束を破らなかった。マイカが突然家を訪ねてきたとき、叔父と叔母はひっくり返りそうなほど驚いていた。
 旧領主の末裔であるだけでなく、マンドレーク家は今でも首都で大きな力を持っているのだから無理もないが、親代わりのこの二人が両目を飛び出させ、金魚のように口をパクパクさせるのを見て、僕は少し気が晴れた。
 僕を引き取るために、マイカがいくら支払ったのかは知らない。
 だが交渉はとんとん拍子に進み、僕は半月後には首都の土を踏んでいた。
 森の中の城は引き払い、マイカも一緒にやってきたが、コックの言ったとおり、マイカは確かにマンドレーク家の一員であり、自分がこれから住むことになる屋敷の大きさを目にして、僕は口をポカンと開けたものだった。
 王宮が新市街へ移転して以来、旧市街はあたかもマンドレーク家の領地であるかのごとくになっていた。
 道幅が狭く、坂の多い不便な町だが、ここがかつて国家の中心であったことは事実なんだ。役所はみな引っ越してしまったものの、今でも工業がさかんで、ここを支配しているマンドレーク家も大した物で、旧市街全体を一つの小王国と考えることだって、それほどばかげてはいなかった。
 僕がさらに驚いたのは、マイカがマンドレーク家の長女であるということだった。
 だから今はまだ元気にしているものの、一家の当主の死後には、相続や跡継ぎという問題が出てくるわけだ。
 マイカにはルクスという妹がおり、マイカが森の奥へ引きこもっていた間は、当然このルクスが家を継ぐものと思われていた。ところがそこへ突然マイカが舞い戻ったので、問題がややこしくなり始めていた。
 でももちろん、そんなことはまったく知らずに、僕は首都へやってきたんだ。
 やってきた直後から、僕の生活は本当に大きく変化した。叔父の家に住んでいた頃には経験しなかったことばかりで、まるで日曜のよそ行きのような洋服を毎日着て、毎食はさすがにマイカが許してくれなかったが、午後のお茶の時間には甘くておいしいお菓子が出るようになった。
 その他、普段の食事の内容だって比べ物にならないし、首都には博物館でも美術館でも、劇場でもなんでもある。小づかいだってもらえ、それ以外にも、マイカ自身が本好きだということもあって、少々値段の張る本であっても、言えばいくらだって買ってもらえるようになった。
 僕は、ちゃんとした学校へも通い始めた。あらかじめマイカは、僕が評判のよい学校に転入できるよう手続きをしておいてくれた。
 学校は旧市街の中心にあり、時代がかった高い塔を備える校舎は石で作られ、暗く寒々しかったが、気にはならなかった。ここは自分が望んでやってきた世界であり、とにかく僕は、田舎や森の奥で埋もれてしまうことが我慢ならなかったんだ。


 数人のともを連れて、ルクスが突然学校の教室へやってきたのは、ある日の午後のことだった。授業中にノックの音がして、思いがけず姿を見せた。
 僕はまったく知らなくて、後で聞かされて驚いたのだが、ルクスはこの学校の『名誉校長』だった。形だけのことだがルクスもマイカも、『名誉なんとか』とか『終身かんとか』というさまざまな称号をあちこちから贈られていたらしい。
 繰り返しになるけれど、彼女たちは旧市街では、本当に王女のような扱いを受けていたんだよ。
 教室へやってきて、ルクスが何をしたと思う? 僕を教室から引っ張り出し、なんと校長室へ連れていったんだ。
 校長の命令だから、逆らうわけにはいかなかった。立ち上がり、廊下に出て、僕はルクスのあとをついていった。
 でもルクスはざっくばらんで、声も怖い調子ではなかった。二人で向かい合ってふかふかなイスに座ると、すぐに口を開いた。
「あなたがカイなのね。森の奥から姉が連れ帰ったことは、町中の噂になっているわ」
「噂って?」
「姉が何を考えているのか、見当がつかないからでしょうね」
「お姉さんって、マイカのことだよね」
「そうよ。あなたはマイカの顔を見たことがないのかしら?」
「いつもベールで隠してるよ。僕は一度も見たことがない。小さいころにひどいケガをしたんだってね」
「いいえ、あなたはマイカの顔をすでに見ているのよ」
「どうして?」
「うふふ、マイカと私は双子なのよ。ベールで隠していなければ、マイカは私とまったく同じ顔をしているはずだわ」
「へえ」
 僕はもう一度ルクスの顔を眺めた。子供らしい遠慮のなさというやつかもしれないね。でもルクスはいやな表情など見せなかった。
「それで校長先生、僕に何の用なの?」
 ルクスは声を立てて笑い始めた。
「用なんてないのよ。ただ町中で噂のあなたの顔を見てみたかっただけ。名誉校長なんて下らない称号だけど、持っていて役に立ったわ」
 ルクスも気がすんだらしい。すぐに僕を教室へ帰らせた。薄暗い廊下を歩いてゆきながら、マイカとルクスがまったく同じ顔をした双子だということを、何回も思い返さないではいられなかった。


 僕の夕食はいつも、マイカと一緒に取ることになっていた。ロウソクで照明され、壁には大きな油絵の飾ってある食堂だが、中央にカーテンのような仕切りが置かれて、互いの顔を見ることはできないようになっている。食事のときだけは、マイカもベールを外した。
 おなかをすかせ、テーブルの前で待っていると、あの口のきけないメイドがドアを開け、マイカが入ってくる。マイカがいつも着飾っていることには、もちろん僕も気がついていた。
 この日もいつものように食べ始めたのだが、昼間ルクスが学校へやってきたことを話したとたん、マイカの様子が変わってしまったのには驚いた。
 その声はとても厳しく、まるで僕を責めるかのようだった。
「カイ、ルクスは何をしに学校へやってきたのです?」
「知らないよ。ただ僕の顔が見たかったからと言ってた」
「あなたの顔?」
「僕のことは町中の噂になってるんだってね。ちっとも知らなかった」
「ええ、その通りです…。でもそのことと、妹がしゃしゃり出てくることとは、まったく関係がないではありませんか」
「僕は知らないよ。ルクスは僕の学校の名誉校長なんでしょ?」
「なんですって? ああそうだった。すっかり忘れていたわ。妹は方々の学校で、その役を引き受けている。ということは、あなたを別の学校へ転校させても無駄だということね。転校していった先の学校でも、きっと妹は名誉校長をしているに違いないわ」
「マイカは校長先生じゃないの?」
「私は違います。この町の文化や芸術、教育は妹の担当です」
「マイカは何の担当なの?」
「私は製鉄所や機械工場、鉱山などですね。あちこちの会社や工場の名誉重役なのですよ」
「お金持ち?」
「ええ」
「でもマイカの担当は固い物ばかりだね。鉄や機械や鉱山なんてさ」
「それが私の仕事なのです」
「ルクスとは双子なんだってね」
「私たちが成人したとき、父はこの町を二つに分けたのです。この町にあるやわらかい物をすべて父は妹に与え、私には固い物ばかりを与えました」
「どうして?」
「さあ、姉妹の性格の違いかもしれません。私と妹にはそうするのがふさわしい、と父は考えたのでしょう。それはそうとカイ、一つ約束をなさい」
「何を?」
「ルクスには二度と会わないことをです。顔を見ても、言葉をかわしてもいけません」
「なんで?」
「それは、あなたが私のものだからです。妹のものではありません。いいですね。約束してくれますね」
 そこまで言われてしまうと、首を縦に振るしかなかった。
 だけどそんなことも、ルクスはまったくお構いなしだった。数日後の学校帰り、道を歩いている僕を待ち伏せていたんだ。
「カイ、今日の学校はすんだの?」
 ルクスがともを連れているのは明らかだった。ルクスのような人が町の中を一人で歩くはずはない。メイドが二人、少し離れたところに立っているのが見えた。
 そこからスタスタとやってきて、ルクスは僕を捕まえたんだ。
「あっルクス…」
 ルクスはにっこりした。
「そうよ。今日は校長先生なんて呼ばないでね」
「あのねルクス、マイカが怒って、もうルクスとは会わないと約束させられた。口をきくのもだめだって」
「あはは、いかにも姉らしい言い草だわ。それは私も知っているのよ。姉はアリシアに持たせて、手紙を送ってきたもの」
「アリシアって?」
「姉には口のきけないメイドがいるでしょう? あの人よ。『もうカイには近づくな。いっさい口をきくな』と姉は書いてよこしたわ」
「それに返事を書いたの?」
「まさか。姉の手紙なんか、すぐに丸めてポイと捨てたわ」
「マイカが怒るよ」
「怒っても構わないもの。怖くなんかないもの」
「僕は怒られる」
「そうね、あなたのことを考えなくてはならないわね。じゃあ、こうしましょう。私が道路を歩くことまでは、姉も禁止できないわ。歩きながら私は勝手に独り言を言うから、あなたは黙って聞いていなさい。ただ耳で聞くだけで、返事さえしなければ、あなたは私と話したことにならないわ。
 これなら姉との約束を破ったことにはならない。どう、名案でしょう? ああそうか、あなたは返事ができないのね。でもいいわ。私は勝手に独り言を言うのだから…」
 そうやって僕とルクスは歩き始めた。僕が道の右側で、ルクスは左の端にいる。少し遅れて、メイドたちがついてきた。
 次の日曜の朝、僕は教会へは行かなかった。頭が痛いといって、部屋に引きこもっていたんだ。
 マイカは何も疑わず、ともを連れて出かけてしまった。これでもう昼まで帰ってこない。
 屋敷の中でも、使用人の全員が教会へ出かけるわけではなかった。大きな屋敷だから、そんなことをしたら仕事がとどこおって、大変なことになる。たとえば居間の掃除などは、主人のいない隙に済ませる必要があった。
 だがそんな最中にマイカがひょいと戻ってきたのには、使用人たちも驚いたかもしれない。どうにもマイカらしくないことだったのだ。
 馬を降りて家の中へ入ってくるなり、
「ちょっと忘れ物をしたのですよ」
 とマイカは言ったそうだ。
「さようでございますか」
 マイカが僕の部屋へ足を向けるのを見て、召使いたちはさらに奇妙に思ったに違いないが、何も口には出さなかった。
 部屋へやってきて、マイカはすぐに僕を連れ出した。頭痛はもう治ったと言って、僕もついていったんだ。
 僕を自分の馬の後ろに乗せ、マイカは屋敷の門を出た。普段乗っている馬とは毛の色が少し違うことまでは、使用人たちも気がつかなかった。
 屋敷の門を二丁ばかり離れてはじめて、マイカはベールを脱いだ。そこにあったのはルクスの顔だったが、もちろん僕は驚いたりしなかった。最初から計画し、示し合わせていたことなんだ。
 前日からきちんと計算して、ちょうど今頃の時刻にマイカの屋敷へ届くように、ルクスは手紙を投函していた。
 手紙の中身は他愛のないもので、「休暇代わりに二週間ほどの間、カイは私の屋敷で過ごします」というだけのことで、最後の一行などは、「だってお姉さまの弟であるカイは、私の弟でもあるわけでしょう? 弟が姉の屋敷を訪ねて、何の不思議がありましょう」と締めくくられていた。


 ルクスの屋敷では、僕はとても楽しい時間をすごすことができた。パーティーが毎日のように開かれ、色々な人と知り合うことができた。芝居や音楽会にも出かけ、新しい知識をたくさん得た。自分が望んでいたのはこういう生活なんだという気がした。
 マイカの屋敷も確かに大きく立派な場所だったが、派手さはなく、マイカなども毎日本を読んで過ごしていて、少し退屈を感じないではなかったのだ。
 だがルクスの屋敷での暮らしも、いつまでも同じように続くものではなかった。ある夜、大きな変化が訪れたんだ。
 ふかふかしたベッドの中で、僕はぐっすり眠っていた。でも気配で目を覚ました。
 部屋の中は暗く、カーテンの隙間から月光が差し込んでいるだけだ。だけど僕は見ることができた。誰かがベッドの脇に立っている。
「マイカなの?」
 その人はゆっくりとうなずいた。黒いベールですっぽりと顔を隠した姿だ。着ている物にも見覚えがあった。
「カイ」
「マイカ、こんなところで何をしてるの? いつの間にやってきたの? よくこの部屋がわかったね」
「ここは私が生まれ育った屋敷でもあるのですよ。あなたにはルクスが一番よい部屋を与えるだろうと思ったし、誰にも見られることなく忍び込むことのできる秘密の通路も、ちゃんとあるのです。あなたに見せたい物があって、私は来たのです」
「何を?」
「ベッドから出なさい。外は寒いから、何か着たほうがいいでしょう。さあ、私についてきなさい」
 ドアを開け放し、マイカは僕を庭へ連れ出した。芝生が一面に植えられ、あちこちに花壇や茂みが作られている。月光を受けながら、僕たちは歩いていった。
「ねえマイカ、僕のことを怒ってる?」
「なぜです?」
「黙ってこの屋敷に来ちゃったから」
「はじめは少し腹を立てました。でもルクスからの手紙にもあるとおり、あなたは彼女の弟でもあるのですね。そう思うと納得できました」
「そうなの。よかった」
「ふふ、少しは不安だったのですか?」
「うん」
「さあ見えてきたわカイ。あの塔をごらん」
「庭のすみにある古いやつだね。灯台みたいな形をしてる。何のための塔なのだろうと、最初に来た日から思ってた」
「あれは何百年も昔、この屋敷が砦だった時代に建てられたものです。敵の様子を探る見張台でした」
「この町にもそんな時代があったんだね」
「でも国が平和になると、砦は屋敷に作りかえられたわ。そしてあの塔も不要になったの」
「ふうん」
 僕とマイカは、塔の足元までやってくることができた。木でできた大きなドアがあり、キーを取り出して、マイカが開けてくれた。
「さあお入り」
 部屋の中は暗かったが、すぐにマイカはランプに火をつけた。黄色い光に照らされた内部を、僕は眺めることになった。
「あれれマイカ、壁に大きな絵があるよ」
 近寄って見上げると、マイカも同じようにした。
「私とルクスの油絵だわ。まだ九歳だったころかしら」
「へえ」
 僕はしみじみ見つめないではいられなかった。同じ顔をして、同じドレスを着た少女が二人、暖炉の前に並んでいるのだ。
 このころ二人は仲がよかったのかもしれない。手をつないでいる。もちろんどちらの少女の顔にも、傷一つない。
「ねえマイカ」
「どうしたの?」
「ううん、なんでもない…」
「さあ、もう一つ奥の部屋へ行きましょう」
「そこには何があるの?」
「見ればわかります」
 ドアをくぐりぬけ、僕たちは次の部屋へと進んだ。
 広くガランとした場所だが、中央に井戸があるのが目に付いた。まわりを石で丸く囲まれている。近寄ってひょいと中をのぞき込んだが、真っ暗なばかりで何も見えなかった。
「こんなところに井戸があるんだね。そうか、この屋敷が砦だった時代に使われていたんだ」
「実はカイ、さっきの油絵が描かれたころ、私たち姉妹はある少年と友達だったのです」
「少年って?」
「ハンサムで、とてもきれいな男の子でしたよ」
「ふうん」
「私たち姉妹は、どちらもその男の子が好きになりました。男の子の名はカイといいました」
「へえ偶然だね」
「ルクスと私は、いつもカイと一緒にいました。彼とますます仲良くなっていったのです。私に対して、ついにルクスは焼きもちを焼くようになりました」
「そのカイをめぐって?」
「そうです。その後色々ごたごたがあって、ついにルクスはそのカイをどうしたと思います?」
「さあ?」
「そのころすでに、ルクスのわがままぶりは目に余るものがありました。父は私たちを平等に愛してくれましたが、ルクスはそれでは満足できなかったのです。この町を二つに分けるときに、父がルクスにはやわらかい物、美しい物ばかりを与えたのも、その影響です。私よりも良い物を得ないと、ルクスは絶対に納得しなかったのです」
「それで?」
「もう想像がついたでしょう? ルクスはいつも私と張り合ってきたのです。一歩身を引き、常に譲歩することを私は覚えました。でもルクスの欲望には際限がなかったのです。カイが私たちの前に現れたのは、そういう時でした」
「そのカイはどうなったの?」
「ルクスは、まずこの塔のキーを手に入れました。そして、カイをこの井戸の中へ落とそうとしたのです」
「本当に?」
「もちろん私は止めようとしました。その時そばにいたのは、私だけだったのです」
「それはうまくいったの? カイは助かったの?」
「隠し持っていたナイフで、ルクスは私に切りつけてきました。私が顔に深いキズを負ったのは、この時だったのです」
「それからどうなったの?」
「傷口を押さえながら、私は屋敷へ駆け戻ることができました。でもすぐに気を失ってしまったのです。死んでも不思議のないほどの大出血だったそうです。私は眠り続け、やっと目を覚ましたのは二日後のことでした」
「ルクスは? カイはどうなったの?」
「ルクスは何も知らぬ顔をしていました。私を心配するふりをしましたが、あの子は昔から芝居が上手なのです。私は階段で転び、とがった石の角で顔を切ったのだとルクスは言いました。父は何一つ疑いませんでしたし、私も真実を話す勇気がありませんでした。真実を知れば、ルクスを溺愛している父の心は壊れてしまうと思ったのです。それは私にとっても恐ろしいことでした」
「カイは?」
「もちろんその日以来、誰も見た者はいません」
「じゃあ今でも、この井戸の底にいるんだね」
「ええ」
「でも、なぜ僕にそれを教えてくれるの?」
「うふふ、なぜってカイ、あなたはあのカイの生まれ変わりなのでしょう? あなたがやってきたのは、ルクスの悪事を暴き、世に知らせるためだわ。だから同じ名前を持って生まれてきたのよ」
「僕、そんなカイのことなんか知らないよ」
「このナイフをごらん。十年前、私はあなたをこの井戸の中へ捨てようとした。止めようとした姉の顔を、私はこのナイフで切りつけたわ」
「姉? あんたはマイカなんじゃないの?」
「ああ、とうとう口が滑ってしまった。もちろん私はマイカなんかじゃない。よくごらん」
 勢いよく、彼女は自分のベールをはぎ取った。もちろんそこには、傷一つないルクスの顔があったんだ。
「さあカイ、十年前は失敗したけれど、今度は誰にも邪魔させないわ。井戸のへりへお登り」
「いやだ」
「わがままを言うのはおやめ。この数日間、天国のような暮らしをさせてやったじゃないか。思い残すことはあるまい?」
 だが何もかもが十年前と同じというわけにはいかなかったのだろう。僕はなんとかルクスを出し抜き、井戸の前から駆け出すことに成功したんだ。
 でも入ってきたドアには、ルクスがすでに鍵をかけていた。僕は塔の奥へと向かうしかなかった。
 走るのは、ルクスよりも僕のほうが速かった。だけどもちろん、暗い廊下をパタパタと足音が追いかけてくる。
「逃げてもむだよ、カイ。塔のドアにはすべて鍵がかかっているわ」
 ならば窓はどうだと僕は考えた。
 窓にはすべてよろい戸が下ろされていたが、いくらも立たないうちに、鍵が壊れて役に立たなくなっている窓を見つけることができた。
 よろい戸も腐って、もろくなっていた。全身の力を使えば、押し破るのは簡単なことだった。
 僕は、ギリギリのところでルクスのナイフを逃れることができたんだ。僕の体をかすめ、ナイフは窓枠に長い傷をつけた。
 この窓は高い場所にあって、僕でも両手を使ってはい上がらなくてはならなかった。長いドレスを着たルクスに、それができるはずはなかった。
 塔の外に出て、地面にドサリと落ちたがすぐに立ち上がり、僕は駆け出した。
 母屋の方向へ向かうなど問題外だった。そっちは塔の入口に近い。ナイフを光らせながら、ルクスが待ちかまえていることだろう。
 母屋の戸をたたき、使用人たちに助けを求めるのも気が進まなかった。使用人たちはルクスの味方をするに違いないからだ。
 彼らがいかに献身的で、ルクスに忠実であるか、それこそ王女に仕える家来のようであるかを、僕はここ数日、目の当たりにしてきたのだ。使用人たちはすぐに僕を捕まえ、ルクスに引き渡してしまうだろう。
 僕が行くべき方向は一つしかなかった。この屋敷を出て、外部に助けを求めるのだ。
 月光しか照らすもののない庭を、僕は走り続けた。ナイフを持ったルクスがいつ姿を見せるかと、何度も振り返らないではいられなかった。
 大きな屋敷なので時間がかかったが、とうとう塀までやってくることができた。砦だった時代からある、ごつくて高いものだ。だが今はツタに覆われている。素手でも登るのは不可能ではないだろう。
 ツタに手をかけようとしたのだが、次の瞬間、目の前の光景に、思わず息が止まってしまいそうになった。塀の石の一部が、まだ手も触れていないのに、突然ゴトリと動いたんだ。
 どうしていいかわからなくて、僕は棒のように突っ立ったままになってしまった。
 石はカラカラと崩れ続け、とうとう大きな穴が開いた。そこを通り抜け、誰かがやってくる気配を見せたんだ。暗いので、もちろん姿はよく見えないが、その人物が口を開いた。
「そこにいるのはカイなのですか?」
「あんたはだれ?」
 ここには、どうやら古くから隠し通路があったらしい。
「カイ、もう私を忘れたのですか?」
「マイカ?」
「ええ」
 頭をかがめ、穴を通り抜けてきた人物は、本当にマイカと同じ姿をしていた。でも僕は身構えた。
「うそだルクス、どうやって先回りをした? ふん、ベールを降ろしてマイカのふりをしてもだめさ。僕にはわかる」
「何のことを言っているのです? ルクスがどうかしたのですか? 私はマイカですよ」
「だまされるもんか」
「一体何を言っているのです? ルクスが何かしたのですね。でなければ、こんな時間にあなたがこんな場所にいるはずがないわ。カイ、手をお出しなさい」
 あっと気がついたときには、僕は手首をつかまれていた。その手を持ったまま、彼女はベール越しに自分の頬に押し当て、触れさせたのだ。
 思わず胸がどきりとしたが、僕は指先にはっきりと感じることができた。彼女の頬には、長く深いキズが二本、並んで走っていたんだ。
「あんたは本当にマイカなの?」
「そうですよ。でも話は後にしましょう。ルクスに見つからないうちに、ここを離れなければなりません」
 おとなしく手を引かれ、僕は塀の穴を通り抜けていった。
 外にはひとけのない夜の町が広がっていたが、どこに隠していたのか、マイカは馬を連れてきた。それに乗り、僕たちは道路を進み始めた。
 すぐに僕は、今夜ルクスの屋敷で何が起こったのかを話し始めた。マイカは黙って聞いていた。
「それでマイカ、これからどこへ行くの?」
「まずあなたをどこかへ隠さなくてはなりません。人を使って、妹はあなたを探させるでしょうから」
「どうして?」
「あなたは妹の悪事をすべて知っているのですよ。そのあなたをこのままにするはずがありません。でも一つだけ希望があります」
「なに?」
「私があなたを取り戻したことを、妹はまだ知りません。あなたが一人で逃げ出したと思うことでしょう」
「ねえマイカ、どうして今夜迎えに来てくれたの? ルクスが悪いことをするとわかっていたの?」
「妹のたくらみは最初から見当がついていました。もっと早くに来たかったのですが、父を説得するのに手間取って、今夜になってしまったのです」
「説得って?」
「妹の屋敷には、かつて父も住んでいたことがあるのですよ。父は今でも、屋敷のマスターキーを保管しています。それを貸してくれるよう説得していたのです」
「そのキーは借りることができたの?」
「ほら、ここにありますよ。でも必要ありませんでしたね。あなたの逃亡に私が関わっていることは、まだ妹にはばれていません。それをうまく使って、時間をかせぐことにしましょう」
「僕はどこへ行くの? どこに隠れるの?」
「私もそれを悩んでいるのですよ。旧市街の外へ出ることは不可能でしょう。妹は城門に見張りを立てているはずです。いずれなんとか荷物の中にでもまぎれ込ませて、あなたをこの町から逃がす算段をするつもりですが、今すぐは無理です」
「じゃあ、どうするの?」
「ふふふ、そんなに不安そうな顔をすることはありませんよ。田舎から来た旅行者のような顔をして、旅館にでも泊まることにしましょう。ただ少し問題があるのです」
「なんなの?」
「私はあなたのそばにいるわけにはいかない、ということです。私はひどく目立ちますから」
「うん、そうだね」
 マイカは言葉どおりに計画を進めた。夜が明けて日がさすころには、僕は着替えを与えられ、旅館の一室にいた。
 地方からやってきた旅行者のための施設で、同じようなものは旧市街にはいくらでもあった。それに宿泊客は何百人もいるのだ。その中にまぎれ込めば、ルクスが配下をいくら持っていても、見つけるのは難しいに違いない。
 マイカからは日に一度、手紙が届いた。口のきけないアリシアというメイドが届けてくれた。



 親愛なるカイ
そちらの様子はいかがですか。
今朝、ルクスが私の屋敷へやってきました。
表向きはちょっとした相談ごとを装っていましたが、私の様子を探るための訪問であることは明らかでした。
「カイは元気にしていますか?」と質問したら、表情が変わりました。
でも妹は、あなたは屋敷で元気にしているとウソをつき続けるつもりのようです。
あの最初の日、雨の降る森の中で出会い、私があなたを城へ連れ帰ったことを覚えていますか?
実はあの時、ある用事で妹も私の城へ来ていたのです。
火に当たって体を乾かしているあなたを、物陰に隠れて妹は盗み見たのです。
そして不注意にも、あなたの名が十年前の男の子と同じカイであることを、私は妹に話してしまいました。
その瞬間から、妹はあなたに対して、奇妙で強い執着を持つようになったのです。
妹の毒牙から守るため、私はあなたを弟にし、首都へと連れてきたわけですが、すべてが裏目に出てしまったわけですね。
申し訳なく思っています。
話は変わりますが、あなたが昨日の手紙で書いてくれた二人組の男のことが、私はとても気になります。もう少し詳しく教えてください。
食堂のすみのテーブルに陣取り、革命や蜂起といった言葉を使って、こそこそ話していたのですね。
それは反乱軍のメンバーかもしれません。
この町を治めるマンドレーク家のやり方が気に入らず、革命と称して暴力に訴えようとする者たちがいるのです。
それが、もしもその旅館に泊まっている客なのなら、できるだけ観察して、その行動を知らせてください。
でも、くれぐれも無理をしないように。
ルクスの配下は町中に散らばりました。
あなたは追われる身なのですよ。
 あなたの身を案じる者より


 数日後、夕暮れを待つことができなくて、やっとまだ日が傾きかけたところだというのに、僕は町の中を歩いていた。どうしてもマイカの耳に入れなくてはならないニュースがあったんだ。
 もちろん人通りの少ない道を選んだが、時々見かける人影がみんなルクスの家来に見えて、ひどく恐ろしかった。
 でもそれを押して、僕は歩き続けた。
 ところがこんなときに限って運の悪いことに、僕は反乱軍と出会ってしまったんだ。
 手紙の中でマイカが心配していたことだが、想像を超えるスピードと規模で、反乱軍は勢力を伸ばしていた。そして目立たない通りに兵力を集め、なんとこの日の日没を合図に一斉蜂起する手はずになっていたらしい。
 兵といっても一般の市民たちで、持っている武器もせいぜいカマやこん棒でしかなかったが、人数の多さに僕は目を丸くしたのだった。役人の目の届かない裏通りに何百人と座り込み、指揮官の話に耳を傾けながら、時を待っているのだった。
 その連中の間を、僕はおそるおそる通り抜けなくてはならなかった。マイカの指示で、金持ちらしくない普通の服装をしていたのは幸いだった。僕になど、彼らは目もくれない様子だった。
 ここはなんとか通り抜けることができるかもしれない、と僕は思いはじめた。ところが、そううまくはいかなかったんだ。
 一人の男が声を上げた。
「おいそこのガキ、どこかで見た顔だと思ったら、おまえはマイカの屋敷にいたやつじゃないか」
「なんだって?」
 全員の目が僕を見た。そして駆け出すこともできないまま、気がついたときには僕は、男たちに両腕をつかまれてしまっていた。
 僕を見つけ、最初に口を開いたのはサルのようにやせた若い男だったが、前に出て、僕の顔を遠慮なくジロジロとのぞき込んだ。
「ああ間違いない。オレは以前、マイカの屋敷で召使いをしていたんだ。これは、どこかの山奥から連れてこられたガキだ。金を払って買い取って、マイカが自分の弟にしたのさ。名前はカイというんだ。どうする? おれたちが集まっているところを見られちまったぞ」
「仕方ねえや。今夜がすむまで、そこらの柱に縛り付けておけ。マンドレーク家の連中に連絡されたら困るからな」
 反乱者たちは、マンドレーク家のやり方に腹を立てていたのであり、僕に対して恨みがあったわけではない。元はといえば、僕も彼らと同じ一般人の出身なのだ。僕はすぐさま近所のパン屋へ連れて行かれ、建物の中心を支えている太い柱にぐるぐる巻きに縛り付けられてしまった。
 パン屋の主人も反乱者の一人だったようで、僕一人を残して店の表の鍵をかけながら、「まだまだ夜は長い。腹が減るだろうから、おまえにこれをやるよ」と僕の口にパンを押し込んでくれた。
 あまりのことに頭がカッカしていたが、手も使わずにパンをバリバリ噛みながら、僕は頭を働かせた。この反乱のことを、どうやってマイカに知らせればいいだろう。でもいい知恵は浮かばなかった。
 あたりはゆっくりと暗くなってくる。僕はあせりを感じ始めた。
 ひとしきり足音は高かったが、反乱者たちが行ってしまうと、あたりは静かになった。本当にひっそりとして、話し声も聞こえないんだ。男も女も年寄りも、子供まで連れて出かけてしまったらしい。首都の中心部へ向けて、かなり大きな行進になるに違いなかった。
 だけど僕は身動きもできず、座っているしかなかった。
 僕はあきらめて、ため息をついた。でも突然、ガタンと大きな音が聞こえ、驚いて振り返ることになった。
 誰かが店の中に入ってくるようだ。だがキーを持っていないのだろう。持っているのなら、表の戸を開けるはずだ。あんなふうに窓を外すはずはない。
 僕は身構えたが、縄は相変わらずきつく、ゆるむ気配だってなかった。
 窓から入ってきたのは男だった。背は高いが、身のこなしは猫のように軽い。火はついていないけれど、口にはタバコのパイプをくわえている。
「おいカイ」
「あんたはだれ?」
「誰だっていいさ。それ、縄をほどいてやるぞ」
 僕はすぐに立ち上がることができたが、疑問が消えることはなかった。
「あんたは誰なの? どうして助けてくれるの?」
「話は後だ。グズグズしちゃいられねえ。店の外へ出ようぜ」
 僕はその言葉に従ったが、店の外ではこの男の仲間が待ちかまえていた。しかもその顔には見覚えがあった。ルクスの召使いだったんだ。
 しまったと思ったときには、もう遅かった。僕は猿ぐつわをされ、頭の上から大きな布袋をかぶせられて、口をきくことも、まわりの様子を見ることもできなくなってしまった。
 おそらく馬の背に乗せられたのだと思う。反乱軍が押し寄せるよりもずっと早く、僕はルクスの屋敷へと連れて来られていた。
 やっと布袋から出されたのはあの井戸のある部屋だったが、それでも腕を縛る縄までは解いてもらえなかった。
 僕を見下ろし、ルクスはうれしそうに笑った。
「パン屋の柱にぐるぐる巻きにされていたんですってね、カイ。あなたはパン泥棒でもしたの? それほどひもじかったのかしら」
 井戸は目の前に大きく口を開いていた。その暗さが恐ろしくて、僕は体を震わせないではいられなかった。
「かわいそうなカイ。そんなにおびえているのね。でもその恐怖も長くは続かないわ。すぐに井戸の底へ送ってあげるもの」
「ルクス、最後の頼みがあるんだ」
「あらどうしたの? もう観念したの? いいわ。一つだけなら頼みを聞いてあげる」
 ナイフをもてあそびながら、ルクスは機嫌がよかった。勝利を確信しているのだろう。
「ねえルクス、今夜は満月になるはずじゃなかった? 最後の夜ぐらい、ゆっくり月を眺めたいよ」
「月? 月を眺めて何の意味があるの?」
「ただ少しでもきれいなものを眺めてから死にたい、というだけさ。何もしなくったって、時間が来ればそこの窓の外に見えるじゃないか。ほら、もう日が暮れたから、あと三十分もかからずに月が昇ると思うよ」
「ああそう? ならいいわ」
 とはじめはよかったが、僕の計略に気づいて顔色を変えるのに時間はかからなかった。
「カイ、おまえは何かはかったのだね。あの物音や騒ぎは何なの?」
「あれは、反乱者たちが門を叩き壊す音だよ。立派な門だけど、あれだけの人数だから、何分持ちこたえることか」
「反乱者とは何なの? 説明しなさい」
「マンドレーク家は、市民に重い税をかけすぎたということさ。それで不満が高まっていたんだ」
「旧市街においては、マンドレーク家による課税は王国政府も認めていることなのよ」
「旧市街にまだ政府機関があったころは町も栄え、市民たちもそれでやっていけたさ。でも時代は変わった。旧市街の人口は三割も減ったんだよ。これじゃあ市民はたまらないよ」
「ふん、偉そうな口をおききでないよ。もうすぐ井戸の底へ落ちる身のくせに」
「あっ触るな」
「おとなしくおし。井戸のへりを越えさせてやるのだから」
「やめて…」
「叫んでもだめさ。この騒ぎでは、マイカも無事にはすむまいて…、ふふふ」
「そんなことあるもんか。マイカの後ろにはこの町の工場経営者たちがついてるんだ。彼らは強力な私兵を持ってる。今頃マイカの屋敷のまわりは、一個大隊が取り巻いて守ってるよ。
 それに引き換えあんたはどうだい? 美術館の館長や学校の校長に守ってもらうかい? とんでもない。そんな連中は一番最初に新市街へと逃げ込んで、今頃は城門の内側でブルブル震えてるよ」
「なんだって?」
 このときルクスの注意がそれ、僕はとっさに彼女の腰のあたりを強くけることができたんだ。そこにはベルトがあり、キーがはさみ込んであるのが見えていた。
 古めかしい形のキーで、形は以前マイカが見せてくれたマスターキーにそっくりだった。
 キーはベルトを外れ、ルクスも気づいて表情を変えたがもう遅かった。とっさに手でつかもうとするが間に合わず、真っ暗な井戸の中へとキーは落ちていったんだ。
 だいぶ遅れて、ポチャンという水音だけが井戸の中から聞こえてきた。ルクスが悲鳴を上げた。
「どうするのよ。あのキーがないと秘密の通路を開けることができないのよ」
「居間の暖炉わきにある秘密ドアのことを言ってるの?」
「なぜ知ってるの?」
「マイカに教えてもらった。そこからトンネルを通って、屋敷の外へ出ることができるんだってね」
「そのキーを、あんたは井戸の中へ落としてしまったのよ」
「ふんだ。キーがなくたって、僕ならあのドアを開けることができるさ」
「ウソを言いなさい。そんなことできるはずがないじゃないの」
「暖炉の壁は複雑な幾何学模様になっていて、ちょっと見ただけでは鍵穴がわからないようにしてあるんだよね。でも模様のある部分を正しい順番に押せば、キーがなくてもドアはちゃんと開くんだ」
「そんなこと私は知らないわ。それもマイカから教えられたというの?」
「まあね」
「ふうむ。マイカは父のお気に入りだから、そんな秘密を教えられていても不思議はないが…」
「秘密を教えてもらえなくて、あんたはのけ者にされてたんだね、ルクス」
「お黙り! ようし、あんたの命は助けてやる。その代わりそのドアをお開け。ウソだったら承知しないからね」
 ルクスは急いで縄をほどき始めた。指が震えていることから、焦っているのがわかる。
 でもそれも無理はない。門のあたりはさらに騒がしくなり、バリバリと物の壊れる音が混じり始めていた。僕はつぶやいた。
「門が壊されているんだ」
「ぼやぼやしていると、あんたもただじゃすまないよ。暴徒の恐ろしさをあんたは知らないんだ」
 やっと縄が解け、僕は立ち上がることができた。だがマスターキーがないのだから、塔から外へ出るのにさえ苦労することになった。窓を壊し、二人ではい出さなければならなかった。
 庭へ出た時には、母屋のあたりから怒号や悲鳴が聞こえ始めていた。ここからは死角になって見えないが、すでに反乱者たちが侵入しているのだろう。
 暗がりを選んで駆けてゆきながら、ルクスの胸の鼓動が聞き取れるような気がした。反乱者たちが捜し求めているのはルクスの身柄なのだ。
 ルクスを捕まえ、人質代わりに引き立てながらマンドレークの本家へとむかい、税金の値下げ交渉を有利に進めようというのだろう。旅館で盗み聞きした内容から、僕は彼らの作戦を知っていたのだ。
 植え込みや茂みの暗がりをたどって、僕とルクスはゆっくりと母屋へ近づいていった。勝手口は小さなドアで、台所に直接つながっていた。
 このあたりはまだひっそりとしていた。ドアを開け、臆病なカメのように首を伸ばして、僕たちは様子を探った。
 さいわい誰もいないようだった。ここからなら洗濯場や使用人通路を通って、居間へたどり着くことができる。
 そう考えて一歩を踏み出そうとしたが、僕たちの足音を聞きつけて暗がりに潜み、待ちかまえている者がいることなど、まったく想像もしていなかった。
 それは二人の男で、服装から見ても明らかに反乱者で、僕とルクスはあっという間に捕まってしまった。
「おい、こいつはルクスじゃないのか」
「ああ間違いない。大手柄だぞ」
 ルクスは猫のように暴れたが、男の手は強く、とても逃れることなどできそうになかった。
「放せ、無礼者。放せというに」
「おやおや、これは元気のいいお嬢さんだ。おい、おまえが捕まえたのは何者だ? 男の子のように見えるが」
 暗すぎてよく見えなかったのだろう。僕を捕まえた男は目をこらした。そして表情を変えたんだ。
「こりゃあ驚いた」
「どうした?」
「誰かと思えば、こいつはわが息子じゃないか」
「なんだって?」
 驚いたのは僕も同じだったが、すぐに事情をのみ込むことができた。僕を捕まえたのは、あのパン屋の主人だったんだ。
 パン屋の主人は続けた。
「おい息子、おまえはこんなところにいやがったのか。今夜は絶対にわしのそばを離れるなと、あれほど言っておいただろう? 切った張ったの派手な夜になるんだ。ケガでもしたら、おまえの母ちゃんがどれだけ悲しむか」
 もちろん僕も調子を合わせることにした。
「ごめんよ、父ちゃん」
「おまえ、こんなところで何をしてやがった? ははあ、騒ぎにまぎれて、屋敷の中から金目のものを盗み出す気でいやがったな。なんてやつだ」
「そうじゃないよ、父ちゃん。ただ屋敷の中はどうなってるんだろうと好奇心で…」
「だからわしのそばを離れたというのか?」
 大きな手で突然バシンと殴られ、僕はしりもちを着いてしまったが、見かねてもう一人の男がとりなしてくれた。
「なああんた、息子はケガもしていないんだ。もう許してやればいいじゃないか。それよりも、ルクスを押さえるのを手伝ってくれ。オレ一人じゃ逃げられちまうぞ」
 僕は立ち上がることができた。わけがわからずポカンとしているルクスを尻目に逃げ出したが、もちろん誰も追いかけては来なかった。
 二週間近く暮らしていたのだから、屋敷の中の作りはよくわかっていた。そのまますぐに居間までやってくることができた。
 秘密ドアの正確な場所は、マイカが教えてくれていた。ルクスにも言ったとおり、壁は複雑な幾何学模様で飾られている。その前に立ち、僕は上着のポケットを破り、底に縫い込まれていた小さなキーを取り出した。
 もちろんマイカが貸してくれたマスターキーだ。僕を捕まえてここへ連れてきた男も、そこまで詳しくは調べなかったんだ。
 鍵穴にあてがい、キーをすっと差し込んで回すだけで、カチリと音がしてロックが外れた。
 屋敷の中が騒がしくなりかけているので、急がなくてはならなかった。でもドアを開け、その中に身を隠し、再びカチリと閉めるのに時間はかからなかった。
 マンドレーク家は用心深い一族だったようだ。ドアを入ってすぐのところに、防水された丈夫な箱に入れて、マッチとランプが用意されていた。それに火をつけ、僕はトンネルを進んでいった。
 人が一人やっと通り抜けることができる幅しかなく、ところどころ石の階段がある他は平らに続いた。ときおり地上の騒ぎや叫び声が耳に届いた。
 屋敷の下をずっと通り抜け、トンネルは人気のない廃墟の裏手に口を開けて終点になっていたが、そこから道路へは、小さな塀を乗り越えるだけで簡単に出ることができた。騒ぎ声や物音ももう小さくしか聞こえなかった。
 ほっと息をつき、ランプの火を消して、僕は歩き始めた。
 こうして僕は、旅館の部屋へと帰ってくることができたんだ。ドアを閉めてベッドに入ると、安心と疲労のあまり、あっという間に眠り込んでしまった。
 翌日は昼過ぎまで目が覚めなかったが、アクビをしながら着替え、下の階へ降りてゆくと、色々とニュースを聞かされた。
 町はすでに平穏さを取り戻していて、窓の外を眺めても、何も変わった様子はなかった。マンドレーク家は税金の値下げをのみ、反乱は平和的に終結したということだった。
 マンドレーク家の当主は強面で、容赦ない人物だそうだが、ルクスを人質に取られては、どうしようもなかったらしい。
 交渉が済むとルクスはすぐに解放され、夕方前にはマイカが迎えをよこし、旅館を出て、僕は無事に屋敷へと戻ることができた。
 僕の姿を見るとマイカは駆け寄り、ギュッと抱きしめてくれた。これには召使いたちも目を丸くしただろうと思う。普段感情を見せないマイカとは思えない珍しい行動だったんだ。
「そうだマイカ、ルクスはどうなったの?」
「妹については、『これ以上甘やかすことはできない』と父もとうとう覚悟を決めたようです。当分の間、屋敷の中で謹慎させることになりました。あなたに危害を加えようとしたこともありますし、あまりに贅沢な暮らしぶりも以前から目に余りました。少し頭を冷やさせるのです」
「ルクスの屋敷での暮らしは、僕も楽しかったよ」
「それはおあきらめなさい。ルクスがあなたの前に顔を見せることはもうないでしょう。私が許しません」
「ねえ、僕のことを怒ってる?」
「怒ってはいません。あきれてはいますが」
「ふうん」
「どうしたのです? 私に腹が立つのですか?」
「知るもんか」
「なんとでもおっしゃい。さあ夕食にしましょう。帰宅を歓迎して、あなたの好物を色々用意したのですよ」
 手を引かれ、僕は食堂へ連れていかれたのだが、マイカの声は明るく弾んでいて、僕のことをあきれているというのが本当なのか、疑問に感じないではいられなかった。
 数日後の学校帰り、僕はお付きの召使いを買収して、二時間ほど時間を作った。
 ルクスにさらわれて以降、一人では外出させてもらえなくなったからだが、召使いたちと一緒なら、寄り道することもマイカは多めに見てくれた。お目付け役は、背の高い二人の若者だったが、この二人に金をやって、カフェで時間をつぶしているように言い、僕はようやく一人になることができたんだ。
 裏通りを抜け、僕はつい先日通ったばかりの地下通路を目指していた。この地下通路を通って、僕はルクスの屋敷から抜け出すことができたわけだが、この屋敷には何年か前まで、マンドレーク家の当主も住んでいたことがある。
 誰にも邪魔をされずに、僕はこの日も地下通路へ足を踏み入れることができた。携帯用のランプやマッチもあらかじめ用意していた。
 トンネルは狭く、歩きやすくはなかったが、僕は進んでいった。そして、先日通った時に気になった場所までやってくることができた。
 急ぎ足でトンネルを抜けながら、意外な発見に僕は目を丸くしたのだったが、トンネルが突然一ヶ所だけ広くなり、大きなものではないが、墓石が建てられているんだ。ランプがなければ文字通りの真っ暗闇となる地底にたたずんでいる。
 墓石には文字が刻んであり、『マンドレーク家の娘、ここに眠る』と読めた。その文字と一緒に命日の日付も刻まれ、今日がその日付の日だったから、無駄足になるかもしれなかったが、僕はやって来たのだった。
 しかし僕の予想は正しかった。墓に花を供えている男の姿を見ることができた。
 その男の持つランプの光を、僕はだいぶ手前から見つけていた。だが石の床の上を歩く足音が耳に届いたのだろう。その男も振り返り、僕を見ていた。
 なんと口を開いていいかわからなくて、相手が何か言ってくれるのを待つしかなかった。
「君がカイかね?」
 男がしゃべると、鼻の下のヒゲが動いた。髪は白くなっているが、目つきはまだまだ鋭い。
 僕はうなずいた。
「うん」
「なぜここに来た? まさか、また町で反乱が起こったのか」
「そうじゃないよ。前に通ったときにその墓石の日付が気になって、今日がその日だから来てみた」
「わしがここにいることを予想していたのかね?」
「そこまでは予想していなかったけれど、何か手がかりが見つかるかもしれないとは思った」
「召使いはどうした? マイカが、君を一人では外出させないと聞いたが?」
「お金を渡して、召使いはある場所で待たせてあるんだよ。マイカの耳に入らないように気をつけてるよ」
「やれやれ、子供のくせにとんでもない策士だな。それでカイ、今日ここへ来て、何がわかったのだね?」
「ううん、まだ何もわからない。墓石に書いてある『マンドレーク家の娘』って誰のことなの?」
「その前にきくが、君はわしが誰か知っているのかね?」
「ああ忘れてた。僕はそれも知らないんだよ」
「わしはマイカやルクスの父親さ。マンドレーク家の当主とはわしのことだよ」
「この前、ルクスを人質に取られて、税金の値下げをしぶしぶ認めた人?」
「おやおや、嫌なことを思い出させてくれるじゃないか。だが間違いない。それがわしだよ」
「じゃあその墓の下にいるのは誰なの? 十年前に死んだカイじゃないよね」
「もちろん違うさ。十年前のカイは、今でも井戸の底にいるはずさ。この墓の下にいるのは…いや、それが誰なのか、わしにもよくわからないのだよ」
「どうして? わからない人のために、わざわざ花束を供えに来たの?」
「いやいやカイ、この墓の下にいるのがわしの娘であることは間違いない」
「あれれ? あんたには三人目の娘がいたの? あんたの子供はマイカとルクスだけだと思ってた」
「マイカとルクスだけさ」
「どうして?」
「十年前の事件を知っているということは、君もある程度は聞かされているのだね。来てごらん。この墓石に刻まれている日付は、ちょうど今日から十年前だ。読めるだろう?」
「うん」
「この墓の下に眠っているのは、その十年前の事件の犠牲者なんだ」
「でも、カイは今でも井戸の底にいるとさっき言ったよ」
「君がどう聞いたかは知らないが、十年前のカイとは、生きた本物の少年ではない。ただの人形だったのさ」
「人形にカイという名がつけてあったの?」
「わしが買い与えた人形で、名の知れた職人の作だったが、本当に美しく、娘たちはすぐに心を奪われ、どちらも夢中になってしまった」
「娘たちって、マイカとルクスのことだよね」
「その通りさ。それでカイ、ちょうどいい機会だ。君に少し頼みたいことがあるのだよ…」
 地底からの帰り道、僕は急ぎ足にならなくてはならなかった。いくらマイカでも、二時間以上の寄り道は許してくれなかった。カフェへ行き、召使いたちと合流して、僕は屋敷に戻った。
 マイカは何も気づかなかった。僕はいつものように一緒にお茶を飲み、おしゃべりをし、夕食を食べて、自分の部屋へ入った。
 この夜はなかなか寝付くことができなかった。首都へやって来てからすでに半年が過ぎていたが、その間にマイカが蜂をひどく恐れるということがあったかどうか、僕はまったく思い当たらなかったのだ。いくら頭を絞っても、マイカが蜂や蜂の巣を見かけた機会自体が一度も記憶になかった。
 マイカには内緒でこっそりとだったが、この頃から僕は、マンドレーク家の当主と連絡を取り合うようになった。
 当主の名はマーリンといったが、近所のタバコ屋の店員を買収して、僕がマイカの屋敷を出入りするたびに注意を払うように命じたんだ。
 もしマーリンに伝えたいことがあれば、僕はかすかに手を振ってタバコ屋に合図をする。そうすれば、下校時には校門の前でマンドレーク家の召使いが待ちかまえているという具合で、この召使いが僕の伝言を主人に伝えるんだ。
 だからその日、下校しようとしたら校門の前にマーリンの召使いが立っていても、僕は不思議には思わなかった。ただいつもと違うのは、召使いの隣に馬車が待機していることで、僕はこれに乗せられ、マーリンの屋敷へと連れて行かれたんだ。
 マーリンの屋敷は川を隔てた新市街にあり、実際に目にするのは僕も初めてだった。ルクスの屋敷と比べてもひとまわり大きく、僕の目にはまるで城のように映ったが、森の中にあったマイカの古城とはもちろん天と地ほどの違いがあった。
 門には本物の槍を持った門番がいて、近づいてくる馬車に表情を変えたが、車体に描かれている紋章を目にすると、停車など命じずにそのまま通してくれた。これはマーリンが普段から使っている専用の馬車なのだと僕が気づいたのは、この時のことだった。
 馬車が止まると、僕はすぐにマーリンの部屋へ連れて行かれた。
 マーリンは机の前に座っていたが、幸福そうには見えなかった。間近に迫った重大な決定に重荷を感じていたのだろう。机の上には、小さな薬ビンが置かれているのが目に付いた。勇気を出して、僕は口を開くことにした。
「それがあの薬なの?」
「そうさ。召使いの報告では、君はまだ手がかりをつかんでいないとのことだが、本当にそうなのかい?」
「うん」
「やれやれ困ったな」
「どうして?」
「例の期限があと数日に迫っているのだよ。だのにまだ手がかりもない」
「蜂に刺された日から十一年が過ぎてしまうんだね」
「今朝も医者からせっつかれた。『早くしないと体内の蜂毒が再び働き始め、あなたの娘は死んでしまいます』とな」
「ええっと、その薬はなんと言ったっけ? ああ思い出した。凍毒丸だ。とにかくマイカにその凍毒丸を飲ませたらどうなの?」
「忘れたのかい? 凍毒丸はとてもよく効くが、同時に猛毒でもあるのだよ。蜂に刺されたことのない者が飲めば、たちまち死んでしまう」
「蜂に刺されたことのある人が飲めば、体内の蜂毒の効果を停止させてくれるんだったね」
「だが効果は十一年間しか続かない。あと数日でそれが過ぎてしまうのだよ」
「良かったら、その時の事情をもう一度話してくれる? まずルクスが蜂に刺されたんだよね」
「マイカと二人で遊んでいて、庭で蜂の巣を見つけた。マイカはやめろと言ったのに、悪戯なルクスは手を出した。当然蜂は怒り、ルクスを刺したのさ」
「刺されてひどいことになったの?」
「そうでもなかった。治療が早かったからね。知り合いの医者がすぐに来てくれた」
「それでその凍毒丸が与えられたんだね」
「これはよく効くが、蜂毒を消すのではなく、毒の効果を十一年間止めておくだけの力しかない。服用後十一年を過ぎると再び蜂毒が働き始め、ルクスは死んでしまうだろう」
「その蜂事件の一年後に、人形をめぐって殺人事件が起こったんだね」
「わしはあの人形を買い、娘たちに与えた。本当は二体求め、ルクスとマイカそれぞれに与えたかったのだが、作者はすでに故人で、それはかなわなかった。だが本当に美しい人形でね」
「人形の名前はカイというんだね」
「人形をめぐって、娘たちはけんかを始めた。いつもならマイカが譲歩するのだが、あの時は違った。どちらも自分の部屋に飾りたがり、収拾がつかないのでついにはわしが取り上げ、人形は鍵のかかる戸棚の中に隠すことになった。
 だがどうにかして、ルクスはその戸棚を開けてしまった。そして人形を取り出したが、それを目撃したマイカが追いかけていった。二人ともまだ九歳だった。ほんの子供だよ。ルクスは井戸の部屋まで逃げたが、マイカに追いつかれてしまった。
 おそらくルクスは、人形を井戸へ落とそうと考えたのだろう。自分のものにならないのなら、捨ててしまえということなのだろう。ルクスはそういう子供だった」
「追いついたマイカは、捨てるのをやめさせようとしたんだね」
 マーリンは大きくため息をついた。
「目撃者がいるわけではなく、何が起きたのかは想像するしかないのだが、悲鳴を聞いて屋敷の者が駆けつけたときには一人が胸を刺されて死亡し、刺したと思しきナイフはもう一人の手の中にあった」
「どちらがどちらを刺したの?」
「それがわからないのだよ。死んだ娘は床に横たわり、生き残った娘は呆然とし、いくら呼びかけても返事をしなかった。それどころか、錯乱する兆候まで見せ始めた。
 強い鎮静剤を与えたが効果はなく、医師の話では、これは大変に危険な状態で、一刻も早くなんとかしなくてはならなかった。生き残った娘の精神を安定させるため、大急ぎであることが取り決められた。
『殺人事件など起こっておらず、マイカもルクスもどちらも元気にしている』とその日から、マンドレーク一族全体を巻き込んだ大芝居が始まったのさ。
 ふふふ、ばかばかしいと思うのなら笑うがいい。だが娘の一生がかかっているんだ。救うことができるのなら、親はなんでもするよ」
「でもそれって、大変なお芝居だよね。一生続くんだし、巻き込まれる人数も多いし」
「だが幸い、今日まではなんとかうまく芝居をやってこれた。だからカイ、わしの娘は、何日かおきにマイカの役とルクスの役を一人で交互に演じているんだ。すでに十年間そうしている。今日はマイカ、明日はルクスという具合にね。それが娘の精神を崩壊から救う唯一の方法だったのさ…」
 話を聞かされ、重苦しい憂鬱な気分になって、僕はマイカの屋敷へと帰ってきた。マイカはいつものように僕を迎え、お茶とおやつを出してくれた。
 その日も僕はずっと観察を続けたが、彼女が本当はマイカなのかルクスなのか、手がかりさえつかむことができなかった。
 おやつが済んで、そのあと夕方まで一人でいることができる時間に、僕はアリシアを探しに出かけた。アリシアはマイカのメイドで、うまい具合に控え室で見つけることができたが、アリシアは口がきけないので、筆談をすることにした。
 僕は、マイカの頬の傷について質問したんだ。するともちろん、そんなものははなから存在しないという答えが返ってきた。マイカに手を取られた時に僕が指先に感じたのはやはり作り物で、実はベールに細工がしてあり、触ると頬に本当に傷があるかのように感じられるというだけのものだったんだ。
 思いついて、僕はもう一つ質問してみた。
「彼女は、自分が本当はマイカなのか、それともルクスなのかを知っていると思う?」
 すると『いいえ』という答えが返ってきた。
「あの方は、自分が二つの人生を交互に演じていることに気がついていません。私にはわかります」
「どうして?」
「あのマスターキーが理由です。マイカ様はカイ様にマスターキーを与え、カイ様のポケットの底に縫いこんで隠しました。でもルクス様はそのことを知らず、結局反乱軍につかまってしまったのでしょう?」
 ああそうか、と僕も納得することができた。
 マーリンの娘は、自分がマイカとルクスの二役を演じていることを知らない。はじめは精神の平衡を保つための方便だったに過ぎないが、この十年の間にすっかり忘れてしまったのだろう。
 マイカを演じているときは心の底まで百パーセントのマイカであり、ルクスを演じるときにも、心の底までルクスになりきっているんだ。本当はルクスなのかマイカなのか、彼女の正体を探るのは大変な仕事だぞと、僕は改めて思わないではいられなかった。
 翌日の学校帰り、僕は校門の前で手紙を渡された。持ってきたのは召使いだったが、開いてみると差出人はマーリンだった。



 親愛なるカイ
すまないが旧市街のはずれへ行き、ある女に会ってきてくれまいか。
あちこち探して、かつてわが娘たちの家庭教師をしていた女をやっと見つけ出したのだ。
引退後時間がたち、もうかなりの高齢であろうが、会って話をすれば、マイカとルクスを見分けるための手がかりが得られるかもしれない。



 手紙の末尾には、本当に住所が記されていた。僕はあわてて馬車に飛び乗った。
 頼まれた仕事を済ませ、マーリンの屋敷の門をくぐったのは夕方近くだったが、僕はすぐに主人の部屋へ通された。
「カイ、家庭教師には会うことができたのかい?」
「うん、会ってきたよ。でも、あまり参考にはならなかった」
「どんな話をしたのだい?」
「子供のころマイカはおとなしい女の子だったとか、ルクスは活発で、悪戯好きで手を焼いたとか。マイカはピアノが上手だったけど、ルクスは歌うほうを好んだとかね」
「わしの誕生日に、二人して音楽をプレゼントしてくれたことがあるよ」
「あとは食べ物の好みとかだけで、役に立つような話は本当に出なかったなあ」
 ドアをノックする音が聞こえ、召使いが部屋に入ってきたのは、このときのことだった。
「マーリン様、手紙を持ってメッセンジャーが来ております」
「どなたからだね?」
 召使いは名前を言ったが、僕は目を丸くしてしまった。ついさっき会ったばかりの家庭教師の名だったんだ。召使いは、マーリンの手に手紙を渡した。
 召使いはすぐに姿を消したが、マーリンが手紙に目を通している間、僕は待ち遠しくて仕方がなかった。
「マーリン、何が書いてあるの?」
 すぐにマーリンは、僕に手渡してくれた。



 慈悲深きマーリン様
本日カイ様がお見えになり、お嬢様方のことを色々きいてゆかれました。
昔のことゆえ、なかなか思い出すこともできませんでしたが、糸口がほぐれるといくつか思い出し、お話をいたしました。
その後、私はあることを思い出しましたが、カイ様はすでに帰られたあとでした。
お役に立つかもしれぬと考え、ここに記します。
マイカ様は、八歳のときに虫歯にかかられたことがあり、奥歯を削り、詰め物がしてございます。
 長寿とご多幸を



 マーリンと僕は考え込んでしまった。
「ねえマーリン、地下にあるあのお墓だけれど、火葬じゃないよね」
「もちろん棺のまま埋めたさ」
「ということは、僕たちは棺を掘り返さなくちゃならないの? 死体を調べて、虫歯の跡があれば、それがマイカなんだね」
 マーリンは大きくため息をついた。
「召使いを呼んでくれないか? 道具を用意させよう」
 僕たちが屋敷から出発したのは、三十分後のことだった。二頭の馬に乗り、目立たないように足音を押さえて出かけたんだ。
 僕たちは馬を進ませ続けた。万が一にも噂が広がることを防ぐため、召使いを同行するわけにはいかなかったが、僕はどうにも気が重かった。
 誰だってそうだろうと思う。だってこれから、墓を掘りだすんだよ。十年前にはかわいらしい少女だったとしても、棺の中でそれがどう変わっているかなんて、想像するだけで大変だった。
 きっとマーリンも同じ気持ちだったか、あるいは僕よりももっと苦しかったかもしれない。棺の中にいるのは、他ならぬ彼の娘なのだから。
 廃墟に馬をつなぎ、僕たちは地下トンネルへと入っていった。幅が狭いので、二人並んで歩くことはできない。マーリンが前を行ったが、正直に言って、僕は何もかも放り出して逃げ出したかった。
 やがて墓石が見えてきたときには僕は身震いをしたが、マーリンは何も言わずに仕事を始めた。僕には下がっているように命じ、自分は鉄の棒を使って、棺を覆っているフタを動かし始めたんだ。
 大きく重い石なので、時間がかかってしまった。マーリンは顔を赤くし、鼻の頭からは汗がしたたっている。手伝おうかと申し出たが、断られてしまった。
「いや、これはわしの娘の墓だ。わしがするよ。君はそこでランプを持っていてくれ」
「うん、わかった…。あれマーリン? どこかで音がしなかった?」
「何の音だね?」
「何なのかわからないけど、確かに聞こえたよ。そこの暗がりに誰か隠れているような気がする」
「こんな地底に、わしたち以外の誰もいるはずがないよ。さあ手伝ってくれ。ここに鉄棒を刺して、あと一回押せばフタが開く」
 だが僕は返事をすることができなかった。首筋に突然冷たいナイフを押し当てられるのを感じ、恐ろしさのあまり、指一本動かせなくなったんだ。
「どうしたカイ? なぜ手を貸してくれないのだね?」
 マーリンは顔を上げたが、僕と同じように凍り付いてしまった。だけどそれも無理はないと思う。暗闇の中からいつの間にか忍び寄ったルクスが、僕の背中にぴったりとくっついていたんだ。ナイフはその手の中に握られていた。
 何秒もたってから、やっとマーリンは声を絞り出すことができた。
「ルクス…」
「こんばんわ、お父様。お気に入りのマイカでなくて、残念でしたわね」
「ルクス、その子を放すんだ」
「うふふ、嫌よお父様。私はこの子に大きな恨みがあるもの。この子のおかげで私は反乱軍につかまり、町中の笑いものになったわ」
「カイをどうしようというのだね?」
「私ね、急にお父様の顔が見たくなって、こんな夜遅くだけどお屋敷へ向かったの。するとどう? カイを連れて、お父様がこっそり門から出てくるところに出くわしたわ。どこへ行くのだろうと、あとをつけてきたの。こんな地の底で何をしているのか知らないけれど、どうでもいいわ。私はカイに復讐するのよ」
「やめるんだルクス。カイに罪はない」
「いいえ、十年前の私の罪を責めるために、おせっかいなマイカがこのカイを連れてきたのよ。どうだろう。お姉さん風を吹かせちゃってさ」
 僕は口をはさんだ。
「十年前の罪って、一体何のことなの?」
「決まっているじゃないの。私がマイカをナイフで刺して…、ええっと…マイカの顔にケガをさせたことよ」
「その時、ケガじゃなくて、本当はマイカを殺してやりたいと思ったんじゃないの? 胸にナイフをまっすぐ突き立ててさ」
「何を言うの? あれは物の弾みで刃が頬に触れ…」
「それはウソだ。あんたがマイカを刺し殺したと僕は聞いたよ」
 マーリンが顔色を変えた。
「カイ!」
 ルクスは口がきけなくなってしまった。
「私は…私は…」
 僕はこの瞬間を待っていたんだ。ルクスの手は力が抜け、ナイフは僕ののどから離れかけていた。むこうずねを思いっきりけとばして、僕はマイカのそばから飛びのいた。
 うまくけったつもりだったが、僕はあわてていたのかもしれない。命中はしなかった。
 僕は駆け出したが、ルクスは追いかけてくるそぶりを見せた。でもそれをマーリンが邪魔してくれたんだ。おかげでマーリンは、ナイフで腕を切りつけられることになったが。
 その間に僕は、力いっぱい走り始めていた。もちろんルクスは追いかけてくる。僕はランプなど持っていなかったが、ルクスは手にしていた。そのおかげで僕はトンネルの中を走ることができたのだから、皮肉なものだね。
 だけど僕は、長い距離を走ることはなかった。ナイフを持った女に追いかけられるなんて、とても恐ろしい経験だったが、長く続くことはなかったんだ。突然現れた別の腕に横からグイとつかまれ、あっと思う間もなく、僕は脇の暗がりへと引き込まれてしまったんだ。
 僕は床に転んだが、口を強く押さえられたので、声を上げることはできなかった。暗いのでその人物の顔を見ることはできなかったが、肌の感じから、若い女だということだけはわかった。
 この女もランプを持っていたのだろうが、駆けてくる僕の姿を目にして、とっさに消したのだろう。
 ルクスは僕の後ろを遅れて走っていた。ルクスの手にあるランプが一瞬あたりを照らした時、僕はとうとうこの女の顔を見ることができたんだ。
 アリシアだった。
 意外なことで目を丸くしてしまったが、ルクスが通り過ぎ、遠くへ行ってしまうまで、アリシアは僕の口から手をどけてくれなかった。
 やっと僕が口をきけるようになったのは、ルクスのランプがトンネルのむこうへ見えなくなってからだ。
 マッチをする音が聞こえ、ランプに灯がともった。アリシアはいつも小さな手帳とペンを持っているので、僕たちは筆談をはじめた。
「アリシア、どうしてこんなところにいるの?」
「マイカ様はお屋敷にいません。お出かけ中です」
「今はルクスを演じてるんだもん。当然だよ」
「マイカ様は、私宛の手紙をお屋敷に残していかれました」
 アリシアが手渡してくれたので、僕は読み始めた。



 アリシア
カイの人形を持ち、ルクスの屋敷へ行きなさい。
人形をルクスに手渡すのです。
夜遅いので、地下道を通ってゆきなさい。
ルクスに渡す手紙は、人形と一緒に置いてあります。
 おまえの女主人より



 僕はもう一度目を丸くした。アリシアは肩から大きなカバンを提げていて、それは確かに何かが入っているらしく、ふくらんでいた。
「アリシア、人形って、カイという名前のやつだよね。どこに置いてあったの?」
「十年前の事件の時、人形はルクス様が井戸に捨てたわけではなかったのです。その前にナイフが使われてしまいました。
 人形は、死んだ女の子のそばに落ちていたのです。それがどういう経緯でマイカ様の持ち物となったのかは知りません。マイカ様は、自分の部屋の金庫の中にずっと隠しておかれました」
「ああ、あの金庫なら知ってるよ。何が入っているのだろうと前から思ってた」
「人形の存在をルクス様は知らなかったようです。マイカ様はずっと秘密にしていました」
「それがなぜ今日、マイカはルクスにやる気になったのかな?」
「その理由はきっと、人形に添えられている手紙に書かれていると思います」
 カバンの中に手を入れ、アリシアはもう一つの手紙を取り出した。そして僕が止める暇もなく、封を破ってしまったんだ。中身を手渡されると、僕は目を通すしかなかった。



 ルクス
突然でびっくりするかもしれないけれど、カイの人形をあなたに差し出します。
もちろん覚えていますね。
十年前に、あなたと私の仲違いを決定的にした人形です。
この人形にそっくりな姿の少年をめぐって、今また私たちは争っています。
でももう、こんなことはおしまいにしませんか。
カイ少年は私たちの弟として、どちらも所有権を主張することなく、大切に育ててゆきましょう。
それが私からの提案です。
この提案が私の心からのものであることを示すために、十年間大切に保管してきた人形をあなたに贈ります。
 あなたの姉より



 ルクスはこの後どういう行動を取るだろう、と僕は考えた。
 地下トンネルの出口には、僕とマーリンの馬がつながれたままになっている。それを見てルクスは、僕はまだ地下にいると考えるだろう。すぐにまたこちらへ戻ってくるに違いない。
 アリシアが意外なことを教えてくれた。
 アリシアが生まれた家は人形つかいを業としていて、彼女の両親は今でもそれで生計を立てているそうだ。そしてアリシア自身も、人形を操る技術をある程度心得ているらしい。
「アリシア、人形つかいって、どういうこと?」
 僕はそう質問したのだが、カバンの口が開かれると、疑問は自然に解けることになった。カイの人形とは、紐の付いた操り人形だったんだ。
 暗いし用意を急ぐので、その人形が本当に僕によく似ているのかどうか、確かめる余裕はなかった。でもきれいな水色の洋服を着て、手足もすらりと細い。この人形なら、九歳の女の子たちが欲しがって取り合いをしても、不思議はない気持ちがする。
 しっかりと準備をする暇はなかった。いくらもたたないうちに、再びランプの光がトンネルの向こうに見え始めたんだ。
 ルクスはパタパタと駆け足で戻ってくる。ランプの光でナイフがきらめくのは、ここからでも見ることができた。
 僕は暗がりに身を隠したが、勇敢にもアリシアは上半身を乗り出している。だが着ている黒い服のせいでアリシアの姿も闇の中に沈み、ルクスは気が付かなかっただろう。
 僕たちが潜んでいるすぐそばまでやってきたときには、ルクスもひどく驚いたに違いない。彼女の手の中にあるランプは、揺れながら、黄色い光を投げかけている。その光の中に、突然人形が姿を現したんだ。
 ルクスの足はピタリと止まり、ヒイッと息をのむのまで小さく聞こえたような気がする。
 人形は床の上にすっくと立っていた。人形操り師としてのアリシアの腕前はかなりのものだったのだろう。腰をかがめ、ルクスにむかって人形は優雅にお辞儀をしたんだ。
 人形が口を開くそぶりを見せたので、僕も緊張しなくてはならなかった。人形の動きにあわせ、僕は口を開いたんだ。ルクスの目には、人形が本当に口を利いたように見えたに違いない。
「やあルクス、僕を覚えているかい? 十年ぶりだね」
「あんたなんか知らないわ」
 ルクスの声は震えていた。
「知らないはずがあるもんか。十年前のあの日、鍵のかかった戸棚から引っ張り出され、僕はあんたの手で井戸へ捨てられたんだ。それを止めようとしたマイカも…」
「知らない! 私は知らない! 本当に覚えていないのよ」
「覚えていない? マイカを傷つけたことはどうなんだい?」
「それだって覚えていないのよ。私はそんなことをしたらしいと聞かされただけよ。本当よ」
「何なら覚えているんだい? でもまあいいや。僕は、冷たくて暗い井戸の底から戻ってきたんだよ」
 マーリンがやっと姿を見せたのは、それから何分かたった後のことだった。自分で止血をしたらしく、腕には布を巻いている。血がにじんでいるが、大きなケガではないのかもしれない。
「マーリン、大丈夫?」
「ああ大丈夫さ。おや、そこにいるのは誰かな? マイカのメイドのように見えるが」
「この人はアリシアだよ」
「ああそうだな。どうりで顔に見覚えがある。ルクスはどうした?」
「それがね…」
 僕は小さな声で説明を始めた。
「…だからアリシアが人形を動かして、僕が声を合わせ、まるで人形がひとりでにしゃべっているかのように見せかけたんだ。そうしたら…」
「どうなったのだね?」
「あまり強く脅かす気はなかったんだよ。とにかくナイフを捨てて、自分から屋敷へ逃げ帰るように仕向けたかった。ところが薬が効きすぎて、ルクスは突然走り出した。僕たちが調子に乗って、人形で追いかけるそぶりをしたこともあるんだけどね」
「ルクスはどこへ行った?」
「ほら、トンネルのあそこの曲がり角を右に曲がると地上へ出るよね? それをどう間違えたか、ルクスは左へ行っちゃった」
「左へだって?」
「うん、あっちはどこにつながっているの?」
「どこへも何もカイ、あの先は地下トンネルが迷路のように複雑に絡み合い、どこへ通じているのか、そもそも出口があるのかさえ誰も知らないのだよ。これは困ったことになった」
 といっても、僕たちにできることは何もなかった。地上へ戻り、疲れた体を引きずって屋敷へ帰ったんだ。
 もちろん屋敷にマイカの姿はなかった。すぐにマーリンからのメッセンジャーが来たが、ルクスの姿もやはり屋敷にはないということだった。
『こちらの屋敷にマイカの姿もない』と返事のメッセージを書きながら、僕はアリシアと顔を見合わせるしかなかった。
 噂になることなど、もはや気にしてはいられなかった。捜索隊が組織され、夜明けと同時に地下トンネルへ入ってゆくことが決まった。僕も志願したが、同行することはマーリンが許可してくれなかった。屋敷で知らせを待つようにときつく言われ、従うしかなかった。
 午後も遅くなって、とうとうマーリンから短いメッセージが届いたとき、その内容に僕は驚いた。



 カイへ
アリシアにマイカの服を着せ、ベールをかぶらせておきたまえ。
ルクスをひきつけるために、囮を用意する必要がある。
危険だが仕方がない。
他に方法はない。
地下の捜索はおそらく空振りに終わるだろう。
捜索が済み次第、わしも急いでそちらへむかうが、間に合わない場合のことも考えておく必要がある。
 マーリン



 何のことやらよく意味がわからなかったが、指示に従うことにした。幸いアリシアも同意してくれた。
 マイカの服やベールの置き場所は、アリシアが一番よく知っていた。準備には二十分とかからなかったが、その結果に僕は目を丸くすることになった。濃いベールをかぶったアリシアの姿は、もうまったくマイカと見分けが付かなかったんだ。
 居間のソファーにアリシアがおとなしく座ると、本当にマイカが帰ってきたんじゃないかという気までしてくるほどだった。僕はなんだかうれしくなってしまい、いそいそとお茶をついだりした。
 こう書くと平和な夜だったように聞こえるかもしれないが、何も知らない召使いたちはともかく、僕とアリシアの心中はそうではなかった。
 さらにもう一度届いたメッセージの内容から、ルクスはやはり地下には見つからず、マーリンも夜中過ぎまでは帰って来ないことがわかっていた。
 僕たちはマーリンの到着を待ち続けたが、結局別の訪問者が先に姿を現したんだ。
 僕はソファーの上であくびをしていた。マイカの姿のまま、アリシアは僕に向かい合って座っていた。
 僕たちはまだ知らなかったのだが、召使いたちはすでに逃げ出しかけていたらしい。でもそれも無理はないかもしれない。ルクスは目をギラギラ光らせ、屋敷の裏口から忍び込んできたんだ。
 ルクスが僕たちの姿を見つけるのに、時間はかからなかった。大きな音を立ててドアが突然開き、僕を飛び上がらせた。
 目を丸くするどころか、ルクスの姿を見て、僕は悲鳴をあげそうになった。
 すでに凍毒丸の効果は切れ、蜂毒が活動を再開していたのだろう。彼女の体はその左半分が紫色に変わり、しかも溶解を始めていたんだ。
 蜂に刺されて人が死ぬことはあっても、人間の体が溶けてしまうことはない。
 だが彼女の場合、凍毒丸の力で毒の作用を不自然に凍結し、一時停止させていたのだ。
 その凍毒丸が切れ、毒素の破壊力が、まるで十年分の利息を一度に取り立てるようにして襲い掛かっていたのかもしれない。
 開いたドアに寄りかかり、一度はよろめいたが、ルクスの手にはまだしっかりとナイフが握られていた。
 おそらく左目はもう視力を失っていただろうが、残った目でアリシアをにらみつけ、ルクスは憎々しげに唇を動かしたんだ。
「マイカ、その子供を私にお寄越し…」
 マイカの衣装に身を包んだまま、アリシアはゆっくりと立ち上がった。アリシアは最後までマイカの役を演じるつもりなのだと僕は気がついた。
 何をどうしていいのやら、僕にはさっぱりわからなかった。すでに半分溶けてしまった体で、それでもルクスはアリシアににじり寄ろうとしている。
 あの手からどうやってナイフを叩き落とせばいいのか、見当もつかなかった。
 口では勇ましいことを言い、事前にあれこれ作戦を考えていても、いざとなると体が動かないものだね。
 もう一歩、ルクスはアリシアに近寄った。
 ついと動き、アリシアが二歩下がるのが見えたが、たったそれだけの距離でも、ルクスには何十メートルもあるかのように感じられたかもしれない。
 ルクスにはそれだけの距離を行く力ももうなく、フッとため息をついたかと思うと、とうとうナイフを落としてしまったんだ。
 だがそれは僕の勘違いだった。
 ルクスは指の力が抜けてナイフを落としたのではなかった。蜂毒の作用が右半身にまで及び始めていたんだ。
 ルクスの体は溶け続け、その腕が突然ポトリと肩からはずれ落ちたのだった。
 今度こそ僕は大きな悲鳴をあげた。それが耳障りだったのか、首をかしげてルクスはこちらを振り返った。
 だが僕は、また勘違いをしたのかもしれない。ルクスは首を曲げたのではなく、彼女の首はすでに頭部を支える強度を失っていたんだ。肩を離れてあっという間に床に落ち、ルクスの頭はゴトリと大きな音を立てた。
 しかしその目玉はまだ僕へと向けられ、僕はにらみつけられていると感じ、もはや動いてはいないはずの唇も、僕に向けて何か恐ろしい呪文をとなえている最中であるように思え…。
 そして僕は、何もわからなくなってしまった。
 気が付いたのは隣の部屋で、僕は長いソファの上に寝かされていた。枕の代わりにアリシアのひざが頭の下にあり、そばでマーリンが心配そうに見下ろしているのと目が合った。
「あれマーリン、ルクスは? そうだ、あれはやっぱりルクスだったんだよ。マイカじゃなかった」
「ああそうだよ。体に蜂毒を受けていたのだからね。結局、用意した凍毒丸は間に合わなかった」
「居間の死体を見たの?」
「見たさ。かわいそうなことをした」
「あのねマーリン…」
「なんだね?」
「十年前には、ルクスがマイカを刺し殺していたんだよ」
「そういうことのようだね」
「だけどその時には、ルクスもすでに死んでいたんだよ。蜂に刺されたときに、もうすでに死んでいたんだよ」
「どうしてそう思うのだい? ははあ、凍毒丸のせいだね。医者を呼んで、今死体を見せたところだ。君の言うとおり、たった今死んだものとはとても思えず、まさしく死後十年たった白骨死体と見まがう状態だね。
 ルクスに凍毒丸を与えたことを、医者本人が一番後悔しているよ。あのとき蜂毒で死なせておけば、こんな悲劇は生まれなかったかもしれないな。少なくともマイカ一人は、今でも元気に生きていただろう」
 こうやって事件は終わったんだ。マーリンが裏でどう手を回したのかは知らないが、マイカとルクスは不幸にもどちらもある病気にかかり、数分と間を置かずに同じ夜のうちに死亡したと発表された。
 もちろん僕だって、どこそこの町で双子の兄弟姉妹がほとんど間を置かずに死んだという噂や伝説じみた話は何度か耳にしたことがあるし、眉唾に思えて、正直あまり信じてもいなかったんだ。
 だからマイカとルクスの場合も同じことで、世間が信じてくれたとはとても思えないが、表立って何か言う者はいなかった。
 マンドレーク家には誰も逆らえない。首都においては、マンドレーク家の力とは、それぐらい強いものだったのかもしれない。
 マンドレーク家の力を背景に、町全体を巻き込んで、マイカとルクスの葬儀は盛大に行われた。
 あまりにめまぐるしい出来事が続いたせいで、事件の直後から熱を出して、僕は少し寝込んでしまったが、アリシアが看病してくれたおかげもあって回復し、葬儀には出席することができた。
 本当に大きな葬儀となり、首都の主だった商工関係者はもちろん、王宮からも使者が来たほどだ。
 気丈な男なのか、マーリンは葬儀をすべて滞りなく終わらせたが、これにはもう一つの意味があり、ただ死者を送る場であるというだけでなく、マンドレーク家の新しい後継者のお披露目でもあったのだと僕が気づいたのは、だいぶ後のことだった。
 マイカとルクスの死後、マーリンには新しい跡継ぎが必要になる。
 その座につく者の名が正式に発表されたときには、僕が一番驚いた。
 町の新聞に大きな記事が出て、それを読んで僕も知ったのだが、自分の跡継ぎとしてマーリンが指名したのは僕だったんだ。
 もちろん僕は、法的にはマイカやルクスの弟、つまりマーリンの息子ということになる。しかしそこに相続が絡むと、まったく別の話になるような気がしていたんだ。
 でもマーリンは、跡継ぎとして僕を指名した。その理由がわかったのは、しばらくたってからだった。
 アリシアはそのまま僕のメイドになった。僕は以前と同じ学校に通い続けたが、名誉校長の椅子は今は空席になっている。
 僕の気分が落ち着き、新しい屋敷での生活にもすっかり慣れた頃、アリシアが僕の部屋へやってきた。
「アリシア、どうしたの?」
 アリシアは封筒を差し出した。手紙のようだ。
 受け取ると、宛先は僕になっている。差出人のところにはマイカの名がある。筆談でアリシアが説明してくれた。
「『自分にもし何かあったらカイ様に渡すように』と、以前からこの手紙を預かっていたのです」
「マイカから?」
「はい」
 僕は封を切った。真っ白で高価な紙に、几帳面なマイカの文字で言葉がつづられていた。その文面を紹介することで、この物語を締めくくろうと思う。



 親愛なるカイ
私に何かがあった後、あなたの身がどうなるのか、それだけが心配です。
森の中の小さな家から、誰一人知る人のない首都へと、私が強引に連れてきてしまったのですから。
さまざまな理由と共に、あなたの人懐っこい性格やまじめさなどをあげて、私なりに父を説得してきたのですが、それが効果を上げたかどうか、正直に言って見当がつきません。
父があなたをマンドレーク家の相続人と認めてくれればいいのですが、私にはなんとも言えません。
父が相続人と認めてくれなかった場合を考えて、私の財産の半分を、あなたの名義で信託しておきました。
銀行を訪ねて、問い合わせてごらんなさい。
ルクスのことでは色々と迷惑をかけてしまいましたが、あれでも実の妹なのです。
切り捨ててしまうことはできませんでした。
だけどカイ、あなたは萎縮することはないのですよ。
あなたはれっきとした私の弟なのです。
何も引け目に思うことはありません。
ルクスや父が何を言おうと、気にすることはないのです。
 愛を込めて、あなたの姉より

(終)

マンドレーク家の双子

マンドレーク家の双子

大富豪のマンドレーク家には双子がいる。 常に顔をベールで隠している姉。 ざっくばらんで明るいが、どこか下心がありそうな妹。 どうやら姉の顔の傷は、この妹がつけたものらしく… (完結ずみ)

  • 小説
  • 中編
  • ホラー
  • 青年向け
更新日
登録日

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted