久慈高原

草也

久慈高原


 一度見に行き、3日程考えて決めた。久慈高原の中腹の介護付きの施設だ。60人ほどが暮らしていて7割は女性だという。66歳の男は若い方らしい。
 男の部屋は4階建ての3階だ。一人には充分な10畳程の1Kにバスとトイレがつく。天然温泉の大浴場がある。系列の病院と介護会社も近くにある。
 契約時に700万の一時金が要る。経費は月額22万、男の月収は17万だから差額の5万は貯蓄から切り崩す。寿命を90歳として計算した。
 自宅は、とりあえずはそのままにして、庭の手入れは業者に任せる事にした。
 引っ越しは全て業者に一任したが、いとも簡単にすんだ。収納家具が3つ。ソファ。一揃いの寝具。洗濯機、冷蔵庫、ラジオとテレビ。そして最低限の台所用品とわずかな衣類だけだ。業者の小型車を先導して、携帯電話を持って車で向かった。4時間程で、驚くほど簡便に男は異郷の施設の住人になった。

 盛夏のその日の夕刻。施設の手入れの行き届いた花壇に、森から渡る風に吹かれて、あの女がいた。男が小説で書き続けているあの女そのものの女だ。男は幽玄を見る様に女を見つめた。すると、不意に、女が顔を上げた。初めての挨拶の破顔からこぼれる歯が真っ白だ。半開きのぽってりと紅い唇。結われている烏髪が肩に乱れた。男に応えて女は倫子と名乗り、67歳だと言った。

 男の生活は何も変わらないのか、劇的に変化したのか、男は朦朧として判然としない。
 5時に起床して、大抵は2枚ほど書く。8時に朝食に向かう。女が席を確保して待っている。食事が済むと女は絵を描く。短歌をたしなむ。男の執筆は4枚ほど書くと、殆ど昼前に終える。それ以上は満ち足りた充足感が拒否をする。昼はコーヒーをたて甘いものを少し食べる。
午後は庭や館内を天候や体調と協議しながら歩く。ストレッチ教室や句会もある。女との時間や気分が合えば、時おり二人でドライブに出て自然の移ろいに浸る。気に入った店でコーヒーを飲む。ひいきの共同浴場につかる事もある。集尿器を着けてから排尿の心配はなくなった。 その事は女も知っている。早い夕食を済ませると、一人の時間と決めていた。
 そうして、穏やかに、瞬く間に1年が過ぎた。これ迄に書きためたものを整理すると、3冊の小説集と評論随筆集と詩集、句集の3冊になるほどだ。自家製本をするかとも考えた。しかし、そんな事で、今更、顕在化したところでなんの意味があるのか。男は否定した。
 いつの頃からか、書けば書くほど空疎になるのを、男は実感していた。そして、もはや全てを書き尽くしたと、男は悟った。確かにあの女の存在は重要だとも思えた。だが、女は自身を名状に肯定し、確固とした意味と価値を与えて生きていくのだろう。二人は互いに厳粛な個体の存在として、歴程を創り、それぞれが、早晩、終焉を迎え様としているのだ。だったら、その尊厳こそを守るべきではないか、と男は考えた。だから、何れにしても、真空の余生などは、もうこれ以上は要らないのではないかと、男は痛切に思った。

 盛夏のある日の午後、数日前から男の様子に怪訝を感じていた女が、ふと胸騒ぎを覚えて、男の部屋をもどかしげにノックした。


ー倫子ー

 男との1年が何と充足していた事か、倫子はつくづくと思い知った。そして、それを直截に伝えていなかった事を悔やんだ。倫子は一目で男の虜になったのだ。射ぬくような目、意志の強さを示す口元、なによりも男が漂わせる無頼な空気に魅了された。それでいて時おりみせる知的な表情も好きだった。この、流浪しているのであろう男の魂は何処に漂着しようとしているのか。毎日の著述に何を求めているのか、女は知る術もなかったが、男が時おり醸す危険な香りにも敏感だった。そして女は、男の徒然に寄り添いながら、自身の変化を感じていた。男といる事で、もっと大きな変化がたち現れるのではないかという、言い知れぬ予感もあった。
高原に移っても女の暮らしは何一つ変わらない。最早、そう遠くない時に、終の住み処と定めたこの山麓に埋もれていくのだ。幾人かの係累の死も既に漠漠とし、そして、女はただひとりなのである。今さら女のところに留まるような男ではないと思えた。しかし、女は、今この時こそ、自らの感性を信じようと思った。男を失ってはならない。男とは結ばれる縁なのだ、という激しい啓示に包まれるのだ。だから、この愛しい男とすべてを分かち合いたいと願った。

 ドアが開いた。平生の男がそこにいた。倫子がすがり付いた。


ー終ー

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