聖者の行進(5)
五 救急車ばばあ
ここに一人の老婆がいる。名はC子。年は八十歳過ぎで、一人暮らしだった。住まいは、公営住宅の一階。体はやせぎすで、最近、認知症の症状がでてきた。父や母、兄弟は既に亡くなり、甥や姪はいるが、付き合いはない。一人暮らしのため、いつも寂しさを感じている。昼間は、介護ヘルパーが食事の世話や掃除、買い物等をしてくれ、話し相手もいるため、本人は、にこにこしている。
問題は夜だ。夜になると、寂しさが一層強くなり、鼻の奥の調子が悪いと言っては、消防署に電話をする。夜中だろうが、明け方だろうが、おかまいなしだ。消防署の方も、「またか、常連さんだ。何とかしてくれ」とぼやきながらも、連絡を受けた以上は病状等の把握のため、C子の家を訪れざるを得ない。
C子の自宅まで救急車を走らせ、部屋のドアを開ける。C子は、誰かに会えたことを喜び、にこっと笑う。救急隊員は、C子に異常がなく、病院搬送の必要がないことを確認すると、担当のケアマネージャーに連絡し、C子の自宅から帰ることとなる。隊員には、安堵とどどどっとした疲れが押し寄せる。もちろん、昼夜を問わず団地を救急車が訪れるため、近所の住民もいやでも、夜中に眼が覚めてしまう。近所の主婦たちは、「今日はいい天気ねえ」の挨拶代わりに、「まあ、ホント。お騒がわせえ、あのおばあさん」と道端会議の話題に取り上げる。ついた渾名が「救急車ババア」だった。明日は我が身とも知らないで。
もちろん、C子にも若い頃はあった。昔、芸者をしていたことがあり、仏壇の横には、三味線を立て掛けている。本人の写真は飾っていないが、若い頃は、それなりの美貌だったのであろう。本人は、「パトロンはいず、身を売っていないのが、自慢だ」と言う。だから「お金がなく、ずっと、借家住まいであった」と説明する。
C子が仕事をしていた頃、毎日、夕方になると髪を結い、着物に着替え、化粧をしてバスに乗る姿は、どのような様子であっただろう。公営住宅と市内バスと芸者。粋なようで、いけていない。そのC子が亡くなった。心臓が止まり、呼吸が止まり、体の機能が止まっても、C子の意識は続いている。
「救急車!救急車!」
行列の中から、甲高い声が響く。
「救急車よ!救急車よ!誰か、救急車を呼んでよ」
その叫び声も行列の騒ぎ声でかき消される。「どうしてなの。こんなにたくさんの人がいるのに、誰も、救急車を呼んでくれないの。他人に冷たいんじゃんないの」
怒りに変わり出すC子。右隣の霊が
「あんた、何を言っているのよ。あんたは、もう既に、死んでいるのよ。今さら、救急車を呼んでどこにいくの。体は霊柩車に運ばれちまっているのよ」と諭す。
「あっ、そうか。あたし、死んだんだ」
C子はその言葉を聞くと、再び、黙ったまま行進を始める。だが、しばらくすると、
「鼻が痛い、鼻の奥が痛い。誰か、誰か、救急車を呼んでよ」と叫び出す始末。
すると、今度は、左隣の霊が
「あんた、死んでいるんだよ。鼻が痛くったって、死にやしないよ、いやあ、死を心配する必要はないよ」とリアクションしてくれる。その都度、 C子は、「あっ、そうか。あたし、死んでいるんだ。鼻なんか、痛くても心配しなくてもいいんだ」と納得する。だが、また、しばらくすると、
「救急車よ、救急車。救急車に乗りたいわ」とあたりかまわずわめき散らす。
そんなわがままばあさんに誰も付き合ってくれなくなった。
「いったい、どうなっているんだい。近頃の若者は。年寄りが困っているのに、誰も助けてくれないのかい」と、自分が人を困らせていることはわかっていない。行進のスピードに合わせずとろとろと歩く。早足の男の左肩がばあさんの右肩の後ろに当たる。いや、正確には、透き通っただけだが、C子はまだ生きていた時の感触が忘れられない。当たったと言う雰囲気だけで、C子は1回転する。再び、別の男の左肩がばあさんの右肩の後ろを透き通る。
「あーれー」
C子は、再び、一回転する。ばあさんゴマの始まりだ。行進に飽きていた霊たちは、唯一の娯楽を見つけたかのように、いや、魔除けの儀式のように、わざとばあさんの肩にぶつかっていく。
例えば、想像してみよう。小さな川に石を投げ込む。石は水の勢いに負け、流されるか、自分の立ち位置はここだと決め、必死で抵抗するか、のどちらかだろう。だが、C子の場合は、そのまん中だ。流されるわけではない。何とか、踏ん張れる。だが、回転は続ける。
行進に左肩を押された雰囲気で、右に一回転。再び、後ろからの死霊に左肩を押された雰囲気で、一回転。回転しながらも、行進を続けるC子。なんと、いじらしい姿だ。
「救急車。救急車を呼んでよ」の声だけが、行進の渦の中に消える。
C子のほっぺには、これまでの人生が映像として流れている。くるくる回るC子のほっぺを眺めたパイナップル髪の若い男の霊。何を思ったか、列を離れ、近くの楽器屋に入っていった。しばらくすると、右手に三味線、左手にベースを持っている。もちろん、実物じゃない。三味線とベースの霊だ。
息を切らしながら走り、C子のいる列に入り込みむと、「ほら、ばあさん。三味線だ」と手渡す。自分はベースを肩から吊し、ピックを指で掴むと、弾き始めた。ダダダン、ダダダン。ダダダン、ダダダン。
三味線にほおずりをしていたC子。ベースの音を聞くと、「あたしが、リードしてやるよ。よーお」と叫び、三味線を掴むと、昔取った杵束ならぬバチで、べべン、ベンベン。べベン、ベンと弦を弾く。ずっこける若い男。パイナップルの髪を逆立てながら、
「まあ、いいか」と呟く、三味線のリズムにベースを合わせようとする。
こうしてC子とパイナップル頭の若者は、
みんなで歌おう
みんな仲間入り
聖者の行進
町にやってきた
誰でも歌える
声を合わせよう
ほら、聖者が来た
町にやってきた
の歌声に合わせ、伴奏しながら、歩き始めた。年の差を超えた即興のバンドだ。なんて、ほほえましい姿だ。隊列は乱れ、弾き飛ばされる者もいたが、三味線ばあさんとベースあんちゃんの演奏のおかげで、だいたい(そう、何でも、だいたいでいいんだ。完璧こそが、人を抑圧し、反乱を起こさせる)秩序よく、行進していくのであった。もちろん、歌声の音程も楽器の演奏もだいたいであった。
行進は、歌声に三味線、ベースが加わり、次第に、ハーモニカ、カスタネット、リコーダーなど、様々な楽器も加わった。霊たちの中にもプロのミュージシャンたちがいたのだ。彼ら彼女らは、自ら進んで、演奏することを申し出た。おかげで、行進にリズムが生まれた。リズムに合わせて、行進者の頭が上下する。屋根に降った雨のひとしずくが、雨水炉を通り、側溝を流れ、小川に辿り着き、大河に流れ込む。まさに、霊たちは、これと同じだ。行進は、商店街を抜け、中央通りに出た。
ポンチョを着たまま、先頭を歩くD夫。
「すごい列だな」
後ろを振り向くと、長蛇の列。それも一列、二列じゃない。先頭辺りは、二列から三列だが、後ろに行くに従い、広がっていく。先が尖った二等辺三角形だが、底辺は見えない。最後尾が見えたかと思うと、また、新たな霊たちが列に加わり、底辺が後ろにどんどん下がっていく。永久に伸び続け、未来永劫広がる底辺なのだ。
聖者の行進(5)