儚異聞1️⃣源蔵

儚異聞1️⃣ ー源蔵ー


 初枝の本当の父親、つまり子種は源蔵なのである。
 驚かれる諸氏もおありだろうが、不肖筆者が言うのだからご承知いただきたい。
 すなわち、初枝は母の儷子と源蔵の生物学上の子だ。このメスだけが持ち得る原理の禁忌は、儷子の他は源蔵も知らない。 しかし、それは果たして儷子だけの思い込みかも知れない、これも事実なのだから、男女の有り様というものはかくも錯綜しているのである。

 儷子は、ただ一度だけ、初めての男の源蔵に犯され、拒絶を主張しながらも、しかし、紛れもなくけたたましい快感を得て懐妊したのだ。正確には受胎したと、儷子が確信したのみなのではあるが。 そして、何らの医学の裏付けがあったわけではないし、誰もその証明を求めたわけでもない。そして、儷子と父青二郎の血液型は同一だったのである。
 だから、それは儷子の原初の本能に由来する神秘的な閃きだけだった。単なる思い込みに過ぎないのかも知れない。
 なにぶん、儷子は源蔵との性交の三日後に青二郎の精液を受容したからだ。源蔵の精液が儷子の子種だなどという状況証拠すらないのだ。
そもそも精液が流入した瞬間に懐妊したか否かなど、当の女にすら判別できる筈もない。誰の精子かなども、随分後に獲得するであろう遺伝子の最新医学の検証なしには、決して識別できないのである。
 チンパンジーのDNAはヒトと殆んど違わない。この発情したメスは群れのオスの全てと、息も絶え絶えに交尾する。気絶しているメスに射精するものすらいると聞いた。ひたすら受胎の確率を高めるために、メスは爛熟した生殖器を開き、オス達は絶え間なく射精するのである。誰の精液であろうが構わない。最も頑健な精子と受精し子孫を残すのだ。
 ヒトはこうした生物から分化した生き物であるに過ぎない。この元始の疎ましい本能を制御するために編み出された宗教や倫理や法がなど、どこまで効能を発揮でき得るのか、少なくとも文学的には誰も知らない。

 マリアが神の子を受胎したという神話は、なぜこうも容易く成立したのか。そもそも、マリア自身が確信したのか。或いは、何者かの謀略の意図が作り上げたのか。マリアが生来の狂人だったのか、信仰が女を狂気の世界に導いたのか。或いは乱脈な性交の果てに思い付いたまがまがしい虚言だったのか。
 しかし、いずれにしても、この処女懐妊の幻想を信徒達が望んだのは確かだろう。絶望の淵に佇み救済を宿願する人々が神の子を得るためには、絶対に必要な原初だったのではないか。
 救済主はまず予言者でなければならなかったから、生身の人間として実在しなければならない必然があったのだ。キリストが救済主になるのは自らの肉体を滅ぼされ復活を遂げた後の事である。

 ニ一歳の儷子は美顔という程ではないがふくよかな、時おり菩薩に似た天賦の破顔を見せる容貌だ。そして健康で豊穣な身体を授かっている。しかし、幼時の火傷による痛ましい痕跡があるのだ。顔には左耳からこめかみにかけて、豊潤な左の乳房はその半分を過去の非業が覆っている。儷子の両親は、目を離した瞬時に囲炉裏に転落させてしまった過失を悔やみ、儷子を精一杯慈しんだ。儷子には兄がいたが一歳で病没していたから、跡取り娘の結婚をいっそう苦悶した。県内随一の山林地主の家業にとっても、儷子はかけがいのない存在なのだ。
 儷子自身に、傷痕の劣等感は確かにあった。とりわけ、県庁所在地での女学校生活で痛切に実感した。だから、大学進学は潔く諦めて村に戻り、家業を継ごうと決めた。しかし、婿取りなどは望むべくもないかも知れない。それならば自身が家業の全てを余すところなく習得して継承しなければならないと、決意したのである。
 儷子は劣等感もバネにして生きられる強靭な性行の女だった。何より儷子は、故郷の風土と先祖が営営と残した広大な持ち山や立ち木そのものの生態が好きだった。

 一九一八年の盛夏。
 その日も儷子は一人で山の見回りに出掛けた。
 誰も見えない筈の椚の大木の付け根で、小水を終えて身仕舞いをした儷子が、源蔵に気付いた。儷子の驚愕が凝視して凍結した。無音の長い時が二人を包む。そして、呆然と佇む儷子にいかにも不可思議な諦観が忍び寄り、二人だけの共同体を創り始めたのである。
 黙契は密やかに、しかし、鮮明に彩られていくのではないか。源蔵は怪しく妖艶な幻想に引き込まれる。女が醸す悩ましい風情が証明しているに違いないと思う。
 いずれにしても、女の危うげな移ろいが、頼みの寄る辺を求めて漂泊しているのは確かだ。情念は覚醒していないかも知れない。しかし、少なくとも潜在する形而下の欲念が、今しも眠りから覚めるのか、あるいは森の夢幻に浮遊するのか、その瀬戸際にいるのであった。そう、源蔵は確信した。
 儷子が意識してであろうが無意識であろうが、儷子自身が毅然と肯定している肉体は、この森にただ存在しているだけで己自身の猥褻の真髄こそをあからさまに、源蔵に誇示してしまうのだ。
 儷子のいつもの身体なのだが。しかし、この時ばかりは、格別に豪奢な供物に仮装して朧に曝している。しかも、受諾の反映とすら錯綜されかねない、切り立った口角をときめかせた表情をすらする。
 しかし、意に反して、儷子は、「嫌」と圧し殺して叫んだ。だが、それが源蔵にはいかにも逆説的な挑発の密やかな熱い吐息に聞こえてしまうのである。むしろ、微かに肯定の薫りを匂いたたせているのだ。慎ましく拒絶はしているが、その拒否すらその後の神秘な黙秘によって新しい思惑を源蔵に放射してしまうのであった。
 女の視線は、もはや、ここなどは私の棲むのに適切な宇宙ではないとでもの如くに装おう。縄文の古代をも透徹する毅然とした眼差しだ。
一連の拒絶の堅固な主張の砦に訪れた、いかにも些細な過失を装いながら、それでもあくまでも純白で赤裸々な心底だと言わんばかりに、儷子は艶めく眉間に二本のシワを深くたてる。だが、それすら源蔵の誤解の欲情を掻き立てる、妖艶で奔放な媚態の乱舞でしかない。
 摂理などはいっさい度外視して、無邪気にあからさまに爛熟した桃が、いままさに獰猛な情欲の鋭い犬歯を噛みたてられた有り体で、盛夏の浅い眠りのただ中で、波打つ嬌声を吐きながら、ふくよかに熱くたぎる有り様の満開な乳房を野良着の下に隠している。
甘露な蜜の匂いたつ秘密の雌しべばかりの、曼珠沙華か夕顔や栗の花の女は、もはや自己同一性などは崩落させたのであった。
 そして、様々な哀愁を受胎し煩悶を堕胎して、未だ何物をも産むことのない孤塁の股を開こうとする。
 その鬱勃した孤高の秘密ばかりが唯一の、しかし、形ばかりの真実の破片なのだと、そして、その片言ですら凶器になるのだと、まるで狂喜の根源は狂気だとでも言いたげに、性器とみがまう紅い唇を性器と化した赤い舌で、虚ろに自慰的にしたたかに舐めた。

 儷子は源蔵に犯されて、しかし、合意して交わり、受胎を確信したのであった。
 子供を産みたい。しかし、屈辱と歓喜にまみれた忌まわしい源蔵の子を産むわけにはいかない。
 儷子は決意して青二郎を誘惑したのであった。

   -終-

儚異聞1️⃣源蔵

儚異聞1️⃣源蔵

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 冒険
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-08-11

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