散りゆく桜の花のようにそっと9
☆
「もう、朝になっちゃったんですね」
と、となりで声がしたのは、わたしが車を運転しながら小学校の頃の同級生のことを思い出しているときだった。
ちらりととなりに視線を走らせてみると、佐藤可奈はまだ眠り足りないとでも言うように大きな欠伸をしていた。
「やっと起きたんだね」
と、わたしは小さく笑って言った。
「ごめんなさい」
と、佐藤可奈は苦笑すると、
「なんだか車の振動が心地よくて。安心するっていうか」
「あー、なんかそういう感じわかるかも」
わたしは軽く笑って相槌を打った。
「子供の頃、わたしも両親が運転する車のなかでよく眠ったもんなぁ」
と、わたしは子供の頃、家族で車で出かけたときのことを懐かしく思い出した。
「今どのへんですか?」
と、佐藤可奈は車の外に視線を向けると、不思議そうに言った。
「あともう少しで京都に入るよ」
「ほんとですか!」
佐藤可奈は故郷が近づいてきたのが嬉しいのか、はしゃいだ声で言った。
「あんたが眠ってるあいだにこっちはがむしゃらに車飛ばしてたからね」
と、わたしが冗談めかして皮肉を言うと、佐藤可奈は窓の外に向けていた視線をわたしの方に戻して、
「すみません」
と、恐縮したような表情で謝った。
わたしは彼女のそんな様子が可笑しくて、噴出すようにして笑った。
☆
京都に入る前に、お腹が空いたので、高速のサービスエリアで朝食を取ろうということになった。
サービスエリアの駐車場に車を止めると、わたしたちはそのサービスエリアにあったファミリーレストランに入った。
店内は夏休みのせいか、家族連れらしいひとたちで、まだ朝の早い時間帯だというのに、比較的混雑していた。
わたしたちはウェイトレスの女の子に窓際に席に通されて向かい合わせに腰かけた。わたしも佐藤可奈もモーニングセットを注文した。コーヒーとパンとベーコンエッグとサラダ。注文したモーニングセットはすぐに運ばれてきた。
「この値段でこのボリュームはお得だね」
と、わたしはロールパンを千切って口のなかに放り込みながら言った。
「確かに」
と、佐藤可奈はコーヒーを口元に運びながらわたしの科白に微笑して相槌を打った。
「わたし、貧乏性なのか、昔からファミリーレストランが好きなのよね。落ち着くっていうか、安心するっていうかね・・・フリーターやってた頃とか、相方と打ち合わせするのとかによく使ったしね」
「相方?」
と、佐藤可奈はわたしの科白に不思議そうな顔をした。
「ああ、まだ話してなかったけ?」
と、わたしは苦笑すると、彼女に自分の経歴を簡単に話して聞かせた。わたしが昔ミュージシャンを目指していたことがあったこと。でも、結局、音楽では結果が出せなかったこと。田畑という一緒に音楽をやっていた男のこと。
「そっか。大塚さんも色々あったんですね」
と、佐藤可奈はわたしの話を聞き終えると、感慨深そうに頷いた。
「わたしも来年で三十だからね、まあ、色々あったよ」
わたしは自嘲気味に小さく笑って答えた。
「って、大塚さんって来年で三十歳なんですか!?」
と、佐藤可奈はわたしの年齢を聞いてびっくりしたように言った。
「そうよ。もしかして、もっとおばさんだと思ってた?」
わたしが笑ってからかうように尋ねると、彼女は首を大きく左右に振って、
「逆です。もっと若いかと思ってた。せいぜいわたしよりも四つ上くらいかなぁって」
わたしは彼女の科白に微笑すると、
「ありがとう。お世辞でもそう言ってもらえて嬉しいよ」
と、答えた。そして、言いながら、若く見られて嬉しいなんて、自分も年を取ったなぁと心のなかで苦笑いした。
「大塚さんはもう音楽はやらないんですか?」
と、佐藤可奈は興味津々といった様子で尋ねてきた。
わたしはコーヒーを一口啜ると、苦笑して軽く首を振った。
「さっきも言ったと思うけど、わたし、来年で三十歳よ。もう夢を追うような年齢でもないでしょ」
わたしは明るい口調を装って言ったけれど、内心、ちょっと惨めな気持ちにもなった。頭ではもう自分がかつてほど若くないことも、夢を無邪気に追いかけられるような年齢でないことも十分わかっているのだが、でも、そのことを認めたくないという気持ちは、どうしようもなくあった。
「だけど、そういうのって」
と、佐藤可奈はコーヒーの入ったマグカップのなかに視線を落としながら言った。
「あんまり関係ないと思うんだけどなぁ」
と、彼女は納得できないというように言った。
「こういう考え方って幼いのかもしれないけど、ほんとうにやりたいことだったら、たとえ何歳になってでも続ければいいんじゃないかって思うけど」
「そうね」
と、わたしは顔を俯けるようにしている彼女の顔を優しく見つめて言った。
「だから、わたしは自分のやりたいことを貫く勇気ない、だめな人間なのよ」
わたしは微笑んで言った。
「わたしが言いたいのはそうことじゃなくて・・・」
佐藤可奈はそれまで伏せていた眼差しをあげてわたしの顔を見ると、抗議するように口を開いた。でも、口を開いたのはいいものの、彼女はそれ以上どう自分の気持ちを説明したらいいものかわからなかったらしく、開いていた口を再び閉じた。そして何かを流しこむにコーヒーを飲んだ。
いくらかの沈黙があった。わたしも彼女も黙って料理を口に運んだ。まだ夜が明けたばかりの初々しい朝の光が窓から静かに差し込んできていて、テーブルのうえには光の水たまりができていた。
「わたし、まだ二十一とかだけど」
佐藤可奈が口を開いたのは、それからしばらく経ってからのことだった。わたしは料理を口に運ぶのを止めると、彼女の顔に視線を向けた。佐藤可奈はちらりとわたしの顔に視線を向けると、すぐに逃げるように目線を落とした。
「一応、大塚さんが言ってることもわかる気がするんです。確かに、現実って厳しいものだし、信じて努力すればそれが報われるような甘い世界じゃないことも、一応、常識としては知ってるつもりです・・・でも、それじゃ、なんだか虚しいなって思って。みんながこんなものかって妥協して、何かを諦めていくしかないのが現実なんだとしたら、すごく詰まらないじゃないですか?彼氏のこともあって、そういうのがいまひとつ納得できないっていうか、わかったような顔をして生きていきたくないっていうか」
彼女は自分の思っていることを少しずつ言葉に置き換えていくように、小さな声で、ゆっくりとそう話した。
わたしは彼女の言葉に頷いた。
「佐藤さんの言いたいことはよくわかるよ」
と、わたしは言った。
「佐藤さんの言いたいことはよくわかるし、間違ってないと思う。だから、佐藤さんはわたしの分までその信念にしたがって生きて。やりたいことをやって」
わたしは微笑みかけて言った。
佐藤可奈はそう言ったわたしの顔をいくらか上目遣いに見ると、
「それはつまり、もう、大塚さんは音楽をやるつもりはないってこと?」
と、わたしが口にしたことが受け入れ難いというように少し小さな声で言った。
「そうだね」
と、わたしは吐息をついてから、苦笑するように口元を綻ばせた。
「わたしは・・・何かを信じて真っ直ぐに進んでいくには、いささか疲れちゃったのよ。色んな大切なひとがわたしの側がいなくなっちゃったしね」
佐藤可奈はそう言ったわたしの顔を、何か哀しい光景でも眺めるような顔つきで眺めていた。
散りゆく桜の花のようにそっと9