透朝にはらく思慕のみ

真空中

 雪の夜を明かして語り合う流れ者たちを、頭巾をかぶった女はぼんやりと眺めていた。暗がりを残した食堂にはランプの灯が心地よく燃え上がり、壁や床に人々の影を薄く伸ばして豊かに踊らせている。雪嵐に旅の足止めをくらい、港の宿場で暇を持て余した連中だ。かれらは、縁もゆかりもないはずの土地にまつわる噺を、思い思いに作り上げて聞かせているらしい。西の果ての平野、微かに残る亡国の気配、されどかつての興亡を明らかにする人はなく――自分こそが、その平野から来たのだと言ったら、どんな反応をするだろう。女は口の片端を歪め、しかし歪めるだけに留めた。
 一夜の夢語りだ。朝になれば、どうせ誰も覚えちゃいない。聞き流している分には愉快だったから、夕食後も漫然と居座っていたが――やがて誰かが「次は硬貨の話を」とせがみ始めたあたりから、女の胸は静かにざわつき始めた。腰に括った革袋が、ふと重くなったような気がして、女は苛立ちまぎれに指で卓子を打った。なんだか、いやなことを思い出しそうな気がする。熱気を帯びた食堂から逃れようと立ち上がり、そこで突然、わっと歓声が上がった。
 周囲がでたらめに拍手をして女を見上げている。視線が合う、合う、合う、四方八方がこっちを向き、その中の酔いどれが「おう、楽しみにしちょるぜ!」と叫んだ。何故だ。潰れとけ酔いどれ野郎。胡乱な目で周りを見渡す。一枚布の装束を纏う、事の始まりの男が薄く微笑み、女を指し示していた。
 貴様か。
 睥睨する女を、しかし逃してくれる気配もない。
「あんたの話は?」
「話す気はないよ」
「つれないことを」
「他をあたって、どうぞ」
「――案外、心当たりはあるんじゃないのかい」
 女は目を細めた。
「どうして?」
「訛りが西側だ。あの場所の名を?」
 問われて、咄嗟に腰元の革袋に指を這わせた。誰に話すこともないと思っていた、その土地の名を思い出したくなくて。指先には、硬い感触が、一枚と二つ。
 記憶の中に、青が一瞬、はためいた。
「……どうせ、誰も覚えちゃいない、皆死んだんだから」
「じゃあ、あんたが生き証人ってわけだ」
 絞り出すような女の言葉に、応える声は軽い。期待の込められた人々の眼差しに、女は呆然とした。――あくまで、かれらにとって、今この夜の物語は、余興に過ぎないのだ。雪嵐に潰された時間を代替する御伽噺。嘘も真もその場限りの流れ者たちに、いったい何を求めようというのだろう? 
 「厭なら、無理にとは言わんぜ」と酔いどれが言った。部屋の空気が鈍く流れる中、女の頭の片隅に、紺青の花嫁衣裳が翻った。数拍の逡巡の間に、遠い記憶の底から青の情景が広がっていく。凍てついた空気と冬の匂い、細く白い指が頬を撫ぜた気がした――アッカ、と名を呼ぶ、蜜のような声。
 胸に込み上げる郷愁とも悔悟ともつかぬ思いが、心臓を撫で上げ、ついに喉に届いた。
「……それは、太古の小国の一貨幣だ」
 気づけば、口を開いていた。しんと静まり返った食堂に、女のかそけき声が響き渡る。
「表には神より与えられし王国の紋章を、裏には代々の王の顔を刻んだ、ありふれた硬貨だ。今だって、あの西方辺境の土を掘り返せば、どこからだって出てくるだろう。だが、この世にたった一枚しかない、ただ一人のおんなの顔を彫ったものを、わたしは持っている」
 滔々と己の唇から謡われる言葉に、女自身が驚いていた。同時に、深く理解した――生涯胸に秘めておくものと思っていた秘密を、きっと誰かの記憶に留めていてほしかったのだと。
 あの娘のことを、他に語る者は、もう存在しないのだから。
「……硬貨に刻まれた、そのおんなは、ヌイと云った」




 ***


 ――ヌイを回想するとき、アッカは青の情景を連れて、風にはためく幾重もの薄紗を手さぐりに押し分けてゆくような心地がする。そのくせ、思い出せそうで思い出せず、香りは憶えているのに場所は忘れている、名前は此処に在るのに、その貌は見えない。紺青の花嫁衣裳を追って薄紗を払いのけると、手繰り寄せようとした記憶の姿は淡く消えてしまう。そのもどかしさに彷徨い歩き、迷い果てて我に返れば、アッカはもう後戻りできないくらいの深みにいる――一面の、青の原。四方を埋めるやわらかな布は、いくら掴もうとしても、最後には指先から擦り抜ける。冷たい風に追い立てられ、尖った草に嬲られながら、アッカは我武者羅におんなの姿を求める。そうして腕を伸ばしきった先、唐突に視界がひらけてしまうのだ。足が地面を失う。叫ぶ間もなく、躰が凍てつくような冷気の中に放り出される――そんなふうに。青は突然に落ちて来る。


 冬の早朝は、青だ。
 暖炉で赤く燃える火が弾ける。ぱちん。その他には熱源となるものも、灯りも無い。
 雪雲も、水差しも、窓から差し込む鈍い光も、どれもが青に支配されていた。まだ眠りから覚めきらない、濃い藍色の影がそこかしこに佇む部屋の真ん中で、アッカは凍える息を吐く。ここはあまりに寒かった。膚(はだ)に這う白い鱗を逆立てて、アッカは紫水晶の眸を厭わしげに眇めた。
 その眼前、 座るおんなの後ろ姿は、すべらかな膚をさらしている。
 何者をも寄せつけぬ氷の彫刻のような美しさがあり、花ひらく前の頑なで、それでいて蕾のなまめかしさがある――それは、青に浮かび上がる一葉の背である。結い上げた黒い髪束からこぼれた、後れ毛の影がうなじに伸びて、おんなの呼吸に合わせて静かに揺れていた。肌理細かい、薄青に染まった、やわはだ。正中から骨の僅かな隆起にしたがって濃藍の影が落ち、くびから腰まで、まろい曲線を描いている。おそらく息遣いが聞こえてしまいそうなほどに身を寄せれば、そのましろい躰から発される熱を感じることだろう、あるいは昨夜塗りこんだ香油の花の匂いを、微かに。
「……アッカ。はやく」
 躰の芯を震わせるような声が、アッカに命じた。
 アッカはのろのろと視線を上げて、おんなのくびもとをじっと見つめた。おんなはその一言を発したきり動こうとはしない。かち、かしっ。おんなの、手元の胡桃を弄ぶ音だけが響き渡る。アッカは言うことを聞くしかなかった。緩慢に、支度を始める。曇瓶から小皿へ、石から削った夜明けの色の粉を掬い取って、水で溶かす。砂を擦り加え、粘度を持ったそれに、己の薬指を撫ぜ入れる。何度か掻き混ぜたあと、アッカは染料のついた指を、おんなの背に向かって掲げた。
 おんなの膚に触れるとき、アッカはいつも、ひと呼吸、ふた呼吸、躊躇う。そうして息を詰めて、青を、白皙の膚に塗り込めてゆくのだ。僅かにざらつく泥濘の中に感じた人の熱は、いつも胸の奥がざわめかせて慣れない。指先に僅かばかりの魔力を込めて、胸中で呪いの言葉を吐く――おまえなんて――無論、おんなが知る由もない。
 とうとう指が離れたとき、その背には複雑な、ふるいことばと美しい花文様が描かれていた。婚前の娘を意味する青で飾った、魔除けの護り印である。王族にだけ伝えられる迷信じみた慣習を、おんなは毎朝、飽きもせずに続けていた。
 この役目を担うのに、自分ほど相応しくない者はあるまい。嗤う声は、胸の内に留めておく。
 染料が乾いてしまったことを確認して、アッカは素っ気なく言った。
「終わりました」
「……おまえはいつも、仕事が遅い」
 花文様を厚い衣に仕舞いこみながら、おんなはささめく。肩越し、薄く微笑む唇に紅を刷き、弓なりに細められた眸は深い森の色をしている。若く美しい、傲慢な王女。支配者の貌から目を逸らし、アッカは布で染料を拭い取る。痛くなるほどに擦っても尚、まだほの青く染まった指先が忌々しい。  
「お許しを」
 皮肉を込めて、慇懃にいらえた。
「人ならざる身ゆえ」
 縛める手枷の金鎖を鳴らしたアッカの、その本性は、いかづちを喰らう竜である。


 ***


 西方辺境、ローシェッダ。そこは貧しい土壌と剥き出しの岩壁、浅く生え忍ぶ苔の合間に、小さな農村が散る寂寞の平原である。雪こそ降らないものの、酷く凍える日は、霜が大地を白く染め上げた。アッカが人の身に貶められたのも、薄青い曇天が広がる初冬のことだった。
 ローシェッダ城塞の見廻り番たる老兵が慄然として指差した城壁下、その朝、銀の平原に眠っていたアッカは、突如現れた屈強な男たちに捕えられた。
 群がる数多の手は蛇のようだった。白息の塊を吐き出す口先を、金鎖で幾重にも縛り上げられた。薄らと黄味を帯びた白い鱗には無数の疵がつき、翼は兵士たちの脚に不恰好に押し潰されて飛ぶことが叶わない。成長した竜ならばその強力で跳ねのけることもできただろう。しかし岩に額づき、浅くみじかな呼吸を繰り返すアッカは、そのときまだ仔竜だった。恐怖に躰を縮めるアッカの視界に、城塞から走り来た黒馬の姿が入り込んだ。
「――竜が、墜ちたと聞いた」
 張り詰めた空気を震わせたのは、熟れきらない林檎のような若い声。花の刺繍が施された外套を纏った少女が、馬上から見下ろしていた。兵士たちがざわめき、一人が声を上げた。
「王女さま、斯様な場所に」
「笑わせてくれる。ついこないだまで村娘と蔑んでいたくせに」
 男たちに言い捨てて、少女はすとんと地に降り立った。はふ、と荒く息吐く仔竜を憮然とした顔で見遣り、鋭く問う。
「親竜は」
「いいえ、近くには……気性の荒い野生種です。群れからはぐれたか、迷ったか……野放しにしてはおけません。此処に棲みついて人を襲いかねませんし、親竜が追って来るなら、尚更良くない。いっそこのまま、と話しておりました」
 そう、と頷いた少女は、ゆるりと視線を巡らせ、萎縮する仔竜に薄くわらった。黒髪を振って兵士を見上げる。
「殺すの? 怯えている幼子を」
「危険ですから……」
「ならば、危険のままに置かなければいい。――角を折り、翼を削ぎなさい」
 命じた声は、冷え切った鉄の如く無情だった。は、と目を瞠った兵士に、少女は言葉を放る。
「この竜、わたくしが貰い受ける」
「しかし」
「彼らは力が弱ったとき、一番近くにいた生き物に姿を転じると聞く。只人にした上で従わせればいい。……少なくとも王宮では、抑止力になる」
 制止する声を無視して、少女は跪いた。深緑の眼が仔竜を見据える。どうする、やるのか、と言葉を交わし合う男たちを気にも留めず、少女は繊手を伸ばした。
 かり、と。仔竜の胸元の鱗を、薄く掻き、少女は声も無くささめいた。唇が僅か、震えるさまを、紫水晶は呆然と映す。
 一度結ばれた同じ唇が、仔竜の前で告げた。
「おやり」
 にわかに気配が変わった男たちに躰を竦め、仔竜は地を掻いて暴れた。男を振り払った鈎爪が勢いのまま少女の腕を引き裂き、そこで怒声が上がった。血のにおい。角を掴まれ、翼を無理矢理に広げられる。振り上げた尾すらも押さえ込まれて、恐怖に目を見開いた竜は咆哮し――そこへ刃が振り下ろされた。
 角は誇りを、翼は自由を表す。辱めを受けるくらいなら死を選ぶだろう竜の一族において、最も許し難い方法で命を救われた、これがアッカの、一番古い記憶であった。
 次に目覚めたときは、ご丁寧に手枷足枷付きで転がされていた。あのときほど誰かを殺してやりたいと思ったことはない。ありったけの激情を込めて睨みつけた竜の子に対し、少女は平然としている。答えがわかっている様子で、それでいてわざとらしく首傾げてみせた。
「生き長らえたのに、嬉しくないの? "アッカ"」
 おちびちゃん、と揶揄する言葉で、少女は竜を呼んだ。
「こん、なみじめな、おもい、するくら、いなら、しん、だ、ほうがまし、だっ、た」
 慣れない発音で竜の子は怒鳴る。少女は目を眇めてみせた。
「そうかしら。どんなに辛くたって生きてる方がましだと思うけれど」
 なんなら今ここで屠ってやろうか、と言わんばかりの眼光でアッカが見上げると、王女はちらりと笑った。
「気の毒だけど、諦めて。あたしが土神さまに嫁ぐまでは、あんたが必要なのよ。誰もあたしを蔑ろにしない、大きな力が」
 勝手な言い分にひどく腹が立って暴れたが、手足を痛めただけだった。アッカが転じてしまった躰は幼い子どものそれである。まじないのことばが刻まれた金の手枷を着けられる段に至り、アッカは逃げることを諦めた。非力な身には抗いようも無い拘束だった。
 側仕えとして召し抱えられた竜の子は、忍従と冷笑を覚えた。今にみていろ、とアッカは毒づく。じくじくと胸に膿む怨嗟を抱えながら、必ずや、いつか王女の寝首を掻いてやると誓って。


 しかし、罵倒混じりに吐き出したその決心は、他ならぬ王女に笑い飛ばされた。
「――あんたが殺す間もなく、あたしは殺されるのに!」
 拾われてから少しばかり季節が廻った、晩春の時分だった。緑の大地を一望できる見張り台から身を投げ出さんばかりに笑う少女に眉を顰め、アッカはやっと流暢に話せるようになった言葉に、棘を交えて叩きつけた。
「だって、おまえは王女だろう? 誰がおまえを殺すっていうんだ」
「アッカ、あんた、知らないのね。あたし死ぬのよ。この国は大地を統べる土神に依って建つの。そうして僅かな豊穣の見返りに、各代の王は、王家の血筋を引いた女を差し出す。祭壇を血で穢して、ようやく建国以来の約束が成り立って、国は永らえるの」
 王女は他に二人いて、どちらも正妃の娘だった。己が娘を差し出すことを厭った王は、近隣の村の女に子を産ませ、そうして生まれた彼女を贄に選んだ。一巡り前の春にいやいや城へ連れて来られた少女は、粗野な物言いと振る舞いを見咎められ、出自を理由に長らく冷遇されていたという。
 ひいひいと苦しげに笑っていた少女は、突然表情を変えると、くるりとアッカの方を向いた。
「ねえアッカ。あたしを哀れんでくれる?」
 少女の瑞々しくやわらかな指先が、薄い鱗がはりつくアッカの頬を撫ぜた。両の掌が耳の裏に挿し込まれ、すいと引き寄せられた。きら、きら。光に煌めく、けれどどこか歪んだ緑の眸が、紫水晶を覗き込む。
「生まれ育った村から無理矢理引き離されて、形だけの王女だって莫迦にされて、挙句使い捨てみたいに死ぬの。あたしの人生、たったそれっぽっちなのよ。踏み台にされて終わり。あんまりだと思わない……」
 呼吸の熱さえ感じられるほど間近に、その吐露を聞いた。アッカは一度眼を閉じ、きっぱりと言った。
「いやだ。哀れんでなんか、やらない」
 少女の指が、ぴくりと動く。
「おまえが可哀想なら、わたしだって可哀想だ。一生を奪われて此処に縛り付けられた。おまえのことは許さないし、同情なんて、絶対、絶対してなんかやらない」
 他人に哀れまれることで溜飲が下がるような人間じゃないだろう、と付け加えると、少女は弱気な表情が嘘のように、にやりと口角を上げた。
「あたし、あんたのそういうとこ好き」
「わたしはおまえのそういうところが嫌いだ」
 むっつりと返す。
 けらけらと笑う少女の、そのくせどこか泣きそうな貌から顔を反らして、アッカは目を瞑った。くだらない。


 王女の住居は、城塞の片隅に位置する忘れ去られたような修道院の、更に奥にあった。吹き曝しの組積造の家には老女が一人いて、昼夜を共にし、二人の身の回りを世話した。廃屋同然の家の周囲には痩せこけた数人の見張りが常に張り付き、「生贄」が逃げ出さぬように目を光らせていた。
 一日の大半を屋内で過ごす窮屈な生活だったが、その日々はアッカにとって予想していたほどに悪いものではなかった。少女は山羊の毛から糸を紡ぎ、気まぐれに書物を漁って、時折アッカを振り回す。老女は無口だったが、朝に少女の髪を梳き終わると、同じように柔らかな手つきでアッカの髪を梳いた。凍える夜には温かなスープを作り、たまの外出にも目を瞑ってくれた老女を、アッカは「嫌いではない」と思った。
 意外にも、王女は見張り付きという条件のもと、城下町との往来を許されていた――否、曲がりなりにも竜を連れた少女を、誰も咎められなかった。王宮の大人たちはアッカの本性が竜であると知るとこぞって引き剥がしにかかったが、アッカの転じた姿が王女よりも年下、更には少年というよりも少女めいた姿形であったこと、また「暴れると手が付けられなくなる野生種を飼い慣らした」と豪語する王女に、最後には畏怖の眼差しで遠巻きにするようになった。
 歩行も覚束なかったアッカの手を引いて歩き回った甲斐はあったらしく、今や修道院の外へ出た少女に近づこうとする者はいなかった。
「勝手なもんね、閉じ込めたり怖がったり」
 石畳を堂々と闊歩する王女は、不意にアッカの腕に細い指を絡めた。ひっつくな、とアッカは唸った。ただでさえ二足歩行は辛いのに、寄りかかられると転んでしまいそうだ。距離こそ離れているものの、付いてきた見張り番の鋭い視線が背中に突き刺さり、アッカは内心うへえと舌を出した。
「だいたい、どこ行くんだ、これ」
「……あんたの手が痛そうだから、飼い主からの御情けよ」
 すり、と王女の親指がアッカの手首をなぞり、アッカは小さな悲鳴を噛み殺した。――数か月前、無理矢理王宮の魔導士に付けられた金の枷は、重く擦れて、アッカの膚にひしめく硬い鱗を剥がしかけていた。ぎろりと睨みつけると、王女は肩を竦めてみせた。
「調整してもらうの。あんたには重いし、縁(ふち)を丸めてもらわなきゃ」
「誰に」
「……知り合い」
 アッカの薄青く染まった指を柔く包んで、王女は素っ気なく言った。その白い横顔を、アッカは不思議な思いで垣間見た。――自由を奪ったくせに気にかける。利用しているのに触れる手は優しい。不可解ないきものだ。少女の腕で跳ねる胡桃の鳴り物を視線で追ううち、鉄と炎の匂いがアッカの鼻先を掠めた。そのまま路地を縫うように歩いてゆくと、鉄を打つ音が聞こえてくる。
 街で一番古い鍛冶場である。男たちが躰から白い湯気を立てて働くさまを横目に、少女は工房へずかずかと入り込んだ。
「ここにいるって聞いたんだけど、どこ行ったんだか……」
「――ヌイ!」
 大人になりきらない少年の声が響いた。アッカが目を瞬かせる数瞬のうち、ふわりと香った汗の匂いと共に、鳶色の髪の少年が王女を抱き締めていた。細い腕は煤に汚れている。少女は嫌がるふうでもなく少年を抱きしめ返し、「エンデ」と切なく呼んだ。――そこで漸く、アッカは「王女様」や「小娘」「悪ガキ」と呼ばれていた少女の名前を知った。
「良かった、生きてた、ヌイ……」
 少年が嗚咽しながら呟く。
「……あんた、追っかけてきちゃったのね。細工師になるなら南へ出なけりゃいけないのに」
 見たこともないほど穏やかな少女の貌に、アッカはぎょっとして首を竦めた。聞けば、かつて同じ僻地の村で生まれ育った幼馴染なのだという。ヌイが攫われるように城塞へ連れてこられて、もともと出稼ぎに出る予定だったエンデは、彼女を追ってきたのだ、と。
「会えると思わなかったんだ。親方も誰も、何も教えてくれなくて」
「生贄の居場所なんて、誰も話したがらないに決まってるでしょう。あたしだって、同居してるばーさんが偶然教えてくれたってだけで、あんたが此処にいるなんて全然知らなかったもの」
 そうか、とエンデは頷き、後ろの見張りを盗み見ながら、声を潜めた。
「――逃げよう、ヌイ。村に戻ろう」
「戻ってどうするの」
「なんとか、なんとかするから、ヌイが死ななくていい方法を考える」
「……莫迦ね」
 ぺしんと少年の頭をはたき、ヌイは笑った。それ以上のことも、それ以下のことも、少女は言わなかった。「これなんとかして」と王女は顎先でアッカを示し、エンデは鱗におおわれたアッカをまじまじと見つめ、漸く異形の姿に気が付いたかのように「ぎゃあ」と叫んだ。


 枷の調整のために幾度か鍛冶場へ通ううち、エンデは「智慧の友」とアッカを呼ぶようになった。心の込められた敬称に、アッカは胸の空く思いがした。珍しい石を採るために山に分け入ることが多い職業柄、他の種族に対する礼儀を叩きまれた少年は、共にいて決して不快な存在ではなかった。三人で話す間に、笑声が混じることもある。雑談を交えながら軽くなっていく枷と共に、ゆるゆると敵意が解けていった――ふと「おかしい」とアッカは思った。
(何故わたしは、この生活を快いと感じている?)
 目の前で笑う少女のことが、憎くてたまらなかったはずだ。思わず己の頬に指先を伸ばせば、口元が静かに綻んでいる。活気に溢れた会話は、まるで普通の子どもたちのようだ。
(――どうして)
 胸に刺さる違和感を自覚し始めた頃、共に暮らしていた老女が肺を病み、明くる年の春に亡くなった。死を悼む間もなく、少女は居を王宮へ移すこととなった。
「……せめて、最後に一度、エンデに会わせて」
 王女の願いは聞き入れられなかった。慇懃無礼な兵士が少女とアッカの腕を掴み、王宮へと引き摺って行った。
 そして、そこから本当の幽閉生活が始まった。


 ***


 
 王宮の一部屋に閉じ込められて、数年が経った。
 身支度を終えた王女は、簡単な朝食を摂った後、本を片手に机に向かった。もう何度同じ本を読み返しているのだろう、とアッカは思う。しかし、他に暇を潰す娯楽がないのだから仕方がない。二人きりの部屋に、頁を繰る音が寂しく響く。
 王女は、今やあどけなさも幼さも薄らぎ、ひとりのおんなになった。灰色の衣服に身を包み、机に向かう姿は、婚前の娘というよりはむしろ修道女のようだ。アッカは、鱗を纏った躰だけは王女と同じように成長したが、己の中身はまるきり変わっていないような心地になる。
(こんなにも落ち着いて――死を定め付けられた日を、待てるというのか)
 土神との婚姻の日が、迫りつつあった。
 豪奢な衣装を纏った王と司祭が部屋を訪れたことは記憶に新しい。王は「服従を」と言った。司祭は「信仰を」と宣った。そのどちらもを、アッカが吼えて追い出した。王女は静かな貌をして沈黙を貫き、司祭の持ってきた教典を暖炉にぶち込んだだけだった。
 婚姻の日取りも、衣装の支度も、何もかもが整っていく。それが至極当然のことであるかのように。
 ――このおんなが死んだら、わたしは自由になるんだろうか。
 ふと胸に込み上げた疑問を、竜は声もなく飲み下した。
「……アッカ。街へ行ってきて」
 書物を置いて、不意に王女が言った。目で問うと、おんなは「エンデに」と短く答える。差し出されたのは、触れれば今にも折れてしまいそうなほど儚い金細工の髪飾りだった。先日召使が届けにきたものだ。
「受け取れないから、エンデに返してきてほしい。それから、かつて親しかったとはいえ、もう手紙や物は送って来るなと伝えて」
「いいのか」
「あたしはじきにいなくなる身だもの」
 おんなは何でもないことのように肩を竦める。託された髪飾りを見下ろし、アッカは口を引き結んだ。折に触れて手紙を寄越す細工師は、しかし一度だって、ヌイを攫いに来ようとはしない。
「……厭だと言ったら?」
 アッカが金細工を弄びながら目を眇めると、おんなは眉間に皺を寄せた。
「アッカ」
「――おまえの物分かりの良さそうな貌が、心底気に食わない」
 言い捨てて、身を翻す。遠い昔の王女なら罵声や哄笑の一つでも飛んできそうなものだったが、今は追いかける声すらなく、それが無性に苛立たしかった。


 王宮の廊下のあちこちから突き刺さる畏怖と嫌悪の眼差しをやり過ごし、アッカは城の裏門からそっと抜け出した。気持ちの良い朝だった。空は青く晴れわたっている。枯れた葡萄の蔦が這う坂道を駈け下り、人で賑わう朝市を避け、路地を辿る。
 通い慣れた鍛冶場の門を開け、アッカは工房の奥へと向かった。熱気あふれる表とは異なり、しんと静寂が満ちた部屋である。
 真剣な眼差しで作業台にかじりつく青年を見つけ、声をかけると、鳶色の頭がぱっと上がった。透き通るような青い眼が、アッカの姿を捉えるや否や嬉しそうに細められる。
「やあ! 久しぶりだね、智慧の友」
「わたしをそう呼んでくれるのはおまえだけだよ、エンデ。久しいね」
 立ち上がった青年――エンデと握手を交わし、アッカは薄らと微笑んだ。エンデは笑みを浮かべながら、けれど眉尻を下げて呟く。
「君が来たということは、今回も駄目だったっていうことかな」
「ご想像の通り。……もう、手紙も物も送ってくれるなと言っていた」
 布に包んだ髪飾りを机に置くと、青年は悲しげに笑う。
「婚姻まであと一ヶ月も無いから、何かヌイの心の慰めになればいいと思ったんだけど」
「……手紙は、読んでるようだった」
 そうか、と微苦笑を浮かべる青年が、少なからずおんなを想っていることは気づいていたが、アッカはあえて知らないふりをした。エンデはもう、だいぶ前から、「ヌイを助ける」とは言わなくなっていた。――手紙や贈り物だって偽善の塊だ、と吐き捨てる自分がいる。故に、彼に慰めの言葉は、かけない。
「――ところで、何を彫っていたんだ?」
 話題を変えようと、作業台を覗き込む。ああ、と頷いた青年は、頬を掻いた。
「噂の主さ。……鋳造の意匠を任されることになって。案を考えるために、何枚か真っ新なのを親方からもらってね。練習にひとつ彫ったんだ」
 細かな屑をはらったあと、ほら、と見せられたのは一枚の硬貨だった。ローシェッダの地にも多い樹木ユゲルの特徴的な葉に、細やかな星の印章。引っくり返せば、そこには見覚えのあるおんなの、まだ今より年若い頃の横顔が刻まれている。結い上げた髪に花冠、大ぶりな耳環は、古代の女王の姿を真似たのだろう。緻密な彫りには息を呑むような繊細さがあった。
「あのおんなが、ってところは気に喰わないけど、綺麗だ」
 思わず声に出すと、エンデはしばらく沈黙したのち、ねえ、とアッカに硬貨を差し出した。
「……持っててもらえないかい、君に。もう持ってくるなって言われたし、このまま捨てるにも、しのびないや」
「――わたしが?」
 何故、とエンデを見ると、青年は穏やかにアッカを見返した。
「いつか、目の前にある今が、何もかも思い出にしかならないときが、来るだろうから」
 懐古するような声音は、昔、村で二人笑い合っていた頃を思い出していたのかもしれない。
 厭な空気だ、とアッカは思った。世のすべてを憎み、嘲笑っていた王女も、村から遥々少女を追ってきた少年も、最早此処にはいない。本心を口に出すこと諦めた、物分かりのいいふりをした人間が、ふたりいるだけだ。
 何が変わってしまったのだろう。どうやって折り合いをつけて生きる――あるいは死んでいく? 竜は硬貨を握り込んだ。変わらないのは、わたしだけなのか。
「……エンデ」
 名を呼んだ。見返す青い眸は凪いでいた。何かを言おうとして、アッカは止めた。
 ヌイが王宮へ連れ去られてから、エンデは何度も面会を申し込んだが、一度も許されることはなかった。何年も前に会ったきりの娘の顔を思い出しながら、硬貨を彫り上げたエンデの心情に思いを巡らす。きっとこれが、彼の精一杯なのだと思った。
「一応、貰っておく」
 かろうじて絞り出したアッカの言葉に青年は微笑み、それが二人の最後の邂逅となった。


 ***


 “その日”が近づくにつれ、ますます寒さはつのり、冬は嶮しさを増していく。
 壁一面を大きく切り取った窓から、白い光が射し込んでいる。衣擦れの音だけが響く衣裳部屋の片隅に、アッカは立っていた。間近に控えた婚姻の衣裳合わせだという。
 針子の娘は言葉少なで、暇を持て余したアッカの視線は、変貌を遂げていく花嫁に向かった。
 かしり、かちっと片手で胡桃を弄ぶおんなに、花嫁衣裳はいっそ憎らしいほどよく似合った。藍色の地に金糸と銀糸、そして淡紅色の糸で刺繍した花模様、美しい編み細工で縁取った頭巾に宝石を散りばめた帯、華やかな耳環と首飾り。窓から差し込む白い光も相まって、清らかな美しさに胸が痛くなる。――くだらないと嘲笑いたくなる衝動か、誰よりも綺麗に着飾ったおんなへの羨望か、あるいはこのおんなを娶る土神に対する嫉妬か。喉奥に微か、燻った感情を、そのまま飲み下した。近頃どうにも、人に近しくなり過ぎていけない。
 静謐とした空気の中、けぶるような睫毛を伏せて佇むおんなを見つめながら、アッカは、彼女がまだ少女であったときを思う。
 城塞に入ったばかりの頃に出会ったのは、国の守り神たる土神に畏怖と信仰を抱く権力者ばかりだった。己が生活を護るために必死な連中をみて、抑止力、という言葉を思い返した。妾腹の生まれ、後見も無かった少女にとっては、智慧の生きものたる竜を従えるということは、形だけにせよ、大きな意義を持っていたのだ。アッカにとっては多大なる迷惑でしかなかったが。
 護り印の仕事を任せられた初めての朝のことは、鮮烈に憶えている。
 明けきらぬ薄青にひかる背中を無、防備にさらけ出しているのだ。急かされ、何もしないと宥められて、言われるまま、絹地のような滑らかな肌にひとすくいを塗り込めた。そのあとすぐ、狼狽した己の様子が伝わってしまいそうになって、たまらず凛と伸びた背から指を離した。
 ――あのとき、惰性の憎しみだけではない感情が、混ざった気がして、そこからアッカは、竜の純粋な心を保てなくなった。その感情は時々にかたちを変え、その本質は今でもよくわからない。ただ、時折どうしようもなく苛立ったり、悲しくてたまらなくなったりする。竜であった頃は、感情ひとつに揺さぶられることなどなかったし、そんな出来事もなかった。自分は変わってしまったのだ、という事実がすとんと胸に落ちてきて、アッカは小さく嘆息する。
 ふと視線に気づいて顔を上げれば、いつの間にかこちらを見ていたおんなと目がかち合った。
 ねえ、と先んじて声をかけてきたのはおんなの方だった。
「あたし、綺麗?」
「……死に装束にしては華美な服だな」
「こんなときくらい、褒めてくれたっていいのに」
「こんなときだからこそ、贈る言葉などないんだ」
 死出の旅を喜ぶ者は多くない。鼻を鳴らすと、おんなは少し躊躇った後、言葉を紡いだ。
「あたしがいなくなったら、あんた、寂しい?」
「さあな。エンデあたりは泣くんじゃないか」
「あんたのことを聞いてるのよ」
「寂しくないと言ったら?」
 アッカは無造作に言葉を返した。
「――そしたら、あたし、悲しいわね。きっと」
 おんなから零れた言葉は、雨滴のようだった。瞠目するアッカの前で、おんなは頭巾を取り去って諦めたように笑った。


 その夜、アッカは珍しく、おんなの部屋に引き留められた。寝台に身を横たえて肘を付くおんなに、いったい何の用だと胡乱な目を向けると、おんなは猫でも招くような気軽さで言う。
「おいで、温石」
「わたしを温石の代わりにするな!」
 色めいた雰囲気や謀りごとの気配など微塵も無い。こちらを見つめてくる眸はあんまりに真っ直ぐで、アッカは無性にうしろめたくなった。
 なよなよと振られる繊手に、騙されるな、とアッカは食い下がる。
「絶対、いや」
「城の外に放られるのと、どっちがいい? 極寒でしょうけど」
 この時期に夜通し外で過ごしたら、竜の躰ならともかくとして、人の身であれば間違いなく凍え死ぬ。
「……無茶苦茶だ」
「嫁入り前の最後の頼みよ。だから」
 無言で歩み寄ってきたアッカに、おんなは微かに笑って、場所を空けた。
 渋々寝台に片膝を付き、頬を膨らませる。――ふうっ。蝋燭の炎が揺らめいて消える。
 そうっと躰を滑り込ませた先、与えられたのは、なまあたたかい暗闇だった。
 黒一色の世界に、ほのか、甘く香る。慣れぬ人膚の熱が居心地悪く、密やかに呼吸する娘の吐息を近くに感じてぎょっとする。緊張に強張った躰は、けれど静かな呼吸音を繰り返し聞くうちに、ゆるゆると力が抜けていった。
 巣のようだ、と思った。あったかくて、安心してしまいそうだ。深い闇に身を委ね、揺蕩っているような心地がする――目を閉じかけたアッカの意識を、おんなのささめきが、そろりと掬い上げた。
「……眠ってしまった?」
「……何だ」
 暗闇に言葉を放る。隣の熱が、僅かに身じろぎした。
「あんたとこうして寝るの、初めてね」
「世間話なら断る」
 身を捩って背を向ける。寝直そうと目を瞑ったアッカの背に、こつり、と額がくっついた。
「――ちがうの。こわいわ、アッカ。死ぬのがこわい」
 囁きは、闇に溶けなかった。
 アッカは目を開けたまま、動かなくなる。
「王宮の人たちは大嫌いだけど、街の人たちも、村も、好き。寒くたって、生活が苦しくたって、春にはいっぱい花が咲いて、夏は青い空がどこまでも広がって、秋には収穫の人たちが畑を賑やかにして。いとしいと思う。失くしたくない。でもね、でも、こわい。こわくてたまらない」
 堰を切ったように、ほろほろとおんなの言葉が零れていく。
「納得しなけりゃって言い聞かせてた。だってあたし、そのために生まれたんだもの。だけど、近頃は夜になるとそのことばかり考えてる」
 こわい、と。繰り返すおんなに、アッカはかけるべき言葉を知らなかった。こわくない、大丈夫だ。それが、この死を定められたおんなに対して、いったい何の慰めになる。
 零れたのは、いかにも自分らしからぬ科白だった。
「……逃げてしまおうか、一緒に」
 後ろで、おんなの喉が、細く鳴った。
「逃げて、遠くへ。そしたら、おまえは自由だ。村へ帰るなりなんなりすればいい。国のことなんて知らない。自分のことだけ考えてればいい」
 あるいは、エンデと添い遂げたって。その言葉は呑みこんだけれど、ちくりと胸を刺した。
 ――逃げようか。半ば本気で、アッカは言っていた。
 長い沈黙の果て、驚いた、とおんなが呟いた。
「あんた、そんなこと言えたのね」
 嫌われてるかと思ってた、という言葉を「情だ」とアッカは切り捨てる。
「嫌いだよ、おまえのことなんか。……心底嫌い。けど、優しくすることはできるから」
 おんなの泣き笑う気配がした。
 くぐもったような声の「ありがとう」に耳を塞ぎたくなる。アッカはこれからのことを暫し考え、なあ、とおんなに呼びかけた。


 ***


 雪が降る夜だった。
 明日に迫った婚姻の儀式で慌ただしい王宮の裏門で、アッカは二頭の馬を傍らに、外套を纏い立ち尽くしていた。エンデからもらった硬貨を弄び、ちり、ちりと繰り返しなぞる――誰が思い出になどするものか。そうして、時間を潰していた。
 やがて人気のない閑散とした広場に、さくり、と雪を踏み拉く音が響いた。
「アッカ」
 呼ぶ声はおんなのもの。アッカは振り返り、けれど長衣を羽織っただけのおんなを認めると、諦めたように目を伏せた。
「……逃げる気なら、それなりの支度をして来いと言った。行かないのか」
「――行かない。行かないわ、アッカ。決めたの。あたしはこの国を見捨てられない。だから、いい」
 透る声が痛々しい。けれどおんなの覚悟した眼差しは揺らがなかった。呆れ半分に白い息を吐いて、アッカは踵を返す。こうなったら、最後まで付き合おうと思った。おんなの前まで歩くと、硬貨を持った手を差し出そうとする。エンデが刻んだこの一枚を、一度、おんなに見せなければならないと思ったのだ。
 しかし、その腕は、横から伸びてきた男の手に捕えられた。なに、と悲鳴を上げることも叶わず、口を押さえつけられ、両脇を固められる。現れた男は三人、この国の出自でないことは自ずと知れた。
「……!」
「行くのはあんただけ」
 驚きと混乱に身を捩るアッカの前で、おんなの目が優しく細められた。いつかと同じようにアッカの頬に触れ、おんなは久方振りに、アッカのよく知る悪戯めいた笑みを浮かべた。
「あたしがいなくなったら、きっと父はあんたを疎んじる。あんたはあたしに一番近かったから。だから、その前に――さよならよ」
 意味がわからない。暴れる躰は力任せに押さえつけられ、いつかと同じように息荒く王女を見上げながら、アッカは必死に言葉を紡ごうとする。ずる、と引き摺られて、長靴の踵が地を擦った。
「……いったい、いつまでそうして、厚い面をかぶった気でいるつもりだ! ヌイ!」
 腹底からどす黒い怒りが込み上げる。力が全身に滾り、己を雁字搦めにしていた男の腕が、たじろいだように緩んだ――頬から離れようとしていた指に、アッカは牙を剥き出しにして噛み付いた。
 真っ白な雪の上に、赤い血が勢いよく散る。
 おんなの人差し指がぶらりと垂れた。痛みに顔を歪めたおんなが、ふと凄絶に嗤って、残された手でアッカの頬を強かに打った。口の中の粘膜が切れる。呻くアッカの唇に、生温かい親指が触れた。
 手に滴る血で、おんなが竜の唇に紅を刷く。
 ヌイはうっそりと笑った。
「――ああ、あんたに名前呼ばれるの初めてね、アッカ。そうよ、あんたの言う通りよ。厚い面かぶってやり過ごして、そうしてあたし一人がいなくなれば済むと、思ってた」
 でもね、と王女は続けた。
「あんたは憶えてて。忘れることは許さない。あんただけは、あたしの記憶に苦しめられてほしい。……もし、少しでも、あたしに情があるのなら」
 連れておいき、とおんなが言った。猿轡を噛まされる。何度も、何度も竜は抗ったが、男たちは今度こそびくともせず、裏門から外へアッカを引き摺り出した。
 最後にみたおんなは笑っていた。
「大事なもの、あんたに返すわ。アッカ」
 そのとき、おんなに何を叫びたかったのか、自分でもわからない。ただ、どろりとした憎しみが腹の底から込み上げ、硬く握りしめた掌のうち、人ならざる力に金属が歪む音がした。
 それきりだった。


 ***


 行先も知らされずに幌馬車に放られ、そのまま数十日旅した。男たちは異国の傭兵のようで、食事や水は与えられたが四六時中見張られ、逃げることはできなかった。
 やがてアッカは南の街、ある屋敷の前で一抱えの袋と共に降ろされた。
 迎え入れたのは魔術師の老爺で、どういうことだと詰め寄るアッカを丁重にもてなした上で、話し始めた。
「西方辺境の旅の折、立ち寄った村で知り合った御縁から、王女さまより手紙を頂きました。人ならぬ身の娘を保護してほしいと。自分は彼の地を離れることができないが、その本性のために、あるいは己との関係のために、いつか厭われるだろう彼女を守ってほしいと、そう手紙で仰っていました」
 だいぶ無茶をされたようですが、と襤褸布のような姿のアッカを見て、老爺は苦笑する。
「……あのおんなは。どうなったのですか」
 項垂れたアッカの問いに、老爺は数拍の間のあと、わからない、と答えた。
「――わからない?」
「あの国はね、智慧の友。一月も前に、滅んでしまったのですよ」
 喉が震える。アッカは思わず顔を上げた。
 曰く、その日、儀式は途中までは順調に進んでいたのだそうだ。ところがいざ生贄を捧げようとすると、どうしても傷をつけられない。慌てふためく人々に業を煮やした土神は怒り、ローシェッダの大半を汚濁に沈めてしまって、城塞も、山も、村も失われたのだと。 
 命からがら逃げ出した旅人から、伝え聞いた報せである。 
 小国とはいえ、ひとつの国が滅んだ事実にさまざまな憶測や伝聞が飛び交った。王女の生死は知れなかった。王女は土神に攫われたとも、あるいは勇気ある男と逃げ果せたとも伝えられる。
 ただ一つ言えるのは、傷をつけられなかった王女には、何らかの守護があったのだろうと。
 何も言えなくなったアッカに、老爺はそっと手を伸べた。
「――あの方が、私に届けてくださいました。これは、自分には分不相応なものだから、貴方に会ったなら、どうか返して欲しいと。……後生大事持っておられたようで」
 掌に置かれたのは、黒ずんだふたつの胡桃だった。人膚よりも温かい。
 胡桃を弄ぶ白い指を思い出して刹那、喉が小さく鳴る。
「ああ」
 動揺を自覚しながら、呟いた。
「ああ、あの、いつも手すさびに鳴らしていた胡桃……でも、それがどうして」
「よく見れば、入れ物になっているのですよ。少し捻れば、開きます」
 老爺の指が、胡桃の殻の境をなぞる。
「大事なものなのではありませんか。あの方にとっても。貴方にとっても」
 そんなもの無かった、と言いかけた唇は、しかし脳裏にひらめいたひとつの予感に、言葉を飲み込んだ。
 胡桃はふたつ。掌に感じる奇妙な熱。
 どく、どくと早鐘のように打ち始めた心臓の音に共鳴するように、耳奥が鼓動する。
 胡桃を、アッカは指先でとらえた。じとり汗ばむ手で、ゆっくりと一方の殻を回す。小さな音と共に、呆気なく、開いてしまう。
 かつて失った、己の一部がそこに在った。
「わたしの、角」


 躰の奥を、あのほっそりとした指先が撫ぜたような気がした。アッカ。ただ一言己を呼んだ、いたわるような、いとしむような、声。


 理解しがたい感覚が、苦味のように喉元にせり上がる。
 開けたもうひとつには、翼の欠片が入っていた。
 ――ヌイ。 
 たくさんの疑問と、声にならない感情に狼狽して、自分がどんな顔をしているかもわからないまま、老爺を見上げる。
 老爺は静かにアッカを見返し、手枷の鍵を机上に示した。


 ***


(――遠い、記憶の水底)


 かち、かしっ。


(それは胡桃を擦る音だ)


 ねえ、アッカ、はやくはやく。


(少女が強請る。冬の青に背中をさらして、頑是ない子供を装って)


 かちっ。


(あのとき、仔竜の鱗を掻いて少女は言った。一生、残ればいい――あんたがあたしの疵になればいい、と)


 アッカ。


(ならば、と仔竜だった子どもは牙を剥き出しにする。わたしから誇り高い死を奪ったおまえには)


「おまえには呪いを与えよう。――どんなに無様だろうが這い蹲って泥を啜ろうが、その惨めな生に縋って生き続ければいい」




(初稿 2015/11,「宿語りのシーガル」寄稿、改稿 2020/8/1)

透朝にはらく思慕のみ

透朝にはらく思慕のみ

  • 小説
  • 短編
  • 青年向け
更新日
登録日 2020-08-01

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted