神の見えざる手(人を恋うる心の物語)
「ね、やっぱ聞いちゃおうよ。ねっ?」
言い出しっぺの円香(まどか)がちょっと声をひそめる。
気だるいいつもの放課後。
「だよねぇ。本人に聞くのが一番よね」
「うん。ぜぇったい聞くべき」
有紀(ゆうき)も由美も興味に声が弾んでいる。
「あっ、来たっ。美乃里(みのり)ぃ、こっちこっち。早くぅ」
「あ、ミッチ。カァマ~ン」
「ハリアップ」
3人で一斉に学食のすみに呼ぶ。
「ど~したの?なんか、瞳キラッキラよぉ?」
言いながら彼女の顔も何となく輝いて、みんなの期待の対象が何の話か、薄々分かっているようだ。
「もう、正直に言っちゃって。バス停のあの人なんなのよ?いっしょに乗ってったの見ちゃった。2回も」
円香(まどか)のいきなりの大攻勢に、美乃里(みのり)はちょっとひるんだけどニコニコ顔はくずさない。
「あはは、やっだぁ…円香は探偵に向いてるんじゃ?将来は興信所の女社長だね」
「ミッチぃ、おしゃべりいいから。早くぅ」
「そうそう。3秒のうち」
にぎやかにうながされて、ちょっとテレた上目遣いになる。
「あのね、日獣(日本獣医大学)の人なの。3年生」
「え~、ちょ、それってあたしの理想っ。高2女子に大3のカレ」由美が興奮する「最高よね。羨ましス、もとい、恨めしス。あたしたちの周りの男子ってガキっぽいんだもん」
「うん。ホント、それ言えてるよね。彼、けっこう大人なの。落ちついてるって感じ。他人に対する許容量が広いって言うか…。やっぱ大学生は高坊とは違うのよ」
美乃里の余裕の返事。
「わ~、いい。いい。で、出会いはどこ?」
全員が一斉に前のめりになる。
眼がワクワクしてるのが自分でもわかるほどだ。
「そんなに接近しないで。コロナで近接禁止じゃん。あ・の・ね、吉祥寺の猫カフェ。すっごく猫ちゃんたちの扱いが上手くて、ただ者じゃないって思ってたら獣医学校の人だったの。猫ちゃんの脳って動物で唯一、人間と相似形なんだって。小さな人間なんだって。あたし、ホントにそ~だなぁって納得できた。同質だからこそ、猫ちゃんと一緒にいると癒されるんだよね。カレ、知的で品良くて優しくてすごいいいヒト。あたしも頑張らなきゃ」
もう、完璧にノロケになっている返事に、
「あ~。もうっ。ミッチみたいに美女子に生まれたかった。どうせ、あっちから声かけして来たんでしょ?つまり、しょっぱなから出会いのチャンスにも恵まれてるんだよね~」
有紀がちょっと投げやりな声を出す。
確かに美乃里は平均以上で目立つ存在だ。
4人の仲間に先駆けて大学生のカレができても不思議ではないし、それに付き合いはじめてからの彼女は、考え方も大人びて魅力的になった気がする。
「うん。ま、そうだけど。でも有紀。この前、凱揮(がいき)くんが言ってたよ。『ユッキは女子ん中でマシやっさぁ』って。マシって、沖縄弁で『好き』ってことなんだって」
「あはっ、ユッキ、ちょっとだけ良かったね」
凱揮(がいき)という名前に円香と由美が同時に笑う。
彼女らにも友達以上、カレ未満の男子はいるから、まるっきりのボッチは有紀だけだ。
好きと言われて本来なら喜ぶべきなんだろうけど、彼女の気分は落ち込むのだ。
「ガイキチにマシって言われてもね…。でも、美乃里は沖縄弁なんか知ってるの?」
「知らない。でも、本人が『好き』って意味って言ってたもん。凱揮くん、東京人なのにわざわざ方言使うなんてって、なんか印象に残っちゃった」
「すごっ。これ、完全に告ってるよ。ミッチからユッキに伝わるって仕組んでる」
「アイツのやりそうなことよね。でも、まぁ、有紀にもやっとカレ候補かぁ。長い冬だったねぇ」
円香の半分同情的な祝福。
「う~ん、アタマ痛っ」
思わず顔が歪んでしまう。
永倉凱揮は確かに文武両道の優秀な生徒で容姿も問題ない。
本来ならモテモテでいいはずなのに、女子からは敬して遠ざけられている。
ガサツで毒舌で理屈っぽい。
ちっともロマンティックじゃない、うっとおしいタイプ。
それに高1の時に凱揮がアタックしてフラれた伝説の彼女は『サシロー(三四郎)』と言われる柔道部の猛者だ。
理不尽な決め付けだけれど、アマチュア・レスリングの子ならまだしも、柔道部の女子は恋愛対象からは外れている印象がある。
みんなも同じ認識だったらしく、陰で『選りによって蓼食った』とか『美男と野獣』と揶揄されていたことは彼女も知っている。
おまけに彼を知る友達に言わせると、昔から「え?」と思うような女子を選ぶ傾向はあったらしい。
つまり、ガイキチに好まれるということは、一般男子からは女の子と認められない女子というレッテルを張られることなのだ。
「…サイアク。プライドぼろぼろ」
意気消沈する有紀に、由美がポツンと言った言葉が極めつけだった。
「う~ん、これはちょっとご愁傷様案件かも…」
* * *
意識してしまったせいだろうか?
最近、有紀を見るたびに「お」とか「よっ」とか、永倉凱揮が存在をアピールしてくる気がする。
そのたびに友達3人が、
「ほら、こっち見てるよ」
「返事してあげないの?」
などと、よけいな声かけをしてくるのもうっとおしい。
「もうっ、ほっといてっ」
と怒るのだけれど、
「だ~め。滑り止めは持っとくべきでしょ」
と美乃里に真顔で言われると、なんとなく流されてしまう。
特定のカレがすでにいる美乃里。
カレ未満でも、屈託なく笑って話せる男子のいる円香と由美。
だれもいない自分。
友達たちから1歩も2歩も遅れている気がして、ついついみんなの言うなりになってしまうのだ。
でも、カレってそんなに必要なの?
ご愁傷様案件でもしがみついていたほうがいいの?
こんな未熟で子供っぽい疑問は3人の友達には聞けない。
(あ~ぁ)
出るのはため息ばかりだ。
「…ってばぁ。おい。っちょ、完全無視かよ」
いきなり間近で凱揮の声がする。
「えっ?」
とぎまぎと周りを見回す。
校内の散歩道「逍遥の森」のベンチに座ってぼ~っとしていた記憶はあるのだが…。
「あ、ごめん。このごろ寝不足で…。あたし、多分、寝てたっ」
そう言い捨てて、有紀は急いでその場を逃れる。
だれかに見られてウワサになったら困るのだ。
「お、なんだよ。話すくらいいいじゃん?友達の金魚のフンしてねえと口もきけねえのかよ。おまえ、ホント、ガキだな。恥っずかしい」
聞き捨てならない。
「なによっ。ガイキチには言われたくないわよ」
「は?ガイキチってなんだよ。人様の名前に勝手にチをつけるな、アタマ湧いてんじゃね?バカ女」
この言い草。
本当に人を怒らせるの天才だ。
「バカで悪かったわね。嫌がってる人様を追いまわすあんたもおんなじバカでしょっ。それに馴れ馴れしくおまえってなによ?あたしには尾崎有紀って、ちゃんとした名前がありますっ。なんのつもりよバカバカッ、大バカ」
反発で思わず言ってしまったけれど、こんなことぐらいでカッとなる自分が中坊程度の低人格に思える。
こんなんじゃ男子たちをガキ扱いしている自分こそ子供ではないか。
「はいはい、悪かったな。尾崎有紀さま、ごめんな」
凱揮がケタケタ笑いながら、先に謝って来た。
「え?」
いつも上から目線の偉そうな口ばかり利くくせに、1歩引けるなんて意外に大人だ。
ちょっとびっくりしてしまう。
とぎまぎしながらも謝罪の言葉が出た。
「あ、いえ、わたしこそごめんなさい。人様の名前に勝手にチをつけちゃって…もう、しません」
「は?なんだよそれ。おまえ、思った通りほんっとかわいいワ」
勝ち誇った余裕の声に、顔が真っ赤になるのがわかる。
え?かわいい?
わたしってかわいいの?
男子に面と向かって初めて言われた気がする。
青天の霹靂と青天の土砂降りが同時に来た気がして思考が途切れる。
「来いよ」
凱揮が当然のように、森の奥に顎をしゃくる。
「え…」
頭が一気に冷静になる。
「やだ、行かない。そ、その、学校だし、放課後だし、あんた男だし、そっち人いないし…」
「はあぁ?」
本当に唖然とした顔をする。
「おまえって何考えてんの?やーらしい。おれだって人選ぶワ」
* * *
有紀たちの公立校は武蔵野台地の上に建っていて、植生保存のための広い里山が残してある。
「逍遥の森」と名付けられた平地山林の西側はクマザサの生えた高い崖で、街並みが遠く見渡せる。
「こっち。足元気をつけろよ」
けっこう滑る斜面をしばらく下ると、大きなクヌギの根元に空洞があって、下草で上手く隠されている。
「ここ。ハケの跡だよ。昔はここから水がわいていたんだ」
「へ~。今は枯れちゃってるんだね」
「入れよ」
「え?でも、狭いし、コロナだし、近接まずいし、男女だし、お話しするだけだし…」
言いわけがまた始まってしまう。
「おまえ、ちょっとは人を信用しろよ。ったく。じゃ、そこでいいから葉にかくれろ。上から見えるぞ」
言われて少しだけ這い込むと、土の壁と木の根の天井でけっこう落ち着く。
「へ~。いい。自然の懐って感じ」
「な?自分に正直になれるって感じだろ。ここ知ってる女はおまえとサシローだけだ」
「ああ、あの人…。別れちゃったんだよね」
「まぁな。おれと付き合うことで変に悪目立ちするのが嫌だって。みんなが無責任に注目したり、いろいろ取りざたしたり、ウワサして笑ったりが哀しいって。あいつさぁ、ガタイは男っぽくても気持はホント、女の子なんだよ。よく気が付くしな」
ちょっと目からうろこが落ちる気がする。
傲慢凱揮は本当は、けっこう他人の本質を見られるヒトなのだろうか?
「サシローさんいい人だよね。優しくて親切だから、後輩にすごい人気みたい」
「うん、だけどその分、周りに流されるんだ。ったく、どうしてみんな外見しか見ないのかな?おれが柔道部の女、連れて歩いたっていいじゃん。好きになれればいいじゃん。気が合えばだれだっていい。なんで周りが騒ぐんだよ」
本当にそうだ。
自然にため息が出る。
「そうだね。中高生はまだまだ、恋愛に未熟なんじゃないかな。イメージで見ちゃう。美男美女のペアでないと周りがうるさいって、ホントは変だよね。ビクビクしちゃうし」
言いながら有紀は自分もサシローの件では強い違和感を持っていたことを思い出した。
エラソーに人のことなんか言えない。
自分だって未熟で無責任で興味本位だ。
リコウぶって、浅薄な我見で平気で人を批評する愚の骨頂だ。
少し沈黙が続いた。
「大人になるってどういうことだろう?友達の美乃里ね、大学生の彼がいるんだけど、すごく大人だって。やっぱ高校生は子供だって。大人って他人を受け入れて包容できたり許容できるってことかね?友達や他人の言動を参考にするけど、左右されないってことかね。わたしも大学生になればそうなれるんだろうか?」
「バ~カ、そんなの個人差だろ。大人ってのは自覚だよ。包容許容や他人に左右されないなんてのはほんの一部。物事の本質が見えるのが大人。その大人したいっていう自尊心と努力だよ。いつまでもガキじゃ、みっともねえっていう自分に対する誇りがあるかないかってこと。高2にもなって、そんなこともわからないおまえは一辺死ねば?」
いつもどおりの皮肉なセリフに、
「やだ、もう。あんた、ほんっと上から目線」
抗議しながらも、彼女は自然に自省的になる。
考えてみれば、もう17年も生きているのに、どれだけ成長したのだろう…?
今さらだけれど自分の凱揮への印象は、我ながら間違っていた気がする。
確かに間違いなくガサツで毒舌で理屈っぽい。
地頭がすごく良くてスポールも万能だからいつもみんなの羨望の的にいるせいか、自信満々なのも鼻もちならない。
言い方も態度も他の男子よりエラそーで押し付けがましい気がする。
それでも有紀の中での凱揮は、今や180度変わって、かなりいい人にシフトしはじめている。
彼は、いや、自分を含めて人間は、印象や外見で決め付けられるほど簡略なものではないはずだ。
もっと複雑で高尚で難解で見出しにくくて、純粋で本質的で宇宙的で神秘で、そして、ある意味愚者で単純で愛すべき馬鹿なのだ。
だからこそ、そう、ハムレットじゃないけれど、言葉、言葉、言葉。
人類がなぜ言語を発達させたか?
意思の疎通なんて、そんな単純なことだけじゃない。
もっと大事な、一生のパートナーを見出すための本質的な生存本能、種の維持のための崇高な意思のなせる技なのでは…。
つまり、彼が自分を追いまわしてまで会話を求めたということは、凱揮は人間の見分け方を知っていた、直接的に言えば恋愛対象の求め方を知っていたということにはならないだろうか?
言葉は人を騙すこともあるけれど、その人間のレベルを如実に露呈することもあるのだ。
思わせぶりにこんなところに誘ったのは、きっとその目的のためなのだ。
なぜか顔が赤くなる。
凱揮が斜め後ろからジッと目を注いでいるのがわかる。
なにか返事をしないと視線に耐えられない気がする。
「おれがおまえとここに来たのはさぁ…」
来た。
ここから先に続く言葉は絶対に否定しなければ。
こういった男女の駆け引きでは、唯々諾々と肯定する言葉を言ってはいけない。
軽い女、やりやすい女として甘く見られてしまうのだ。
このことはカレ持ちの美乃里が恋愛指南の重要事項として、特に教えてくれたのだ。
とにかく急いで返事をする。
「あ、でも、あ、あたし奥手だし…。そ、その、だ、男子と付き合ったのは小坊の時だけだし。え~、子供だし。ダメだと思う」
「は?なに言ってる?おれ、なにも言ってねえぜ」
「えっ?あ、へ、変だった?言ってること飛躍してる?っつうか、関係ないこと言っちゃったの?」
とぎまぎとあわてる。
どうしてこんなにドジなんだろう。
これじゃあ、一方的に心の中をのぞかれただけだ。
「あはは、おまえ、い~じゃん。アタマいいよ」
「え…?アタマ?」
「おれをちゃんと理解できそうってこと。ま、初めの1歩は合格ってこと」
またまた傲慢な彼らしい人を食ったセリフだ。
「は?」
戸惑ったけれど、とにかく彼は自分の目的だけは達したらしい。
「さぁて、時間とらしたな。もう行くワ。いいか、おまえはしばらくここにいて、おれが消えたころに上がって来い。人に見られるな」
そのまま、振り向きもしないでさっさと出て行く。
「う、うん。ども」
ちょっと頭を下げて送り出した。
なんだかやけに広くなったみたいなハケの穴の中。
* * *
「ちょっ、どこ行ってたのよぉ?」
「探したんだからぁ。もう」
「なんかあってカバン置いて帰っちゃったのかと思っって心配しちゃった」
教室に帰るなり、3人のかしましい声。
「あ…ごめん」
返事をしながら、さっきのことを話してしまっていいものかと迷う。
「あれっ、なにこれ。ユッキ、泥だらけじゃん」
由美が目ざとく見つける。
「あ~。背中。もう、なにやってたのよ?」
円香も手を出してはたいてくれる。
「あっ、サンクス。ども…」
やっぱり、有紀は動揺していたのだ。
自分の後ろ側をはたくのをすっかり忘れていた。
友達3人が顔を見合わせる。
「言いなさい。どこで何してたの?」
美乃里の口調は口うるさい生活指導の先生そのままだ。
「いや、あの、別に大したことじゃ…。ただ、その、え~と。え~、ガイキチと一緒にいたの」
「ええええっ?」
「いや、そんな大きな声出さないで。みんなが見るじゃん」
「この泥っ。ふつうつかないよね。まさか、アイツに押し倒されたぁ?」
ささやきつつも円香の声はもう、引きつっている。
「やだあぁぁぁ」
全員が一斉に非常事態の声になる。
「あ、い、いや、違う。そんなんじゃないの。とにかく教室でこの話はマズイから」
小声で言って、みんなを廊下の隅の角に連れ出す。
興味深々の6つの目が彼女に熱く集中する。
「あの、ただ話ししただけ。ホントに本当。それ以外はなんにもないの」
「本当にそれだけ?じゃぁ、話の内容は?ね、言って。わたしたち心配なのよ」
美乃里の言葉に全員がうなづく。
「そうだね。ごめん。心配させちゃって。え~と、じゃあね…とにかくガケの斜面に座って話したの。ガイキチって言うなってことと、サシローさんのこと。サシローさん、悪目立ちしちゃってみんなに笑われたり、陰でいろいろ言われるのをすごく悲しがってたって。結局、別れちゃったって。それであたし、美乃里のカレのこと思い出して大人になるってどんな事なんだろうって聞いたら、大人になろうとする努力と自覚と誇りだって言われて、ちょっと分かった気がしたの。けっこういい人だなぁって思ったけど、あとはミッチに教わったようにしゃべったの。そしたら、あははって笑われた。これくらいかな」
「ふん~?それだけ?」
「うん、それだけ」
「うそっ。まだあるはず。肝心なことよ」
ヒステリックな英語の先生みたいに美乃里が人差し指を立てて突きつける。
「え?ええとぉ~。う~ん」頭を絞って記憶をたどる「あっ、最初に、多分ウソだろうけど、ほんっとかわいいって言われた」
「そ・れ・だ」
友達3人の声が唱和した。
「あんた、ご愁傷様から告られたのよ」由美が得意げに解説する「習ったでしょ?かわいいは可哀想って意味からかわいいに代わって室町から現代に至っているのよね。つまり、この図式。『可哀想ってことは惚れたってことよ。猫』」
と、夏目漱石を出してくる。
「うそっ。これがそれ?いや、う~ん、本来はそうかもだけど、この場合は…」
「テレない、テレない。でも、凱揮くん、案外狙い目かもよ。なんか古風よね。見直しちゃった」
けっこう肯定的な美乃里の言葉に、
「うん、そこはかとなくマトモっぽいから、初心者のユッキ向きかもね。滑り止め要員からワンランク・アップじゃない?」
「妥当ね。ウザくて変なヤツって思ってたけど、みかけによらないタイプだよね。有紀もけっこうその気でしょ?ガイキチって言わなくなったもん」
由美も円香も素直に賛同している。
「え?そう?い、いや、あの、名前に勝手にチをつけるなって怒られたからだよ。それでも言っちゃったら可哀想だもん」
言ってから、ヤバっとみんなを見る。
「ほ~らね」
得々とした3人が、
「せ~の」
で、声を合わせる。
「『可哀想ってことは惚れたってことよ』猫っ」
* * *
なんだか眠れない。
『あんた、ご愁傷様から告られたのよ』
さっきから由美の声が頭の中をグルグルして、その合間に、
『可哀想ってことは惚れたってことよ』猫っ』
という3人の友達たちの声がハモる。
枕を思いっきり抱きしめてなんとか寝ようとするのだけれど、生まれて初めての経験に脳がランバダ状態だ。
小学校の時にも特別仲のいい男の子はいたけど、こんな感覚はなかった。
それにしても人間の気持ちって、どうしてこうコロコロ変わるのだろう?
最初は凱揮なんかうっとおしいだけで、ちっとも好きではなかった。
一方的に興味を持たれてかなり迷惑だったのも確かだ。
友達たちに背中を押されなければ、無視し続けていたはずだ。
それなのに、今の自分の気持ちは…。
心って一体何なのだろう?
不確かで流動的で制御しづらくて、曖昧でいい加減だ。
そんな心に左右されてはいけないのに、今度は明日のことが気になってよけいに目が冴えてしまう。
教室で凱揮に会ったら、どんなリアクションが正解なのだろう?
変に意識して目立ってしまってはいけない。
平凡な容姿どころか、なにをやっても平均でしかない自分はひょっとしたら、みんなのからかいの的になってしまうのでは?
自分より遥かに大人に見えるサシローさんだって、イジリに耐えられなくてカレから去ったのだ。
なんだか頭が痛くなってくる。
それを理由に明日は休んではいけないだろうか…?
そんな逃げが一瞬だけよぎる。
『人を恋うる心』って本当に難しくて不思議だ。
弱い心は尻ごみしてびくびくするのに、明日が来るのが怖いのに、平気な顔して教室に入って行けそうな自分がいる。
今、凱揮の存在がどんどん大きくなってきていて、彼の心に支えられるなら、例え男子が「また、蓼かよぉ」と冷笑しても、
女子が、「どういうつもりなんだろ~ね?」と陰でささやいてもニッコリ笑って、
「なんのこと?」
と言えそうな気がする。
有紀は思うのだ。
『人を恋うる心』は『神の見えざる手』ではないかと。
もちろん、『神の見えざる手』という言葉は人間の意志や工作に関係なく、世の中や物事が流動して行くさまを言うのだけれど、『人を恋うる心』こそ人知を超えたもっと高みからもたらされる見えない啓示の気がする。
啓示は祝福と恵みを与え、同時に試練を導く。
その時こそ、『神は自ら助くるものを助く』とは言えないだろうか?
周りの目を意識して臆病になっていては、喜びも人としての成長も得られなくなるのだ。
「おまえ、ほんっとかわいいワ」
「あはは、おまえ、い~じゃん。アタマいいよ」
「おれをちゃんと理解できそうってこと。ま、初めの1歩は合格ってこと」
凱揮の言葉が反響している。
未来がそこから開けてきそうな気がするのはなぜだろう?
「あ~っ、もう寝られないじゃない」
口に出して言って窓を開けた。
深夜のちょっと湿った大気がそっと入って来て、思わず深呼吸する。
あと数時間で朝になる闇の中を、新聞配達人のバイクが走り抜けていく。
こんな時間にも仕事に励む人のライトをしばらく追ってから空を見上げる。
次第に西に傾いて行く金色の明けの明星が、目にしみるように見えた。
神の見えざる手(人を恋うる心の物語)