星はすばる

少しあかりて


おぼつかない足取り。左右に揺れる視界。
ふわふわと高揚したような脳内。
自分はいま、かなり酔っている。それは分かる。

今日は金曜日で、会社の飲み会があって。
いつもは一次会で帰るところを、今日は三次会のお開きまで参加した。それは覚えてる。
みんなに「珍しいですね」、とか「奥さんはいいんですか」、なんて言われて
うまく誤魔化せてたかな。それはいまいち覚えてない。

タクシーに乗せられて、近くまで送ってもらって。あれ、お金払ったかな。あぁ、カード出した覚えはあるな。

あ、ベンチ。
うん、ちょっとここで休もう。






ざっ、ざざっ、ざんっ

不規則な足音。
近づいてくるでも遠ざかるでもない。その場で変則的に聞こえる、不思議な足音。

重たい瞼をこじ開ける。うっすらと光。そして、動いている誰か。


誰だろう
何をしてるんだろう

…あ、踊ってるのか

すごい、上手だ
かっこいい


激しく動くたびに、イヤフォンのコードが合わせて揺れる。
揺れる黒髪は長いわけではないが、艶があり美しい。
ゆったりめの白いTシャツから伸びる腕は、細く長く、それでも健康的に鍛えられた様子を窺わせる。

そして、こちらに振り返った、顔は



「……え………」

絶句するほど整っていて



あれ、でも
このひと、どこかで……



「……ぅわあっ」

ドスン、と衝撃。同時に鈍痛。
右半身を地面に打ち付けた。辛うじて顔や頭は、腕の支えのお陰で打たなかったのが幸いだった。

「いててて……」
「わ、大丈夫ですか?」

すぐそばにしゃがむ気配。その体勢のまま、その顔を見上げる。

綺麗な二重瞼のぱっちりした、黒目がちの大きな眼。
スッとした鼻筋、厚すぎず薄すぎない唇。
整えられた黒髪に、細い首筋。
きれい、というよりは、可愛い系の、それでも万人受けしそうな整った顔。

「?」

その顔が、小首を傾げて困ったように笑う。あまりにじっと見すぎたせいだろう。慌てて首と手を振った。

「あ、大丈夫です大丈夫です!大したこと……あれ……」
「わ、ちょっと!」

勢いよく首を振ったせいで、くらぁと脳内が揺れる。体が言うことを聞かずに倒れかけたところを

「あぶな…っ」

イケメンに支えられた。

「す、すいませ……」
「はは、おにーさん、酔っ払ってるんだから無理しないでくださいよ」

イケメンは爽やかに笑うと、そのままベンチに寄りかからせてくれた。
ふわりと香る。
同じ男なのに、こうも違うものだろうか。

「はい」

突如、目の前に差し出されるペットボトル。未開封の水だ。

「…へ?」
「さっきそこの自販で。どうぞ」

指された方を見ると、見慣れた自動販売機。思考の至らない頭で、とりあえず目の前の水を受け取る。
確かに、ものすごく喉が渇いていた。

「ありがとう…」
「いーえ」

イケメンはベンチに座り、もう1本買っていたらしい水を飲む。自分も欲求のままに飲んだ。半分ほど一気に飲み込んだ。

「はぁー……」
「大丈夫ですか?」

さっきとは違う聞き方。もう大丈夫か、という意味だろう。少しハッキリしてきた頭を持ち上げて、後方のイケメンを振り返り見上げる。

「うん、だいぶ良くなってきた」
「あ、じゃなくて」

礼を言おうとした矢先、手で軽く制される。驚いて見ると

「…さっき、泣いてたから」

心配そうな大きな眼の中に、目を見開いて驚く自分の顔が映ったような
そんな気がした。



深夜2時。
誰もいない通りを歩く。

この辺りは高級マンションが立ち並び、綺麗に整備された道と小さな広場がそこかしこに点在する。お金を持った奥様方がいかにも好きそうな風景だ。

高級マンションだけあって、こんな時間に歩く人間はほとんどいないし、公園に溜まる若者も飲んだくれて潰れた輩も見たことがない。
この辺りで夜中に騒ごうものなら、すぐに通報され警察に連れていかれる。飲んだくれて潰れようものなら、奥様方の噂の種になり、やがて住んでいられなくなる。ここはそういう窮屈な場所だ。
窮屈、ではあるが、今の自分の立場からすれば、それは自分を守ってくれるものでもある。仕事場も近いから仕方ない。


少し歩くと、広場よりは少し大きな公園に出る。この公園のベンチにスマートフォンを置いて、練習の様子を動画で撮るのがここ最近のマイブームだった。大きな鏡のない場合はこの方法が手っ取り早い。
公園の入口にある自動販売機で水を1本買い、いつものベンチへ向かう。夜中ではあるが所々に(これまた奥様ウケのよさそうな)雰囲気のよい街灯があるため、辺りの様子はよく見える。
だから、向かう前に気付いた。

いつものベンチに、何かある。

(……なんだ…?人…?)

近付いて見る。人だった。ベンチに横たわり眠っている。スーツ姿、30代半ばぐらいの男性。
もう少し近付くと、その距離でも分かった。

(うわ、酒くさっ)

思わず顔をしかめる。
まさに、“飲んだくれて潰れた輩”だった。

(この辺で珍しい…)

しかしどうするか、これではベンチを使えない。酔っ払っていることだし、起きたときに何かされても困る。ここは早々に立ち去るのが無難……

さてどこのベンチに行こうか、と考えた、そのときだった。

「……ぇ……」

思わず声に出た。
その人は、眠りながら涙を流していた。

(え、マジか、……)

少し慌てるも、あまりの珍しさについ見入ってしまう。
悲しそうに顔を歪ませ、滲んだ涙は一本の筋となって目の横を流れていく。
そして

「…!」

言葉が、こぼれた。



言われてみれば、目の横がパリパリに乾いている。寝ながら泣いていたなんて、なんともカッコ悪い。

「はは、そうなんだ…恥ずかしいな…みっともないところを見せたね」

ごめんね、と謝る。が、よく考えてみると、これまで彼にはカッコ悪いところしか見せていない気もする。
しかしイケメンの彼は特に気にしていないようで

「やけ酒…ですか?」

やはり心配そうな表情を向ける。

「へ?」
「やけ酒は体にも心にもよくないって、先輩が言ってて。だから…もしよければ、話聞きますよ」

膝に腕をついて、顔を覗き込むように近付けてくる。あまりの顔面美に怯んだ。だが

「いや、あの…なんでやけ酒って…」

ずっと心配そうに見てくるので、つい聞いてしまう。それに、今回はただの会社の飲み会だ。結果的にはやけ酒になってしまったかもしれないが、それが目的ではなかった。
なのにどうして。イケメンはその疑問に

「……“カナ”さん」
「…!!」

言いにくそうに、眉間に皺が寄る。皺が寄ってもイケメンだったが

「泣きながら…その名前を言ってたので」

一気にそれどころではなくなった。



25の時に佳那と結婚した。佳那は大学時代の後輩で、卒業してから縁あって付き合い出した。気が強く何でもハッキリと物を言う性格で、周りから見ても自分とは正反対の人間だった。そんな佳那が、時折弱り、自分だけにその弱さを見せて甘えてくるところが、何よりも愛しかった。

佳那は子どもを欲しがった。自分も佳那との子どもは欲しいと思った。しかし、5年経っても子どもは出来なかった。
不妊治療をしようか、と提案もした。しかし佳那は悩みに悩んだ結果、首を横に振った。それよりも家を買おう。マンションがいい。私、気になるところがあるの。佳那はそう言って提案してきた。
そこは都会の有名な高級マンションだった。周囲は緑化され美しく、アクセスのいい駅も近い。駅前も栄えていて、近所には有名人なんかも住んでいるらしい。
見学して、佳那はますます気に入った。30階建ての3階ではあったが、ローンを組めば住めない金額でもなかった。自分は当時から今も、それなりに月給のいい会社で働いている。佳那も仕事はしているが、自分だけでもローンは組めそうだった。覚悟を決めて単独ローンを組んだ。佳那は嬉しそうだった。
それから5年、それなりに幸せだった。仕事は充実していたし、佳那とも良いコミュニケーションをとっていると思っていた。子どもが欲しいという佳那の希望はなかなか叶わなかったが、それでも努力はしてきたつもりだった。
いつか叶うときがくると。もしくは、佳那が諦めて、二人でもいいという未来を選ぶと。

自分は、楽観的過ぎたのかもしれない。


「……この前の、月曜日」

今週の話だ。つい4日前。

「いつも通り帰ったら、佳那がいなくて。代わりに…紙が置いてあったんだ」

整頓された、ダイニングの机の上。大きめの紙と、その横にその半分ほどの紙。
近くにボールペンと、何かのケース。

「見たら、離婚届だった」



妻の欄はすべて埋められ、判まで捺されて。その横に置いてある紙には、佳那の字でこう書いてあった。


『しゅうくん

ごめんなさい。しゅうくんよりも好きな人ができました。
その人との子どももできました。

もう一緒にはいられません。
離婚届、書いて出してください。

本当にごめんなさい。
幸せになってね。

佳那』



何度も読んだ。何度も何度も読み返した。空でも言えるほどに。でも、内容は変わらなかった。
ケースの中の判子は佳那のもので、それは
「もうこの名字を使うつもりはない」とのメッセージのようだった。



「驚いたよ。いつの間に、と思った。毎日一緒にいて、お互い分かり合えていると思ってたけど、…そう思ってたのは僕だけだった」

悲しみよりも、驚き。戸惑い。
なぜ、どうして、いつから、いつの間に。
たくさんの疑問がいくつもいくつも湧き出ては、弾けて泡のように消える。
答えを探して佳那の姿を思い出そうとしても、浮かぶのは笑顔。幸せに過ごした時間だけ。

「見えてなかった。全然……彼女の悲しみを、苦しみを、僕は感じ取れていなかった」

手を広げ、意味もなく見つめる。目を閉じると画面が浮かんで、掌で隠すように目頭を押さえた。

「その日から毎日、夕方に1通だけメールが来るんだ。件名もなし。ただ一言、『離婚届出した?』。……ここ最近は仕事も忙しくてね、昼も外に行けてないから、『出せてない。ごめんね』って送る。でも、それに対しての返事はないんだ。また次の日、夕方5時過ぎ、同じ文面のメールが来る」

文面は変わらない。ただ、早く出せと急かされているのは嫌でも分かる。それもそうだろう。妊娠しているのなら、色々と手続きも必要だ。引っ越しもあるだろうし、そうなると離婚届が早く受理されてくれないと困るのだろう。
掌を離す。力が抜けて、地面に放り投げる。

「……まぁ、仕事にかこつけて、ほんとは書いてもないんだけどね。そのまま机に置いてあって…なんだか触れなくてさ」

もう、話し合う余地なんてないことも分かっているのに
どう足掻いても現実は変わらないのに
必死に抵抗する自分がいる。
分かっている。これは、ただの逃避だ。

「……君の言う通り、やけ酒だね」

右上を見上げて、はは、と力なく笑う。情けない、本当に。
しかし、美しい顔をした彼は

「…じゃあ、なんで」

納得していない表情で、その整った顔を歪ませる。え、と驚く。

「……なんで…謝るんですか」



その言葉に、一瞬時が止まる。そして、ぐるぐる。

謝る?誰に?誰が?
今まで謝った?何の話だ?

訳が分からない、という顔をしていたのだろう。彼は一度唇を噛み締めてから

「…さっき、泣いてたとき、…『カナ、ごめん』って」

驚きのあまり目が見開く。苦々しい表情を見ても、彼が嘘をついていないことは分かる。というか、この状況で嘘をつく意味もメリットもない。

「なんでおにーさんが謝るんですか。おにーさん、なにも悪くないじゃないですか。相手が勝手に、何も言わないで、浮気して出てっちゃったんじゃないですか。謝るのはカナさんの方でしょ。おにーさんは悪くない」

自分よりもむしろ彼の方が泣きそうな顔をして、力強く訴えてくる。
“悪くない”。
誰かに言ってもらいたかった気がしていた。自分は悪くないような、でも自分を悪くしていないといけないような、そんな打算をもっていると思っていたから。

でも、違った。
言われて気付いた。
悪くない、と言われて、何一つ納得していない。救われてもいない。

そうだ、僕は


「……違うよ」

彼の綺麗な顔が驚きに満ちる。

「本当に、僕が悪かったんだ」


僕は
僕が悪いことを、よく分かっている


「…彼女はね、たぶん本当に、本気で子どもが欲しかったんだ。それが叶えられない悔しさや悲しさを、この10年で何度も味わった。男の僕よりもずっと、ツラい思いをしたと思う。…女の人は、実感を伴って“叶わない”ことを知るから」


でも、気付いてあげられなかった。
平気そうな顔をさせてしまっていた。
いつからだろうか。気丈な彼女が、僕の前で弱らず甘えなくなったのは。

それなのに僕は
彼女の強さに寄りかかり、彼女の強さを信じて、
自分のことしか考えていなかった。


「……彼女に頼られる自分でなくなった、その時点で、……僕の負けなんだよ」

謝るしかない。強い彼女を、泣かせてあげられなかったから。
そんなことすら、頭に浮かばなかったのだから。

脆さを隠した彼女を忘れた、自分が圧倒的に悪いから。


「……ありがとう。君のおかげで、覚悟ができた」

明日、離婚届を書こう。判を捺そう。
市役所に出して、佳那から来る前にメールを送ろう。

「……やさしすぎるでしょ…」

少しの清々しさすら覚えたとき、彼は逆にむくれた表情になっていた。口を尖らせ、眉間に皺を寄せて。
そんな姿はむしろかわいらしい。思わず吹き出す。

「そんなこと言ったら、こんな見ず知らずのおじさんの話を、こんなに一生懸命聞いてくれる君の方がよっぽど優しいよ」

ありがとうね、と笑うと、彼は歪んだ表情を一度ふぅ、と吐き出して

「どーいたしまして」

困ったように笑い返してくれた。


それから僕らは、ただひたすら他愛のない話をし続けた。趣味、ハマっている動画、好きな映画やドラマなど、互いの素性を知らずとも盛り上がれる話題はいくらでもあった。
笑って、驚いて、笑って、笑って
こんなに話すのが楽しいのはいつぶりだろうかと思うほど話して

気が付いたら、東の空が白んできていた。

「わぁー…夜明けじゃーん…」
「もうそんな時間…そろそろ帰ろうか…」
「さすがに眠い?」

笑いながら彼が言うのに、僕は

「いや、トイレに行きたい気がする」

思い出した感覚に肩をすくめて笑う。もらった水は、すでに空っぽだった。彼もその答えに笑う。
それから

「というか、今日もしかして仕事?大丈夫?」

はたと気付いた。自分は土日祝休みだが、そうではない業種もたくさんある。寝る時間を奪ってしまったのでは、と気にすると

「あぁ、今日は午後からなんで大丈夫。帰ったら寝ます」

自分とは違い、ぴんぴんした様子で手を振る彼。余裕だ。若さだろうか。
というか

「…まさか、学生じゃないよね…?」
「ぶはっ!え?!今さら?!」

あまりの眩しさと肌や髪の艶に、そういえば10代にも見えなくない、と焦る。しかし彼は間髪入れずに吹き出して

「いちおー社会人ですよ。働いてお給料もらって生きてます。23ですけど、社会人歴は5年目くらいかな。仕事はもーちょいやってますけど」

ふふ、と笑う。その何だか含みをもたせたような笑顔に、それでもそれが何を意味するのかは全く検討がつかないので

「そうなのか……失礼しました」

ぺこ、と頭を下げた。
彼はそれにも楽しそうに笑う。そして

「じゃ、俺そろそろ行きますね」

ベンチから立ち上がった。朝陽を背にこちらを向いて

「また会いましょ、おにーさん」

低い位置でひらひらと手を振る彼。
あまりにも絵になるその姿にしばらく惚ける。
それから慌てて

「あっ、ありがとう!」

遠ざかる背中に声をかけた。彼は一度振り向くと

「こちらこそ!」

屈託のない笑顔を向ける。
まるでドラマや映画のワンシーンのような、美しい姿だった。


そしてふと気付く。

「……あれ?」

手に、見覚えのない黒い服が握られていた。
いつから?誰の?
ずっと自分のものだと思っていたが

「……」

広げて見て、やはり自分のものではないと認識する。
シンプルな黒いパーカー。羽織るタイプ。手触りのいい、ブランド物。
飲み会のメンバーは皆スーツだったし、サイズからしてきっと彼のだ。

(ということは……)

目を覚ます前に、自分に掛けてくれていたのだろう。それからずっと、自分が握りしめて持っていた。それを彼は、何も言わずに了承していたのだ。

「……やっぱり、君の方が優しいよ」

思わず呟く。
美しい姿を思い出して、笑顔がこぼれた。



数時間後。

あれからマンションに帰ってシャワーを浴び、一眠り。
いつもより遅めに起きて、軽食。ついでに洗濯と軽く掃除。
洗濯が終わるまでの間に離婚届を埋め、洗濯を干し、着替えて役所へ。
手続きはあっという間に終わった。

役所を出る。
天気がよかった。

(……本屋でも行こうかな…)

思い付いて、駅へ。その間に佳那にメールを送る。
一回乗り継いで、この辺りでは一番(というか、国内でも有数の)大きな駅に着いた。
駅を出ると、すぐに大きな交差点に出る。土曜日の昼時ということもあって、かなり人が多い。

(先に昼ごはん食べようかな…)

信号待ちをしながら、久しぶりに路地のラーメンでも、とか昼食に思いを馳せていたら

「あっ出た!」
「ぃやー!カッコいい…!」
「見て見てほら」
「あっ、昨日歌ってたよねぇ」
「見た!ちょーカッコよかった!!」

途端に、辺りが黄色い歓声に色めき出す。
キャーともワーともとれないそれらの声はほとんどが女性のもので、それらの原因は

(あれか…)

交差点の向こう側にある、大きな街頭スクリーンだった。
画面では、1人の男性が流れる曲に合わせて激しく踊っている。それに合わせて、周りの歓声も大きくなる。

それを、ただぼんやりと眺めていたら

『Kamiya KOKI New Single』
『black Sugar』
『coming soon…』

効果音と共に英字がずらり。文字の横には、黒いフードを深く被り、片眼だけ覗かせ不敵に笑う若い青年。
それにまた、周囲は歓喜に満ちる。

だが


「…?…??!」

なんだか、見覚えがある。
顔、ダンス、黒いパーカー。

そして

『こんにちはー、加宮昻輝です』

パッと画面が切り替わり、出てきた青年。白い壁をバックに、黒いフード付きパーカーを今度は被らずに着て、こちらに笑顔で挨拶をする。

『僕の新しいシングル、「black Sugar」、もうすぐ発売です!今回はかなり激しいダンスナンバーになってますので、かなり頑張って練習しました。シングルには特典として……』

それから、新しいCDの宣伝を、分かりやすく笑顔で行うその男の視線に、もう動けない。話の内容も入ってこない。


「……えぇぇ………」


どう見ても、今日の日の出まで一緒にいた、あのイケメンの彼本人だ。

(…確かに……名前は聞かなかったけど……)

年齢、雰囲気、話していた言葉。いくら思い返しても合致する。
まさか、そんなことが。

だって、あれは
“加宮昻輝”は



『それでは!「black Sugar」、ぜひお買い求めください!』



日本を代表するトップアイドルなのだ。

若やかに心地よげなる

「おはようございます」

ガラス戸を開けながら挨拶。出勤15分前だというのに

「おはようございまーす」
「おはようございます!」

一斉に元気な挨拶が帰ってくる。部屋を見渡すと、我がチームはすでに全員揃っているらしかった。喜ばしいことのように思えるが、チームのトップとしてはこのことを少々憂えなければならない。
だから

「みんな、やる気があるのは大変うれしいんだけどね。ちょっと早すぎるんじゃないかな?」

小言をひとつ。しかし

「大丈夫ですよぉ、仕事してるわけじゃないんで。朝の支度です」
「いやほんと、沼っちはマジでさっき化粧してましたから」
「ちょっとぉ!河西さんにバラさないでよぉ!」
「そういう深谷も朝飯食ってたけどな」
「いやちょっときのうね……歌番組延々リピートしてたら朝起きられなくてですね……」
「あっ、河西さんおはようございまーす!」
「おはようございます」

開発部がチーム制になって1年ほど経つが、この制度はなかなか上手く機能していた。河西は、全チームの中でも圧倒的最年少のリーダーで、さらに部の中でも異彩を放つ若いメンバーを任されている。だが部長はよく分かっているのだろうか、このチームになってからこれまで、大きなトラブルがないどころか、社内でも大きな案件を受け持ち、さらに年に一回の開発部コンペでも選ばれ、むしろノリにのっているチームになっていた。
とは言え河西は、自分が何をしているわけでもないと思っている。リーダーとして求められていることを、ただ素直におこなっているだけだからだ。

「あれ?沼井さんもしかして髪切った?」
「えっ、分かります?!すごい!さすが河西さん!」
「さっすがー」

河西の指摘に喜ぶ、入社3年目の沼井と同期の深谷。この女性2人は年齢こそ違えど仲も良く、チームを華やかに彩っている。多少のかしましさはあるが、仕事モードに入ると様々な着眼点から驚きの発想を繰り広げることもある。開発部のチームとしては欠かせない2人だ。

「なんか雰囲気変わったね。似合ってる」
「ありがとうございますー!ちょっと聞きましたか速水さん雨宮さん!これですよこれ!大事!!」

沼井が大袈裟に訴える先には、入社7年目の速水と5年目の雨宮。速水は沼井を訝しげに見ながら

「切った……のか?全然分からん……」
「つか沼井さんの髪型なんて興味ないし……」
「こら雨宮!聞こえてっぞ!」

既に立ち上げてある会社のパソコンの前にポータブルのゲーム機を置いて、操作しながら本当に興味なさそうに言う雨宮と、それにすぐさま突っ込む沼井。雨宮は肩をすくめる。

「つか何で俺らだけ?澄だって気付いてないっしょ」

雨宮がちらりと見た先、まだフレッシュさの残る入社1年目の澄は、ようやく上手に結べるようになったネクタイを河西に褒められ、照れながら礼を言っていた。
その様子を共に見た沼井は

「澄くんはね…違うんですよ…彼に敏さは求めてないんですよ……」
「はぁ」

呆れた顔をする雨宮。そこに淹れたてコーヒーを持った深谷が合流し

「あ、それ分かるー。澄くんは気付かなくていいから、」


_ねぇねぇ澄くん
_沼井さん、どうしたんですか?
_休みに髪切ったんだけど、どうかな?
_あ、そうなんですか?!いいですね、似合ってますよ!あ、でも
_ん?
_沼井さんは、どんな髪型でも似合います


「…とかハニカミながら言ってほしい!!」
「分かる…!気付かなくていい!ただ素直に嬉しい感想を言ってほしい!そういうタイプ!」
「そう!だから雨宮さんとは違うんですー」
「雨宮さんと速水さんは気付かなきゃダメですよぉ」
「意味わかんね……」

暴走する女性陣にげんなりしながら、雨宮は手に持ったゲーム機の画面へと視線を戻す。その指の動きはとても目で追える速さではなかった。そこへ

「雨宮、もうすぐ始業だからキリのいいとこで終わらせろよ。沼井と深谷、お前らの資料がなくて澄が困ってたぞ」

速水が3人に的確な指示を出す。少々口調は荒いが、やさしく頼れる兄貴分としてチームの中核を担っている速水。
それらの様子を、河西は1人遠目で見ては微笑み

「いいチームだなぁ」

思ったことを溢す。すると

「なに言ってんですかぁ」

沼井は照れて

「だとしたら、河西さんのおかげですねっ」

深谷は笑い

「確かに」

速水は頷いて

「河西さんじゃないと成り立たないですよ、このチーム」

意外にも、雨宮がため息をつきながら嬉しいことを言ってくれた。

「はは、うれしいなぁ。ありがとう」

笑顔で礼を言うと、雨宮は照れ臭そうにゲーム機を鞄へと突っ込む。そこへ

「深谷さん沼井さぁん!資料お願いしますー!」

慌てた様子の澄が駆け込んできた。その声に、その場にいた全員が笑う。

「ごめんごめん、すぐ行く!」
「つかみんなでやった方が早いですよね」
「だな。行くか」
「あっ、やばこれシミ付いてる……。速水さんのにしよ」
「こら沼井ぃ、聞こえてっぞおい」
「やだなぁセンパイ、冗談じゃないですかぁ~」
「だとしても何で俺なんだよ」
「だって河西さんには失礼だし澄くんにはかわいそうだし、深ちゃんは絶対気付くし雨宮さんは報復エグそうなんで」
「自分のにすればいいのに」
「あ、自分は普通に嫌です」
「ぬーまーいー…!」

笑い声溢れる職場。よくこの様子を見た他チームや他課からは「緊張感がない」と揶揄されるが、それでも仕事モードに入ると頼りになるメンバーである。

「じゃ、今日も頑張りましょう」

にこり笑うと

「はぁいっ」
「がんばりまっしょー!」

大きな返事が湧いた。



河西(かさい)チーム
・速水(はやみ)
・雨宮(あまみや)
・深谷(ふかや)
・沼井(ぬまい)
・澄(すみ)



「……あ」

会議室から出て。目に入った大きな写真に、思わず声を上げてしまった。
正確にはそれは、写真が印刷されたクリアファイルで

「?どうしました?」

持ち主である深谷は河西の声に振り向く。会議についてか、それとも忘れ物か、と心配そうな表情をしたので

「いや、そのファイル…」

慌てて弁明しようと言いかけて止まる。何を言えるというのか。どう説明するのか。声に出てしまったのは、映っている人物が

「…!コーキのことご存知なんですか?!」

先日偶然出会った加宮昂輝だからなどと言えるはずもない。
と思っていたら、深谷は前のめりで食いついてきた。そばで聞いていた速水は呆れながら

「ご存知もなにも、日本中ほとんど知ってんだろ。カミヤコーキだぞ」
「いやぁありがとうございます」
「お前は褒めてねぇ」

照れながら笑う深谷に突っ込んで、速水は自席に着く。そのテンポのよい会話にはいつも感心する。

「好きなの?」
「はいっ!もう、大っファンですっ!」

ファイルに映る加宮昂輝を見せながら熱烈に訴える深谷。それだけで、彼女がどれほどファンなのかが伝わってきた。
河西も自席に着いて

「確かに、かっこいいよね」

月並みの感想を言うと

「分かりますか?!まずもうなんと言っても顔が美しいですよね!でも笑うと子どもみたいにあどけないというか可愛らしさもあって、でも踊ったり歌ったりするともうかっこよさ大爆発っていうか……土曜の“ナマウタ”観ました?!新曲めっっっちゃかっこいいんですよ!!あ、ティザー見ます?!」

もはや機関銃のように止めどなく喋り倒す深谷に河西は圧倒される。“ナマウタ”が毎週土曜日の夜に放送されている生放送の歌番組の名称であることは分かったが、それ意外はさっぱりだった。周りに目を向けると速水はさらに呆れ、澄は苦笑している。雨宮はもはや聞こえていないように、ブルーライトメガネを掛けて早々と仕事を再開していた。
そこへ

「深ちゃん、勤務時間内に動画はやめとこ」

深谷の頭の上に、深谷が会議室に忘れていったマグカップを乗せて沼井が言った。深谷はそれを慎重に受け取る。

「あ、サンキュー」
「まぁでも分かる。新曲はかっこよかった」
「だっっしょ?!」
「でもま、私はコーキそんな好きじゃないんで」

深谷に比べて珍しく落ち着き払った様子で言う沼井。それが少し意外で、そしてなぜだか少しドキリとして

「そうなの?」

河西は思わず聞いてしまう。すると今度は深谷のテンションが下がり、不味そうな顔をして

「こいつ、ファス担なんですよ」

沼井を指差して言った。河西は言葉の意味が分からず

「ふぁすたん…?」

首を傾げて聞き返す。すると入れ替わったように今度は沼井の目がキラキラと輝いて

「はい!4人組キラキラアイドル、“1st-ar(ファスター)”の担当してます!」
「“1st-ar”のファンのことをファス担って言うんですよ」

出てきた名前にピンとくる。“1st-ar”、聞いたことはある。ぼんやりとだが顔も浮かぶ。加宮昂輝と並ぶ、日本のトップアイドルグループだ。

「そうなんだ…」
「ファス担は、コーキアンチが多いんですよね」

その深谷の言葉にまたドキリとする。アンチの意味は分かる。好きじゃない、嫌い、認めない。そんなイメージだ。日本中の女性のほとんどを魅了するような彼にも、アンチは存在するらしい。

「あ、私は別にアンチってほどじゃないですよ。かっこいいと思うし、いいなと思う曲は聴きますし。でもあいつは1st-arを裏切ったんで」
「だからぁ、裏切ってないってば。親戚の会社を助けるために仕方なくじゃん」
「だとしても裏切ったのは事実でしょ。まぁ、1st-arは4人で美しく完成されてるから、別にいいんだけどねー」
「コーキだって、グループじゃなくてソロだからこそ輝き放ってるから!」

突然始まるケンカのような言い合いに、挟まれている河西は何とかしようとおろおろする。すると後ろから小声で

「河西さん」

名前を呼ばれ振り向くと、そこには小さく手招きをしている澄がいた。その場から静かに離れて澄の元へ寄る。

「どうした?」
「あれは多分、放っといても大丈夫ですよ」

小声で笑うその言葉で、澄が自分を助けてくれたのだと理解する。いつもの澄らしくない呆れたような笑い方とその言葉に驚くと、澄は

「この前の飲み会でもあんな感じで、自分巻き込まれちゃって」

この前の飲み会とは、先日河西が潰れた開発部飲み会のことだろう。一次会はチームバラけて座らされたから、澄が巻き込まれたのはおそらく二次会以降。二次会からあまり記憶のない河西は驚いて

「そうだったのか…」

なんだか申し訳なくなる。しかし澄はあまり気にしていないように

「河西さん、他のチームに引っ張りだこでしたからね。でもあれよく聞くと全然ケンカしてないんですよ」

澄が指した方向を見て会話を聞いてみる。確かに、この前のコンサートの演出は最高だったとか、先週のドラマの最後のシーンは号泣しただとか、罵り合っているようで実はよく聞くとお互いのファンであるアーティストの素晴らしいところを言い合っているだけだ。さらにそれを否定するでも比較するでもなく、時には「分かる!」と同意までしながら盛り上がっている。

「深谷さんは長年のコーキファンで、沼井さんは筋金入りの1st-arファンですけど、お互いのアーティストのこともちゃんとチェックしてるみたいなんですよね。DVD貸し合ったり、お互いのコンサートも一緒に行ってるみたいです」

飲み会ではあの話を間でひたすら聞き続けたのだろう。やたらと詳しい澄に、河西は少し可笑しくなる。

「だから、放っといても大丈夫です。…そういえば、飲み会の日無事に帰れました?あの日めちゃめちゃ飲んでましたけど」

澄は思い出す。一次会は開発部ほぼ全員参加の大所帯で、社長までいた。二次会は人数も半分以下となり、管理職クラスのいない中でずいぶんフラットな飲み会だった。三次会は10人以下となり、河西以外は全員若手。このチームでは澄と、珍しく雨宮がいた。
三次会になる頃には河西はもうべろべろで足元も覚束ない状態。だからこそ、少し休憩させるために三次会に参加させた。だが、気遣いの河西はそこでも乾杯をし、誰よりも多くその場を支払った。帰る頃には澄と雨宮に半ば抱えられながら、タクシーに突っ込まれたのだ。

「タクシー乗せるとこまでしかできなかったんで、ちょっと心配で。今日無事で安心しました」
「ははは、大丈夫だよ、ありがとう」

河西は恥ずかしく思い、笑ってごまかす。こんな若い子たちに迷惑をかけてしまった。タクシーに乗せてくれたのが澄と雨宮だったことをぼんやりと思い出す。情けない姿を晒した。

「ごめんね、迷惑かけたね」
「あぁいえ!なんか新鮮でしたよ」

澄は笑う。驚いて見ると

「河西さんていつも優しいし余裕あるし、大人ーって感じですけど、ああなることもあるんだなーって。親近感わいちゃいました」

本当に嬉しそうな顔をする澄。恥ずかしいような嬉しいような、くすぐったい気持ちで笑顔に応える。
すると

「それにコーキは男性ファンも多いからね!さっきだって河西さんがこのファイル見て……あれ?そういえば河西さん、なんでこのファイル気付いたんですか?」

突然自分の名前が出てきてそちらを見ると、深谷も不思議そうにこちらを見ていた。事の発端をようやく思い出したらしい。
河西は固まる。

「え、と?」
「だって私、ここ1ヶ月くらいずっとこれ使ってるのに、今まで特になにも無かったじゃないですか。それが何で今さら気になったのかなーって」

深谷は首を傾げ、天井に目を向ける。確かにそうだ。これまでにも見たことはあったはずだが、特に気にならなかった。目に入って気付いたのは、他でもない、加宮昂輝本人と出会ってしまったからだ。
ただ、ファンである深谷は当然、他の社員にもそれを話してよいはずもない。相手はトップアイドル、大人気芸能人だ。たまたま出会った自分が、彼に救われた自分が、やさしい彼のプライバシーと人権を侵害するわけにはいかない。
さてどうするか。深谷は鋭い。下手に嘘をつけば墓穴を掘る可能性もある。
河西が悩んでいると

「あっ!もしかして奥さんが…」
「深谷ぁ」

深谷の勢いづいた言葉を遮るほどの、思いの外大きな呼び声が飛んできてその場が静まり返る。深谷含め全員が固まる。全員がそこまで驚いた理由は、声の主が

「……チーム宛に来た社内メール見た?」

普段そこまで大きな声を出すことのない、ましてや他人の会話に積極的に入ることも、話の腰を折ることも絶対にない雨宮だったからだ。静かになった室内で、雨宮はいつものトーンで深谷に尋ねる。目はパソコンに向けたまま、表情も特に変えずに。深谷は驚いたまま

「え…?」
「これ多分 深谷が一番分かるやつだから。今日中に返信しろって。なんなら直接営業部行った方がいいやつじゃないの」
「…え、あっ、マジですか?!」

ようやく内容を把握して、深谷は慌ててパソコンを開く。いつの間にかいなかった速水を除き、沼井と澄と河西は黙って顔を見合わせた。誰もなにも分からないといった表情で、まぁいいかと静かに自席へと戻る。
河西はそこからそっと雨宮を見た。横顔はいつも通り飄々としているように見える。太めの縁のメガネのせいで視線は読み取れないが、それでも特段変わった様子は見られない。

(……もしかして…)

助け舟を出してもらったのだろうか。
先ほどの深谷の言葉を思い出して、河西はそう思った。



「一緒にいい?」

昼休み。深谷と沼井は他チームの女性たちと近所にランチへ。澄はコンビニに買い出しへ行き、速水もそれに付いて行った。
河西は、早々に休憩スペースで食事を始めた雨宮の元へ、コンビニで買った昼食を手に声を掛けた。雨宮は大きなコッペパンをくわえながらゲームをしていたが、河西の声に顔を上げると

「…はい」

広げていた昼食を自分の元へ集めながら小さく頷いた。河西は笑って礼を言い、隣に座る。
チームを組んだばかりの頃の雨宮からは、こうして声を掛けても返事が来ることはほとんどなかった。そもそもヘッドフォン付きでゲームに勤しんでいて、周りの音を遮断していた。今、職場では出すことのなくなったヘッドフォンと、セーブして一時停止されているゲームの画面に河西はつい頬が緩む。

「さっき、助けてくれた?」

おにぎりのカバーをぺりぺりと剥がしながら河西は聞く。横目で雨宮がぴくりと反応したのが分かった。しばらく返事を待っていると、河西が1つ目のおにぎりを食べ終わろうかというところでようやく

「……すいませんした」

小さな謝罪の声が聞こえた。理由が分からず驚いて見る。雨宮はとても気まずそうな顔をしていた。

「俺…らしくないことして…逆に怪しかったですよね。すいません」

軽く頭を下げる。様子は軽く見えるが、表情は苦しそうだった。彼なりに、とても申し訳なく思っていることが伝わってくる。河西は思わずその肩に手をのせた。

「違うんだよ、雨宮くん。僕はお礼が言いたかったんだ」

責める気など毛頭ない。ただただありがたかった。ごまかすことも嘘をつくことも苦手な自分は、あのまま聞かれていたらきっと苦しかったと思うから。
それにもし、雨宮が“知っている”というのなら

「というか、よければ飲み会の日のこと教えてくれないかな。僕二次会の後半からほとんど覚えてなくて」

あの日自分が犯した失態があるはずだった。それに、澄や雨宮以外にも迷惑をかけた相手がいるのならば、今日のうちに謝罪をしておきたい。
恥を承知で雨宮に頼む。雨宮は驚いたように見開いていた目を一度閉じ、ふぅ、と息を吐いて

「……さすが河西さん」

意味の掴めない言葉を落としてから、あの日のことを教えてくれた。



雨宮にとって、昔から飲み会という行事は苦痛の時間でしかなかった。しかも今回の一次会は、誰が企画したのか“チームバラけての固定席”。席のチェンジは原則禁止、バラけ方はくじ引きだが同じチーム同士が固まらないよう徹底管理。本当は欠席したかった雨宮だったが、社員寮に暮らす彼が欠席する理由など体調不良くらいしか思い付かず、そうすると世話になっている先輩たちにも要らぬ心配をかけてしまいかねない、と渋々参加した。したらしたでくじ運が強いんだか弱いんだか、隣にはまさかの部長。しかもその真向かいには雨宮が最も嫌いなベテラン上司の男。最悪だ。だが不幸中の幸いというか、ベテラン上司は部長に媚を売るのに必死で、雨宮のことなどあまり気に留めていない様子だった。雨宮はこれ幸いと一人静かに酒を飲み、金を払っている分の食事を黙々と平らげる。

最初に違和感を覚えたのは、一次会中盤。トイレに立ったらしい河西が近くを通りかかった時だった。ベテラン上司がそれに気付き、酔っ払ったような大声で呼び止めたのだ。リーダー頑張ってるかだの、もっと食わねぇと精がつかないだの、お前は昔から覇気がないだのとうだうだ喋り続ける。
だからこいつは嫌いだ、と雨宮が再認識したとき

「そんなんじゃ、また奥さんに怒られるんじゃないかぁ?」

品のない笑い声を響かせてそいつが言う。ほんとこいつ…と思ったとき

(……?)

何となく、違和感。
それに応えた河西の笑顔が、なんだか妙だった。ははは、と何も言わずに笑うだけ。冗談で流すでもやんわりと言い返すでもなく、ただ曖昧に笑う。
何だろう。らしくない。

だがそのときは

(もう酔ってんのかな?)

さして気に留めなかった。



次に感じたのは、一次会終了後。
大して飲めず酔えず楽しくもなかったのでそのまま帰ろうと思ったが

「えっ、河西さん二次会行けるんですか?!」

飲み屋の外、繁華街の路上で二次会の参加者を募る声に混じり、澄の驚いた声が聞こえた。思わずそちらを見る。河西は笑顔で頷いていた。

「雨宮さん!雨宮さんも行きましょうよ!河西さん来てくれるって!」

澄がこちらを向いて2人と目が合う。近くへ寄っていこうと足を踏み出した途端

「まさか帰ろうとなんてしてないですよねぇ?」
「今日は付き合ってもらいますよ、センパイ」

両腕をそれぞれがっしりとホールドされた。見なくても分かる。ドスの効いた脅しに近い声を出す深谷と、わざとらしく甘ったるい声を出す沼井。そのまま2人にずるずると引っ張られ、向かおうとしていた澄と河西の元へと連れていかれた。

「河西さんも行けるんですか?!」
「わ、うれしい~。飲みましょ飲みましょ」
「でも、奥さん大丈夫なんですか?」

素直に喜ぶ沼井とは異なり、心配そうに聞く深谷。普段飲み会では早めに帰る河西を見ていたら当然の質問だった。
しかし

(……まただ)

河西は先ほどと同じく、曖昧に笑ってごまかす。うん、とも、いいや、とも取れるような返事に深谷がもう一歩踏み込もうとしたとき

「河西さん」

少し大きめの声。皆が一様にそちらを見ると、速水だった。

「すいません、俺ここで」
「ぇえ~?!帰っちゃうんですかぁ?」

申し訳なさそうな速水に沼井が抗議する。深谷も口を尖らせて

「せっかく全員揃いそうだったのに」
「悪いな。あんま遅くなれねぇから」

手のひらを立てて苦笑する速水。まぁ仕方ない。何せこの人は

「いいっすよ。また今度チームだけで飲みましょ」
「そうですね!娘さん寝ちゃいますし」

小さい子どもが家で待っているのだ。助け舟を出した雨宮に、さらに澄が加勢した。
速水は安心したようにほころぶ。

「さんきゅ。じゃ、すいません河西さん。お先です」
「うん、お疲れさま。ご家族によろしくね」
「はい」

ぺこりと頭を下げ、慌ただしく駅に向かう速水。その後ろ姿を皆で見送る。深谷は不服そうに

「強面で口悪いのに愛妻家で子煩悩って、ギャップ激しすぎません?」
「そこがいいんじゃなーい。わたし速水推し」
「え……愛人枠狙ってんすか…?ドン引きぃ」
「雨宮さん!ちょ、澄くんが誤解して引いた顔してるから!違うよ?!ファン!うちの部なら速水さんのファンになるなって!」

必死で弁解をする沼井に、あぁ…と納得したようにうなずく澄。それを愉快そうに笑う深谷と雨宮。そこへ

「2人目も生まれるし、家も建てるからねぇ」

河西からとんでもない爆弾が投げ入れられた。
4人は一瞬固まり

「……え?」
「誰の話ですか?」
「……速水さん?」
「2人目……え?家?」

互いに目を合わせてから

『……え?』

声と挙動が重なる。すべてを向けられた河西はくすくすと楽しそうに笑い

「10月予定日だって。家は夏に完成するみたい。お披露目してくれるらしいから、お祝いにみんなで行こうね」

少し酔っ払っているのか、いつもより締まりのない笑顔で

『…………』

唖然とする4人を圧倒した。

だから、このときの違和感などすっかり忘れてしまったのだ。



人数が半分以下になった二次会はやはりまだまだ飲み足りない者が多く、場所は全国チェーンの居酒屋だった。一次会のような席の縛りもないので自然とチームで固まりはしたが

「河西さーん、一緒に飲みましょーよー」
「あれ、河西さんいる!ちょっとこっち来てくださいよ!」
「河西さぁ~ん…もー聞いてくださいよぉー」

河西はどこのチームからも引っ張りだこだった。そのせいで雨宮たちの元にはほとんど帰ってこない。深谷はジョッキをドン!と机におろして

「もう!うちのリーダーなのに!」
「まぁ仕方ないよぉ。河西さんほんと若手に人気だし」

沼井はカクテルをカラカラと混ぜながらうんうん頷く。雨宮は唐揚げをつまんで

「あ、やっぱそうなんだ」
「そうですよ!ランチとか同期会のときとか、うちらめっちゃ羨ましがられますから」

深谷はフライドポテトをむしゃむしゃと食べながら、それでも拗ねたような表情をする。それを見て沼井は

「深ちゃんは河西さん推しだからねぇ~」

ニヤニヤと含みをもたせて言うが、深谷は

「ちがう!私の推しはコーキだけ!」

その言葉で思い出したのか、今度発売するCDのことやら今の髪型のことやらに話が飛んでいく。深谷と沼井のこのトークにはついていけない…と、雨宮は向かい側に座る澄すら放って意識を他へと逸らす。
少し遠くの席で笑う河西が見えた。その様子は、いつもとあまり変わらないようにも見えた。


違和感の正体が分かったのは、二次会も終盤に差し掛かった頃だった。
いつまでも続くアイドルトークとそれに流されながらも意外と聞いている澄を横目に、雨宮はまた一人静かに飲み進めていた。
こんなことなら帰ってゲームでもしていればよかった。でもあのまま帰っていたら多くの社員寮生たちと一緒に帰る羽目になる。それは気まずい。ならいいのか、どうせ二次会終わったら帰るし…と、うだうだ考えていたら

「ふぅー……」

隣に、大きく息をつきながら河西が帰ってきた。そのまま机に突っ伏す。驚いた。

「え…大丈夫ですか?」

どうやら3人とも話に夢中で、河西が戻ってきたことには気付いていない。初めて見るその姿に雨宮は慌てる。
しかし河西は

「だいじょーぶ……ちょっとのみすぎちゃったねぇ…」

だいぶ呂律の回らない状態で、それでも腕を枕にしたままこちらを向いて笑顔を見せた。雨宮はやはり驚く。こんな河西は見たことがない。

「あの…家帰れます?もしあれだったら、奥さんにお迎えとか……連絡できます?」

顔を寄せ、小声で提案する。この姿をあまり晒してはいけないような気がしたからだ。しかし

「……、」

河西の笑顔から色が失せる。眉が下がり、今にも泣きそうな表情に変わる。だが

「できないよぉ」

笑顔は崩さなかった。それが余計に、雨宮には痛々しく見える。
河西は体を起こした。そして俯いたまま

「奥さん、離婚届置いて出てっちゃったからね」

ぽつりと、だがはっきりと言葉を落とす。


人間はこんなに悲しく笑えるのかと
雨宮は初めて知った。



三次会に出席すると決めたのは、べろべろの河西が行くと言ってきかないからだった。深谷や沼井は反対したが

「じゃ、俺も行きますよ」

雨宮がそう言うと、2人はかなり驚きながらも それならばと了承した。同じく社員寮生である澄も付き合ってくれることになった。ありがたい。自分より背の高い河西を運ぶには人手が欲しかった。
深谷と沼井は河西を心配しながらも先に帰路につく。三次会に残ったのは、ほとんどが独身の男性だった。

雨宮としては、ここで河西を無下に帰すのも憚られた。さっきの発言が本当だとすると、河西が三次会まで参加するのは恐らく

(帰りたくない、よな)

雨宮は心配だった。あの言葉と顔を受けてしまったら、放っとけるはずもなかった。


三次会はカラオケだった。人数は10人以下まで減っていた。河西は最初の乾杯をしてその一杯を飲み干すと、あとはほとんど雨宮の横で寝ていた。時々起きては誰かの歌で盛り上がり、また電池が切れたように眠る。周りは面白そうにそれを見ていたが、背景を知ってしまった雨宮だけは笑えなかった。


それから、朦朧とする河西から何とかマンション名を聞き出し、タクシーに乗せ、澄と2人で見送った。

「大丈夫ですかね…」

心配そうに聞く澄に、雨宮は

「…大丈夫でしょ、意外と歩けてたし。タクシーで寝たらスッキリするかも」

後輩の背中を軽く叩くと

「ありがとね、マジで。助かった」

素直に礼を言った。澄は少し驚いたように雨宮を見ると

「いーえ。またゲームしに部屋行きますから」

ふふ、と笑う。雨宮も思わず吹き出して

「帰るかぁ」
「はいっ」

2人は並んで駅に向かった。




金曜日。
あの飲み会からちょうど一週間が経った。

毎週金曜日は、終業時刻前にグループ内で簡単な報告会がある。基本的には、他グループや他課からの一週間の業務報告を河西から下ろすのと、休日に時間外出勤をするかどうかの確認だ。
今日もいつも通り報告会が行われる。

「報告は以上です。では、今回休日出勤する方はいますか?」

河西が聞くと、すぐに沼井が

「はぁい。明日午後だけ来ます。プレゼン直しだけ」
「分かりました。ほどほどにね」
「いえっさー」
「あ、自分も…」

沼井と河西のやりとりが終わるや否や、今度は澄が遠慮がちに手を挙げる。

「日曜日、ちょっと頑張って組んできます」
「そう?一人で平気?」
「はい。ちょっと…一人でやってみます。週明け確認お願いします」

覚悟を決めたような澄の顔に、先輩たちは一様に頼もしさを感じる。河西もその熱意を汲んで

「分かりました。無理せず頑張ってください。何かトラブルがあれば、踏み込まずすぐに連絡を」
「はい。ありがとうございます」
「応援していますよ」

やわらかく微笑む河西。緊張していた澄もつられてほころぶ。ついでに周りもあたたかな気持ちになった。

「他はよろしいですか?深谷さんは先ほどシステムの直しを営業から受けていましたが、休日はなしでいきますか?」
「あっ、はい。このあとの残業で終わらしちゃいます。土日は空けときたいので」
「分かりました。ただ、あまり遅くならないようにしてくださいね。タクシーチケットも使ってください」
「はい。ありがとうございます」

拝むように手を合わせる深谷。それを見つけた速水は苦笑する。
休日出勤の予定をボードに書き込んだ河西は全員を見渡し

「では最後に、私事でたいへん恐縮なんですが」

これまでよりも少し声色をやわらかくして、仕事に関連しないことを強調する。部下は皆、不思議そうに河西を見つめた。
河西はひとつ息をつき、皆を見回してから

「先日、正式に離婚しました」

努めて穏やかな表情と口調で報告する。だが

『…………』

雨宮以外、目を大きく見開き非常に驚いた顔をして、だが誰も一言も発しなかった。
河西は続ける。

「部長にも事務にも報告済みです。とは言え、仕事上は特に何も変わりませんので、これからも変わらずによろしくお願いします」

そこまで言ってから、なんだか冷たく突き放したような言い方になってしまったことを省みる。だから

「…ご飯とか飲み会、積極的に誘ってくださいね」

笑顔で締めた。それでも速水、沼井、深谷、澄は変わらず唖然と固まっている。雨宮は黙って聞いていたが、軽く息をつくと

「じゃあ今日行きましょうよ」

それまで誰も発言しなかった中での雨宮の言葉に、当然全員が驚いて勢いよくそちらを見る。雨宮は動じず、いつものように飄々として

「ご飯。先週飲み行ったんで、ご飯で」

河西に向かって言った。河西は驚く。応える前に

「あっ、自分も!…ご飯、行きたいです!」

澄がガタリと立ち上がり、勢い付いて言う。それに触発されたように

「じゃあ私も…!」
「深ちゃんは残業でしょ~」

深谷も手を挙げたが、沼井の冷静な一言に

「くっ……じゃあ私も休日出勤で…」
「日曜参戦で土曜は復習と準備でしょ。いいの?」
「~~~っ、…残業します………」

観念したようにうなだれる深谷。男たちには意味の伝わらない沼井の言葉だったが、深谷には衝動的な行動を抑える的確な一撃だったらしい。それを与えた沼井は

「まぁ私もこれからデートなんで残念ながら行けないんですけど。今度行きましょーね」

河西に向かってにっこり笑う。雨宮の発言からずっと驚いていた河西はそれを合図に顔をほころばせ

「……うん。…ありがとう」

心優しい部下たちに、深々と頭を下げた。



「…河西さん」

使っていたマグカップを給湯室で洗っていると、後ろから声を掛けられた。振り向くと声の通り、速水だった。

「ん?どうした?」

聞いたが、速水は答えない。眉間に皺を寄せて俯き、懸命に言葉を選んでいる。そして、それを声に出していいのかを悩んでいる。

(…懐かしい)

彼が入社した当時は、この顔もよく見たものだ。河西は自然と微笑む。
洗剤と汚れを一気に洗い流し、備え付けのペーパータオルで拭いた。

「……相談、してください…」

今の速水からは想像できないほど、弱々しい声だった。河西はその意外な言葉に驚く。

「河西さんは…昔から、周りを気遣ってばっかで、自分のことはほとんど言わないから…。…でも結婚してたし、奥さんに言えてんならいいかと思って……俺、ずっと河西さんに甘えてたから…」

速水が入社したとき、席の近かった河西はよく面倒を見ていた。速水は昔から強面で口が悪く敵を作りやすいタイプだったが、柔和で温厚で丁寧に教えてくれる河西にはすぐに懐いた。
河西は驚く。速水が、自分のことをそこまで見て、心配してくれていたことに。

「……しんどいときは、相談してください。…頼れとまでは言わないんで…吐き出してください。聞くことくらいはできますから」

速水は少し怒っていた。離婚が簡単に、即時的に起こることではないと、結婚している自分はよく分かる。悩みや苦しみがあったはずだった。ここに至るまでに、抱えている感情があるはずだった。
確かに仕事にはまったく関係ないけれど。
それでも、ここまでまったく気付かなかった自分にも、きれいに隠していつも通り接していた河西にも怒っていた。
同時にショックだった。反応から見て、雨宮は知っている様子だった。でなければ、あんなに愛妻家だった河西の離婚に、あそこまで淡白でいられるはずがない。いくら雨宮でも。
相談していたのだろうか。何かの拍子で聞いたのだろうか。自分を飛び越えて後輩が知っていることに、思いの外ショックを受けている自分がいた。

「……俺は、河西さんのこと信頼してます。プライベートもたくさん相談のってもらいました。だから、返させてください」

速水の言葉に張りが出てくる。自信が見えてくる。
間違ってない、これを伝えたい、自分の正直な気持ちだと、眼から、声から伝わってくる。
ただ驚いていた河西は、ふはっ、と吹き出した。そのままくつくつと笑い続ける。突然笑いだした河西に、今度は速水が驚いた。河西はペーパータオルをゴミ箱に捨て、流し台に寄りかかる。速水と向き合った。

「ごめんね。家のことで幸せそうなきみに、水を差したくなかったんだよ」

申し訳なさそうな笑顔を向ける。そう言われてしまうと、速水は何も言い返せなかった。
河西はそれが分かってすぐに続ける。

「本当に突然のことだったし。…でもそうだね、これからはもっと甘えてみてもいいのかな」

顔を上げる速水。河西は笑顔だった。やさしく、でもとてもうれしそうな笑顔だった。

「ありがとう速水くん。頼りにしてる」

その言葉は

「…はいっ」

速水を笑顔にするのに、充分すぎる言葉だった。



「ご飯ってどこに行くの?」

いつもは逆方向に向かう雨宮と澄と共に、河西はいつも通り駅への道を歩きながら聞く。雨宮は

「駅向こうのトンカツ屋です。そんなきれいじゃないけど、がっつり食えて安いんで」
「あ!あそこうまいですよねー。ご飯とお味噌汁とキャベツがおかわり自由なんですよ」

社員寮に住む2人は、駅前の店にも度々行くらしい。寮と言っても食堂はないので、食事は自分たちで調達しなければならない。

「へぇ、楽しみだな」

素直に思ったことを言う。自然と笑顔がこぼれる。すると

「あの……」
「ん?」

澄が遠慮がちに

「けっこう……元気そう、ですかね?」

聞きにくそうに聞いてきた。思わぬ質問に目をしばたたかせる。しかし真っ直ぐな澄の視線に

「…はは、そうだね。意外と元気だね」

うん、と大きく頷く。
そうだ、元気だ。自分でも分かる。先週の一週間、佳那がいなくなってから飲み会までのあの一週間に比べたら、今は見違えるほど元気だ。体も、心も。
それは間違いなく

「君たちのおかげだよ」

そして、“彼”のおかげだ。
あの日、ただただ懸命に話を聞いてくれた、加宮昂輝のおかげだ。

2人を見ると、澄はとても嬉しそうににやけ、雨宮は照れ臭そうに困った顔をしている。
本当に、出会いに恵まれた。大切なものを失って、大切なものに気づくことができた。

「さー!今日はとこっとん!食べましょー!」
「……澄…面白くないよ……」
「え?……ああちがう!違います!トンカツだからとことんとかそういうことじゃないです!」
「あはははっ」

まゆにこもりたる


河西は悩んでいた。
目の前には透明なビニール袋。に、入った黒いパーカー。パーカーにはそれと分かるよう見える位置にタグが付いている。
そう、本日ようやくクリーニングされて返ってきた、加宮昂輝に借りたままのパーカーだった。
初めは普通に洗濯機に放り込もうとしたが、その手触りのよさと本来の持ち主に躊躇い、自分のスーツと共にクリーニングに預けることにしたのだ。

(しかし…どうやって返そうか)

話したときに、あの公園の近くに住んでいることは言っていた覚えがあるが、いかんせんこの辺りはマンションが多い。それに相手が相手だ。大っぴらに探すわけにもいかないし、住んでいる場所など隠しているだろう。

河西はしばらく悩んでから

(イチかバチか……)

賭けに出ることにした。


深夜1時。なるべく大きな音を立てないよう玄関のドアを開けて外へと出る。普段から静かな場所ではあるが、時間帯も相俟っていつも以上に静寂を感じた。神経を使ってドアを閉める。鍵をかける音がやけに大きく聞こえて肩を強ばらせた。キーケースをポケットにしまいこむ。

手には紙袋。中にはクリーニングされたパーカーがビニール袋に包まれたまま入っている。ポケットには鍵とスマートフォン。スマートフォンケースには電子マネーの入った定期券もあるから、ちょっとした買い物もできる。社員証もそこにあるから身分証明にもなるだろう。必要最低限の持ち物をもう一度確認し、エレベーターに向かう。

(……やっぱりちょっとでも寝ればよかったかな…)

大きなあくびが抑えきれずに出てきた。仮眠をとらなかったことを少し後悔する。

一度寝てしまうと起きられない可能性があると思い、この時間までどうやって時間を潰そうか考えながらふとテレビをつけて、思い出した。録ったまま消化していない番組がある。バラエティやドラマなど、さて何を観ようかとハードディスクを確認すると、目に留まった1つのサムネイル。佳那が録って自分も一緒に観ていたドラマだった。最終回まで4話ほど、観ていないのが溜まっている。
佳那と並んで観た思い出に少し心を痛めながら、それでも再生ボタンを押した。

正面切って向き合う必要はない。それは、ただ自分をひたすらに傷つけていくだけだ。だから少しずつ少しずつ、濾過するように流していくと決めた。新しいことに目を向けて、少しずつきれいに浄化していく。そうしていつの日か、痛まない思い出になることを願う。河西はそうやって、元妻との思い出を時間に任せることにしたのだ。

ドラマが始まる。オープニングの前に、前話のあらすじが流れる。そうだ、こんな話だった。
主人公は女の子。母親がピアノ教室を開いていて、彼女もピアノが大好きだった。いつか有名なピアニストになると練習に励んでいたが、中学のときに参加したコンクールで、他を寄せ付けず圧倒した1人の美しい先輩に一目惚れをする。第1話がそこから始まるドラマだ。
中心となる登場人物は、主人公の女の子と美しい先輩の男の子、それと女の子の母親の教室に通っていた、幼なじみの男の子の3人。女の子はこうと決めたら真っ直ぐ突っ走るタイプで、高校も大学も先輩を追い掛けて難関校を受験、そして合格。幼なじみの男の子はいつもそれに巻き込まれ、呆れたように見守りながら、実はずっと女の子に想いを寄せている。美しい先輩は笑顔が素敵で柔和な印象だが、圧倒的な実力とその美しさ、さらにさらさらとなびく金髪でいつもどこか謎めいて孤高の存在となっている。そんな3人を中心に、音楽高校や音楽大学を舞台として、青春ほとばしるまぶしいドラマとなっていた。

エレベーターに乗ってもうひとつあくびを落とす。
結局、最終回までぶっ続けで観てしまった。あのまま先輩への想いが報われて両想い、という展開かと思ったら、幼なじみがとうとう告白、そしてピアノも諦めるという宣言。女の子はそのどちらにも衝撃を受け、憧れの先輩とのレッスンにも身が入らない。先輩は心配して声を掛ける。女の子はつい相談する。先輩は導く。そして女の子は幼なじみへの自分の想いに気付き、そこから走り出す_…。
いいドラマだった、と河西は1人頷く。女の子も幼なじみも先輩も、真っ直ぐで優しい、心が洗われるようなドラマだった。この年になって青春恋愛ドラマを夢中になって観るとは思わなかったが、こういうものは年齢も性別も関係ないんだなと改めて実感する。
そして、何より。サムネイルで目に留まったのが何故だか分かった。映っていたのは金髪姿の先輩だったが、それが加宮昂輝だったのだ。だが、あまりにも自分が出会った本人の雰囲気と異なっていたので、二話分観終わるまで全く気付かなかった。エンディングの名前が目に入り、そこでようやく繋がったのだ。

(つくづく…疎すぎるな自分は……)

エレベーターが1階に到着する。広いホールを歩き、出口へと向かう。
もともとテレビを観る方ではない。佳那がよく観ていたから、それに付き合っていたくらいだ。自分1人だと、まずニュースくらいしか観ない。あとは料理番組や動物の生態記録番組、外国の街並みを巡る番組は好んで観る。が、それも特に執着はない。だから、芸能人についてはさっぱり分からない。

(彼にも…あんなに話したのに気付かなかったし……)

そこで はたと気付く。
芸能人にとって、“本人だと分からない”ことは屈辱なのでは?失礼に当たるのでは?何せ彼はトップアイドル。速水が言っていたように、日本中のほとんどがその名前と顔を知っている存在。それに、まったく気付かなかったとは

(…実は気を悪くしていた…かも…)

広いホール内で立ち止まる。しかしあのときの彼を思い出して

(いやでも……楽しそうだった…ような…)

さわやかで綺麗な笑顔が浮かぶ。しかしあの日は酔っ払っていたので、自分の記憶にあまり自信がない。

(それに…)

先ほどまで観ていたドラマを思い出す。あの演技力があれば、相手を気遣って楽しそうな振りくらいはできるだろう。
だんだんと自信がなくなってきたが

(……まぁとりあえず…いるかいないか分からないし)

ぐっと顔を上げて、決意と共に歩き出した。



前回出会った時間帯に、前回出会った場所へ行く。河西の手札で出来る精一杯の作戦だった。いなければ仕方ない。ただ持ち帰るだけだ。
そんなダメ元の行動だったが

(……いた…)

まさかの、同じ場所にいた。あのときと同じようにベンチの前で踊っている。
河西は自動販売機で水を1本買って紙袋に入れると、タイミングを見計らって近付いた。


一通り流して一旦休憩。録画を止めてスマートフォンを持つ。ベンチに座って再生する。
新曲の振り付けは、これまでのダンスと一線を画していた。それほどに難しい。業界でも有名なダンサーに難易度高めの振り付けを依頼したためだ。しかも歌番組によってカメラ位置やカットの仕方が変わり、少しずつ意識をするところが変わる。普段ならそんなに気にならない違いも細かに確認したくなるほど、今回の曲は難しかった。

(…うん…悪くない…。けどサビの前やっぱ止まれてねーなぁ)

手本の振り付けを脳内で再生する。あのカッコよさを表現するにはもう少し練習が必要だ。ミュージックビデオの撮影では細かくカットをかけられたが、生放送の歌番組やコンサートではそうもいかない。
ふー、と一息ついた、そのとき

「…?」

ざ、と足音。反射的にそちらを見る。
こちらに向かってくる姿。細身、170cm半ばほどの身長。体格からして恐らく男性。暗がりに見えたのは、手に袋のようなものを提げていること。
軽く身構える。しかしそれも

「どうも…こんばんは」

街灯に浮かび上がった柔和な笑顔ですぐにやわらいだ。

「おにーさん!」

以前ここで出会った、名も知らぬ男性だった。


「その“おにーさん”っていうの…ちょっと恥ずかしいんですが。もうだいぶおじさんですし」

はは、と照れ臭いのを隠して笑う。こちらを向いた瞬間華やいだ笑顔に、先ほどまでの心配はどこかへ吹っ飛んでしまった。

「え、でも、30半ばとかでしょ。俺の周りでその歳の人をおじさん扱いしたら怒られますよ」
「いやそれは…きみの周りだから」

相手の環境を考えて思わず笑う。テレビで見る自分と同年齢を思い出しても、とても同い年には見えないほど若々しい人ばかりだ。

「僕はおじさんでいいですよ」
「いや、だってそんなおじさんにも見えないし…。ていうか、何で敬語?前そんな話し方じゃなかったでしょ」

綺麗な顔が不服そうに歪む。河西は

「それは……」

答えようとして、詰まった。
理由はいくつかある。
まずそもそも、あの日は相当酔っていて気が緩んでいた。普段ならば年下であろうが初対面の人間には丁寧な言葉遣いをするよう心掛けている。だがあの日は正常な判断ができず、安に無礼な言葉遣いをしてしまっていた。
だが一番は、相手が加宮昂輝だと分かった、というのが大きな理由だ。その辺の若い子ではなく、誰もが知るトップアイドル。自分よりも“立場が上”のように感じている。
だから敬語を使っていたのだが、それはとても失礼な答えなのではないかと思い立つ。特に後者の理由は、“相手の立場によって態度を変える”という失礼極まりない行為だ。
河西は自分を顧みて反省する。自己嫌悪に俯く。どう返したらよいのか、そもそもこれからどんな言葉遣いにしたらいいのか悩む。
すると

「……もしかして、バレちゃった?」

声の明るさに顔を上げた。だが、声色に反して表情は、困ったような寂しいような、そんな笑顔だった。

「…、」
「そっか、残念。この感じ久しぶりだったから、結構楽しかったんだけどな」

ぽつり呟く、その声も深夜の公園ではよく届いた。

「…すみません…」
「なんで謝るんですか。何に対する謝罪?」

相手は吹き出して笑う。だがその笑顔は本当に可笑しいようで、それでいて寂しさも滲み出ていたような気がした。
だから

「いろいろ、です。あなたに気付かなかったことも、無礼な言葉遣いをしたことも、分かって今さら言葉遣いを変えたことも。……あなたを傷つけた行動のすべてを謝罪します。…すみませんでした」

きっちりと頭を下げる。誠意が伝わってほしいと願いながら。
言葉だけの上っ面ではないと、伝わるように。

少しの沈黙。それから

「…顔上げてください」

やさしい声。言われた通りにすると、初めて見る穏やかな笑顔だった。伝わった、そう思った。

「じゃあ一個いいですか?」

途端に、いたずらっぽい顔。ニヤリとする。その変化と言葉に河西は呆気にとられた。

「へ?」
「敬語、使わないでください。そしたら許します」

言い方や表情から、それが嘘、冗談だということは分かった。

「いや、しかし……」
「じゃあ俺もやめます。それで気にならないでしょ?」

それでも渋る河西に対し、整った顔立ちでにこりと微笑んだ。ここまで言われてしまったら

「……分かった」

折れるしかない。息をついて笑うと相手も笑って

「てか座って話さない?」

半分譲りながらベンチを叩いた。そういえば、河西はずっと立ったままだった。



「これ、返しに来たんだ」

わざわざこの時間にどうしたの、と尋ねた昂輝に、河西はようやく紙袋を渡した。昂輝は不思議そうに受け取って中身を確認する。そこにはペットボトルの水が1本と、クリーニングされたパーカー。

「あぁ!え、わざわざクリーニングしてくれたの?」
「いや、あまりにも手触りがよくて…そのまま洗濯機に入れるのは気が引けてね。あ、でも自分のスーツもあったし、わざわざでもないよ」
「うわ、ありがとう…俺パーカーのクリーニングって初めて」
「僕も。ちょっと出すの緊張した。受け入れてもらえるかなって」

顔を合わせて笑い合う。そして河西は気付いた。

「いや違う違う、僕がありがとうだから。返すの遅くなってごめんね。改めて、あのときはありがとう」

丁寧に頭を下げる河西。
昂輝はそれを、一瞬驚いて見た。しかしすぐに納得する。
紙袋の中の水。貸したものを返すだけでなく、あのとき自分が買った水さえも新品で渡してきた。その律儀さに笑う。やはりあのとき自分がもった彼の印象に間違いはなかったのだ。
誠実で、律儀で、やさしい。
自分の周りでは滅多にお目にかかれない、珍しいタイプの人間だ。昂輝にとって、河西は出会った日からとても好ましい存在だった。

「いーえ。そんな改まって言われると照れるね」
「え、そう?」
「そうだよ。なに、おにーさんにとっては……てか待って、名前聞いてもいい?」

今さらだけど、と昂輝は笑う。“おにーさん”呼びを却下されたことを思い出した。だからと言って“おじさん”とは呼べない。なら名前を聞くしかない。
河西も ああ、と笑って

「河西秀一です。さんずいの河に西で河西、秀でる一番で秀一。……名前負けも甚だしいけど」

卑下した言葉だったが、慣れているのか気にしていないのか、からりと笑ったまま河西は自己紹介をした。ダメ押しに社員証も見せる。
昂輝はそれをじっくり覗き込み、音と文字を一致させながら

「かさい…しゅういちさん……似合うね」

不意に顔を上げて感心したように笑った。思いがけない反応に河西は思わずどぎまぎする。
しかし昂輝はさして気にせずに

「俺は加宮昂輝です。加える、お宮の宮、星のスバルに輝く。…て、もう知ってるんだっけ」

あははと笑った。河西もつられて笑う。こんな超有名人に名前の説明をされるとは思わなかった。
それから

「本名なんだね。てっきり芸名かと思ってた」

少し驚く。“昴”が“輝く”など、まさに大スターに相応しい。

(大スターは死語かな…)

一人勝手に恥じ入っていたが、昂輝は特に気にしていないように

「あぁそうそう。よく言われる。名前負けしないように必死です」

あははと笑う。名前負けどころか…と河西がフォローのような反論を送ろうとしたとき

「じゃあ、秀一さんで」

突然名前を呼ばれた。その呼ばれ慣れない呼び方に驚いて見ると

「秀一さん。俺のことも昂輝って呼んでね」

キラキラとした笑顔で言われる。名前呼びに気恥ずかしさを感じつつも、お人好しと呼ばれて名高い河西には断れるはずもない。
河西は心を落ち着かせようと息を長く吐き出してから

「……昂輝、くん」
「はい」

呼ぶと、とても嬉しそうな返事が即座に返ってきた。犬ならば尻尾を大振りしてそうな、そんな笑顔だった。

装束きたてつれば

昂輝は悩んでいた。
視線の先は、手に握られたスマートフォン。画面上には空白のメッセージアプリ。宛先は“河西秀一”。

「ん~…………」

机に突っ伏して唸る。

生放送の出演も終わって、次の移動まで待機。マネージャーは別の打ち合わせに行っていて楽屋には自分一人。あと30分はこのままだろう。
再び画面を見遣る。特に変わった様子はない。

2回目に会ったあの日、別れ際に連絡先を交換した。それがお互いの、特に自分の立場を考えるとあまり好ましくないことなのは重々承知している。河西もかなり渋っていたし、自分が懸念する材料を把握している様子だった。それでもと、自分が半ば強引に交換に踏み切った。それだけ、昂輝は河西のことを気に入っていた。

だが、あれから半月ほど経った現在もなお、一度も連絡をとれていない。新曲をリリースしたばかりで忙しかったのもあるが、それ以上に

(…なんて打とう……)

連絡する話題が思い付かなかった。
気軽に食事に行けるような相手ではないし、一回り違う歳の差も相俟って趣味も合わないため共通の話題も少ない。かといって近況を報告したところで、初対面で“自分”に気付かなかった相手はそれにもさほど興味はないだろう。

(まぁ、それでもやさしく返してくれそうだけどね)

机に頭だけ預け、思い出してはつい綻ぶ。

カミヤコーキに気が付かなかったひと。
瑣末なことにも誠意をもって謝ってくれたひと。
浮気されてもなお、自分を責め続けたひと。

(借りたパーカーをクリーニングに出してくれたひと……)

思い出してくすくすと笑う。あんな律儀な人間、出会ったことがない。見返りや損得勘定なしに、あそこまで親切な人を知らない。幼い頃から狭い世界にいた昂輝にとっては、河西という人間そのものが“スーパースペシャルレア”だった。だから、貸し借りを消化して関係終わり、とはしたくなかったのだ。

仲良くなりたい
友達になりたい

純粋に、そう思った。



コンコン、
ノックの音。

「はぁい」

半ば反射的に応えて体を起こす。ついでに画面も消した。

「失礼します」
「どうぞー」

声とともにドアが開く。先に見えたのは、白を基調としたきらびやかな衣装。そして

「おー、賢ちゃん」

顔を出したのは

「久しぶり」

“1st-ar”の1人、kenこと賢だった。


_…



「……あ」

楽屋に備え付けられたテレビ。
テレビ局内の楽屋であるため、当然その局の番組が映っている。今は昼の生放送が流れていた。

「……げ」

最初に反応したのは、マネージャーに頼まれてテレビを点けた賢。その声に促されて同じようにテレビに目を遣り、露骨に嫌そうな反応をしたのは

「いや、雄太それは嫌がりすぎ」

グループで一番背の低いyu-taこと雄太。賢は笑う。

「嫌がってないよ、つい反射で」
「あっ、昂輝くんだ!」

涼しい顔で弁明をしようとした雄太など度外視で、雄太とは正反対の嬉々とした声を発したのは、グループ最年少ながら最高身長を誇るryo-skeこと良亮。そのままテレビの前を陣取る。

「カッコいいなぁ…!やっぱ黒髪似合うよね」

テレビから首だけ振り返って同意を求める良亮に、雄太は苦い顔をして

「ボクに聞かないで」

ぷいとそっぽを向くと、早々に自分の鞄から台本を取り出して不機嫌そうにイスに座る。良亮が賢に顔を向けると

「そうだね。前の金髪もよかったけど」
「あ分かるー。金と黒…コーオツつけられないよさがある……」

うんうん頷きながらテレビに向き直る良亮の背中に、台本に目を向けたままの雄太がからかうように

「りょー、“甲乙”なんて知ってたんだ」
「あ、知ってますー。それはバカにしすぎですー」
「でも漢字書けないだろ」

笑いながら指摘する賢に、良亮は首を傾げて

「コーオツ……コウ…高い……あっ、分かった!“高い”に“落ちる”だ!」

大発見をしたように、目と口を大きく開いて嬉しそうな顔をした。賢と雄太は一瞬その字を当てはめて想像した後

「どっからくんのその自信……」
「“高落つ”…なんか古語みたいだな」

雄太は堪えきれないように笑いだし、賢は笑いながらも感心する。良亮はその2人の反応に あれー?と再び首を傾げて考え始める。
そこへ

「おはよーう」

独特な挨拶とともにドアが開いて、最後の1人、最年長でリーダーのikuこと育が入ってきた。3人はそれぞれ挨拶に応える。それから賢が

「遅かったね。何かあったの?」
「あぁ、道が混んでてさ。事故あったみたいで」

大きなあくびをしながら育が答える。それに少し考えた雄太が

「……あぁ、今日も稽古場から?」

台本から目を上げて聞く。育は頷いて

「そうそう、今日出られないから、特別に朝稽古つけてもらって…。ちょっとシャワー浴びてくるわ」

大きく伸びをしながら付属のシャワー室へと向かう。それを見送ってから

「よく分かったね、稽古行ってたって」

賢は雄太に目を向けた。雄太は肩をすくめ

「別に?育が家から来たんだったらボクらと同じ方向なのに、道は流れてたでしょ。別方向から来て育が今この時間からやってるのって、舞台の稽古くらいしかないじゃん」

大したことではなさそうに、台本のページをめくりながら話す雄太。
ぱっちりとした目に自然と口角の上がった唇、男性にしては丸みを帯びた頬。さらに細い骨格に低い身長をもつ彼は、“日本一可愛い男”と言われている。だが雄太はその見た目とは裏腹に毒舌、さらに頭の回転が早く、誰よりも仕事に真摯に取り組む。クールな振る舞いはするが、真面目で熱血な、その実メンバーの誰よりも男らしくカッコいい。

(1st-ar内人気No.1を誇るだけのことはある…)

賢は内心で笑う。
雄太の見た目は可愛い。だから、本人も可愛いキャラを作る。だが毒舌で聡明な“顔”は、メンバーだけでなくファンも知っている。隠さない。だからそのギャップに、彼を見た目で好きになったファンは落ちる。その手の込んだ策略に賢はいつも感心して笑ってしまうし、ファンも策略だと分かっててなおハマりこんでいく。

(俺には出来ないなぁ)

賢は自分の荷物からギターを一本取り出し、弦を調節する。
すると

「……ねぇ」

テレビにかじりついていた良亮が、その態勢のまま不意に誰かを呼んだ。賢も雄太もそちらを見る。テレビに映るスタジオにはもうゲストである昂輝は居らず、別のコーナーを進めていた。告知のためのゲストは一定時間しか出演しないようだ。良亮は振り向くと

「これ今…生放送だよね?てことは…昂輝くん、この局にいるよね?」

切実そうな顔をして2人に問い詰める。賢と雄太は一瞬目を合わせた。


「ゆーくん、怒ってるかなぁ…」

テレビ局の廊下を歩きながら、良亮は心配そうにぼそりとこぼす。隣を歩く賢はその横顔を見上げて

「大丈夫、良亮に怒ってるわけじゃないよ」
「じゃあ昂輝くん?」

眉を下げ、主人に叱られた犬のような顔をして賢を見る良亮。賢はまだセットされていないその頭に手をのせて

「昂輝にも怒ってない。あいつのアレは…意地みたいなもんだから」

お前が気にすんな、と、一度くしゃっと頭を撫でた。



「あれ?賢と良亮は?」

シャワーから出てきてすっきりした顔の育が、雄太だけの楽屋に疑問を向ける。台本を読んだままの雄太は

「挨拶行った」

簡潔に、かつぶっきらぼうに答える。その答えに育はさらに疑問を増やした。
出向かなければならない挨拶ならば、4人全員で行くのが普通だ。2人だけが関わった番組や舞台があるのなら別だが、そんな仕事は今まで1つもない。
雄太が見送った理由、雄太が不機嫌な理由を総合して考えて

「……あぁ、もしかして昂輝?」

合点がいった。ドライヤーをかけに鏡へと近付く。

「お前も相変わらずなぁ」
「うるさいな」

呆れたように笑う育に、雄太は即座に制した。ドライヤーのスイッチを入れると、楽屋の中は大袈裟な機械音で埋め尽くされる。

「何かきっかけでもあればいいんだけどなぁ」

髪を乾かしながら呟いた育の言葉は、当然誰にも届かなかった。



1st-ar(ファスター)
・iku(育…いく)
・ken(賢…けん)
・yu-ta(雄太…ゆうた)
・ryo-ske(良亮…りょうすけ)



「どしたの?あ、今日の特番?」

衣装のまま楽屋に来た理由を聞くと、賢は頷き

「そう。ランスルーまで時間あるから顔見に来た。あと……」

ちらりと後ろを見る。昂輝が不思議そうな顔をすると

「ま、俺よりお前に会いたそうなヤツがいたから、俺はどっちかっていうと付き添いかな」

呆れたように笑いながら賢が部屋に入ると、その後ろから

「…わ、良亮!久しぶりぃ!」

賢と同じような白い衣装を着た良亮が、ひょこりと顔を出した。

「久しぶり…昂輝くん」

昂輝を目の前にして感無量の表情をしたまま、入り口で立ち尽くす良亮。それに賢は笑って

「とりあえず入りな。この状況、見られるとあんまりよくないから」

言い方は軽いが、良亮をすぐに動かすには十分な言葉だった。慌てて部屋に入りドアを閉める。

「ごめん…ちょっと感動しちゃって」

素直な感想を言う良亮に、昂輝は笑って

「えーそんな?何回か会ってないっけ?」

机の上を整頓し、2人に椅子を勧める。賢はテレビを点けながら座り、良亮は

「……会ってないよ」

その場に立ったまま、俯いて答えた。その声はひどく深刻そうで低く、彼らしくない様子に賢も昂輝も驚いて見る。
良亮は顔を上げた。唇を噛みしめ眉間に皺を寄せ、今にも泣き出しそうな、沈痛な面持ちだった。

「…“あれ”以来、会ってない。会えなかった。社長も、マネージャーも、みんな会うなって言うから。……賢くんはたまに会ってたみたいだけど」

恨めしそうに賢を見る良亮。賢は肩をすくめて苦笑いをする。

「元々、賢くんと昂輝くんはプライベートで仲良かったし、それはまぁ…いいんだけど。……でも」

昂輝を真っ直ぐ見つめる。その視線の熱さに、昂輝は再び驚く。
本気だ。流せるような、そんな軽い思いではなかった。

「…おれは、ずっと会いたかったよ…」

拳を握りしめ、涙を堪えるために俯く。
良亮はメンバー最年少であり、デビュー当時はまだ15歳、高校に入学したばかりだった。当然事務所側の大人たちの圧力に敵うはずがなく、また反抗することもできず、これまでずっと耐え忍び続けてきた。
憧れの人に会いたい、その思いを、大人たちにひた隠しにしてきた。
賢はもちろん、1st-arのメンバーはそれを知っている。良亮にとって昂輝が、それこそ事務所に入ったときからの憧れの対象であることも、良亮が昂輝と共演することを目標にしていたこともよく知っていた。
だが、事務所はそれを許さなかった。
賢がただの友人として昂輝に会うことを黙認はしても、アイドルとしての昂輝を追いかけ続ける良亮には関わることさえ許さなかった。

ぐっと力の入った肩に、ぽんと手が置かれる。顔を上げると、目の前には昂輝の顔。困ったような、それでいてやさしい笑顔だ。

「ごめんな。そんなに思ってくれてるなんて知らなかった」

肩に置かれた手が頭に移動する。ぽんぽんと軽く叩きながら

「賢ちゃんから話聞いたり映像観たりしてたからさ、俺にとってはあんま久しぶりな感じしなかったんだ。ごめんな」

最後にすっと、前から後ろに撫でる。昔と変わらない、昂輝のその頭の撫で方に、良亮はかつてを思い出す。

あの、あっという間に過ぎ去った、夢のような日々。
キラキラしていて、笑顔がまぶしくて、希望に満ち溢れていた日々。

「……いいよ。…けど」

涙は引っ込んだ。出たのは、いたずらっぽい笑顔と

「今日のステージ、ちゃんと観ててね」

精一杯のおねだりだった。


「はぁぁー…あっという間だったなぁ…」

廊下を歩きながら、良亮は大きなため息をつく。世間話や情報交換をしていたら、15分ほどで賢のスマートフォンにお呼びがかかった。後ろ髪引かれる思いだったが、自分たちの仕事を蔑ろにするわけにはいかない。

「でも、会えてよかった。ありがと賢くん」

歩きながらも賢の顔を器用に覗き込んで、良亮は笑顔で礼を言った。賢はそれを見て

「…お前はほんと、かわいいやつだね」

ふ、と笑って息をつく。態勢を戻した良亮は不服そうに

「えー?おれかわいいよりカッコよくなりたいんだけどなぁ」

特に理由は聞かず、言葉に対する不満を漏らす。賢は頷きながらも笑った。

目立つパーツはないがきれいに整った顔立ち。一重の涼しげな目元は、見る者に爽やかな印象を与える。すらりと高い身長に長い手足と驚くような小顔で、スタイルは8頭身とも10頭身ともとれる。
見た目だけで言えばかなり“カッコいい”部類に入る良亮だが、メンバーもファンの多くも彼のことを“かわいい”と評価する。それは、甘え上手な甘えん坊で、思ったことは素直に悪気なく発言し、嘘をついたり騙したりするのが苦手で、お勉強もあまりできない感覚タイプという、“天然”と称されるのに十分すぎる性質が彼にあるからだった。

「俺はてっきり、また会えるようにお願いするんだと思ったよ」

賢は先程のやり取りを思い出して言う。良亮が不思議そうに見た。

「さっきさ、昂輝が謝ったとき。“ステージ観てて”って言ったろ。連絡先交換するとか、また会いに来るとか、いくらでも言えたのにと思ってさ」

許しを得るための交換条件など、所詮言葉のあやに過ぎない。確たる約束でもないし、本当に条件だと思って提示したわけでもないだろう。だが効果はあるはずだった。あの流れでは、何を言われたとしても昂輝は断りにくい。それに良亮の強い願いは、昂輝と関わり続けることだ。憧れの人であり、どんな形でも共演を望んでやまない昂輝を目の前にして、それでも良亮は提案しなかった。

「……あぁ、あれね。んー…よく分かんないけど」

腕を組んで首を大きく傾ける。わざとらしい仕草ではあるが、良亮がやると様になるし、かわいらしい。

「なんとなく出てきちゃったんだよねー」

あはは、と呑気に笑う。賢は少し呆気にとられた。

「でもそっか、連絡先はありだったなぁ。全然思い付かなかった」

腕をほどいて頭をがしがしと掻く。それからぱっと手を開くと、指の間から髪の毛がさらりと元に戻った。

「でもいいかな。交換しても、たぶん隠さなきゃいけないでしょ。おれそういうの得意じゃないし。だからあれでよかったんだよ」

腰をぐっと伸ばすと背筋が伸びる。見上げるほど高くに上がった顔はこちらを向いた。

「昂輝くんが観てくれてるってだけで、おれは頑張れるからね」

にひひと照れたように笑う、その顔を賢は驚いて見上げた。
だがすぐに

「……そっか」

さすがだな、とこぼす。自分が思うような打算的で姑息な手段を、良亮は使わない。正々堂々、真正面から挑み、ぶつかり、乗り越えていく。それはまさに、1st-arが所属する事務所、“TOWer(タワー)”の企業理念だった。

「やっぱりお前はカッコいいよ」

手を回して良亮の背中をぽんぽんと叩く。良亮は嬉しそうに やったー、と笑ってから

「でも賢くんもカッコいいよね。おれ楽器とか作曲とか絶対できないし」

首をふるふると横に振りながら、渋い顔をして言う。賢はそれを聞いて首を傾げ

「そうかな?練習すれば出来ると思うけど」
「いや無理無理!センスないの分かってるから。リコーダーすら出来なかった男だから」
「マジかよ」

なぜか誇らしげに言う良亮に思わず笑う。

「ゆーくんは演技すごいし、いっくんは歌うますぎるし。みんなカッコよすぎ」
「良亮のダンスだって十分すごいだろ」
「へへー、ありがと」

にこにこと笑う良亮に、賢もつられて笑顔になる。角を曲がればもう少しで楽屋だ。

「うん、だからやっぱり、よかったんだよ」

良亮の唐突な言葉。意味が分からず顔を見ると、良亮は穏やかな笑顔で頷き

「最高にカッコいいメンバーに囲まれて、最高に楽しい仕事をしてる。それを憧れの人に観てもらえたら、それ以上望むことなんてないよ」

前方から大きな台車がやってくる。廊下は広くないため、二人が並んでいるとすれ違えない。賢は一歩下がろうとしたが、それより早く良亮が大きな一歩を踏み出した。前に立って振り向く。白い衣装に装飾されたスパンコールがキラリと光った。

「それでじゅーぶん」

撮影やコンサートでもよく見るような、それでいて見たことないような

(…綺麗)

仕草も、笑顔も
トップアイドルに相応しい、見る者を惚けさせるような美しさで

(昂輝にも負けてないんじゃないか?)

今はまだ、言葉にしないけれど。
それでもいつかそう言える日が来ることを、賢は願わずにはいられなかった。




「何観てるんだ?」

車の中。信号待ちの合間を縫うように、マネージャーの馬場が声を掛けてきた。
昂輝はスマートフォンの画面から目を上げる。バックミラー越しに目が合った。

「あ、ごめん。うるさい?」
「いや、気にならない。ただ珍しいと思って」

信号が青に変わる。車が発進する。昂輝は敢えて音量を上げ、馬場にも聞こえるようにした。そうすれば、何を観ているかすぐに分かるからだ。
車内に音楽が流れる。有名な音楽番組のテーマ曲だった。馬場は納得したように頷く。

「あぁ、今日だったか。5時間生放送だっけ?」
「そう。司会も大変だよね」

だがもちろん、大変なのは司会だけではない。長時間の生放送、とりわけ音楽番組ともなれば、裏で動いている人間はテレビに映る人間の比にならないほど多い。ステージや観客の数も馬鹿にならないし、機材も多岐に渡る。その戦場を想像して、昂輝も馬場も恐怖するように肩を震わせた。

「で、誰が出るんだ?今からだとほぼメインだろう」
「ん?1st-ar」

けろりと答えた昂輝に、馬場は驚いて一瞬黙る。バックミラーをちらと見たが、表情に変わった様子は見られない。

新年度が始まったばかりのこの時期は、このような音楽の特番が多い。だがそのほとんどに、日本のトップアイドルであるはずの昂輝は出演しない。それはひとえに1st-arが出演しているからだ。1st-arが出ている番組に、昂輝は出ない。出ることができない。それは昂輝がデビューしてからずっとだ。
その、出られない番組を、出られない原因であるグループのために観るという昂輝の行動が理解できない馬場。その怪訝な顔に気付いたのか、昂輝は軽く吹き出した。

「馬場さんさぁ、俺が1st-arのこと恨んでると思ってる節があるよね。ときどき」

くく、と笑う昂輝。恨んでいるとまでは思っていないがそれに近しいことは考えていただけに、馬場は顔をしかめて口をつぐむ。すると

「ないよ。むしろ逆でしょ」

さっぱりとした口調で

「恨まれてんのは俺の方」

それでもどこか、寂しさを含んだ声で

「昂輝……」
「あ、始まった!すげぇ歓声。やっぱカッコいいなー」

けれどそれらはすべて、1st-arに向けられた黄色い声援にかき消された。
馬場は車を走らせる。目的地まであと少しだった。すると

「…あ」

何かを思い出したような昂輝の声。思いの外大きかったそれに馬場はあわてて

「どうした?」

忘れ物かと聞くと、昂輝はすぐ

「あ、ごめんごめん。何でもない。ちょっといいこと思い付いただけ」

手を振って関心を逸らそうとする。馬場は少し怪訝に思ったが、1st-arのステージを観ながら「良いことを思い付いた」のであれば、それはきっと仕事のアイデアなどだろう。これまでも様々な人のステージを観て吸収してきた昂輝のことだから、今回もそういうことだろうと馬場は自分で納得し、運転に注意を向ける。目的地である建物が大きく見えてきた。

1st-arのステージは5分ほどで終了する。新曲と代表曲をうまい具合にメドレーで組み合わせ、4人の特長も存分に発揮されていた。アイドルグループとして不動のトップに君臨するだけのことはある。安定感のある、それでいて輝かしいステージ。
だが、昂輝はそれを見て全く違うことを考えていた。

(サンキュー良亮。俺もこの手使わせてもらうわ)

知らないならば、知ってもらえばいい。
そのことにようやく気付いた。




「…?」

リビングの机に置いたスマートフォンが光り、何かを受信したことを知らせている。風呂から上がったばかりの河西は、タオルで頭をがしがしと拭きながら画面を開いた。
メッセージアプリ。相手はまさかの

「…!」

トップアイドル、加宮昂輝。

「ほんとに送ってきた…」

あの日どうしてもと懇願されて、それに折れる形で連絡先を交換したが、一度も連絡が来ないまま半月ほど経っていた。だから社交辞令的に交換したのだろうと、若いコはそういうことをするのだなと自分を納得させていたところだった。
と、いうのに。

メッセージを開く。吹き出しは2つ。1つは、チャンネルと番組名、そして放送日時。名前から察するに音楽番組らしいが、河西は聞いたことのないものだった。それもそのはず、放送時間が深夜だ。
そして

『お仕事お疲れさま!これに出るから、よければ見てね!』

最後に謎のキャラクターが親指をぐっと上げているスタンプで締め括っている。思わず笑った。トップアイドルと言っても、なんだか普通の若者のようだ。
テレビを点けて番組表を出す。日時を手がかりにリモコンを操作して、目当ての番組を見つけた。



「…!」

撮影の合間、手にしていたスマートフォンが震える。見ると、期待通りの人物からの返信。すぐに開いた。

『ありがとう。昂輝くんもお疲れさま。録画予約したから、放送したら見るね』

シンプルな文面。それでも、彼らしい優しさと柔らかさが感じられた。思わずにやける。

(作戦成功)

お辞儀をするスタンプで返事とし、画面を閉じる。同時に呼ばれた。スマートフォンを預けて撮影に向かう。

「何かいいことあった?」
「へ?」

撮影場所に立つと、メイク直しをしてくれている女性に唐突に聞かれた。聞き返すと

「口元緩んでるよ」

にやりと口角を上げながら、その人は自身の口元を指して言った。

「…まじ?」
「マジ。バレたくなかったら早くスイッチ入れな」

手際よく昂輝の髪の毛をセットすると、それ以上は追及せずにその場から捌けていく。それに感謝しながら軽く会釈をして

「…ふぅー……」

大きく深呼吸。そして

「お願いしまーす!」

腹から声を出し、仕事モードに入った。

星はすばる

星はすばる

※BLご注意を

  • 小説
  • 中編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-08-05

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 少しあかりて
  2. 若やかに心地よげなる
  3. まゆにこもりたる
  4. 装束きたてつれば