ハコ

青木は、部屋に在った。外では8月の日差しが照っていたが、彼の整備された空間には無関係だった。大きくなりすぎた世界の中で、この部屋だけは不変で整っている。そしてその支配者たる青木も、そうありたいと願っていた。木々の衣の移ろいも雲の生き死にも、彼には不必要だった。今日、空咳を三回と欠伸を二回し、一回の食事と一回の排泄をしたことすら知らなかった。青木は、ただ部屋に在りたかった。

 専門学校を卒業しウェブデザイナーの職に就いてから8年、青木はほとんど家から出ずに生活することができた。それは彼にとっての快であり、美であり、善であった。白い壁に囲まれ、埃ひとつない床の上に置かれた家具が、全く無駄のない距離感で整列する部屋。この完璧にデザインされた空間で仕事ができる職につけたのはラッキーだった。騒がしすぎる太陽や風や街に見下されて通勤し、上司や部下といった混沌に毎日接触することは耐え難い。満員電車に乗るなんてもってのほかだ。この世の全ての不条理と愚かさをかき集めても満員電車に敵わないことを彼は知っている。だから仕事は全力でやった。クライアントからの無茶な要望もできる限り応えたし、次に繋がりそうな仕事は積極的に取ってきた。その甲斐あってか、若手のフリーランスとしては十分な報酬と業界内での信頼を得た。全ては今の整った生活をするためだったが、仕事自体嫌いではないし、むしろ自分の能力を発揮できることに喜びを感じていた。数少ない同業仲間は孤独な生活を時に憂いていたが、青木は違った。一人でいることが好きだというよりは、他人といる時に受ける不快感が嫌いだった。人は誰しも、本来的に汚れを持っている。生物としての汚れ、人間としての汚れ。彼はそれを人一倍感じ取ってしまうらしかった。この部屋では汚れを感じずに済む。彼はそんな部屋での生活を愛していたし、愛さなければならなかった。
 
 作業中のパソコン画面の右上に「十三時 ミーティング」とリマインダーが表示されると、青木は作業中のデータを保存し、パソコンをスリープモードにした。今日は打ち合わせのため、クライアントと会わねばならない日だった。現在の時刻は十二時。入念に髭を剃り歯を磨くと、明るい色のワイシャツとジーパンに着替えた。まだ時間に余裕があったが、念のため早めに家を出ることにした。玄関のドアを開けると、夏のじっとりとした空気が顔に絡みつく。つい戻りたくなったが、歩みを進め誘惑を遠ざけた。部屋を出るのは四日ぶりか。外の世界がこんなにも不快な場所だということを忘れていた。できるだけ何も感じないよう、青木は無心を心がけ駅へと足を急がせた。 
 青木の住むマンションは最寄り駅まで徒歩5分、東京郊外の住宅街にある。都心までは四十分もかかるような東京の中の田舎だが、青木は満足していた。自然がやかましいほどの田舎でもないし、ギラついた都会っぽさもない、ちょうど良い地域だ。専門学校を卒業すると同時に地元を離れ、引っ越してきた場所であった。
 青木は、知り合いのデザイン事務所でアルバイトとして一年間働いた後に独立した。方々から得た情報で、フリーランスでも生計を立てていけるとわかると、決断は比較的早かった。その事務所に近かったという理由で選んだこの地域に、辞めた現在でも住み続けているというわけだ。人生の大半を部屋で過ごすことをなんとなく予期していた青木にとっては、すみかの場所は余り関心の対象ではなかった。
 道中、久しぶりに嗅ぐアスファルトの焦げた匂いと、生を無駄にせんと懸命に鳴く蝉の声に、青木は頭を鈍く殴り続けられるようだった。やっぱり夕方にしてもらえばよかった、などと考えているうちに駅についた。特に時間を調べずに家を出たが、運良くちょうど電車が到着していた。足早に電車に乗り込み、三席分空いている座席を見つけると、両隣が空席になるようにして座った。待ち合わせの場所までは六駅。打ち合わせ内容の確認をして過ごそうと思い、カバンからノートパソコンを取り出し、資料の確認をする。
 この案件は絶対に失敗したくない、大事なものだった。そもそも、メールのやりとりで連絡が済むこの仕事で、今回のようにわざわざ会って話し合いをするというのは、この案件がそれなりに大きな仕事だからである。というのも、今から会う相手は大手化学メーカーの広報担当者で、青木は新規事業開拓に伴う新しいホームページのデザインを任されることになったのである。以前仕事を受けた別のクライアントの個人的な知人だという広報担当者からメールが届いたときは、大企業からのオファーに青木もたじろいだ。だが無論断る理由もなく、メールのやりとりを何通か交わし、今日に至る。青木にとってみれば今までで一番大きな仕事であり、今後のキャリアにも影響するであろうことは目に見えていた。
 
 三十分ほど電車に揺られた。目的地の一つ前の駅に電車が到着し、青木がふと液晶画面から目を上げると、車両がほとんど乗客を乗せていないことに気付いた。パソコンに再び目をやり、扉の開く音を確認すると、視界に不自然な歩きをする人の影がちらついた。
 何気無く、正面の座席を確認すると、大きな腹を抱えた妊婦がまさに座ろうとしているところだった。優先席も空いてはいたが、現在の車内では一般席の方が広々としている。妊婦は我が子の眠る子宮をゆっくりとさすりながら、不安と希望と愛で混じり合った表情を携え、青木の真正面に着席した。
 瞬間、青木は何か居心地の悪さを確かに覚えた。それが何によるものなのかわからない。ただ、何かが喉に突っかかって、呼吸が邪魔されたみたいだった。彼は平静を取り戻すため席を立ちドア付近に移動した。早送りのように流れていく外の景色を眺めながら、息を落ち着かせた。今のは、なんだったんだろう。目的の駅に到着したことに気づき慌てて電車を降りた。
 息を深く吸って、歩き出した。頭を切り替えて仕事に集中する。クライアントが待つ相手企業の本社ビルまで、メールのやりとりを頭の中で復習し、こちらが提示するアイデアについて、考えをまとめていた。が、どうしても先ほどの妊婦の顔が脳裏にちらついて思考を邪魔する。駅の売店で水を買って一口飲んで、ようやく青木は平静を取り戻した。肩甲骨を引いて大きく胸を張ると、筋肉がほぐれて緊張も軽くなった感じがした。道路の傍の電柱を見やると、蝉が思い切りぶつかって落ちていった。
  
 打ち合わせを終えた青木がついた帰路は、行きの電車での心境とは正反対になんとも清々しいものだった。噴水のように吹き出す汗も、その原因たる三十五度の外気も気にならないほどだった。クライアントは小山という名のすらっとした体型の三十代半ばくらいの男だった。アイロンでスッと伸ばした白いワイシャツ、左右に撫で付けた髪、整った眉に髭の痕跡が完全に消滅した口周りなどは、いかにもビジネスマンといった風だった。とびきりのハンサムではないが、大抵の人間を安心させるような愛想を持ち合わせている。彼に自分の持ってきたデザインの原案をプレゼンしたところ好感触で、このままの方向性で進めてくれ、と判を押してくれた。原案がクライアントのイメージと違うということはよくあることなので、今回のようにすんなりと受け入れてもらえるとありがたい。今後の進行のスケジューリングと、より細かいデザインの内容について話し合いをして、会議は終了したのだった。
 最寄駅に着くと、ギラギラした太陽が、外回りのサラリーマンたちを熱していた。この暑さから早く解放されたいと思いながらも、昼食をとっていないことに気づいた青木は、ファミレスに入ることにした。この街にはファミレスが駅前に一軒、少し離れた場所にもう一軒ある。時刻は十四時四十五分。少し迷って、駅から少し離れたところにある店舗に向かう。駅前の店舗は低価格が売りの店だから、平日といえど若者で騒がしいかも知れない。気分のいい今なら、少し値の張る、遠いファミレスにも歩いていける。それに、滅多にしない外食だ、少しでも贅沢感があったほうがいい。 
 青木の普段の食事といえば、大量に買い溜めしてある冷凍食品である。味気ない生活だが、食事のために時間や手間をかける方が彼には苦痛である。効率を追求した結果、通販で大量に冷凍食品を購入し、クール便で自宅に配達してもらう今のスタイルが最善ということが判明した。今はなんでも通販で手に入る。食料だけでなく、日用品や仕事に使う資料、さらにはDVDやCDも、外に出かけて買う必要はないのだ。青木は生活のほとんどをネットショッピングで賄っていた。とはいえ、料理を味わうことの快楽は人並みには知っている。青木は久々の外食に、密かに心躍らせた。
 十分弱で目的のファミレスに到着し、自動ドアが開くと、心地よい人工的な冷気が体を撫でた。店内からいらっしゃいませ、と声が響くと、同じセリフで二、三人が軽快に後を追う。間も無くして、計算された口角で笑顔を構築した男性ウェイターがやってくると、喫煙するかどうかの質疑応答をテンポよくこなし、席を案内した。店内には品の良い初老の女性三人組と、新聞を読む中年のスーツ姿の男が一人だけで、落ち着いた空気だった。やっぱりこっちにしてよかったと青木は安堵した。  
 メニューを開き、ざっと目を通してからウェイターを呼ぶ。席を案内した男性ウェイターが、先ほどと同じ笑顔を貼り付けてすぐにやってきた。注文を済まし、彼が目の前から去ったのを確認する。彼が青木の前にいた時間はわずか十五秒ほどであったが、その間も終始無機質な笑みを保っていた。彼には名前がない。生活がない。涙がない。そのことが青木にとってのこの上ない心地よさを演出していた。
 しばらくすると料理が運ばれてきた。ありきたりなオムライスだったが、久しぶりのまともな料理は格別であった。たまにはいいなと思いつつ、すぐに完食してしまう。量は多くないが、それでよかった。腹いっぱいに食事をするのは嫌いだ。水を飲み干し、会計を済ませて店を後にした。

 家に着くと郵便受けに宅配業者からの不在連絡票が入っているのを見つけた。青木は三日に一回は通販で購入した商品を宅配業者から受け取る。不在連絡票には、十五時に訪問したということと、再配達の手続きをするための手引きが記載してある。配達担当者の欄には、ボールペンで「峰松」と書いてある。いつも家にくるのはだいたい井口という小柄な青年か、山本という小太りの中年男性だ。青木は、我が家に来る担当者が変わったことをなんとなく察しながら、明日の午前中に再配達されるよう、電話をした。
 
 ベッドに入った青木は、電車の妊婦のことを考えていた。彼女の顔を思い出そうとすると、心臓が重くなるように感じた。体の芯が鉛に変わり、体液が体内の循環をやめて皮膚から滲み出すような感覚が、彼を内から外から支配した。
 いつか、遠い昔に感じたような悪寒だった。それはまるで、深い霧の中にただ一人、ぽつんと取り残され、声を出すこともできない時間。ここに手を引いてくれた温かい手は、どこへ行ってしまったのだろう。この時間に名前があるのかもわからない。どこまで続くのかもわからない。そんな遠い記憶とも感覚とも区別し難い意識の中で、ただ一つ、霧の中に何か美しいものが刹那、光ってなくなった。
 
 明朝、外ではアブラゼミがうるさく騒ぎ立てる中、青木は大量の寝汗を肌に感じながら目を覚ました。シャワーを浴びようかと思ったが、体が少しだるい。風邪をひいたようだった。青木は体の不調以上に、風邪をひいたという事実がたまらなく嫌だった。真っ白な部屋の中にある長方形のベッドは、風邪をひいた愚かな自分を乗せている。この部屋でただ一つ、整っていないのは青木だけだった。普段の運動不足と栄養不足のことよりも先に、彼の頭には妊婦のことが先に浮かんでいた。昨日、妊婦に出会ってから調子が悪い。青木のうだった脳みそはそう結論づけた。 
 朝食のシリアルを牛乳と共に流し込むと、薬局に出かけるために素早く着替えた。宅配便が来るまでに自宅に戻れるか。そんな心配をすること自体がストレスとなり、ストレスを感じている自分にまた苛立った。熱と湿気を十分に溜め込んだマンションの廊下を渡り、階段を降りて日差しの下に身をさらけ出すと、男の病んだ体に日光が鈍く突き刺さった。額に吹き出した汗が魚の鱗のごとく不気味に輝いているのを想像し、彼はさらに体が重くなっていくのを感じた。二件隣の一軒家の駐車場では、中年の男が洗車をしている。ホースから放たれた水が赤い車に跳ね返り、飛沫となって舞っている。今日は日曜日だ。 
 マンションと駅の中間に構える全国展開の薬局へ到着し、入店すると、薬剤師を見つけ声をかけた。体の不調を訴え、風邪薬を紹介してもらう。適当なものを選んで会計をする間、薬のツンとする匂いが鼻をついていた。思えば風邪を引くのも久しぶりだ。事務所を辞めてから人に会うことが減ったからかもしれない。そう思い、青木は人と会うのを避ける口実をまた一つ増やした。
 薬を受け取ると足早に店を後にし、自宅へ引き返す。早く部屋に戻りたい気持ちに反して、体はどんどんと重くなる。脳の働きも鈍くなり、青木は自分自身を歩く泥であると錯覚した。自販機を見つけ無意識にスポーツドリンクを購入すると、五分の四ほどを一気に飲み干してしまい、ぼんやりとした頭で驚いた。青木の身体は彼の精神とは独立して、生命を維持させようと必死で働いている。水分が体に染み込んで、幾分気分もマシになった。
 マンションの近くまで来ると、洗浄を終えた車体が日光を反射して赤く輝いていた。その光がまっすぐに青木の瞳に突き刺さり、思わず彼は瞼を閉めた。とにかく不快なこの外気から一刻も早く逃れたいと、青木はエントランスへと駆け込んだ。

 青木の住むマンションにはエレベーターがない。自室のある三階まで上がると、彼は背中の上から下までぐっしょりと濡らし、うなだれながらとぼとぼと歩いた。ふと顔を上げると、自室の扉の前に宅配業者がいるのが見える。膝を曲げてそこに荷物の
体重を預け落とさないようにして片手を離し、インターホンを鳴らしながら首をかしげている。
 近づいた青木は、その青い制服に身を包んだ男の顔を見て、立ち止まった。その配達員は、七十代ではあろう老人であった。「峰松」と記載されたバッジをポロシャツにぶら下げたその男が、諦めて帰ろうとこちらを振り向く。彼の両腕には四十センチ四方ほどの段ボールがしっかりと抱えられていた。青木と目が合い、ホッとしたように顔がほころんだ峰松は実際、「ほ」と「は」の中間の音の息を漏らしていた。老人は、シミだらけのたるんだ顔面を活動させ、
「青木さんですか」
と尋ねた。その声の調子には、まるで近所の知り合いと挨拶をかわす時のような気楽さがあった。
「はい、すみません、少し外へ出てまして」
 少し申し訳なさそうな表情を作り、部屋の扉を開ける。
「いやいや、お気になさらず。寝てるのかと思いましてね。日曜だから。でもよかった よかった」
 荷物を受け取りサインをする。青木の手に当たった峰松の手は、すでに汗が乾いて冷たかった。
「こう暑いとね、ちょっと外歩くだけでも汗だくですな。私ももう歳ですからね、うっかり死んじまわないように気をつけないとね」
 皺だらけの顔にさらに皺を作り、峰松がはっは、と笑う。青木はうろたえつつ、なんとなく愛想笑いをして彼を見送った。背中からは老齢を感じられるものの、進路はまっすぐ迷いがないように見える。まだ新しい、形の崩れていないキャップからはみ出た白髪が、夏の最後まで残った綿毛のように居心地が悪そうだった。青木はダンボールを玄関に置いて扉を閉めた。
 
 夏を存分に体現する外の世界とは対照的に、部屋は快適である。付けっ放しのエアコンが、部屋を外界と完全に分断し、王国としての威厳を保つため機能していた。青木は、風邪薬を開封し一錠口に含み、ミネラルウォーターで胃に流すと、大きく息をついた。ダンボールに入った食糧や日用品を取り出し整理していると、心臓の動きが次第にしなやかに落ち着いてくるように感じた。一瞬、峰松の黄ばんでたるんだ皮膚が思い出されたが、すぐにはねのけた。想像力や記憶力は時に、理性の及ばぬところで働き、主人の呼吸を妨げる。
 デスクの前の椅子に腰掛けると、安心感や疲れからか、眠気に襲われた。少し悩んでからベッドへ横になると、一時間で起きれるようアラームをセットし、瞼を閉じるた。ひんやりとしたシーツが心地よい。今度は妊婦がぼんやりと視界に浮かび上がったが、真っ黒に塗りつぶした。また現れそうになっては、塗りつぶす。そんなことをしているうちに、青木は濃い睡眠の中へと落ちていった。

 その日以来、週に二、三度の宅配は峰松の仕事になったようだった。幼稚園児くらいの容積のあるダンボールを抱えた老人が、衰えた体に鞭を打って階段を上がってくることに、青木は段々となんの抵抗も感じなくなっていた。一方、峰松はこの定期的な会合を楽しんでいる様子だった。
「青木さん、今日の荷物は重いねぇ」
「さっき配達した家ね、インコが逃げちゃったんだって」
「アパートの下に救急車止まってたよ。なんだろうねぇ」
「蝉の死骸が増えてきたね。もう夏も終わりかな。ねぇ青木さん」......
 青木はこれらの会話を全て「はぁ」とか「そうですねぇ」とか言って形のない返事で終わらせていた。峰松は、「じゃ、また来ますからね」と言って柔らかくこちらに笑いかけて去って行くのだが、幻滅とか、虚しさとかによって親密な態度が削がれることは決してなかった。青木の方もはじめは馴れ馴れしいとしか思っていなかったこの老齢の配達員に、なんらかの別の感覚を覚えるようになっていた。それは、青木の持つ倫理観とそぐわぬ男に対する嫌悪ではなかった。彼がこちらへ向ける温度と同じ種類のものでもなかった。ただ、荷物を受け取って部屋へ戻った後の、空(くう)を見つめる時間が長くなっただけで、峰松に対する態度は何も変わらなかった。

 仕事は順調だった。化学メーカーの新規事業のホームページの件も、面白いようにはかどっていた。小山との面会はその後二度あったが、仕事のこと以外には踏み込んでこないようだった。一方で、業務内容に関してははっきりと意見してくるタイプで、青木にとっては極めて心地よかった。面会以外でのコミュニケーションはメールで行われていたのだが、返信は早いし、その内容は形式を保って崩さなかった。青木の方でも、データをメールで送る際には、不備の無いよう最善を尽くしていた。予定通りに行けば、夏とともにこの仕事は終わる。
 青木の最も恐れていたのは風邪が長引くことであったが、二日で良くなってしまった。薬局で買った薬もまだ残っていたが、体調が戻ったとわかった途端箱ごと捨ててしまった。幸いにもそれ以来体に問題はない。
 暑さのピークはもう過ぎていた。

 人は、人生におけるいくつかの重大な出来事を通じて、彼自身の性格を変貌させていく。その出来事、というものはいかに重大であっても、あまりに長期的であったりあまりに短期的であったり、また、目に見えやすいものであったり見えにくいものであったりして、気づかれないことがままある。そして、人生の道のりが緩やかになって来たとき思い返して、あれは重大な出来事だったのだ、と認識するのである。青木が混沌を避ける性分なのは、何も生まれつきのことではない。

 
 十四の頃である。

 清宮は可憐だった。手足は細く、背は青木より十五センチも低かった。滑らかな肌は優しく、絹のように白く、光を反射していた。ひとつ結びにした黒い髪は艶やかな光沢を持ち、その一本ずつが泳ぐようにサラサラと空間を撫でた。そして周りに椿のような、石鹸のような甘い少女の香りを放っていた。誰かが冗談をいうと、朝露みたいにキラキラした目を細めて、小さく笑う。青木は、そんな清宮を教室の反対側から眺めては幸福になるのだった。
 
 青木は、彼女の仕草をほとんどすべて観察しようと努めていた。教科書を眺めるふりをしながら、友達と会話するふりをしながら、体の向きを変える素振りをしながら、彼女の表情、てぐさ、声色に神経を集中させた。いつでも彼女を脳内に出現させることができた。
 そんな密かな趣味を楽しんでいた一方で、青木は彼女と接触しようとはしなかった。恋をする少年の多くがそうであるように、青木も清宮を所有したいと一度は思った。しかし、幸か不幸か、その野生的な欲望よりも、純白に一つの墨も落としたくない、という強い想いが彼の中に大きく在った。それは十四にしては成熟した精神性や、元来の自虐性の賜物であったが、彼の平穏な恋は、それ故に保証されていたとも言える。
 
 秋と冬の間のことである。青木は、放課後の廊下を一人歩いていた。クラス委員の仕事で、全ての階段の踊り場に掲示物を貼って、教室に戻るところであった。上の階では、吹奏楽部がコンクールへ向けて練習していたが、青木が歩く二階の廊下や教室には誰もいないようだ。窓の外はもう薄暗い。木の枝が冷たい風に揺らされて、枯葉を一枚ずつ放っている。廊下を歩く青木の上履きの音は、夏よりも低い音で響いていた。
 教室に入ると清宮がいた。清宮は椅子に座りじっとしていた様子だった。机の上には紙が一枚置いてある。青木の足音に気づくと、清宮はこちらに顔をやり、不意をつかれた表情で、
「青木くん」
と発した。
 青木は、清宮に関してはほとんど博士だったが、二人きりで話をしたことはなかった。それだから、真正面から清宮を観察するこの絶好の機会は、緊張と高揚によって消え失せてしまった。その代わり、彼は目の前の清宮に対して、決して不遜な態度を取らぬよう心がけることにした。
「何してるの?こんな時間に」
 歩み寄ったのは清宮であった。青木は自然な表情を心がけ答えた。
「委員の仕事でね。インフルエンザ予防のプリント、掲示板に貼ってたんだ」
「あ、あれ青木くんが貼ってたんだね、お疲れ様」
 青木は初めて正面から、自分にだけ向けられたその微笑みを見た。青木の未熟な心臓は、大きく鼓動していた。
「せ、清宮さんは、こんな時間に何を?」
 机の上に目をやると、そこには一枚の水彩画があった。清宮は少し照れながら、これね、といって青木にその絵を手渡した。
「美術の時間の水彩画。今日提出期限だったのにまだできてなかったから、残って描いてたの」
 美術の水彩画課題は、学校の敷地内で好きなところを選んでスケッチせよというものだった。皆往々に、日当たりのいい廊下とか、庭の花壇とか、グラウンドで行われる体育の授業とかを描いて提出していた。青木は、校門の横にある大きなイチョウの木を描いて出した。
 清宮の手には絵の具が少しついていたが、描いていたという割には机には画材など見当たらなかった。清宮は青木の目線が机の上を動くのを見て、観念したかのように、
「うん、描き終わったのはもう三十分ぐらい前なんだけどね。片付けてから見直して、なんか上手に描けなかったかなぁとか思って、ぼーっと見てたの」
 清宮が絵に向き合って三十分間、一人教室の中でポツンとしていたのを想像して、その愛らしさに青木は思わず笑みをこぼした。
「真面目なんだね」
 心からの言葉だった。清宮はもう、と言って眉をしかめたが、すぐに緩めて、
「この絵、どう思う?」
と言って青木の目を再びしっかりと見た。
 清宮の絵は、校門の近くの道路を描いたものだった。道路自体よりも、落ちた銀杏が繊細に描かれており、グレーのアスファルトにくすんだ金の銀杏がいくつも浮かび上がっているような絵だった。一つ一つが複雑に色を秘めて丁寧に描かれているのをさらに注意して見ると、潰れた銀杏もある。臭い臭いと生徒に嫌がられるペシャンコの銀杏も、彼女はしっかりと記録していた。
「私、銀杏好きなんだ。秋になると、校門の周りに落ちるでしょ。なんだか可愛くて。いつか、ビニール袋いっぱいに拾ってみたいんだ。誰かに見られたら恥ずかしいから、やらないけどね」
 言い切ってから、清宮の顔がどんどん赤くなっていったのがわかった。青木は、真剣な表情で、すごくいい絵だと思う、とだけ言って絵を返した。ありがとう、と言った清宮の顔はまだ少し赤かった。しばらく間があってから、じゃあ、と言って青木は教室を出た。それが、最初で最後の二人きりの会話だった。
 青木はその日、なぜ自分がこんなにも清宮のことが好きなのかがわかった。彼女は、青木が今まで出会ったどの女性よりも、死の匂いがしていたからだった。青木は一層彼女への愛を確信し、同時にこれ以上近づかまいとも決めた。
 
 それから一週間もすると、皆の描いた水彩画は廊下に張り出された。青木のイチョウの木も、清宮の銀杏の実も、誰の目にも留まることなく、数あるうちの一つの絵として、日常の風景と化した。それでも青木は毎日こっそり銀杏の絵を観察して、その色を網膜に記憶した。それと同時に、あの日清宮が一人で佇んでいた教室を想像した。青木の平凡な一日一日は、銀杏の金によって照らし出され、青春と呼ぶに値するものへとなっていった。
 清宮と時々目があっても、青木は安易に受け入れずに逸らした。だから、その後清宮がどんな顔で自分を見ていたのか知らなかった。あるいは同じようにすぐに目線を外にずらしていたかもわからない。次第に清宮も、以前のように青木のことを見ないようになり、二人の目が合うこともなくなった。清宮は、いつしか教室で青木に小さな野望を明かしたことも忘れてしまった。二人の教室は、微妙に変化する青い人間模様を包み込み、その間も変わらずに在った。秋の色も終わりに近づき、鈴虫の音も気づけばなくなっていた。

 次の年の春、青木は中学三年になった。清宮とは離れ離れのクラスになり、観察の機会はめっきり減った。廊下ですれ違うときや、体育でグラウンドに出ているときなど、偶然見つけた場合にしかできなくなった。高校受験の勉強が本格的に始まったことで日々の平凡さを忘れることはできたが、人生を浪費しているような心持ちがして仕方がなかった。
 教室で初めて会話した日の後、なぜもっと親密になろうと試みなかったのか、時折自分を責めた。自らの愚かな信念のために甘い可能性がなくなったと思うと、悔しさで身悶えするほどだった。だが、そんな思いも、いざ清宮を目の当たりにすると瞬間にして消え失せるのだった。そして、幸福に照らされた自分の影を運命として受け入れ、呪うしかないのだとその都度気づくのだった。

 中学最後の秋になった。青木はつまらない生活の中でも勉強に励んでいた。清宮への想いは消えることはなかったが、一日見かけない日があっても以前ほどの悲しみを感じなかった。クラスメートの表情も日増しに緊張を帯び、教室の空気が引き締まっていくのがわかった。青木はその流れの中で、受験勉強に価値を見出そうと必死だった。
 ある日の放課後。青木は図書館で自習したのち帰宅するところであった。校門の周りには幾多の銀杏が落ちていた。朝、一年生が臭い臭いとはしゃぎながら踏み潰しては、駆け回っていた場所だ。青木は銀杏のうち、傷のない小さなものを一つ摘んで眺めた。脳裏には去年見た清宮の絵が、精密に思い描かれた。清宮は、どこの高校へ行くんだろう。銀杏を道路にひょいと投げると、その上を自動車が通ってプチっと潰した。それを見ていたのは青木だけだった。今日は昨日よりだいぶ寒い。あの日のように、三階からは吹奏楽部の練習が聞こえる。西の空に沈みかけの夕日が、積乱雲を紫に濡らしていた。

 次の日、担任の教師が清宮の訃報を伝えた。静まり返った教室に、涙まじりの説明が途切れ途切れに続いた。クラスメートは皆、突然のことに頭が追いついていないようで、ぽかんとしていた。が、青木だけは、清宮の死をすぐに理解した。彼女に感じていた死の影は、色を帯びて現実となってしまったのだ。青木の小さな、幼くて大人びた恋は、敵いようもない大きな力によってプチっと潰された。交通事故だった。青木は、小さな銀杏の実が自動車に潰されたのを思い出した。そして今までの記憶が爆発したように脳内を駆け巡った。記憶の中の清宮は、その瞬間、今まで見たこともないくらいの笑顔で、眩しいほどの煌めきを持っていた。車にひかれる瞬間の清宮を想像してみた。彼女はその時でさえ、あの笑顔をこちらに向けていた。
 涙は出なかった。だが、しばらく彼の体は石のように固くなって動かなかった。その日は授業も中止になり、生徒は早退するか、自習することとなったが、青木がどうして過ごしたのか、あとになっても思い出すことはできなかった。通夜や葬式もあったが、どうやってそこへ辿り着いたかもわからない。一週間ほど抜け殻のように過ごしたのち、今度は毎晩何時間も泣いた。学校に行っても、銀杏の実を見ては涙を流した。青木はビニール袋いっぱいに銀杏を集めて、事故現場に供えられた花束や手紙の傍にそっと置いた。

 以来、青木は汚れに敏感になった。中学を卒業し、高校へ行って、専門学校へと進み、だんだんと歳を重ねるにつれて、秩序の中へ身を投じるようになっていった。全ての汚れが、彼の目には死への繋がりを持つように映る。デザインの仕事を選んだのも、必然であった。


 現在の青木は、十四から十五にかけてのその重大な出来事を思い出すこともなく日々を過ごしていた。ただ淡々と部屋で毎日の仕事をこなし、部屋で音楽を聴き映画をみるのを趣味とし、部屋で冷凍食品をする二十八の男であった。季節の移ろいは窓の外の景色でしかなかったし、それすら視界に入れない日が多かった。
 八月は残るところあと数日となった。暦の上での秋は目前まで迫っていたが、太陽は当分休むことなく大地を熱するだろう。アブラゼミも朝から晩までやかましく働いている。

 青木がいつものようにパソコンを起動すると、メールが一件届いていた。珍しく、母からであった。開いてみると、「兄の結婚相手が実家に挨拶にきて、皆で食事をするからあなたも帰って来なさい」とのことだった。実家にはもう五年くらい帰っていなかった。家族に対しては、特に何の愛憎もないが、新幹線や電車に乗っての移動が面倒くさくて何かと理由をつけて帰省を先延ばしにしていた。青木は幼いときに両親が離婚しており、父親の顔は覚えていない。今は四つ年上の兄と母と祖母が三人で生活しているが、その兄が今年結婚するということは確かに知らされていた。
 母は、青木が東京に出て来た当初はよく、心配してメールや電話を頻繁によこしたものだが、青木が素っ気ないものだから次第に連絡する回数を減らしていた。それでも我が子に会う口実をこうやって見つけては、帰省を促すのだった。
 青木は、兄の結婚など心底興味がなかった。幼い頃は兄とよく遊んだが、年を重ねるにつれて互いの性格も、趣味も一致しないのだと兄弟はわかってきた。青木が絵や、音楽や映画への興味を深める一方で、兄はサッカー一筋だった。だんだんと口を利くこともなくなり、青木が東京へ発つときなど兄は、じゃあな、と言っただけだった。
 いつものごとく青木は適当に理由をつけて断った。だが今回の母は粘り強く、兄のためだから、と何度もメールを送ってきた。結局一日かけて説得された後、兄から電話で
「俺の結婚で母さんも不安だろうから、どうか来てやってくれ」
と頼まれ、しぶしぶ飲んだ。二日後の晩に会食をするから、ちゃんと来いよと念を押された。
 約束の日、青木は東京駅から新幹線に乗った。幸い車両は空いていたため、青木は窓側の席を確保することができた。東京駅から乗って浜松駅で電車に乗り換える。片道三時間ほどの帰省だった。新幹線で仕事をしようとパソコンを開いていたが、品川で隣にサラリーマンが乗車してきたのでやめにした。どうも部屋でなければ作業に集中できない。読みかけの文庫本を開いて時間を潰すことにした。時刻は一四時である。
 浜松駅に降り立つと、東京より幾分涼しいようであった。乗り換えのため改札を出ると、大きな駅舎の中を人がまばらに歩いている。田舎だ、と思った。青木はそのまま私鉄のホームに向かい、実家の最寄り駅まで行く電車を待った。ホームに出るとカラッとした陽光が青木の肌を静かに焼いた。青木の目線からは浜松の街並みが見下ろせた。東京と何も変わらない、真っ青な空がアブラゼミの喚き声とともに街に降り注いでいた。
 
 青木が最寄り駅に着いたのは十六時を回った頃だった。最後にこの地を踏んでから五年経っても、何も変わっていなかった。特に感慨も覚えることなく改札を通ると、蝉の合唱が一層やかましく青木の頭蓋に響き渡った。小さな駅舎の前には小さなロータリーと、その横にコンビニが一店舗あるだけで他には何もない。青木はこの地で生きてきたかと思うと誇らしいような、悲しいような心持ちになった。
 青木の実家はここからバスで二十分ほど走ったところにある。駅前のバス停の時刻表を見ると、あと十五分でバスが来るようであった。ここではバスは二時間に一本か二本。まぁまぁラッキーかと思いベンチに腰掛ける。
 本の続きをパラパラとめくっていると、見慣れたオンボロのバスが目の前で停車した。乗客の誰もいない車内に乗り込むと、天井の扇風機を確認して、変わらないな、と思った。扇風機の生ぬるい風に当たりながら、バスに揺られていると、見慣れた街並みが窓の外をめぐる。これをノスタルジーとかいうのかなぁ、などと考えているうちに、目的のバス停へ到着した。
 青木の実家は田んぼに囲まれた木造の一軒家である。両親が離婚して、母親の生まれ育ったこの地へ引っ越してきたらしい。青木には、引っ越す前の記憶はない。だから、ここは青木にとっての初めての記憶の場所である。引き戸に手をかけると、鍵がかかっていないことがすぐにわかった。少々滑りの悪い扉を開いて玄関に上がると、家族の生活の匂いがした。五年ぶりか、と改めて思った。もう自分の場所ではないのだな、と何となく感じたが、寂しいとはちっとも思わなかった。
 青木は、ただいま、と言って来訪を知らせた。すると、台所の方から祖母がやってきて
「あら、おかえり。遅かったねぇ」
と迎えてくれた。それから前掛けで手を拭きながら、嬉しそうに孫の顔を眺めて、
「少し痩せたかしらねぇ」
と微笑んだ。
 青木は、記憶の中よりだいぶ小さくなった祖母の姿を見ながら、
「うん、ただいま。母さんと兄貴は?」
と聞いた。
「二人とも出かけてるよ」
 祖母は身体的には老いたものの、頭の方はしっかりしているようだった。祖父は青木が高校生の時にガンで亡くなっている。だからかはわからないが、青木が上京する時にもっとも寂しがったのは、祖母であった。青木は幼い頃によく祖母に可愛がってもらった。よく兄に内緒でこっそりお菓子をもらっていたのを、青木は不意に思い出していた。
「ゆっくりしていきなさいね」
と言いながら、祖母はまた台所に戻って行った。背中がかなり丸くなっていた。
 青木は居間に入り、室内をぐるっと見渡した。青木がいなくなってから模様替えされており配置こそ違ったものの、見慣れた家具がこちらを見ている。家具と家具の隙間には埃が薄く残っており、家族の大雑把な性格を思い起こさせる。祖母が桃を剥いたと言って持ってきたのを半分くらい食べると、青木は子供の頃によく枕にして昼寝をした座布団を引っ張ってきて、頭を乗せてみた。中綿がもうへたっていて、枕にしては薄い。青木は、二つ折りにしてから頭の下に再び敷いて、目を閉じた。
 
 家族の話し声で青木は目を覚ました。そのまま寝てしまっていたらしい。青木が起き上がったのに気が付いて、
「あら、起きたの。随分疲れてるのね」
と母が笑う。久しぶりの再会に母は喜んでいるようだった。青木の顔のパーツを一つずつじっくりと見ていた。対して青木は居心地が悪いような気がして、まぁ、とだけ言った。
「お兄ちゃん、すぐ帰るからね。ユミさん連れて。そしたらご飯だから」
 ユミさんというのが兄の結婚相手か、とぼんやりした頭で考えていると、引き戸が開く音がした。
「帰ってきたね」
 母は嬉しいような緊張したような声色だっった。
 間も無くして、居間に兄が入ってきた。横には兄と同い年くらいの、髪の短い女性が立っている。垂れ目と丸い輪郭が、幼い印象を与える顔立ちだった。寝癖頭の青木と目があうと、浅い会釈をした。兄は、ただいま、と言った後で青木の姿を見つけると、
「久しぶりだな。いつ着いたんだ?」
と尋ねる。青木はその口調に違和感を覚えたものの、結婚相手の前で良い兄を見せたいのだと納得して、できるだけ自然に、明るく、兄と会話した。声を聞きつけ祖母もすぐにやってきた。兄は家族に、
「こちら、ユミさん」
と紹介して、傍の女性の肩に手を置いた。
「よろしくお願いします」
と少し緊張した面持ちで挨拶するユミは、青木と再び目があって、二度目の会釈をした。
 
 食卓には母と祖母が気合を入れて作ったであろう料理が次々と運ばれてきた。食事が始まると、青木は話もそこそこに、慣れ親しんだ味を楽しんでいた。兄はビールを持ってきて飲み始め、滅多に飲まない母も一杯二杯とグラスを空けた。
 初めは恐縮していたユミも、母と祖母の暖かい歓迎を受けて、だんだんと笑顔を見せるようになった。ビールを促されて、じゃあ少しだけ、と口をつけると、すぐに顔が赤くなって、そこから表情も一段と豊かになっていった。青木家とユミは互いの生活のこととか、二人がどこで出会ったかとか、ユミの家族のこととかを、時に大きな笑いとともに話していたが、青木は適当に相槌を打つだけであまりちゃんと聞いていなかった。兄や母も、青木が話に興味がないことはわかっていて、青木を話の中心にするようなことはしなかった。青木はこの会食の間、自分だけが違う空間にいるような感覚になることが何度かあった。ユミはそれを察していたのかわからないが、青木の目を不思議そうに見ては浮遊感から彼を引き戻すのだった。
 
 その晩青木は自室として使っていた6畳の和室に泊まった。もう遅いから、と母に促され、ユミも客間に泊まっていくようだった。
 青木は蚊取り線香に火をつけ扇風機を回すと、本を開いて眠気が来るのを待った。彼は、蚊取り線香の匂いは好きではなかった。冷房があればつけたかった。だが、ページを繰っているうちに自然と眠りについていた。夢を見ることもなく、深く深く眠った。
 
 あくる日の朝、七時に目を覚ました青木は朝食もほどほどに、東京への帰宅の支度をした。もっとゆっくりしていけばいいのに、と残念がる母に、仕事があるから、と返して荷物をまとめる。兄がユミと二階から降りてきて、
「ユミを家まで送るから、ついでに駅まで乗せてくよ」
と提案したので、それに乗ることにした。
 出発の時になって、母はまだ未練がましく何か言っていた。祖母も寂しそうな表情を浮かべてはいたが、体に気をつけて、と声をかけて居間に帰っていった。青木は兄が家の前で鳴らしたクラクションを聞いて
「じゃあ、来たみたいだから、いくよ」
と引き戸を開けると、それに続いてユミも
「お邪魔しました。ご飯、ごちそうさまでした」
と挨拶して、玄関から出た。
 
 車の中で、青木は兄とユミが話すのをぼんやりと聞いていた。たまに兄に話を振られても、ただ最低限の返事をするだけだった。運転席にいる兄がそれをどんな顔で受けていたのかは、青木には想像がつかない。助手席のユミは、兄の顔を見てからちらっと青木の表情をのぞいて、また兄の顔を見てから前を向いた。
 駅に着くと、ユミが
「私もここで降りようかな。家の洗面台の電球が切れちゃってたから、いい加減買わなくちゃ」
と言って助手席の扉を開けた。兄は、
「そうか、じゃ、また連絡するよ。来てくれてありがとうね」
とユミに笑いかけた。兄の表情は、恋人へ向けた大人の男のものだった。青木も、
「ありがとう、また連絡する」
とユミに続いた。兄は、じゃあな、と言って青木を見送った。

 ユミは、三つ先の駅の電気屋に行くと言って、青木と同じ電車を待った。通販を使えばいいのに、と青木は言ったが、同居する母親がインターネットで買い物をするのを嫌がるのだと、ユミは呆れた顔で返した。二人きりになって、青木はユミと話をするのが苦痛でないことに気づいた。ユミは、小山のように作られた言葉遣いもしなければ、峰松のような行き過ぎた親近感も持っていない。彼女の言葉は、風のようだった。ただ吹き抜けるだけで、感じようと思わなければ何も感じない。兄がユミを選んだ気持ちが少しわかったのと同時に、兄との血の繋がりを否応無く示された気がした。
 電車に乗ると、二人は隣同士で並んで座った。ユミは、少し迷った顔をしてから、
「東京、楽しい?」
と聞いた。青木は、東京での生活が楽しいかどうか、考えたことがなかった。ただ、利便性については満足しているというだけであった。青木が返答に困っていると、
「私、東京に住んでたんだ。四年前」
とユミが話す。その顔は窓の外を向いていた。
「ここには仕事があまりないし、遊ぶところもないし。東京に出てみたかったの。それで、二五歳の時に、転職して東京の企業に入ったの。頑張って仕事して、おしゃれな服買ったり、美味しいご飯やさん行ったりするんだって」
 青木は、ユミの独り言のような語りを、ただ黙って聞いた。
「でもね、思ってた感じとなんか違ったの。仕事も合わなくて、人間関係も。それで、一年でやめちゃったんだ。根性ないなって、思った」
 きっと、自分が想像できる以上の何かがあったのだろう。青木は、ユミの泣く寸前のようにも泣いた直後にも見える表情を見て、そう思った。
「でもね、新卒で上京した友達は、東京で元気にやってる子もたくさんいてね。私は、色々合わなかっただけなんだと思ってる。相性も、タイミングも。田舎に戻ってくることになって、惨めな思いはしたけど、結果的にはよかったかなって」
 ユミのこの言葉の裏には、兄の存在が確実にあった。同じ飯を食い、同じ地を踏んで、同じ屋根のもとで大きくなった兄は、知らない間に他人の生きる希望となっていた。そのことに青木は嫌でも気づかされていた。
「だから、なんていうか、東京楽しめてるか聞いてみたくて」
 ユミは青木の方を向いて言葉を締めくくった。その目は、昨日食卓で青木に向けられた不思議そうなそれではなかった。実に清々しい顔つきであった。
 青木が、僕は、と言いかけたとき、ユミの目的の駅に到着したことを知らせる放送がその言葉を遮った。ユミは
「ごめんね、降りなきゃ。今度聞かせてね」
と言って車両を降りていった。
「あ、兄をよろしくお願いします」
 扉が閉まる直前になって青木は慌てて言った。ユミはにっこり笑って会釈しながら、電車がホームを離れて行くのを見送っていた。
 青木は新幹線の中でも、遮られた言葉がなんだったのか考えていた。だが、それはさっぱりわからなかった。僕は、と青木が発したとき、彼は確実にその答えを持っていた。だが一人になって考えてみると、自分が何を思っていたのかわからなくなった。新幹線の窓から見える景色が、田んぼや湖からビルや道路へと変わって行く。青木は考えるのをやめて文庫本を開くと文字を眺めた。新幹線が東京駅に到着すると、青木はポロシャツのボタンを一つ閉めてホームへと歩き出した。
 
 自宅に戻ったあくる日の昼間、青木はデスクに向かい、件の化学メーカーの仕事に取り組んでいた。メニューに使うフォントをどれにしようか、五種類ほどに絞って、そこからまた吟味しているところだった。
 インターフォンが来客を知らせた。通販の発送メールが昨晩届いていたから、峰松が来ることはわかっていた。玄関へ向かい、扉を開けると、見慣れた老人が待っていた。大きなダンボールが抱えられ、その上に
A四サイズくらいの小包がおいてあった。
「いやぁ、今日も暑くて参りますな」
 青木はいつものように、そうですねぇと言って、二つの荷物を受け取った。受領書にサインをしていると、
「青木さん、何のCD?」
 と峰松が聞いた。小包には、CD店のロゴが載っている。青木は、煩わしさを感じつつも、
「ジャズです」
 とだけ答えた。峰松は驚いた顔で、
「へぇー、ジャズか。私も聴いてみようかな」
 と言ったが、青木はこれを社交辞令と受け取った。受領書を渡し、扉をしめる際にちらっと見た峰松の体は、初めてあった時より小さくなったように、瞬間感じた。
 部屋に入った青木はCD屋からの包みを開け、購入したアメリカのジャズトリオのアルバムを眺めた。音楽は専門学生時代によく聞くようになり、特にビバップを気に入ってからはCDも少しずつ集め始めた。
 早速再生すると、評判通りの名演奏に思わずうっとりとする。青木がジャズを好むのは、アドリブであっても、一聴するとコードやリズムを外したような音でも、統制された大きな流れをはみ出すことが決してないからである。一流のミュージシャンが、秩序の中で自由を表現するのが、何とも心地よい。アルバムを聞き終えると、青木は再び仕事に向かい、夜まで作業した。食事の時と、就寝前にまたアルバムを流した。青木は、音楽を楽しむ心を改めて確認した。

 三日後、いつものように峰松は荷物を持って青木の部屋を訪れると、
「雨が降りそうですねぇ」
 と話しかけた。そして続けて、
「そういえば、青木さん、私もジャズ聞いてみようかと思ってね、CD屋さん行ったんだけども、どれ買ったらいいか分かんなくてねぇ」
 と青木の顔を見た。青木は、意外な峰松の言葉に一瞬戸惑いの色を見せたが、少し間をあけて
「ちょっと待っててくださいね」
と部屋の中へ引っ込んだ。三十秒ほどして現れた青木の手には一枚のCDが携えられていた。峰松は驚いた表情でCDと青木を交互に見ていたが、差し出されたそれをゆっくりと受け取った。マイルス・デイヴィスの"Kind of Blue"だった。
 「これ、貸しますから、聴いてみてください」
 "Kind of Blue"は、ジャズファンのみならず有名な、モードジャズの金字塔である。これを聴いて良いと思わなければジャズは好きにはなれない、と普段から青木は思っていた。とはいえ、とっさにこんな行動をしたことに自分でも驚いていた。一方の峰松も初めは目を丸めてはいたものの、普段無愛想な男がCDを手渡してくれたことに思わず喜びを隠しきれず、嬉しい、と何度も言った。感謝を告げながら峰松が帰っていくのを見届けて、青木は扉を閉めた。
 青木は、自分が本当は友を欲しているんじゃないかと考えた。あるいは、老齢の配達員に同情の気持ちがあるんじゃないかとも思った。しかし、実際、それよりもっと大きな可能性を青木は音楽に託していた。この行動は、青木自身のためでもあったし、峰松のためでもあった。この行動に自分を突き動かしたのが何だったのか知りたくて、青木は初めて次の峰松との面会を楽しみにして過ごした。

 三日後、インターフォンの音を聞くと、青木はいつもより少し速く玄関に向かった。扉を開けると、そこに立っていたのは峰松ではなく見知らぬ若い配達員だった。今日は休みか、と思い少し残念な表情を浮かべたが、若い配達員の視界にはそんな青木の些細な心の動きは映らない。荷物を渡すと、明るいトーンで
「ありがとうございました」
と去って行った。
 ダンボール箱から、食料品や水、トイレットペーパーを取り出して、それらを収納し終えると、青木は何となくカーテンをあけて空を見た。雲が重たく重なり合って、なだらかに落ちてきそうなほどであった。建物の間を通る風が轟々と唸りを上げている。青木は久しぶりに天気予報を見てみようと思った。気象庁のホームページは、台風の接近を知らせている。彼はエアコンの設定温度を一度高くした。もう夏も終わりか、などと考えた。これも久しぶりのことだった。

 その次の配達も、その次も、峰松は訪れなかった。若い配達員に、あの、と青木は声をかけた。何でしょう、と応えた若い配達員に、
「峰松さんは?」
と尋ねた。声に出した瞬間、青木は何か一枚皮が剥がれたような、そんな気分がした。
 驚いた配達員は
「峰松ですか?」
と聞き返した。青木はもう一度、
「峰松さんは、もうやめてしまったんですか?」
と問うた。配達員は、
「いや、やめてはないんですが、入院したとかで」
と少し声を落として答えた。
「そうですか」
としか青木は言えなかった。2秒ほどの沈黙ののち、若い配達員が、それでは、と言って帰ろうとした。青木は咄嗟に、
「病院とか、わかりませんか」
と言っていた。配達員はだんだんと怪訝な顔になって、
「わからないですねぇ」
と言って帰っていった。
 部屋に戻った青木は、荷物の整理もせずに椅子に腰掛けた。パソコンを操作し、動画サイトでマイルス・デイヴィスの"So What"の演奏を聴いた。この曲は、"Kind of Blue"のはじめに収録されている曲だ。
 峰松はこれを聴いたのだろうか。聴いたとしたら、何を思ったのだろうか。だんだんと青木は峰松のことを考えるようになった。だが、彼について知っていることはあまりに少なかった。そして、なぜ自分があの老配達員にここまで想いをめぐらしているのかわからなくなって、バカバカしく思った。カーテンの隙間から大雨が覗いている。青木はカーテンをピッタリと閉めてその光景を遮断した。そして、いつもの仕事に取り掛かることにした。台風がすぎたらもう秋になるはずだったが、青木の興味はもうそこにはなかった。

 その日から二日間、青木の秩序へのこだわりは一層加速していくようだった。ベッドのシーツはピッタリと伸ばし、シワの一つもないようにした。シャワーを浴びて風呂場を後にするときには、壁や床に水滴の一つも残らないように入念にタオルで拭いた。デスクの周りは特に入念に掃除をし、埃の一つも見逃さなかった。
 
 次の配達の日が来た。若い配達員からダンボールを受け取った青木が扉を閉めようとすると、あの、と声をかけられた。
 青木は彼が、少し居心地の悪いような、迷ったような表情をしているのに気づいた。彼はズボンのポケットから小さな紙を取り出すと、青木の抱えたダンボールの上にそっと置いた。
 配達員は、
「峰松さんの、入院してる病院です」
といつもより低い声で告げた。青木は驚きはしたものの、目の前の男のこの三日間の心の動きを何となく感じ取って、しっかりと礼を述べた。配達員は少し照れたように笑った。
 紙には、病院の名前と住所、病室の番号が書かれていた。明日、見舞いに行こう。カーテンを開けると空には一つも雲はなく、鮮やかな青が目に優しく染み込んだ。久しぶりに窓を開けてみた。エアコンのフィルターを通さない風が、久しぶりに青木の部屋を巡った。部屋が呼吸しているようだった。

 峰松の入院している病院は、隣の駅のすぐ近くだった。電車に乗りながら、青木はいつしか見たあの妊婦のことを思い出していた。今あの人にまた会ったら、自分はどんな気持ちになるのか想像してみた。何も思わないだろうか。幸福になるだろうか。それとも、あの時と同じだろうか。駅に到着してホームに降り立つと、青木は羽織ったシャツの袖をまくった。やって来たばかりの秋が、心地よい風を吹かせていた。
 峰松のいる病室の階まで来て、青木は初めて躊躇した。突然の訪問を、峰松は歓迎するだろうか。何度も会っているとはいえ、ただの配達員と客だ。考えていると、看護師に車椅子を押された老人が、青木の横を通った。青木は、峰松に会おうと決心した。 
 病室の入り口には、峰松含む4人の名前が表記されていた。青木はここで、峰松が実という名だと知った。病室に入ると、20畳ほどの空間に四人の患者が寝ているようだった。峰松は仕切りのカーテンを閉めずに目を瞑っていた。腕にはゴムの管が通っている。青木は傍に静かに立って老人の顔を見た。随分と顔色が悪く、頬もこけている。ベッド脇のテーブルに花が置いてあるのを見て、青木は手ぶらで来たことに気づいて少し後悔した。
 しばらくして峰松は瞼を開けると、青木がそばにいることに気づき、目を丸くした。硬い皮膚が一生懸命動いているようだった。青木は少し笑って会釈した。峰松はまだ驚いた表情で、
「青木さん、どうしたの」
 と何とか発した。
「入院したと聞いて、他の配達員さんに病院を聞いたんです。突然、すみません」
 それを聞いた峰松の表情は、みるみるうちに柔らかくほころんだ。肌は少し色を帯びて、声もいつもの調子になって、何度もありがとう、と感謝を伝えた。峰松の喜ぶ顔を見て、青木は来てよかったと心から思った。見舞いの品などどうでもよかったのだ。突然の来訪であることも。この老人に会いにきたことは、何も間違っていなかったのだ。

 峰松は、もともと心臓が弱かったこと、心不全で倒れたが命に別状はないこと、仕事を変えるかもしれないことなどを説明した。青木もそれをはい、はい、と丁寧に聞いた。青木の方でも、峰松に自分の仕事のことなどを自然に話していた。自分のことを他人に話すのなど、何年ぶりだろうか。峰松は、わからないなりに、彼の仕事について理解しようと一生懸命になって聞いていた。そして、すごいねぇ、といつもの調子で呟いた。
 峰松は、彼の息子が借金を残して亡くなり、その返済のために配達の仕事をしているのだと説明した。金額こそ伝えなかったが、年金だけでは支払いきれないらしい。息子の事を話す峰松の表情は、これまで見たこともないくらい温かく、目の前にいるかのようだった。そして最後に、自分が死んだら、その保険金で何とかなる、とも言った。死を語る時でさえ、峰松の表情は温度を保っていた。

 一時間ほど二人は会話していた。二人は年齢を超えた友のようでもあり、親子のようでもあった。青木は、峰松に対面することで、この十年余りの自分と向き合っていルような、そんな感覚になった。峰松は、そんな不思議な感覚を思い起こさせる男であった。
 あ、と言って、峰松は傍においた鞄から、CDを取り出した。青木が貸した”Kind of Blue”であった。
「遅くなっちゃったね。ありがとう」
と言って、青木に差し出したが、青木は受け取る代わりに
「あの、どうでした?」
と聞いた。青木の視線は峰松の目をしっかりと捉えていた。手には汗がジワリと浮いた。
 峰松は、ゆったりと笑い、
「生きてるみたいでしたよ」
と言った。青木は、意外なその答えに衝撃を受けたが、不思議とすんなり理解した。そして、この男に音楽を聴かせたのは、この言葉が聞きたかったからなのだと、にわかに思った。
「難しいことはわからないけど、かっこいいねぇ。何回も聴きました、倒れる前にね。私も歳だけれど、こんな風に生きなきゃならんと、そう思ったよ」
 峰松は優しい口調で、それでいて力強く言葉を紡いだ。聞いてるうちに、顔のシワの一つ一つが、木の年輪のように美しく折り重なっているように青木には見えた。そのガサついた声に、チェロを引っ掻いたような粗野な妖艶さを見出した。
 それからしばらく二人で話したのち、お大事に、と言って青木は立ち去ろうとした。青木が見えなくなる寸前、聞こえるか聞こえないかくらいの声量で、秋だねぇ、と峰松が呟いた。青木が峰松を振り返ると、彼はもう窓の外を眺めていた。空はもう薄暗く、夕日が半分ほど顔を沈めていた。セミと鈴虫の声がそこら中で聞こえる。病院の外に出た青木は空気を目一杯吸い込んだ。冷たい酸素が体内に染み込んだ。

 部屋に戻った青木は、改めて"Kind of Blue"を聴いてみることにした。貸したCDはそのまま峰松に上げてしまったので、帰りがけに新しいのを購入した。プレイヤーにセットして流してみると、何度も聞いたリズムが、旋律が、全く新しい音像を持って青木の脳内に入ってきた。
 ジャズは、命の音楽だった。ドラムとベースは緩急を持った心臓のうねりだった。自由に飛び回るアドリブ演奏は、飛び交う人々の叫びだった。音楽は、秩序と混沌のバランスの上で成り立っている。そして、それはそのまま、生きるということだと理解した。混沌を受け入れねばならない、そういったぼんやりとした、大きな壁を突きつけられた青木は、塞ぎ込みたい気分になった。自分が何年も心の奥に閉じ込めていたどす黒い情念が、再び動き出しているような気がした。一時間弱の全編が終了すると、青木は再び外気を吸いたくなって、部屋から飛び出した。

 何分歩いたのだろう。色々な考えが青木の頭を巡っては消えていった。気づけば、青木は大きな公園のベンチに座っていた。足元には、まだ若い銀杏の実が、幾つか転がっていた。ベンチの周りには何本ものイチョウの樹が立っている。それらは葉を黄色くして、季節の移り変わりを知らせているようだった。足元の銀杏を一つ踏み潰してみた。すると、忘れていた匂いとともに封印していた数々の記憶が青木の頭に溢れ出した。まるで、銀杏が脳内の鍵を全て破壊したようだった。
 もう十年以上も経っているのに、不思議なほど鮮明に、彼の目の前には清宮が現れた。青木も、十四歳の、いなたいだけの少年になった。青木は、何種類も彼女の表情を知っていた。だが、目の前の清宮は、教室で真正面から青木に向けたあの微笑みだけを見せていた。そして、ビニール袋を取り出して、銀杏の実を一つずつ、丁寧に集めた。潰れて中身が出たのも同様に、大事に袋に詰めた。その姿は、公園で遊ぶ少女そのものでありながら、我が子のために実を集める母のようでもあった。青木は一寸たりともその場を動かず、ただ少女を見ているだけだった。そして、あの日々のように、美しく可憐な清宮の表情をじっくりと観察した。その時が、永遠に続くように感じていた。青木の体はもうすでに彼のものではなかった。大きな抗えない力によって、青木も、清宮も、その場に存在させられていた。
 袋いっぱいに銀杏を集めた清宮は、満足したように、笑顔で青木の目を見た。青木はベンチから静かに立ち上がると、清宮の手を握った。脳内で思い描いていた、そのままの清宮の肌の感触だった。
「君が、僕の命だったんだ」
 青木は、十四年間閉じ込めていた言葉を、目の前の清宮に放った。清宮は、ゆっくりと頷いて、また微笑んだ。そして、だんだんと色を失っていった。青木は、そんな幻の中で、一気に掘り起こされた様々な感情を、一つ一つ整理しようと試みた。悲しみ、懐かしさ、喜び、愛、怒り、哀愁。どの言葉も、感情の要素としての表現には到底なり得なかった。清宮が消える寸前、妊婦の面影がちらついて、青木は感情を整理することを諦めた。そして、ただ泣いた。夜の公園で、二十八の青木は声をあげて泣いていた。木々のざわめきや、虫の鳴く音と、彼の嗚咽は重なり合って、乾いた空に染み込んで消えた。   
 木々の隙間から覗く満月は、銀杏と同じ色をしていた。

 時が経った。青木は、変わらずに部屋の中で日々を過ごしていた。清宮の幻影を見たことはあの日以来なかったが、心の奥にあった大きな氷が溶け出して、だんだんと川になって流れていくような、そんな気分であった。時間が経てばもっと風通しも良くなるだろう。人生に感じていた窮屈さはもうなくなっていた。
 峰松は無事退院したのだが、配達員の仕事は退職したらしい。スーパーで働き始めたので買い物がてら会いににきてくれ、と手紙で知らせてくれた。青木は、この老齢の友を大事にしようと思い、必ず行きます、と返事した。次は何のCDを渡そうか、とコレクションを眺めては、嬉しくなった。
 化学メーカーとの仕事も終わりの頃となっていた。青木の方では完成し、あとは小山を経て、社内での会議を通過すれば、長かったこの案件も無事終了となる。
 最後の小山との面会の日、いつものように業務内容について堅苦しい話し合いを終えると、青木は小山に尋ねてみた。
「小山さん、ジャズ聴きますか?」
 突然すぎる青木の質問に小山はうろたえつつも、すぐに愛想のいい顔に切り替えた。不器用な男がコミュニケーションを取ろうとしているのだな、と理解し、
「いえ。青木さんは聴くんですか?」
と、より明るい声色で返した。
「はい」
 青木はいたって真面目な表情だ。
「そうですか、ジャズを聴くなんて、おしゃれですね」
 小山はまた笑顔で返す。青木も少し笑ってから、席をたった。小山は最後まで不思議そうな顔をして青木を見ていたが、デザイナーは変な人多いしな、と思っただけだった。

 帰りがけ、青木はあの公園に来てみた。イチョウの樹の下で、子供達が駆け回っている。青木は一つ銀杏の実を拾って、道路に投げた。飛んで来た一羽の烏が、それをつまんで去っていった。

ハコ

ハコ

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-08-03

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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