あの夜と、孤独の霊
孤独に色があるなら、深い紺色だと思う。
夜の色。
段差で足を挫いて、足首を痛めてしまった。
2週に1回くらいの頻度で行く蕎麦屋がある。
蕎麦屋なのに、のれんが無い。風情がないんだ。別に、なくちゃいけないものではないんだが。
光った色のうるさい繁華街の中にあるもんだから、麹塵色みたいなお茶っぽい色が似合うはずの蕎麦屋が、変に寂しく感じちゃうんだな。
蕎麦屋から出たときに、また感じた。
女の視線だった。
女がいると思った。
そちらを見ると、スーツの男が電話をしていた。
またか。
そう思った。
その女を俺は知っている。
真夜中の公園で歌っていた。酒に酔ってベンチに座る俺を見て、「自分を信じなくても良いけど、自分が創ってきたものは信じてやりなさい。」というようなことを言った。
はぁ、というようなことを言っていると、女もベンチに座り、「私も一杯ほしい。」と言って酒を飲みだした。もう若くもなかった。少なくとも自分よりは歳上だろうと思った。
他人のためになりたいのだが、心の奥ではもう自分のためだけになることを繋げて生きていきたいんだ、といったような事を、もっと上品に言っていたと思う。
もうあの家には居られない、行き場がなくなったとも言っていた。
重い悩み話など聞いて、何か頼み事などされたりしたら面倒だと思った反面、彼女からすれば行き当たりばったりな相手ではあったとしても、頼られるような感覚が嬉しかったから「どこへも行かなくたって平気ですよ。」と、中味のない寛大ぶった言葉を言ってみせて喜んだ自分がいた。
それからだんだんと夜の色が薄くなって、朝が近づくにつれて、女は焦っているように見えた。
俺がふと下を向いたときにいなくなってしまったから、あれは霊だったのだと知った。
そもそも俺は、酔ってはいたけど酒なんか持っていなかったし。
夢でも見てるのかと思ったが、透き通った女の声を、これほどまでにはっきりと思い出せることには、どうも霊と過ごしたのは真実だったような気もする。
自分の夢には「におい」が無い事は気づいていたが、あの日、確かにそこには他人のにおいがあった。それがきれいに洗濯された服のにおいか、石鹸のにおいかまではわからなかったのだが。だから、俺の中ではあの夜に霊と言葉交わした出来事は、一応真実となっていた。
よせばよかったのに、作業終わりに仕事仲間にこの女の霊の話をした事がある。
「そりゃあ、たまっちゃってるよ。ハハハ。」
「事件起こすなよ。アハハハ。」
それからも、仕事帰りに歩いていると、ふとあの長すぎるくらいの髪を見て、彼女じゃないかと思うことがある。
この時もそうだった。
段差を降りるときに挫いた足首を気遣って、少しゆっくり降りたから、なんだかその視線がより現実的に思えたのだ。
家に帰ると雨が降り出した。
かんかんかん、とトタンに滴る雨音を聴きながら、あの女の歌う姿を見る事も、あれきり無くなったなと思った。
足首はいまに治るだろうが、最近また腰痛が出るようになった。
窓の脇に干した作業着を眺めた。
疲れ切った紺色の中に、使ったことのない薄桃色の塗料がついていた。
ハッとして近づいて見てみると、すりガラスを隔てた雨音の奥で、女の歌う声がした。
あの夜と、孤独の霊