電車と老婆とチョコレートと傷

 電車に乗るのが苦手になった。
 ホームに滑り込んでくる大きな鉄の塊が恐ろしいのだ。あれに飛び込むことを考えるようになってから、電車がとても恐ろしいものになった。
 今はもう飛び込み自殺なんて考えてはいないのだけれど、まだ電車が怖いのは変わっていない。

 帰省を終え、実家から一人暮らしのアパートに帰るために、わたしは電車に乗る。お金がないから、鈍行だ。
 ホームの黄色い線の内側に立つ。ここにいる限り、電車が来ても怪我をすることはあり得ないのだが、恐怖心が消えることはない。大丈夫、大丈夫と、心の中で念じる。
 構内放送が入る。まもなく普通列車が参ります、黄色い線の内側まで下がってお待ちください。わたしは再び足元を確認する。大丈夫、内側だ。そして、迫りくる電車を見る。目が離せない。どんどん近づいてきて、わたしの前を通り過ぎた。ほら、大丈夫だったでしょ。
 ボタンを押してドアを開け、車内に入った。時間帯のためか、空いている。できるだけ人と隣り合わないところを選んで、席に座った。
 がたんごとんがたん。がたんごとんがたん。規則正しい音に眠くなる。目を瞑って下を向いてみたけれど、眠れなかった。

 そのうちに大きい駅に着いて、乗っていた人は降り、別の人たちが乗り込んできた。人人交換。わたしは座ったままその様子を眺める。知り合いがいないことを確認して一安心する。そして再び目を瞑って下を向いた。ここからが長い。眠れなくてもいいから、寝ているふりをしていたかった。

 トンネルをいくつか超えたあと、人の気配がして顔を上げた。すると、そこには老婆がいた。「隣いい?」訊かれたのでわたしは頷いた。そんなこと聞かなくても座ればいいのに。空いているのだから、わざわざわたしの隣を選ぶ必要もないと思うが。
 ここはどのあたりだろう。そう思って車窓を眺めても、山の中で木が生えている景色が延々と続くこの路線ではわからない。次の駅についたときに、駅名を確認しよう。
 なにか来ていないかとスマホを開いてみたけれど、何もなかった。そういえば、わたしに連絡を取り合うような親しい友人はいなかった。特に悲しくなったりはしなかったが、少し心がからっぽだった。
 隣の老婆が自分のかばんを漁っている様子が目の端で確認できた。わたしはスマホをポケットにしまって、ぼんやりと外を眺める。「どうぞ」老婆がにこやかに言って、そちらを見ると、彼女の手にはチョコレートがあった。「ありがとうございます」その場で食べた。少し苦かった。

 口にはチョコレートの風味が残っている。お茶を飲みたい。
 車内アナウンスが鳴った。どうやら、次の駅に到着するらしい。
 老婆が「ちょっと手を出して」と言った。わたしはいぶかしがりつつも言うとおりに左手を差し出した。老婆が温かい手でわたしの腕を包み込む。不思議な安心感があった。「これでもう大丈夫よ」そう笑って、老婆は電車を降りていった。

 変な人だったな、と思いながら、鞄の中からペットボトルのお茶を出して飲んだ。駅名を確認することを忘れていたことに気づいたが、まだしばらくかかりそうであったので、また寝たふりをすることにした。寝たふりをしていると、気づいたら寝ているものだ。起きたときには、乗り換えの駅に着いていた。

 アパートに着いて、部屋着に着替えるために服を脱いだ。そこでわたしは、傷だらけだったはずの左腕がまっさらになっていることに気づく。触ってみても、今までの凹凸はなく、すべすべだった。

電車と老婆とチョコレートと傷

電車と老婆とチョコレートと傷

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-08-08

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