心理世界の守役《エンシェント》 ―パイロット版―
雨が、降っていた。
蕭々と、けれど、どこまでも冷酷に。
その中で、彼はただ立ち尽くしていた。体は冷え切っていて、すでに芯から温もりを奪われている。
(どうして、おまえが……)
心の中で、悄然と呟く。
目の前には、雨に濡れた墓石があった。
そこには、『須藤美月』と一人の女性の名が刻まれてある。
「わたしは、おまえを守り切れなかった」
悔しくて、悔しくて、彼は下唇を噛み締めた。
じわり、と滲んだ血の味など気にならない。
「わたしは、どうしたら――」
もう遅いとは、分かっている。
彼は、あの時、彼女を守れなかった。自分の身を捨てることさえ、彼はできなかったのだ。
今さら、彼女にいくら謝っても、悔やんでも、どうにもならない。
不意に、横にいた少女が声をかけてきた。
「ねぇ、まだ?」
その声はまだあどけなくて、彼の悲しみなど理解していないかのよう。
けれど、彼は知っている。
この少女が、外見ほどに幼くはないことを。
そして、彼の絶望の瞬間を共に目の当たりにした彼女は、今、一刻も早く彼の期待に応えようとしているのだと。
「……ああ、行こう」
最後に、生涯で愛したただ一人の女性の墓に、静かに視線を落とす。
名残惜しくても、今は、この場に留まることはできないのだ。留まっていては、世界は、何も進まないから。
「行ってくるよ、美月」
一度目を伏せてから、力強く告げる。
「おまえを、救ってみせるよ」
ただそのためだけに、彼は立ち上がる。
もう、涙は捨てると決めたから。
一人の女性を救うために、一人の己を捨てると覚悟したから。
だから、
「出陣だ、弥生」
須藤一志は、強く歩き出した。
この道は間違っていないのだと、信じて。
「で、おまえはまだ起きてないのか?」
峰冬弥は、電話越しに呆れた口調でそう聞いた。
対する通話相手は、こう返してくる。
「そう、私はまだ眠ってるの。だから、私が起きた時に食べるチョコ、買ってきて?」
さすがに、ため息をつかざるを得なかった。
午後一時、冬弥は彼女がまだ寝ているかどうかを確かめるために、携帯電話で連絡をとった。
だが、返ってきた答えは『寝ている』というもので、挙句にはこの始末である。
確認するように、問う。
「眠っているのに、電話でチョコを買ってきてくれと頼むのか?」
「もちろん。起きた時に、必要だもの」
さらりと答えが返ってきた。
何とも身勝手である。これが居候の態度だろうか――そう思うけれど、冬弥は渋々と頼みを飲む。
「分かった。もう少しで帰るから、ちゃんと起きててくれな?」
「うん。ありがと」
会話はそれで終わり、ぷつりと通話が切れた。
耳から話した携帯電話の画面に、通話記録が表示されている。ちょうど一分。だからどうと言うわけではないが、会話の内容を思い出して、ついでに彼女の顔も思い出して、冬弥はくすりと笑んだ。
「帰るか」
学校の廊下、一人小さく呟いて、カバンを取りに行った。
それから数十分ほどの時間が経って。
峰冬弥は、ソファの前で苦笑していた。
(起きてないじゃないか……)
お気に入りの黒いソファの上で、少女が一人、すやすやと穏やかに眠っている。
シャツに白と青の縞模様のパンツという格好は、女子として品に欠けるとは思うが、これといって嫌らしさは感じない。
そんな恰好をした、たかが一二歳の少女の姿に性衝動を突き動かされるのは、まず人としてどうかと思うが。
「杏実、」
寝転がった少女の小さな肩に、手をやって、軽く揺する。
「ほら、早く起きろ」
次第に力を強めていって、さほど経たないうちに杏実は細く目を開いた。
寝ぼけ眼が、瞳を揺らしてこちらを見てくる。
「ん、帰ったの?」
目覚めるや、その一声。
思わず、冬弥はため息をついた。
「今日は土曜だから、補修だって言っただろ? 覚えてないか?」
「……知らない」
本当なら、午後一時なんて時間に電話をかけたということからでも、ちゃんと思い出していてほしかったのだが、こう来るのであれば、過ぎたことは仕方がない。
せっかく今日は午前中で終わったのだし、特にこれ以上、追求する気はなかった。
「まあ、いいさ。それより、チョコ買ってきたけど、もう食べるか?」
机に置いた買い物袋に寄りながら、買ってきたことを教えると、杏実はむくりと起き上がって寝ぼけ眼を手でこする。
それから、一つ、小さなあくびをしてから、杏実はソファから降りた。
「ちょうだい?」
すっと、手を差し出してくる。
机が小さいので、座っていた冬弥は、その手に板チョコを一つ乗せてやった。
「それでよかったか?」
早速、箱と包みを開け始めた杏実に、冬弥は聞く。
杏実は、外見通り適当で気分屋だ。服装なんてものはほとんど関心をもっていないし、寝る時も好きな時に寝て、好きな時に起きる。そんな不規則な生活は、けれど彼女にとって、一番いいものらしい。どうせ本人の述べたことだけれど。
「いい。ありがと」
それだけ答えて、杏実は剥き出しのチョコを一口齧る。
パキン、と音が鳴って、チョコの板が割れた。
「そうか。なら、よかった」
いつもチョコを買ってきてほしいとは頼まれるが、特に文句を言われた試しはない。こうして確認しているのは、ただ、冬弥が何となくしておきたいからだ。
やがて半分ほどを杏実が食べ終えたとき、ふと彼女の髪に気が付く。
(そういえば、髪切ってなかったな)
どれくらいだろう、杏実と同居するようになってから、すでに半年ほどは過ぎているけれど、彼女の髪をちゃんと店に行って整えたのは確か最初の頃だけだった。今はその頃に比べて、だいぶ伸びているし、そろそろ行くべきなのかもしれない。
「杏実、この後は用事はないから、おまえの髪を切りに行こう。いいか?」
少しの間、チョコを齧る口を止め、呆けたようにしていたけれど、小さく答えてくれる。
「……うん」
その頷きだけで、冬弥は嬉しさを身に染みて感じる。
今は、もうこれだけの会話ができるのだから。
杏実と初めて出会ったのは、暗い路地裏だった。
彼女はひどく混乱していて、視点すら覚束なくて、がくがくと震えていた。
たまたまそんな少女を目にして、冬弥は、彼女を助けるべきだと何より先に思った。それは考えるなんてものではなくて、ただ彼の直感だったのだろう。
しばらくは彼女を家に置いていたが、当然、ずっとその状態であってはいけないと考えた。けれど、どこに報告するにも、彼女は冬弥に縋り、頼んできたのだ。
――ここに置いてほしい、と。
本当は、それはいけないことだろう。まして一人暮らしをしている冬弥は、親に心配もかけたくないから、問題を起こすわけにはいかない。ただそれが分かっていながらも、冬弥は彼女の頼みを拒めなかった。
そんな時だった。
ある日、一人の男が訪ねてきた。その男は、傍らに小さな少女を寄せていて、こう言ってきた。
――少女を渡せ、と。
冬弥は、その時のことは今でも鮮烈に覚えている。そして、その後に起こった信じられない状況も。
そう、あの日、冬弥の運命は確かに変わったのだ。
そして、一人の少女と歩む羽目になって。
あまりに重すぎるものを、抱えるようになった。
(たぶん、おまえの方が苦しいんだろうけどな……)
冬弥は知っている。分かっている。
たとえほんの少しでも、あの少女の苦しみを。あの少女が抱えているものの、重さを。
それに比べたら、冬弥の苦しみなんて、重さなんて、小さいものかもしれない。
だから、彼は思うのだ。
冬弥には、少女がいる。いや、彼の運命の中では、少女しかいない。なら、それはきっと、彼女だって同じなのだろう。彼女にも、彼しかいないはずだ。だったら、誰がそんな彼女のことを分かってあげられる? 苦しみを分かち合ってあげられる?
そんなものは、ただの一人しかいない。
そう、
峰冬弥、たった一人だけしか。
「おれだけ、な」
ぽつり呟いて、冬弥は右腕にある時計を見た。
午後三時。そろそろ、杏実の方も終わっている頃だろう。
早く迎えに行ってあげなければ、後で何を買わされるか分かったものではない。
それもまた、いい関係だとも思うけれど。
「よし」
膝を叩いて、ベンチから立ち上がる。
髪を切ったり色々と整えたりする店は、慣れないから好きではない。だからこうして他の店で時間を潰していたわけだが、
(それにしても、何て言うかな)
杏実には何も言わず、こっそりと店を出てきた。
果たしてどんな言い訳をしようか。
それを考えながら、冬弥は歩き出した。
「アイスクリーム。チョコ味がいいな?」
じと目でそんなことを言われて、仕方なく、冬弥はアイスクリームを買う羽目になっていた。
どうやら、杏実は冬弥が想像していた以上に、ご立腹のようだった。肩よりも長く伸びていた髪が、数十分後には綺麗に整った栗毛のショートヘアに変わっていたのに「似合ってる。可愛いよ」などと言ったのが、どうしてかさらに癇に障ったらしい。先に姿を晦ましていた件に加え、よく分からないがそれも含めて、彼女は怒っているようだ。
「えと、はい」
買ってきたチョコ味のアイスクリームを手渡すや、杏実は無言で受け取り、ぺろりと舐める。
不意に、杏実の怒り顔が崩れた。
急に目を恍惚とさせ、夢中でアイスクリームを舐め続ける。
(そりゃ、うまいだろうな……)
何せ、この夏真っ盛りだ。外で食うアイスクリームとなれば、とてもおいしいに違いない。
どうせなら自分の分も買いたかったのだが、生憎、冬弥の懐事情はそうよろしくない。自分の分ぐらいは節約しなければいけないのだ。
「機嫌、直してくれたか?」
そう聞くと、杏実が唐突に口の動きを止めた。
それから、ちらと視線だけでこちらを見てきて、間も置かずにふんっとそっぽを向いてしまう。
(まだなのか)
いったいいつになったら、機嫌を直してくれるのか。
そんなことを気にしていると、ふと杏実の口元に気付く。
アイスクリームが付いていた。口の端付近に、ちょっとだけ。
足を止めているとはいえ、人の往来の中で(今は少ないけれど)放っておくわけにはいかないだろう。
「杏実」
冬弥はゆっくりと手を伸ばすと、
「――っ!?」
どうしてか驚いている杏実を無視して、口元についていた液体を手で拭った。
それを自分の口元に持っていき、小さく舐める。
「どうした?」
不意に唇をわななかせて、信じられないという表情で見てくる杏実に、冬弥は何とはなしに聞いた。
(む、何か、また怒らせるようなことしたか?)
咄嗟に、そんな考えが浮かぶ。
もしそうだったら、また何か買わされる羽目になるのか、と考えていると、
「冬弥、あなた、私のこと何だと思ってるの……?」
よく分からない質問をされた。
何だと、と聞かれれば、少し答えづらいのだけれど。
「契約者、か?」
以前、杏実とは一つの契約を交わした。
それは、彼の運命を変えた契約だ。そして、彼と彼女を繋いだ、ただ一つの、大事な契約だ。
「そう……間違っては、ない」
不承不承といった様子で返され、どこか釈然としない。
要は何が言いたかったのか、それが気になるけれど――
あまりに唐突に、冬弥の視界は失われた。
ただ目覚めたその瞬間には、先ほどまであった人の往来はない。
真っ赤な彼岸花が、辺りを染めていた。
「……っ!」
冬弥は、息を飲む。
隣を見れば、杏実が立っていた。ただし、さっきまで持っていたはずのアイスクリームはどこにもない。
一度、辺りを見回した。
(これは……)
いきなり、一変した世界。
この唐突さに、冬弥は身に覚えがある。以前にも、同じ状況を、体験していた。
「杏実、」
彼女の名を呼んで、状況を確認しようとするが、
それより先に、男の声がかけられた。
「君が、峰冬弥。そして、そこの少女が、『トツカノツルギ』の守役か」
重く、沈んだ声。まるで深い悲しみを帯びているように、悲哀の重さに満ちていた。
「なら、わたしは告げよう。罪深き、君たちに」
冬弥は、ただ真剣に聞いた。
「『トツカノツルギ』を、わたしに渡したまえ」
その言葉に、静かにため息を漏らす。
返す言葉は、決まっていた。
ようやく、街に着いた。
案外広いもので、人通りもそれなりに多く、賑わいでいる場所である。
(ここに、いるのだな)
目的の少年が。そして、目的の少女が。
「かずしー、まだぁ?」
不意に、一人の少女が背伸びをして顔を覗き込んできた。
一志は、その少女の頭を優しく、愛おしそうに撫でてやる。
「もう少し。もう少しだ」
きっと、この街のどこかに二人がいるはずだ。
二人を見つけ次第、彼は即座に手を打つと決めている。もう、我慢は散々してきた。刻限は、すぐそこにまで近づいてきているのだ。彼の大願を叶えるための、刻限は――
「ねえねえ、あれじゃないの? ねえ?」
「ん?」
一志は、少女に促された方向を振り向く。
そこには、二人の少年少女が立っていた。少女の背丈は、少年の胸元ほどまでとずいぶんと小さいが、もしかしたら、恋人同士なのかもしれない。身長の差はあれども、それは殊更関係はないのだから。
と、一志はそこで、一つのことに気が付く。
(あれは……)
二人に、見覚えがあった。
それは見紛うはずもなく、確かに、彼の知っている二人だ。
今、向かい側の通りでアイスクリームを食べている少女と、それを見ている少年、その二人こそ、一志の探していた二人だった。
「見つけた」
嬉しさのあまり、思わず呟く。
無意識下のそれは気にせず、一志は、見事二人を見つけてくれた少女に、指示をした。
「弥生、『心理世界』を築きなさい。二人を、入れるんだ」
「うん、分かった!」
嬉しそうに頷いて、少女がふっと目を閉じる。
それを確認して、一志は口元をつい緩ませた。ようやく、二人を見つけられたのである。長かった。二人の情報を手に入れて、嘘に騙されて、何度も何度も各地を回って二人を探し続けた。それが、やっと今になって、実を結んだのだ。これを喜ばずにいられようか。
もうすぐで、弥生が心理世界を構築し終えるはずだ。そうすれば、あの二人を取り逃すことはない。確実に、目的の『モノ』を手に入れられる。
(あと、少しで……)
と、不意に視界が消え失せた。
次の瞬間には、今までとまったく違う景色が現れる。
見慣れた彼岸花だった。
いったい、この景色を何度見て来たろう。弥生の築く、心理世界という名の別世界。彼女の心象風景が反映されたこの世界は、言い尽くせぬほどに、本当に綺麗だ。
(いた)
少し先で、目的の二人が視線を巡らせて辺りを確認している。
そろそろ、向こうもこちらの存在に気付くだろう。
だから、一志は先に声をかける。
「君が、峰冬弥。そして、そこの少女が、『トツカノツルギ』の守役か」
少年の方が咄嗟に振り向いて、射抜くほどの視線で見つめてきた。
それで、心のうちの確信がさらに強くなる。
間違いなく、この二人が一志の追い求めてきた二人だ。
「なら、わたしは告げよう。罪深き、君たちに」
語る言葉など、何一つない。
ただ純粋に、ただ単純に、
「『トツカノツルギ』を、わたしに渡したまえ」
その『神具』を、奪うだけだ。
「無理だ。渡せない」
これぐらいのことは、たぶん、向こうも分かっているはずだろう。
だから、あえて、こうして言葉にすることで、明確に敵対の意思を見せる。
きっと、その方がいいだろうから。『神具』を求めてきた相手と分かり合えないことは、いつものことだと分かっているから。
「先に聞いておきたい。あんたは、『WAO』の人間か? それとも、『SPO』の人間か?」
どっちにしても、要求は飲めないのだが。
『WAO』は世界各地に点在する守役と呼ばれる少女たちが持っている『神具』を破壊して回る組織のことだ。対する『SPO』は、『神具』を保護する組織のことである。そして『神具』とは、この別世界で使うことのできる『神の力に等しい武器』のことを言う。
そしてその一つ『トツカノツルギ』を、『心理世界』を築くことのできる能力を持った少女たちの中でも、代々『神具』を継承してきた守役の一人、杏実が持っているのだ。
男が、答える。
「君には、関係はない。渡さないのであれば、わたしは全力で『トツカノツルギ』を奪い取るまでだ」
どんな事情があるかは知らない、どうしてそんなにも『神具』を求めているのかは、分からない。
だが、それを聞いたところで、この男とは分かり合えないだろう。
今まで、何人かの人たちが『神具』を求めてやってきた。その理由は、本当に様々だった、力をほしがっていた人、見たこともない『神具』の効果に期待を寄せ、何かの願望を叶えようとする人。きっと、この男もそのどちらかなのだろう。
ただ今まで出会った人たちと違うのは、『トツカノツルギ』を持っていると知っていること。
『神具』を持っている可能性がある人物は、案外、噂で広まりやすい。大体はそれを頼りに来るのだが、この男だけは、違っている。今までの彼らとは違う何かのために、全力で、『神具』を手に入れようとしている。もしかしたら話し合えば分かり合えるかもしれないと思うけれど、たぶん、それは無理だろう。
男の気持ちは、すでに決まっているらしい。
殺意の込められた瞳には、どんな言葉も通用しないだろう。
だったら、冬弥がするべきことは一つだ。
守る。
全力で来るというなら、全力で守る――ただそれだけの話だ。
「分かった。もう、何も言わない。ただ、一つだけ言っておく」
気持ちを変え、表情を変え。
冬弥は、真摯に、相手を迎え入れる。
「容赦はしない」
それが、開幕の合図だった。
一志は、苦戦していた。
思いの外、彼――冬弥は『介呪』にも長けていたのだ。
深層意識を具現化したようなこの世界は、言い変えれば、思念、思いだけで作られた意識の世界だ。そして、この彼岸花の咲き乱れる世界は弥生の世界に他ならない。
そこに自らの意識を強引に侵入させれば、自分が思い描いた事象を引き起こすことができる。ただそれは容易ではなくて、『言葉』を利用して意識を固めなければ、大体はできない。『介呪』とは、この世界でのみ使える魔術のようなものだ。それを上手く使って争うのが、この世界での戦い方だ。
「くっ」
一志は忌々しげに、呻く。
『介呪』を使ってこの世界で生み出せる炎や雷、そういったものは、たとえこの世界自体が別世界だとしても、肉体的には物理的にダメージを受けてしまう。本物の肉体を、この空間に移しているからだ。つまり、ここで死ねば、紛れもなく、それは現実での死を意味している。
そして、一志は右の肩を負傷していた。少年――冬弥の行使した、『介呪』によってである。
(どうする……)
右手は、もう使えない。先ほど喰らった電撃で作られた矢に撃ち抜かれ、まともに動かすことすら儘ならないのだ。
それに比べ、少年はやや息を荒くはしているが、一志ほど大きな傷は負っていない。この一撃差が、二人の力の距離なのかもしれなかった。
「あんたは、何で『神具』を欲しがるんだ……『トツガノツルギ』を使って、何がしたい?」
冬弥が問うてきた。
だが、それは彼には関係ない。そんなことは、あくまで、一志だけの事情なのだ。
「君にわたしのことは、関係はないと言ったはずだ」
地に着けていた膝を、ゆっくりと上げる。
休憩などしている暇はない。一刻も早く、目の前にいる守役から『トツガノツルギ』を奪わないといけないのだ。
「もしかしたら、話し合えるかもしれない。力になれるなら、おれと杏実は協力する。だから、」
「……君に、命をかけてまで守りたい、大事な人はいるか?」
一志は、一言一句、噛み締めるようにそう聞いた。
冬弥は、わずかに驚いたような顔をしていたが、すぐに答える。
「ああ、いる」
そうか、とだけ一志は答えた。
いるならいるで、それでいい。一志にとって最も大事な人は、もういないのだ。最愛の彼女は、彼のせいで、死んでしまった。こんな気持ちを、今も大事な人がいる彼が知る必要などない。
「なら、君は守ればいい。君の、大事な人を」
一志は、今は亡き大事な人のために戦っている。
『神具』を、ただ追い求めている。
それに、誰かが同情する必要はないのだ。相手にどんな事情があっても、どんなに守りたい人がいても、それをすべて薙ぎ払うのが、戦いである。守れなかったら、それは他の誰でもない、自分のせいなのだ。
だから、戦場で語ることなど、何一つない。
戦って、勝って。
ただそれが、すべてなのだ。
「いくぞ」
一志はそれだけを言い、『介呪』を使う。
そのための祝詞を、言葉に浮かせて。
「汝の罪に、我が罪を捧げん」
考えることなど、迷うことなど、今となっては一つもないだろう。
すべては、ただ大事な人のためだけに。
「罪を纏いし火焔は、罪を焼く炎に。我が手に与えられし罪は、ただ炎になりて、すべての罪を焼き尽くさん」
頭に描くは、巨大な炎。それが徐々に収縮し、やがて一つの剣となる。
その剣は、頭上に浮かび、諸刃の炎刃にて罪を裁く。
前に出していた左の手の平を、ぐっと、強く握った。
「落ちよ、炎禍の鉄槌」
瞬間、目を向ければ、頭上にある巨大な赤い剣が、その切っ先を冬弥たちに向けていた。
これが、一志の全身全力の一撃だ。『介呪』は、想像以上に体力を使う。たかが一〇回近くしか使っていないのに、疲労はピークに陥るのだ。そして、この一撃は彼が残りの力すべてを振り絞って作った、彼が使える中で一番強力な『介呪』である。
たとえ、これを防いでも無傷ではいられないだろう。
と、その時。
不意に、眩い光が目に入る。
(あれ、は)
冬弥が、少女を抱き寄せ、その胸元から、何かをゆっくりと引き抜いていた。
それは、光でできた剣にも見える。
(まさか……)
見たことはないが、聞いたことがあった。
『神具』は、守役の体から取り出すのだと。その『神具』を生み出すのは守役だが、それを扱うのは、『神具』によって自由な意識を使えない守役では無理なのだと。
「『トツカノ、ツルギ』」
話には聞いていた。
ただ、その『神具』があるということしか、知らなかった。
自分が奪うべきものだということすら忘れ、ただ、その美しさに目を奪われる。
そして。
炎禍の鉄槌が弾かれたように、二人へ突き進んだ瞬間、
光の剣を抜き終えた彼は、赤い業火の刃を、
音もなく、斬り裂いた。
午後五時である。
街の賑わいは、この時間になっても特に変わることはなく、どちらかと言うと、ますます人通りが多くなっていた。
『現実』に戻った冬弥は、ふと隣を振り向く。そこには、ポップキャンディを咥えたむくれっ面の杏実がいて。
「まだ、機嫌直してくれないか?」
アイスクリームは、実は地面に落ちていた。『心理世界』には、その世界を作った人物が目に見える範囲内で特定したものを入れられるが、たぶん、あの男の傍にいた少女は、アイスクリームまでは特定しなかったのだろう。
そういうわけで、別に冬弥が悪いわけでもないのに、彼は機嫌を損ねた杏実にキャンディを買う羽目になったのだ。
「……まだ」
そっぽを向いてしまう杏実に、冬弥は小さくため息をつく。
それから、右腕の時計を見て、声をかけた。
「そろそろ、帰るか」
まだ時間はあるけれど、今は、この後も遊んでいられるような気分ではない。
それは杏実も同じだったのだろう、すぐに頷いてくれた。
(これで、いいんだ)
冬弥は、守りたいものを守れた。
そこに間違いなんてあるはずがない。
そのことだけは、
きっとこれからも、間違ってはいないはずなのだ。
守りたいから、戦う。
戦って、守らないといけないのだから。
左肩から右脇腹まで、血の滲んだ傷が一線、刻まれていた。
それは確かに刻まれた敗北の証。
だが、致命傷となるほどには、深くはなかった。
(負けた……)
完敗だった。力の差も、人としての強さの差も、歴然としてそこにあった。
(勝ったというのに、殺さない、とは)
『神具』――『トツカノツルギ』の力は、圧倒的だった。
『すべてを斬る』武器だと、噂では聞いていたが、それがそのまま本当であったことは、驚愕に値するものだ。初めから使っていれば、無駄に苦労することなく楽に勝てただろうに――そんなことを思うが、今となっては、もうどうでもいいことである。
戦場で、一志は敗北けたのだ。
それは、本来、死と等しい。
そして、『トツカノツルギ』を手に入れられないと分かったことは、二度目の絶望だ。
最愛の人のために、二度の絶望を見る。そんなことは、彼女が死ぬまでは、一度足りとも考えていなかった。
(美月――)
もう何年も前の話だ。能力者である弥生と出会った一志は、ただ平凡だった運命を、一変させられた。それからは、同じ能力者と何度も戦い、戦い、勝ち続けてきた。
だが、一度だけ、敗れたことがある。
それは、力のぶつかり合いによる敗北ではない。最も大事に思っていた女性を、殺されたのだ。
『心理世界』は、まるで夢のような世界だ。異能の力を従えて、戦うことができる。ただ彼が失念していたことは、『心理世界』を作り出したものが特定すれば、その世界に能力者以外の人物も入れられるという点だった。
異能の力を使える世界での戦いで、誰かを守りながら戦うのは、ひどく難しい。
そして、一志はたった一人のかけがえのない女性を失った。
戦いには勝利しても、ただ一つの大事なものを失くしたのだ。
それから数年後、見知らぬある人物と出会った。その男は、死人を蘇らせる術を知っていると、明言してきた。ただそのためには、『トツガノツルギ』を持ってきて欲しいとも。
死人を生き返らせる『介呪』があることは、知っていた。だが、今まで、その足がかりさえ見つけられなかった。だから、その男の言葉に従い、『トツガノツルギ』を奪い取ることにした。守役の深層意識を深く支配している『神具』を、複製することはできない。一志には、強引に奪うしか手段がなかった。
「その結果が、これか」
彼岸花が、かすかに揺れる。
弥生と出会ってから、この景色を何度も見てきた。
本当に綺麗な、この景色を。
「かずし? 死んじゃうの?」
弥生が、心配そうに聞いてくる。その声は、震えていた。
「おまえは、まだ、わたしといたいか?」
弥生と初めて会ってから、もう何年になるだろう。
弥生は、どんなときでも、いつもついてきてくれた。たぶん、彼女にとって父親のような存在である、一志に。
「うん」
弥生の涙が、頬に落ちた。
彼女の膝に乗せた頭を少し動かすと、その滴が、まるで一志の涙のように流れる。
「そうか」
弥生は、まだ一三歳にも満ちていない。
そんな彼女の人生は、本来なら、もっと楽しく、華やかなものだったはずだ。
彼女に、特別な力さえなければ。
「わたしは、もう、終わりにしたい」
また、戦いに身を投げることも。
誰かを、傷つけるのも。
だからいっそのこと、この命を終わらせて、せめて彼女のところに行きたい。
これで、現実から、別れたいのだ。
「じゃあ、私も、私も、」
慌てて口を開いた弥生の唇に、そっと指を当てる。
「駄目だ。おまえは、ちゃんと生きなさい」
ここで終わるのは、一人だけでいい。
まだ幼い弥生まで、巻き込む必要はない。
つと、涙を溢れさせた弥生に、そっと柔らかく微笑む。
「すまないな……でも、おまえには、生きていてほしいんだ。幸せになってほしいんだよ」
涙の勢いを弱くして、弥生が声を落とす。
「私……っく……かずしが、いないと……」
「大丈夫、おまえは、強い子だよ。わたしの、自慢の娘なんだから」
弱々しく手を伸ばして、小さな頭を撫でてやる。
それでも弥生は泣き止まなかったけれど、構わずに、言った。
「『心理世界』を、崩壊させてくれ」
その言葉に、泣きながらも、こくりと頷いてくれる。
やがて周囲から瓦礫が崩れるような音が聞こえ始めて、視界に映る天頂付近に、罅が入る。
「ああ――」
最後に、ただ一つだけ呟いて。
「大好きだよ、美月、弥生」
崩れ落ちる世界の中、
かすかに、彼岸花だけが揺れた。
心理世界の守役《エンシェント》 ―パイロット版―