麝香は夜に咲く
くじ運の悪さをこんなに呪ったことはない。修学旅行の部屋は大体八人くらいが入れる大部屋なのだが、一日だけホテルで二人部屋になるそうだ。その組み合わせを決めるくじがたった今行われたのだが――何度見てもFはFだ。そして同じアルファベットが書かれた紙を持っているのは目の前にいる水無瀬愛梨だ。最悪としか言いようがない。
周りを見れば公然とくじのトレードが行われている。その中に入ればこの状況を打破できるかもしれないが、とはいえ特別親しい相手もいないのだ。
「ちょうどいいと思うけどなぁ、私は」
「僕は君と違って周りに嫌われてはないと思うんだけど」
「でも誰とも深く付き合ってないじゃん。それって要するに友達いないってことじゃない?」
「君にだけは言われたくないね」
多分、水無瀬と同じ部屋はどうしても嫌だという人がいても、僕と同じ部屋はどうしても嫌だという人はそれほど多くないと思う。ちなみに僕も水無瀬と同じ部屋は嫌だ。
「ま、でも一日だけだし。しかも夜だけだからいいじゃない」
「まあそれもそうか……」
どうせ食事はみんなで集まって食べるわけだし、風呂も大浴場があるから、部屋でやることなんて寝ることくらいだ。一日くらいなら問題ないか――と、同室を受け入れたことを、僕はこのあと深く後悔する羽目になったのである。
*
「修学旅行っていうか食い倒れ道中だね」
「……僕の修学旅行に口出さないでくれる?」
とはいえ水無瀬が選んだコースの方が修学旅行らしいといえばらしいのだが。でも彼女は彼女で好きな小説の聖地巡礼コースなあたり、僕と大差ないのではないかと思う。
「あ、見て見て。これ買ったの」
「練り香水?」
「さすが京都だよね。品揃えが全然違うよ」
「そう。じゃあ僕はもう寝るから」
修学旅行は明日以降もあるわけだし、水無瀬と仲良く会話する気もあまりない。なぜか水無瀬は積極的に話しかけてくるけれど。
「まだ九時だけど」
「九時に寝る人だっているでしょ」
水無瀬に背を向けて目を閉じると、背中に気配を感じた。ふわりと甘い香りがする。さっき見せられた練り香水の香りだろうかと思っていると、耳の裏に指が触れた。
「……何してんの」
「どっちかというと、これからするんだよ」
決して強い香りではないのに、その香りで酔ってしまいそうだ。耳許で小さく笑う声が聞こえたと思えば、次の瞬間には耳を喰まれた。
「……っ!」
全身の毛が立つような強烈な感覚。水無瀬を強引に引き剥がそうとすればできるはずなのに、何故か体に力が入らなかった。
「もしかして耳弱い?」
「知らないよそんなこと」
「確かめてみる?」
確かめてどうなると言うんだ。僕の抵抗を水無瀬は完全に無視して、耳に舌を這わせる。
「っ……また鳩尾に一発食らいたいわけ?」
「あれめちゃくちゃ痛いからやめてほしいんだけど。それにそんな顔で言われても強がってるようにしか見えないなぁ」
「……何が目的?」
「私は私が面白いと思ったことしかやらないよ。それに今は旅行中なんだからいいじゃない」
形のいい唇に蠱惑的な笑みを浮かべて、水無瀬は言う。
「旅行中だから何なの?」
「旅の恥は掻き捨て、だよ。今日だけはいつもと違うことをしてみるのもいいんじゃない?」
「それでそっちに何か利益はあるの?」
「あんな抵抗されたの初めてだったから、ちょっと悔しいんだよね。意趣返しってやつ?」
「――最低」
「元から最低だから特に傷つかないけど?」
練り香水の甘い香りに包まれる。僕を組み敷いた状態で、水無瀬は艶然と微笑む。別に相手ならいくらでもいるだろうに、何で僕なんだ。効果がないとわかっていても、彼女を睨みつける。
水無瀬の顔が近付いてくる。逃れる暇もなくキスをされ、強引に舌が入り込んできた。熱く蠢く舌とは別の何かが僕の舌に触れて、しまったと思ったときには既に遅かった。変に甘ったるいその液体を飲み込まされていく。僕は渾身の力を込めて水無瀬の体を突き飛ばした。
「……っ、何飲ませたの……っ」
「気持ちよくなるお薬❤︎」
これ以上ないくらいの笑顔で水無瀬が言った。普通同級生に媚薬を盛るか? 一体どういう神経をしていたらこんなことができるんだ。そもそも修学旅行になんてものを持ってきているんだ。
「すぐ効くけど効果切れるのも早いやつだから安心して。明日には影響ないよ」
「そういう問題じゃない!」
「いいじゃない。せっかくなんだし楽しめば」
「楽しめるわけないだろ……っ」
即効性というのは本当らしく、少しずつ体が熱くなって汗ばんでくる。前後不覚になるような薬は存在しないらしいとわかっていても、よくわからないものを飲まされたのは事実だ。普通に犯罪じゃないか。
「今は旅先なんだから、日常のつまらないことも、倫理も道徳も、全部忘れちゃえばいい」
水無瀬の指が触れるか触れないかくらいの距離で首筋をなぞる。ただそれだけの動きに体が反応してしまって、僕は歯噛みした。
「今はどうなったって、全部薬のせいだよ」
浴衣の合わせから手を入れて、下着に隠された胸に優しく触れられる。自分で触れたことすらあまりないのに、薬のせいなのか、それとも人間の体に元々備わった機能なのか、もどかしいほど弱い刺激にも反応して、ぴんと乳首が立ち始める。そして水無瀬はそんな僕の変化を見逃してくれるような女ではない。
「人にされるのは初めて?」
「……あんたと違ってね」
「初めてが私でよかったじゃない。何もわかってない変な男に乱暴にされるより」
どっちも嫌だ、という意見は受け付けられないのか。そんな文句は僕の胸に這わされた水無瀬の舌によって封じ込められた。
「……っ、」
体が熱い。触れられた部分からその熱はさらに広がって僕の体を侵していく。手で口を塞いで、思わず漏れそうになる声を封じ込めた。
「そうだね、ここあんまり壁厚くないから聞こえちゃうかもしれないし」
水無瀬は舌で僕の胸を弄びながら、浴衣の裾からそっと手を入れ、下着越しに僕の性器に触れた。水無瀬が耳許で笑う。
「もう下着越しでもわかるくらいね」
「ッ……うるさ……っ」
「別にそこまで恥ずかしがることでもないよ。薬も使ってるんだから」
下着を引き下ろされて、水無瀬が内腿に舌を這わせる。肝心の場所には触れていないのに、それだけで体の芯が熱をもって疼き出す。心とは裏腹に奥から蜜が溢れ出して、水無瀬はそれをゆっくりと舐め取った。
「ん、っ……ぅ」
水無瀬に啼かされるなんて屈辱でしかない。それなのに体は快楽の中に溺れていこうとしている。ここまでされておいて今更かもしれない。けれど堕ちてしまいたくはないのだ。堕ちてしまえばもう戻れない。手招きされているその深い淵は人ではなく獣の棲家だ。
「強情だねぇ。まあそんなところも気に入ってるけど」
「……気に入られても全然嬉しくないんだけど」
「それは残念。まあなんと言われようと私の気持ちには関係ないけど」
水無瀬を頑なに拒む理性とは裏腹に、体は潤み綻んで、水無瀬の指を迎え入れる。指先だけを埋めて軽く動かされるだけで、耳を塞ぎたくなるような音が響く。
「……っ」
「逃げ道はちゃんと用意してあげたじゃない。私にしては破格のサービスよ?」
「っ……ぅ、や……あ」
薬のせいだ。こんなのは全部。
深く入り込んできた指が中で曲げられて、潤んで膨らんだ場所に不躾に触れる。何も考えられなくなっていく。ただでさえ薬に侵されていた体は容易く快楽に飲み込まれていった。
優しくも逃れられない強さで中を蹂躙されて、水無瀬のその余裕の笑みが歪むくらい殴りつけてやりたいと思うのに、体の自由は奪われていく。漏れそうになる声を手の甲を噛んで耐えていると、水無瀬がその手を掴んだ。
「手に傷がついたらダメでしょ」
「じゃあこんなことやめたらいいと思うけど……っ?」
「それとこれとは別の話だよ」
手をベッドに押しつけられたまま、水無瀬が唇を重ねる。いっそその舌を噛んでやろうかと思ったけれど、僕の中に入り込んだ指をそっと増やされたせいでそんな余裕は消えてなくなる。
「ん……っ、んん……ぁ!」
きつく閉じた瞼の裏に光が弾ける。その瞬間に奥から生理のときに塊になった血が溢れるときと同じような感覚が起こり、僕は押さえつけられたままの手で、シーツに爪を立てた。
「どうだった?」
僕から引き抜いた水無瀬の手は、手首まで濡れ光っていて、僕はそれを見ないように目を逸らした。
「……最悪だよ……っ」
「結構楽しめたと思うんだけどなぁ。それとも好きな人とが良かった?」
「……別に好きな人なんていないけど」
「そう。でももしそういう人ができたらもう少し素直になった方がいいと思うよ」
水無瀬にそんな助言めいたことを言われても聞く気がしない。僕はまだ余韻の中にある怠い体を起こすこともできずに、寝返りを打って水無瀬に背を向ける。
「別にセックスすること自体が悪いことってわけじゃないんだから、そんなに自分を縛らなくてもいいのに」
「修学旅行でこんなことをするのは悪いことだと思うけど……あと僕同意も何もしてないし」
「え、聞いたらOKしてくれた?」
「するわけないだろ……ていうか他の人が同じ部屋でもこういうことするつもりだったわけ?」
「するわけないじゃん」
どうして僕なんだ。相手なら両手で数えられないほどいるだろうに。僕は溜息を吐いた。
「あんな堕としがいのない人たちで遊んだりしないよ」
「僕もそっち側に分類してくれていいんだけど」
「無理。大して押さえつけなくても多数に埋もれられる人と、頑張らないとそうできない人は違うもの」
「……そう」
「自分で自分を雁字搦めにしちゃ駄目だよ。だって私がつまらないから」
勝手なことを言う。けれど綺麗なだけのうわべの言葉を並べられるよりは、自分本位の本音を言われた方がいいのかもしれない。
「……シャワー浴びてくる」
「え? 寝るんじゃないの?」
「誰のせいだよ……」
僕は溜息を吐いて、狭いバスルームに駆け込む。ちょうどいい温度でシャワーから降り注ぐ雨を浴びながら、まだ熱を持つ体を鎮めるように目を閉じた。
水無瀬の言葉が頭の中を回っている。これから僕が誰かを好きになることはあるんだろうか。そしてその人に体を許すことはあるんだろうか。
なぜだか、そんな未来はきっと来ないような、そんな気がしていた。
麝香は夜に咲く