-蜂-

 「刺された跡はないかしら?」淫靡に起伏する動悸を隠しながら、それでも、あからさまに媚びる声色で女が促した。「ないみたいですけど。どこらへんが熱いんですか」診察室の医師を装う態で、あくまで慇懃に振る舞う男の対応を、女は再びいぶかった。『女が自ら身体を開いてるのよ。何もかも曝しているのよ。そうよ。言葉では言わなくても、もう性交は始まっているのよ。何をたじろいでるの。どこまで愚図なの。それとも、上司だからためらうの。年上の女が怖いの』女の独白に同じ女の湿った声が慌ただしく重なった。「よくわからないのよ。赤いところはないかしら?」音をたてて唾を飲み込みながら、女が語尾を艶めかせる。「なんか、ここが腫れてるみたいですけど」乾いた男の声はどこまでも医事的だ。曝された女陰を眼前にこの男は、本当に平静なのか。女の言葉通りに、蜂に刺された跡を本当に確認しようとしているのか。赤黒く沸騰した欲望の肉塊の中にあるかも知れないという、一粒の塵芥の痕跡を真剣に探査しようというのか。それはこの女の嘘の集合から真実を導き出すほどに、まったく困難に違いない。自己愛に溺れているこの女の真実の殆んどは、おびただしい虚妄で構成されているのだから。
 女は、情欲の噴出を肉感しながら茫茫と反芻している。『これが今日のゲームなのか。若いこの男はその容貌に似合わず、意外と女に長けているのかも知れない。そして、或いは性戯に秀でていて、この事態は診察ごっこで、男にとっては甘美な前戯なのか。そうなのか。そうならばそれはそれで、私も初めて経験する卑猥を楽しめば良いのだから』女は性愛だけの性交に、僅かばかりは混乱しながらも、初めての倒錯した痴戯で、愉悦の女主人に鎮座しようとしていた。

 夕方になっても、一向に蒸し暑さが収まらない。ある大きな戦争が終わって一四年たった、北国の山脈の盛夏だ。山ひだを縫って、社屋のある地方都市に戻る会社の軽自動車には、冷房装置がない。今しも、西の空を黒雲が覆い始め、勢い良く広がっている。雨が近いのだ。それにしては、厚い湿気がいっそう執拗にまとわりつく。物騒な気配だ。両の窓を全開にして走っているが、粗悪な道が続き、随分と走り込んだ車では怠惰にしか前進出来ない。生ぬるい風が、運転席の女の甘酸っぱい動物的な体臭を、時おり、微かに運んでくる。その助手席の部下の若い男が、揺れる乳房を視界の端に捉えながら、鼻孔を拡げて密かにその香煙を吸い込む。
 また、車が大きく軋み車体が頼りなく悲鳴をあげた。ハンドルを取られたのか、女も叫声を短く発した。その瞬間に、重い風音に混じって、鋭い羽音を聞いた様な気が、男はした。男の視線が俊敏に反射して動いた。運転している豊潤な女の淫奔に揺れる胸を舐めて、青い薄いスカートの、なだらかに盛り上がった下腹をさらにり、正にその股間に男の視線が釘打ちされた。五センチほどもある大きな蜂が女の秘所に張り付いているのだ。

 女もすっかり気付いていた。ただ、驚きと恥辱で、沈黙に縛り付けられていたのだ。女の女陰と男の視線が、同時に、この無気味で危険な闖入者を捉えている。蜂は初めて現出した二人の共通の敵であり、退治すべき獲物なのだ。男が、蜂をとる、と言い、女が無言のまま同意した。男が車を止めさせた。鼻に汗を浮かせて、凝固した目で正面を見つめたままの女に、男は、じっとしている様に命じて、車内を素早く見回し、後部座席にあったタオルを咄嗟に手にまいて、深呼吸のあと一気に蜂を掴み、瞬時に窓から放り投げ、ようやく、長い息を勝ち誇る戦士に似せて、吐いた。
 女の視線はまだ正面の一点に凍り付いている。二人とも無言だ。そして、二人だけしか共有できないその静寂が、二人の靭帯をおもむろに創ろうとしていた。男の手のひらが女陰の分厚い盛り上がりばかりか、生暖かい肉の感触をまで鮮やかに記憶してしまったのだ。そして、男は女の女陰の形状をすら妄想した。気丈で厳しい女上司と和姦した様な、奇妙な征服感に襲われている。不可思議な快感である。女もやはり、勢い余って性器の盛り上がりを鷲掴みにした男の体温の感覚が、膣の奥深くまで染み透っていた。貫かれてしまったのだ、という奇妙な実感が女を包摂している。
 そして、女はある老女の宣託を鮮やかに思い起こしている。 暫くの沈黙の後に、大丈夫かと聞く男に、「なんだか熱いわ」と、女が掠れた声で呟き、「刺されたのかしら」と、迷わずに続けた。
 『いったいこの女は何を言っているんだ。あんな蜂に刺されたらこんなにしていられる訳がない』と、男は女の意図を図りかね、再び沈黙する。
 その時、ついに大きな雨粒がフロントガラスを、音をたてて打った。土ぼこりを溶かした水滴がたちまち数行の黒い筋になる。まるで、怪奇空間の描写を始める小説の書き出しのようだ。ワイパーを一振らせると女が車をスタートさせた。

 あの占いの通りだ、と女は驚愕していた。
女は五一歳の妻子のある上司と、ニ年もの間不倫を続けて疲れきっていた。
 女は残業中に、この男に半ば強姦同然に性交を迫られたのである。背後から乳房を揉みしだかれ、暮らしを援助すると言う男の囁きと勃起した男根の刺激で、やがて抵抗を止めて唇を許したのだった。久しぶりの男の急襲に身体も潤っていた。
 この女はこんなに功利が勝る性格に、いつからなったのだろう。女は四人姉妹の次女で、幼い頃から要領の機微を覚えた。安直に処女を捨て、何人目かの男との、短かかったが5年の結婚生活は、若い女が性の修練を積むのには充分だった。一度の出産を挟んで二度の中絶を経験して、性交の為に性器を使用する事は大して重要な意味を持たないと悟った。性器を酷使した、それが偽らざる実感だった。操を守るために舌を噛むなどという映画を女は見たが、女というものの性根を知らない男の作り話なのだ、と女は失笑した。女は二度目の中絶の後に、性器に避妊具を装着した。そして、三年前に離婚した女は、七歳の子供を抱えて実家に身を寄せた。
 ようやく見つけた会社の賃金は安かった。女は女性の社会復帰に厳しい風潮に苛立っていた。自分の能力に自信があったから、不公正な評価に憤っていた。
 もがいている女にとって、最初の乱雑な所業はともあれ、自分を求める男に悪い気はしない。その男は女の身体を称賛した。そして、代償を確約した。精神の愛などは皆無なのである。女はそれを知っている。身体を売る様な屈辱の気分は、しかし、瞬時に功利の天秤から転げ落ちた。初めての性交の後に、男は、子供に買ってやれと、女にとっては思いがけない大金を渡した。女は男との関係に強く期待を抱いたのである。しかし、その男はすぐに女の身体に慣れると、ひどく吝嗇だった。男は株式や賭け事にも夢中だった。月の手当ても半年で打ちきられた。女は代償なしで身体を貪られる不公平感に苛まれた。女は、この男とはまるで売春の様にしか性交できなかった。あるいは、別れた夫や他の男ともそうだったのか。しかし、性交の女の嬌声や悩ましい睦事を愛の証左だと男は勘違いした。金銭にまつわるの争いが続き究極の別れ話になった。しかし、男は身体を重ねる度に感度を増した女との性交に執着して、別れに同意しない。行き詰まった女は、評判のある老女の占いを受けたばかりだったのだ。水子の存在を言い当てて、女の信頼を一瞬にして得たその占い女は、解決の糸口はすぐに身近の若い男が持ってくる、そのきっかけは蜂だと宣託したのだった。だから、若い部下の男の問いに、咄嗟に、嘘が口をついたのだった。

 暫く走った。男が聞くと上ずった調子で、「さっきより熱くなった」「痛いのかも」「良く解らない」などと、女が迷わせる。深刻な事件の話をしている筈なのに、業務で見る時の表情とは明らかに和らいでいる。この女は誘っているのかも知れないと、男は思い付いた。衣服の上からとはいえ、女陰を触られ部下との距離が一気に縮まったのだろうかと、男は思った。元来が多情なのだとも推論した。

 女には極端な二面性があると男は思う。女は自分が座の中心にいる時は快活に見えたが、普段はむしろ無表情で、何かを考えている素振りをしている。そんな女が肉感的な容貌を露にする瞬間があった。重役の男に何度かそうしているのを、男は目撃していた。その時の女の顔は、男の欲望に艶かしく接触し、さらに触発する風情だった。
 そして、男はあの時の女を思い起こしていた。男は女の決定的な本質を知っていたのである。女と上司の情事を男は目撃していたのだ。

 残業に疲れ屋上に上った男は、貯水槽の裏から嬌声があがったのを聞いた。密かに覗くと、少し前に帰った筈の女と重役が性交していた。二人とも後ろ向きで立っている。重役は背広もズボンも着けたままだ。女は見えない。様子から挿入しているのがわかった。逆方向からさらに近づき身を潜めて聴覚を集中すると、二人の睦言が男の耳殻に生々しく突き刺さった。

「こんなんじゃあ、やっぱり、駄目だわ。誰か来たらどうするの」「嘘よ。良くなる筈なんてないわ」「そうよ。早く脱いで」「あなたって。ほんとに横暴なんだから」「そうよ。それを外して」「私達、別れ話の最中なのよ」「謝る?別れたくない?」「この身体が?」「駄目。また入れちゃあ」「強引なんだから」「駄目よ」「そんなに…」「厭らしくしちゃぁ、駄目よ」「だって…」「すっかり濡れてる?」「音?」「聞こえるわ」「何の音?」「言わせたいの?いつもみたいに?そんな気分じゃないわ」「許してくれ、って?」「締まってる?」「私のが?締め付けてるの?」「だから?外せないの?」「私のせいなの?」「ほんとに、別れたくないの?」「大事にしてくれる?」「だったら…。あの時に、約束したでしょ?」「そうよ。それさえ守ってくれたら。私だって」「約束してくれる?」「苦しいわよ。物価も上がるし」「約束してくれるなら」「いいわ。思い直すわ」「そうよ。私もよ」「いっぱいやりたいわ」「嘘じゃないわ」「そうよ。これよ」「あなたとの、これが大好きなんだもの」「嘘なんかじゃないわ」

 その時に、慌ただしく人の気配がした。男はひっそりとその場を立ち去っのだ。それからは、男は女の自堕落な睦言を反芻して姿態を想像しながら、幾度も自慰をした。女に挿入して狂わせる場面を散々に夢想した。男の忌まわしい夢の中で、女は男の従順な奴婢であった。
 そして、今も男の性欲が鬱鬱とたぎってきていた。男根が敏感に兆しを発現しているのだ。しかし、と、男は押し止める。次の確かな手だてがないのだ。女が性交に同意した明確な確証がないのだ。この女は未だそれを男に、明確には与えていない。もし、失敗したら大変な事になる。慎重に万全を期さなければならないのだ。男は自分に重ねて言い聞かせた。
 「病院に行きましょう」と、男が自分を安全圏に囲ったまま、女の新しい決断を迫る気配で言った。女は前方を見て何も答えない。

 女は会社の状況を考えていた。不倫相手の重役は出張していて不在だ。このまま二人で戻らなくても、上手い理由がつけられれば、疑う者はいない筈だ。何よりも、女陰の深奥が沸々と反応しているではないか。久しぶりの放埒な感覚なのだ。その秘密の洞窟には避妊具が装着されていると、女は改めて確認した。妊娠の心配はない。
 あの占いの通りだ。何のメリットもない不倫地獄から、今こそ抜け出すのだ。この若い部下はそのきっかけにすぎない。この若者には金銭の期待など毛頭できないのだから。ともかくは、あの吝嗇で曖昧な不倫相手から自由になって、利に叶った男を探せばいいだけのことなのだ。女は心を定めた。
 
 空が瞬く間に暗転したかと思うと、雨はみるみるうちに篠突き、急激に冷気が渡り入り、二人は恐ろしく霊妙な気配に覆われた。視界が閉ざされて、辺りは別世界に変幻した。「怖くて走れない」と、女が叫んだ。よろけ転ぶように暫く走ると、真新しいモテルの看板が見えた。何も言わずに女がハンドルを切り、微塵もためらわずに乗り入れた。
 幻妖に揺らいで、別な生き物でも宿る有様の豊穣な臀部の後に続き、男が部屋に入るや、女は振り向きもせずに受話器に歩んで会社に電話を入れ、事故があり戻れないと、部下の若い女を平生と変わらぬ口調で冷厳に言いくるめた。午後五時に近い。
 小さなソファで向き合った二人を激しい雨音が暫く包んだ。やがて、乾いた咳払いの後に、女はゆっくりと足を組み替えながら、「念のために調べて欲しい」と、いつもの事務的な調べで言い、しかし、厚く赤い唇を紅い舌でちらちらと嘗めた。そして、「こんな事、お願いしていいのかしら」と、語尾を妖艶に納めて、黒々と湿った瞳で男を見据え、再び、陰湿に足を組み替えた。そして、また、赤い唇をたっぷりと濡らした。男はその笑みと言葉の意味に軽い目眩を覚えたが、「緊急事態ですから」と、焦点の合わない視線で白々しく、すこぶる端的に同意したのである。女は当然だと言わんばかりに軽く頷くと、タバコを取り出した。洋モクだ。火をつけて深く吸い込み吐き出しながら、思い付いたように男にも勧める。男は理由はわからないが、咄嗟に断った。女は気まずさを隠しながら吸い口を濡らす。
 やがて、女は立ち上がり、すぐ近くのベットの脇に歩んだ。女が上着とスカートを脱ぎ、ストッキングを外した。たちまちの内に、薄い青のブラウスと青紫のパンティだけに変幻した女は、まるで何かの、きっと絶倫な動物の雌そのものだと、男は感じた。女の女陰の丘が異様に卑猥に盛り上がっている。両の太股がむっちりとそれを支えている。
 男は女の妖艶な踊り子に似た所作をソファの視界の端で捉えながら、女との次の展開を夢想していた。
 上司としては何かと勘に触る女だが、二人だけの猥褻な遊戯を共有したら、どんな変化を見せるのだろう。性交にまで及ぶのか。何れにしても仕事に有利に働くのは間違いないだろうなどと、猥雑に思ったりもした。 しかし、次の瞬間には男は改めて考え直す。この女に深入りするのは危険なのだし、真っ平だ。女とあの重役の不倫は公然の秘密だった。その事で昇進したと噂されお局様と揶揄される女は、女性社員にはすこぶる評判が悪い。何よりも、男の目には屋上で目撃した二人の姿がこびりついている。そして、女は会社には内密に次々とマルチビジネスをしているらしい。どれも失敗して、友達も次々と失い、守銭奴と罵られていた。何の事はない。この女は詐欺師の犯罪者と変わらないではないか。仕事の態度からも、余程、自己中心なのに違いないと、男は前々から思っていたのだ。
 女は三年前に離婚して七歳の子供もいる。絶対に厄介な事態にしてはならないのだ。女が誘っているのは明白だが、この事態は余程うまくあしらわなければならない。男は、幾分、平静になった男根に手をやって深く息を吸った。

 三八歳の女がベットの端に座って、ニ五歳の部下の男を呼んだ。女を見下ろした男が、横になり下着を脱ぐようにと言うと、女が盛りのついた羊の風情で従う。男はパンティに張り付いた淫らな染みを見逃さなかった。
 そして、何らの迷いもなく、女の下半身が余すところなく曝された。豊かに盛り上がった肉の原野に、柔らかい陰毛が繁茂している。綺麗いに刈り揃えられ両端は剃られている。むしろ端麗な女陰だ。脂肪が充分に蓄積した黄色い腹が、独立した部品のように幽かに痙攣している。いよいよこの性器を自由にできるのか、淫情の嵐が途切れ途切れに男を襲った。
 しかし、次の瞬間には、再び、あの重役の顔が浮かんだ。男はその男も嫌いだった。重役は別な女性社員とも噂があった。そして、その社員とこの女は仲が良かった。『お前達は、いったい、どうなっているんだ』。男の内心の罵声が女を撃つ。
 ふしだらに横たわり、目を閉じた女の顔を凝視した。そして、あからさまに舌打ちをしながら視線を移す。『女はこの性器であの重役と性交しているのだ。会社を舞台にして、ふざけた奴らだ』と、思った。あの男の男根を呑み込み、さんざん精液が排泄された女の女陰が、ひどく汚いものに見えてきた。それはただの使いふるされた排泄器官ではないのか。いったいこの女はどんな思惑で自分の前に女陰を曝しているのか。淫乱な本性なのか。
 短い思惟の果てに、微かにあった男の性欲が、遂に凍りついた。男はすっかり正気に戻った。そして、理由はわからないが、異常な暑さに狂った女が、たまたま発火してしまった情欲のはけぐちを求めているのだろう、こんなものは都合よく処理すればいいのだ、それには女が許容する範囲からはみ出さない事だと、男は誓った。

 「ここですか?」男が膨れた赤黒いクリトリスに触れると、女の身体が艶かしく弾いた。「痛くないですか?」
 この男は、いったい、何を考えているのだ。女は苛立った。「もう一度触ってみて」今度は触れた指を離さない。おずおずと試す具合に揉み始め、女の反応を確かめる。女が長い息を吐き、続けざまに深く吸った。男が突起をさらに蹂躙すると、女の口から、圧し殺したあえぎが漏れてしまう。あまりの妙技だったから、女は悦楽の合間に、この若い男の新しい発見にいささか戸惑った。「どうですか」快感が次々と、布を切り裂くように女に押し寄せてくる。「痛くはないわ。でもそこも熱いわ」
 ふざけた女だと、男は再び思う。「やっぱり刺されたんですかね」ここまで来たら少しの冒険はいいかと、男が決心した。「きっとそうだわ」「唾で消毒しましょうか」。おずおずと男が言うと、「お願い」と、待っていた風情で女が応えた。クリトリスに男がたっぷりと唾を垂らした。女が呻き尻が大きく揺れて割れ隆起した。「痛いんですか」「少し。やっぱり刺されたのね。優しく舐めてみて」
 男がクリトリスを舐める。女が淫声をあげ指を噛んだ。「痛いんですか」尻が揺れ続ける。「大丈夫よ」途切れ途切れの吐息が熱い。
 「くわえてみて」女の豊かな両の股が少しずつ開いていく。「こうですか」女の眉間に激しくシワが走る。「そうよ。しゃぶってみて」女の片足の爪先が反り返った。「こうですか」女が指を深く噛んでうめきを堪えて、「そうよ」と、長い息を音をたてて熱く吐いた。

 「痛くないですか」女に問いながら、いつ、どの様な状態で、この奇っ怪で不しだらに倒錯した陳腐な遊戯を止めるか、男は考え続けていた。

 全てはあの蜂の闖入が発端だったのだ。そして、男は数日前に反政府の大規模な政治集会で初めて出会い、誘って喫茶店で静かにコーヒーを飲んだ、清楚な面持ちに確固とした思想を秘めた、同世代の看護婦の記憶を追っていた。「宰相は、私達の事を、暴れる蜂の危険な群れだって放言したけど、私達は平和な蜜蜂よ。毒なんか持ってないわ。それだったら、機動隊ってスズメバチみたいで嫌いだわ」。男の視線を柔らかく包み込んでいる女は、しかし、情況と決然と対峙している様に男には思えた。違和と戸惑いに翻弄されながらも、趨向に流されてきた男には、鋭利な言葉を溌剌と駆使する自衛した女は、煌めいて見えた。二人はとめどなく話して飽きる事を知らなかった。現況の息苦しさ、あの戦争の鮮やかな記憶、古代から今日に至る歴史の認識、簒奪され差別され続けたこの北の国の祖先の物語、天皇と称する禁忌への痛烈な批判、そしてあれこれ。二人はことごとく、つまびらかにも同意できた。二人が十代の初めに世の中は一変した。独裁者と同盟したこの国は
地球の東半分を征服しようとし、無謀と残虐の限りを尽くして、果てに破れた。しかし、大人達は何一つ総括せずに昨日の敵国にひれ伏して礼賛した。一夜明けたら軍国主義が民主主義になった。
 「私も。不思議だったし、今でも違和感があるの」女は豊満で容姿も男の好みだったが、もはや、そうした属性は無意味だと、男は痛烈に実感した。性愛はもちろん、男女の愛そのものすら無価値なのではないか。この女の思惟こそが珠玉なのだと、確信できた。初めての清冽な体験だった。書きためた文章をいつか読んでもらおう、それが男の希望になった。
「こら。土人の女。犯してやろうか、って。機動隊員が耳元で言うのよ。私、叫んだわ。どこの国から来たの、って。機動隊員は、西からだって。見たこともない太い性器をぶちこんでやるぞって」「あんな風に、遠い昔からあの国の男達はこの国の女達を犯し続けてきたんだわ」「あなたはこの国の女を守れる?」「カムイになれる?」
 この世の終わりのような雨に降り込められて、得体の知れない女陰をしゃぶりながら、男の脳裏は、健全な看護婦の女の、凛とした言葉を、いつまでも反芻していた。


  -終-

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • ミステリー
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-08-04

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