偏り



 映像と音に加えて、風や振動などの体感に係る情報を処理して観られる4Dの映画は、確かに新しい映像の「世界」になるだろう。人の脳内で処理できる情報が増えた分、構築される空間は映画の世界と同時的な体感として錯覚でき、映画の人物として物語に飛び込むことができる。
 人の「世界」は人の身体によって成る。五官で得られる情報を処理した結果が、人の「世界」だからである。ここで一応五官、と記したが、聞く、見る、感じるなどの各感覚器から得られる情報のみでも人の「世界」は構築され、固有の意義を有する。例えば、触れてしか分からない「世界」がある。聴いて知れる「世界」がある。そこに優劣はない。
 空間芸術、と記してみて、これに括られる対象は幅広いと考える。空間芸術の肝となるものが、日常と異なるという評価を可能とする「雰囲気」であるとして、空間を構成する形、材質、色、照明、音楽、あるいはそこに常在するスタッフや利用客の振る舞いが先の「雰囲気」作りに寄与する。訪問者は、身体の感覚を通してこれらの構成要素から得られた情報を意味に至るまで解釈し、その空間に存在する「雰囲気」を認識し、そこに価値判断を下す。それが積極的なものなら、そこで有意義な時間を過ごせる。また、日常に立ち返る活力を得て、あるいはルーティンワークな日常の中で見過ごしていた良さに改めて気付けるきっかけを得る。思い込み易い脳内の「世界」に揺さぶりをかけ、日常から一時離脱した、と認識させてくれる空間芸術。この意味で捉えれば、映画館や高級レストラン、ブランドショップ、あるいは「雰囲気」の素敵な雑貨屋、遊園地、または手付かずの自然風景も空間芸術性を有するといえる。
 個人的な偏見かもしれないことを承知で記すと、空間芸術は現代アートを語る上で欠かせないように思う。街全体を使った作品など、取り扱う表現の要素が幅広く、体感できる形をその射程に入れている。アトラクションとして楽しめるものも少なくない。芸術、と記して抱かれる、心理的な忌避を伴う敷居の高さがない。人の体感により、現代アートで括られる作品は完成する。そのため、現代アートは最初から人が関われる事を想定しており、そのために空間が重要な要素となっている。そう思う。
 工芸品を例にとっても分かるように、日常に溶け込む芸術的価値は存在する。楽しめるアートは、その延長にあるともいえる。他のものと画される必要はないとも考えられる。
 しかしながら、先に記した通り、空間芸術の「非日常」性に再び焦点を当てるとき、『現代アート』という線引きについて考えることは、その良さを深掘りすることにならないか。そういう興味を抱く。
 筆者の中で、現代アートといえばボルタンスキー氏の作品が直ぐに浮かぶ。真夏日のうだるような暑さを突っ切って見ることができた氏の作品は、心理的にも冷えた体感を伴って、まざまざと思い出せる記憶となっている。
 恐らくは「鎮魂」をテーマとしていたその空間は、唖然とする程にシンプルで、空間を構成する各壁面に錆びの目立つアルミ缶が天井に迫らんとばかりに高く積まれていた。それぞれの缶には白黒のポートレイトが貼られてあり、各々が故人であるという認識をどうしても剥がせなかった。そんな空間を、暖色の強い灯りが照らしていた。光源である機器に工夫はない。角度と数にのみ、ボルタンスキー氏の意識が窺える。何かしらの音楽は小さくなっていたかもしれない。「かもしれない」というのも、記憶にあるその音楽が、空間に中てられた結果として自分勝手に捏造したものでない、といえる自信がないぐらい、「鎮魂」の空間にマッチして喚起されてしまうからである。お墓などに踏み入れるにあたり憶える、この場を荒らしてはいけないという畏怖の感覚がそこら中に満ちていた。サンダルで訪れたのを後悔した。パタパタと鳴ることがないよう、慎重に一歩一歩を踏みしめた。距離を置いて、見られる範囲の缶を見つめた(範囲外にある上段の缶の存在感は凄かった)。全体を見るには、もっと離れるしかない。離れると、そこかしこにある墓標のような缶の集合体が鎮座していた。引いた汗と対照的に、缶の墓標と筆者との間にあった、お互いの異物感は拭えなかった。
 その空間にあって、自分を合わせるしか無かった。そうして過ごして覚えた感覚が、作り替えられていると思えるものだった。浄化されたに近い、と書くと心理的な抵抗があるのだが、内心では「ピッタリくる表現」と納得してしまう。長く居たいのに、長く居てはいけないという二律背反な感情にギクシャクしながら、その場を後にした。ふわふわとした足取りを落ち着かせる気にはなれかった。
 ボルタンスキー氏の空間は意味深ではあっても奇抜ではなく、異形でもない。テクノロジーは有効に活用され、アトラクション的要素も垣間見える。貫かれているのは、読み解けるように存在するメッセージである。明々と照らす三つの画面に映された骨と、波間と、音には無言の主張が循環していた。統覚された氏の作品の雰囲気には、解読の欲を引き起こす核があった。そして影のように浮かぶ表現者の姿が四方の壁に反射していた。
 表現のイニシアチブを握るのは受け手である。よく言われるであろう、この一文が指し示すのは以下のことであると考える。すなわち、人は目の前にある対象をただ指示するにも、「それ」という意味を有する言動を取らなければならない。このように、言語の意味を通してしか世界を認識できない人の間で行われるやり取りはコミュニケーションの域を出ることが叶わない。その上で、送り手と受け手は異なる他人同士であるという、恐らくは今でも賛同を得られるであろうこの前提に立てば、送られた表現をいかに解釈し、いかなる価値を下すかについて受け手が自由に行える。その結果に対し、両者間で同意を得たり、誤解を正すための更なるやり取りが行われたりする。いずれにしろ、一度行われた発信は、受け手の解釈により形として収まった意味を有している。大袈裟にいえば、受け取って貰うことにより初めて表現は人の地に降り立つ。このことは、いかなる表現も例外でないと考える(誰かを殺すための表現が必殺だと考えている人物がいるとすれば、それは先の述べた前提が異なるのだろう。つまり、あいつもこいつも自分と同じ考え方、感じ方しかしない。だから、僕や私が恐れることは、あいつもこいつも恐れるに決まっているはず。だから、こう言えば必ず死ぬ。ああ言えば、もっと死ぬ。そう決まっている。それ以外はない。
 真実、そうなのかは知らない。筆者にとって、あの人もこの人も自分と違う考え方、感じ方をする他人でしかない。だから自身を一先ず留保し、どうなのかを想像する。こう記した時点で、先の人物と筆者は既に異なる価値観を有する「他人」同士である。これが正しいのかは知らない)。
 空間芸術は表現の範疇に属する。したがって、空間芸術もコミュニケーションの枠で捉えることが可能である。ボルタンスキー氏の各「作品」には、確かに氏が形にしたメッセージがあった。有名な遊園地では、創始者が描いた世界で通じるファンタジーな表現を受け取って、弾む童心と共に楽しめる。高級レストランやブランドショップでも同様であろう(ただし、そのメッセージ性は薄く引き延ばされると思われる。これらの店舗の目的に鑑みて、様々なお客に来店してもらうには個性を強烈に出すのは必ずしも相当といえない。反対に、一定数の顧客を長期かつ継続して囲い込むため、強烈な個性を植え付けるメッセージを発する場合も考えられる)。
 コミュニケーションは日常的に行われる。「非日常性」、ではどうして生まれるのか。
 現在、開催中の「ちゅうがえり」は表現者の頭の中に入ったとしかいえないパワーがあった。中央の装置だけでない、兎に角、そこにある全てを見るにはぐるぐる回り続けるしかない。個々の作品にある表現も、ぐるぐる回っている。巡り巡って繋がっている。内にも外にも、豊穣な何かが繁っている。明暗、生死、虚実に諸々、二項対立が並べられる。かかる対立がそのうちに崩される。太極図のように巡る頭と、筆者の身体が剥製のように対置できるエリアもあり、人工と自然を嫌でも意識させられた。一方で、知らない人の物語を読んで、受け取り、こうして記せる事実があった。伝承はこうして時間を越えるのか、と高尚めいた発想を胸に抱き、振り子の動きを見続けると、中央の装置を通って「色んな人が滑り、生まれていた」。そういう感想を押し付けられた、と失礼な思いを振り払い難い程に表現者の思想がそこに存在していた。襖に描かれた白黒の世界にまで、回るイメージがあった。どこまでも深く、深く染まる。それ以外の選択肢を忘れた。
 エンジンが違う、とまるでレーシングカーのような感想は、しかし時間が経った今でも首肯する筆者の感想になる。これも一つのコミュニケーションの形、送り手はどこまでも真摯だった。激しく息づいていた。踏み込まれるアクセルに唸るエンジンと、外れないブレーキ。パワーを感じるには十分だった。
 雰囲気は、鴻池朋子氏と対極にあるようなボルタンスキー氏の静穏な空間も、この点で実は変わらないと思い返せる。在り方は穏やかなのに、一歩も引かない表現者はエゴイスティックに写る。小さな子供達が楽しそうに走り回っても、空間は微塵も揺るがない。空間の各構成要素は淡々と役割を果たす。空間に表現が在り続ける。表現が空間に満ちている。この空間において、異物はただの異物でしかない。異物、という立ち位置を維持し続ける以上、異物に壊せる空間はない。
 見てもいない表現を解さない訪問者は、一先ず異物とならざるを得ない。訪問の目的通り、そこにアクセスしたいと望むなら、異物な衣を脱ぐしかない。空間にある音に聞き耳を立てたり、スペースを彷徨う。あるいは動くことを積極的に控える。
 表現者の影は揺るがない。そして拒絶しない。口を噤んで近付き、触れてみればその正体は銅像のように在る(かもしれない)。押しても引いてもびくともしない、地面にしっかりとした土台がある(かもしれない)。幽霊の、正体みたり枯れ尾花。なんだ、と残念がる(ことがあるかもしれない)。そうして、表現者の銅像に寄っ掛かり、表現者に成り代わって見える景色。体感という記憶。
 内部にある構成要素として働きかけた結果としてのそれは、エゴを超えた普遍に通じる。少なくとも、そこに成り立ったコミュニケーションはあるのだから。人として通じ合えた、そのやり取りの結末に芽生える価値がある。
 頭の中をそのまま取り出したような、現代アートという表現で形作られた作者の存在は、最も話しかけて来る情報と評価したい。強風をものともしない強情を備えているようであり、またのらりくらり、こちらの反論に対して柳に風な捉え所のなさを備えつつ、「作者」という人の形姿は、「日常」を一歩、二歩と踏み出た所に立っている。コミュニケーションの枠で捉え直せば、作り上げた空間を通し、「作者」は兎に角、話し続けている。受け手を信じて待っている、というとロマンチックに聞こえるかもしれない。しかし、そこにある熱は優しくない。エンジン音は大人しくない。そこに飛び込む受け手がいる。こうして記す誰かが居る。巻き込まれるパワー。
 現代アートの線引きは、ここに引いてみたい。懐に忍ばせた小刀をもって隙を突いてやろうという刺客のような心持ちをもって、現代アートを体験した筆者の、個人的な偏見として。



 

偏り

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  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-08-02

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