偽謝
時間がたつにつれて、それは、偽りに変わっていくんです
冷めた煮物を口に運ぶ
変わった洋風の魚料理も口に運ぶ
食材のセンスはいい
けれども足りないのは私の腕だろうか
ああ、間違いない
こんなものを人に出すなんてどうかしてる
こんな不味い料理を食べる側になってみたら申し訳なく思えてしまう
変わらない『ありがとう』と『美味しい』という言葉は
どこか私にとっては風化してしまった何かにしか感じなかった
ありがとう、その言葉を……いや、その言葉は数を重ねれば重ねるほど、意味が薄れるのだ。どれだけ、ありがたいと思っていても、何十と繰り返せば、それは、ただの挨拶に、文句に過ぎなくなるのだ。
一人の時間が増えたわけでも、孤独(ひとり)の時間を費やす時間が増えたわけでもない。
ただ、自ら他人と離れ私は、自作自演の孤独というものに酔うようになっていた。貴重な独り時間というわけでもないのだが、敢えて他人といるのが普通な時間の中で、一人になる。その余計な孤独が、自分に「孤独」と納得させるいい機会で――
言ってしまえば、私は表面的に可哀想な人間でも、本当の意味での孤独な人間でもない。孤独でもないのに、孤独を愛しているのだ。
街の喧騒を、他人と居る煩わしさを、人といると密接に関わるその余計なことに嫌気がさして、私という人間は孤独に魅入られた。
さぞかし、偽りのその孤独というのは、幻想が故にとても輝いていて、とても居心地が良いのだ。それそのはずだ。それは幻想であって、現などではなく、現実ではなくて、自ずが生み出した作りものに過ぎないのだから。
人はいつだって、自分の理想を優先し、そして、都合のよい部分だけを凝視し、大事なリアルから目を逸らし、そしていつだって実物を見ずに過大な評価を与え、同じ失敗を繰り返しては、反省をせず、ただその時は、あの時はと彼が悪いだの彼女の所為だと他人に責任を要求するのだ。
何が言いたいのか、少し、脱線気味になってしまったが、要するに、他人のことなどどうでもいいのだ。
自分のために何かしてもらっても、どうでもよいのだ。
だから、感謝の言葉をいつしか記号的に使ってしまうのだ。
だから、私は孤独を望み、そしていつまでも好いているのだ。
偽謝