ぼくらのなつやすみ

 テクノも、ロックも、あまりきょうみはなかった。自然音、というものが、一種の音楽のジャンルとして存在するならば、ぼくはそれが好きで、たとえば、川の流れる音や、鳥の囀り、樹々の擦れる音、海の音、ときどき、山にこだまするなんらかの動物の声、きまぐれに、夜明けにきこえる、遠くの星がはじける音、などを好む。テレビのなかからきこえてくる音楽、だれかのつくった人工的ミュージック、そういうものがにがてというわけではないけれど、なんとなく、つかれてしまう感じ。
 きみが、ぼくのとなりで、映画のサントラをきいているときも、ぼくは、なんの映画のものだろう、と思うこともなく、ただ、いま、ぼくのとなりにいるきみが、好んできいている音であり、ぼくのきょうみのある音ではないという感覚で、本を読んでいる。きみは、雑誌を読んでいて、腕時計の雑誌、あたらしいものを買いたいと言っていたけれど、ほしいデザインと、機能が、みあわないのだとか。ようやく梅雨が明けるのだと、天気予報は伝えていて、ああ、また夏がくるのかとしみじみするほど、夏というものに思い入れもないけれど、こう、夏、という単語に、みょうな高揚感は、あって、でも、ぼくも、きみも、海水浴や、バーベキュー、花火大会よりも、家のなかでまったり、本を読んだり、映画を観たり、していたい、というタイプであり、つまりは、ぼくらは、ぼくらなりの、夏のたのしみというものがあるので、それでいいのだと思う。海を眺めるのは好きだし、肉もたべるし、花火も美しいと感じるのだけれど、それとこれとはべつもんだい、というか、そういうのってあるよなぁと考えているあいだに、きみが、いつのまにかキッチンに立ち、ハイボールをつくってる。八月一日。

ぼくらのなつやすみ

ぼくらのなつやすみ

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-08-01

CC BY-NC-ND
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