ホップ・ループ

塩胡椒

ものを踏み潰すことに強い嫌悪を抱いている大学生「飯田尚也」は、ある時踏みつぶして靴裏に張り付いた"何か"を見る度に気を失ってしまい、夜をループすることになる。

ホップ・ループ

「行こうか」
 そう言って彼女の手を掴み、スマートに歩き出した飯田尚也の靴裏で何かが潰れたような違和感がした。
「うげっ」
 冷たく乾いた夜の空気を破り間抜けな声が辺りに響いた後、少しの沈黙が流れる。
「どうしたの?」
 心配そうにこちらを覗き込む彼女に急ごしらえの引きつった笑顔を披露した尚也は、その東大生の明晰な頭脳で考えをめぐらせた。

 しまったなぁ、俺はこの何かが潰れるような感触がとても苦手だ。何を踏み潰してしまったのだろうか…想像しただけでも恐ろしい。でも彼女が見ている前で格好のつかないような真似は出来ない。ここは一か八か、取り繕ってみるしかない。
「何でもないよ、行こうか」
 尚也はそう爽やかに言ったつもりだったがかなりぎこちない言い方になってしまっていたようだ。そんな尚也の様子を彼女は見逃さなかった。
「大丈夫?体調でも悪いの?」
「だ、大丈夫だよ。さぁ、行こう。」
 動揺した尚也はそう言うと半ば強引に彼女の手を引き、その場を後にした。

 その後、彼女を自宅に誘うも呆気なく断られてしまい尚也はとぼとぼとひとり家路に着いた。
「体調悪そうだしって、俺に漬け込んで理由を作りやがって…」
 尚也は自室でひとりやけ酒を浴びていた。
 尚也は自分にはとても魅力があると絶対の自信を持っていた。しかし、その高貴なプライドに、あまりも賢くも高貴でもないただの一般庶民である彼女に断られたことで泥を塗られたような気がして、怒りで酒が進んでいた。
「そもそもあの時何かを踏んづけたせいだ…」
 あれさえ無ければ彼女に言い訳を作らせる余地など与えなかっただろう。そんな事を考えていると尚也はある事に気がついた。
「…まてよ、何かを踏んづけたということは…」
 尚也はゾッとした。まだ自分の靴裏には自分が踏みつぶした"何か"が張り付いている可能性があるのだ。瞬時に全身から血の気が引いていく感覚が走り、嫌な汗で額が濡れる。
 いやいや、落ち着け自分。あの時何かを踏みつぶした地点から自宅までは少なくとも500mはある。踏みつぶした時に靴裏に張り付いていたとしてもきっと剥がれ落ちているに違いない。
 でもこのまま確認せずに眠りにつくことはもっと恐ろしい。尚也は怖いものがそこにあるかもしれないと思うと確認せずにはいられない怖いもの見たがりであった。 
 靴裏に"何か"はまだ張り付いているのか? そうこうしているうちに尚也は靴の裏が気になって仕方がなくなってしまった。見たい、見たい。我慢が出来なくなった尚也は玄関へと恐る恐る歩みを進め、今日履いていっていた黒の革靴へゆっくりと手を伸ばした。黒の革靴を手にしたと同時に緊張が走る。この下に"何か"が張り付いているかもしれないのだ。目を細め、恐る恐る革靴の裏を見ようとするが、"何か"が潰されたおぞましい姿がそこにはあるかもしれないと思うと少し躊躇ってしまった。
「ふぅ…」
 直也は一度革靴を置き、小さく深呼吸をした。こういうのは一気に見てしまった方が良い。ゆっくり見ると恐ろしさが増すばかりだ。尚也は覚悟を決めた。革靴に手を伸ばすと勢いよくつかみ、裏返し、靴裏を直視した。


「尚也くん?」
 彼女のそう呼ぶ声に尚也はハッとした。
 現在の状況が飲み込めない尚也が辺りを見渡すとそこは帰路の途中にある高架下だった。
「さっきの話の続きは?急にボーッとして、どうしたの?」
 高架下独特の閉塞感と冷気に当てられた中で尚也は混乱した。まてまて、冷静になれ。尚也は自身に言い聞かせるように脳内でそう呟き、その東大生の明晰な頭脳で考えをめぐらせた。


 少しの思案の後、尚也は全てを思い出した。
 俺は確かつい先程、ひとりで家に帰り、酒を浴びるように飲み、踏みつぶしてしまった"何か"を確認しようと革靴の裏を見て…。
 そこまで考えたところで尚也の頭の中に、ある一つの仮説が立った。
「もしかして…」
「大丈夫?もしかして体調でも悪いの?」
 訝しげにこちらを見る彼女に「いや、大丈夫。」と端的に言い、尚也は再び考えをめぐらせた。
 もしかして時間が巻き戻っているのか? いや、そんな馬鹿馬鹿しい。俺が酒を飲みすぎたせいか?
 そんなことを考えながら歩いていると二人は高架下を抜けた。
 この高架下を彼女と二人で抜ける状況もどこか見覚えがある。…まてよ、とするとこの後はもしかして…
 尚也の嫌な予感は不幸にも的中してしまった。
「うげっ」
 尚也の靴の裏で何かが潰れたような感触がした、どうやら何かを踏んづけてしまったようだ。
「どうしたの?」
 苦悶の表情を浮かべる尚也を彼女は心配そうに見ている。
 尚也にはこの状況に見覚えがあった。
「あぁ…」
 尚也は精神的に参ってしまった。直近で二度もこう嫌な体験をする事になると流石に堪えるものがある。だが直後、ある考えが浮かんだ。
 いっその事今ここで何を踏みつぶしてしまったのかを見てしまおう。そうと決まれば話は早い。覚悟を決めた尚也は、その長い足を手前で折り曲げ、革靴を掴み足の裏を勢いよく直視した。直後、靴裏を見た尚也の意識は闇に葬られてしまった。



「尚也くん?」
 彼女のそう呼ぶ声に尚也はハッとした。
 尚也が辺りを見渡すとそこは帰路の途中にある高架下だった。相も変わらず高架下には独特の閉塞感と冷気が漂っている。
「さっきの話の続きは?急にボーッとして…どうしたの?」
「…はは」
 尚也は急に可笑しくなり不意に笑いが込み上げてきた。
「大丈夫?もしかして体調でも悪いの?」
 定型文かのように同じ言葉を喋る彼女に尚也は確信した。あの踏みつぶした"何か"を見る度に俺の意識は途絶え、こうして同じ時間をループしてしまう、と。
「悪い、ちょっと急に腹が痛くなってさ。」
 吐き捨てるような、少々乱暴なものの言い方になってしまったかもしれないと尚也は思ったが、今はこのループから抜け出すことだけを考えていた。
「先に帰っておいて。ちょっと俺はコンビニにトイレを借りに行って来るよ。」
 そう吐き捨てると尚也は高架下の来た道を戻り、彼女を置いて走り去っていった。

 かなり遠回りになってしまったが尚也は何事もなく自室に到着することができ、安堵で胸を撫でおろしていた。
 何も踏んづけずに帰ることが出来た。これで安心だ。安堵のあまりか、尚也に急激に眠気が襲ってきた。あぁ、安心したら眠くなってきた。安心感と眠気が混ざり合い薄いピンク色の香りが生まれる。その香りが呼び寄せた抗い難い強烈な眠気に背後から殴られ、尚也は自室のソファーで倒れるように眠ってしまった。


「うげっ」
 次の瞬間、不意にそんな拍子抜けした声が出てしまった。
 続いて声にならない悲鳴が上がった。どうやら自分から出たようだったが、殺される直前に上がる悲鳴のように恐怖に当てられた声にこんな声が自分から出るものなのかと尚也は驚いてしまった。
 何かが潰れたような感覚、どうやら何かを踏んづけてしまったようだ。
「どうしたの?」
 全身の鳥肌が収まる気配はなかった。尚也の脳内はただ一つの感情で埋めつくされてしまった。
 恐怖。どこまでも濃く黒い恐怖が尚也の脳内で渦を巻く。
「あ、あぁ…」
 尚也には彼女に応答する気力さえ残っていなかった。
 続いて、全身の骨を抜かれてしまったように尚也はその場にへたり込んでしまった。
 恐怖心に支配され、次第に遠のく意識の中で尚也はあの日のことを思い出した。少年時代の忘れられないあの日を―。



「くるみ! くるみー! どこにいるんだー?」
 学校から帰った小学四年生の夏、半袖半ズボンの服装からたくましさが感じられる見た目とは裏腹に、体型の小柄さと怪我の多さが目立つ少年、「尚也」は家に帰るとランドセルをおろし飼っているハムスターである「くるみ」を呼んだ。
 二、三回呼んだ後、くるみはどこからともなく少年の元へ現れる。
 学校での友達が少なかったうえに体の弱かった尚也は、夏休みに入るとこうして家でくるみと遊ぶ回数は必然的に増えていった。

 そんな幸せな毎日が続いていたある時、尚也とくるみの日々は突然に終わりを迎えてしまった。
 ある日、お昼ご飯を食べ終わった後、椅子から立った尚也は勢いよく"何か"を踏みつぶしてしまった。

 何かが潰れたような感覚、どうやら何かを踏んづけてしまったようだった。

 全身の毛穴から吹き出す冷や汗、緊張感。

 嫌な予感がして恐る恐る右足を退けてみた。その予感は的中してしまっていた。

 そこには変わり果てたくるみの姿があった。


「わざとじゃないのなら仕方がないわよ」
「くるみもお前のことを恨んでたりはしないよ」
 そんな両親の声も尚也の耳には届かなかった。幼いながらその経験は尚也にとてもショックを与え、そして尚也はその日から今日までずっとその経験に囚われてしまっていたのだった。


 次に意識を取り戻したのは、また高架下で彼女と二人で歩いている場面だった。
 大切にしたきたものが一瞬にして崩壊する、そんなことを恐れた尚也は今の彼女もまた踏み潰してしまうのではないかという異常な不安感に駆られてしまっていたということを思い出した。
 今回は彼女は何も喋らなかった。
 無言で高架下を抜けるとまた何かを踏み潰したような感覚がした。横にはもう彼女はいなかった。
 もう恐れる必要は無い。尚也は優しく、ゆっくりと"くるみ"を踏みつぶした右足を上げる。そこには小さなハムスターが一匹、こちらを見ていた。
 尚也はそのハムスターを優しくすくい上げ、涙を流してこう言った。

「ごめんね、もう何も踏み潰さないから。」
 頬を伝う涙がこぼれ落ち、ハムスターをすくい上げた両手には水たまりができた。ハムスターはただじっとこちらを見ていた。


 心臓が鼓動していることを知らせる無機質な電子音で尚也は目を覚ました。真っ白な天井を見つめる尚也の視界にひとり髭の男が映りこんできた。
「お疲れ様でした。治療、終わりましたよ。」
 まだ虚ろな意識と視界のまま、尚也はゆっくりと上半身を上げた。
「おや、顔が変わった。足枷となっていたプライドやわだかまりも消えたみたいですね。」
 髭の男は後ろを向いていたため表情はよく見えなかったが、優しい口調でそう尚也に語りかけた。
 尚也は自分自身に、過去の記憶に、しっかりと決別するように、言い聞かせるように答えた。
「はい。ありがとうございました。」


 オレンジ色に夜のシロップを少し垂らしたような空を眺めながら帰路に着いた尚也は、今日の事を思い返していた。
 そこから少し歩き高架下に差し掛かった所で、メールの着信音が高架下に鳴り響いた。
 届いたメールを見ると、どうやら彼女からのようだ。
「件名:おつかい
 本文:今朝頼んだオムツ、ちゃんと買ってきた?」
 メールを見て尚也はおつかいを頼まれていたことを思い出した。しまった、忘れていた。今から買いに行くと帰りが遅くなってしまう、急いで買いに行かなければ。尚也は「忘れてた!今から急いで買いに行ってくる!」とメールをし、高架下の来た道を戻った。直後に携帯を閉じてしまったため「頼りにしてるよ、パパ。」とメールが来たことに尚也は気づかなかった。

ホップ・ループ

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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ものを踏み潰すことに強い嫌悪を抱いている大学生「飯田尚也」は、ある時踏みつぶして靴裏に張り付いた"何か"を見る度に気を失ってしまい、夜をループすることになる。

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  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-08-10

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